有希子の見舞いを終えたコナンは、バスで米花駅に戻ってそこから徒歩で帰路についた。不用心にも歩きスマホで、蘭に伝えられた連続殺人事件について調べつつ情報を頭の中で整理していく。
コナンは何か引っかかるものを感じていた。世間では変質者による暴行殺人という扱いがもっぱらだったが、自分の嗅覚とはどこか一致しない――だが、代わりの推理があるわけでもなかった。
自宅のすぐ近くまで来たところで、スマホの画面に気を取られていたコナンは、体に衝撃を感じるまで「何か」が自分に向かって走ってきていたことに気づいていなかった。突然の衝突で危うく尻もちをつきかけるが、かろうじてたたらを踏みバランスを取り戻す。
目に映ったのは、赤みがかった茶髪。
「いてて……灰原じゃねえか、お前どうしたんだ一体」
ぶつかってきた相手は哀だった。彼女はどういうわけか荒く息を切らしており、かなりの汗を流していた。切羽詰まった表情からは相当の恐れが見て取れる――まるで何かから逃げてきたように。
「おい灰原、大丈夫か!? 何があったんだ?」
コナンは思わず哀の肩を掴む。
その直後、哀の背後からエンジン音が迫ってきた。大型の黒いバイク。そこに乗っていた人物は、黒いフルフェイスのヘルメット、黒い服、黒いブーツ――
(黒ずくめの男!?)
まさかそんなことが。奴らはとっくの昔に滅びた。生き残りなどいるはずがない。
「逃げて! 工藤くん!」
哀がコナンを突き飛ばし叫ぶ。そしてバイクに振り返り、もう一度叫んだ。
「あなたは死なせない!」
哀はトートバッグの中から護身用の小型スタンガンを取り出し、バイク乗りに向けて構えた。
(灰原のヤロー、おとりになるつもりかよ!?)
そんなことをさせてたまるか。コナンは哀を押しのけようと肩を掴んだが、それと同時にバイク乗りが両手のひらをこちらに向けて振った。
「ちょっとタンマタンマ! 勘違いしないで!」
バイク乗りの声は、拍子抜けするほど慌てていた。しかもそれは明らかに――若い女性の声だった。ヘルメットを脱いだその素顔からは戸惑いが見て取れた。
「ごめんごめん、そりゃああたしも不審な恰好してるのは認めるけどさあ、何もそんな必死に逃げなくてもいいじゃない。あたしはただ、キミが落としたスマホを拾ってあげただけなのに……」
「え……」哀もコナンも呆気にとられる。
バイクの女性がポケットから取り出したスマホは、明らかに哀の物だった。
「さっき道を走っていたら、キミのカバンにあたしのバイクのハンドルがカスってこのスマホが落ちちゃったの。で、それを拾って渡そうとしたらキミが全力ダッシュで逃げ出したってわけ……」
結局バイクの女性は、最初にぶつかったあたしが悪かったと哀に謝った。哀の方も自分の勘違いを謝り、コナンと二人でお礼を言ってこの「事件」は解決した。
「さっきはみっともない所を見せたわね」
阿笠邸のソファーに座るコナンに、哀が紅茶入りのマグカップを手渡した。最近哀がこだわっている茶葉を使った、淹れたての一品だ。
「あれはしゃーねえよ。ぱっと見イヤな記憶がよみがえったのはオレも同じさ」
「……そうね」
哀の表情は冴えない。こういう暗い顔は長いこと見ていなかった。明らかに、昨日までとは様子が違っていた。
「お前、まだ組織のやつらが追いかけてくるかもって思ってるのか?」
「まさか。もう10年近くにもなるのよ。仮に生き残りがいたとしても、来るならとっくに来てるわ」
哀は自分のマグカップを手に持ってコナンの隣に腰を下ろす。ほとんどくっつきそうな距離だ。
「そ、それはそうかもしんねーけどよ……。さっきのあの
「でしょうね……」
哀はマグカップを両手で包み、背を丸めて自嘲気味に笑った。
「夢を見たの。つい昨日よ」
哀の唇が震える。
「奴らがまた現れて……私を殺そうとするの。それだけならまだ良かった。でも、あなたが身代わりになろうとして……」
「死んだのか、オレ」
「ええ、そうね」
「かーっ、オレって何回死ぬんだろうな」コナンが大げさにぼやいて背もたれに身を預ける。
「笑いごとのつもりじゃないんだけど」哀は非常に不満そうだった。
「そうだな……もしそんなことが起こったら、そいつは笑いごとじゃねーな」
コナンはしばし沈黙し、それから口を開いた。
「知ってるか? 灰原。お前に似た女の子が、最近何人も殺されてる」
「ええ、そうみたいね」
「そのせいで夢を見たのか?」
「わからないわ……。単に心配のし過ぎなのかもしれない。あなたは気にしなくて大丈夫よ」
「んなこと言われても気になるんだよ」
コナンはぼうっと天井を見つめる。
(もしもまた奴らが現れたらオレは……)
(オレはどうする。灰原が殺されるのを、指をくわえて見ているのか? まさか。やることはとっくに決まっている。オレがあいつを……)
守る。
オレがお前を守る。
喉まで出かかって、その言葉が声にならなかった。
――今のオレに何ができる?
――今のオレが、奴らから灰原を守れるのか?
――オレは弱くなった。本当に弱くなった。
今のコナンには、哀に対して力強い言葉を言える気がしなかった。あの頃なら自信たっぷりに言えたはずなのに。
「……何かあったら、いつでも相談してくれ」
「ええ、ありがと」
今はこれが精一杯の言葉だった。
「あーーーーー畜生!! 自分が情けねえ!!」
コナンは結局自宅に帰り、ベッドの上に大の字で倒れた。上着を脱いだだけのほとんど着のままの姿だ。
(こんなオレを見て、あいつは内心笑ってるんだろうか)
出会った頃の哀の姿がまぶたの裏に浮かぶ。皮肉めいた微笑み、凍てつくような眼差し、そして一度だけ見せた泣き崩れる姿。
かつての自分は、彼女にどんな感情を持てばいいのかまるでわからなかった。工藤新一としての人生を破壊した憎き敵。組織からの裏切り者にして協力者。最愛の姉を理不尽に失ったか弱い少女。体は子供、頭脳は大人。
いつしか彼と彼女は様々な事件現場で協力しあう不思議な関係になっていった。そして組織との戦いでは、それこそ運命を共にし戦い抜いた。
灰原哀はただの友人ではない。もちろん幼馴染でも、恋人でもない。
だとすれば彼女は一体なんなんだ?
何度問うても答えは出なかった。
「……」
まどろみの中に彼女がいた。出会った頃の少女の姿で、皮肉めいた笑顔でこちらを見下していた。
(平成のホームズさんにも解けない謎があるのね)
(バーロー。んなもんどこにもねーよ……)
意識が沈んでいく中、彼女の可愛くない笑みだけがいつまでもまどろみの中を漂っていた。
『若い女性が標的となった連続殺人事件が、また起きてしまいました。警察は同一犯の犯行とみて捜査を続けている模様です。新たな被害者となったのは世田谷区在住の……』
光彦が寝る前にニュース番組を見ていたのはほんの偶然だった。テレビ画面に映された4人の被害者の写真を見て、光彦はひどく驚いた。4人ともどことなく――第4の被害者に至っては明らかに――灰原哀に似ていたからだ。
偶然なのかそうでないのか。判断するにはテレビから得られる情報は少なすぎた。
光彦はすぐにネットを巡って事件の情報を調べた。ある程度の詳報を知ることはできたが、一方で目についた大半は興味本位の憶測や被害者のプライバシーを詮索するような下衆な書き込みばかりだった。人が死んでいるというのに、彼らは一体何を考えているのだろう?
はらわたが煮えくり返るような怒りを覚える光彦だったが、今はこんな連中にかまっている暇はない。
(万一のことを考えて、灰原さんを守らないと……。でも、一体どうすれば?)
何か手掛かりはないか。なんでもいい。
光彦はスマホを手に取り連絡先をスクロールする。蘭や高木に事件の情報を尋ねるか――いや、そんなことができるはずがないし、教えてくれるわけもない。あてもなく指を動かしていく中で、よく見知った名前に目を奪われる。
"江戸川コナン"
光彦の知る限り、世界で最も優秀な探偵の名前。
(ばかばかしい……。彼はもう頼りにならない)
ため息をついてスマホを放り出す。それから光彦はベッドに座り込んで頬杖をつき、しばらくじっと考え込んでいた。だが、どれほど考えても同じ結論にたどり着くのだった。
「……Hailey、僕はどうすればいい」
『Sir、質問の意味がわかりません。しかし今は就寝すべき時間です』
光彦は苦笑して天井を仰いだ。