10年越しの再始動〈リビギンズ〉   作:ヘイドラ

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【改訂版】④

 0時をとうに過ぎた深夜でも、そのビルの1階と最上階からは明るい光が漏れている。

 コナンは双眼鏡を外してつぶやく。

 

「やっぱりあのビルの上だな、灰原は」

「ええ、おそらく……。発信器からの信号は途絶えてしまいましたけど、それまでは動きがありませんでした。今も灰原さんはあの中にいるはずです」

 

 膝をついてビルを観察するコナンと光彦、そして周囲を警戒中の歩美と元太は、抑えた声で状況を確認しあっていた。

 大きな埋立地であるこの地区は土地にやたら余裕があって、一つ一つの建物がたっぷり間隔を空けて建てられている。コナンたちはそのうちの一棟の影に身を隠し、広い道路を挟んだ向かい側の建物に目を光らせていた。深夜ともなれば人も車も皆無に近いエリアではあるが、だからこそ目立たぬよう慎重に振る舞う必要があった。

 

「でもよぉコナン、こんな普通の会社が本当にそんなヤバいことやってんのか?」

「まあ確かに、表向きは全然怪しく見えねえってのは確かだな……」

 

 とはいえかつての黒の組織は立派な製薬会社を傘下に収めていたし、なんなら有名自動車メーカーの会長が構成員の1人だった。それを思えば、中堅企業のひとつやふたつ隠れ蓑として持っていてもなんらおかしくはない。

 

「やっぱりなんでも見かけによらないよね。毛利のおじさんだって名探偵には見えないし」と失礼千万の歩美。元太は元太で「でもヨメさんの方は見た目どおりに超コエーぞ」と相づちを打つ。コナンは冷や汗を垂らして苦笑いするしかない。

 

「ここで話していてもらちがあきませんよ。とりあえず偵察してみましょうか?」

「偵察? 一階は警備員がうろちょろしてんのにどうやって偵察すんだ?」

 

 光彦はバッグに手を突っ込んでにやりと笑う。

 

「じゃじゃーん! 僕の新発明、超小型偵察用ドローンです!」

 

 光彦の手に乗っているのは、新品の消しゴムほどの大きさしかない丸っこいグレーの物体だった。本体の上にはちょこんとプロペラがついている。市販の小型ドローンはプロペラを含めれば手のひらからはみ出す程度の大きさだが、これは光彦の手相さえ覆えていない。

 

「まさかそのサイズでドローンとして使えるってのか……?」

「そのまさかですよ。体積のほとんどがバッテリーセルで、航続時間は10分しかありませんが充分です。更には高度なセンサーも備えていて――」

「説明はいい、行動が先だ」

「はいはい」

 

 光彦がゲーム機のコントローラーのような――というより実際に市販のゲーム用コントローラーを流用しただけのもの――を操作すると、ドローンがゆっくりと浮上する。そして目当ての建物に向け加速しながら飛んでいくのだった。

 

「光彦くんすごーい! 画面もきれいに写ってるよ!」

 

 光彦のゴツい風体のノートPCに、ドローンから送られてくる映像がくっきり映る。1階ロビーはとても明るく、光量にはまったく不自由しなかった。ガラス張りの正面エントランスの外から容易に中の様子が伺える。

 

「ロビーの中は、警備員がずいぶん多いですね……普通の会社の夜間警備にしては厳重すぎる」

「ああ、実態はろくでもねえ会社だっていう証拠みてーなもんだ」

「でもよぉコナン、こいつらフツーの警備会社じゃねえか? あの制服のロゴ見たことあんぞ」

 

 元太の言う通り、彼らの制服もそのロゴマークも、テレビCMなどでお馴染みの大手警備会社のものだ。そして彼らの顔立ちや雰囲気も、悪の組織の構成員というよりは普通の会社員にしか見えない。

 

「ああ、おそらく彼らは単なる派遣の警備員だろう。この会社が裏で何をやっているかなんて知りもしねーはずだ」

「となると、彼らは上の階には行けないようになっているということでしょうか?」

 

 ロビーの奥には自動改札のようなゲートがあって、そのゲートの向こう側にはエレベーターが見える。しかしどうやら警備員は全員そのゲートの手前に配置されているようだった。ゲートの先には内部の人間しか入れないようになっているというのは、いかにもありそうな話だ。

 

「おそらくな……。なあ、なんとかしてドローンで中に入れねーか?」

「それは無理です。誰かがエントランスを開けてくれないことには……。ここでじっと待っていれば、誰かが出入りする時に潜り込めるかもしれませんけどね」

 

 それはもちろん可能な方法ではあったが、同時にずいぶんと気の長い話でもあった。仮にシフト交代まで誰も今の持ち場を離れないとしたら――その可能性は大いにある――侵入のチャンスが来る頃には朝になっているかもしれない。

 

「ねえ、他の入り口はないの? 裏口とか?」

「そうですね、とりあえずグルッと一回りしてみましょうか」

 

 裏側に回ると、それはあっさり見つかった。地下へと降りる入口があって、そこに扉はなくゲート式の可動バーがあるだけだったのだ。地面にはわかりやすく指示経路の矢印も描かれている。

 

「貨物搬入口兼地下駐車場ってとこだな。とりあえず入ってみよう」とコナン。光彦はうなずき、暗い地下へとドローンを進めた。

 

 駐車場の中は薄暗かったが照明もついており、視界には不自由しなかった。映像のノイズが少し増えた程度だ。広いスペースの半分ぐらいが車で埋まっていて、中には大型トラックや重々しい大型車両も見受けられる。

 その中の一台にコナンの目が留まる。

 

(あれは……ジョナスが乗っていた車……!)

 

 見間違いようもない。初めてジョナスがコナンの前に現れた時に乗っていた、黒づくめの大型SUVだ。あの時とっさに覚えたナンバープレートの数字も間違いなく同じ。

 

(やっぱり、奴はここにいる……! そして灰原も……!)

 

 コナンはごくりとつばを飲み込む。手汗もじんわりと滲んでいた。

 

「ねえ、あれってエレベーターじゃない?」

 

 歩美が指差した先には、ガラスの仕切りの向こう側で他の照明とは色味の違う明かりに照らされた扉が映っていた。近づいてみれば、なるほど間違いなくエレベーターだろう。ついでにそのそばには非常階段とおぼしき古びたドアや管理室、そして設備室らしき部屋もあった。管理室の中に人がいるのかどうかはこの角度の映像ではわからない。

 

「やったぜ、誰もいねーじゃねーか。あそこから忍び込めばすぐに上まで行けそうだぜ!」と大喜びの元太。

「いや……いくらなんでもそんな簡単なはずがねえ。正面をあれだけ固めているのにこっちは手薄ってことは、こっから上に上がれるようにはなってねえってことだ」

「当然の結論ですね」

「うぐぐ……」

 

 言葉に詰まる元太を尻目に、光彦は言葉を続けた。

 

「あのエレベーターが物理的に上まで繋がっているのか、それともせいぜい1階のロビーぐらいにしか通じていないのか……。どちらかはわかりませんが、いずれにせよカードキーか何かがないと使い物にはならないでしょうね」

「それってうちのマンションと同じってこと?」

「まあいずこも似たようなものでしょう。……それに周囲を見てください。監視カメラがここにもここにも。大した密度ですよ。ま、僕のドローンは小さすぎて見えないでしょうけどね」

 

 光彦が肩をすくめ、ちらりとコナンの方を見る。

 

「さて、どうしましょうかね」

「……これがもしキッドなら、どうにかして華麗にキーを盗んじまうんだろうよ。けど俺たちにはじっくりキーを探しているような時間はねえ。オレの予想通りなら、そう遠くないうちに灰原は海外に連れ出されちまう。そしてそれはもしかしたら明日かもしれねえ……」

 

 コナンは己の左拳を右手で握りしめ、自分がかすかに震えていることを確かめる。手汗はもうぐっしょりとしていて、喉もひどく乾いている。自分自身の心音が、やかましいほど頭に響く。

 

「へへっ、今さらビビってんのかコナン?」と元太が白い歯を見せる。

「……そうだな、オレはビビってるよ。強がったって仕方ねーしな」

 

 大きく息をつき、笑みとともにそんなことを言い出すコナン。すっと立ち上がり3人を見回す。静かに、しかし腹の底から言葉を紡ぐ。

 

「……みんな、聞いてくれ。オレはずっと自分の責任から逃げてきた。光彦の言うとおり、最低だよオレは」

「……」

 

 光彦は無言でコナンを見つめ返す。

 

「だけど……オレはもう逃げない。オレはあいつに……灰原に、どうしても伝えたいことがあるんだ」

 

 歩美が喜色満面に目を輝かせる。光彦はやれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「まったく、待ちくたびれましたよ……。さて、現実にこの目下の難関を前にどうします?」

「……ちょいとばかり無茶するしかねーだろうな」

 

 コナンは口の片方を吊り上げて笑みを浮かべる。

 

「へへっ、それでこそだぜ」元太が鼻をこすって笑う。

「コナンくん、あたしだって準備万端だよ!」

 

 

 

 

---

 

 

 

 伊藤明人、28歳。

 彼は実直な会社員だった。中学高校と柔道部でそこそこの成績を残し、その腕を買われて警備会社に就職した。過去には駅で暴漢を背負い投げ一本で取り押さえ表彰されたこともある。とはいえ、つまるところ彼はごく普通の一般市民だ。腕力には多少の自信はあるとしても。

 その日彼は、とある民間企業の夜間警備に派遣されていた。持ち場は正面エントランスの自動ドア前。何事もない、日常の仕事――

 

「うん……?」

 

 ふとこんな時間に、外から誰かが歩いて近づいてくる。暗くて顔はわからないが、右手に何か荷物を抱えているようだった。

 やがてその男が充分に近づいてくると、ロビーの明かりに照らされ男のいかつい顔が見えた。かなり大柄な体格で、服の上からでも鍛えられた分厚い肉体の持ち主であることがわかる。伊藤は胸ポケットの無線を手に取る。

 

「あー、不審人物が正面エントランスに接近中。至急エントランスに集合。繰り返す、至急エントランスに――」

 

 男が抱えている不審な物体、それが妙に伊藤の胸をざわつかせる。

 

(石……?)

 

 メロンほどの大きさの石――このビルの庭先に飾られているものだ! それに気づいた直後、男は邪悪に笑うと同時に思いきり踏み込みその石を投げた!

 

「はいいっ!!??」

 

 伊藤はとっさに横に飛んで石から逃げた。当たり前の行動だ。あんなデカい石をぶつけられたら、人間は死ぬ!

 伊藤の前にはガラスの自動ドア。しかしそんなものは壁にはならない。けたたましい音とともにガラスが砕け、無数の破片が足元に飛び散る。潮風がロビーに吹きつける。そしてその男も。

 

「なんのつもりだお前っ!」

 

 伊藤は即座に体勢を立て直し、その男に飛びかかった。走る勢いのまま脚を掛け、腰に腕を回して投げを仕掛ける。

 その瞬間、伊藤は「何か」にぶつかった。いやぶつかったわけではない。こちらが技を仕掛けたのだ。だが――

 

(動かない)

 

 男はピクリとも動かなかった。まるで電柱――? 巨木――? 自分は一体何を投げようとしている――?

 背筋に寒気が走った瞬間、伊藤は顔面をその男に掴まれた。分厚い大きな手のひらに視界が覆われ、体の自由が一瞬にして失われ――

 次の瞬間、伊藤は宙を舞った。男が伊藤を放り投げたのだ。それは柔道の投げ技などではなかった。そもそも技でもなんでもなかった。わんぱくな子どもが飽きたおもちゃを放り投げるように、ただ腕力で適当に投げただけだ。

 

「なんだこいつ……!」

「拘束しろっ!!」

 

 周囲の警備員たちが次々と駆けつける。彼らは一斉に侵入者――小嶋元太を取り囲んだ。

 

 

 

---

 

 

 

「ボス! ロビーからの警報です。侵入者のようです!」

 

 ソファーの上でうたた寝していたジョナスは、部下の声によって身を起こした。

 中央の大型モニターにはロビーの様子が映しだされている。熊のような大男。まったくの素手で豪快に暴れ回っている。

 

「へえ……シェリーのお友達かな? ずいぶんと活きのいいやつがいたもんだ」

 

 形勢は一方的だった。武器といえばアルミ製の警棒ぐらいしか持っていない警備員たちでは到底歯が立たないようだ。

 

「行こうか?」

 

 背後からジョナスに声をかけたのは赤髪の女マチルダ。氷のような冷たい目。だがジョナスは頭の後ろで手を組んだまま、首だけを横に振った。

 

「あそこはカシワギで充分さ」

 

 マチルダはうなずくでもなく無言のままだった。その表情はなんの感情も表しておらず、眉ひとつ動かさない。

 ジョナスはソファーに背をもたれながらクスリと笑う。

 

「それにしても今出てきているのはあの男一人か……あからさまな陽動もあったもんだ。となると本命は地下から来るか、あるいはそちらも誘いなのか……?」

 

 ジョナスは文字通り手ぐすねを引いて口の端を吊り上げた。

 

「歓迎するよ、工藤新一。まずはここまで辿り着けるか……ぜひそうであって欲しいけどね」

 

 

 

---

 

 

 

 元太がロビーで暴れ始めたちょうどその時、コナンは地下駐車場の車の陰で身をかがめ息を潜めていた。

 1分と経たないうちに、それまで静寂に包まれていた地下空間に複数の男たちの足音と話し声が響き始める。

 コナンの探偵メガネの片方のレンズには、駐車場のあちこちに拡散していく黒服たちの姿が映る。光彦のドローン映像を転送するように設定したのだ。

 

「(思ったとおり……こいつらは表の警備員じゃない。全員が銃を持ってるみたいだ)」

 

 コナンは声を潜めて目の前の人物に耳打ちした。

 

「(さっすがコナンくん! コナンくんの予想通りだね)」

 

 歩美は嬉しそうだったが、コナンは改めて身を引き締める。

 表で元太が暴れれば、それが陽動作戦であることはすぐにバレる。それこそがコナンの狙いだった。地下には一般の警備員ではなく武装した組織の人間が送り込まれてくるはず。そして彼らの中には上階へのキーを持っている者がいるはずだ。

 危険なアイディアではあったが、手っ取り早くキーを入手するのにこれ以上早い方法は考えられなかった。もとより危険は百も承知なのだ。

 

(今のところ確認できるのは5人……はたしてこれで全員かどうか。どっちにしろ、麻酔銃や他のアイテムを駆使して一人ずつ倒していくしかねえか……)

 

 コナンはあごに指を当て、昔懐かしい推理ポーズでまずはこちらに近づいてくるひげもじゃの黒服を倒す方法を考え始めた。

 だがその思考は、歩美の声によって遮られる。

 

「(ねえコナンくん、あたし行ってくるね)」

「(へ? い、行ってくるって?)」

「(ここはあたしに任せて)」

 

 自信満々とばかりに胸に手を当てる歩美。

 

「(ちょ、ちょっと待って歩美ちゃん、奴らは銃を持ってるんだよ!?)」

「(大丈夫大丈夫! あたしこういうの得意だもん)」

 

 次の瞬間、コナンはわが目を疑った。歩美が身をかがめてスウッと動き出す。そのゆるやかな動きになぜか目が追いつかない。まるで指の隙間をやわらかな風が通り抜けるように、視界の外にへとすり抜けていったのだ。

 

「……ッ!!」

 

 コナンの頬に冷や汗が流れる。

 なんの足音も、衣擦れの音さえ聞こえない。完璧なまでの気配断ちと無音移動。こんな技術を持っているとしたら、それは探偵というよりむしろ一流のスパイか暗殺者のような――

 

(オレが歩美ちゃんの尾行に気づかなかったのって、こういうことだったのか……!)

 

 

 

---

 

 

 

「おらああああああっ!!!!」

 

 元太は叫びとともに小太りの男を放り投げた。既にかなり暴れていたが、まるで疲れる気がしない。体がエネルギーに満ちあふれている。こんな感覚は初めてのことだ。

 

「おいっ! 誰か上に行く鍵持ってねーのかよ!!」

 

 元太は床に転がっている警備員たちに大声で尋ねる。既に彼らは全員戦意を喪失していた。

 

「そ、そんなこと言われても……」と伊藤が首を振る。

「くっそー、そんなにうまくいかねーか……」

 

 元太が舌打ちしたその時、背後に誰かが立っていた。振り返った元太が目にしたのは、風船のように膨らんだ巨大な筋肉。頭蓋骨より太い首、異様なまでに浮き上がる血管――それらの情報は一瞬で元太の脳裏を駆け巡り、全身の体毛を逆立てた。

 男は元太めがけ拳を振り下ろした。ガードの上、しかしまるでハンマーのように重く激しい衝撃が全身を揺るがす。

 

「ぐっ……!」

 

 歯を食いしばった元太が体勢を立て直すより早く、30センチを超える靴底が腹を撃ち抜く。

 ただの前蹴り。なんの変哲もない基本技にして、しかしすさまじい破壊力。

 巨体が後方に吹き飛ぶ。むしろ吹き飛ぶことで、多少はダメージを逃がした。しかしなんというパワー!

 

(オイオイ、オレよりつえーじゃんこいつ……)

 

 元太は一瞬で目の前の男の実力を感じ取った。大きく、強い。自分よりも。

 スキンヘッドにあごひげを蓄えたその男は、首を傾けながら二コリともせず冷徹な目で元太を見下ろしている。

 一目で格上とわかる相手と対峙するのは中学一年以降で初めてだ。膝がわずかに震えているのはダメージのせいなのかそれとも恐怖心のためか? 自分自身にすらその答えはわからない。

 

(だからって、退けるかよ……!)

 

 拳を固め、地面を踏み鳴らす。

 

「どけよ、ハゲ」

 

 

 

---

 

 

 

「そっちは見つかったか?」

「いや、まだだ」

 

 音が反響する地下駐車場の中で、黒服たちは地声で連絡を取り合っていた。

 その一人であるひげもじゃの男は、両手で銃を構えながらゆっくりと歩みを進めていく。

 その男から見て柱の陰、死角の位置で歩美は息をひそめていた。

 歩美から見てもその男は死角に位置しているから、直接その姿を見ることはできない。しかし男は自分の発する音に対してまるで無頓着だった。歩美は男の位置を手に取るように把握できた。

 男が柱のすぐそばにまで近づいたその時、歩美は獲物を狙う猫のように一切の音も立てることなく半身で動き出し、するすると男の背後に回り込んだ。

 銃を構えてあちこちを見渡すそのひげもじゃは、しかし真後ろに忍び寄る何者かの存在には無反応だ。

 残り80センチ。歩美はその瞬間呼吸までもを殺し、"ハント"を開始した。

 縮地の踏み込みで左腕を男の首に回し右腕でロック。全体重をかけて一気に引き倒す。

 いかに体格差があろうとも、まったくの不意打ちでこれほど完璧に頸動脈を絞められて抵抗のできる人間はいない。

 歩美の背中が地面に強打した時、ひげもじゃは既に意識を失っていた。

 

「そこに誰かいるのかっ!!」

 

 さしもの彼女も、敵を仕留めたその瞬間の物音まで消せるわけではない。異常に気づいたもう一人の男がただちに迫ってくる。

 男は躊躇なく銃を撃ち、柱に一発、車体に一発が命中する。

 歩美はとっさに身をかがめて這うような姿勢で脱兎し、車の背後から別の車の背後にへと跳躍していた。

 

「そこかっ!!」

 

 ほんのわずかな物音に反応した男がもう一発の銃弾を放つ。車の窓を貫通し、壁に穴を空ける。歩美の頭部までわずか十数センチ。幸いにして男はそのことに気づいてはいなかったが。

 

(あの人、さっきの人より手強い)

 

 歩美は即座に相手の力量を感じ取っていた。冷汗が頬を垂れ落ちる。これほどのピンチはいつ以来だろうか。

 だがたとえどれほど命の危険があったとしても、それは歩美にとって人生初の出来事ではない。

 なんの力もなく、ただ誰かの助けを待つことしかできなかった子ども時代の危機の数々。そちらの方がずっと恐ろしかった。

 足元の小さな石ころを拾い上げる。小さすぎて直接ぶつけたところで人間は倒せそうにない。

 しかし彼女にとっては願ってもない武器だ。

 

 コンッ

 

 男の背後で乾いた音が鳴り響く。

 考えるより先に、男は即座に振り返り2度引き金を引いた。

 その音がただ石ころが車にぶつかっただけのものだと気づくには、次の出来事はあまりにも一瞬すぎた。

 側頭部への強烈な衝撃。

 体を崩され、横にあった柱に叩きつけられ頭が再度揺れる。

 視界に火花が散った直後に襟首を極められ、呼吸が止まると同時に体が宙を舞う。

 後頭部から地面に叩きつけられた男は、しかしかろうじて意識を残していた。吐き気をこらえながら銃を握り直し、目の前の誰かに銃口を向けようとする――が、次の瞬間かかとが男の顔面に踏み落とされる。

 男はもはやその日のうちに目を覚ますことはなかった。

 

「あっちだっ!」「囲めっ!」

 

 銃声を聞きつけ、既にそこにはフロア全体の黒服が集まり始めていた。

 彼らはかすかな物音や動く影に反応して躊躇なく銃弾を放っていく。武装だけでなく動きの精確さや判断の速さも、歩美がこれまで相手にしてきた素人犯罪者たちとは確かに格が違う。

 しかし彼らは知らなかった。

 歩美がこの緊迫に満ちた実戦において、その技能と感性を急速に研ぎ澄ましつつあることを。

 

「どこに行った……?」

 

 確かに複数人で囲ったはずだというのにまたたく間に姿を消した標的を、顔中ピアスだらけの男が慎重に探していた。

 柱や車の陰はいくらでもある。必ずどこかに隠れている。

 ピアス男はトラックの周りを一周し、それからふと足元に視線が向かう。

 

「下か……?」

 

 膝をつき、トラックの下を覗き込む。暗くてすぐにはわからなかったが、どうやら誰もいないようだ。

 

「ちっ、一体どこに……」

 

 カチッ。――わずかな金属音。

 男が顔を上げた瞬間、何かが首筋に刺さった感触。――針。

 ぐらりと傾く景色。唐突で異様な眠気に襲われ、ピアス男の意識は闇底にへと落ちていった。

 

「また誰かやられたぞっ!」「くそっ、姿を見せやがれっ!」

 

(コナン君さっすが♪ これであと2人……)

 

 歩美はトラックの荷台の上でうつ伏せになりながら、下の様子を観察していた。

 命がかかっている状況だというのに、ひどく落ち着いている自分に気づく。"ゾーン"というやつだろうか。こんなにも集中している感覚は生まれて初めてだ。

 

(大丈夫、あの人達には負けない)

 

 歩美は総攻撃を開始した。荷台から飛び降り、子猫のように静かでなめらかな着地からロン毛男の背後に低く忍び寄り、またしても奇襲の一撃が成功する。

 最後の一人は顔面タトゥー男。柱の陰からの急襲で金的を打ち抜き、投げ技でコンクリートに叩きつけ失神させた。

 地下フロアにようやくの静寂が訪れる。

 さしもの歩美も大きく安堵の息をつき、それからタトゥー男の背広に手を突っ込む。

 

「あった! 絶対これだ!」

 

 ICチップ型のカードキーを内ポケットで発見し、歩美の表情がパッと明るくなる。

 休憩している暇はない。すぐに1階の元太と合流して上に行かねばならない。本当の戦いはおそらくここからだ。

 歩美はエレベーター前に走り、呼び出しボタンを押した。扉上の階数表示に気を取られていたまさにその時だ。

 

「手を上げろ」

 

 背後から響く冷徹な声。

 撃鉄が起こされる音。

 

「こちらを向くな。両手を上げてゆっくりとひざまずけ。それ以外の動きをするなら殺す」

 

 歩美は己の油断を恥じた。おそらくは黒服の一人が、出動することなく待ち伏せていたのだろう。

 目に映る範囲の敵を仕留め終わった時点で警戒を解いた――それは未熟さの現れだった。

 声の距離からして、相手は後方3、4メートル離れた位置にいる。彼らの銃の腕は確かだ。この状況から逃走や反撃ができる可能性はない。

 歩美はゆっくりと両手を上げ、静かに目を閉じた。

 直後、背後から突然の大声。

 

「おいお前ら! なんだこのざまは!!!」

 

 男の心臓が縮み上がり、思わず後ろを向く。

 

「ボ、ボス!! どうしてここに!?」

 

 だがその声の主はボス(ジョナス)ではなかった。男の目に映ったのは、見覚えのない少年がまるでサッカーシュートのように鈍く光る黒い物体――拳銃――を蹴り飛ばす姿。次の瞬間、男の顔面に拳銃(それ)が直撃し体ごと吹き飛ぶ。

 

「ふう……無茶しすぎだよ歩美ちゃん」

 

 コナンが胸をなでおろす。

 

「えへへ~、ありがと、コナンくん!」

 

 

 

---

 

 

 

「ぐあっ……!」

 

 よろめく元太。彼はほぼ防戦一方の戦いを強いられていた。

 目の前の男は自分と同じだ。技術ではなく純粋なフィジカルとパワーでねじ伏せるいわば"腕力屋"。同じタイプだからこそ残酷なまでに力の差が表れてしまう。

 

(やっぱクスリやってるよな~コイツ……)

 

 男の筋量や体つき、そして異様な血管の浮き方は明らかに不自然だった。元太に薬物の知識はない。しかしナチュラルな人間は"こう"はならないということはわかる。

 

(あ……ちょっと笑ってやがる)

 

 仏頂面だった大男のいかつい顔にうっすらと笑みが浮かぶ。勝利を確信し、哀れな獲物をあざ笑っているのだろう。

 男は元太のパンチによって鼻血を流していたが、ダメージがあるようには見えない。その鼻血を舌でなめ取り、ニタニタとした笑みがますます不気味さを増す。

 

(獲物を前に舌なめずりは三流って言うけどよぉ……)

 

 大男が元太に襲いかかる。豪腕が次々と叩きつけられる。

 腰を落とし全身を固め全力で防御する元太だったが、徐々に後退していくとともにガードが壊されていく。

 

(その三流より弱いオレはしょせん雑魚ってこと……)

 

 背中に壁。これ以上後ろには下がれない。

 男の連撃はまだ止まらなかった。

 元太の腰が少しずつ落ちていく。崩れ落ちる膝。

 大男が笑みを浮かべたその瞬間――

 元太は真上に跳躍した。

 男は、近づきすぎていた。だから真下から襲ってくるそれに対する備えはなかった。

 頭突き。

 最も原始的で最もシンプルな打撃。元太の脳天が、真下から男のあごを打ち抜く。

 ゴンッ!!!という、ボウリング玉の衝突のような轟音がロビーに鳴り響く。

 男はよろめき、力なく後退した。顎が砕けた感触。視界には星が飛んでいるだろう。

 

「どけっつっただろハゲ」

 

 全速力でタックルを仕掛ける。鼻頭への頭突き、間髪入れずに金的への蹴り。ダメ押しはかつて超有名ボクサーが犯した世紀の大反則・耳かじりだ。反則に次ぐ反則。しかしルール無用の戦場においてはすべてが合法打(リーガルブロー)だ。

 

「うぎゃああああっ!」

 

 強烈な痛みに男が絶叫する。耳から血が吹き出す。

 完全に無防備に腰を丸めるその男を見下ろし、元太は大きく脚を上げ背中が前に出るほど上体をひねり振りかぶる。

 最大の加速をつけ、全体重を拳に乗せてただただ力いっぱいに――振り抜いた。

 

 

 

「はあっ、はあっ……」

 

 大の字で地面に転がる男を見下ろし、元太は膝に手を置いて呼吸を整えていた。全身が痛い。背筋を伸ばそうとするだけで筋肉がビクッと引きつる。

 

(まだまだだな~、オレ)

 

 しかし今は勝利を味わっている場合でも反省している場合でもない。ここはまだ入り口(エントランス)なのだ。

 ロビー奥のエレベーターに目線を移したちょうどその時、その扉が開いてお馴染みのメンツが現れた。

 

「元太くん、そっちは大丈夫!?」

「歩美! コナン! そっちもうまくいったのか!?」

「うん、バッチリ♪」

 

 笑顔でカードキーを掲げる歩美。

 その瞬間、元太の体にみるみる精気が戻っていく。己の拳と拳を突き合わせて元太は笑った。

 

「おっしゃあ、乗り込むぞおめーら!!」

 

 

 

 

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 エレベーターの階数表示が刻々と数字を増していく。はたして目的の13階で何が待っているのか。歓迎のお菓子やケーキでないことだけは確かだ。

 

『いいかおめーら。奴らは間違いなくオレたちが来ていることをわかっている。とりあえず監視カメラは片っ端から壊したけど、まあ行先はバレバレだからな』

 

 歩美は先程のコナンの言葉を思い出す。

 

『オレが奴らの立場ならこうする。エレベーターホールに人を並べて、到着と同時に一斉射撃だ。蜂の巣が出来上がってハイおしまいってわけさ』

 

 歩美は「こわ~い」と口にするが、表情はまるで怖がっていない。

 

『だからこそ……そこを突破できれば一気に奥まで突入できる。それが最大のチャンスってわけさ』

 

 コナンは笑みを浮かべ、脇に抱えている()()()()を大切に撫でた。

 

 

 

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 13階。

 エレベーター扉上のランプが点灯し、到着を知らせる。

 そこで待ち構えるは4人の黒服。全員が銃を構えており、扉が開くとともに侵入者を風穴だらけにする心づもりだ。

 だがその扉が開いた時、黒服たちが目にしたのは予想外の光景だった。

 

「空っぽ……?」

 

 ほんの一瞬、彼らは呆気にとられた。中はもぬけの殻だった――いや、そうではなかった。

 よく見ればすぐわかるのに一瞬だけそう見えたのは、想定していた場所にはいなかったからだ。そして彼らに、よく見るような隙は与えられなかった。

 

 ドン!!!

 

 突然、横からの轟音。黒服たちが気づいた時には、何者かが一瞬で距離を詰めてきていた。信じられないようなスピードで何かが突入してきたのだ。

 銃を構え直すよりも早く、その何者か――コナンと元太はその勢いのまま集団の真っ只中に突っ込んできた。そのすさまじい衝撃はバイクに跳ねられたも同然で、たまらず男たちは跳ね飛ばされてしまう。

 乱入者は一気に囲いを突破し、後方に突き抜けた。

 

「なんだあれは、スケボー!?」

「非常階段を昇って来たってのか!?」

 

 4人の黒服達のうち、少なくとも2人は跳ね飛ばされた勢いで銃を落としていた。狙い通りの最高の好機。

 

「今だ!!!」

 

 スケボーをターンしたコナンが叫ぶ。彼の背後から元太が飛び降り、全力で駆け出す。

 誰もいないはずのエレベーターの中で響く着地の音。天井の角に張り付いていた歩美だ。

 いわばそれは、猛牛と豹による同時突撃。

 歩美は走りながら斜めに跳躍して壁を蹴り、反動で更に高く跳んで上から襲いかかった。同時に元太は正面から突進しショルダータックルで一度に2人を弾き飛ばす。密着戦となった今、銃よりも彼らの方が速かった。

 一発の銃声が鳴り響くが、その弾は天井に穴を空けたのみ。銃口を向けたと同時に歩美の蹴りによって腕を跳ね上げられたのだ。

 その直後に歩美の飛び蹴りと元太の肘打ちを同時に浴びた長髪の男は、一瞬で意識が虚空に飛び去った。

 更にコナンも背後から高速スケボーによる体当たり攻撃を加え、エレベーターホールは混沌と化す。

 かくしてその場は制圧され、つかの間の静寂が訪れた。

 

「ふ~、うまくいったみてーだな」

 

 コナンは胸をなでおろす。

 

「久しぶりのわりには大したもんじゃねーかコナン」

「ああ……。光彦のヤローには感謝しとかねーとな」

 

 コナンは足下にあるものに視線を落とす。あまりにも懐かしい、ターボエンジン付きスケートボード。大きさも今のコナンの体格に見事にフィットしていた。このスケボーがあるだけで百人力になったような気さえする。

 

「ふふっ、とっても似合ってるよコナンくん! なんだか子どもの頃に戻ったみたい」

「アハハ、喜んでいいのかどうなのか……」

 

 とはいえ、コナンと元太がエレベーターに乗ることなく非常階段からこの速さで登ってこれたのは、間違いなくこの"相棒"のおかげだ。

 コナンと歩美は2つ入手できたカードキーを分け合い、エレベーターと非常階段から同時に突入する作戦を選んだ。

 もちろんスケボーである以上は手すりの上を走る必要があったが、ぶっつけ本番でもそんな曲芸じみたライドができるという自信がコナンにはあった。何しろこのスケボーひとつでこれまで数え切れないほどのハリウッド映画じみた追跡劇や脱出劇を演じてきたのだから。

 

「さて、のんびりしてるわけにはいかねえ……」

 

 奥に進む通路は左右2方向に分かれている。はたしてどちらが正解の道なのか。

 

「オレは右に行く。おめーらは左を頼む!」

「うん、わかった! 気をつけてねコナンくん!」

 

 コナンはうなずいてスケボーを起動させ走り出す。

 歩美と元太もすぐに先にと進んだ。

 

 

 

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 歩美と元太が選んだ通路の先には、広々とした大部屋が広がっていた。オフィスルームのはずだが、机や機械のたぐいは何ひとつ置かれていない空っぽの空間。

 その大部屋の真ん中に、一人の男が立っている。

 若々しい顔、明るい金髪、こめかみの火傷痕……コナンから聞いた通りの姿。

 

「元太くん、あの人って……」

「ああ……ジョナスとかいうクソヤローだな」

 

 立ち止まった元太は、離れた位置にひとり立っているジョナスに奇妙な違和感を覚えていた。

 銃も何も持っていない、まったくの素手。すらりとした長身に引き締まったたくましい体の持ち主ではあるが、特別な巨漢でも異常な筋量でもない。どう見ても普通の人間の範疇だ。

 それなのに、元太の本能は大音量で警報を鳴らしていた。冷や汗が頬を垂れ落ち、固く握った拳が震えだす。

 

「残念、彼はこっちには来なかったか……。まあ君たちを相手に遊ぶのも悪くない。カシワギに殴り勝った腕力にも興味があるしね」

 

 ジョナスがシャツの袖をまくって口の端を吊り上げる。

 

「さあ、始めようか」

 

 

 

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「開けなさい! 一体何が起きているの!? 誰かいるんでしょ! ここを開けなさい!!」

 

 哀はドアを何度も叩いて声を張り上げていた。彼女を眠りから覚ましたのは銃声の音だ。その音の後にフロアは再び静まり返っていたが、落ち着いていられるはずもない。

 哀は寝室として与えられた小さな部屋に閉じ込められていた。ちょっとしたホテルのようにベッドやインテリアは整えられていたが、小綺麗なだけの牢獄であることに変わりはない。

 哀の脳裏に嫌な予感がよぎる。もしや彼が、ここに来ているのではないか?

 あの銃声はそうとしか考えられなかった。

 

(お願い工藤くん、無茶はしないで……どうか、無事でいて……)

 

 

 

 コナンはいくつものドアが並んでいる通路にたどり着いていた。この中のどこかに哀がいる可能性は大いにある。

 

「灰原……どこだ……?」

 

 コナンはスケボーを小脇に抱えて一番手前のドアを開く。箱や書類がいっぱいの倉庫部屋のようだ。探偵としては興味のある場所だが、関わっている暇はない。

 次の部屋は会議室。真ん中に大きなテーブル。ここも外れだ。

 3つ目のドアに手をかけた瞬間、コナンは人の気配を感じ取った。この中に、誰かがいる。

 

(灰原……?)

 

 勢いよくドアをスライド――

 赤髪の女。平気で何人も殺してきたかのような、恐ろしく冷酷な目。

 全身に寒気が走ったその瞬間、コナンは後ろに飛び退いていた。その本能的な退避が命を救う。鼻先ほんの数センチ前を何かがかすめたのだ。

 

「ぐっ!」

 

 後ろの壁にぶつかったコナンは、そこで女の全身を目の当たりにする。

 燃えるような赤髪、氷のような冷たい目、黒づくめの衣装。そしてその右手には、刃渡り60センチほどの刀剣が握られていた。反りのない直刀。その鈍い輝きは、それが美術品などではない人斬りの刃物だとひと目でわからせる。

 

(ジョナスの右腕……!)

 

 他の黒服たちとは異次元の存在感を放っていたあの女――マチルダが今、コナンの前で殺気を放っている。

 コナンは頭を下げて横に飛び、かろうじてマチルダの斬撃をかわす。そして思いきり走って距離を取ってから再び向き合った。

 

(オイオイ、壁が切れてるぞ……)

 

 一線の太刀跡。恐ろしく深い。もちろん剣の方はまったくの無傷だ。

 マチルダは構えらしい構えを取ることさえなく、剣先をだらりと垂れ下げたまま普通にまっすぐ歩いてコナンに向かってくる。戦闘というより、まるで散歩でもしているかのような警戒感のなさ。

 

(冗談じゃねえ、こんなのまともに相手してられるかってんだ……!)

 

 コナンはすぐさま奥の手を使うことにした。

 時計型麻酔銃。これなら戦闘力などなんの関係もない。光彦の改造により2本の針が搭載されていたが、地下で1本使ったために残弾は1。外すわけにはいかない。

 一度深呼吸してから一気に腕を眼前に上げスイッチを押す。長さ2センチにも満たない極細針が、目にも映らないほどの高速で飛び出した!

 

 ビュンッ

 

 マチルダが無造作に剣を振るう。

 麻酔針は――どこにも刺さっていなかった。それはどこかに消えてしまっていた。

 

「……今のは、なに?」

 

 刀身を眺めながら無表情で言い捨てる。その眼光自体が刃物のごとき鋭利さ。

 

(オイオイオイオイ、まさかあのスピードの麻酔針を剣で払い飛ばしたってのかよ!?)

 

「とっとと死になさい」

 

 マチルダが再びコナンに迫る。

 

(ちきしょう、剣との戦い方もハワイで父さんに教わっとくんだったぜ……)

 

 

 

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 元太はブルブルと首を振り、指の骨を鳴らしながらゆっくりとジョナスに近づいていく。

 

「歩美、おめーは下がってろ」

 

 仲間に向けているとは思えないほどのドスの利いた警告。

 

「ジョーダンきついよ元太くん!」

 

 歩美は元太の横を駆け抜け、ジョナスの周囲を走って後ろに回り込む。ジョナスは歩美を目で追う素振りさえ見せずただ立っている。奇妙ではあったが、彼の狙いなどどうでも良かった。

 元太は正面から、歩美は斜め後方から、同時に攻撃を仕掛ける。元太の豪腕が唸りをあげて顔面を襲う。

 刹那、拳が空を切ると同時に元太はみぞおちに桁外れの衝撃を喰らう。

 

「ぐふっ!」

 

 歩美は元太に肘を刺したジョナスの背中に狙いを定め、中段蹴りを繰り出す。真後ろからの攻撃、かわせるはずもない――だがジョナスは瞬間的に腰を沈め、蹴りの軌道の真下をくぐった。こちらを向いてさえいないジョナスが後ろ足を蹴り出し、軸足を崩される。

 そこからジョナスは跳ねるように立ち上がって手刀で元太の喉をえぐり、追撃のミドルキック。巨体が後方に弾け飛ぶ。

 ようやく体勢を立て直した歩美。もう一度背後から今度はかかと落としを仕掛ける。当たらない。後ろに目がついているかのようにかわされる。

 直後の下から突き上げるような掌底打ちはかろうじてガードが間に合ったが、歩美はその衝撃だけで体ごと吹き飛んだ。

 

「……ッ!!」

 

 後方に転がりながらなんとか受け身をとり、すぐさま立ち上がる歩美。

 ほんの10秒足らずの攻防、しかしそのわずかな時間でさえ、彼我の戦力差を思い知るには充分すぎた。

 

「哀ちゃんごめん、ちょっと勝てない……!」

 

 言葉に無念が滲む。スピード、パワー、技術、経験。およそあらゆる面で上を行かれている。いざとなれば自分か元太が敵のボスを倒せばそれで解決するという甘い目論見は、完全に打ち砕かれたと判断するしかなかった。

 

「2人とも大した腕じゃないか。いっそ部下にならないか? いくら欲しい?」

 

 ジョナスは余裕たっぷりに笑って2人を交互に見やる。

 

「ふざけないで……!」

 

 歩美が再び構えを取る。

 勝ち筋はまったく見えていない。だが元太と力を合わせれば光明がきっと――

 

「……歩美、おめーは先に行け」

 

 元太の突然の言葉に歩美は驚いた。

 ジョナスもいぶかしんで元太を見やる。

 

「こいつ1人に2人で時間を使ってる場合じゃねえ。こいつはオレが食い止めるからおめーは灰原を探せ」

「はははっ! おかしなことを言う! 君一人で僕を足止めできるとでも?」

「ハッ! できるかどうかなんていちいち考えるかっつーの」

 

 舌を出す元太。この相手を前に"あかんべー"をやってのける。

 

「オレは()()だからな。探偵団にとってやらなきゃいけねーことをやるだけだ」

「元太くん……死なないでね」

 

 歩美の声は震えず、だけど祈りのように小さかった。

 

「バーカ、イケメンは死なねーんだよ」

 

 元太が笑う。歩美は踵を返し、部屋の出口に向かって走り出す――が、一瞬にしてジョナスに追いつかれる。

 

「僕から逃げられるとでも?」

 

 魔の手が歩美に迫る。だが歩美はそれを防ごうとさえしなかった。

 それは、彼の役目だから。

 

「!!」

 

 元太渾身のタックルがジョナスに激突する。背中に両腕を回し、がっちりとロックする。体格体重では元太が上だ。いかな力量の持ち主といえども、一瞬で振り払えるはずがない。

 

「行け!!!」

 

 元太が叫ぶ。

 歩美はコクンとうなずき、それから一瞥もせず走り去っていった。

 

「ちいっ……うざったい!!」

 

 盤石のはずのロックを、ジョナスはするりと抜け出し即座に攻撃に移る。目にも映らぬ瞬速の打撃。技が違う。疾さが違う。防御も反撃もできない。すべてのクリーンヒットが骨をきしませるほどの破壊力。頭が幾度となく弾け飛ぶ。

 

(あ~ヤッベ。オレまじで死ぬかも……)

 

 心の中ではそう思いながらも、元太は決して倒れようとはしなかった。

 

 

 

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「ハァ、ハァ……」

 

 コナンは広々としたオフィスルームで柱の陰に身を隠しながら呼吸を整えていた。幸い、隠れ場所としての机や柱はいくつもある。だが、

 

(まいったな……このままじゃどうにもできねえ……!)

 

 不意打ちができるような隙はどこにもなかった。背後から仕掛けようがどうしようが、間合いに入れば間違いなく斬られる。予感よりも確かな予感。

 コナンは呼吸を整えながら別の方策に頭を巡らせる。

 

(あんなのと戦っても無駄だ。とっとと灰原を探した方がいい。そのためにやるべきことは……)

 

 その時だった。どこか遠くの場所から、かすかな悲鳴が聞こえたのは。

 遠い音ではあったが、コナンが聞き間違えるはずもない声。

 

(灰原……! さっきの小部屋が並んでいる場所か!)

(早くあっちに戻らねえと、そのためにはあの女をどうにか振り切って……)

 

「!!!」

 

 思考がまとまるよりも早く、マチルダの剣がコナンの頭上をかすめた。たまたま座っていたから命拾いしたコナンは即座に全速力でその場を離脱する。

 

(くそっ、どこに隠れようとも一瞬で見つけ出されちまう……!)

 

「ちょこまかと逃げ回ってばかり。情けない男」

「……お前こそ、その腕前がありながらジョナスの飼い犬かよ……!」

 

 たっぷりと後退し安全な距離からの挑発。マチルダの眉がぴくりと動く。ほんのかすかなリアクションだが、しかしコナンにとっては望外の成果だった。ただの稚拙な減らず口でしかなかったというのに。

 この強者を相手に口八丁で時間を稼げるのなら、使わない手はない。

 

「大した忠誠心なのはいいけどよ、あいにくお前の御主人様は他の女に夢中みてーだぜ……?」

 

 こりゃ悪役のセリフだなと、コナンは心の中で苦笑した。

 だがマチルダは鼻で笑って顔を傾ける。

 

「忠誠心、か……ものは言いようね。私とジョナスは契約で手を結んでいるにすぎない」

「……?」

 

 部下ではない、のか? コナンは呆気に取られる。

 

「かつて裏社会を荒らし回る狂犬だったジョナスの類いまれなる素質を、私は見初めた。この組織を作るための資本と知識は私が与えたものよ。もっとも、私の方が上の立場というわけでもない――言わば、私が"投資家"、彼が"起業家"」

「……!」

「彼のシェリーに対する執着は少々懸念点ではあったけど……おかげであの薬が蘇ると思えば悪くない。彼女を生贄として、この組織は完璧なものとなる」

 

 冷酷な笑み。刃のごとき視線がコナンを貫き、背筋が凍る。

 

「彼女の命を救ってくれた工藤新一にも、大いに感謝しているわ……!」

「……ざけんな……!」

 

 直後マチルダがわずかに腰を落とす。

 爆発的な踏み込み。一気に間合いが詰まる。異次元の疾さ、刺突の動き。コナンの脳裏に「死」の文字が浮かんだ――

 その時、柱の陰から何かがマチルダに飛びかかった。

 

「歩美ちゃん!」

 

 歩美は空中でマチルダの顔面を蹴り飛ばし、更に身を捻って二段蹴りを浴びせた。完全な不意打ちを食らったマチルダは勢いよく地面に落ちて転がるが、剣を握るその手はしっかりとホールドされている。

 ゆっくりと起き上がり、妖刀のような凍てつく瞳が歩美を捉える。

 

「コナンくん、ここはあたしに任せて哀ちゃんを!」

 

 歩美は低い姿勢で構え、マチルダから視線を逸らすことなく声を張り上げる。

 目の前のこの相手から一瞬でも注意を逸らせば死に直結することを、歩美は直ちに理解していた。

 

「歩美ちゃん、でも……!」

「いいから早く! あたし達みんな哀ちゃんを助けるために来たんだよ!?」

 

 コナンはうなずき、スケボーに飛び乗る。

 

「歩美ちゃん、死なないで!」

 

 歩美がうなずくのを横目で見送り、コナンはスケボーのエンジンを全開にして疾走した。

 

「邪魔をしないで、お嬢さん」

 

 マチルダは乱れた髪を手櫛で後ろに流し、ゆらりと剣を垂らしながら歩美を見下ろす。口の端からわずかな流血。それを気にするそぶりはない。

 

「べ~っだ! そんな怖い顔したって怖くないよ、おばさん!」

「……」

 

(この部屋、柱とか机とか障害物がたくさんある……! ここなら正面からぶつかる必要はない……!)

 

 歩美は一番手近にあったデスクのPCキーボードを掴み、思い切り投げつけた。当然マチルダはあっさりと剣で払って弾き飛ばす。それと同時に歩美は横に跳び、身をかがめて他のデスクの陰を走っていた。

 

「それで隠れたつもり? まるでゴキブリ」

 

 嘲笑混じりの声。

 

(別にそれでいいもん。あたしはあたしのやり方で戦うんだから……!)

 

 

 

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 コナンはスケボーという名の相棒によって、狭苦しい通路には不釣り合いなほどのスピードで疾走していた。

 

(さっきの悲鳴、間違いなくこっちの方向だった……!)

 

 先ほど鬼が出てきた部屋をスルーし、更にその奥へと進む。

 コナンは扉が開きっぱなしの部屋を見つけ、スケボーを降りてその部屋の中にと踏み込んだ。

 

「ここにあいつがいたのか……?」

 

 窓がないことを除けば、小洒落たホテルのように調度品が整った部屋。しかしそこはもぬけの殻で。

 

「って、なんだこいつ!?」

 

 コナンは足元に倒れていた黒服に気づいて驚く。ポニーテール頭の男が、部屋の入口の横で失神していたのだ。男の顔には思い切り殴られた跡があり、その隣にはリッチな見た目の木製椅子が転がっていた。

 

(もしかしたら灰原のやつ、悲鳴でこいつをおびき寄せて死角から椅子でぶん殴ったのか……?)

 

 コナンは思わず苦笑してしまう。

 

(そうだよな、おめーにただ助けを待つだけの囚われのお姫様なんざ似合わねーよな……!)

 

 事態はなんら良くなっていないというのに、コナンは無性に嬉しさを感じていた。もしかしたら、本当にどうにかなるかもしれない。コナンが初めて本気でそう感じ始めた次の瞬間、足元からうめき声が響く。

 

「うおおおお……!」

「!!!」

 

 とっさに飛び退き、部屋の奥へと転がるコナン。

 さっき倒れていたポニーテール男が、血走った眼でコナンを睨みつけながらふらふらと立ち上がる。

 

(ちぃ……! 目を覚ましたのか!)

 

「ぶっ殺す……!」

 

 男はコナンを見下ろし、鼻血まみれの顔をわなわなと震わせた。

 

 

 

-----

 

 

 

 

 「がっ……はっ……」

 

 ドスン、という鈍い音とともに巨体が地面に倒れ伏す。

 岩のごとき耐久力がついに限界に達した瞬間だった。

 

「やれやれ……呆れたタフさだな。これでもまだ死んでいないとはね」

 

 ジョナスは元太を見下ろし、自分の手をさすりながら薄く笑う。無傷の完勝でありながらも、彼の両の拳は多少なりとも赤くなっていた。元太を倒すのに要した打撃の数は、ジョナス自身を驚かせたほどのものだ。

 

「まだまだ……終わりじゃねえぞ……」

 

 うつ伏せで床に突っ伏しながらも、元太はかろうじて意識を残していた。だがどれほど強くジョナスを睨みつけようとも、もはや彼には立ち上がる力など残っていない。

 

「ふん……あのカシワギに勝つわけだ。殺してしまうには惜しい人材だよ」

 

 そうぼやきながら脇腹を蹴り上げる。

 

「ぐふっ!」

「だけどやりすぎたな」

 

 ジョナスはゆっくりと脚を上げ、元太の頭上に掲げていく。ここから一気にかかとを蹴り落とせば、堅い地面とのサンドイッチによってどんな頑丈な頭蓋骨も()()()

 元太はなんとか手足を踏ん張ってそこから離脱しようとするが、もはや全身が言うことを聞かない。

 

「ちく……しょう……!」

 

 ジョナスが脚という名のギロチンを振り下ろそうとしたまさにその時――

 

「ジョナス!!! もうやめなさい!!!」

 

 すんでのところで動きが止まり、ジョナスは片足立ちのまま数秒静止した。ゆっくりと顔を傾け、声の主に視線を送る。

 

「シェリー、何しに来たんだい?」

 

 ジョナスが振り返る。そこにいたのは白いコートを無造作に羽織った、赤みがかった茶髪の女性。

 

(シェリー? シェリーって誰だ? あれはどう見ても……)

 

 元太は困惑したが、同時に安堵の息を漏らした。彼女は無事だったのだ。

 

「いい加減にして……! 私の()()()()には一切手出ししないという約束のはずよ……!」

「もちろん約束したさ。だけど彼らは自分からここに押し入ってきたんじゃないか。侵入者を排除するのは当然のこと。約束とはなんの関係もないよ」

 

 哀は唇を噛み殺し、床に這いつくばっている元太を睨んで声を震わせた。

 

「どうして……どうしてここに来たの……! 殺されるってわかっていて、こんな無茶なことを……」

「……へへっ、コナンも似たよーなこと言ってたぜ。あいにくオレは負けた後のことを考えるのは苦手だからよ……」

「馬鹿よ、あなた達は……! わかっているの、あなた達のせいで私の立場が余計に悪くなるってことを……! 私は何不自由なく快適に生きていけるはずだったのよ! くだらないヒーローごっこなんて迷惑なだけよ!」

 

 哀は一層語気を強め、あらん限りの力で元太をなじる。

 しかし元太はまるで動じることなく、むしろ口の端を吊り上げ笑みとともに哀を見上げる。

 

「おめーらまじでよく似てんな……いざとなったらデタラメ並べて丸く収めようとするところなんてそっくりだぜ……わざわざ自分を悪者にしてよ……」

「……!!」

「まあぶっちゃけ、おめーらのそういうところは嫌いだぜオレは……」

「……だったら、放っておいてくれればよかったのに……!」

 

 力なく声を震わせる哀を見て、ジョナスは元太の頭部に足を置き口の端を吊り上げた。

 

「まさにその通りだ。君たちは彼女が望んでさえいないことを勝手にやって、彼女を苦しめている。トモダチなら少しは彼女のことを理解してあげることだ」

「ハ……ふざけろ」

 

 吐き捨てる元太だが、ジョナスが横顔を強く踏みしめるとさすがにうめき声が漏れる。

 

「……っ! ……いい加減にして。もう勝負はついているでしょう……!」

「そうだな……。今ごろ向こうの女の子もエドガワコナンも、マチルダが片を付けているだろう。君たちの悪あがきもここまでというわけだ」

「……!!!」

 

 マチルダの名を聞いて哀の背筋が凍りつく。コナンと歩美が、今まさに彼女と対峙しているとしたら――どれほど楽観的に考えようとしたところで、最悪の事態を想定せざるを得ない。

 哀の脳裏に、つい先刻の光景が蘇る。哀を部屋まで連れて行くよう指示された巨漢の黒服が、「シェリーはくれぐれも丁重に扱うように」というジョナスの命令を無視して粗暴に振る舞い、哀を手荒に部屋に突き飛ばした。後ろでその様子を見ていたマチルダが男を睨みつけると、男はそれがどうしたと言わんばかりの態度で適当な言い訳を並べ――次の瞬間、彼の手首より先は地面に落ちていた。

 

(……なんて疾さ……! それにあの氷のような眼、一体今までどれだけの人間をああやって斬り捨ててきたと……)

 

 コナンがかつての力を取り戻したのであれば、あるいは有象無象の黒服たちだけならなんとかなるかもしれない。だがジョナスとマチルダは違う。哀がかつて対峙した、いかなる凶悪犯たちと比べても桁違いの戦力の持ち主――彼女の危機意識はそのことを正確に見抜いていた。

 ジョナスは天井を仰ぎ見る。

 

「ひとつ不可解なのは……彼らがどうやってこの場所を知ったのかということだ。それもこんな短時間で……。誰かが手引きをしたとしか思えない」

「!!!」

「連絡は取れないようにしていたはずだけど、ね」

 

 横目で哀を見据えるジョナス。

 その通り、もちろん哀の方から連絡など取ってはいない。同時に、自分に発信機がついていることを黙っていたのも確かだ。彼らはその信号を頼りにここまで来たのだろう。しかし探偵メガネの有効範囲を考えれば、この場所を探知することなど不可能なはずだった。だから哀はあえて何もせずに放っておいたのだ。

 だけど彼らは来てしまった。

 それもおそらくは探偵団の4人だけで。

 どう希望的に見たところで、それは自殺行為に等しい。はたして、目の前の光景はその現実を映し出していた。

 

「……ま、君の隠しごとを調べるのは後にしておくよ。もはやこの場所が秘密ではなくなった以上、とっととここを離れるべきだからね」

 

 ジョナスは元太の顔から足を離し、淡々と歩いて哀を横切る。

 

「ついてくるんだ」

 

 静かだが、有無を言わせない声。

 哀は元太にちらりと目をやったが、まだ意識があることだけを確認して背を向けた。

 どういう気まぐれなのかはわからないが、ジョナスは彼にとどめを刺すつもりはないらしい。そうであるなら、これ以上話すべきことは何もなかった。ジョナスの気が変わらないうちにさっさとこの場を去るのが、今自分にできうる最善の行動のはずだ。それが哀の下した判断だった。

 

「おい、灰原」

 

 立ち去ろうとした哀の背後から、振り絞るような声が届く。

 一瞬立ち止まった哀は、しかし振り返ろうとはしなかった。

 

「コナンは、おめーを諦めねーぞ」

「!!」

 

 床に這いつくばったまま、元太は哀の背中をまっすぐに見据えていた。

 

「オレもバカだけど、あいつのバカはオレ以上だ……そんな下手な嘘であいつを止められると思ってんじゃねーぞ……!」

 

 哀の手が震える。無視するつもりだった。聞いていないふりをするつもりだった。

 それなのに、心臓の鼓動が身勝手に高鳴ってしまう。

 

「フン、くだらない……」

 

 ジョナスは一笑とともにそのまま去った。哀は少しだけためらって、小走りでそれを追った。

 

 

 

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 月明かりが夜の闇を照らしていた。都心に比べれば星もよく出ている。屋上のヘリポートでは、そんな夜の光に無機質なヘリコプターが照らされていた。潮風が哀の髪を揺らす。そんな季節ではないはずなのに、ひどく冷たい風だった。

 ヘリポートの中心まで歩いて来たジョナスはヘリのドアを開き、「乗るんだ」とだけ言った。

 哀はそれに応えず、しばらく立ち止まっていた。浅い呼吸を何度か繰り返し、ぐっと息を止めてジョナスを目を正面に見据える。

 

「……いいえ、私は乗らない」

 

 

 

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「元太、おい大丈夫か! 元太!」

 

 コナンが元太の肩をゆする。元太はかろうじて身を起こし床に座るところまではできていたが、どう見てもダメージは深刻だ。

 

「ったく、おせーんだよこのバカ」

「すまねえ、やたらしぶといヤローがいて手こずっちまった……」

 

 コナンも先程のポニーテール男に一発殴られて口の中を切っていたが、こちらは軽症だった。

 

「灰原は、多分屋上だ。おめーらの予想通り、いざとなったらあのヤローはヘリで逃げるつもりだろう。オレのことはいいからとっとと追いかけろ」

「……ああ、わかった」

 

 コナンがきびすを返す。

 

「なあコナン」

「?」

「オレは探偵団の団長だからよ。まあホントは昔っからずっとおめーが実質オレらのリーダーやってたってことも、一応わかってたんだけどよ」

「……」

「そのおめーがグチグチとワケわかんねーこと言って灰原を見捨てようとした時は、まじで本気でぶん殴りたい気分だったぜ」

「ああ……」

 

 そして元太は思い切り声を張った。

 

「団長命令だ、コナン……ぜってえに灰原を助け出してこい!!!!」

「ああ!!!!」

 

 

 

-----

 

 

 

「……乗らない、とは?」

 

 ジョナスが片眉を吊り上げる。

 

「私は、彼らを置いてここを去るなんてできないわ。だってそうでしょう? 彼らは私を助けに来てくれたんだから」

 

 やれやれと言わんばかりにジョナスが首を横に振る。

 

「くだらない希望にすがるのはやめるんだシェリー。彼らはここに来れはしない。さっきのゴリラくんはもう動けやしないし、もう一人の女の子も工藤新一も、生きてここまでたどり着くことなど不可能だ」

「……あなたの部下に、彼らに手出ししないよう命じてくれればいいだけよ」

「言っただろう、彼らは君の友達である以前に侵入者だ」

「……だったら、私もあなたに一切協力はしないわ。永遠にあの薬が手に入らなくなったらどうするつもりかしら?」

 

 哀は静かに、しかしこの上なく語気を強めてジョナスを睨みつける。だがジョナスの表情はしごく涼しいものだった。

 

「やれやれ困ったものだ。シェリー、君もあのファイルを見たなら気づいているはずだ。断片的とはいえ、やがて薬を完成させるには充分なほどの手掛かりが既に揃っているということがね」

「!!」

「君がいなくても、充分な資金と時間さえあればいずれ確実にあの薬は蘇る。それは既に見えている未来なんだ」

 

 哀はジョナスがでまかせを言ってるわけではないと理解していた。APTX4869を蘇らせるための、"答え"とまではいかずとも研究に必要な材料は充分に揃っている。資金と人員さえあれば、時間はかかるとしてもあの薬を再生することは間違いなく可能――それがデータを確認した哀の下した結論だったのだ。

 にもかかわらずジョナスが自分を探していたということは、この男にはまともな化学薬学の知識などないがために薬の再生には宮野志保(シェリー)の助力が不可欠だと思い込んでいたということ――論理的に考えれば、それ以外の可能性はない。

 だが、そうではなかった。

 どれほど不可解な動機ではあっても、ジョナスは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()彼女を探し求めていたのだ。

 

「……じゃあどうして……」

 

 呆然と立ちすくむ哀。ジョナスは、まるで同情しているかのような目で哀を見つめる。

 

「難しく考えなくていいんだよシェリー。これは君の運命なんだ。ただ受け入れればいいだけだ。人生の中で誰もがそうしているようにね」

「……」

「心を落ち着ける時間が必要だというなら、もう少しここにいるといい」

 

 ジョナスがきびすを返し、向こう側を向く。

 

「それを待つぐらいなら、僕は構わないよ」

 

 ジョナスは完全に背を向けていた。両手はポケットに突っ込まれていて、まったく無防備な体勢。それを見た瞬間、哀の鼓動が一気に高鳴る。

 千載一遇。

 コートの内ポケットには、先ほど見張りを不意打ちで倒した時に奪っておいたナイフが入っていた。だがそれを使ったところで、正面からジョナスに挑んでも勝ち目がないことなどわかりきっている。

 だからこの好機を哀は待っていた。ジョナスが完全に油断し、背中を見せるこの一瞬を。

 ここは屋外のヘリポートだ。周囲は夜間照明(航空灯火)に照らされているとはいえ、建物の中よりはずっと暗い。どんな達人であっても、こんな暗さの中では反応が遅れる。ましてや真後ろからの不意打ちを避けきれるはずがない。さらにはこの風の音が物音を紛れさせてくれるだろう――

 哀は、迷わなかった。心臓は激しく暴れ打ち、口はカラカラに乾き冷汗が垂れ落ちていたが、それは恐怖ではなかった。

 

(私が、すべてを終わらせてみせる――!)

 

 ナイフを抜き、同時に踏み込んだ。

 背中の真ん中を目掛け、まっすぐにナイフを突き立て――

 

「――!!!」

 

 ジョナスは、一瞬にして身をひるがえしていた。哀の手首を掴み、勢いとともに捻り上げると哀はたまらずナイフを落とした。

 

「残念だ。君がこんなにも愚かだったなんて」

「ぐっ……!」

 

 苦痛に歪む哀の顔を、ジョナスは冷たく見下ろす。その瞳は怒りでも憎しみでもなく、失望の色。

 

「なぜそんなに死に急ぐ? 生き延びさえすればいくらでも新しい人生は見つけられるのに。なぜ終わった過去に執着する?」

「ふざけないで……! それを決めるのはあなたじゃない……!」

 

 哀は先ほどから必死でジョナスの手を振り払おうと力を込めていたが、いかんせんぴくりとも動かない。しかし突然ジョナスが手を離し、哀は勢いあまってたたらを踏む。

 

「くっ……!」

 

 ジョナスはふうっとため息をつき、気だるげに背を丸めた。

 

「希望と欲望というのは、言葉のイメージはずいぶん違うけれど僕は同じものだと思っている」

「……?」

「今の君の目には、欲望が宿っている。ぎらぎらとした、欲に満ちた目だ。ほんの数時間前とはまるで違う……彼らがここに来てから明らかに変わった」

「……人の心を持たないあなたが、一人前に心理分析のつもり?」

 

 哀は精一杯強がって笑う。

 

「だけど僕にとって最もわからないのは、君ほど頭のいい人間がこの状況を理解してないかのようにふるまっているということだ。奇跡など起こらない。彼らは全滅する。君はそれを知っている。状況は昨日より悪くなることはあっても良くなることはない。……なのになぜ、君は希望を抱いているかのようなふりをしているんだ?」

「……」

「実を言うと、君が彼らを助ける方法は一つだけあったんだ。僕に泣いてすがって彼らの命乞いをすることさ。君が心から忠誠を誓ってくれるなら、彼らが役立たずの部下どもに与えた損害なんて鼻で笑える程度のものだ」

 

 ジョナスはくすりと笑ってから、ぼうっと空を見上げて言葉を続けた。

 

「こんな簡単な解決策は君の頭脳なら当然に気づくはずだと僕は思っていた。だからわかったうえでその選択肢を拒んだのだと……。いや、もしかしたら本当に単に、頭に血が昇って思いつかなかっただけなのかもしれないな」

「じゃあこうしよう。今からでも君が本気で懇願してくれるなら、彼らの命は助けるとね。ああ、さっき僕を殺そうとしたことは気にしなくていい。どうせ最初からそんなことは不可能なんだから」

「……!」

 

 哀はごくりと生唾を飲み込む。

 ジョナスが嘘を言っていないことは直感で理解(わか)った。

 この男は本当に、自分が本気ですがりついて許しを乞えば彼らの命を助けるだろう。ジョナスにとって、彼らの命は()()()()のものでしかないのだ。生かそうが殺そうが本当はどうでもいい。それをカードとして、シェリーの服従を買えるならそうするというだけだ。

 

「私は……」

 

 哀は唇を震わせてうつむく。

 

(ジョナスの言う通り……私は欲深くなっている。あの時私は、彼らを助けるためならこの先の人生を捨ててもいいと思った。だから降伏することを選んだ。10年間も分不相応に幸せに生きてきたのだから、残りの人生は魂の監獄暮らしでかまわないと思った。それが私の償いだと……)

 

 だけど彼らは、ここに来てしまった。無茶を承知で死地に来てしまった。

 

(私はとっくに諦めていたのに、彼らは私を諦めてくれなかった。私の決意を無駄にしたのに、悲惨な結末しか待っていないはずなのに、私は……)

 

 両の拳を目の前で握り、震わせる。

 

(私は……嬉しかった。どうしようもなく嬉しさを感じてしまった。今までもずっとそうだったように、どんな時でも彼らは……そして彼は、私を諦めてくれなかった。そのことがただただ嬉しかった)

 

 そして再びジョナスの目を見据えた。

 

「……あなたの言う通りよ。今の私は欲望にまみれている。"生きたい"と思ってしまっている。もう……この気持ちはごまかせない」

「"生きたい"? 僕が君を殺しはしないということは知っているだろうに」

「それは生きてるってことじゃないわ。私はただ生き延びたいわけじゃない……生きたいのよ。自分自身が選んだ人生を」

 

 微笑む。心からの皮肉を込めて。

 

「あなたには理解できないでしょうけどね」

「……」

 

 ジョナスはしばらく押し黙っていた。その真顔からは心情は伺いしれない。たっぷり十数秒も沈黙が流れてから、ようやく口を開いた。

 

「どうやら、君を説得するのは無理のようだ」

「ならどうすると?」

 

 ジョナスは足元のナイフを拾い上げ、その切っ先を見つめて笑った。

 

「言葉で無理なら、"力"を使うしかないだろう」

 

 突然歩きだす。下のフロアへと続く階段に向かって。

 

「君の目の前に彼ら全員の死体を並べたら、君はどんなふうに後悔するんだろうね」

「……!!」

 

 ジョナスはもはや振り返ることなく、淡々と進んでいく。

 哀は走って前方に回り込み、ジョナスの前に立ちふさがった。

 

「行かせない……!」

 

 体当たりで肩をぶつけ、必死でジョナスを止めようとする哀。それで止められるはずもなく、だけど考えるより先に体がそう動いた。

 続いて思い切りジョナスの顔面を殴る。素人丸出しの非力なパンチ。なんのダメージも与えられず、自分の拳の方がずっと痛い。今度は左手で殴った。

 ジョナスは哀の肩を掴み、腕力だけで無造作に振り投げた。

 地面に腕が強打する。鈍い痛みが走ったが、すぐに立ち上がってまた睨みつける。

 

「理解できないな……。どういう勝算がある行動なんだ」

「さあね……! 人間ってのは不合理な生きものなのよ……!」

「やれやれ……」

 

 ジョナスが踏み込む。一瞬、哀は殴られると思って身構えたが、その魔の手は哀の首筋を掴んでいた。

 

「ぐっ……!」

「いちいち君の癇癪に付き合うのも面倒だ。しばらく眠っていてくれ」

「……!」

 

 頸動脈。ジョナスは片手だけで巧みに血管を押さえていた。脳への血流が滞れば、十数秒と経たないうちに意識が失われる――

 その時だった。

 カツン、カツンと音が聞こえた。

 誰かが階段を登ってくる音。

 

「マチルダか?」

 

 首を締めていた力が緩み、止められていた血流が解放される。

 

「わかるかい? 彼女がここに来るということは、全員片付いたということだ」

 

(……違う)

 

 哀はこの足音を知っていた。

 誰よりも、誰のことよりも知っていた。

 それに気づいた時、哀の瞳からは自然と涙がにじみだしていた。

 

 カツン――

 

 夜の闇の中で、その足音の主の顔は最初見えなかった。

 ジョナスはその人影に一瞬戸惑い、それから目を見開いた。

 

「お前は――」

 

 

 

-----

 

 

 

「はあっ! はあっ……!」

 

 歩美は両ひざをつき大きく息を切らしていた。三半規管が機能を失い、目の前の景色が壊れたメリーゴーランドのようにぐらぐらと回る。手足は痺れ、全身が鉛のように重い。

 

(これが……脳震盪……)

 

 理解はできても、解決はできない。歩美はこれまで、何人もの敵をこうやって脳震盪の状態にしてきた。だが今は自分がその状況に陥っている。

 

(ああ……あたしって自信過剰だったんだなあ……)

 

 戦いは歩美の思惑通りに進んでいた。物陰から物陰にへと移りながらあらゆる搦め手や小細工を尽くし、ついに奇襲を成功させた。手首への蹴りで剣を弾き飛ばしたのだ。そこからは歩美が一方的に勝つ――はずだった。

 誤算は素手における彼我の戦闘力。猛攻の隙間、カウンターで顎を撃ち抜かれたのは歩美の方だった。

 一体どういう技を喰らったのかさえわからない。それほどまでの技量の差。脳を揺さぶられた歩美は脚の支えを失って真下に落下し、膝を強打――頭でなかったことはまだ幸いだった。

 

(せめてあと1分……1分あれば動けるようになるはず……だけどこの人が1分もあたしを生かしておいてくれるなんてありえない……!)

 

 既にマチルダは再び剣を手にしていた。そして歩美を冷酷に見下ろす。

 眉ひとつ動かすことなく、刃を歩美の細首にそっと添える。鋭利にして冷たい空気が首筋に触れ、背筋がゾクリと震える。

 

「ここまでね」

「……」

 

 万策尽きてなお、歩美は口を真一文字に結び赤髪の敵を睨み上げた。そんな歩美のまなざしを見て、マチルダは薄く笑みを浮かべた。

 ――その時。

 

 ブーッ、ブーッ……ブーッ、ブーッ……

 

(……電話?)

 

 マチルダは左手で上着の内ポケットから電話を取り出す。もちろん視線も剣も歩美に向けたまま。飛びかかれるような隙? あるわけがない。

 

「……あら、そう」

 

 マチルダは二言三言、その電話に返事を返しかすかに微笑む。

 

「……お嬢さん、地下でいたずらしようとしてたお友達は捕まったそうよ?」

「!!」

 

(光彦くん……!)

 

「このビルの設備に何かしようとしてたようだけど、そちらが本命だったの? まったく、大した子どもたちだこと」

 

 マチルダの推理どおり、それこそが探偵団の策だった。うまいこと3人が上階に侵攻できれば、その隙に光彦が地下の設備室に潜入して仕掛けを施すという二段構えの計画。だがそれも、光彦が捕まってしまったのならもはやどうしようもない。

 

「讃えられるべき健闘ね」

 

 再び剣先が首筋に触れる。皮膚が刃に圧迫され、血の粒がじわりと盛り上がる。

 

「悲しまずともすぐに再会できる――あの世でね」

 

 歩美はゆっくりとうつむき、目を閉じた。手はだらんと垂れ下がり、全身から力が抜ける。マチルダは薄い笑みを浮かべる。

 彼女は気づいていなかった。歩美は全身を弛緩させるとともに全神経を呼吸に集中させ、一秒でも早い回復に専念していたということを。そして彼女が目を閉じたのは、命を諦めたからではないということを。

 

(光彦くん……信じてるよ……!)

 

 

 

---

 

 

 

「まったく、とんでもねえガキだぜてめえらは……!」

 

 男は銃口を光彦に向けながら電話を切ってポケットに入れた。光彦は両手を上げて静止したままだった。

 つい先ほどまで、光彦は狭小なロッカーに囲まれ作業を行っていた。あまりに夢中になりすぎて、背後から男が近づいてきたことにも気づかなかったのだ。

 光彦は知らぬことだったが、このロン毛の男は駐車場で歩美によって失神させられた黒服たちの一人だった。目を覚ました直後のこの男に、設備室に入る姿を目撃されてしまったのは不運としか言いようがない。

 

「ええっと、僕もしかして、どこか怖いところに連れていかれちゃいますか?」

 

 弱気を絵に描いたような甲高い声。

 

「ハッ! それだけで済むわけねえだろ! てめえ自分たちが何やらかしたのかわかってんのかよ!?」

「そうなんですね……。あの、それじゃあせめて両親に電話してもいいですか? 帰れなくなるって連絡したいので……」

「ハァ~!? ふざけたガキだ。おい、電話なら俺に渡せ!」

「はい……」

「おっと、妙な真似はするなよ? 変な動きをしやがったらこの場でぶっ殺すからな?」

 

 光彦はゆっくりとした動作でポケットからスマホを取り出し、指先でつまんでロン毛男に手渡した。そいつはスマホを受け取るとニタニタと笑い再び銃口を向けた。

 

「さ~て、この場でぶち殺すか後でたっぷり痛めつけて殺すか……」

 

 光彦はロン毛男の三下言葉など聞いていなかった。目を伏して、ひどく申し訳なさそうにぼそりとつぶやいた。

 

「すまない、Hailey(ヘイリー)

『Sir, 謝罪には及びません』

「?」

 

 Haileyの返答は光彦のワイヤレスイヤホンにのみ流れていた。だからロン毛男には、光彦がわけのわからない独り言をつぶやいたとしか思えなかった。

 ほんの一瞬、光彦は躊躇した。彼にとってはHaileyもまた大切な仲間の一人だからだ。だけど本当に必要な時はそうしなければならない。それは最初から覚悟していたことだ。

 

「Hailey、自爆しろ!!!」

 

 光彦が叫ぶ。その瞬間、ロン毛男の手中でスマホが激しく発光した。

 

「!!!!」

 

 光彦はスマホを自ら改造していた。その改造のひとつは自作のAIアシスタントであるHailey。そしてもうひとつは自爆装置――もとい高圧電流発生装置、要はスタンガン機能だ。

 

「がっ……!」

 

 高圧電流がロン毛男の体内で暴れ狂い、一瞬にして体の自由を奪う。白目を剥き膝から崩れ落ちる。

 光彦はすかさず荷物満載のリュックを掴み、全力でフルスイングした。無防備な側頭部に数キログラムのリュックが叩きつけられ、ロン毛男の意識はぷつりと絶たれた。

 

「はあ、はあ……」

 

 当然、愛用のスマホはこれ一発でオシャカになる。だからこその「自爆」だ。

 

(ごめんねHailey、またすぐに君をよみがえらせるよ)

 

 光彦は立ち上がり、先ほどまで作業していた電気設備に再び向き合った。既に作業はほとんど完了していた。あとは、最後の操作だけだ。

 

(みんな、あとは頼みましたよ!)

 

 トリガーを、落とす。

 

 

 

-----

 

 

 

 マチルダが剣を振り上げ、歩美の首を跳ね飛ばそうとしたまさにその瞬間。

 

「ッ!?」

 

 周囲が一瞬にして暗転する。完全なる暗闇。

 

「なっ……!?」

 

 非常灯が点灯するまでのタイムラグ、わずかに数秒。だがその数秒こそが歩美の待ち望んだ好機だった。

 目を見開き、立ち上がると同時にみぞおちへの手刀。胃底をえぐる。

 

「がはっ!!!」

 

 呼吸を止められ背中が丸まる。無防備な顔面を肘打ちが跳ね上げる。急所である人中(鼻と口の間)への完璧な打撃だ。

 暗闇の中でも、歩美にはすべてが見えていた。目を閉じていたのはこの瞬間のため。命の危機の中で、彼女の知覚は一層に研ぎ澄まされた。

 もはや歩美は止まらなかった。鎖骨、肝臓、下腹部。あらゆる攻撃が次々と急所に命中する。マチルダは後退し、次々と被弾し続ける。

 それでもマチルダはなお剣を手放さない。常人なら数度倒れているはずでも――倒れない、崩れない。

 一瞬、邪悪な笑み。剣を握る手に力が戻る。

 中段、神速の突き。

 獲物を貫いた感触は――ない。

 

(空振り――? バカな――)

 

 歩美は突きが放たれるよりも半拍速くその場で跳躍していた。野生の勘。体を捻り、高度を稼ぐ。

 がら空きの顔面がその場に残された。驚愕の表情とともに。

 空中後ろ回し蹴り。

 完璧なカウンター。

 鮮やかな轟音がフロアに響き渡る。マチルダは後頭部からゆっくりと落下し、大の字となって崩れ落ちた。

 

「はあっ、はぁっ……!」

 

 歩美もまた、苦悶の表情で膝をつき胸を抑えていた。肺が燃えている。ダメージのある体を酷使して無理を押した猛攻撃、その無茶による酸欠状態。

 

(紙一重、だったけど……あたしの勝ち、だよね……)

 

 安堵の息をつきその場に寝転がる。しばらくの間は指一本動かせそうにない。だが大の字でぴくりとも動かないマチルダを見れば勝者は明らかだろう。

 

(あとは任せたよ、コナン君……)

 

 

 

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「工藤、新一……」

 

 夜の闇の中から浮き出てきたのは、コナンの姿。

 その右腕にはこの場には不釣り合いとも思えるようなスケボーが抱えられ、夜間照明に照らされた眼鏡が光を反射している。

 

「ち……なんでお前なんだ」

 

 ジョナスは哀の首から手を離し、コナンに正対した。その距離、およそ15メートル。

 潮風が強く吹き、3人の髪と服を揺らす。

 ジョナスは大きく溜息をつき、悠々とコナンを見下ろす。

 

「わかっているのかい? 工藤新一。君が"まがいものの希望"なんかを持たせたがために、シェリーはそれにすがりついてしまった。希望とは"呪い"だ」

 

 朗々と言葉を続けるジョナス。

 

「君が愚かな行動をしなければ、彼女は過ぎ去った過去と訣別できていた。新しい人生を受容して前に進めていた。つい昨日、彼女が自ら選択したようにね」

「……」

「つまり……彼女を苦しめているのは君だとい「お前には何も聞いてねえよ」

 

 せっかくの演説に割り込まれたジョナスは、虚を突かれたことで口を開けたまま言葉に詰まった。

 ジョナスから見て、コナンの態度はずいぶん奇妙だった。等身大、と言うべきだろうか。少しも恐怖を抱いておらず、虚勢も過信も感じられない。

 コナンはしばらく口を固く結んだまま、ただ黙って前を見ていた。

 それから哀に目をやって、ようやく口を開く。

 

「灰原。オレは確かにお前の選択を無視してここまで来た。オレ自身のわがままのためにだ」

「……」

「オレには……灰原、お前のいない世界なんて、考えられない。お前にはずっと、オレのそばにいてほしい」

 

 こんな状況だというのにコナンの声は、不思議なほどに自然で優しい。

 

「だから、お前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ」

 

 コナンはじっと哀を見つめた。その瞳の色は怒りでも憎しみでもない。

 優しくて、まっすぐで、少しだけキザったらしくて。

 哀が誰よりもよく知っている、そして何よりも心を奪われてきた、あの瞳。

 

「……工藤君」

 

 哀は震える拳を握りしめた。

 

(あなたのおかげで、私は強くなれた……そして、弱くもなった。私はもう、一人で死を選ぶなんてできなくなったわ。一番大切な人を巻き添えにしてでも、その人とともに生きたいと思うような身勝手な人間になってしまった)

(これだけの罪を犯して、あなたの人生をめちゃくちゃにして、とうとうあの子達までもを巻き込んで……それなのに、私はみっともなく生に執着しようとしている。なんの正当性もないのに、ただ自分がそうしたいというだけの理由で)

(もしも、もしも生きて帰れたら、いくらでも償いをするから。だからごめんなさい工藤君。だから……)

 

 涙がこぼれ落ちた。頬の肉が不規則に引きつる。

 ぐしゃぐしゃになった顔で、哀は精一杯に微笑んだ。

 ひょっとしたら今この場で彼は殺されてしまうかもしれない。いや、それが最もあり得る未来のはずだ。それでもありったけの希望を振り絞り、言葉に変えた。

 

「私は、生きたい……あなたの、隣で」

 

 風によってかき消えてしまいそうなほどその声は小さく――だけど、コナンはぴくりとも表情を変えず、哀を見つめながらはっきりとうなずいた。

「わかった」とだけつぶやき、それからジョナスに顔を向ける。

 抱えていたスケボーを地面に落とし、足で押さえた。

 歯を強く、強く噛みしめ、腰を落として前かがみとなる。

 

「離れてろ、灰原」

 

 コナンの表情(かお)が変わる。その瞳に、標的だけを映し出す。

 つい昨日、なすすべもなく完敗した相手。体にはまだその時の痛みが残っている。その宿敵を前にして、しかし前回と決定的に違うことがひとつあった。

 火傷痕が、疼いていない。

 たぶん、この痕はもう疼かない――理屈ではなく、心がそれを知っているような気がした。

 ジョナスがゆるやかに構え、口の端を吊り上げ、笑う。

 しばしの沈黙。

 

 ひときわ強く風が吹いた。

 その風が、合図となった。

 

 

 

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 ターボエンジン付きスケートボード。

 阿笠博士の数々の発明品の中でも、おそらくは最も多くの危機からコナンを救ったもののひとつだろう。光彦の手によって大人サイズで蘇ったそれを手にした時、コナンはひどく懐かしい気分になった。だから自然と、コナンはこの物言わぬ機械のことを「相棒」と呼んだ。

 そのスケボーに乗って屋上全体を縦横無尽に疾走するコナン。中央に立つジョナスの周囲を回りながら速度と角度を次々と変化させ、ひたすらに"機"を伺う。

 

「はっはっは! そうやってくるくる走り回るのが君の戦い方なのかい? それで僕が目を回すとでも?」

 

 ジョナスはわざわざコナンを追いかけようとはしなかった。振り向きもせず、目だけでコナンの動きを追う。わずかに腰を落としただけの、構えとさえ言えないようなごく自然な立ち姿。それでもジョナスに隙はなかった。後ろから襲いかかろうがどうしようが、一瞬で反応し迎撃してくるだろう。コナンは正確にそれを見抜いていた。

 そしてジョナスの右手にはナイフ。ただのナイフさえ、ジョナスほどの達人が使うならそれは兵器となる。およそ戦場においてコナンが奴に敵う要素などない。

 

――そんな相手に、どうやってオレが勝てる?

――オレは弱くなった。本当に弱くなった。

――だけど、オレは変わった。

 

 仲間に頼ることを知った。かつて自分が"子ども"として扱っていた彼らの成長を認め、対等となったことを受け入れた。自分の弱さを知ったからこそ、できる戦い方があるということを知った。

 

――そして――あいつのためなら命だって懸けられる、それに気づいたんだ。

 

 コナンは一層腰を落とし、姿勢をスレスレにまで低くした。急ターン、一気にジョナスに向き合い最高の出力で加速する。音が唸りを上げ、一体の塊となった物体が弾丸の如く敵に迫る。常人にはまともに反応もできない疾さで――だがジョナスは瞬時に迎撃の姿勢を整えていた。

 ナイフを構え、邪悪に笑う。その目はコナンをはっきりと捉えている。

 だがコナンは止まらなかった。曲がりも減速もせず、一直線に突き進む。

 残り数メートル。刃が舞う――

 

「――――!!」

 

 哀はその瞬間、心臓が止まったような気がした。コナンが串刺しになる光景が脳裏によぎった。

 だが――それは起きなかった。

 刃が空を切っていた。

 

「!!?」

 

 ジョナスの視界を強い光が覆う。突進する時、コナンは航空灯火を背後に背負う角度を選んでいた。だからコナンが()()()()()()()時、灯火の光が一瞬だけでもジョナスの目をくらませたのだ。

 だがコナンはどこに?

 彼は()()()()()

 スケートボード競技のトリックプレーのように、加速したスケボーの勢いによって跳躍。その高さは2メートルにも満たない。だが夜の闇の中で、灯火の目くらましも相まってその動きは刹那の瞬間ジョナスの虚を突き、超人的な反応速度をも上回った。

 

 ドンッッッ!!!!

 

 スケボーの先端が、回転の勢いのままジョナスの顔面を打ち抜く。

 とてつもない衝撃が頭部に炸裂し、体ごと弾き飛ばす。ナイフがどこかに吹っ飛んでいくとともに肉体が宙を舞う――それでもなお、ジョナスは即座に空中で体勢を立て直した。

 手をついて着地し、間髪入れずに立ち上がる。頑丈さもまた超人級。

 だがその時既に――コナンは第二撃を放っていた!!!

 

「ガハッ……!!!」

 

 今度は顔面ではなく腹への衝撃。コナンの狙いは地面に伏していた瞬間の顔面だったが、立ち上がるのが一瞬早かったことで狙いを外す。

 だが威力は変わることなく、再び後方に吹っ飛ぶジョナス。

 にも関わらず、彼はむしろ先程よりも安定した姿勢で着地する。顎の骨が折れ、口からは血が吹き出ていたがそれでもなお二本の足でしかと立つ。凶気の眼光とともに。

 

(さすがにとんでもねータフさだ……だけどもうフラフラのはず……あともう一発だ!)

 

 コナンは間髪入れずに再加速し、最高速に達する。

 再びジョナスの目前で跳ね、体を捻ってスケボーの先端を振り抜き――

 

 ゴッ

 

「…………ッッ!!」

 

 哀は我が目を疑った。

 コナンは先程と同じ動きを繰り出したが、その瞬間にジョナスも飛び上がって身をひねり、突進をかわしながら蹴りを放ったのだ。完璧なカウンター。足先がコナンの頬を打ち抜く。

 スケボーは慣性で後方に飛んでいき、コナンの身体だけがその場で半回転して落下した。

 

「ぐあっ!!!」

 

 前のめりに地面に叩きつけられ、全身に激痛が走る。

 蹴りの衝撃で脳が揺らされ、視界がぐちゃぐちゃに歪み耳はガンガンとでたらめな信号をかき鳴らす。へし折れた眼鏡もどこかに飛んでいってしまった。

 即座に失神してもおかしくないほどのダメージ。手足が震え、血の匂いが喉の奥から立ち昇る。それでもコナンは両手を突っ伏し全力を込め、なんとか、どうにか立ち上がることができた。

 問題はこの時点で、もはや戦う力も手段も失われたということだった。

 

「はあ、はあっ……」

 

 迫りくる宿敵に顔を向け、なんとか両手を上げて構えらしきものを取ろうとする。まるで形になっていないとしても……。

 

「よくやったよ君は……。僕をこれほど痛めつけた人間なんてどこにもいない」

 

 ジョナスが一歩一歩ゆっくりとコナンに近づく。血まみれの歯が鈍く光る。彼は既にかなりの力を取り戻しつつあった。

 直後、コナンのみぞおちに絶大な衝撃が走る。教科書通りのボディアッパー。その一撃で横隔膜が悲鳴を上げ身体が"く"の字に曲がる。

 

「か……は……!」

「おっと、この程度で倒れるなよ」

 

 コナンの髪を無造作に掴んで頭を引っ張り上げ、右脚へのローキック。激痛が稲妻のように暴れ狂い、顔面が苦痛に歪む。再びボディブロー、今度は脇腹に突き刺さる。肋骨がひび割れる感覚がはっきりと意識に伝わる。顔面。鮮血が宙に舞う。視界に火花が咲いて散る。

 今ならわかる。昨日のあの戦いはジョナスにとって本当にただの遊びだったのだ。深手を負ってなお、その威力は昨日のそれをはるかに超えていた。圧倒的な力の差。

 意地でも倒れないコナン。だがふらふらと力なく後退し、フェンス際にまで追い詰められていく。

 

(……! もうこれ以上は……!)

 

 哀はコナンのもとに駆け寄ろうとした。何ができるわけでもないが、とにかく体が勝手にそう動いた。

 しかし、

 

「……!?」

 

 ジョナスの攻撃に耐えながら、コナンは哀に向けて手を伸ばしていた。手のひらを大きく広げ、それを彼女に向けていた。

 コナンの横目がちらりと哀を見る。その瞳と手は、はっきりと言っていた。「来るな」と。

 

「ぐっ!」

 

 ジョナスが左手でコナンの喉を掴み、体ごと押し込む。ドンという鈍い音とともに後頭部がフェンスに叩き付けられる。

 

「工藤君!」

 

 先ほど哀の首を掴んだ時のような"優しい"絞め方ではない。ギリギリと音が聞こえてきそうなほどの剛力で首を絞められ、コナンの顔が苦痛に歪む。

 さらにさっきと異なるのは、ジョナスが頸動脈を()()()掴んでいることだ。それは簡単に意識を失うことさえできないことを意味していた。

 

「気に障るヤツだ、工藤新一! まだなんとかなるかのような目をしている。何もできやしないくせに!」

 

 ジョナスが叫ぶ。

 

「なぜこれほどまでに力の差があるかわかるか……!? 僕は地獄を生き抜いてきたからだ! あらゆる地獄をな!!」

 

 ジョナスは一層手の力を強め、首の骨ごと握りつぶさんばかりにギリギリとフェンスに押し付ける。

 

「だけどその困難こそが僕を強くした……。かつて哲学者が言ったとおり、"死"以外の試練はなんであれ人を強くする。それこそが"適応"、人間の持つ最も優れた力だ!!」

 

 薄ら笑い。

 

「……フン、哀れな姿だな、工藤新一。わざわざ死にに来なければ、もっと長生きできたというのに」

 

 その時、コナンは少しだけ――しかしはっきりと――口の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。

 

「へ……へへ……」

「……?」

「わかってねーな、ジョナス……。オレもあいつも、長生きするために生きてるんじゃねえ……」

 

 右脚を曲げて引き上げ、足首に指を伸ばす。 コナンの靴の奇妙な形状にジョナスは初めて気づいた。靴の側面にダイヤルのような部品。ダイヤルが回され、かすかな光がそこから溢れ出る光景をジョナスは見た。

 

「生き延びるために生きてるんじゃねえっっっ!!!」

 

 背筋が総毛立つ。だが頭脳がその意味を理解するにはあまりに一瞬の出来事。

 電気と磁力が筋力を極限まで高め、超人的なキック力をその身に与えた次の瞬間――

 コナンは右脚でジョナスの腹を打ち抜いていた!!

 

「がはっ!!!!」

 

 後方に数メートル吹き飛ぶジョナス。あばらがへし折れ、内臓が断末魔の叫びを上げる。激痛と苦痛が全身を飲み込み、肉体の自由を奪いジョナスをひざまずかせる。

 

「馬鹿な……なんだこの力は……!!!」

 

 血反吐を吐いて驚愕するジョナス。いかなる強靭な肉体の持ち主といえど、すぐに立ち上がれるような激痛(いた)みではない。

 コナンはよろよろとふらつきながらも歩みを進め、ジョナスを見下ろした。

 足取りは不確かで弱々しく、全身に酷い傷を負っていたがコナンの決意を阻むものではなかった。

 靴は今なお微弱な光を放っている。

 

「う……ぐ……!」

 

 立ち上がろうとするジョナスだが、脚が言うことを聞かない。一方でコナンもまた深刻なダメージを負っていた。

 

(今の蹴りの反動で、多分あばらがイッちまったな……光彦のヤローめ、もうちょっと体に優しく作ってほしいもんだぜ……)

 

 既にいくつもの骨に亀裂を負っていたコナンにとって、外的な作用で無理やり筋力を高めるシューズの反動は深刻なものだった。脇腹でも脚でも激痛が暴れ狂っている。

 だがそんなことはもうどうでもよかった。

 思い切り右脚を後ろに振り上げ、大きく大きく振りかぶる。膝まづくジョナスの顔面をめがけて。

 全力で。

 ただ全力で。

 

「うおおおおおおおおおお!!!」

 

――あら、私ホントはあなたとお似合いの18歳よ

――じゃあ眼鏡をとったあなたはスーパーマンってわけ?

――逃げるなよ灰原……自分の運命から……逃げるんじゃねーぞ

――あなた、言ったじゃない。逃げるなって、運命から逃げるなって。守って、くれるんでしょ?

――だからお前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ

――私は、生きたい……あなたの、隣で

 

「おおおおおおおお!!!!!」

 

 その足は顔面を捉え――――

 強く、何よりも強く――――

 打ち抜いた。

 

 

 

 

 

「はあっ、はあっ……!」

 

 ゆっくりと前のめりに倒れ込むコナン。地獄じみた苦痛に表情が歪む。ボロボロの体で限界を超えた力を出した反動で、間違いなく複数の骨が折れている。

 

「工藤君、工藤君!!」

 

 哀が駆け寄り、うつ伏せのコナンの顔に手を触れる。

 コナンはどうにか顔だけを起こして哀の目を見つめ、微笑んだ。

 

「終わったぜ、灰原」

「ええ……ありがとう」

 

 哀の目が涙でにじむ。

 ぽとりと一粒、傷だらけの頬に落ちる。

 

「ハハ、おめーを泣かせちまったから、また光彦にどやされそうだな」

「バカ……」

 

 

 

 その直後、突然橙色の光が闇夜を照らし、腹を震わせるほどの轟音が響く。

 

「!!!」

 

 屋上そのものが揺れ動き、鉄骨のきしみが悲鳴のように耳をつんざく。コナンと哀は息を呑んでジョナスの方に目を向ける。

 ジョナスは仰向けで倒れ伏していた。顔面は血まみれで元の顔さえわからない。黒煙に霞む星空を見上げ、自嘲気味に笑っている。

 

「……なるほど、"投資"は失敗というわけか……。精算……。そういうことか、マチルダ」

 

 震える腕を支えに上体を起こし、不気味に笑うジョナス。

 その背後では既に火の手が上がり始めていた。

 

「このビルはもともと灰にする予定だったんだ。ここには足跡が残りすぎているからな……。とはいえ、いまスイッチを押したのは僕じゃない」

「……!!!」

 

 コナンは立ち上がろうとするが、強烈な苦痛が全身を走る。うめき声が漏れ、口から血が垂れ落ちる。

 

「無茶よ工藤君、私に肩を貸して!」

 

 哀はコナンの腕を取り、肩に背負って立ち上がった。それだけでふたたび激痛が走り顔をゆがめるコナンだったが、今はこうする他ないことは明らかだ。

 二度目の爆発音。

 建物全体が激しく揺れ、哀は歯を食いしばってたたらを踏み、かろうじて転倒を逃れる。この揺れのために階段室の鉄扉が開き、まだ炎に呑まれていない内部が見える。

 

「……大丈夫、逃げ切れるわ!」

「でもあいつらが下の階に……! 助けに行かねえと……!」

 

 その時だった。少し離れた場所に落ちていたコナンの眼鏡から、ノイズ混じりの音声が聞こえてきたのは。

 

『ガガ……コナン君! そっちは大丈夫ですか!?』

「光彦!? おめーか!?」

「円谷君、無事なの!?」

『灰原さん!? 無事だったんですね! 僕達は今このビルを出たばかりです。さっき歩美ちゃんと元太くんを見つけて……二人ともボロボロだったので、先に外に出ることを優先したんです』

『コナンく~ん! 哀ちゃ~ん!』

『おめ~らも早く逃げてこ~~い!!』

「みんな……よかった……」

 

 哀の頬が緩む。

 

「……行こうぜ、灰原」

「……ええ」

 

 哀はコナンの腕を肩に背負ったまま歩き出す――だが既に火の手に包まれたヘリコプターも含め、屋上のかなりの部分が炎に覆われつつあった。

 

「……おい、オレを引きずってたんじゃ間に合わねーんじゃ……」

「……心配いらないわ、あなただけは決して死なせないから」

 

 哀は少し押し黙り、ふとコナンの顔を見て微笑んだ。

 

「工藤新一は、私が殺した……だから……江戸川コナンは、守り抜いてみせる」

 

 それを聞いた途端、コナンは思わず吹き出してしまう。おかげで肋骨に痛みが走ったが、それはそれだ。

 

「ったく、そんなこと気にしてやがったのか」

「え?」

「バァーロ、オレは一度も死んだことはねえよ。お前の隣で……ずっと生きてきた。だろ?」

「工藤君……」

「今までも、そしてこれからもずっと……オレは、お前の隣で生きていきたいんだ」

「ええ、私もよ」

 

 哀はコナンと見つめ合い、微笑んだ。

 

「あなたと、一緒に――」

 

 背後に火の手が迫る中、ふたりは肩を寄せ合い一歩一歩進んでいく。

 そしてあと少しで階段に辿り着こうとしていたまさにその時――

 前方に、何者かが立ちふさがる。階段の前、登ってきた誰かが。右手に直刀。ゆらめく炎を映す刀身。

 

「……!!」

「あいつは……!!」

 

 赤髪の女。血濡れの顔面。凶刃のごとき眼光が哀を刺す。背筋が総毛立つ。

 剣が持ち上がる。突き技の構え。緩慢な動き。彼女もまた深手を負っている。――それでもなお、手負いのコナンを担ぐ哀では、とても逃げ切れない。

 蒼白の顔でコナンが叫ぶ。

 

「灰原、おめーだけでも……!」

 

 直後の加速。一気呵成の踏み込み。剣先が眼前に迫り、反射的に目を閉じる。

 刃が肉を貫く。血しぶき。心臓が止まる――

 

 ――目を見開いた哀は、刺された痛みがないことに心底驚く。目の前に、鮮血の赤。自分の血ではない。何者かの背中。そこから血が吹き出ている――

 

「――ジョナス!!?」

 

 血濡れの刃が、広い背の中央から突き出ていた。胴を貫かれながら、ジョナスは両腕でしかとマチルダの腕を掴んでいる。

 

「くっ……離せ!」

 

 マチルダが叫ぶ。ジョナスが口端を歪める。悪魔のごとき笑み。

 

「……行け、シェリー」

 

 哀は何も言わない。ただうなずく。そして彼らの横を通り抜け、走り去る。立ち止まることなく一瞬だけ顔を後ろに向ける。刹那、目と目が合う。炎に照らされ赤く燃える凶気の瞳――それでも、彼は確かに笑っていた。

 息を呑み、再び前を向く。そしてもう、哀が振り返ることはなかった。

 

 

 

 ジョナスは消えゆく彼らの後姿を見届けた。

 既にその身にまで火の手は及んでいた。高熱がたちまちのうちに全身にをむしばむ。それでもなお、ジョナスは掴む手の力を緩めようとはしない。

 

「なんのつもりだ、ジョナス……! やめろ……!」

 

 マチルダは動けない。半死人に腕を捕まれ骨がきしむ、その異様な力に身動きひとつ取れない。

 熱。熱。熱。もはやジョナスの目に映るものは灼熱の地獄のみ。

 朽ちゆく意識の奥底から記憶が溢れ出す。

 

 研究室、蛍光灯、実験器具、そして白衣――シェリー。モニターの青い光に照らされていた彼女は、部屋の外、ガラスの向こう側をたまたま通りすぎた少年にふと視線を送った。

 憐れみ、悲しみ、諦念。いくつもの感情が入り混じる瞳。

 ――綺麗だ。

 

(そう、あの目だ……あのとき君がたった一度僕に向けた目……)

(自我なき道具だった僕が生まれて初めて抱いた、生きる理由、手にしたい欲望……)

 

「が……! は……!」

 

 マチルダの断末魔。

 ジョナスはただ悪魔のように笑っている。

 赤い血が焼け落ちていく。

 灼熱が2人を、かつて人間(ヒト)だったものに変えていく。

 

(後悔は、ないさ……僕は、生きたいように、生きたんだから……)

(君も、そうするが、いい…………)

 

 ――。

 

 

 

 

 

 そして――。

 

 

 

 

 

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