10年越しの再始動〈リビギンズ〉   作:ヘイドラ

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【改訂版】③

 

 (音は聞こえるのに何も見えないってのは嫌な気分だな)

 

 コナンはさっきからぼんやりそう思っていた。

 目が覚めてからしばらく経つが、いかんせん視界が完全に防がれている。繊維の隙間からかすかに漏れる光以外は何も見えない。頭に被せられているのは、こういうシチュエーションではお馴染みの麻袋だろう。案の定、手も縛られていて自由には動かせない。

 物音や話し声から判断するに、イカツそうな柄の悪い男数人に囲まれている。この状況で闇雲に暴れたいという気にはなれなかった。

 

「起きているんだろう? 立て!」

 

 脇に手を差し込まれ、強引に立たされる。そのまま捕まった宇宙人みたいにしばらく歩かされてから、「座れ!」と言われ下に押された。幸い、ちゃんと椅子はあった。

 

(まぶしっ)

 

 急に頭の麻袋を外されて視界が真っ白になる。しばらくは眉をひそめ目を細めていたコナンだが、やがて周囲の様子を把握していく。

 どうやらここは大きな倉庫らしい。古い作りだ。だだっ広いわりに物は少なく、高い天井付近に並ぶ小窓から日光が差し込んでいる。

 

(へっ、悪党のアジトとしちゃあ古典的だな)

 

 おそらくはどこかの港の外れにあるオンボロ倉庫を買い取ったのだろう。

 ただ、朝まで眠らされていたことを考えると、元いた場所からどれぐらい遠くまで連れてこられたのかはなんとも言えなかった。

 やがてどこかから機械音が聞こえ、正面の数十メートル先にある入口のシャッターが緩慢に開いていく。

 そのシャッターを通って、屋外から一人の男が入ってくる。男はまっすぐコナンの方に向かって歩きはじめた。

 

「おはよう! 勇敢な少年。お目覚めの気分はどうだい?」

 

 まだコナンのいる場所まで距離があるうちから、揚々とした無駄に爽やかな声。その足取りはゆったりと、同時に颯爽としており、世の中に憂うものなど何もないかのようだ。

 

(あ、嫌いなタイプだコイツ)

 

 徐々に距離が近づいてくると、逆光とはいえ男の顔がはっきりわかるようになる。真っ白いシャツを袖まくりしている明るい髪色の西洋人――いや、日本人のようにも見える――あるいは混血だろうか。

 だがそれ以上に気になる点があった。男が徐々に近づいてくるごとに、それはますます不可解になっていった。

 コナンを囲っていた黒服たちの一人が、コナンの正面に椅子を用意した。コナンの座っているパイプ椅子よりもずっと上等そうな革張りの椅子だ。そいつ以外の黒服たちは全員直立不動で歩いてくる男に目線を向けている。この場で誰がボスなのかは明白というわけだ。

 

「はじめまして、はおかしいかな? 昨日会ったばかりだからね」

 

 コナンを見下ろし、余裕たっぷりに笑みを浮かべる男。

 

「先にごめんなさいじゃねーのか」コナンは鼻で笑って言い捨てた。

「なるほど、大した肝の座りっぷりだ」

 

 男はドカッと椅子に座り、大きく足を広げて前傾しながらコナンを観察していた。

 一方のコナンも男の細部を観察する。見れば見るほどこの男は奇妙だった。

 

(白シャツにメタルバンドの日本製腕時計にベージュのチノパンに茶色のローファー? 黒ずくめの組織の男がする格好か?)

 

 だが服装以上におかしいのはこの男の容姿そのものだ。顔立ちといい肌や髪のツヤといい、あまりにも若すぎる――せいぜい二十歳かそこらではないだろうか。年齢をごまかせない首筋や手の質感も、およそ若者にしか見えなかった。

 

(おかしい……10年前に壊滅した組織の生き残りにしちゃあ……若すぎる)

 

 ひとつその若々しさに例外があるとすれば、左耳の付近に見受けられる火傷のような痕だ。コナンの側頭部にあるものと少し似た――いや、似すぎているとさえ言えるような古い痕。共感とまではいかずとも、奇妙な既視感を覚えずにはいられない。ただ、普段は横髪で隠しているコナンの痕と違い、この男のそれは堂々とさらけ出されている。

 ――ずきり。

 不意に、コナンの痕が不快にうずく。鈍い痛み。ありえないことだが、あたかも痕同士が"共鳴"しているかのように――

 コナンの困惑を知ってか知らずか、男は意味深な笑みを浮かべ口を開く。

 

「そうそう、自己紹介がまだだったね。僕のことはジョナスと呼んでくれ。君のことは……工藤新一と呼べばいいのかな?」

「!!!」

 

 哀の正体がバレた時点で覚悟していたことではあった。だが実際に組織の人間の口からその名を聞くのは極めて不快な体験だ。

 

「ああ、それともコナン君と呼んだ方が座りがいいのかい? もうずいぶん長いことそっちで通してるんだからね」

「……好きにしろ……」

 

 目を合わせず答える。ジョナスはクスリと笑って大きく両手を広げた。

 

「そんなに敵対心を向けないでくれ。僕は君にいい話を持ってきたんだ」

「いい話……?」

「そう! 君を解放してあげるという話さ。望外のオファーだろう? なんの代償もいらない、無傷で家に帰れるんだ。平和な暮らしに戻れるんだよ」

 

 ジョナスは満面の笑みではつらつとそう言った。あたかもなんの含みもありませんとでも言いたげに。

 

「なっ……!」

 

 コナンの目が驚愕で見開かれる。確かにこれ以上に予想外の提案は考えられなかった。組織の生き残りの男が、コナンの正体が工藤新一だと知りながら解放するなどと。

 

「何言ってやがる、てめー……」

「文字通りの意味だよ。後で部下に送らせてあげようと言っている」

「オレが組織壊滅の原因のひとつだと知っててそう言ってんのか? オレに復讐するつもりなんじゃないのか?」

「復讐? 復讐だって!?」

 

 ジョナスは突然顔を手で覆って豪快に笑い出す。

 

「はっはっは!! そんな無意味なことをするわけがないじゃないか!」

「な……」

「あんなとっくに終わった組織はどうでもいいんだよ。いやむしろ感謝しているぐらいだ。本当は菓子折りを持って君に挨拶に行けなくて申し訳ないと思っているよ」

 

 この鼻持ちならない男がどこまで本心で話しているのかまではわからない。だが、復讐が動機ではないというのはおそらく事実なのだろう。ジョナスがコナンを見る目には、恨みのような感情が全く欠如していたのだから。

 

「まあ、このことを誰にも口外しないという条件だけは飲んでもらうけどね。たったそれだけのことで無事に帰れるんだよ」

 

 こんな話はうますぎるということを理解するのに、探偵の勘は必要ない。あからさまにジョナスが触れていない大事なことがある。

 

「灰原は……? 灰原はどうなる……?」

「はいば……ああ、シェリーのことか。そうだな、最後にお別れを言う機会ぐらいは持たせてあげようか」

「てめっ……!」

 

 コナンは即座に立ち上がり、手を縛られたままジョナスに襲いかかろうとする。だが黒服たちに力づくで抑えられ一歩も近づくことはできない。それでもコナンに躊躇はなかった。

 

「てめえ灰原に指一本触れてみろ!! ぶっ殺してやる!!!」

 

 鬼の形相でジョナスに叫びを上げるコナン。ジョナスは微動だにすることなくコナンを見据えている。

 

「まさか僕が彼女の命を奪うとでも? とんでもない、傷ひとつつけやしないよ」

「なんだと……?」

「僕は彼女の力を借りたくてわざわざこんな手間暇をかけてきたんだ。つまらないことをするはずがないじゃないか」

「……信用できねえな」

「だろうね。……そうだな、やはり本人に話してもらおうか」

 

 ジョナスは部下の一人に手で合図を送った。その部下は一旦立ち去り、すぐに戻ってきた。

 他ならぬ哀をともに連れて。

 

「灰原……! 無事だったのか……!」

 

 少なくとも外見上、彼女は無傷だった。しかもなんの拘束もされていないし銃を突きつけられているわけでもない、不自然なほどに自然な状態。

 哀は落ち着いた様子でコナンのそばまで歩み寄る。

 

「工藤くん、怪我はない?」

「あ、ああ……」

「そう、よかったわ」

 

 淡々とした口調。心配している割には随分とそっけない態度だ。冷静で、平穏。

 

「よく休めたかい? シェリー」

 

 ジョナスがなれなれしく声をかける。

 

「冗談でしょ? あんな狭苦しい場所に閉じ込めておいて。私を口説きたいなら、もう少しまともな部屋を用意してちょうだい」

 

 哀はジョナスを冷たく見下ろすが、彼女基準では決して辛辣な口調ではなかった。コナンにはとても覚えがある、親しい相手に皮肉を言っている時の態度。

 

「これは失礼、すぐに手配しておくよ」

 

 ジョナスが自分の顔に手を当てて笑う。奇妙な違和感。この顔馴染みじみたやり取りはなんだ?

 

「灰原……こいつと何かあったのか?」

「別に。少し話をしただけよ」

 

 哀はコナンに振り向くことなく応える。

 

「彼女は僕のオファーを引き受けてくれたんだよ。僕の組織に協力してくれるんだ」

「な……」

 

 思わず哀を見るコナン。哀は決してコナンと目を合わせようとはしない。

 

「バーロ―! 灰原がてめーに協力するわけがねえだろうが!」

「それは君が口を挟むことじゃない。そうだろう、シェリー?」

 

 コナンは目を見開いて息を呑む。哀は少し押し黙ってから口を開いた。

 

「……ジョナスは、話のわかる男よ。ちゃんとあなたの無事も保障してくれたわ」

「まさかお前、オレの身を守るためにこいつと取引を……?」

「……別に」

「別にってなんなんだよ!」

「女性に怒鳴り散らすのは良くない癖だな」

 

 クスクスと肩で笑うジョナス。

 

「彼女は全員にとって望ましい道を選んでくれたんだ。感謝されこそすれ、責められるいわれはないだろう?」

「てめえ……!」

 

 コナンの顔がゆがむ。

 

「それにこれは彼女にとっても素晴らしい機会なんだ。自分の偉大な発明を、自らの手で蘇らせる機会が降って湧いた。科学者冥利に尽きると思わないか?」

 

 偉大な発明。その言葉に胸がざわつく。

 

「……APTX4869」

「そうだ。組織の崩壊によってオリジナルのデータが消失し、彼女自身にさえ再現できなくなった……そうだろう? だけど僕は、こんなものを持っている」

 

 ポケットから取り出された小さな物体。USBメモリ。

 

「これはAPTX4869のバックアップデータだ」

「!!!」

「……といっても、僕が確保できたのは莫大なデータのうちの一部にすぎない。たったこれだけの情報から実物を再現するのは極めて困難と言えるだろう」

 

 ジョナスは哀に目線を送る。

 

「元々の開発者である、彼女自身を除けばね」

「……そういうことか……」

 

 ジョナスが哀を探していた理由が薬を蘇らせるためなら、ジョナスには決して彼女を殺せない。ある意味では彼女の生命は保障されているに等しいとさえ言える。

 

「……だがどうしてお前がそのデータを持ってるんだ? あれは組織のアジトとともに炭になっちまったはずだ」

 

 コナンがジョナスを睨みつける。

 

「疑っているのかい?」

「当然の疑問じゃねえか」

 

 まだジョナスの言っていることを丸々信じるわけにはいかなかった。哀を丸め込むためにハッタリを言っている可能性だって大いにあるはずだ。

 

「そうとも。本来のオリジナルはあの時灰になった。()()()()()()()()()()()()()()()()だ。あの時、あの業火を前に僕がかろうじて手にできたのは、今ここにある一部分だけだったというわけさ」

「!!!」

 

 コナンの脳裏に、あの夜のことが蘇る。

 燃え落ちるアジトの中で、コナンは最後の最後に薬のデータを回収することを諦めた。

 ()()()()()()()()を失わないために。

 

――あの薬の……APTX4869のデータは失われてしまった。

――どうしようもなかったじゃねえか。あのデータを回収しようとしてたら、二人とも御陀仏だったろ」

――()()()()()()()()()間に合っていたわ

――くだらねえこと言うんじゃねえ……! そんなことするわけがねえだろうが!!

 

 あの時、コナンの運命は後戻りのできない地点を越えた。あそこでコナンはデータとともに、工藤新一に戻るという可能性そのものを捨て去った。

 その捨てたはずのデータが、まるで亡霊のようにコナンの前に再び姿を現したのだ。

 

「命からがら生きのびたはいいものの、その後の人生はずいぶん苦労したものだよ」

 

 ジョナスが自慢げに吹聴する。

 

「といっても長々と苦労話を語りたいわけじゃない。大事なのはこのデータとシェリーの存在が、僕の"希望"になったということだ」

 

 ジョナスは哀に目線を送るが、哀は腕を組んだまま無視を決め込んでいる。

 

「今では自分自身の新しい組織を作るところまで来た……だけど、僕にはもっと力が必要なんだよ。奇跡の薬という力がね」

「そんなことのために何人も殺してきたってのか?」

副次的犠牲(コラテラル・ダメージ)だよ。ある世界的な製薬企業の幹部は、APTXの資料を見てこう言った。"もし本当にこの薬が実在するなら、20億ドル出してでも買い取りたい"とね。この薬にはそれだけの価値がある」

「……結局はカネってことかよ」

「それが全てってわけじゃないさ。まあ、君に話したところで仕方のない話だ」

 

 ジョナスが肩をすくめて笑う。

 

「言っておくが、僕は君に心から感謝している。君のおかげでシェリーは生き残り、奇跡の薬の復活という道が未来に残された。君の人生で最も意義ある選択だ」

「ざけんな……!」

「その証拠に君のその火傷痕……。それは僕のと同じ、あの日のものなんだろう?」

 

 コナンの側頭部を指差すジョナス。普段横髪で隠されているその痕は、偶然にも麻袋を脱がされた時に露出していた。

 

「……!」

「やはりそうか。どうやら運命というのは本当にあるものらしい」

 

 ジョナスは自分の側頭部――コナンとは逆の側――の火傷痕に指先を当て、口端を吊り上げる。

 

「僕がデータを、君がシェリーを。僕達はふたりで未来を救ったんだ」

「……くだらねえことを……!」

「さて、そろそろいいかい? シェリーにお別れを言ってあげなよ。この10年をともに生きてきたんだろう?」

 

 ジョナスが立ち上がると、哀は顔を向けることなく口を開いた。

 

「……少し彼と2人きりにさせてくれないかしら」

「ああいいさ。積もる話もあるだろうからね。悔いが残らないように好きなだけ最後の時間を使うといい」

 

 

 

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 倉庫の外の古びた波止場の先端で、コナンと哀は海に向かって立っていた。

 空はバカバカしいほど真っ青で、燦々と陽光が降り注ぎ潮風が髪をそよいでいる。こんな状況でなければ青春の1ページにしか見えないだろう。

 もちろん波止場の根本ではいかつい黒服たちが彼らを見張っていた。普通に話せば声が届かない程度に距離を空けているのは、一応配慮しているつもりらしい。

 その黒服たちに混じり、一人異様に目立つ女がいた。大柄な男たちと変わらない背丈、悠然たる姿勢と燃えるような赤髪、そして恐ろしく冷たい目。明らかに黒服たちとは存在感の質が違う。おそらくはジョナスの右腕のような立場なのだろう。

 だがコナンにとってはもはやどうでもいいことだった。

 

「灰原、おめー一体どういうつもりなんだよ」

 

 コナンが哀をにらみつける。

 

「あら、てっきりありがとうって言ってもらえると思ってたのだけど。あなたの命は助かるのよ?」

 

 小馬鹿にしたように笑みを作る哀。

 

「……おめーいい加減にしろよな……。自分だけが犠牲になろうとするのはやめろっつってんだろ」

「……そうね、だけど仕方ないじゃない。あなたやみんなを助ける方法が見つかったんだから」

「それでオレが納得するとでも?」

「別に納得なんてしてくれなくてもいいわ」

 

 哀は決してコナンと目を合わせようとはせず、うつむいたままそう言い捨てた。

 このままでは埒があかない。コナンはまず矛先を変えることにした。

 

「そもそもあのヤローはなんなんだよ。あんな奴組織にいたのか? 第一、10年前に組織にいた人間にしちゃあ若すぎるじゃねーか。あれじゃまるで……」

 

 哀が首を振る。

 

「いいえ、彼はAPTX4869の被験者ではないわ。あれが実年齢よ」

「それってどういう……」

「組織はね、ある時期から小さな子どもをどこかしらから"調達"して育成するプログラムを実行していたの」

「!!」

「沼淵己一郎って覚えてる? あいつの場合は大人になってから組織に拾われた人間だけど、同じことを彼らは子どもに対しても行っていた。将来の手駒として、あるいは実験対象として……」

「そうだ、ジョディ先生も言っていた……。オレ達が奴らの本体を潰した後で、FBIがアメリカの拠点を叩いた時に子どもを何人か保護したって……!」

「ええ。あの子ども達はたまたまそこにいたんじゃない」

 

 肩をすくめる哀。

 

「結局は、私の人生すべてのツケが回ってきたってことよ」

「……それがなんでおめーのツケになるんだよ」

「組織がそのプログラムを計画したのは、私のせいだから」

「!!」

「私の場合は、両親がもともと組織に所属して研究を行っていたから、お姉ちゃんともどもその身内として組織の管理下に置かれることになった。だけど結果的には、幼少時から組織の英才教育を受けていた私が、両親の研究を完成させてしまった……」

 

 哀の視線は水平線をぼんやりと捉えている。きっとその瞳には何も映ってはいない。

 

「だから奴らはそれに味をしめて子どもをさらってくるようになった。そう言いたいのか?」

「ええ」

「そんなもん全部奴らのせいじゃねーか。おめーが罪をかぶるようなことじゃ……」

「本当にそうかしら? 奴らが何をやり始めたのか、おぼろげにでも察していたのというのに私は何もしなかった。組織に歯向かったのもそのプログラムのせいではなく、お姉ちゃんの死という個人的な理由のためだった。そして私は勝手に絶望して勝手に死のうとして、結果的に体が縮んだ時には自分だけ逃げ出したのよ。私に同情の余地があると思う?」

「……それがおめーの、償えてないふたつめの罪、なのか?」

 

 哀は無言でうなずく。

 

「……笑っちゃうでしょう? こんな血まみれの手で、普通の人間として人生をやり直せると思っていたなんて」

 

 自分の両手を見つめて自嘲する哀。

 

「ジョナスは、私の罪が生み出した怪物。時の歯車という運命が、その怪物を呼び寄せて贖罪を求めてきた……きっとそういうことなんでしょうね」

「そんなわけ……」

 

 それじゃ単なるオカルトだ。

 

「言ったでしょ、いざとなったら取引してあなた達を守ってみせるって。どうやらうまくいきそうよ」

 

 哀はようやくコナンに顔を向け、微笑んだ。

 

「私の待遇は心配しないで。クリエイティブな仕事というのは頭に銃を突きつけられながらできることじゃない――その程度のことはジョナスもわかっているわ。この上ない素敵な邸宅で、何不自由ない豊かな暮らしを保証してくれるそうよ。どんな贅沢だってさせてくれるってね。悪くないオファーだと思わない? 誰かさんのだらけた暮らしに付き合うより快適かもね」

「……本気で言ってんのか? 本気であのヤローに協力するって?」

「心配しないで。あの薬を復活なんてさせやしないから。のらりくらりと、何年でも時間を稼いでみせるわ。ジョナスが諦めて匙を投げるまで……」

 

 自嘲の笑み。自分自身を見捨てたかのように。

 

「それが、私にできるせめてもの罪滅ぼしだから」

「……」

 

 歯ぎしりの音が、波の音に混じる。

 

「ざけんな……!」

 

 コナンは声を震わせ哀の肩を押しのけた。

 

「……?」

 

 彼女に背を向け、波止場の根本にへと前進していく。黒服が立ちふさがり、胸の内ポケットにへと手を差し込む。

 

「止まれ」

「ジョナスを出せ。もう一度奴と一対一(サシ)で会わせろ」

「工藤くん! 無茶よ!」

 

 背後から聞こえる哀の声。振り返らない。

 

「警告だ、撃つぞ」

 

 銃を突きつける黒服。コナンは止まらない。むしろ銃口に向かってまっすぐ進んでいく。

 

「おい……!」

 

 その直後、黒服の背後、赤髪の女が口角を吊り上げる。

 

「いいわ、その通りにしてあげましょう」

「いや、しかし……」

「異論でも?」

 

 女の刃物のような目に見下され、黒服はたちまち銃を下ろし直立する。

 

「い、いえ!!」

 

 女はコナンに視線を移し、薄い笑みとともに目を細めた。凍てつくほどに冷たい瞳。探偵としての勘が言っている。これは単なる人殺しの目ではない。()()()()人殺しの目だ、と。

 

 

 

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 倉庫の中央。高窓から差し込む斜光が舞い散るホコリを照らし陰影を作る。黒服の男たち――多くが銃を持っている――がずらりと周囲を取り囲む不気味な光景。そこがコナンの今いる場所だ。

 目の前にはジョナス。シャツを袖まくり、首を鳴らして笑みを浮かべている。

 

「魅力的な舞台だ」

「クソみてーなの間違いだろ」コナンが言い捨てる。

「高揚感があるじゃないか。原始的で、野性的だ。人間の輪、その中心で対峙するふたりの男。知っているか工藤新一。こうやって観客が周囲を囲っているさまが」

「格闘技の"リング"の語源だってんだろ。くだらねえ」

「情緒のない奴だ」

 

 最初にひと目見たときから、ジョナスのただならぬ戦力をコナンは感じ取っていた。試さずともわかる。単純な殴り合いで敵う相手ではない。

 手に汗がにじむ。何もせずとも心拍数が増していき、それと比例するように火傷痕が鋭く疼く。本能がやめろと叫んでいる。勝てるわけがない、逃げろ!

 ――黙れ。

 己が怖じ気を一喝し、眼前の敵を睨みつける。

 呆れるほどに傲慢なジョナスは、一対一の戦闘で万が一にもコナンが勝てばふたりとも解放すると約束してみせた。それほどまでの絶対的自信。対等な敵とさえ思われていない。

 

「こんなの無茶よ! お願い、やめて!」

 

 黒服の輪の外から哀が叫ぶ。彼女の肩は赤髪の女によって掴まれている。

 

「シェリーが早まったことをしないよう頼むよ、マチルダ」

 

 赤髪(マチルダ)がうなずく。コナンは首を向けることなく視線だけで哀を一瞥し、またすぐに前に戻した。

 

「ジョナス! こんなことは私との約束の中に入ってないわ!」

「心配しなくていい、これはただの余興なんだ。彼が無事に家に帰れるよう、()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぎしり。コナンの歯が音を鳴らす。

 熱くなるな、これはただの安い挑発だ。頭の中の冷静な部分が警告する。力ではるかに劣る自分が、万にひとつの勝機を掴むためには何かをしなければならない。

 素晴らしい名案などない。あらゆる観点から見てこの状況は最悪だ。そんなことは名探偵でなくともわかる。それでも――

 

「おっと、メガネをつけたままじゃあな」

 

 わざとらしく大きな声で、ゆっくりとした動作でメガネを外す。そして次の瞬間、コナンはそれをジョナスの顔面に向けて思い切り投げつけた!

 ジョナスが眼前でメガネを叩き払ったその瞬間、

 コナンは全力で踏み込み渾身の拳を振るっていた――

 

「……これがパンチか?」

 

 掴まれていた。いとも簡単に。キャッチボールかのように。

 

「弱すぎる」

 

 みぞおちへの衝撃。()()()パンチ。コナンの体が()の字に折れる。足先にまで突き抜ける激痛。震える膝。かろうじて踏ん張り、もう一度殴りかかる。

 

「遅すぎる」

 

 今度は顔面へのカウンター。首が弾ける。腰が落ちる。視界に不規則な火花が飛ぶ。その一撃だけで口の中に血が溢れた。

 二発目。血が宙に散る。奥歯も折れたかもしれない。三半規管が揺さぶられ、目に映る景色が不規則にねじ曲がる。

 たたらを踏んでこらえる。視線が下を向き、敵の脚が見える。まだだ、まだやれる。サッカーで養われた脚力を全力で振るう。

 

「へえ、蹴りの方がましじゃないか」

 

 その蹴りもまた容易に防御されていた。

 直後、鼻先に軽いパンチ。当てただけの、からかうような弱さ。次の瞬間、みぞおちには膝が刺さっていた。

 

「かっ……! はっ……!!」

 

 今度は精神力で耐えられる痛みではなかった。骨がきしみ、内臓が悲鳴を上げる。脚の力が失われ、前のめりにゆっくりと崩れ落ちる。

 追撃。首の後ろ、頸椎への鉄槌。上体が地面に叩きつけられる。

 

「……ぅ……! ……!」

「哀れだな」

 

 うつ伏せに倒れたコナンをジョナスは悠々と見下していた。息ひとつ切れていない。

 

「この弱さ、この脆さでシェリーを守れると? 本気で?」

「う……るせえ……」

 

 口に滲む血とコンクリートの味。敗北の味。痛みで筋肉が引きつり、呼吸すらままならない。手足の感覚がない。何も、できない。

 

「お前にシェリーは守れない。二度と、永遠に」

「……!」

「もういい! もう十分よ!」

 

 哀は黒服たちを掻き分け、ジョナスの前に飛び出していた。顔面は蒼白で、唇は震えていて。

 

「あなたの勝ちよ、ジョナス……だからもう、これで終わりよ」

 

 勝者は悠々と笑みを浮かべ、敗者は地に伏している。これ以上ないコントラスト。

 

「やめ、ろ……灰原……」

 

 コナンは首だけをどうにか曲げて哀を見上げた。おぼろげな視界。近くにいるはずなのに、遠い。あまりに遠い。

 

「……行く、な……」

 

 薄れていく意識の中で、震える手を彼女に伸ばそうとするコナン。もう届かない。哀は決して彼と目を合わせようとはしなかった。背を向けたまま、たった一言。

 

「さよなら」

 

 それが彼の聞いた、彼女の最後の言葉だった。

 

 

 

-----

 

 

 

(……)

(…………)

(…………空、だ)

 

 コナンが目を覚ました時、そこには夜空が広がっていた。星がまばらでうっすら明るい、都会の夜空。

 背中に感じる、冷たい地面の感触。コナンはどこか見覚えのある場所に仰向けになっていた。ぼんやりとしたままの頭を振り、ふらつきながら立ち上がる。

 痛い。全身が痛む。肋骨も、頬骨も、口の中も。

 そしてこめかみの火傷痕もまた、まるで熱を帯びた手で握りつぶされるかのように疼いた。普段時々感じるよりも、ずっとずっと強く苦痛な痛み。その痛みに耐えかねて顔を触る。メガネが掛かっている。割れてはいない。

 辺りを見渡す。

 見覚えがあるのは当然だった。ここは自分の家の庭だ。塀に囲われているので外の道路からは見えない位置。

 一体何時間ここで寝ていたのだろうか? 思考はまだ曖昧で、うまく働いていなかった。

 不確かな足取りで玄関まで歩いていく。ポケットには鍵が入ったままだ。

 案の定、家の中は真っ暗だった。明かりをつけ、誰もいないリビングに足を踏み入れる。

 どういうわけか、ソファーに誰かが座っている。軽く髪をかき上げながらこちらを振り向く。皮肉めいた微笑みで、とても優しい声とともに。

 

――あらおかえりなさい。遅かったじゃない

 

 赤みがかった茶髪、美しい瞳。

 思わず息を呑む。

 瞬きひとつ。

 次の瞬間、そこには誰もいなかった。

 彼女はもうどこにもいなかった。

 意識が戻ってからずっと、コナンはその事実を認めることを拒否していた。心のどこかで、すべては悪い夢だったという結末を期待していた。

 でも真実は、たったひとつしかなかった。

 震える足をなんとか動かしてソファーに腰を下ろし、うずくまる。荒く乱れる息を鎮めようと必死に深呼吸しようとするが、それさえもできない。

 手のひらがガタガタと震える。届かなかった。なにもできなかった。

 

(オレが失ったのは――)

 

 友人、隣人、仲間。いやそれ以上の、最も大切な――自分にとって、この世で最も大切な存在(ひと)。今さら気づいた。すべてが終わってからようやく。

 

(好き、だったんだ。オレは。ずっとずっと、あいつのことが。本当はずっと前から、ずっと――)

 

 名前のない曖昧な感情。そんなものはクソだ。どうしてもっと早く気づかなかった? どうしてもっと早くこの想いを伝えなかった? 恋人同士として四六時中彼女のそばにいられたら、あるいは守り切れたかもしれないのに。もっと早くに危険を察知して、あらゆる手段で対処できていたかもしれないのに。

 遅すぎる。遅すぎる。弱く、みじめで、救いがたいほどに愚か。

 いつの間にか、頬を水滴がつたっていることに気づいた。

 それが、最後のひと押しとなった。

 そして、

 泣き叫んだ。

 慟哭が、工藤邸に響き渡った。

 永遠の拷問にも等しい時間。喉が痛み声が尽き、涙が枯れ果てるまでそれは続いた。

 

 

 

 ――どれほどの時間が流れただろうか。

 工藤邸では時計の秒針がひとつ、またひとつと空虚に時を刻んでいた。それ以外には、動くものも、音もない。

 コナンは、もはや叫ぶことも泣くこともできず朦朧と横たわっていた。声も、涙も、尽き果てていた。

 そのとき――

 "ピンポーン" 

 不意に無機質なチャイムの音がが響き渡る。

 

(…………今のは……?)

 

 コナンが状況を理解する前に、その音はすぐに繰り返された。ピンポンピンポンピンポンと、しつこく何度も同じ音が響く。やかましいにもほどがあった。

 力の入らない体を無理やり起こし、足を引きずるようにインターホンのモニターにへと向かう。怪訝な顔で応答ボタンを押す。

 

『おいコナン、帰ってんのか~!? どこで何してたんだおめーら~~~!』

『コナンく~~~ん! 哀ちゃんも一緒なの~~~!?』

 

 腫れ上がった目が一気に見開かれる。

 

「あいつら……!」

 

 大声で騒いでいる歩美と元太。その後ろで腕を組んで立っている光彦。

 

『いるのかいねーのか~~! いねーならいねーって返事しろよコナーーーン!!!』

 

 

 

-----

 

 

 

 「ったく、心配かけやがって。今日一日どこにいやがったんだぁおめーら?」

 

 ズカズカと家に上がってきた元太が、辺りをキョロキョロと見回しながらコナンに尋ねる。

 

「そうだよ、コナン君も哀ちゃんも連絡もなしに学校休むし電話もメッセも繋がらないし……。例の事件だってあるから、あたし達心配であちこち探し回ったんだよ?」

「それは……すまなかったな……」

「つーかコナン、ひっでー顔してんなおめー。うんこでも漏らしたのか?」

 

 元太が臭いものでも嗅いだかのように眉をひそめる。

 確かに、殴られたダメージに加えてついさっきまで全身の水分を出し尽くす勢いで泣き叫んでいたのだから、さぞかし酷い顔になっているのだろう。

 

「ねえ、そんなことより哀ちゃんはどこ?」

「灰原は……」

 

 コナンは言葉に詰まった。彼らに言えることなど何があるだろう。

 歩美と元太はじいっとこちらを見つめていた。一方、大きなリュックを背負って後ろで立っている光彦はずっと無言のまま横目で冷たい視線を送ってきている。

 コナンは少しの間だけ考え込み、そして何を話すかを決めた。

 

「あいつならもう行っちまった」

「え? 家に帰ったってこと?」と歩美。

「家にはもう帰らねえよ」

「はあ???」

 

 元太が顔をしかめる。歩美も怪訝な顔をしている。

 コナンは彼らの反応など意に介さず、努めて明るい声で話を続けた。

 

「アメリカに住んでるあいつの両親から、やっと生活が整ったからこれからは親子一緒に暮らそうって連絡が来たらしくてな。急な話でオレだって驚いたけど、例の事件だってあるから早いとこ出発した方がいいってんで、ついさっきまで空港に見送りに行ってたんだ」

「コナン君、何を言って……」

「灰原のやつ、おめーらにもよろしく言っといてくれっつってたぜ? しばらくは忙しくてなかなか連絡もよこせねーだろうけど、きっとあいつは向こうで幸せに……」

 

 その瞬間、コナンの襟首が掴まれ体ごと宙に浮く。

 

「ぐうッ!」

「ちょ、元太君!!」

 

 歩美が慌てて元太の腕を掴む。その丸太のような腕は片手でコナンを吊るし上げている。

 

「おいコナン、ふざけたこと言ってんじゃねーぞ……! 灰原がオレ達に一言も言わずいきなりアメリカに帰った? んなわけねーだろうがオイ……!」

「元太君、落ち着いて!」

 

 元太は歩美を横目で一瞥してからコナンを下ろし解放した。しかしその野太い眼光はコナンを睨みつけたままだ。

 

「ケホ、ケホ……」

「コナン君、あたしだってそんな話信じられるわけないよ」

「信じようが信じまいが、何も変わらねーよ」

「そんな……」

「おいコナン、くだらねー冗談はいい加減に……」

 

 元太が再びコナンに迫る。彼の感情的な態度が引き金となり、コナンは堰を切ったように叫んだ。

 

「うるせえ!! 灰原はもう、帰ってこねえんだよ!!!」

「!!!」

 

 3人の表情がショックに染まる。

 

「もし帰ってくるならこんな話はしねえ!!! あいつとはもう二度と会えねえし、声だって聞けやしねえんだ!!!」

「それってどういう……まさか哀ちゃんは……」

「心配すんな、あいつは生きてる……いたって無事だ。だけど、あいつはオレ達に二度と会わねえことを選んだんだ。自分の意思で……オレには、その選択を変えられなかった」

 

 コナンは肩を落とし、力なくソファーに座り込んだ。

 

「だからもう諦めろ。アメリカに帰ったと思ってあいつのことは忘れろ。最初からあいつは()()()()()()で生きる人間じゃなかったんだ。ただ帰っちまうのがずいぶん遅くなっただけだ……」

「……コナン君は、それでいいの? 二度と哀ちゃんに会えなくてもいいの?」

「いいわけねえ……いいわけねえよ……だけどもう、どうしようもねえんだ」

 

 うなだれたまま喉の奥から言葉を絞り出す。

 

「あいつはオレ達を守るために自ら去ることを選択した。その意思を尊重してやれ。平和な日常を生きることだけが、オレ達にできる恩返しなんだよ」

 

 しばらくの間、誰も何も言えなかった。重い沈黙が場を支配した。

 その静寂を破ったのは鈍い打撃音。

 頬が痛みを感じてから一瞬遅れて、コナンは顔を上げた。

 そこにいたのは予想とは違う人物――光彦が、コナンを見下ろしていた。空虚に冷え切った目で。

 

「オイオイ光彦……キャラが違うぞお前」と元太が冷や汗を流す。

 

 光彦は少し痛そうに手首を振った。まともに人を殴ったことなど生まれて初めてなのかもしれない。

 

「コナン君……君には心底がっかりしましたよ。一度は責任を放棄した君がようやく反省したと思ったら、たった2日でこの始末とはね。君には何度失望させられたかわかりませんよ」

「……おめーにゃわかりゃしねーよ」

「わかりたくもありません。君がこんなにもあっさり灰原さんを見捨てるなんて」

「見捨てたわけじゃねえ……!」

「じゃあなんなんです? 灰原さんが本心から喜んで去ったとでも? 君の顔はそう言ってませんよ」

「やっぱひでー顔してるよなコナンのやつ」元太がうなずく。

「コナンくん。君と灰原さんは子どもの頃からずっと何か重要な秘密を共有していた……違いますか? 灰原さんはずっと何かに怯えていて、だけど君のことは誰よりも信頼していた。君達には誰にも入り込めない絆があった。正直言って羨ましかったですよ。僕も君のように灰原さんを守れる強さがほしい……ずっとそう思っていました」

「……」

「君に、憧れていました」

 

 歯ぎしり。悔しさと、恥の感情と。拳が固く握られ、手汗が滲む。

 

「灰原さんを連れ去ったのは、あの頃から彼女が怯えていた何か、なんじゃないですか?」

「……そんなことを知ってどうする」

「それが彼女の本意でないのなら、連れ戻します」

「おっしゃー!! よく言ったぜ光彦!」

「そうだよね! あたし達探偵団が連れ戻しちゃおう!」

 

 テンションを爆上げする歩美と元太。

 

「バーロー!! ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!! おめーらが今まで相手にしてきたチンピラ犯罪者なんかと同じだと思うな! 奴らに手を出したら確実に殺されるぞ!!」

 

 コナンの本気の警告にも、彼らはまるで耳を貸そうとはしない。

 

「だったらどうすんだ? ここで一生腐ってんのか?」

「あたしはこのまま哀ちゃんとさよならなんて絶対ヤだよ!」

「まったく同感ですね」

「いいかコナン、オレは少年探偵団のリーダーだ! 仲間を見捨てるぐらいなら一生うな重が食えねえ方がましだぜ」

 

(駄目だこいつら……。こいつらまで犠牲にするわけにはいかねえってのに!)

 

 とはいえ、実のところコナンには彼らを説得する必要などなかった。なぜなら哀を助け出すために最も必要な情報がないのだから。

 

「……問題は、灰原さんの居場所がわからないということですが。コナン君、きみは知らないのですか?」

「……知ってるならここで腐っちゃいねーよ」

 

 例の倉庫の場所もはっきりしないし、あるいは倉庫自体は記憶を手がかりに探し出すことは可能かもしれないが、いつまでも哀がそこにいるとは到底考えられない。今ごろとっくに別の場所に移動していると考えた方が妥当だろう。

 コナンは念のため犯人追跡メガネのボタンを押したが、案の定発信器の反応はなかった。

 

「あいつにつけた発信器が生きてりゃもしかしたら見つけられたかもしれねーけどな。どっちにしろエリア外だ、見つかんねーよ」

「発信器? 灰原さんに発信器をつけたんですか!? 周波数は!?」

 

 光彦の顔色が変わる。

 

「だから言ってんだろ、エリア外だって。それにバッテリーだってそろそろ切れてるはずで……」

「そのメガネのアンテナは超極小タイプですよ。受信範囲が狭いのは当たり前でしょう?」

 

 光彦はそう早口でまくしたててリュックを背から下ろし、今どきにしては妙にゴツい大型ノートPCを取り出した。そして手早くそれを開いてコナンから聞いた周波数を打ち込む。

 

「見てください、反応がありますよ!!」

 

 光彦が指差した先、地図の中の赤い点滅。「「おお~~~っ!」」と元太歩美が同時に声を上げる。

 

「そんな……!」

 

 絶句するコナンを尻目に、光彦は元太歩美に視線を向ける。

 

「だけど、やはり発信器のバッテリーはもう限界のようです。おそらくはあと2、3時間……そのあとはもう二度と灰原さんの居場所はわかりませんよ」

「おおっし、行こうぜおめーら!!!」

 

 元太が豪快に自分の拳を叩いて音を鳴らすと、歩美も勢いよく飛び跳ねる。

 

「うん! 行こう!!」

「待て!! 早まるなおめーら!!」

 

 彼らを死にに行かせるわけにはいかない――その一心で立ち上がり声を張り上げるコナン。だが返ってきたのは歩美からの拒絶の視線だ。

 

「ごめんねコナン君。あたし達、このままお別れなんてできない!」

「もう放っておきましょう。今の彼に何かを期待するのが間違いですよ」

「ぐっ……、あのなあ、殺されるだけだっつってんのがわかんねーのかよ……! おめーらが犠牲になって灰原が喜ぶとでも……」

「だからなに!? このまま二度と哀ちゃんと会えなくてもいいの!?」

 

 息を呑んだ。歩美の瞳は――かすかに潤んでいた。彼女は肩を震わせ、そして一筋の水滴が頬を伝った。

 

「哀ちゃんは、コナン君が守ってくれるって信じてたのに」

「……!」

 

 コナンの脳裏を走る記憶の奔流。

 かつて最も大切な人とかわした、必ず帰ってくるという約束。その約束を破り、合わせる顔がなくなって”死”を偽り、真実を伝えることから逃げた恥。その恥がやがて遅効の毒となって心を蝕み、いつしか探偵に対する情熱さえ失ってしまった己の弱さ。心の奥に押し込めていたそれらすべての後悔が濁流となって溢れ出す。

 痛々しいほどに震える声で、彼は静かに叫んだ。

 

「……オレが守ろうとした人は! どいつもこいつも、不幸になっちまう……。オレには……あいつを守る、力も資格もないんだ」

 

 歩美はただまっすぐにコナンを見つめ返し、ほんのわずかに沈黙した。その静かな数秒が永遠のように感じられるほど、コナンの胸を締め付ける。

 

「力とか資格とか、そんなの全然関係ないよ」

 

 断固たる眼差しと、静かなのに途方もなく強い声。

 

「……好きなんでしょ? 哀ちゃんのこと」

 

 ただ、息を呑む。

 

「だったら何があっても守らなきゃ」

 

 歩美が踵を返す。元太光彦とともにコナンに背を向け歩き出す。もう誰もそれ以上コナンに何かを言おうとしない。

 

「やめろ、早まるな……」

 

 そう言って拳を震わせながらも、コナンの胸の奥はにわかにざわつき始めていた。まるで長い間閉じ込めていた感情が、静かに、だが強烈に胸を内側から叩いているかのように――

 その時だった。

 大窓の向こうから激しい閃光が差し込み、一瞬にしてリビング全体を白橙に染めた。次の瞬間、轟音とともに窓ガラスが割れ爆風が吹きすさぶ。

 

「!!?」

 

 コナンは衝撃波で吹き飛ばされそうになりながらもとっさに地面に突っ伏し頭を抱え守る。爆発音が鼓膜を貫く。

 頭上をガラスの破片が飛び去り、無数の鋭利な音とともに家具や食器が辺りに散乱する。

 轟音による耳鳴りが鎮まるより早く、コナンは身を起こして彼らに顔を向けた。

 

「おめーら、大丈夫か!?」

「ふう~、危なかったぁ~……なんだあ今の!?」

「あたしは大丈夫だよ~、光彦君は?」

「こっちも大丈夫です……かろうじてですが」

 

 3人が次々とうつ伏せ体勢から立ち上がり、互いの無事を確認しあう。どうやら3人とも、コナンと同じくとっさに身を伏せて頭をカバーし身を守ったようだ。のみならず、元太は自分の巨体を活かして歩美と光彦の前で壁となり、光彦は光彦でリュックを盾にして自分と歩美の頭部を守っていた。

 

(こいつら、あの一瞬で的確に対応を……。くぐってきた修羅場の数が違うってことか……)

 

 確かに、彼らの人生経験はおよそ常人の域ではなかった。若干小学一年生の頃からいくつもの殺人現場に遭遇し、爆破テロやハイジャックに巻き込まれ決死のサバイバルを生き抜いてきた。()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

(オレはこいつらのことをいまだにガキだと思っていて……だけど本当はとっくにオレの方がよっぽど……)

 

「見て! 炎が!」

 

 歩美の言葉にコナンは後ろを振り返る。割れた窓の向こう側、工藤邸の敷地の外で火の手が上がり始めていた。

 

「あれって博士の……哀ちゃんの家だよね!?」

 

(まさか……! あそこには今誰もいないはずなのに……!)

(ちくしょう、オレはどうすれば……!)

 

 その時、一瞬下を向いたコナンの視界に、爆風に飛ばされ床に落ちた写真立てが入り込む。

 父である工藤優作の肖像写真。タキシード姿。優雅な笑み。

 コナンはその瞬間、亡き父と目が合ったような気がした。

 

(父さん……)

 

――ごめん父さん。がっかりしてるだろ? 絶対に元の姿に戻ってみせるってあれだけ言ってたのに

 

 コナンの脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 

――はっはっは! 何を言ってるんだ。工藤新一だろうが江戸川コナンだろうが、お前はオレの息子じゃないか

――え……

――いいか新一。いやコナンだとしても同じことだ。お前はお前さ。オレはどんな傑作小説よりもお前という息子を一番の誇りに思っている……そのことは生涯変わりはしないさ

――息子よ。どんな時でも、真実を見極め本当に大切なものを掴み取りなさい。大丈夫、お前にならきっとできるさ

 

 父とそんな言葉を交わしたことなど、コナンはずっと忘れていた――いや、もちろん実際には覚えていた。だけど彼は、その記憶を心の奥に押し込め何年ものあいだ見ないふりをしてきたのだ。奔流のように溢れ出た記憶に背を押されるかのように、コナンはゆっくりと立ち上がりまっすぐ前を向く。

 

(……ありがとう、父さん)

 

 かつて守れなかった約束。父と、そして蘭と。最も大切な人々との間で結んだ、果たせなかった誓いとその後悔は、これからも決して消えてなくなりはしないのかもしれない。

 だけど彼女との、昨日結んだばかりのあの約束はまだ生きている。

 

――守って、くれるんでしょ?

 

 だからもう。

 最後に残されたこの約束だけは、決して裏切りはしない。

 拳を握る。固く、固く。

 

「おめーら先に準備しててくれ! オレはあっちの様子を確認してくる!」

 

 そう叫び、全速力で駆け出した。

 歩美の表情が一気に華やぎ、元太は眉をひそめて光彦と目を合わせる。

 

「先に準備しててくれ、だってよ。コナンのやつ、急にちょっといい顔しやがってどうしたんだ?」

「やれやれ……ようやく吹っ切れたようですね」

 

 

 

-----

 

 

 

 時間を少し遡る。

 

 無影灯だけが白光を落とす狭い実験室で、哀はモニターの青白に溶け込むように座っていた。

 長大な化学構造式や無数の数値がびっしり並ぶ画面を、表情ひとつ動かさず高速でスクロールしていく。

 そんな折、部屋の扉が開かれ誰かが部屋に入ってきた。しかし哀はそちらを一瞥もすることなく作業を続ける。

 

「どうだい? 懐かしい気持ちになったんじゃないか?」

 

 ジョナスが話しかけてくる。

 

「まだ一通りの確認をしているだけよ。邪魔しないでくれるかしら」

 

 ジョナスは苦笑して哀の隣の椅子に腰掛けた。

 

「変わらないね、君は。宮野志保だった頃と同じだ」

「あなたが当時の私を知っているとでも?」

 

 哀は決してジョナスと目を合わせることなく淡々と画面を見つめている。

 

「知っているさ。まあもちろん君と親交があったわけじゃない。組織のとある施設で、一度だけ君の姿を見たことがある……言ってしまえばそれだけの縁だよ」

 

 相槌ひとつ打たない哀を尻目に、ジョナスは背もたれに体重を預け話し続ける。

 

「ちょうどその時も、君はそんなふうにコンピュータと向き合っていた。僕は遠巻きに君の横顔を眺めていただけだ。……わかっていても不思議なものだよ。薬で縮んだ君が、今や当時のままの姿で目の前にいるというのは」

「……」

「僕のような"チルドレン"にとって、君はちょっとした伝説のような存在だった。なにしろ君の存在こそが僕らを育てたプログラムが生まれた理由なんだからね」

 

 一瞬、哀の手の動きが止まる。

 

「断っておくが、僕は君を恨んじゃいない。あのプログラムがなければ、僕はとっくにクソスラムで野垂れ死んでいただろうさ。……おっと、話しすぎてしまったね。どうぞ君の作業を続けてくれ。――といっても、どうせ明日には君の新しいIDとパスポートが出来上がるんだ。続きは国外の新しい拠点に移ってからでもいい」

 

 ぴくりと哀のまぶたが揺れる。

 

「ここはいい国だが、君にとっては何かと気が散ってしまうだろう? こんな手狭なラボではなく、最先端の研究施設とラグジュアリーな棲み家を用意してあるんだ。きっと君にも気に入ってもらえると思うよ」

「……ありがたいオファーではあるけれど」

 

 哀が皮肉めいた笑みを浮かべる。

 

「立派な施設に私を連れて行けばすぐにあの薬が作れると思わない方が懸命よ? 最初の試作品を作るまでだって数年はかかるでしょうね」

 

 ジョナスは肩をすくめた。

 

「確かにそうだ。君はそうやっていくらでも仕事を引き伸ばすことだって出来る……。もちろん他の人員にも共同で研究はさせるけど、だからって君の貢献を確実に買えるわけじゃあない」

 

 その時、ジョナスの目つきが変わった。

 

「だけど僕は根気比べはやりたくないんだ。君に自発的に協力してもらえるよう、僕が本気だということをわかってもらいたいと思っている」

 

 先程までの穏やかな声色とは全く違う、冷酷な口調。哀の表情がすぐさま変わった。

 

「ふざけないで!! 私があなたに協力すると同意した時点で、取引は成立したでしょう! 私の大切な人たちには一切手を出さないという約束よ!」

「もちろん彼らを始末したりはしないさ。だけどそんなことをしなくても君に明確なメッセージを送ることぐらいはできる……。たとえば、君の帰る場所を消し去るとかね」

「……! ふざけたことを……!」

「わかってくれシェリー。あそこはもう君の帰る家じゃないんだ。君を保護してくれた老夫婦だって、今はあそこに住んでいない。誰も犠牲にすることなく君の未練を断ち切れるのなら、僕はそうするまでのこと」

「……そんなことをされて、私があなたに協力するとでも!?」

 

 哀は、目の前の悪魔に飛びかかりたい思いを必死に抑え込んでいた。

 

「いずれわかるさ、人間は置かれた環境に順応するということがね。僕はただ、君が前に進むためのきっかけを与えてあげたいだけさ」

 

 

 

-----

 

 

 

 夜遅く、現場から本庁のデスクに戻った蘭は憔悴しきっていた。例の事件に重大な進展があったにもかかわらず、事態は解決に向かうどころか謎が深まるばかりだったからだ。ここ最近の働き詰めで、蘭は精神的にも肉体的にも疲労の限界に近づきつつあった。

 つかの間の仮眠を取ろうとデスクに突っ伏した蘭が、うとうとと眠りに落ちかけようとしていたまさにその時、オフィス内が騒然としだした。

 

「米花町の住宅で爆発だって!?」 

「ガスの事故か?」

「通報によれば、爆弾としか思えないような異様な爆発だったらしいぞ?」

「おいおいどうなってんだ!?」

 

 蘭は雷にでも打たれたかのように飛び起きた。血相を変えて奥のデスクの高木に詰め寄る。

 

「警部!! その爆発があったのはどこですか!?」

「ど、どうしたんだい毛利さん。ちょっと待ってくれ、今データが上がってきたから……。ええっと、米花町2丁目2の22番地、みたいだけど……」

 

 思わず息を呑む。その住所には確かに覚えがあった。

 

(それって多分、いえ、間違いなく新一の家の隣……ということはまさか!!)

 

「阿笠博士の家……!」

 

 蘭の言葉に高木は目を丸くする。

 

「そうなのかい!?」

「警部、私はその現場に急行します!!!」

 

 蘭は上司である高木の返事も聞かず走り出す。自分のデスクに置いていたジャケットと拳銃を手に取って。

 

「ちょっと、毛利さん!!」

 

 蘭は庁舎を全力で駆け抜け、駐車場の自分の車に飛び乗りアクセルを踏み込む。

 

(これは偶然じゃない……! 何かが……何かが確実にあの事件と繋がっている……!)

 

 ハンドルを握る右手が汗で滑る。左手はちらとスマホの通知欄を撫でたが、空振り――そのまま助手席に叩きつけた。コナンからも哀からも、今日送ったメッセージの返事は無し。やはりそうだ。彼らに何かがあった。阿笠邸の爆発だってそれに関連しているはずだ。

 

(お願い、無事でいて……!)

 

 蘭にとって、この日は長い一日だった。

 とある廃ビルで男の死体が発見された。男の身元は元探偵の蛇塚達夫。拳銃による自殺のようだった。問題は蛇塚の指紋とDNAが、例の連続殺人事件の現場で見つかったものと一致したということだ。急転直下、事件は被疑者死亡のまま決着するかに思われた。

 しかしそれでは説明のつかないことが多すぎた。

 蛇塚はなぜ自死したのか?現場では他の誰かを監禁していたような痕跡があるが、では監禁されていたのは誰で、その被害者は今どこにいるのか? そもそも蛇塚の動機は?

 彼のバックグラウンドはすぐに判明した。事業に失敗して探偵事務所を畳んだ後、蛇塚は元妻に離婚を突きつけられ一人娘の親権も失った。

 しかしその後その娘に重度の心臓病が発覚し、母親は移植手術のために莫大な医療費の金策に取り組んでいたが一向にうまくいっていなかった。

 つまり蛇塚には、カネ目当ての犯罪に手を染める動機がたっぷりとあった――だが、それが例の連続殺人事件となんの関係があるというのだろう? どうして似たような容姿の女性ばかりを狙っていたのだろう?

 このままでは事件は決着ではなく迷宮入りしてしまう――そこにこの爆発だ。何もかもがおかしすぎた。

 

(わからない……何ひとつ辻褄が合わない……! ああ、こんな時に新一がいてくれたら……!)

 

 それは全く馬鹿げた考えのはずだった。もう何年も前に死んだはずの元恋人のことなど、今さら考えてどうしようというのだろう。

 だが蘭には奇妙な予感があった。その予感は、日に日に抗いがたいものになっていた。

 新一は、生きている――。

 

 

 

 阿笠邸は轟々と燃え上がり、夜の闇を赤く染め上げていた。その地獄のような状況が、遠目からでもはっきりと見て取れる。

 蘭は現場近くの道路脇に停車し、野次馬の整理をしていた地元の巡査に駆け寄り警察手帳を掲げた。

 

「本庁の毛利です! 現場の状況は!?」

「はいっ! この通り火は止まっていませんが、爆発は最初の一回きりのようです。中に人がいるのかどうかはまだわかっていません。いかんせんこの炎が静まってくれないことには……!」

 

 消防隊による消火活動は既に始まっていたが、すぐに鎮火されそうな状況とは到底思えない。建物だけでなく、庭の木にも火が回っているようだ。玄関口は消防車によって防がれており、塀の外から中の詳しい様子をうかがうことはできない。

 

「……私が様子を見てきます」

「あっ、ちょっと刑事さん!!」

 

 蘭は巡査の静止を無視し、塀をよじ登って阿笠邸の敷地に足を踏み入れた。敷地内は酷い煙のせいで数メートル先さえ見通すことができない。

 拳銃を引き抜き、両手で眼前に構えながら一歩ずつ慎重に歩みを進めていく。間近で燃え盛る火の熱のために全身から汗が吹き出す。こんなことをしたところで、誰かが潜んでいると考える根拠はどこにもない。ただ、刑事としての勘が蘭を突き動かしていた。

 この爆発は決してガスの事故などではない。もちろん阿笠博士の実験の失敗などでもない――博士は2ヶ月以上も前から海外にいるのだから。つまり何者かがこの爆発を仕掛けたのだとすれば、その標的になり得るのは1人しかいない。

 もしも蛇塚の犯罪が、より大きな何かの一部でしかなかったとしたら――? この場所で、その何かが一本の線に繋がるかもしれない。蘭にはそう思えてならなかった。

 

「ッ!!!」

 

 正面から人の気配。

 ほんの数メートル先に誰かがいる!

 蘭が拳銃の引き金に指をかける。

 だが、煙の隙間から現れた男の顔は蘭の意表をついた。

 

「コナン君……!?」

「蘭姉ちゃん、来てたんだね」

 

 コナンは全身ススだらけで、眼鏡もひどく汚れていて目の形も途切れ途切れにしか見えない。

 しかし蘭がコナンのことを見間違うはずもなかった。新一と瓜二つのコナンのことを。

 

「……どうしてコナン君がここに?」

 

 蘭は拳銃を下ろし問いかける。

 

「念のため確認してたんだ。大丈夫、家の中には誰もいないよ。この爆発に犠牲者はいないし他の爆発物もない」

「……どうしてコナン君がそんな危険なことを? 哀ちゃんはどこにいるの!? これをやったのが誰か知っているの!?」

 

 コナンは首を横に振った。

 

「ごめん蘭姉ちゃん。答えるわけにはいかないんだ。オレはこれから、あいつを助けに行かないといけない」

「あいつって……哀ちゃんのこと?」

「この炎は警告なんだ。もしも警察が動いたら、奴らはきっと見せしめに大勢の人を殺してしまう……。博士も学校のみんなも、あいつに少しでも関わりのある人なら誰でも巻き込まれる。もしかしたらあいつ自身だって……。だから、オレがやらなきゃいけないんだ。オレが暴れるだけなら最悪でもオレだけで済む」

「何を……言っているの……?」

 

 コナンが言っていることにはまるで現実味がない。なのに彼が何ひとつ嘘を言っていないということだけはありありとわかった。

 

「オレは間違ってた。こんなことを平気でやれてしまう奴らの所じゃ、あいつは一生笑えない、一生苦しみから逃げられない。オレは一瞬だってあいつを守ることを諦めちゃいけなかったんだ」

 

 コナンは微笑んでいた。煤まみれの顔に、不釣り合いなほどに澄んだ瞳。

 

「……ごめんね蘭姉ちゃん。オレ、もう行くよ」

 

 コナンが蘭に背を向ける――その直後、蘭は銃口を向けていた。

 

「待ちなさい!! 行かせるわけが……行かせるわけがないでしょう!? 私がコナン君を死にに行かせると思うの!?」

 

 蘭の指先は引き金にかかっていた。

 それなのにコナンは、まるで恐れようともせず振り返って蘭を見つめた。

 

(どうして……どうしてそんな目で私を見るの……?)

 

 優しさや悲しみ、あるいは後悔。何もかもがないまぜになったかのような少年の瞳。

 その目を見た瞬間、こんな時だというのに、胸の奥に遠い記憶が去来した。

 あの日あのトロピカルランドで投げかけられた、彼の言葉。

 

――ゴメン蘭!! 先に帰っててくれ!! すぐ追いつくからよー!

 

 新一が笑顔で手を振って去っていったあの日。新一ともう二度と会えないような予感がしたあの日。

 なぜこんな時にそんなことを思い出したのか、ふとわかったような気がした。

 理屈ではなく、心がそれに気づいた――いや、本当はずっと前から気づいていたのかもしれない。

 

「また……私を置いていくの……?」

 

 声が震える。手も瞳も、震えていた。

 

「あの時みたいに、また……」

 

 一瞬だけ、コナンは微笑んだ。

 そして再び背を向けた。もう二度と振り返ることはなかった。

 

「すまねえ、蘭――」

 

 その声は、あまりにもかつての新一と同じで。

 

「オレはもう……、お前を守れねえ――」

 

 コナンは歩き出し、そして煙の中に消えていった。

 消火活動が実を結び周囲が暗く静まるまで、蘭はそこに立ち尽くしていた。

 

 

 

-----

 

 

 

 阿笠邸の敷地から裏庭の塀を越えて路地に出たコナンは、消防隊の目を盗んで自宅の裏口に辿り着いた。

 突然、白い光が闇を切り裂き、コナンの小さな影を路面に映し出す。

 眩しさに一瞬目がくらんだコナンだが、光の輪の中心で彼は微動だにしなかった。誰が現れたのか、彼には既にわかっていた。

 

「へへっ、一人でどこ行くつもりだよコナン。腹でも減ったのか?」

 

 バイクにまたがり、ヘッドライトをこちらに向けた大男がでかい声で笑う。

 その後部座席には笑顔の少女も乗っている。

 

「コナン君、一人で無茶するのは探偵団のルール違反だよ!」

 

 彼らのかたわらでは、細身の少年が大きな荷物を抱えて皮肉めいた笑みを浮かべている。

 

「ま、抜け駆けは彼の十八番ですからねえ……」

 

 コナンの眼鏡が、ヘッドライトを反射して白く光る。コナンは堂々と、まっすぐに背を伸ばし立っていた。姿勢、声色、表情。そのすべてにかつての姿が戻っている――

 "名探偵"江戸川コナンの姿が。

 

「……もう一度言う。こっから先は99%殺されに行くようなもんだってことは理解しとけ。引き返すんなら、今だ」

 

 3人が躊躇なくうなずく。

 

「オレは必ず、命に替えてでもあいつを助け出す。だけどオレ一人の命じゃあ、どうあがいても足りそうにねえ……」

 

 コナンは拳を固く握り、叫んだ。

 

「だからおめーらの命も、一緒に懸けさせてくれッッ!!!」

 

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