かつて工藤新一は平成のシャーロック・ホームズと呼ばれた高校生探偵だった。江戸川コナンは探偵でもなんでもない、普通の高校生である。
「江戸川がそっちに行ったぞ―!」
「「きゃ~! 江戸川くん素敵ーーー!」」
ただし女子からの人気は人一倍だった。特に球技大会のサッカーの試合では。
「また江戸川にボールが渡ったぞ!」
「おい、いい加減サッカー部が止めろよ!」
「うるせー、できるんならやってるよ! ……くそっ、こうなったら……」
俊敏なドリブルで切り込むコナンをめがけ、現役のサッカー部員が公式戦さながらのスライディングで襲いかかる。しかしコナンはそれをサイドターンして難なくかわすと更に加速し、あっという間に部員を置き去りにした。他のディフェンダーが追いつく間もなく打ち込まれたシュートはゴールポストの左上隅、キーパーが届くはずもない最高の場所に深々と刺さった。
「すげー、また江戸川のゴールだ! もうB組優勝だろこれ!!!」
「もうだめ、江戸川くんカッコ良すぎ……」
「江戸川センパイ最高~~~!」
B組の同級生はもちろん、他クラスの女子や一年生までがコナンに黄色い歓声を送る。まさしく校庭のスターだ。
「イケメンだし成績もトップクラスだしクールだし、おまけにサッカーもあんなに上手いなんてありえないよね~」
「ほんと、他の男子とはレベルが違いすぎるわ……」
結局球技大会はB組が優勝し、コナンはこれまでにも増して人気者になった。頬を染めて潤んだ瞳でコナンを見つめる女子生徒は今や5人や6人どころではない。だが彼女たちの歓声に対して、コナンはなんら関心を持っていなかった。
そこは古びた大きな屋敷だった。
かの高名な推理小説作家・工藤優作によって建てられたその邸宅は、歴史ある洋館のようなたたずまいとあまり手入れされていない古めかしさゆえに、日が暮れると言い知れぬ不気味さが漂う。近所の子供たちから「幽霊屋敷」と恐れられるのも無理はなかった。
とはいえ、現在この家は無人ではない。江戸川コナンはそこに住んでいた。
だだっ広いのにろくに電気も点いてない薄暗いリビングで、コナンはごろ寝しながらぼんやりとテレビを眺めていた。とてもくだらない番組だったが、そもそも内容を頭に入れるつもりもなかった。ただの暇つぶしでしかない。
放課後、優勝の立役者であるコナンはクラスメート達から当然のごとく熱心に打ち上げに誘われた。だが打ち上げの主役になるはずの彼は、まるで取り合おうとせずさっさと帰宅しまったのだ。
チーン、とレンジの音が鳴る。夕食ができた合図だった。
コナンは熱くなった冷凍パスタをレンジから取り出し、ソファーの上に持ってくると半分寝転びながらダラダラとそれを口に運んだ。テレビは相変わらず芸能人たちのくだらないプライベート暴露で盛り上がっている。たまに少しだけクスリと笑えるが、CMが始まる頃にはなぜ笑ったのかも思い出せないような中身のない番組だった。
パスタがなくなるとコナンは皿をテーブルに放り出し、テレビを点けたままスマホをいじり始めた。ツイッターにはこれまたくだらない話ばかりが流れていた。コナンは匿名のアカウントを持っていたが、特に何もつぶやくことはなく有名人やネタアカウントのツイートを眺めるために使っている。30分ほどもツイッターとユーチューブで時間を浪費してから、スマホを放り出し天井を見上げた。昔より壁紙のシミが増えた気がする。
「ろくなもの食べてないのね」突然後ろから声が聞こえた。
「うっせーな、人の勝手だろ……って、ええっ!?」
コナンは驚いてソファーから飛び起きた。この家に自分以外の誰かがいるはずがない。だがその声色はあまりにお馴染みのものだった。
「あなたそのうち体壊すわよ」
後ろを向くと、薄暗いリビングの入口で見知った顔がテレビの光に照らされていた。赤みがかった茶髪、少し尖った大きな瞳、淡々とした無表情。そして高校生とは思えないほどに大人びた美貌。
「なんでお前がここにいんだよ」
「だって合鍵を持ってるもの」
そんなこと聞いて馬鹿じゃないのという言葉が続きそうな口ぶりだった。
「んなこたー知ってるよ、何しに来たんだ?」
「江戸川くんがどれぐらい有意義に放課後を過ごしてるのか知りたくて」
「嫌味かよ?」
「嫌味よ」
「かわいくねーやつ……」
少女は――灰原哀は、コナンのぼやきを無視して言葉を続ける。
「あなた、球技大会ではずいぶんと活躍してたじゃない。打ち上げには誘われなかったの? 女の子たちからはきっと大人気よ」
「バーロー、んなもん楽しかねえよ。オレから言わせりゃ全員子どもだぜ?」
「別に普通に楽しんでくればいいのに」
「まあな……」
哀の言葉に言い返せず、コナンはぼんやりと考える。もうずいぶん長いこと、何かが本当に楽しいと感じたことなどなかった。かつて何度も読み返した推理小説がぎっしり詰まった本棚でさえ、今では埃をかぶってしまっている。それでもあえて言うならサッカーはそこそこ楽しい。やはり子供の頃から体に染みついているだけあって、知らず知らずのうちに脚が動く。それだけのことでも普通の同級生相手なら無双できてしまうのだ。ただ、クラブに入って毎日ボールを追いかけようというような熱意は持てなかった。クラスメートたちと特別打ち解けたいという気分にもなれなかった。
「となり、空いてるでしょ」
哀はコナンの横に腰掛けた。顔はテレビの方を向いてはいるが、内容に興味がありそうには見えない。
コナンは無意識のうちに哀を観察していた。
混血らしいシャープな顔立ちと白い肌、青い瞳、赤みがかった茶髪。子供の姿の頃と変わらず――いやその頃よりも遥かに――
――綺麗だ。
「……なに人の顔をじろじろと見てるの?」
「な、なんでもねえよ」
コナンはさっと目を逸らす。
それからしばらくの間、二人は無言で同じ方向を見ていた。
「……別にあなたがどんな生活を送ろうが、私には関係ないけれど」哀がぼそりとつぶやく。
「だろーな」
「偏ったものばかり食べるのは控えた方が身のためよ。あなたが体を壊したら、蘭さんも有希子さんも心配するわ」
「……そうだな」
「私には関係ないけれど」
「それはもう聞いた」
コナンと哀は同時にくすりと笑った。ひどく懐かしく、心地よい気分だった。
「退屈ならたまには外に出て新しい趣味でも探してみたら? あるいはあの子達の捜査を手伝ってみるとか」
捜査、と聞いてコナンは思わず身を乗り出す。
「はあ!? ちょっと待て、あいつらまた探偵ごっこなんて始めてるのか!?」
哀は眉一つ動かさず答えた。
「呆れた、知らなかったの? あの子達、最近また探偵団をやる気になったみたいよ。どういう依頼なのかは私も聞いてないけれど」
「やばい案件じゃねえだろうな……。そこらのチンピラぐらいならともかく、ヤクザやガチの犯罪グループなんかに首を突っ込んじまったら洒落になんねえぞ」
「あら、心配になった? なら自分であの子達に聞いてみればいいじゃない」
「……ま、気が向いたらそうするよ」
その実、コナンはそこまで深刻に考えてはいなかった。どうせ小学生や中学生の頃にもやっていた人探しやネコ探しの類だろう。最近は出かける先でことごとく事件が起きるというようなこともめっきりなくなった。普通に生活している限り、日本は平和なのだ。
哀は、歩美が最近またまた男子に告白されたという話を始めた。
光彦は授業中に教師の説明の誤りをことごとく指摘して、今では教師たちから酷く嫌われているらしい。
元太は相変わらず食ってばかりで、ますます体が大きくなっているそうだ。
クラスが違うとはいえ、コナンは彼らと同じ学校に通っているにも関わらずちっとも近況を知らない。彼らの話をする哀はとても楽しそうだった。
(笑ったら結構可愛いんだよなこいつ……)
コナンがそんなことを考えているとはつゆ知らず、哀はふと食器棚の上の写真立てを手に取る。そこには幼少時の新一と、その両親が楽しそうに写っていた。
「そういえば最近、有希子さんの病院には行ってるの?」
哀が尋ねる。コナンの養母であり新一の実母――要するにコナンの実母でもある工藤有希子は、長らく入院生活を送っていた。そして、父である優作はもういない。彼は既にこの世の人物ではなかった。コナンが現在事実上の一人暮らしを送っているのはそういう理由だ。
「あたりめーだろ、明日は休みだから昼過ぎには見舞いに行くつもりだよ」
「よかった。有希子さんにまで心配かけないようにしときなさい」
「へーへー」
哀は「じゃあそろそろおいとましようかしら」と腰を上げ、玄関へと向かった。コナンは少し迷ってから哀の背中を追う。
「……送ろうか?」
「冗談でしょ? お隣よ」
ドアノブに手をかけた哀が振り返る。哀の住居である阿笠邸とここ工藤邸は、言うまでもなく目と鼻の距離だ。
「そりゃあそうだけど……それでも夜道には違いねえだろ。今は博士も留守だから尚更な」
フサエ女史と結婚して以来、阿笠博士は一年の半分近くを海外で過ごしている。妻の仕事を手伝いつつ夫婦水入らずを満喫しているというわけだ。
必然的に哀もコナンと同様、広すぎる家に実質一人暮らしということになる。
「あら、心配してくれてありがと。でも大丈夫よ」
哀は呆れたように微笑む。皮肉交じりの笑顔だったが、それが何より彼女らしかった。
「……あのさ、灰原」
「……何?」
しばしの沈黙。二人ともじっとお互いを見つめ合ったまま動かない。
「……ありがとな、色々と、まじで。今日だってわざわざ来てくれたし、その、今までも、色々といつも、感謝してる」
「……何よ急に。おだててるつもり?」
「いや、そんなんじゃねえ。ただ……」
言うべきか少し迷う。
「……別にオレに構わなくたっていいんだぜ? なんつーかほら、迷惑かけてねえかなって」
「……そんなことないわ」
哀の返事は、酷く冷たい声のような気がした。
「私が好きでやっていることよ。あなたのためじゃないわ」
「そ、そうだよな。ははは」
突き放したような物言いに、コナンは思わず引きつった笑いで応じる。なぜ彼女は急に機嫌が悪くなったのだろうか?
「もっとも、あなたにとっては迷惑なのかもしれないけれど」
「そ、そんなんじゃねーよ」
「いいから気にしないで、私はこれからも好きにするから。だって……」
哀が目を伏せる。
「工藤新一は私が……」
「え?」
ひどく小さな声だったが、哀は確かにそう言った。
「なんでもないわ。じゃあおやすみ」
「あ、おい!」
コナンが右手を伸ばして哀を引き留めようとするが、哀は黙って扉を開け振り返らずに去っていった。バタンと閉められたドアの前で、コナンは不格好に手を伸ばしたまましばらく動けなかった。