10年越しの再始動〈リビギンズ〉   作:ヘイドラ

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お久しぶりです。
こちらは連載版を全面的に加筆修正した改訂版となります。
この【改訂版】①から順番に読むことで、改訂された本編の全ストーリーが読めるようになっています。(連載版はそのまま残してありますので、そちらを読んでいただくことももちろん可能です。ストーリーの細部が少し変更されていますが、大筋は同じです)

連載版は自分にとって初めての完結長編であり、今なお大きな達成と感じています。ただ、今になって読み返すと文面などに未熟な部分も多く、また設定や展開を微修正したいと思う点もいくつかありました。
この改訂版は今の自分の総力を注ぎ込み、満を持して完成形と呼べるものになったと自負しています。

それでは、お楽しみいただければ幸いです。




【改訂版】※全面的に加筆修正した新しいバージョンです
【改訂版】①


 かつて江戸川コナンは現代のシャーロック・ホームズとも呼ばれた高校生探偵・工藤新一だった。現在、江戸川コナンは普通の高校生である。

 

「江戸川がそっちに行ったぞぉ!」

「「きゃ~! 江戸川くん素敵~~!」」

 

 ただし女子からの人気は人一倍だ。球技大会のサッカーでは特に。

 

「おい、いい加減サッカー部が止めろよ!」

「うるせー、できるんならやってるよ! ……くそっ、こうなったら……」

 

 俊敏なドリブルで切り込むコナンをめがけ、サッカー部員が公式戦さながらのスライディングで襲いかかる。しかしコナンはそれを難なくかわすと更に加速し、あっという間に部員を置き去りにした。直後に打ち込まれたミドルシュートはゴールポストの左上隅、キーパーが届くはずもない最高の場所に深々と突き刺さった。

 

「すげー、また江戸川のゴールだ! もうB組優勝だろこれ!!!」

「もうだめ、カッコ良すぎ……」

「江戸川センパイ最高~~~!」

 

 B組の同級生はもちろん、他クラスの女子や下級生までもがコナンに黄色い歓声を送る。あちこちから飛んでくるそれらの歓声を背中に浴び、軽やかな走りでポジションに戻っていくその姿はまさしく校庭のスターだ。

 

「イケメンで成績もトップクラス、おまけにサッカーもあんなに上手いなんてありえないよね~」

「ほんと、他の男子とはレベル違いすぎるわ……」

 

 そんな具合にコナンを見つめる潤んだ瞳の数は増していく一方だ。だけどいざ彼女たちが彼に声をかけてみると、彼は決まって適当に受け流し曖昧な笑みとともに手を振って去っていく。紳士的な対応といえばそうかもしれないが、淡い期待を抱いていた少女たちは揃って溜息をつくばかり。かくして「江戸川コナンは女性に興味ない疑惑」「人妻と秘密の交際をしている疑惑」といったいい加減なゴシップトークがますます盛んになっていくことになる。

 

 

 

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 米花町の一角に、古びた大きな屋敷がある。かの高名な推理小説作家・工藤優作によって建てられた邸宅。歴史ある洋館のようなたたずまいとあまり手入れされていない古めかしさゆえに、日が暮れると言い知れぬ不気味さが漂う。近所の子供たちから「幽霊屋敷」と恐れられるのも無理はなかった。

 とはいえ、現在この家は無人ではない。江戸川コナンはここに住んでいる。だだっ広いのにろくに電気も点いてない薄暗いリビングで、コナンはごろ寝しながらぼんやりとテレビを眺めていた。

 閉会後、コナンはクラスメート達から当然のごとく熱心に打ち上げに誘われた。だが打ち上げの主役になるはずの彼はまるで取り合おうとせずさっさと帰宅しまったのだ。

 チーン、とレンジの音が鳴る。夕食ができた合図だった。

 コナンは熱くなった冷凍パスタをレンジから取り出し、ソファーの上に持ってくると半分寝転びながらダラダラとそれを口に運んだ。テレビは相変わらず芸能人たちのくだらないプライベート暴露で盛り上がっている。たまに少しだけクスリと笑えるが、CMが始まる頃にはなぜ笑ったのかも思い出せないような中身のない番組だ。

 パスタがなくなるとコナンは皿をテーブルに放り出し、テレビを点けたままスマホをいじり始める。30分ほどもスマホで時間を浪費してからスマホを放り出し天井を見上げた。昔より壁紙のシミが増えた気がする。

 まいった、退屈だ。

 昨日からテーブルの上に置きっぱなしのお菓子の袋でも開けようか。

 

「ろくなもの食べてないのね」後ろから突然の声。

「うっせーな、人の勝手だろ……って、ええっ!?」

 

 コナンは驚いてソファーから飛び起きた。この家に自分以外の誰かがいるはずがない。だけどその声色はあまりにお馴染みのものだった。

 

「あなたそのうち体壊すわよ」

 

 顔を横に向けると、薄暗いリビングの入口で見知った顔がテレビの光に照らされていた。赤みがかった茶髪、少し尖った大きな瞳、淡々とした無表情。そして高校生とは思えないほどに大人びた美貌。

 

「なんでおめーがここにいんだよ」

「だって合鍵を持ってるもの」

 

 そんなこと聞いて馬鹿じゃないのという言葉が続きそうな口ぶりだった。

 

「んなこたー知ってるよ、何しに来たんだ?」

()()()()()がどれぐらい有意義に放課後を過ごしているのか知りたくて」

「嫌味かよ?」

「嫌味よ」

「かわいくねーやつ……」

 

 彼女は――灰原哀は、コナンのぼやきを無視して言葉を続ける。

 

「球技大会、優勝したんでしょ。打ち上げには誘われなかったの? 女の子たちからはきっと大人気よ」

「勘弁してくれ、んなもんどうでもいいっつーの」

「別に普通に楽しんでくればいいのに」

「まあな……」

 

 哀の言葉に言い返せず、コナンはぼんやりと考える。もうずいぶん長いこと、何かが本当に楽しいと感じたことなどなかった。かつて何度も読み返した推理小説がぎっしり詰まった本棚でさえ、今ではホコリをかぶってしまっている。それでもあえて言うならサッカーはそこそこ楽しい。やはり子供の頃から体に染みついているだけあって、知らず知らずのうちに脚が動く。それだけのことでも普通の同級生相手なら無双できてしまうのだ。ただ、クラブに入って毎日ボールを追いかけようというような熱意は持てなかった。クラスメートたちと特別打ち解けたいという気分にもなれなかった。

 

「となり、空いてるでしょ」

「あ、ああ」

 

 哀はコナンの横に腰掛けた。ゆとりのあるソファーなのに、妙に近い距離で。顔はテレビの方を向いてはいるが、内容に興味がありそうには見えない。

 コナンは無意識のうちに哀を観察していた。混血らしいシャープな顔立ちと白い肌、青い瞳、赤みがかった茶髪。子供の姿の頃と変わらず――いやその頃よりも遥かに――

 

――綺麗だ。

 

「……なに人の顔をじろじろと見てるの?」

「な、なんでもねえよ」

 

 コナンはさっと目を逸らす。

 それからしばらくの間、二人は無言で同じ方向を見ていた。

 

「……別にあなたがどんな生活を送ろうが、私には関係ないけれど」哀がぼそりとつぶやく。

「だろーな」

「偏ったものばかり食べるのは控えた方が身のためよ。あなたが体を壊したら、蘭さんも有希子さんも心配するわ」

「……そうだな」

「私には関係ないけれど」

「それはもう聞いた」

 

 コナンと哀は同時にくすりと笑った。ひどく懐かしく、心地よい気分だった。

 

「退屈ならたまには外に出て新しい趣味でも探してみたら? あるいはあの子達の捜査を手伝ってみるとか」

 

 捜査、と聞いてコナンは思わず身を乗り出す。

 

「はあ!? ちょっと待て、あいつらまた探偵ごっこなんて始めてるのか!?」

 

 哀は眉一つ動かさず答えた。

 

「呆れた、知らなかったの? あの子達、最近また探偵団をやる気になったみたいよ。どういう依頼なのかは私も聞いてないけれど」

「やべー案件じゃねえだろうな……。そこらのチンピラぐらいならともかく、ヤクザやガチの犯罪組織なんかに首突っ込んじまったら洒落になんねえぞ」

「あら、心配になった? なら自分であの子達に聞いてみればいいじゃない」

「ま、気が向いたらな」

 

 その実、コナンはそこまで深刻に考えてはいなかった。どうせ小学生や中学生の頃にもやっていた人探しやネコ探しの類だろう。最近は出かける先でことごとく事件が起きるというようなこともめっきりなくなった。普通に生活している限り、日本は平和なのだ。

 やれやれと苦笑するコナンだったが、次の瞬間哀が投げ込んできた言葉は彼の不意を突くものだった。

 

「……なんなら、あなたももう一度探偵に戻ってみる?」

 

 ぴくり、と固まるコナン。数秒の沈黙。

 

「……バーロ、俺はもう完全に……」

「本当に?」

 

 哀はその大きな瞳をコナンに向け、じっと横顔を見つめる。薄くつやめく彼女の唇、その隙間はわずかに開いている。

 コナンは無造作に腕を伸ばし、ホコリまみれの本棚を指さした。見ればわかるだろとでも言いたげに。

 

「……未練たらたらじゃない」

「どこがだよ」

「一冊も捨ててない」

「……」

 

 茶渋を口に突っ込まれたような苦い顔で眉間にしわを寄せるコナン。

 

「まあいいわ。そんなことよりちょっと聞いてほしいんだけど」

 

 哀は、歩美が最近またまた男子に告白されたという話を始めた。姉気取りの哀からすれば、モテすぎる歩美が誰かろくでもない男に引っかかってしまわないかと心配な気持ちもあるのだろう。幸いというかなんというか、ともかく歩美はまだ誰とも付き合うつもりはないらしかった。

 一方、光彦は授業中に教師の説明の誤りをことごとく指摘して、今では教師たちから酷く嫌われているそうだ。その流暢で慇懃無礼な論破ぶりがどれほどシャクに触るものであるか、コナンの脳裏にはその光景がありありと浮かんでくる。

 元太は相変わらず食ってばかりで、ますます体が大きくなっているという。そして探偵団をもう一度やろうぜと言い出したのはやはり元太だそうだ。案の定とはこのことだろう。

 クラスが違うとはいえ、コナンは彼らと同じ学校に通っているにも関わらずちっとも近況を知らない。彼らの話をする哀はころころと表情が変わってとても楽しそうだ。

 

(笑ったら結構可愛いんだよなこいつ……)

 

 コナンがそんなことを考えているとはつゆ知らず、哀はふと立ち上がって食器棚の上の写真立てを手に取る。そこには幼少時代の新一と両親が楽しそうに写っていた。

 

「そういえば最近、有希子さんの病院には行ってるの?」

 

 哀が尋ねる。コナンの養母であり新一の実母――要するにコナンの実母でもある工藤有希子は、長らく入院生活を送っていた。

 そして、父である優作はもういない。彼は既にこの世の人物ではなかった。家族写真の隣には優作の肖像写真も並び、タキシード姿の優雅な笑みでたたずんでいる。

 

「あたりめーだろ、明日は休みだから昼過ぎには見舞いに行くつもりだよ」

「よかった。有希子さんにまで心配かけないようにしときなさい」

「へーへー」

 

 哀は「じゃあそろそろおいとましようかしら」と柔らかにつぶやき玄関へと向かった。コナンは少し迷ってから哀の背中を追う。

 

「……送ろうか?」

「冗談でしょ? お隣よ」

 

 ドアノブに手をかけた哀が苦笑いとともに振り返る。哀の住居である阿笠邸とここ工藤邸は、言うまでもなく目と鼻の距離だ。

 

「そりゃあそうだけど……それでも夜道には違いねえだろ。今は博士も留守だから尚更な」

 

 フサエ女史と結婚して以来、阿笠博士は一年の半分近くを海外で過ごしている。妻の仕事を手伝いつつ夫婦水入らずを満喫しているというわけだ。必然的に哀もコナンと同様、広すぎる家に実質一人暮らしということになる。

 

「あら、心配してくれてありがと。でも大丈夫よ」

 

 呆れたように微笑む哀。皮肉交じりの笑顔だったが、それが何より彼女らしかった。

 

「……あのさ、灰原」

「……何?」

 

 しばしの沈黙。二人ともじっとお互いを見つめ合ったまま動かない。

 

「……ありがとな、色々と、まじで。今日だってわざわざ来てくれたし、その、今までも、色々といつも、感謝してる」

 

 結局彼女が何しに来たのかはさっぱりわからないが、ともあれおかげでなんとなく気分が晴れた。それがコナンの偽らざる気持ちだ。哀はくすりと表情をほころばせる。

 

「……何よ急に。おだててるつもり?」

「いや、そんなんじゃねえ。ただ……」

 

 言うべきか少し迷う。

 

「……別にオレに構わなくたっていいんだぜ? なんつーかほら、迷惑かけてねえかなって」

「……そんなことないわ」

 

 哀の返事は、酷く冷たい声のような気がした。

 

「私が好きでやっていることよ。あなたのためじゃないわ」

「そ、そうだよな。アハハ」

 

 突き放したような物言いに、コナンは思わず引きつった笑いで応じる。自分はさっき何か変なことでも言ってしまったのだろうか?

 

「もっとも、あなたにとっては迷惑なのかもしれないけれど」

「そ、そんなんじゃねーよ」

「いいから気にしないで。私はこれからも好きにするから。だって……」

 

 哀が目を伏せる。

 

「工藤新一は私が……」

「え?」

 

 ひどく小さな声だったが、哀は確かにそう言った。

 

「なんでもないわ。じゃあおやすみ」

「あ、おい!」

 

 コナンが右手を伸ばして哀を引き留めようとするが、哀は黙って扉を開け振り返らずに去っていった。バタンと閉められたドアの前で、コナンは不格好に手を伸ばしたまましばらく動けなかった。

 

 

 

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 その男は、モデルのような整った顔立ちと優れたスタイルの持ち主でありながらどことなく危険な雰囲気を放っていた。自分以外のすべてを見下していて、世の中に恐れるものは何もないという自信を抱いているタイプの男だ。襟元からはわずかにタトゥーが覗いている。この日彼は珍しく警戒心を抱いて目的地に向かっていたが、結局はなんとかなるだろうということを疑ってはいなかった。

 男は夜間も営業している広いファーストフード店の中に入ると、注意深く店内を見回した。するとすぐに、店の奥でノートパソコンを操作中の人物を発見する。細身の男。身につけているのは白いカジュアルシャツと、東京スピリッツのチームロゴが描かれた帽子。与えられた情報通りの格好だ。自分をここに呼びつけた人間に間違いない。

 男はその人物の前の席にどかりと座り、「よお」と声を掛ける。彼はノートパソコンを閉じて顔を上げ、帽子に隠されていた風貌――ごく平凡な、細面の青年――が男に目を向けた。

 

「時間通りですね」と青年が微笑む。かなり若い顔立ち。

「何しに俺を呼んだ? つーかおめえ誰よ?」

 

 男は不機嫌さを露骨に示すが、青年は気にかける素振りを見せない。

 

「僕はあなたの質問に答えるつもりはありません。あなたが僕の要求に答えるんです」

 

 青年は静かに、しかし一切のよどみなくそう断言した。

 目の前の、とても腕力が強そうには見えない青年にそう言われた男は頬の筋肉を引きつらせた。ここが営業中の店内でなければすぐに殴りかかっていたかもしれないが、少なくとも今この場では動けない。

 余裕めいた表情を向ける華奢な青年――円谷光彦――にとって、ここまでは予定通りだ。

 

「……おい、ふざけるのも大概にしろよ?」

 

 男がドスの利いた声で光彦を脅す。

 

「ふざけているのはあなたの方ですよ、大隈徹郎さん。あなたの手口はひどく悪質で趣味が悪い。僕はあなたを許せません」

「はあ?」

 

 光彦は大隈のにらみにも全く動じず、冷静に目線を合わせ続ける。この手の相手には、ガンのつけ合いで譲ってしまうとすこぶる不利ということを光彦はよくわかっていた。

 

「あなたは甘い言葉をかけて女性を誘惑し、関係を持った女性の隠し撮りや個人情報を使って脅迫するという手口を繰り返していますね。ヤクザと繋がっているなどとくだらない嘘までついて……。そのうえそれだけでは飽き足らず、握った写真や情報を闇で売りさばいてお金を得ている。最低の人間だ」

「ほう……」

 

 大隈は動揺したようなそぶりを見せず、光彦をにらみながら椅子に座る。その表情からはかすかな笑みが見て取れた。

 

「よくそこまで調べたもんだ。だが証拠はあるんだろうな? 俺がそれをやってるって証拠がよ。そもそもお前、いったい誰に頼まれて俺を調べた? どこの馬鹿がお前みたいなガキにお使いを頼んだ?」

 

 光彦は大隈のドスの利いた声を聞き流しながら周囲を観察していた。光彦から見て右斜め前方の席では、人相の悪い男が食事中のふりをしながらちらちらとこちらをうかがっている。バレていないつもりのようだが見え見えだ。体格や風貌からしてかなり腕力には自信がありそうだが、尾行は苦手なタイプだろう。

 一方、左斜め前方の席では一組の男女がガツガツと()()()食事に夢中になっていた。大隈が店に入ってくる前からずっと食べている。男女のうち男の方は相当な大男で、女の方は普通の体格だが、どういうわけかふたりとも同じぐらいの勢いで食べ物を口に運んでいるので光彦は思わず苦笑してしまう。

 光彦は気を取り直して前を向き、話を再開した――ただし大隈の問いは無視して。

 

「あなたのことを調べようと思えば簡単でしたよ。人を騙しているわりに、あなたのネット上のセキュリティはお粗末そのものでしたからね」

「なんだと!?」

「被害者方から聞き取った情報とネット上に散らばっている情報の断片を寄り集めれば、すぐに身元がわかりましたよ。人間、なかなかリアルの交友関係を完全には隠せないものですからね。そしてあなたが取引を行っている裏サイトの、表の名前は『激アツ!お宝探偵局』。違いますか? 大隈……ではなく本名でお呼びしましょうか、大()一郎さん?」

「な……な……」

 

 先ほどまでと違い、大隅は明らかに動揺していた。本名もサイトもバレているということは、光彦は全てを知っているということだ。光彦は大隅の額から流れる汗を冷静に観察しながら言葉を続けた。

 

「僕から出す条件は一つです。あなたが握っているすべてのデータを持って、すみやかに警察に自首してください。洗いざらい供述すれば、そこまで重い罪にはならないかもしれません……僕からすれば気に入らないところではありますけどね」

「ハッ! 従わなけりゃどうなるってんだ?」

 

 大隅が身を乗り出し語気を強める。

 

「警察にすべてを報告します。すべてのファイル、すべての画像、チャットログ、口座情報。もちろん裏サイトのログインパスワードを添えて」

 

 顔がひきつった大隅が言葉を返すより早く、光彦は少し目線をずらしてつぶやいた。

 

「"Hailey(ヘイリー)"、パスワードの変更を実行して」

 

 光彦の右耳に付けられたワイヤレスイヤホンが、中性的な声で淡々と応答する。

Sir(サー)、パスワードの変更を実行しました』

 Haileyの声は光彦以外には聞こえない。光彦はこの回答を聞いて満足気にうなずいた。

 

「言っておきますが、今からサイトを削除しようとしても無駄です。パスワードはたった今書き換えましたから。もうあなたにはどうすることもできません」

 

 そこまで言ってから光彦はノートパソコンを開いて裏返し、大隅に画面を見せた。その画面には大隅の裏サイトのトップページが映っている――ただし、ページの真ん中に鎮座するは「更新停止/捜査中」というスタンプのような画像。それは光彦がサイトの更新権限を奪っていなければできないことだった。

 

「てめえ……!!!」

 

 大隅の顔が怒りに歪む。この時点で、大隅の頭に「平和的解決」という選択肢は完全に消え失せた。

 

 

 

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 店の外の路地裏で、大隅は光彦の襟を掴み背中を塀に叩きつけた。光彦の背中に重い衝撃が走り、ひどいえずきが起こる。既に夜は遅く、大通りからは見通せない暗い路地。ゴミ袋と湿った段ボールが壁際に積まれている。防犯カメラも、人通りもない絶好の死角。大隅の口元に白い歯が浮かぶ。

 

「ガキが調子に乗りやがって……ノコノコと一人で来るなんざ馬鹿じゃねえのか!?」

 

 大隅はポケットのバタフライナイフを取り出し光彦の顔へと近づける。金属の冷たい質感が、ほんの数ミリ離れた光彦の頬にうっすらと伝わる。にもかかわらず、光彦は眉ひとつ動かさず淡々と大隅を見返している。

 

「用心棒を雇っとくまでもなかったぜ……。さあ死にたくなけりゃあパスワードを元に戻せ!」

 

 光彦は大隅の目をじっと見つめ、大きくため息をつく。ちっとも怯えているようには見えない、むしろがっかりしているかのような不可解な表情。

 

「なんのつもりだ……?」

「いえ、こっちの話です。ちょっと遅いなと思ったので」

「はあ……?」

 

 その時、大隅は背後から突然声をかけられた。

 

「おじさん何してるの?」

 

 若い女の声。大隅は(しまった!)と一瞬動揺する。こんなところを見られてしまえばどう言い逃れるか。最悪、目撃者を手にかけるか?

 声の方向に振り返った瞬間、大隅のあごに強烈な衝撃が走った。

 

「ぐはあっ!!!」

 

 大隅は突然の衝撃になすすべもなく尻もちをつく。アスファルトに衝突した尻にもガツンと痛みが走る。わけもわからないまま、目の前を見上げる。

 なんの変哲もない、ただの少女がそこにいた。

 

「歩美ちゃん、遅いですよ」

 

 光彦があきれたように言う。

 

「ごめんね光彦くん! ちょっとお会計に時間がかかっちゃって……元太くんってば食べすぎなんだもん」

「歩美ちゃんも充分に食べすぎてましたよ……」

「えへへ~」

 

 そんなやり取りを見ながら、大隅は怒りとともに立ち上がる。その手にはまだナイフが握られていた。

 

「おいっ!ふざけたことやってんじゃねえぞガキども!」

 

 腕を伸ばしナイフを突き出す大隅。だが次の瞬間、大隅の手首に強烈な衝撃が走りナイフは宙を舞った。歩美の肘打ちが雷鳴のごとき速さで大隅の手首を打ち抜いたのだ。

 

「ッ!?!?」

 

 大隅が事態を理解するよりも早く、歩美は右足を軸に回転し大隅の股間に後ろ回し蹴りを突き上げた。金的を打ち抜かれ、桁外れの痛みで大隅の意識がパニックに陥る。

 次の瞬間、歩美はうずくまった大隅の腕を取って肘を極めながら背後に回り込み、足払いとともに大隅をうつ伏せで地面に叩きつけた。肘と肩の両関節を極めながら肩甲骨に膝を乗せることで、またたく間に全身を制圧したのだ。手首を攻撃してからここまで5秒も経っていない、鬼がごとき早業。

 

「動かないでねおじさん。あたし、骨が折れる音って嫌いなの」

 

 歩美が静かに、しかし有無を言わせぬ声でそう告げる。金的を蹴られ胸と顔をアスファルトに強打した大隅に、抵抗する力は全く残っていなかった。

 

「がはっ! ごほっ……。ふ、ふざけるな……調子に乗るなよガキども……」

 

 にもかかわらず大隅は強気を崩さない。かろうじて顔を上げた大隅は、鼻血をだらだらと流しながら光彦をにらんで笑う。

 

「ごほっ……、俺の雇った用心棒……加藤は空手黒帯の凄腕なんだ。体格も、喧嘩のキャリアだっててめえみたいなガキとは桁が違う……。そいつには俺が一定時間帰ってこなけりゃ駆けつけるように言ってある。そろそろ来る頃だぜ……」

「ふーん」

 

 歩美は大隅の言葉に全く興味を示していないようだった。光彦も「はあ……」というやる気のない返事しか返さない。

 

「てめえらちったあビビりやがれ!!!」大隅が叫ぶ。

 

 その時、店の方向から男がゆっくりと歩いてきた。暗さで顔は見えないものの、シルエットを見て取った大隅がニヤリと笑う……が、数秒後にその笑みは消え去った。

 歩いてきた男は加藤ではない。それは()()()()()()()()()()()だった。

 

「なあ、スゴウデの用心棒ってこいつなのか? すんげー弱かったぞ」

 

 男はそう言って、加藤を大隅の目の前に無造作に下ろした。加藤の顔面はボコボコ状態で、すでに失神している。

 

「か、かかか、加藤!? そんな馬鹿な……!?」

「おめー、もうちょっと強いやつ雇った方がいいぞ」

 

 男は大柄な加藤よりも更に一回り大きかった。肩幅、首の太さ、胸板の厚み、丸太のような腕……およそ日本では滅多にお目にかかれないほどの巨漢である。にもかかわらず、丸みを帯びた温和な顔立ちはまるでぼうっとした少年のようだ。

 

「元太くん、これはやりすぎですよ」光彦があきれたように言う。

「そうだよ元太くん、もうちょっと気を付けないと!」歩美は大隅を制圧したまま光彦に賛同した。

 

 元太と呼ばれた大男はちょっと困ったような顔をして頭をかく。

 

「だって俺、手加減苦手なんだよな……」

「やれやれ、もう少し腕力のコントロールを身に着けてほしいですね……。それと食欲のコントロールも」

「あはは~、元太くん言われちゃった~」

「歩美ちゃんにも言ってるんですけどね」

 

 既に3人はすっかりリラックスしている様子だった。まるで大隅がそこにいることなど頭にないかのようだ。歩美に制圧されて全く身動きの取れない大隅だったが、それでもちっぽけなプライドがひどく傷つく光景であることには違いない。

 

「てめえら一体……何者なんだよ!」

 

 大隅が力の限り叫ぶ。光彦は腕を組み、「う~ん」と少し考えてから大隅を見下ろした。

 

「探偵団……ですかね」

「た……探偵団、だとぉ……?」

 

 元太が嬉しそうに光彦の背中を叩き、光彦がごほっと咳を吐いた。いかにも男子高校生らしいお気楽なノリ。大隅は情けなく垂れ下がった眉をヒクつかせ声を張り上げた。

 

「ガキの探偵ごっこかよ……! 言っとくが調子に乗ってたら死ぬぞてめえら……! 最近この街にはヤベェ連中がうろついてるって噂だ……そいつらに手を出したらサクッと殺されちまうかもな……!」

「ふうん、要するにおめーは雑魚ってことだろ」

「……!!」

 

 大隅の言葉が真実なのかそれとも嫌がらせのデマカセなのか。元太はどちらでもいいとばかりに耳クソをほじるばかりで目線さえ返そうとはしない。動揺のなさでは光彦歩美もまったく同じだ。

 ともあれ、大隅が証拠のデータとともに警察に出頭したのはその日のうちのことである。

 

 

 

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 帰り道、3人は他愛もないおしゃべりをしながら歩いていた。少し会話に間が空いた時、寂しそうに言葉を漏らしたのは元太だった。

 

「でもよぉ、3人で探偵団ってのもやっぱりちょっと物足りねぇよな」

 

 歩美は両の拳を握って大きくうなずく。

 

「うん、やっぱり5人そろってる方がいいよね!」

「……その話はやめましょう」

 

 光彦の声は低く静かだった。立ち止まってきょとんとする歩美と元太を背に、光彦はそのまま歩き続ける。

 

「灰原さんだけならまだわかります……でも」

 

 光彦は立ち止まり、振り返る。その表情はひどく淡々としていた。

 

「彼にはもう……何も期待しない方がいいですから」

 

 

 

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 着信音。

 コナンをまどろみから引きずり出したのは懐かしいメロディだった。電話を取るのが間に合わなかったために、鳴り終わったすぐ後に同じ名前からメッセージが届いた。その相手から連絡が来るのは数カ月ぶりのことだ。

 

 

 

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「久しぶりねコナン君。最近どう? 元気にしてる?」

 

 喫茶店の奥まったテーブル席で若い女性が微笑んだ。少し傷んだ黒髪が、肩より若干長いぐらいの位置で切り揃えられている。くたびれたスーツと目の下のクマからは彼女の不規則な生活が伺えた。

 

「うん、僕は元気だよ、蘭姉ちゃん」

「そう、良かった」

 

 蘭がコーヒーを一口すすってもう一度微笑みかけると、コナンは久しぶりに胸が締め付けられるような感覚を覚える。こうして彼女と向き合って会話することなど、どれほどぶりだろう。しばらく見ないうちに、蘭は少し痩せたように見える。声にも顔つきにも元気が感じられなかった。

 

「仕事、どう?」

 

 聞くまでもない。彼女が日々激務に追われているであろうことは、名探偵でなくても一目でわかることだ。

 

「順調だよとは言いたくないかな。本当はあたしが暇な方が良い世の中ってことだもんね」

「でも大事な仕事だよ」

「ありがとう」

 

 蘭は溜息とも安堵の吐息ともつかない息を吐いた。コナンは少し身を近づける。

 

「本当にかっこいいと思う。昔はまさか蘭姉ちゃんが刑事になるだなんて思わなかったけどね」

 

 彼女の父である小五郎もまた、かつては刑事だった。もちろん彼女自身の正義感の強さだって昔から折り紙つきだ。初めて進路について聞かされたときのコナンはずいぶん驚いたとはいえ、今振り返れば彼女の選択は十分に納得できる。

 

「そろそろ馴染んできた?」

「うん」

「そっか」

 

 蘭の眼差しが少し穏やかになる。だがそれは一瞬だけで、すぐに彼女は表情を引き締める。

 

「コナン君、二週間ぐらい前から続けて起きてる、若い女性ばかりが標的の連続殺人事件のことは知ってる?」

「ごめん、最近あんまりニュース見てなくて……」

「そう……。ワイドショーなんかではずいぶんと騒がれているんだけど、学校が忙しいんだから当然よね」

 

 蘭は手元のビジネスバッグから一冊の、分厚く傷だらけのファイルを取り出す。横腹から大量の付箋が覗くそのファイルの表紙には、汚れた印刷テープで「捜査資料」とはっきり書かれていた。

 

「ら、蘭姉ちゃん、それは……!」

 

 部外者であるコナンに警察の捜査資料を見せることなど、もちろん重大な法規違反だ。発覚すれば良くて懲戒処分、あるいは刑事罰もあり得るだろう。いくら座席のレイアウト的に他の客からは見えないとはいえ、大胆すぎる行動であることは間違いない。

 

「あら、高木警部にはずいぶん色々見せてもらってたみたいだけど?」

 

 蘭のいじわるな笑みにコナンは口をつぐんだ。蘭は周囲を気にしながら資料を開き、ページをめくっていく。

 

「先々週から続けて3件、そしてまだ報道されてないけど、昨日第4の事件が発覚したの。若くて綺麗な女性ばかりを狙った、拉致監禁からの殺人事件。手口の共通性からして同一犯の犯行であることはほぼ確実だけど、被害者同士に直接の接点はなし。ただし、全員茶髪で背格好もよく似ているの。年齢は10代後半から20代半ば。ちょうどコナン君とあたしの歳の間ぐらいに全員収まる感じね」

 

 蘭は言葉を紡ぎながら次々とページをめくっていく。その低く重い声、力のこもった指先の動き。コナンにはひしひしと蘭の怒りが伝わっていた。決して感情をあからさまにはしていないが、この残虐な犯人に対する目の前の女刑事の憤怒は生半可なものではない。

 

「特にこの4人目の被害者……。誰かに似てると思わない?」

 

 蘭が指差した写真には、高校の卒業アルバムか何かからコピーしたのであろう制服姿の女性が写っていた。どこか見覚えのある――いや、ありすぎる面影。

 

「灰原……?」

 

 蘭がうなずく。

 

「髪型といい雰囲気といい、よく似てるわよね。遠目だったら間違えてしまうかも……」

 

 資料の文章には、その女性の命がいかに理不尽に失われたのかが詳細に記されていた。さっき飲んだコーヒーが胃を逆流しそうな感覚に襲われる。

 もしも。もしもこれが灰原哀だったら。

 

「蘭姉ちゃん……どうしてボクにこんなものを見せるのさ」

 

 コナンは目を逸らして顔を歪ませる。

 

「今のところ私達は完全に行き詰まっている。最初に候補に上がった容疑者はすぐに潔白が明らかになって、初動捜査は無残に失敗したと言っていいわ。できることなら……あなたの助けを借りたいの」

 

 現職の刑事が一介の高校生に殺人事件の捜査協力を頼む。それが言語道断であることは論を待たない。だが蘭の眼差しは真剣そのものだった。

 

「……だめだよ蘭姉ちゃん。僕はもう、探偵じゃないんだから」

「……本当に?」

 

 コナンは目を伏せて押し黙った。

 

「そうだよ」

 

 コナンの拳が震える。すると蘭は自分の手をそこにそっと重ねた。

 どこか懐かしいぬくもりがコナンの手を包み込む。

 

「だけど」

 

 蘭はコナンをまっすぐ見据え手に力を込める。

 

「コナン君が探偵を辞めるなんてできっこない。あなたは生まれながらの名探偵よ。あいつと同じ……そう、同じ星の下に生まれた人」

「蘭姉ちゃん、僕は新一兄ちゃんとは違うんだよ」

 

 優しげに目を細める蘭。

 

「ええ、新一のほうがコナン君よりずっと子供だったわ。事件だって聞くと目をキラキラ輝かせたりね」

「……蘭姉ちゃんは僕を、新一兄ちゃんにダブらせているだけだよ。確かに僕は新一兄ちゃんによく似ている。瓜二つと言ったっていい。だけど……僕は違う。新一兄ちゃんでも、探偵でもない」

 

 二人の間にしばしの沈黙が流れる。それから蘭は重い空気を壊すかのようにクスリと微笑んだ。

 

「わかったわ、だけどこれだけはお願いしていい? 哀ちゃんのこと、守ってあげてほしいの」

「灰原を? ボクが?」

「ええそうよ、他に誰がいるの。見ての通り犯人はこういう外見の女性に不可解な執着を持っている……。だけどそんな女性は大勢いるのに、一人ひとりを警察が守れるわけないもの」

「それは……確かに」

「だから哀ちゃんのことはコナン君がちゃんと守ってあげて。コナン君がついていれば絶対大丈夫だから。……約束、だよ?」

 

 "約束"。

 その言葉に、胸がズキリと痛む。

 とっさに表情を取り繕い、ぎこちない笑みを浮かべるコナン。

 

「うん、わかった。蘭姉ちゃんもあまり無理しないで」

「ええ、ありがとうコナン君。それから有希子さんにも、よろしく言っておいてね。なかなかお見舞いに行く時間が作れないから……」

「うん」

 

 二人は互いにうなずきあい、それから蘭はコナンの拳を握っていた手を離して机の上の資料を鞄に戻した。コナンはやや逡巡してから思い切って言葉を切りだす。

 

「あのさ、蘭姉ちゃん……。蘭姉ちゃんは、彼氏作らないの?」

「え?」

「その、和葉姉ちゃんだって結婚してるんだし、さ」

 

 他ならぬ自分がそれを尋ねるということに、胸が裂けるような罪悪感を覚える。だけど聞かずにはいられなかった。できれば刑事なんて危ない仕事はさっさと辞めて、誰かと結婚でもして平和な人生を生きて欲しかった。それがどれほど勝手な望みか、コナンは重々わかっている。

 

「もう、コナン君に心配されるほど焦ってませんよーだ。これでも職場じゃ結構モテるんだからね」

 

 蘭は明るく声を弾ませて笑う。

 実際、彼女は警視庁では「結構モテる」どころではなかった。何しろ一部ではかつての佐藤美和子の再来とまで囁かれるほど、男性刑事たちから絶大な人気を誇っているのだから。ただし蘭本人にそこまでの自覚はなかったが。

 

「今は仕事が充実してるから、別にいいのよ。充実って言っていいのかよくわからないけど」

「うん、それならいいんだ。……だけどもし、もし、新一兄ちゃんのことをまだ引きずってるのなら……」

 

 コナンは声を絞り出すように言葉を続ける。

 

「あんなヤツ忘れてやればいいんだ。大切な約束を放りだして勝手にどこかで死んじゃうようなヤツ……最低だよ」

「うん……。ありがとう、コナン君」

 

 その時蘭が垣間見せた今にも壊れてしまいそうな切ない笑顔は、新一の"死"を必死で乗り越えようとしていたかつての姿とどうしても重なってしまうのだった。

 

(オレは未だに蘭を苦しませているのか……? だけど、そうだとしてもオレに一体何ができる?)

 

 わかっていても何もできない。江戸川コナンは工藤新一ではないから。

 かつて何度も振り切ろうとした過去の後悔が、今なおコナンを縛り続けていた。

 

 

 

------

 

 

 

 ガタガタと振動が響くバスの中で、コナンはぼうっと景色を眺めていた。頭に浮かぶのは蘭との思い出ばかり――いや、正確に言えばそれらは自然に浮かんできたわけではない。彼はその思い出を、記憶の海の奥底から必死に掻き出そうとしていたのだ。

 

 子どもの頃、二人で泥んこになるまで遊んだ。お化けを探したり、暗号を解いて宝を探そうとした。

 中学生の頃にはスキー場で事件を解いた。

 高校時代には飛行機の機中で事件を解決し、旅先のニューヨークでも事件に巻き込まれた。

 どれもこれも、かけがえのない大切な思い出ばかりなのに。

 

(遠い……)

 

 歯ぎしりの音。

 蘭との思い出、かつて鮮明に覚えていたはずのそれら大切な記憶の、細かな部分はほとんど既に抜け落ちてしまっていた。今残っている記憶のどこまでが確かな真実で、どれほどが時間とともに変質してしまった曖昧な思い出なのか、もうわからない。過ぎ去った年月を思えば、それは確かに仕方のないことなのかもしれない。

 だけどコナンにとって――工藤新一にとって――毛利蘭はたった一人の、この世で最も大切な人だったはずなのに。

 今も変わらず、ずっとそうであるはずなのに。

 

「ちくしょう……!」

 

 怒りの感情がふつふつと煮え立つ。なのに、何に対する怒りなのかは自分にもわからない。

 ――ずきり。

 こめかみに鈍い痛みが浮かんで消えた。

 

 

 

------

 

 

 

 米花駅から一時間近くバスに揺られ、コナンは今日の本来の目的地である療養施設に到着した。そこは富裕層専用の広々とした施設なだけに、都市部から少し離れた山の中腹に建てられている。だから米花町から行くのはそれなりに時間がかかるのだ。

 

 施設の2階、風に揺れるカーテンの隙間から陽光が差し込む、広く上品な個室の真ん中で、コナンはうつむいて椅子に腰かけていた。

 

「最近どうしてるの? 新ちゃん」

 

 ベッドから身を起こした有希子が尋ねる。昔と変わらず美しく、ただ少ししわがれた声で。室内ではあったが、有希子はチューリップ型の帽子をかぶっていた。

 

「別に……変わりない」

 

 コナンは笑顔を作って答える。有希子はくすりと笑った。

 

「最近の新ちゃん、ちょっと心配かな。楽しくなさそうなんだもん」

「心配ねえってば」

「そうかなあ」

 

 有希子は笑っていたが、コナンは母の顔をちらりと一瞥するだけですぐに視線を落とした。長く目を合わせていると、表情をつくろえなくなってしまうから。

 体重を尋ねるまでもなく、有希子はまた痩せていた。浮き出た頬骨、少し力を入れれば折れてしまいそうなほどに脆弱な手首。抗がん剤の重い副作用は、ますます彼女の身体をむしばんでいる。ほんの数年前まで、年齢を言われても誰も信じないほど若々しく美しかったというのに。

 

「あのね、新ちゃん」

 

 顔を伏せたままの我が子の前で、有希子は言葉を続ける。

 

「新ちゃんは自分の人生を楽しめばいいのよ。二度目の高校生活なんて素敵じゃない。大人になってからあの頃に戻りたいって思っている人、たくさんいるのよ?」

「オレは……」

「戻りたくなんてなかった?」

「……うん」

「そうよね」

 

 その声は、ただただ優しくて。

 

「確かに新ちゃんはたくさんのものを失ったかもしれない。でも……失っていないものだって、たくさんあるでしょう?」

 

 有希子はじっと我が子を見つめていた。コナンはようやく顔を上げて母に目を合わせる。

 

「人は変わってしまう。生きるということはたくさんのものを失ってしまうということ。でも、いつだってそこには新しい出会いや喜びがあるの。新ちゃん、あなたは今までもこれからも、決して一人なんかじゃないでしょう? 失ったものよりも、今あなたが掴んでいるものにこそ思いを馳せてほしい。きっと優作さんだってそれを望んでいるわ」

「オレが今、掴んでいるもの……」

 

 コクリと頷いた有希子がふと視線を向けた先、ベッドの傍らには彼ら夫婦の仲睦まじい旅行写真が置かれていた。ベネチアの美しい風景をバックに肩を抱き合う、若々しく屈託のない笑顔。有希子の言う通り、きっと父も同じようなことをコナンに言うことだろう。

 ――はっはっは! つまらないことで悩んでいるようだな、息子よ。

 こんな感じだろうか。

 

「新ちゃんはきっと大丈夫。だって私達の息子だもの」

 

 我が子をまっすぐ見つめる有希子の瞳は、どうしようもないほどやさしかった。

 

「うん……。ありがとう、母さん」

 

 

 

------

 

 

 

 部屋を後にしたコナンの脳裏に、先ほどの有希子の言葉が反芻する。

 

(新しい出会い、か。確かにコナンになってからめちゃくちゃたくさんの人と出会ったんだよな……。なにも、悪いことばかりなんかじゃなかった)

 

 そして今日蘭から受けた依頼のこと――守ってあげてと言われた相手のこと――が頭をよぎる。体が縮んで以降の数々の出会いの中でも、彼女ほどずっと自分のそばにいる者は他にいない。

 彼女は今どうしているだろうか? あの事件のことを知っているだろうか? 自分とよく似た女性が殺されたと知れば何を思うだろうか? あの事件について、自分は彼女と会って話をしなければいけない。

 ――しなければいけない?

 いや、違う。火急の必要性など別にないはずだ。電話やメッセでも構わない。

 それは奇妙な感覚だった。用件がどうとかいうよりも、自分は今彼女と会って話をしたいと思っている――そんな気がした。

 

(なんだろうな、これ……。あいつに……灰原に会いたい。声が聞きたい。なんなんだ、この気持ち)

 

 

 

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 静まり返った薄闇。ブラインド越しの白い陽光が床に縞模様を落とす。

 壁一面に並ぶモニター。男は腕を組み、両脚をデスクの上に放りだしている。彼の眼光は一本のプログレスバーだけを見つめていた。

 赤い残量がじわり、じわり。ひどく緩慢に、しかしやがて右端を満たす。

 乾いた通知音。中央に跳ねるポップアップ——若い女の顔写真。

 男の口角が吊り上がる。

 近づいている。彼はそう感じていた。

 もうすぐ辿り着ける、と。

 

 

 

------

 

 

 

 コナンはバスで米花駅に戻り、そこから徒歩で阿笠邸にへと向かっていた。不用心にも歩きスマホで、蘭に伝えられた連続殺人事件について調べつつ情報を頭の中で整理していく。コナンは何か引っかかるものを感じていた。世間では変質者による暴行殺人という扱いがもっぱらだったが、自分の嗅覚とはどこか一致しない。それはこれまでに何百件という凶悪事件に遭遇してきた"疫病神"ならではの直感だ。今はまだなんの根拠もないが、この直感を無視することはできない。コナンはそう考えている。

 

 自宅のすぐ近くまで来たところで、スマホの事件記事に気を取られていたコナンは、体に衝撃を感じるまで「何か」が自分に向かって走ってきていたことに気づいていなかった。突然の衝突で危うく尻もちをつきかけるが、かろうじてたたらを踏みバランスを取り戻す。

 目に映ったのは、赤みがかった茶髪。

 

「いてて……灰原じゃねえか、お前どうしたんだ一体」

 

 ぶつかってきた相手は哀だった。彼女はどういうわけか荒く息を切らしており、かなりの汗を流している。見開かれた目、切羽詰まった表情からは相当の恐れが見て取れる――まるで何かから逃げてきたように。

 

「おい灰原、大丈夫か!? 何があったんだ?」

 

 コナンは思わず哀の肩を掴む。

 その直後、哀の背後からエンジン音が迫ってきた。大型の黒いバイク。そこに乗っていた人物は、黒いフルフェイスのヘルメット、黒い服、黒いブーツ――

 

(黒ずくめの男!?)

 

 まさかそんなことが。奴らはとっくに滅びた。生き残りなどいるはずがない。

 

「逃げて! 工藤くん!」

 

 哀がコナンを突き飛ばし叫ぶ。そして踵を返してバイクに振り返り、もう一度叫んだ。

 

「あなたは死なせない!」

 

 哀はよどみない動きでトートバッグからスタンガンを取り出し、バイク乗りに向けて構える。

 

(灰原のヤロー、おとりになるつもりかよ!?)

 

 そんなことをさせてたまるか。コナンは哀を押しのけようと肩を掴んだが、それと同時にバイク乗りが両手のひらをこちらに向けて振った。

 

「ちょっとタンマタンマ! 勘違いしないで!」

 

 バイク乗りの声は、拍子抜けするほど慌てていた。しかもそれは明らかに――若い女性の声だった。ヘルメットを脱いだその素顔からは戸惑いがにじみ出ている。

 

「ごめんごめん、そりゃああたしも不審者っぽい恰好してるのは認めるけどさあ、何もそんな必死に逃げなくてもいいじゃない。あたしはただ、キミが落としたスマホを拾ってあげただけなのに……」

「え……」

 

 呆気にとられて互いの顔を見合う哀とコナン。バイクの女性がポケットから取り出したスマホは、カバーケースの色柄からして明らかに哀の物だった。

 

「あたしが通りすぎた時にこのスマホが落ちちゃったの。多分キミのカバンにバイクのハンドルがカスったのかな? で、キミに声をかけたらいきなり全力ダッシュで逃げ出したってわけ……」

 

 結局バイクの女性は、最初にぶつかったあたしが悪かったと言って深々と頭を下げた。哀の方も自分の勘違いを謝り、コナンと二人でお礼を言ってこの「事件」は解決した。

 

 

 

------

 

 

 

「さっきはみっともない所を見せたわね」

 

 阿笠邸のソファーに座るコナンに、哀が紅茶入りのマグカップを手渡した。最近哀がこだわっている茶葉を使った淹れたての一品だ。

 

「あれはしゃーねえよ。一瞬血の気が引いたのはオレも同じさ」

「……そうね」

 

 哀の表情は冴えない。こういう暗い顔は長いこと見ていなかった。明らかに、昨日までとは様子が違っている。

 

「お前、まだ組織のやつらが追いかけてくるかもって思ってるのか?」

「まさか。もう10年近くにもなるのよ。仮に生き残りがいたとしても、来るならとっくに来てるわ」

 

 哀は自分のマグカップを手に持ってコナンの隣に腰を下ろす。脚と脚がくっつきそうなほどの至近距離。

 

「そ、それはそうかもしんねーけどよ……。さっきのあの表情(カオ)は普通じゃなかったぜ」

 

 コナンの声は少しばかり上ずっていた。

 哀はマグカップを両手で包み、背を丸めて自嘲気味に笑う。

 

「でしょうね」

「……」

「夢を見たの。つい昨日よ」

 

 哀の唇が震える。瞳だけが横に動き、コナンを映す。

 

「奴らがまた現れて……私を殺そうとするの。それだけならまだ良かった。でも、あなたが身代わりになろうとして……」

 

 漆黒のポルシェ356A、その車窓から向けられる冷たい銃口。恐怖で硬直した哀の前に誰かが飛び出した。その誰かが"あなた"以外であるはずもなく。

 

「死んだのか、オレ」

「ええ、そうね」

「かーっ、オレって何回死ぬんだろうな」

 

 コナンが大げさにぼやいて背もたれに身を預ける。

 

「笑いごとのつもりじゃないんだけど」

 

 ジト目でコナンをにらみつける哀は非常に不満そうだった。

 

「そうだな……もしそんなことが起こったら、そいつは笑いごとじゃねーな」

 

 コナンはしばし沈黙し、それから口を開く。

 

「知ってるか? 灰原。お前に似た女性が、最近何人も殺されてる」

「ええ、そうみたいね」

「そのせいで夢を見たのか?」

「わからないわ……。単に心配のし過ぎなのかもしれない。あなたは気にしなくて大丈夫よ」

「んなこと言われても気になるんだよ」

「……」

「もしかしたら、お前は今でもあの頃の不安に囚われたままなんじゃ……って」

「……あなただって、同じじゃない」

「え?」

 

 哀が顔を傾け、真横に座るコナンを覗き込む。同時に手をそっと伸ばし、彼の横髪をふわりとかき上げた。

 

「ちょ、オイ……」

 

 コナンの頬が少しだけ赤くなる。

 

「……この火傷痕、いつまでこのままなの?」

 

 右側頭部のこめかみ付近から頭皮にかけて薄暗く黒ずんだ肌と、そこに走る細かなしわ。彼のことをおとぎ話の王子様のような完璧イケメンだと思い込んでいる女子たちは誰も知らない、小さくともくっきりと残る過去の痕跡。

 

「こんな痕、病院に行けば治せるはずなのに」

「……それは……別にいいだろ。髪で隠せるんだし、誰も気にしねーよ」

 

 ぷいと顔を背けるコナン。

 

「私は気にするわ」

「するなよ」

 

 哀も知らないことだが、時々この痕は不快な痛みを発することがある。先刻のバスの中でもそうだった。痛みといってもすぐに収まる程度のこと、話せば無駄に彼女を心配させることになるだけだとコナンは思っている。

 

「だって、あなたがいまだ"あの日"に囚われたままみたいに見えるもの」

「……」

 

 コナンの脳裏に、"あの日"の光景がよみがえる。

 

 

 

 

 赤い夜。小高い丘の上で、江戸川コナン――小学生時代の――は立ちつくしていた。丘の下、頑強な建物があった一面が炎に包まれ、身を焦がすような熱気がここまで届いている。無数の火の粉が風に舞い、時折何かが爆ぜる音が遠く響く。冬の夜だというのに、全身から汗がしたたり落ちていた。

 コナンはしばらくじっと眼下の炎を見つめていたが、ふとかたわらで座り込んでいる少女に振り向き、悲しみとも慈しみともつかない視線を向けた。

 

「大丈夫か、灰原」

「ええ、出血はほとんど止まったわ」

 

 哀はうつむいていた顔をコナンに向け目を細めた。膝に巻かれた包帯には血がにじんでおり、手や足首も軽く負傷している。顔に外傷はなかったが、すすや土の汚れはそのままだ。ただ、表情が冴えないのは怪我よりも疲労が原因だろう。この日は長い、長い一日だった。

 

「私なんかより、あなたのその火傷……そっちの方がよっぽど重症よ」

 

 哀はコナンの側頭部に目線を向け表情を曇らせる。

 

「ああこれ、そんなに酷いのか? 痛覚(いたみ)が鈍っちまっててさ」

 

 努めて明るい口調で答えるコナン。哀は黙りこくったまま瞳を震わせる。

 いくばくかの沈黙の後、先に口を開いたのは哀だった。

 

「あなたは、これで良かったの?」

 

 炎に照らされ揺らめく瞳が、切実なまでにコナンを見つめている。

 

「あの薬の……APTX4869のデータは失われてしまった」

 

 哀は目を逸らし、丘の下の炎を見つめる。コナンは拳を固く閉じうつむいた。

 

「どうしようもなかったじゃねえか。あのデータを回収しようとしてたら、二人とも御陀仏だったろ」

 

 ほんの1時間ほど前。ボスが死に、わずかに生き残った残党は無数の犯罪の証拠を焼き払っていた。そのアジトの最奥部、隠された部屋の中に、彼にとって最も重要なデータが保管されていることをコナンは突き止めた――しかし結局、彼がその部屋に辿り着くことはなかった。

 彼が選んだ道は、火の手の奥に取り残された彼女を助け出すこと。その代償が側頭部の火傷。そして工藤新一としての人生そのものに他ならなかった。

 

()()()()()()()()()間に合っていたわ」

 

 自嘲気味に哀がつぶやく。

 

「バーロー!!!」

 

 力の限りの怒声。哀はビクッと身を震わせコナンと目を合わせる。

 

「くだらねえこと言うんじゃねえ……! そんなことするわけがねえだろうが!!」

「だけど……!」

 

 哀は少しふらつきながらも立ち上がってコナンに向き合う。彼女の表情も声色も、今にも壊れてしまうそうなほどに痛々しい。

 

「本当にこれで良かったの!? やっとすべてが終わったのに、元の姿に戻れないなんて……蘭さんの元に帰れないなんて」

「……いいわけねえだろ」

 

 今度はコナンが顔を背けうつむく。

 

「蘭はずっと、オレの帰る場所だった。いつか必ず工藤新一に戻ってあいつのところに帰るんだって、疑いもしなかったさ」

 

 ぎしり、と歯ぎしりが鳴る。

 

「それが、あいつとの約束だったから……」

 

 炎は少しずつ弱まりだしていた。

 

「きっとオレは後悔し続けるだろうさ。……でも」

 

 コナンの声が徐々にか細くなっていく。

 

「もう、終わったんだ」

 

 哀は何も言わなかった。しゃがみこんで力なく遠くを眺めるコナンの横顔を、ただじっと見つめていた。

 

「終わったんだよ、全部」

 

 やがて夜が明け、炎は跡形もなく鎮火していた。それまで彼らは無言のままだった。

 

 

 

 

「情けねー話だぜまったく。昔のことなんてどんどん記憶が薄れてきてるのに、あの日のことは昨日のことみてーにはっきりと思い出せる……。どれだけ引きずってんだっつー話だよな」

 

 記憶の旅を終えたコナンが天井を仰ぎぼやく。隣にぴたりと身を寄せていた哀は、彼とは逆にうつむいて目を細めた。

 

「私もよ。身を焦がす炎の熱さも、あなたの悲痛な表情も、今も目の前にその光景があるかのように思い出せる」

「そうか……」

「……やっぱり似た者同士ね、私達は」

「かもな」

 

 しばしの沈黙。肩が触れ合いそうなほどの距離のまま、ふたりともそれ以上身を寄せようとも離れようともしなかった。

 先に口を開いたのは哀の方だ。

 

「私、今でも時々思うの。組織の一員だった私がこんなふうに平和に暮らしているなんて、本当に許されることなのか……ってね」

「今さらなに言ってんだ。おめーは立派に責任を果たしたろ? ちゃんと認められたじゃねーか、もうなんの問題もないって」

「ええ……」

 

 コナンと同じく哀もまた元の姿に戻ることはできなくなったとはいえ、だからといってあっさり無罪放免となったわけではない。かつて組織の重要人物として働いていた彼女が結果的に免罪されたのは、組織の打倒と事後処理に彼女が全面協力したことによるある種の司法取引によるものだ。それでもFBIの要監視リストに入れられたのはやむを得ない必然的な措置だったが、数年ののちにはその措置も正式に解除された。こうして彼女は完全な自由の身となったのだ。

 

「それでも時々思うのよ。私の犯した数々の過ちが、いまだ償えていない罪が、いつか人生のツケとなって回ってくるかもしれない……それが当然の報いなんじゃないかって」

「んなことねーよ、なんだそれ? まだ償えていない罪って、そんなもんもう残ってねえだろ?」

「いいえ、まだ()()()残ってるわ」

「ふたつ……?」

 

 温度のない横目がコナンを見つめる。

 

「ひとつは、あなたを工藤新一に戻せなかったこと」

「あ~の~な~、それはもういいっつってんだろ? 何度目だこの話?」

「何度目だろうと事実は事実。なかったことにはならないわ」

「ったく、他でもねーオレが気にすんなっつってんのに、これ以上何が必要なんだよ……」

「……そうね、気持ちだけでも受け取っておくわ」

 

 くすり、と自嘲気味に哀が笑う。

 

「……それで、ふたつめは?」

 

 実のところ、ひとつめの罪が自分のことだということぐらいコナンには当然に見当がついていた。しかしふたつめの罪とかいうものについては思い当たるフシがないのだ。何か忘れてしまっていることがあるのだろうか。それとも彼女がいまだ話してくれたことのない事実があるとでもいうのだろうか?

 

「ふたつめは……」

 

 それだけつぶやいて、哀は首を横に振った。

 

「……ごめんなさい、うまく話をまとめられない。近いうちに、必ず話すから」

「わかった。焦らなくてもいいぜ、そんなの」

 

 コナンの微笑みに、哀もまたやわらかな笑みを返す。互いの瞳を覗き込むふたりの顔が、いつの間にかより一層近い距離となっている。自分が近づいたのか、哀が近づいたのか、あるいはその両方か。それを判断できる余裕はコナンにはなかった。

 

(あ、あれ……いつの間にこんなに近く……やっぱり灰原って、まつ毛なげーし目の形とかすげー綺麗で……って、そうじゃなくて! な、なんかこの距離ってオレたち今にも……)

 

 心臓がバクバクと脈打つ。喉が渇き、汗が浮かび――

 瞬間、コナンは大慌てで顔を逸らした。

 

「と、とにかく! ひとりでぐだぐだ悩んでんじゃねーぞ! オレだって博士だっているんだからよ」

 

 コナンが明後日の方向を向いて早口でまくしたてると、哀はおかしそうにクスリと笑った。

 

「……ふふっ、そうね」

「ああわかった、おめー要するに気晴らしが足りねーんだよ気晴らしが。なんならあいつらの探偵ごっこでも手伝ってやったらどうだ? ……あっ、でも今はあんまり迂闊(うかつ)に出歩くなよ? 例の事件が解決するまでは用心しとくに越したことはねーからな」

「ええ、ありがとう」

「とにかく、色々あったけどよ。おめーにとってはせっかく手にした第二の人生じゃねーか。生きてるだけで丸儲けって言うだろ? 今を楽しんだらいいんだよ」

「……そうね。私は……生きてる。ええ、そうよ。私は生きてる。それだけでじゅうぶん」

 

 コナンを見つめる目が細まり、ふわりと優しい笑みが浮かぶ。己の顔を映す大きな瞳、その吸い込まれそうな不思議な魅力に、心臓が持ち主の心情など無視してドキリと跳ねる。

 

「人間という生き物は、すぐに贅沢になってしまうんでしょうね。本当は生きているだけで十分なのに、あれが足りないとかこれが不安だとか。届かぬものに手を伸ばして、やはり届かないと勝手に傷ついて……。本当は最初から手を伸ばす資格なんかないのに」

「え、ええっと……」

 

 途中からなんの話をされているのかわからなくなって、コナンは間抜けな相槌を返した。その間、彼は彼女の瞳から片時も目を離せていない。細かに、不規則に揺れるその瞳から。

 

「今日は来てくれてありがとう。おかげでずいぶん気が楽になったわ。ふふっ、これでおあいこね」

 

 彼を見つめたまま、彼女の表情がほころぶ。

 

「あ、ああ……」

 

 消え入りそうな小さな返事。このときコナンは、自分の頬がかすかに赤くなっていることにまるで気づいていなかった。

 ようやく目線を外した哀が、「ふふっ」と満足気にうつむく。そうしてしばらく沈黙が流れた。コナンは少しの間哀の横顔を見つめていたが、やがて息を吐きぼうっと天井を見つめた。

 

(よくわかんねーけど、少しは灰原の助けになれたってことだよな。俺だってこいつの顔を見れて、ええっと、うーんまあとりあえず、来てよかった気がする)

 

 そして改めて脳裏によぎる、例の事件のこと。組織絡みなのかそうでないのか、判断できる材料は何もない。それでも間違いなく言えるのは、あの事件が解決するまで彼女の平穏と安全は普段よりずっと脆弱ということだ。

 

(もしもこの先……万が一でもまた奴らが現れたらオレは……)

(オレはどうする。灰原が殺されるのを、指をくわえて見ているのか? まさか。やることはとっくに決まっている。オレがお前を……)

 

 守る。

 オレがお前を守る。

 喉まで出かかって、その言葉が声にならなかった。

 ――心配すんなよ! ヤバくなったらオレがなんとかしてやっからよ!

 かつてコナンは哀にそう約束した。今だって同じようにすればいいだけの話だ。それなのに、たったそれだけのことが言葉にできない。

 ――今のオレに何ができる?

 ――今のオレが、奴らから灰原を守れるのか?

 ――オレにそんな約束をする資格があるのか?

 あの頃なら、自信たっぷりに頼もしいことを言えたはずなのに。

 

「……そろそろ帰るよ。何かあったら、いつでも連絡してくれ」

「ええ、もちろん」

 

 今はこれが精一杯の言葉だった。

 

 

 

------

 

 

 

「あーーーーー畜生!! 自分が情けねえ!!」

 

 コナンは自宅に戻るやベッドに大の字で倒れた。

 

(こんなオレを見て、あいつは内心笑ってるんだろうか)

 

 出会った頃の彼女の姿がまぶたの裏に浮かぶ。皮肉めいた微笑み、凍てつくような眼差し、そして一度だけ見せた泣き崩れる姿。

 かつての自分は、彼女にどんな感情を持てばいいのかまるでわからなかった。工藤新一としての人生を破壊した憎き敵。組織からの裏切り者にして協力者。最愛の姉を理不尽に失ったか弱い少女。体は子供、頭脳は大人。

 いつしか彼と彼女は様々な事件現場で協力しあう不思議な関係になっていった。そして組織との戦いでは、それこそ運命を共にし戦い抜いた。

 灰原哀はただの友人ではない。もちろん幼馴染でも、恋人でもない。だとすれば彼女は一体なんなんだ? 何度問うても答えは出なかった。

 

(――いや、いいんだ。オレ達の関係に、無理に名前なんてつけなくていい。オレはあいつを――そう、ただ守れればそれでいいんだ。あいつが無事なら、それでいい)

 

 そんなことをぐるぐると考えながら、コナンの意識は少しずつ睡魔に落ちていく。

 まどろみの中に彼女がいた。出会った頃の少女の姿で、皮肉めいた笑顔でこちらを見下していた。

 

(ホームズさんにも解けない謎があるのね)

(バーロ。んなもんどこにもねーよ……)

 

 意識が沈んでいく中、彼女の可愛くない笑みだけがいつまでもまどろみの中を漂っていた。

 

 

 

------

 

 

 

(オレは弱くなった。本当に弱くなった)

 

 コナンは何度も同じ結論に達した。

 

(今のオレには、灰原にお前を守るなんて約束はできねえ。そんな資格も覚悟もねえ)

 

 だがせめて、今騒ぎの連続殺人犯からは守ってみせる。本人と約束する必要はない。ただ自分にできることをやればいい。

 だからコナンは、気の進まない人物に会うことにした。その人物に自分から連絡を取ることなど、ずいぶん久しぶりのことだった。

 

「まさか君の方から呼びだしてもらえるとは思ってませんでしたよ」

 

 待ち合わせ場所として指定した校庭の片隅で、コナンとほぼ同じ目線の高さの少年が笑顔で声をかけてくる。友達に対する笑顔というよりは、なにやら妙に余裕めいた、こちらを値踏みしてくるかのような表情。

 

(……フン、舐められるわけにゃあいかねーな)

 

 コナンは挑発的な笑顔を作って対峙した。

 

「オレだってあんまり気は進まねーんだけどな。この際背に腹は代えられないってヤツだ」

「ひょっとして、例の連続殺人事件のことですか?」

「……さすがだな」

「ある意味わかりやすいですからね、君は」

「やれやれ、まあこっちこそ話が早くて助かるってなもんだぜ」

 

 コナンは肩をすくめた。わかっていたことではあるが、そうおいそれと隠し事ができるような甘い相手ではない。事実、光彦の知力は高校生としては(あるいは年齢など無関係に)群を抜いている。なにしろコンピュータスキルや機械工学などの分野では既にコナンですら太刀打ち出来ないのだ。その気があればどんな一流大学にだって飛び級で入れるだろう。

 

「オレはその事件の犯人を捕まえたい。理由は灰原を守るためだ。この目的ならオレ達の利害は一致できるはずだ」

「ええ異論ありません。でもそれって灰原さんから頼まれたことなんですか? それとも君の独断で?」

「……オレは昨日あいつと会った。あいつのあんな顔はこれ以上見たくねえ」

「つまり独断と」

 

 眉ひとつ動かさずうなずく光彦。ここで相手のペースに乗せられるわけにはいかない。コナンはいちいち反応せずに話を続けた。

 

「オレはこの事件の捜査情報を持っている」

「高木警部からですか? それとも蘭さん?」

情報源(ソース)は明かせねーな」

「なるほど、蘭さんですね」

「ニャロー……」

 

 コナンが睨みつけていることなど気づいていないかのように、光彦は笑顔で肩をすくめた。

 

「言ったでしょう、君はわかりやすいって。……ま、そんなことはどうでもいいんです。僕にどんな用で?」

「博士は今日本にいねえ。フサエさんと楽しく暮らしている博士を巻き込みたいとも思わねえ。だが今のオレには博士の作った道具が必要だ」

「……それが僕となんの関係が?」

「博士は誰よりもおめーを認めている。博士が発明品を託したのはオレや灰原にじゃねえ、おめーにだ」

「……博士が、そう言ってたんですか?」

 

 微かな動揺。見逃すコナンではなかった。

 

「別に博士から聞いたわけじゃねーよ。オレが探偵をやめると言った時、博士はずいぶん寂しそうにしてた。そしてオレのために作った発明品は悪用されないために全部捨てて資料も消すって言っていた。だけどあの人は根っからの発明家だ。そう簡単に自分の発明品を消し去れるわけがねえ。誰かに託したって考えた方が腑に落ちるだろ?」

「……それがなぜ僕だと?」

「簡単な話、他にいねえってことだ。まず確実に灰原じゃねえ。あいつなら“そんなものさっさと捨てちゃいなさい”って言う方だろうからな。となれば答えはひとつ」

 

 コナンは、チッチッチと人差し指を立てて笑った。

 

「ありえないことを取り除いて残ったものがなんであれ真実……初歩的なことだよ、ワトソン君」

 

 光彦は苦笑する。

 

「久しぶりに、昔の君が少し戻ってきましたね。……ま、僕はまだまだ今の君を認めるつもりはありませんが」

 

 光彦はきびすを返して歩き出す。

 

「ついて来てください。いくらかの助力はできると思いますよ」

 

 

 

------

 

 

 

「ずいぶん辺鄙なところだな」

 

 コナンはいぶかしむ。光彦に連れられてきたのは、港湾地区の広い国道から一本脇道に入った場所に構えられた、たくさんのコンテナが並び立つ倉庫区画だった。およそ高校生に縁があるとは思えない場所だ。ある程度距離があるというのに、国道を走る無数のトラックの走行音がやかましい。

 

「僕の家は少々手狭ですからね」

 

 光彦はズラリと並ぶ無骨なコンテナ倉庫の中からひとつを選び、鞄から取り出した鍵でそこの扉を開けた。コンテナの幅と高さは2.5メートルほどで、中の広さは四畳と少しといったところ。つまり国際的な20フィートコンテナの統一規格ということだ。

 その中は――スカスカだった。奥に置かれた簡素なアルミテーブルと椅子、テーブルの上にはパソコンが一台。以上。

 

「これだけか?」

「見ての通りです」

「おめー、オレをからかってんじゃねーだろうな……」

 

 光彦はクスリと笑って椅子の上に登って立った。手を天井に伸ばし、何やらごそごそといじっている。

 

「……?」

 

 光彦が天井の何かを「回した」時、ガチャンという音とともに天井の一部がスライドし、数十センチの空間が開いた。そして光彦はそこから梯子を下ろしていく。

 

「オイオイ、スパイの秘密基地みたいなことやってんじゃねーか」

「こういうの憧れるでしょう? 一度やってみたかったんですよ」

 

 梯子を床まで下ろした光彦がそれを登っていくと、コナンも後に続く。天井の上にあったのは、もうひとつのコンテナ空間だった。ただし、外の光が入ってくる1階と違ってほぼ真っ暗に近い。光彦がどこかのスイッチを入れると、天井に設置されていた電球の明かりが灯る。それでも暗いことは暗い――だが、山積みにされたいくつもの箱が照らされていた。

 

「さて、サルベージといきましょうか」

 

 ふたりは手分けして多数の収納ボックスや古い段ボール箱の中身を確認していく。その作業の途中、光彦が唐突に声を出す。

 

「君が探偵をやめてから、どれぐらい経ちました?」

 

 少しの沈黙。手を止めることなく適当な返事を返すコナン。

 

「さあな」

「僕はいまだに、君が探偵をやめた理由を知りません」

「話してねーからな」

 

 わけのわからない無数のガラクタを箱から取り出しつつ、無愛想に答える。

 

「でもきっかけはわかってるんですよ。蘭さんが刑事になったときでしょう?」

「……」

「ま、それ以前からかつてのような情熱は薄れていたんでしょうけどね。最後のひと押しになったのが蘭さんなんでしょう」

「……ずいぶんと名探偵気取りだな」

「いいえ、僕は三流もいいところですから」

「そうかあ? おめーは天才だろ」

()()が違うんですよ」

「……かもな」

「探偵としての本当の天才は、僕はひとりしか知りません。少なくとも僕の身近なところでは、ね」

「……」

「まあ見込み違いだったのかもしれませんが」

 

 その時、光彦は「あっ」と嬉しそうな声を上げた。そして足元の箱から更に小さな箱を取り出す。後ろを振り返り、コナンに目線を向ける光彦。その表情にはかつての少年時代のような無邪気な笑みが少しだけ混じっていた。

 

「やれやれ、懐かしさというのはどうにも楽しい気分になってしまうものですね」

 

 

 

------

 

 

 

「ありがとよ光彦、恩に着るぜ」

 

 コンテナ倉庫の外、陽光の下でコナンは指先であちこちを触って道具の感触を確かめる。光彦の言うとおり、懐かしい気持ちで思わず笑みがこぼれてしまう。

 腕時計型麻酔銃。リストバンド部分は大人サイズ用に新しくなっているが、古びた文字盤は当時のままだ。

 蝶ネクタイ型変声機。さすがに今これを身に着けるのは恥ずかしいのでポケットに押し込む。

 犯人追跡メガネ。……まったく、一体全体どうやってここまでの機能をこのメガネに詰め込んだんだ?もしかしてやっぱり博士は本当の天才なのかもしれない。

 

「お礼を言うのは灰原さんを守りきってからにしてください。後で言い訳は聞きたくありませんよ」

「ああ、任せとけ」

 

 コナンは胸を張った。こんなに堂々と頼もしいことを言ったのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。

 

(装備が戻ったら自信も戻ったのか? 我ながら現金すぎねーかそりゃ……)

 

「あ、ところでキック力増強シューズとターボエンジンスケボーはやっぱり使えねーのか?」

「今の君のサイズに合うものなんてさすがの博士も作ってませんよ。あまり贅沢言わないでください」

 

 腕組みジト目でコナンを睨む光彦。

 

「ははっ、悪りぃ悪りぃ」

 

 コナンは空が赤くなってきたことに気づいた。雲でかすんだ夕日に目をやり、表情を引き締める。

 もうなんの言い訳も許されない。ここが出発点だ。

 

――あなた、言ったじゃない

――逃げるなって。運命から逃げるなって

――守って、くれるんでしょ?

 

(ああ、おれが絶対に守ってみせる)

 

 深く、息をつく。止まっていた時間が再び動き出した。

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