「もう一杯」
雑居ビルの片隅、カウンター席だけのバー。
客の男がロックグラスを手荒に置いた。口ひげのバーテンダーが苦笑する。
「お客さん、ちょっと飲みすぎじゃないですか?」
暇な日に飲みっぷりのいい一見さんの来訪は確かにありがたいが、酔いつぶれられては困るというのが正直なところだ。
「気の進まない仕事ばかりなんだ、好きに飲ませてくれ」
「ええ、わかりますけどね。お体には気をつけてください」
「フン……」
男は両手をカウンターに置いたまま、しばらく無言でうつむいていた。着古したシャツ、細かな皺がいくつも刻まれた顔貌や、厚みのある手の皮。バーテンダーは目の前の一見客がどんな人物なのか想像を巡らせていた。
沈黙を破ったのは男の携帯のバイブ音だ。男は携帯を手に取り一瞥すると、わずかに顔をしかめてバーテンダーに視線を送った。
「あんた、大切な人はいるかい? そいつのためならなんでもできるってぐらいの」
「小っ恥ずかしいこと聞きますねえお客さん。いや実はね、先日結婚したばかりなんですよ」
照れくさそうに薬指の指輪を見せるバーテンダー。男はうつむいて「それはお幸せに」と笑みをこぼした。
「お客さんにはいるんですかい?」
「いるさ。そいつのためなら、俺は
男は氷を舐め砕いた。しかしそれきり、男はそれ以上を話そうとはしなかった。
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真夜中、阿笠邸。
心臓を一突きにでもされたかのような激しい呼気とともに哀はベッドから跳ね起きた。全身がぐっしょりと汗ばみ、荒い吐息の音だけが独りの寝室に響く。ベッドライトを灯し、周囲を懸命に見渡す。――ばかばかしい、何もあるわけがない。それがわかっていてもなお心音は乱れたままだ。
(……また、最悪の夢)
2日連続でのタチの悪い夢。前回のそれは、組織の死んだメンバーどもが自分を殺しに来るというものだった。それはそれで悪夢ではあったが、今見たものよりはだいぶましだ。結局のところ死者は死者。いくら不吉でもしょせんは杞憂と切り捨てることはできる。
(けどまさか……
己の肩を抱き、うずくまる。少しでも小さな姿勢になればいくらか恐れを和らげることができる。だけどそれがしょせん気休めでしかないこともまたわかっていた。細かな震えは止まってくれない。
ああ、ここに彼がいてくれたら、自分はぬけぬけと臆面もなく彼にすがっていただろうか。事情は何も知らずとも、彼なら自分を包みこんでくれただろうか。
(情けないわね。減らず口ばかり叩いておいて、結局は彼に……守られたいと、思ってしまってる)
自嘲の笑みを浮かべ、服地を掴む手にぐっと力を込める。
彼こそは自分が犯した過ちの象徴そのものだ。その彼に自分を守ってほしいなどと、これ以上の傲慢があるだろうか? だけど、それでも己の本心などとっくにわかっていることだった。
枕元の携帯に手を伸ばし、暗い画面に映る自分の顔をじっと見つめる。
(私……あなたの、声が聞きたい)
その気持ちを認めただけで、少しだけ気分が楽になった気がした。
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光彦との一件から一夜明け、三連休の最終日。
繁華街から少し離れた、雑多で古びた街中をコナンは歩いていた。安価なワンルームマンションや零細企業の事務所などが所狭しと立ち並んでおり、狭い道幅のわりには車の交通量もそこそこ多い。そんな一画に物々しい雰囲気が漂う狭小な雑居ビルがあった。第四の遺体が発見された場所だ。昨日コナンは第一から第三までの事件現場を渡り歩いて手がかりを探したが、めぼしい成果は何もなかった。現時点ではここが最後の目的地だ。しかしその入口は封鎖され、警官たちが周囲に目を光らせている。
「う~ん、やっぱ簡単には入れそうにねーな……」
子どもの姿の頃ならこういう現場にはたいてい高木刑事や千葉刑事がいて、なにか適当な理由をつけて現場に入り込むことも容易だった。工藤新一時代なら目暮警部とズブズブであり、なんなら向こうから請われて駆けつけることもよくあった。しかし今見当たる警官の中には顔見知りはいなさそうだし、あの有名な名探偵の毛利小五郎がそばにいるわけでもない。
どうしたものかと案じているうち、突然背後から肩を叩かれる。
「うおっ」
驚いて振り返ってみれば、あまりにも見知った顔。
「あなたこんなところで何してるの?」
腰に手を置き、呆れた顔を浮かべる哀。
「なんだ灰原じゃねーか。おめーこそ何してんだよ」
「ここに来れば誰かさんに会えるんじゃないかと思って」
「な、なんでだよ」
「あら、私のために例の事件の捜査をしてくれてると思ってたんだけど、うぬぼれだった? 探偵さん」
"私のために"を妙に強調していたずらっぽく微笑む哀。コナンは思わずドキリとしてしまう。
「バーロ、別におめーのためってわけじゃ……。第一、オレはもう探偵はやめたっつってるだろ」
「それじゃあ元探偵さんって呼ぼうかしら」
「あのなー」
「そんなことより、こんな所でウロウロしていてもらちが明かないでしょう? ちょっと私に付き合ってくれない?」
「? どこに?」
「来てくれたらわかるわ」
コナンに背を向け歩き出す哀。
「……あのなあ灰原、軽率に出歩くもんじゃねーぞ。組織絡みかどうかは置いといて、お前みたいな容姿の女性が狙われてるのは確かなんだぜ」
「ええ、もちろん。でも誰かさんは気晴らしが必要って言ってなかったかしら?」
「う」
哀が振り返り、コナンに向けて微笑む。
「それに、あなたのそばにいる方が1人で引きこもっているより安全かもしれないじゃない」
「え……」
心なしか、彼女の頬がほんのりと赤らんでいるようにも見えて。
「守って、くれるんでしょ?」
「あ、ああ……」
コナンはぽかんと口を開けて立ち尽くした。別に哀に見惚れたわけではない、はずだ。
ちなみにこのやり取りが「約束」に他ならないと、コナンが気づいたのはしばらく後の話だ。
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「で、こっちとこっち、どっちが似合うと思う?」
両手にそれぞれニット服を手に取って見せてくる哀。さっきから似たような質問を何度もされて、コナンは完全に辟易していた。
「おめー、呑気すぎねーかオイ……」
「別にいいじゃない。そもそもこれだけ人目の多いショッピングモール、これ以上に安全な場所はそうそうないでしょ?」
ふたりが訪れたのは都心部でも指折りの大型商業ビルだ。連休中の今日はことさら人口密度が高い。哀の言う通り、こんな賑やかな場所で物騒な事件が起きるとはかつての米花町でもない限り想像できない。
「まあそれは確かに……ってか右の服は露出度高すぎだろオイ。こんなもん高校生が着る服じゃねっーて!」
「あら、博士みたいなこと言うのね」
「あのなー……」
「まあいいわ。それじゃあこっちの方を試着してくるから」
試着室に入っていく哀をコナンはぼうっと見送った。どうも今日やりたかったことからかけ離れてしまった気がする。
「彼氏さん彼氏さん、彼女さん超~美人っすね!」
ギャルっぽい店員女性がハイテンションで話しかけてくる。
「べ、別に彼氏ってわけじゃ……」
「またまた~そんなわけないっしょ! 超ラブラブじゃないっすか」
(どこらへんがだっつーの……)
そうこうしてるうちに試着室のカーテンが開く。
「ど、どうかしら?」
本人は少し照れているようだったが、キャメル色の上品でスリムなニットが彼女のスタイルと美肌を一層引き立たせていて、どう見ても相性抜群だった。コナンは口をぽかんと開けて「あ、ああ……」とつぶやくばかり。
「超々お似合いっす! パないっす! そうでしょ彼氏さん!」
「え、お、オレ?」
「他に誰がいるんすか」
「ま、まーまー……似合ってるんじゃねーかな多分」
哀に目を合わそうともしないコナン。
「ハァ~、最近のオトコどもはこれだから。お姉さん、ちゃんと褒めろって怒ってやった方がいいっすよ」
「ふふ、そうかもね」
ショッピング袋を片手に店を出たふたりは、とりあえず当てもなくモールをぶらついていた。
「ん……?」
ふとコナンが後ろを振り返る。
「どうかした?」
「いや、今一瞬誰かに見られていたような……」
「えっ!?」
慌てて後ろを振り返る哀。ふたりは慎重に辺りを見渡すが、普通の家族連れなどはいくらでもいる一方で怪しい人影はどこにも見当たらない。
「いや、やっぱ気のせいだな。一応ずっと警戒はしてるから過敏になっちまってるんだろーな」
「ええ、そうね。私も念のため気をつけてはいるけど、やっぱり江戸川君に見張ってもらうと頼もしいわね」
「お、おう……」
いつからだろう、哀がコナンのことを「江戸川君」と、ふたりきりの時でさえ呼ぶようになったのは。
かつては人目のない場所では必ず「工藤君」だった。工藤新一が死んだことになってからも、しばらくはそうだったはずだ。いつの間にか、コナンを工藤と呼ぶのはもはやとある西の色黒男だけになっていた。――もしかしたらおかしいのはそちらの方なのかもしれないが。
(でも一昨日……バイクに追われていた時の灰原は「工藤君」って言ってたような気がする。とっさのことで昔の呼び名が出ちまったってことか? でもそうだとしたら灰原にとって、オレは今でも工藤新一なんだろうか? それとも江戸川コナン?)
考えて答えの出そうな問いではなかった。
「そういえば」
哀がふとつぶやく。
「今ってゴメラの新作やってるんじゃない? 初代のリメイクだったっけ?」
「そういやそうだ。まさか観たいのか?」
「買い物は済んだし、ちょうどいいんじゃないかしら。それにほら、私達はゴメラに思い出もあることだし」
「思い出っつったって殺人事件だぞ」
「あなたとの思い出は殺人事件ばかりじゃない」
ぐうの音も出ないコナンだった。
新作ゴメラの映像や演出はさすが現代的にアップデートされていた。しかし主人公の苦悩はオリジナルと変わることがない。過去のトラウマと探究心に取り憑かれ、最悪の事態を招いてしまった愚かな科学者。
ふと隣の横顔を見る。その瞳は食い入るようにスクリーンを見つめていた。
(彼女さん超美人っすね、か……)
客観的に見て、哀が美人でないとはどんなに好みのうるさい男でも言えそうにない。スクリーンの光が照らす整った横顔をぼうっと眺める。長く上を向いたまつ毛が細かに揺れている。
(やっぱオレにとっての灰原って、他の誰とも違うっつーか……一番身近な存在? いや、この言葉もどこかしっくりこねえ。……なんなんだろうな、この気持ちは)
(オレはこいつを守りたくて、一緒にいると誰よりも居心地が良くて、これじゃまるで――)
(って、何考えてんだっつーの!)
首をブンブンと振る元ホームズ。
若い男女がふたり並んで映画を観ているのだから、きっとまた周りからはカップルに見られていることだろう。そんなふうに勘違いされて、彼女は迷惑に感じないのだろうか。もう10年もそばにいるというのに、彼女の内心は謎だらけだ。
「やっぱり、人間の愚かさには限りがないのね」
哀が前を向いたまま口を開き、コナンは一瞬驚く。顔を見ていたことに気づかれた? いや、そういうわけではなさそうだ。
「何も望まなければ、誰も傷つかなかったのに。ただ平穏に生きていれば、それで良かったのに」
彼女が何を言いたいのか、さっぱりわからない。それでも一言口を挟みたい。コナンは無性にそう思った。
「……でもよ、誰だって何かを望んでもいいんじゃねえのか?」
哀の瞳がコナンを捉える。無表情のまま、だけど何かを訴えるかのように細かに震える瞳。おそらく目が合っていたのはほんの一瞬だけだったろうに、コナンにはずいぶん長い時間に感じられた。
それきり、劇場を出るまで彼らは無言のままだった。
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「今日は付き合ってくれてありがとう。映画も悪くなかったし」
日が傾き西の空がオレンジ色に変わり始めた頃、ふたりは最寄り駅を出て自宅への帰路についていた。歩道をごく近い距離で並んで歩く若い男女。これがカップルでなくてなんだろう。ただ、”彼氏”の方はといえばポケットに手を突っ込んだまま肩を落としていた。
「でも全然捜査ができなかったっつーのがな……」
「焦らなくてもいいじゃない。今ごろ蘭さんが手がかりを見つけているかもしれないし」
「そりゃそうだけどよ」
「私は本当に感謝してるのよ。おかげでずいぶん気分が軽くなったから」
「え?」
隣を歩く哀の横顔はうつむき加減で、疲れが顔に出ているようでもあり、同時にかすかに微笑んでいるようでもあった。
「また夢を見たの。前よりももっとろくでもない夢よ。私、やっぱり今でも過去を引きずってるんでしょうね」
「……何度も言うけどよ、灰原。おめーはもう償い終わったんだぜ? FBIだってそう認めてくれたじゃねーか」
「いいえ、FBIがなんて言おうが関係ないわ。そんなことで私は潔白にはならない」
「……それって、ふたつめの罪とかいうやつのことか?」
「……そうね。もういい加減あなたには話しておかないといけない」
夕陽に照らされ赤く染まった大きな瞳が、横目でコナンの顔を映す。
「組織はかつて――」
次の瞬間、コナンの背筋に緊張が走る。ゴクリと唾が喉を落ちる。今度は勘違いではない。
「おい、灰原」
コナンは前を向いたまま、極力抑えた声で、しかし力を込めてささやく。
「え?」
哀にもコナンの様子の急変はすぐに伝わった。
「何者かはわからねーが、誰かに尾行されている」
「そんな……」
ふたりは既に大通りを抜け、住宅街の生活道路に入っていた。今はもう自動車の喧騒も聞こえない。だからコナンには確信があった。尾行が始まったのは今ではない――
「いいか、今のままペースを変えずに歩くんだ。そしてあの角を右に曲がったらすぐに走れ。タクシーを捕まえて遠くに逃げろ。オレが時間を稼ぐ」
「ちょっと待って、まさかあなた……」
「なあに、オレは大丈夫だ。今なら博士の道具だってある」
「何言ってるの、あなたを置いていけるわけないじゃない」
大きな声を出さず、なるべく平常通りに振る舞おうとする哀だったが、その表情からは血の気が引いている。
「いいから言うとおりにしろ。狙われているのはおめーだ。心配すんな、深追いするつもりはねえ。クソヤローの面さえ拝めれば後は逃げたっていいんだからな」
「……本当に……無茶はしないでよ……」
「ああ」
コナンがうなずく。そのままふたりは目的の角を曲がり、それと同時にコナンが哀の背中を押した。
「行け!!!」
哀が全力で駆け出すのを確認し、コナンは後ろに振り返る。
おそらく尾行者も異変に気づいたはずだ。
(この角を曲がってきた瞬間、思い切り体当たりしてやる!)
予想通り、誰かが全速で走ってくる気配。これが尾行者だ。
組織の生き残り?
単なる異常な犯罪者?
どちらでもいい。今ここで決着をつけてやる。
コナンは固唾を呑んで身構え、次の瞬間前方に飛び出した。角から現れた人影と己の体が交錯する。
(!!?)
次の瞬間、コナンは宙を舞っていた。一瞬、視界は薄暗い空。次いで背中を衝撃が突き抜けた。
「ぐはっ……!」
受け身を取る間もなくアスファルトに落下し、悶絶する。
綺麗に背中から落ちたことはまだ幸いだった。頭なら命が危なかっただろう。
(ちくしょう、一体何が……)
痛みと呼吸の苦しさで意識が混乱するも、必死で目をこじ開け敵の姿を目撃しようとする。おぼろげな視界に映ったのは――
「ご、ごめん! 大丈夫、コナン君!?」
「え……?」
その顔はあまりに馴染み深いものだった。卵型の輪郭、くりくりした大きな瞳に、肩のラインで切り揃えられたつややかな黒髪、そしてヘアバンド。
「あ、歩美ちゃん!?」
「ごめんね、つい思わず投げ飛ばしちゃって……。だってコナン君がいきなり飛び出してくるんだもん」
「ハハハ……」
コナンは脱力してがっくりと肩を落とした。
-----
「それで、いつから私達を
阿笠邸のリビングで、哀とコナンはソファーに並んで座り歩美はその向かい側の椅子に座らされていた。
「ええっとね、事件現場の前で哀ちゃんがコナン君に声をかけたところあたり……かな」
「マジかよ……」
それは完全に想定外の答えだった。コナンは少なくともあの現場で哀に会ってからはずっと周囲を警戒していたつもりだ。とはいえ今日ふたりで出歩いていたのはほとんど人通りの多い賑やかな場所であり、コナンが歩美の気配を感じ取れたのは家に近づいて周囲に人がいなくなってからのことだ。彼女はずっと人混みの中に気配を紛らわせていたのだろう。それ自体は尾行の王道だが、それにしたって自分の探偵としての嗅覚がそれほどまでに鈍っていたという事実にコナンはショックを隠せない。
「最悪だ……。おっちゃん以下か、オレ」
「気にしないでコナン君! あたし気配を消すのは得意なんだもん♪」
歩美の口調は無邪気そのもので、コナンの本気の落ち込みぶりが伝わっているようには見えない。
「歩美、悪いけど慰めになってないと思うわそれ……。まあいいわ、そもそもどうして尾行なんかを?」
「んーとね、これ言っちゃっていいのかな。まあいっか。光彦くんから哀ちゃんの様子を見といてほしいって頼まれて」
「光彦から?」
コナンの眉が釣り上がる。
「なるほど、やっぱりそういうことね。円谷くんも人が悪いわ」
なにやら得心しているかのような哀だが、コナンにはさっぱり納得がいかない。
「お、おい、やっぱりってどういうことだ?」
「だって円谷くんに教えてもらったんだもの。あなたが例の事件の捜査を始めたってこと」
「あ、あんにゃろー……」
これじゃあまるで全部光彦の手のひらの上だ。
「光彦くんも言ってたけど、例の犯人が本当に哀ちゃんを狙ってくるのかは全然わからないって。でもあたしたち少年探偵団だもん、哀ちゃんを守りたいって思うのは当たり前でしょ? でもだからってべったりくっついてたりしたら哀ちゃんも迷惑に思うだろうし……」
「ふふっ、ずいぶん気を使わせちゃったみたいね」
「ん~ん、気にしないで。それから……ちょっと哀ちゃん、2人きりで話せる?」
「え? それは別にいいけど……」
ちらりとコナンの方を見やる哀。
「歩美ちゃん、オレは?」
自身を指差すコナンに向けて、歩美は手のひらを突きつけた。
「コナン君は家に帰ってて! ここからはガールズトークだから!」
「ええ~……」
「もう、今日一日哀ちゃんを独占してたんだからいいでしょ!」
駄々をこねる子どものように強情な歩美の様子を見て、哀は苦笑してコナンに首を振る。
「仕方ないわね、歩美の言うとおりよ。江戸川君、今日はありがとう。また明日学校でね」
「へーへー。おめーらもあんまり遅くなるなよ」
投げやりに手を振って立ち去っていくコナン。哀は小さく手を振ってその背中を見送り、再び歩美に目を向けた。
「それで、話って何かしら?」
歩美は頬を膨らませ眉を吊り上げている。
「哀ちゃんさあ、コナン君と進展する気ある?」
「え?」
「あんなのデートにしか見えないのに2人とも全然アクション起こそうとしないし……いくらなんでも手ぐらい繋いだっていいんじゃない!? あたし、まどろっこしすぎて何度も飛び出そうと思ったもん!」
「ちょ、ちょっと待って。別に江戸川君とはそういう仲じゃ」
「そんなの信じる人いないよ」
バッサリと切り捨てる歩美。
「コナン君もコナン君だよ、なんかこう……なんなの!? 中学生!?」
「彼は……そういう人よ」
もはや哀にはそれぐらいしか言い返せない。
「あ、でも映画の途中で一回だけコナン君が肩に手を回そうとしてたかな? 結局すぐに引っ込めてたけど」
「え? まさか」
「ほんとだよ、あたし見たもん。暗かったけどあんなの見間違えないよ」
(彼が私の肩に手を回そうとしていた……?)
にわかには信じられない情報だった。まさか本当に、気の迷いほどのレベルではあっても、あれが「デート」だという認識がコナンにあったのだろうか。自分のことを、そういう対象に見たのだろうか。
「コナン君がそういう人なら、哀ちゃんの方ももうちょっと押していった方がいいんじゃない?」
「あ、あのね、だから私は別に彼のことを……」
その時哀は、歩美の表情がどこか不安げで、そして子どもの頃のような幼い雰囲気が戻っていることに気づいた。
ずっと昔、歩美がこんな表情を見せたことがあった。
「好きなんでしょ? コナン君のこと……」
――ああ、あの時は「好きなの?」だったわ。だけど今は、疑問ではなく確認なのね。
「……だったらどうする?」
「どうもしないよ。知ってるもん……」
歩美は所在なく視線をさまよわせる。
「でもいつまでもそんな曖昧な関係だったら……困るよ、あたしがコナン君のこと、諦めきれなくなっちゃう」
「歩美……」
力なくうつむく歩美に対し、哀は何も言うことができなかった。彼のことなんて別にそういう対象として見てないと言い張るのは簡単だ。だけどそれはきっと、単なるごまかしでしかなくて。
言葉にならない代わりに、哀はただ歩美の肩に手を触れようとした。
「な~んちゃって! あたしはコナン君のことなんてもう引きずってないもんねー!」
突然満面の笑みで顔を上げる歩美に、哀はあっけにとられる。
「ええ……?」
「あたしはいつまでもダラダラ初恋を引きずったりしないもん。哀ちゃんも、コナン君があんまり頼りなかったら他の人探した方がいいと思うよー!」
「そ、そう……」
先程までとはうってかわって、歩美はとてもハイテンションだった。だけどどこかほんの少しだけ、無理に明るく振る舞っているようにも見えて。
「あ、あたしそろそろ帰らないと。哀ちゃん今日は色々ごめんね! それと、事件が解決するまでは絶対危ないところには行かないって約束して!」
「ええ、約束するわ」
「うん! 絶対に絶対だよー!」
哀は玄関先まで歩美を見送り、彼女が見えなくなるまで笑顔で手を振った。
(本当……あの子には元気をもらえるわね)
灰原哀として仮りそめの人生が始まって、最初にできた一番の親友。同級生であり、探偵団の仲間でもあると同時に歳の離れた妹のような存在でもある。ちょっと不思議な関係ではあったが、哀にとって歩美はコナンや阿笠にも負けないぐらいかけがえのない存在だ。今までも、きっとこれからも。
リビングに戻った哀は、お湯を沸かしお気に入りの紅茶を入れてソファーに腰掛けた。
砂糖は控えめでほろ苦い、少し気取ったような味。紅茶の温かさが体に染み渡り、ふうっ、と大きく一息をつく。
(私、この先彼とどうなりたいんでしょうね)
歩美の言うとおりコナンと「そういう関係」になれたなら、それは幸せなのだろうか。
彼はそれを望んでくれるのだろうか。
(ああ、また都合のいいことを……)
哀はため息とともに天を仰ぐ。自分にそんなことを望む資格がないことは、自分が一番よくわかっている。
(私は彼から蘭さんとの未来を奪った。工藤新一という人生を奪った。その私が彼と幸せになりたいと?)
(そんなことを聞いたら、きっとお姉ちゃんだって私を軽蔑するでしょうね)
(私は、私の分相応をはるかに超えて幸せに生きているわ。博士がいて、あの子達がいて、そして……)
(これ以上を望むなんて、強欲もいいところよ)
紅茶を飲み干したころ、ふと大窓から外を見ると、雨粒がガラスを叩き始めていた。雨脚は見る見る間に強くなり、すっかり日が落ちていたこともあって外はもう真っ暗だ。
(歩美ってば、ちゃんと家まで帰れたのかしら)
寄り道せずに帰ったならそろそろ着いているはずだ。ただ、少し心配になる雨量ではある。
ポーン、と携帯の通知音が鳴った。
『雨あぶなかった~! ギリギリセーフ!』
歩美のメッセージとスタンプを見て、哀はほっと胸をなで下ろした。
(そうよ、大丈夫。何も心配することなんかないわ)
(例の事件だって、きっと警察が解決してくれる)
(そうなったら、またいつかみんなで旅行に行きたいわね)
(そうだわ、来月には博士が戻ってくるんだもの。昔みたいにみんな一緒に……)
哀は雨脚の音に耳を澄ませながら、いつしか物思いにふけっていた。こんな夜の雨の日には、時々思い出すことがある。
初めてこの家にやって来た時のこと。
つまり――"灰原哀"が生まれた日のことを。
「あら?」
何気なく大窓に近づいた哀がふと気づくと、中庭にふらふらと迷い込んでくる何かが見えた。
リビングの明かりに照らされ、それが子猫だとわかった。ただどこか様子がおかしい。後ろ脚を引きずっているような不自然な歩き方で、ひどく弱っているようだった。
(もしかして、脚を怪我しているのかしら……)
暗いしずぶ濡れでよくわからないが、膝のあたりから血が流れているようにも見える。
子猫は庭の真ん中で腰を下ろし、座り込んだ。こんな酷い天気の中、雨ざらしの場所で休むなんて普通の行動ではない。
哀の心拍数が上がる。
その時頭をよぎったのは、あの雨の日のことだった。
まだ哀が元の姿だったころ、彼女は組織に所属しシェリーと呼ばれていた。姉の死をきっかけに組織に逆らって投獄され、死ぬつもりで薬を飲み、奇跡的にも縮んだ体で脱獄して闇雲に工藤新一の家を目指し走った。目的地を目の前にしてとうとう力尽き、工藤邸の門の前で倒れ込んだ。
(そう、その時私を見つけてくれたのが、博士だった)
見ず知らずの他人を助け、組織からの逃亡者という荒唐無稽な話を信じ、温かいスープを飲ませてくれた。全身に染み込んだあのスープのぬくもりは、一度だって忘れたことはない。
(あの時博士がいなければ、私はきっと野垂れ死んでいた)
命を救われたシェリー、すなわち宮野志保は、阿笠とともに新しい名前を考え、その名前で小学校に入学して彼らに出会った。それが仮りそめの、そしてのちの新しい人生である灰原哀の始まりだった。
(あの猫はまるで――)
まるで、あの日あの雨の中うずくまっていた自分のようだ。全てに絶望して死を受け入れようとしていたあの時の。
哀は大窓を開け、中庭に飛び出した。躊躇はあったが、見て見ぬ振りをすることなどできなかった。
そう、何かが不自然だということはわかっていた。賢明な判断ではないということは理解していた。
だけど目の前のあの猫を見捨てることなど、彼女には決してできなかった。
ずぶ濡れの子猫を胸に引き寄せる。
思ったとおり、その仔は怪我をしていた。膝に直線的な傷。鉄の匂いが雨に混じる。
(ああ、なんてこと――)
自分は判断を誤った。
そう気づいた時には全てが遅かった。
背後から何者かが哀の口を塞いだ。
抵抗する間もなく、
哀の意識は
薄れて
いっ
た
-----
「う…………」
灰色の床、水滴――それが最初に目に映った光景だった。
しばらく呆然としていた哀は、やがてハッと意識を取り戻し辺りを見渡す。目の前には安っぽいテーブル。おそらくは古い事務所ビルの空き室らしきコンクリートむき出しのその部屋には、他のインテリアなどは一切なかった。窓にはブラインドが降ろされていて、夜のかすかな闇光だけがその隙間から差し込んでいる。
そして最も重要なことに、哀はパイプ椅子にもたれて後ろ手をおそらくはビニールテープか何かで縛られていた。脚には力が入らず、しばらく立ち上がれそうにない。服にはまだいくらか水気が残っている。つまり気を失ってからそれほど長い時間は経っていないはずだ。
「目が覚めたのかい」
静かな低い声。パチリという音とともに天井の電球が灯った。部屋の広さの割に照明はひとつしかなく、そのせいで薄暗いケチな光。それでも暗さに慣れていた哀の目には一瞬眩しい。
「乱暴な手段で連れてきてしまってすまないね。ただ少し君と話をしたいだけなんだよ」
その男はゆっくりと移動し、テーブル越しに哀の正面に置かれていた椅子に緩慢に腰を下ろした。
男はただの冴えない中年にしか見えなかった。しわだらけの柄シャツに使い古しの厚手のジャケット。年の頃は40代か50代といったところだろうか。くたびれた顔で、背筋が丸まっていて覇気がない。
この男が組織の復讐者? とてもそうは見えなかった。
それに哀には、組織の人間の「臭い」を感じ取る直感がある。この平和な10年で勘が鈍ったとしても当然かもしれないが、それを差し引いてもこの男からは組織の気配はまるで感じ取れない。「こいつは違う」それが哀の直感が下した判断だ。
だがそうであっても、自分の命は今この男に握られている。それだけは推測ではなく、確かな事実だった。
「……女性をエスコートするには不適切な誘い方なんじゃないかしら」
哀は辺りを見回し、せめて精一杯の余裕を装って皮肉を叩く。
「小洒落たレストランは苦手でね。それにこちらの方がゆっくりと話せる」
「……嫌だと言ったら?」
男は腕を組み、少し視線をさまよわせて首をひねった。
「3人目はそういう態度だった。絶対に一言も話したくないとね。結局、少しばかり乱暴なことをせざるを得なかった」
ただの雑談のような声色。
「私だってそんなことがやりたいわけじゃないんだ。ただ少し協力してほしいだけなんだよ」
腕を組んだままごく静かにとんでもないことを言い出す男に対して、哀の腹奥から怒りが込み上がる。
(ふざけたことを……!!)
この手に銃があるなら、きっと引き金を引いている。だが現実には後ろ手で縛られた腕を動かすことさえできない。もちろん助けを呼ぶ手段もなかった。当然のことながら、ポケットに携帯は入っていないようだった。
「私は、恋人を探しているんだ」
「恋人……?」
まさかこれが婚活だとでも言うつもりなのだろうか? この男が何を考えているのか、哀にはさっぱり理解できない。
「こんな私にも恋人がいたんだ。20年以上も前の話だよ」
男がうつむいて頭を抱える。
「ある日、私達は酷い喧嘩をした。車の多い大通りの前だというのに、人目もはばからずに互いを罵りあった」
困惑で歪む哀の眉。
「彼女は、私の腕を振り払うように車道に飛び出した。酒も入っていて冷静な判断ができなかったんだろう。そして……」
「ドン!」
男は自分の手のひらを拳で叩く。
「彼女は帰らぬ人となった。それで終わりだ。つまらない話だよ」
「……」
哀にとって、いやおそらく誰にとっても、全く意味不明な語り。この昔話と、今ここでこの男がやっていることとになんの関係があるというのか。
哀の混乱した顔に気づいたのか、男はひとつ咳を払ってから話を続けた。
「私は絶望に打ちひしがれたが、ある本が救いになった。死んだ人間は生まれ変わるんだ。彼女もきっとどこかで。私はそう確信した」
「なっ……」
「いずれ彼女の生まれ変わりはまた大人になる。それを信じることだけが私の人生を支えた」
「まさか、そんなことのために……」
「そうだ。私はついに彼女を探し始めた。誰よりも彼女を愛していた私になら、きっと探し出せると思った。かつての彼女とよく似た女性に的を絞ってね」
男の言葉には熱がこもっていた。瞳は力強く哀を見据えている。表面的にはとてもたちの悪い冗談を言っているようには見えない。逆に言えば、こんなふざけた話を本気で信じている人間ほど恐ろしいものはない。
(狂っている……)
どうやら組織の復讐者という想定は外れていたようだが、まったくもって幸いなどではない。まさかこんな狂人の標的になるなんて!
「私はね、本当は誰も巻き込みたくはないんだ。今までの女性たちだって殺したくなどなかった。君さえ快く協力してるなら、決して乱暴なことはしないと約束しよう」
「ふざけたことを……っ!!」
表情が怒りに歪む。一体誰がそんなでまかせを信じられるだろうか。目の前にいるのは、狂った理由で4人もの命を奪った殺人鬼だ。
「そう慌てないでくれ。いくつか質問に答えてくれるだけでいいんだ」
男は床に置いていたらしき革バッグをテーブルに乗せ、中から赤茶色のカードケース――フサエブランドの――を手に取った。どうやらいくつか持ち物を盗まれていたらしい。学生証も男の手の内というわけだ。
「まず、君の名前は灰原哀、だね?」
「ええ……そうよ」
今はこの茶番に付き合うしかない。それが哀の結論だった。さっきから手の拘束をなんとか外そうと試行錯誤しているが、すぐにはできそうにない。なにか行動を起こすためにも時間稼ぎは必要だ。
「君が通っているのは帝丹高校なのかい?」
「
「質問しているのは私だ」端的な切り捨て。
「ええ、帝丹高校の2年生よ」
哀は極力目を合わせないようにしつつ答えた。
「君にきょうだいはいるのかい?」
「……きょうだいは……」
いる。宮野志保には、確かにいる……いた。だが、灰原哀にはもういない。であればそちらに合わせて答えるべきではあるだろう。そもそもこんなことを聞かれる意味もさっぱりわからないのだが。
「いないわ」
「それじゃあ恋人はいるのかい?」
「そんな人いない」
今度は即答だった。
「……なるほど、君は彼女によく似ている」
「あらそう」
哀は適当に答えながら窓を観察していた。ブラインドに阻まれて外の様子は見えないが、漏れてくる明かりの色味を見る限りまったくの僻地ということはなさそうだ。ほぼ間違いなく、周囲には他の建物もある。今は夜中かもしれないが、周囲に人っ子一人いないということはないはずだ。なんとかしてこの部屋を脱出できれば、逃げる手段はきっとある。
とはいえ、まともな出口は部屋の隅にある扉一つしかない。男の目を盗んでそこから出ることは相当に難しいだろう。
窓からなら? 残念なことに、ここが何階なのかはわからない――いや、外から漏れる明かりの方向を見る限り、そしてこの部屋のみすぼらしい作りからして、少なくともそこまで高いビルではないはずだ。
できる。脱出は可能だ。
哀はそう結論した。
まだ腕は開放されていないが、この拘束を抜けるのは時間はかかるとしても不可能ではなさそうだ。腕さえ動くようになれば、自分には切り札がある。
哀は左手の腕時計がまだそこにあることを触覚で確認し、かすかな笑みを浮かべた。
「それじゃあもうひとつ――」
哀が思考に集中していたその時、男が口を開いた。
「――君は、
「!!!」
呼吸が止まった。眼が見開かれ、顔が引きつり、唇が震えた。心臓までもが、止まってしまったような気がした。
まさか。
ああ、そんなまさか!
「……どうやら、答えを聞くまでもないみたいだね」
「っ……!」
男がゆっくりと立ち上がり、哀に近づいて見下ろす。
「今まで誰も、そんな反応はしなかった。ただ意味がわからないと顔をしかめるだけだった。だが君は違った」
震えとともに男を見上げる。言葉が出てこない。呼吸が乱れ、全身から冷や汗がしたたり落ちる。
「その
完全な油断だった。心の準備さえ出来ていれば、こんな安易な罠にかかるはずもなかった。澄まし顔でとぼけることは容易だったはずだ。
この男は組織とはなんの関係もないただの狂人。完全にそう思い込んでいた――思い込まされていた。
「君が、シェリーなんだね」
男の目から光が消えていた。獲物を見つけたというよりはまるで、愚かな子羊をあわれんでいるかのように。
「さっき話していたことは……」
「ああ、でたらめだよ。君の不意を突く必要があったんだ。探していたのは最初から、シェリーという名の女だった」
男が膝を曲げ、哀と同じ高さにまで目線を下げる。
「君を、探していたんだ」
「……!!!」
しばしの時間を、沈黙が支配した。
哀にはもはや、ここから脱出しようという気力は残っていなかった。ただただうなだれていた。
男は椅子に戻り、腕を組んだまましばらくの間ただじっと哀を観察していた。
「事情は知らないが」
ようやく男が口を開いた。
「君にとってはよほどこたえることらしいね」
「事情を……知らない……?」
哀が顔を上げる。
「あなたは、組織の生き残りではないと……?」
「組織、ね……。そんなことを言われても答えようがないが」
男が頭をかきむしる。
「
「そう……そういうことね……」
組織の人間の「臭い」をなぜ感じ取れなかったのか、哀はようやく理解した。つまるところこの男は組織の生き残りではなく、単なる使い走りに過ぎなかったというわけだ。
――だけどそういうことなら、この場から脱出してこの男の口を塞げばあるいは――
「……などとは考えない方がいい」
「!」
哀の思考が遮られる。
「先程からずっと、この部屋での会話は依頼人に伝わっているんだ。これまでは無駄な時間ばかりを使わせてしまったが……」
男がジャケットをつまみ、裏地を見せる。裏ポケットには、盗聴器らしき四角い機械。
「今回は
哀は、理解した。
もはや逃げ場などないということを。
だからもう、力なくうなだれる以外には何もできないということを。
(ああ、せめてみんなにはお別れを言いたかった。でも――)
博士のこと。歩美や元太や光彦のこと。そしてコナンのこと。こんな自分につかの間の、それでも充分に長い幸せを与えてくれたかけがえのない人たち。彼らのことが次々に脳裏に浮かぶ。
自分が死ぬことに未練はない。もちろん、恐怖がないわけでもない。死の恐怖は万人に共通だ。かつて何度も自ら死のうとした哀は、そのことを身をもって知っている。
でも、彼らを巻き込まずに済むなら、それで良かった。それだけで充分だった。
(そうだよね、お姉ちゃん。これでいいんだよね)
来るべき時が来た。それだけのことだ。だから受け入れよう。
哀は微笑んだ。そして顔を上げて天井を見つめた。
(さよなら、工藤君。最後のデート、楽しかったわ。……本当に、楽しかった)
目を閉じた。一粒の水滴が、頬をつたってぽとりと落ちた。
その時。
「灰原ぁッ!!! ここにいるのかッ!!!!」
腹の底からの大声。扉を叩くドンドンという音。
「なんだっ!?」
男が驚愕の面持ちで扉を向く。
(ああ、そんな!!!)
この声を聞き間違えるはずもない。どうしようもなく胸が高鳴る。
彼だ。
「灰原、返事しろっ!!! おい、いるんだろ!!! 灰原ぁ!!!!!」
「くどっ……!」
どうして彼がここに来たのだろう。どうしてこの場所がわかったのだろう。
哀には何もわからなかった。頭がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだった。
「ちっ……面倒なことになった」
男はバッグから何かを取り出した。黒ずんだ鈍い光沢。L字型の金属の塊。
(拳銃……!)
小型のものとはいえ、人ひとりを殺す程度の威力は間違いなくあるだろう。
「駄目よ! そこから離れて!!」
力の限り叫ぶ。
(お願い、届いて!)
男は哀の声にはなんの反応もせず、ゆっくりと扉の前に歩みを進めていく。扉からはまだドンドンという音が響いている。
「逃げて!! お願い!!」
男は扉の前に立ち、右手で銃を構えた。ほぼ同時に音が鳴り止み、哀を呼ぶ声も止んだ。
あの扉はオンボロではあっても金属製だ。あの手の小型拳銃で扉越しの相手を精確に狙い撃つことはおそらく難しい。確実に仕留めたければ、扉を開く必要があった。
右手で眼前に銃を構えたまま、男は左手でゆっくりと鍵を回し、慎重に内開きの扉を開いていく。そして半歩ずつ歩みを進め、暗闇に包まれた廊下へとじりじり前進していく。
哀は生きた心地がしなかった。喉はカラカラに乾き、心臓は壊れたように激しく脈打っている。
男が扉を開いてからの数秒。哀にとってその時間は永遠にも等しく感じられた。
――そして、その均衡は突然破られた。
バコンッ!!!
乾いた音。銃声ではない。男はのけぞっていた。いや、吹き飛ばされていた。男の顔面に何かが直撃していた。
(バケツ……?)
宙を舞うはオンボロのアルミバケツ。
男は背中から地面に激突し、その後ろでバケツも落下して転がった。人影が飛び出し、男の上にのしかかる。なんなら馬乗りになると同時に顔面へのパンチを手土産として。
「ぐふっ!」
「てめえ灰原をどうしたっ!! おいっ、灰原はどこだっっ!!!!」
人影は――コナンは、鬼の形相で男の襟首を掴み、叫んだ。
「工藤君っっっ!!!」
考えるより先に叫びが出た。涙が溢れた。
わからないことはわからないまま。だがもはやそんなことはどうでもよかった。彼が、助けに来てくれたのだ。
「灰原……!」
コナンが哀に顔を向け、唇を震わせる。こちらはこちらで今にも泣き出しそうな顔だ。
「よかった……間に合ったんだな……」
「それはどうかな?」
地面に押し付けられたままの男が笑った。コナンは驚き下を見る。男は手元に転がった拳銃を再び握っていたのだ。
「くっ……!」
銃口が動く。コナンは反射的に腕時計を構える。
(いける、間に合う、オレの麻酔銃の方がこいつの拳銃より速い!)
だが次に起きたことは完全にコナンの意表をついた。銃口はコナンではなく、男自身の下顎に向けられる。その予想外の動きに一瞬行動が遅れる。
パン!!!
銃声が鳴り響き、血しぶきが舞う。だがその血はコナンのものではなかった。
「まさか……」
男は一度だけ激しく痙攣し、それきり動かなくなった。血と硝煙の匂いが混じり合い鼻を刺す。
コナンは数秒だけ放心していたが、無言で首を振って立ち上がり、冷たい目で死者を見下ろした。軽蔑と憐憫こそがこの男にふさわしい弔いのように思えた。
顔を上げ、哀のもとに駆け寄っていく。
「大丈夫か、灰原」
優しい声。コナンとて相当に動揺しているだろうに、必死で声量を抑えて哀を落ち着かせようとしていることが伝わる。そんなささやかな気遣いがたまらなく嬉しかった。
コナンは少しだけ苦戦していたが、テープの拘束をちぎって哀を開放した。
哀は立ち上がり、彼の胸に飛び込んだ。
「……もう大丈夫だ」
哀はコナンをきつく抱きしめ、コナンは哀の頭を撫でた。彼女の目から一層の涙が溢れた。
(……懐かしいな、こいつに抱きつかれるの)
コナンは昔、哀が一度だけ彼の胸で泣きじゃくったことを思い出した。まだ出会ったばかりの頃、「どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったの」と責められたあの時のことを。
(……やっぱり守りたいんだな、オレは、灰原のことを。あの時からずっと。……多分、自分で思っていたよりもずっと)
(こんなにも強い気持ちを、蘭以外の誰かに抱くなんて)
彼女を抱きしめる手に、一層力がこもる。
(なんなんだろうな、オレにとって灰原は。単なる仲間でも友人でもなく、もしかしたら……)
(……いや、名前なんてつけなくていい。こいつへの気持ちは、これでいいんだ。名前のない感情のままで)
哀が顔を上げ、コナンを見つめて微笑む。ようやく涙は止まっていたが、目は真っ赤で酷い顔になっていた。だけど、この上なく優しい笑顔。
「ありがとう、工藤君。本当にありがとう。……私のために、あんな危険な目にあってまで」
「気にすんな、バーロ」
こんなぶっきらぼうで、だけど優しい「バーロ」があるなんて。哀は思わずクスリと笑った。
「帰ろうぜ、灰原」
温かい声。だけど哀はうなずかなかった。
少しコナンを見つめた後、笑みとともに首を横に振った。
「だめよ、工藤君。私はもう帰れない」
「はあ?」
コナンが片眉を釣り上げる。
「ここでお別れよ」
「あのなー、つまんねー冗談はよせって」
哀はもう一度首を振る。
「いいえ、冗談で言ってるんじゃないわ」
哀は男の死体に視線を送る。ジャケットの裏ポケット。そこではまだ盗聴器が作動しているはずだ。
「まずはここから出ましょう、それから話すわ」
非常階段を下れば出口はすぐだった。
外に出ると、夜の闇の中で静かな車道が街灯に照らされていた。立ち並ぶ小さなビルの多くはこの時間には無人のようだが、少し先にはコンビニの明かりも見える。哀は人目を避けるためにビルとビルの隙間に移動した。
「まず聞かせて。どうやってこの場所がわかったの?」
「いや、まあ、その……」
コナンがぽりぽりと頭をかく。
「実はおめーに発信器をつけてたんだ。映画の途中でこっそりとな」
メガネのフレームをポチリと押すと、レンズに地図が浮かび上がった。地図の中で今いるこの場所が点灯している。博士の偉大な発明品である犯人追跡メガネだ。
「そんなことだろうと思った」と哀はため息をついた。腕を組んで冷たい目でコナンを睨む。
「それじゃまるっきりストーカーじゃない」
哀は、映画の途中でコナンが一度肩に手を回そうとしていたという歩美の証言を思い出す。それを聞いた時は驚いたが、結局は綺麗にオチがついたというわけだ。
「わ、わりいって! だけど今回は仕方なかっただろ? 現におめーの信号が夜にいきなり移動しだして、おまけに電話も繋がらねーし、絶対に何かあると思って……」
「……そうね、それが正解だったわ」
「へへっ、これじゃまるで探偵みてーだな」照れくさそうに笑う。
「あなたは探偵よ。ずっと、ずっと」
「……かもな」
ふたりの視線が重なり合う。
「本当に、ありがとう」
目を細める哀。
「あ、ああ……」
コナンの頬が少し染まる。
ふたりはしばらく無言でお互いを見つめ合っていた。
「だけど、ここでお別れよ」
唐突に冷たい口調。せっかくのいいムードを切り捨てるかのように背を向ける哀。
「それがわかんねーんだよ! あのヤローはもう死んだだろ!?」
「……あいつは単に雇われただけの使い走りよ。組織の生き残りがあの男を利用して私を……シェリーを探していた」
コナンの目が見開かれ、息を呑む。
「あの男との会話は、盗聴器を通じて全部筒抜けだった。今さらあの男が死んだところでもう何も変わらない……。灰原哀の正体がシェリーだと、バレてしまったってことよ」
「そんな……!」
「私はもう逃げられないわ。わかるでしょう? かつて子どもの体の私達が組織に対抗できたのは、正体を隠し通せたから。だけどもう、終わったの」
哀が大きく息をつく。
「終わったのよ、全て」
コナンには何も言い返せなかった。
哀は気休めのような笑顔を貼り付けて言葉を続ける。
「奴らのやり口なら、私に関わった者はみな殺されるわ。博士もあの子達も……もちろんあなたも。だけどね、私はあなた達を守ってみせるわ。奴らに投降して、取引するの。私ね、駆け引きには少しは自信あるのよ。きっとなんとかしてみせるわ」
「な……っ!」
コナンが哀の肩を掴む。
「ふざけんな! それじゃおめーだけ生贄になるってことじゃねーか!」
コナンに揺さぶられ怒鳴られても、哀の冷徹な目は揺るがない。
「ええそうよ。他にあなた達を守る方法がある? 逃げようとすればきっと私の大切な人たちが先に殺されるでしょうね。私は、そこまでして自分だけが助かりたいわけじゃないの」
「……っ……!!」
コナンの手が震える。きっぱりと反論してやりたかった。お前はこう間違っている、こうすれば解決だと言ってやりたかった。
だが何もなかった。
鮮やかな名案、探偵としてのひらめきなど何ひとつなかった。哀の言うとおりだ。逃れるすべなど、どこにもなかった。
「でもね、私は本当に嬉しかった。あなたが助けに来てくれたこと。私をあそこから救い出してくれたこと」
哀はコナンの手に自分の手を重ね、微笑んだ。
「確かに結果的には一時の気休めだったのかもしれない。だけど、あなたは私を助けてくれた。こうして、お別れを言わせてくれた。それだけで私は嬉しかったの」
「そんな……」
「知ってる? 工藤君。……私、幸せだったの。本当に幸せだったのよ。この10年、10年もよ? 私は灰原哀として新しい人生を生きることができた。あなたのそばで生きることができた。何度も死のうと思った私を、そのたびに助けてくれて……そして最後の最後に、また助け出してくれた。私はもう何も怖くないわ。死ぬことなんて全然怖くない」
哀がコナンの手をぎゅっと握る。
「だから生きて、江戸川君。あなた自身の新しい人生を」
「ふ……」
コナンの腕が震える。
「ふざけんじゃねえっ!!!!!」
魂からの叫び。
哀は思わず後ずさる。
「えっ……」
コナンは鬼の形相になっていた。これほどの怒りの顔を哀に向けるのはいつ以来のことだろうか。
「おめーを見捨てて……おめーを身代わりに生かしてもらって……それで新しい人生だと!? できるわけがねえだろうが!!!」
本気の怒声。
だが哀とて引くわけにはいかなかった。
「だったらどうするの!? あなたやみんなを犠牲にして逃げろと!?」
「違う、そうじゃねえ……!」
歯ぎしりとともに首を振る。
「そうじゃないなら何!? あなたの言っていることは空虚な絵空事じゃない!!」
「違う!!!」
コナンが哀の腕を掴む。全力で、痛いほどの力で。
「おめーはずっとオレのそばにいてくれた。組織と戦った時も、オレが打ちのめされた時も腐っちまった時も、いつだって! 今までずっと、オレ達はずっと一緒だったんだ!!」
一瞬の沈黙。そして自分の胸に手を当て、想いを振り絞るようにささやく。
「……一緒に、捕まろう」
今度は哀が息を呑んだ。
コナンの瞳がまっすぐに哀を見つめる。痛々しいほどの、本気の視線。
「奴らはオレのことだって恨んでいるはずだ。オレはお前の関係者っつうより完全に共犯者だろ? どうせ助かりゃしねーよ」
「……そうかもしれないけど……! でも、あなた一人なら逃げることだって……!」
コナンが首を横に振る。消え入りそうなほどの、かすかな笑顔。
「オレだってお前と同じだ。大切な人を犠牲にしてまで、生き延びようとは思わねえ」
「くど……」
強く、抱きしめられた。胸元で顔をふさがれ、哀はそれ以上反論できなかった。
だけどもう、反論しようとも思わなかった。
しばらくの間、2人はそうしていた。
(ああ、なんてあたたかいのかしら)
(私ったらバカね。もう未来なんてないというのに、こんなにも満ち足りた穏やかな気持ちになるなんて……)
その静寂を破る、けたたましいエンジン音とブレーキ音。
「……!」
ビルに挟まれた路地裏のこの場所が、眩しいヘッドライトに照らされる。
黒づくめの大型車。
路地を抜けた反対側の道路もまた、同じような黒い車によってふさがれた。ナンバープレートを咄嗟に記憶する。それに意味があるかないかは問題でなく、探偵の本能として。
コナンは哀の前に一歩踏み出し、彼女をかばうように左手を広げる。
重々しいドアが開き、ゆっくりと何者かが降りてくる。革靴のつま先が水たまりにしぶきを作る。逆光。顔は見えない。
だがコナンは直感した。恐ろしい奴が来たということを。
そいつは立ち止まり、状況に不似合いなほどに爽やかな声でこう言った。
「はじめまして、ミス・シェリー。君に会いたかった」
それは歓喜に満ちた声だった。