コナンはスマホの着信音で目を覚ました。電話を取るのが間に合わなかったために、鳴り終わったすぐ後に同じ名前からメッセージが届いた。その人物から連絡が来るのは数カ月ぶりのことだった。
「久しぶりねコナン君。最近どう? 元気にしてる?」
喫茶店の奥まったテーブル席で若い女性が微笑んだ。少し傷んだ黒髪が、肩より若干長いぐらいの位置で切り揃えられている。くたびれたスーツと目の下のクマからは彼女の不規則な生活が伺えた。
「うん、僕は元気だよ、蘭姉ちゃん」
「そう、良かった」
蘭がコーヒーを一口すすってもう一度微笑みかけると、コナンは久しぶりに胸が締め付けられるような感覚を覚える。こうして彼女と向き合って会話をすることなどどれほどぶりだろう。しばらく見ないうちに、蘭は少し痩せたように見える。声にも顔つきにも元気が感じられなかった。
「仕事、どう?」
聞くまでもない。彼女が日々激務に追われているであろうことは、名探偵でなくても一目でわかることだった。
「順調だよとは言いたくないかな。本当はあたしが暇な方が良い世の中ってことだもんね」
「でも大事な仕事だよ」
「ありがとう」
蘭は溜息とも安堵の吐息ともつかない息を吐いた。コナンは少し身を近づける。
「本当にかっこいいと思う。昔はまさか蘭姉ちゃんが刑事になるだなんて思わなかったけどね」
「そろそろ馴染んできた?」
「うん」
「そっか」
蘭の眼差しが少し穏やかになった。だがそれは一瞬だけで、すぐに彼女は表情を引き締めた。
「コナン君、二週間前から続けて起きている、若い女性ばかりが標的の連続殺人事件のことは知ってる?」
「ごめん、最近あんまりニュース見てなくて……」
「そう……。ワイドショーなんかではずいぶんと騒がれているんだけど、学校が忙しいんだから当然よね」
蘭は手元のビジネスバッグから一束のファイルを取り出す。付箋などが大量に貼られたそのファイルの表紙には、汚れた印刷テープで「捜査資料」とはっきり書かれていた。
「ら、蘭姉ちゃん、それは……!」
部外者であるコナンに警察の捜査資料を見せることなど、もちろん重大な法規違反だ。発覚すれば良くて懲戒処分、あるいは刑事罰もあり得るだろう。いくら座席のレイアウト的に他の客からは見えないとはいえ、大胆すぎる行動であることは間違いない。
「あら、高木警部にはずいぶん色々見せてもらっていたみたいだけど?」
蘭のいじわるな笑みにコナンは口をつぐんだ。蘭は周囲を気にしながら資料を開き、ページをめくっていく。
「先々週から続けて3件、そしてまだ報道されてないけど、昨日第四の事件が発覚したの……若くて綺麗な女性ばかりを狙った刺殺事件。同じ凶器を使っていることからして同一犯の犯行であることはほぼ確実だけど、被害者同士に直接の接点はなし。ただし、全員茶髪で背格好もよく似ているの。年齢は10代後半から20代半ば。ちょうどコナン君とあたしの歳の間ぐらいに全員収まる感じね」
蘭は言葉を紡ぎながら次々とページをめくっていく。その低く重い声、力のこもった指先の動き。コナンにはひしひしと蘭の怒りが伝わっていた。決して感情をあからさまにはしていないが、この残虐な犯人に対する目の前の女刑事の憤怒は生半可なものではない。
「特にこの4人目の被害者……。誰かに似ていると思わない?」
蘭が指差した写真は、高校の卒業アルバムか何かからコピーしたのであろう制服姿のバストアップ写真だった。その写真を見た時、コナンの脳裏に見知った顔が浮かぶ。
「灰原……?」
「ええ、髪型といい雰囲気といい、よく似てるわよね。遠目だったら間違えてしまうかも……」
資料の文章には、その女性がいかにむごたらしく亡くなったかが詳細に記されていた。さっき飲んだコーヒーが胃を逆流しそうな感覚に襲われる。もしも。もしもこれが灰原哀だったら。
「蘭姉ちゃん……どうしてボクにこんなものを見せるのさ」
コナンは目を逸らして顔を歪ませる。
「今のところ私達は完全に行き詰まっている。最初に浮かび上がった容疑者はすぐに潔白が明らかになって、初動捜査は無残に失敗したと言っていいわ。できることなら……あなたの助けを借りたいの」
現職の刑事が一介の高校生に殺人事件の捜査協力を頼む。それが言語道断であることは論を待たない。だが蘭の眼差しは真剣そのものだった。コナンがいかに有能か、彼女は誰よりもよく知っているつもりだ。
「……だめだよ蘭姉ちゃん。僕はもう、探偵じゃないんだから」
「……本当に?」
コナンは目を伏せて押し黙った。
「そうだよ」
コナンの拳が震える。すると蘭は自分の手をそこにそっと重ねた。
どこか懐かしいぬくもりがコナンの手を包み込む。
「だけど」
蘭はコナンをまっすぐ見据え手に力を込める。
「コナン君が探偵を辞めるなんてできっこない。あなたは生まれながらの名探偵よ。あいつと同じ……そう、同じ星の下に生まれた人」
「蘭姉ちゃん、僕は新一兄ちゃんとは違うんだよ」
今のコナンとかつての新一は、眼鏡をかけている以外ほとんど同一人物と言っていいほどよく似ている。もちろん実際に同一人物なのだが、それを知らない蘭であっても彼らを重ね合わせて見てしまうのは無理のないことだった。
「ええ、新一のほうがコナン君よりずっと子供だったわ。事件だって聞くと目をキラキラ輝かせたりね」
「蘭姉ちゃん……蘭姉ちゃんは、僕を新一兄ちゃんにダブらせているだけだよ。確かに僕は新一兄ちゃんによく似ている。瓜二つと言ったっていい。だけど……僕はもう、探偵じゃないんだ」
二人の間にしばしの沈黙が流れる。それから蘭は重い空気を壊すかのようにクスリと微笑んだ。
「わかったわ、無理強いはしない。だけどこれだけは約束して。哀ちゃんのこと、守ってあげるって」
「灰原を? ボクが?」
「ええそうよ、他に誰がいるの。見ての通り犯人はこういう外見の女性に異様な執着を持っている……。だけど都内だけでもそんな女性は大勢いるのに、一人ひとりを警察が守れるわけないもの」
「それは……確かに」
「だから哀ちゃんのことはコナン君がちゃんと守ってあげて。コナン君がついていれば絶対大丈夫だから」
「うん、わかった。蘭姉ちゃんもあまり無理しないで」
「ええ、ありがとうコナン君。それから有希子さんにも、よろしく言っておいてね。なかなかお見舞いに行く時間が作れないから……」
「うん」
二人は互いにうなずきあい、それから蘭はコナンの拳を握っていた手を離して机の上の資料を鞄に戻した。
コナンはやや逡巡してから思い切って言葉を切りだす。
「あのさ、蘭姉ちゃん……。蘭姉ちゃんは、彼氏作らないの?」
「え?」
「その、和葉姉ちゃんだって結婚してるんだし、さ」
他ならぬ自分がそれを尋ねるということに、胸が裂けるような罪悪感を覚える。しかし聞かずにはいられなかった。できれば刑事なんて危ない仕事はさっさと辞めて、誰かと結婚でもして平和な人生を生きて欲しかった。それがどれほど勝手な望みか、コナンは重々わかっている。
「もう、コナン君に心配されるほど焦ってませんよーだ。これでも職場じゃ結構モテるんだからね」
蘭は明るく声を弾ませて笑う。
実際、彼女は警視庁では「結構モテる」どころではなかった。何しろ一部ではかつての佐藤美和子の再来とまで囁かれるほど、男性刑事たちから絶大な人気を誇っているのだから。ただし蘭本人にそこまでの自覚はなかったが。
「今は仕事が充実してるから、別にいいのよ。充実って言っていいのかよくわからないけど」
「うん、それならいいんだ。……だけどもし、もし、新一兄ちゃんのことをまだ引きずっているのなら……」
コナンは声を絞り出すように言葉を続ける。
「あんなヤツ忘れてやればいいんだ。蘭姉ちゃんみたいな素敵な人を放ったらかして勝手にどこかで死んじゃうようなヤツ……最低だよ」
「ありがとう……コナン君」
その時蘭が垣間見せた今にも壊れてしまいそうな切ない笑顔は、新一の"死"を必死で乗り越えようとしていたかつての姿とどうしても重なってしまうのだった。
(オレは未だに蘭を苦しませているのか……? だけど、そうだとしてもオレに一体何ができる?)
わかっていても何もできない。江戸川コナンは工藤新一ではないから。何度も振り切ろうとした過去の後悔が、今なおコナンを縛り続けていた。
ガタガタと振動が響くバスの中で、コナンはぼうっと景色を眺めていた。
思い出すことは蘭との遠い記憶ばかりだ。
子どもの頃、二人で泥んこになるまで遊んだ。お化けを探したり、暗号を解いて宝を探そうとした。
中学生の頃にはスキー場で事件を解いた。
高校生の頃、飛行機の機中で事件を解決し、旅先のニューヨークでも事件に巻き込まれた。
どれもこれも、かけがえのない大切な思い出ばかりなのに。
(遠い……)
コナンはいらだっていた。蘭との思い出、その大切な記憶の何もかもがひどく薄れてしまっていることに。かつて鮮明に覚えていたはずのそれらの記憶の、細かな部分のほとんどは既に抜け落ちてしまっている。
今残っている記憶のどこまでが確かな真実で、どれほどが時間とともに変質してしまった曖昧な思い出なのだろうか? もはやコナンにはほとんど確証がなかった。過ぎ去った年数を思えば、それは確かに仕方のないことなのかもしれない。
だがコナンにとって――工藤新一にとって――、毛利蘭はたった一人の、この世で最も大切な人だったはずなのに。
今も変わらず、ずっとそうであるはずなのに。
「ちくしょう……!」
怒りの感情がふつふつと煮え立つ。なのに、何に対する怒りなのかは自分にもわからなかった。
米花駅を出てから一時間近くバスに揺られ、コナンは今日の本来の目的地である療養施設に到着した。
そこは富裕層専用の広々とした施設なだけに、都市部から少し離れた山の中腹に建てられている。だから米花町から行くのはそれなりに時間がかかるのだ。
施設の2階、風に揺れるカーテンの隙間から陽光が差し込む、広く上品な個室の真ん中で、コナンはうつむいて椅子に腰かけていた。
「最近どうしてるの? 新ちゃん」
ベッドから身を起こした有希子が尋ねる。昔と変わらず美しく、ただ少ししわがれた声で。室内ではあったが、有希子はチューリップ型の帽子をかぶっていた。
「別に……変わりないよ」
コナンは笑顔を作って答える。有希子はくすりと笑った。
「最近の新ちゃん、ちょっと心配かな。楽しくなさそうなんだもん」
「心配ねえってば」
「そうかなあ」
有希子は笑っていたが、コナンは母の顔をちらりと一瞥するだけですぐに視線を落とした。長く目を合わせていると、表情をつくろえなくなってしまうから。
体重を尋ねるまでもなく、有希子はまた痩せていた。抗がん剤の重い副作用は、ますます彼女の身体をむしばんでいる。
ほんの数年前まで、年齢を言われても誰も信じないほど若々しく美しかったというのに。
「あのね、新ちゃん」
コナンがもう一度顔を上げる。
「新ちゃんは自分の人生を楽しめばいいのよ。二度目の高校生活なんて素敵じゃない。大人になってからあの頃に戻りたいって思っている人、たくさんいるのよ?」
「オレは……」
「戻りたくなんてなかった?」
「……うん」
「そうよね」
「うん」
「確かに新ちゃんはたくさんのものを失ったかもしれない。でも……失っていないものだって、たくさんあるでしょう?」
有希子はじっと我が子を見つめていた。コナンはようやく母に目を合わせる。
「人は変わってしまう。生きるということはたくさんのものを失ってしまうということ。でも、いつだってそこには新しい出会いや喜びがあるの。新ちゃん、あなたは今までもこれからも、決して一人なんかじゃないでしょう?」
我が子をまっすぐ見つめる有希子の瞳は、どうしようもないほどやさしかった。
「うん……。ありがとう、母さん」
~
部屋を後にしたコナンの脳裏に、先ほどの有希子の言葉が反芻する。
(新しい出会い、か。確かにコナンになってからめちゃくちゃたくさんの人と出会ったんだよな……。なにも、悪いことばかりなんかじゃなかった)
そして今日蘭から受けた依頼のこと――守ってあげてと言われた相手のこと――が頭をよぎる。
(もう一度、あいつと話をしよう)
次の目的地は阿笠邸だ。