「それで、いつから私達をつけていたの?」
阿笠邸のリビングで、哀とコナンはソファーに並んで座り歩美はその向かい側の椅子に座らされていた。
「ええっとね、事件現場の前で哀ちゃんがコナン君に声をかけたところあたり……かな」
「マジかよ……」
それは完全に想定外の答えだった。
コナンは少なくともあの現場で哀に会ってからはずっと周囲を警戒していたつもりだ。しかし考えてみれば、今日2人で出歩いていたのはほとんどが人通りの多い賑やかな場所であり、コナンが歩美の気配を感じ取れたのは家に近づいて周囲に人がいなくなってからのことだった。つまりそれまで歩美はずっと人混みの中に気配を紛らわせていたということになる。それ自体は尾行の王道ではあるが、それにしたって自分の探偵としての嗅覚がそれほどまでに鈍っていたという事実にコナンはショックを隠せない。
「そもそもどうしてあなたが私達の尾行なんかを?」
「んーとね、これ言っちゃっていいのかな。まあいっか。光彦くんから哀ちゃんの様子を見といてほしいって頼まれて」
「光彦から?」
コナンの眉が釣り上がる。
「なるほど、やっぱりそういうことね。円谷くんも人が悪いわ」
なにやら得心しているかのような様子の哀だが、コナンにはさっぱり納得がいかない。
「お、おい、やっぱりってどういうことだ?」
「だって円谷くんに教えてもらったんだもの。あなたが例の事件の捜査を始めたってこと」
「あ、あんにゃろー……」
これじゃあまるで全部光彦の手のひらの上だ。
「光彦くんも言ってたけど、例の事件の犯人が本当に哀ちゃんを狙ってくるのかは全然わからないって。でもあたしたち少年探偵団だもん、もしもの時は哀ちゃんを自分たちで守りたいって思うのは当たり前でしょ? でもだからってべったりくっついてたりしたら哀ちゃんも迷惑に思うだろうし……」
「ふふっ、ずいぶん気を使わせちゃったみたいね」
微笑む哀に対し、歩美はなにかを考え込んでいる様子だった。
「ん~ん、気にしないで。それとひとつお願いなんだけど……ちょっと哀ちゃん、2人きりで話せる?」
「え? それは別にいいけど……」
ちらりとコナンの方を見やる哀。
「歩美ちゃん、オレは?」
自分を指差すコナンに対し、歩美は手のひらを突きつけて意思をはっきりさせた。
「コナン君は家に帰ってて! こっから先はガールズトークだから!」
「ええ~……」
「それにコナン君、今日一日中哀ちゃんを独占してたんだからいいでしょ!」
駄々をこねる子どものように強情な歩美の様子を見て、哀は苦笑してコナンに首を振る。
「仕方ないわね、歩美の言うとおりよ。江戸川君、今日はありがとう。また明日ね」
「へーへー。おめーらもあんまり遅くなるなよ」
投げやりに手を振って立ち去っていくコナン。哀は小さく手を振ってその背中を見送ってから再び歩美に目を向けた。
「それで、話って何かしら?」
歩美はムスッとした表情で、なんだかとても不満げだった。
「哀ちゃんさあ、コナン君と進展する気、ある?」
「え?」
「あんなのデートにしか見えないのに2人とも全然アクション起こそうとしないし……いくらなんでも手ぐらい繋いだっていいんじゃない!? あたし、まどろっこしすぎて何度も飛び出そうと思ったもん!」
「ちょ、ちょっと待って。別に江戸川君とはそういう仲じゃ」
「そんなの信じる人いないよ」
バッサリと切り捨てる歩美。
「コナン君もコナン君だよ、せめて映画のロマンチックなシーンで肩ぐらい抱き寄せるとか、なんかこう……なんなの!? 中学生!?」
「彼は……そういう人よ」
もはや哀にはそれぐらいしか言い返せなかった。
「あ、でも映画の途中で一回だけコナン君が肩に手を回そうとしてたかな? 結局すぐに引っ込めてたけど」
「え? まさか」
「ほんとだよ、あたし見たもん。暗かったけどあんなの見間違えないよ」
(彼が私の肩に手を回そうとしていた……?)
にわかには信じられない情報だった。まさか本当に、気の迷いほどのレベルではあっても、あれが「デート」だという認識がコナンの方にもあったのだろうか。自分のことを、そういう対象に見たのだろうか。
「コナン君がそういう人なら、哀ちゃんの方がもうちょっと押していった方がいいんじゃない?」
「あ、あのね、だから私は別に彼のことを……」
その時哀は、歩美の表情がどこか不安げで、そして子どもの頃のような幼い雰囲気が戻っていることに気づいた。
ずっと昔、歩美がこんな表情を見せたことがあった。
「好きなんでしょ? コナン君の事……」
――ああ、あの時は「好きなの?」だったわ。だけど今は、疑問ではなく、確認なのね
「……だったらどうする?」
「どうもしないよ。知ってるもん……」
歩美が所在なく視線をさまよわせる。
「でもいつまでもそんな曖昧な関係だったら……困るよ、あたしがコナン君のこと、諦めきれなくなっちゃう」
「歩美……」
力なくうつむく歩美に対し、哀は何も言うことができなかった。彼のことなんて別にそういう対象として見てないと言い張るのは簡単だ。だけどそれはきっと、単なるごまかしでしかなくて。
言葉にならない代わりに、哀はただ歩美の肩に手を触れようとした。
「な~んちゃって! あたしはコナン君のことなんてもう引きずってないもんねー!」
突然満面の笑みで顔を上げる歩美に哀はあっけにとられる。
「ええ……?」
「あたしはいつまでもダラダラ初恋を引きずったりしないもん。哀ちゃんも、コナン君があんまり頼りなかったら他の人探した方がいいと思うよー!」
「そ、そう……」
先程までとはうってかわって、歩美はとてもハイテンションだった。だけどどこかほんの少しだけ、無理に明るく振る舞っているようにも見えた。
「あ、あたしそろそろ帰らないと。哀ちゃん今日は色々ごめんね! それと、事件が解決するまでは絶対に危ないところには行かないって約束して!」
「ええ、約束するわ」
「うん! 絶対に絶対だよー!」
哀は玄関先まで歩美を見送り、頬を緩めて歩美が見えなくなるまで手を振った。
(本当……あの子には元気をもらえるわね)
灰原哀として仮りそめの人生が始まった時、最初にできた一番の親友。同級生であり、探偵団の仲間でもあると同時に歳の離れた妹のような存在。ちょっと不思議な関係ではあったが、哀にとって歩美はコナンや阿笠にも負けないぐらいかけがえのない存在だ。今までも、きっとこれからも。
リビングに戻った哀は、お湯を沸かしお気に入りの紅茶を入れてソファーに腰掛けた。砂糖は控えめでほろ苦い、少し気取ったような味。紅茶の温かさが体に染み渡り、ふうっ、と大きく一息をつく。
(私、この先彼とどうなりたいんでしょうね)
歩美の言うとおりコナンと「そういう関係」になれたなら、それは幸せなのだろうか。彼はそれを望んでくれるのだろうか。
(ああ、私ったらまた都合のいいことを……)
哀はため息とともに天を仰ぐ。自分にそんなことを望む資格がないことは、自分が一番よくわかっている。
(私は彼から蘭さんとの未来を奪った。工藤新一という人生を奪った。その私が彼と幸せになりたいと?)
(そんなことを聞いたら、きっとお姉ちゃんだって私を軽蔑するでしょうね)
(私は、私の分相応をはるかに超えて幸せに生きているわ。博士がいて、あの子達がいて、そして……)
(これ以上を望むなんて、強欲もいいところよ)
紅茶を飲み干したころ、ふと大窓から外を見ると、大粒の雨が振り始めていた。雨脚は見る見る間に強くなり、すっかり日が落ちていたこともあって外はもう真っ暗だった。
(歩美ってば、ちゃんと家まで帰れたのかしら)
寄り道せずに帰っているならそろそろ着いているはずだ。ただ、少し心配になる雨量ではある。
ピロン、と携帯の通知音が鳴った。
『雨あぶなかった~! ギリギリセーフ!』
歩美のメッセージとスタンプを見て、哀はほっと胸をなで下ろした。
(そうよ、大丈夫、何も心配することなんかないわ)
(例の事件だって、きっと警察が解決してくれる)
(そうなったら、またいつかみんなで旅行に行きたいわね)
(そうだわ、来月には博士が戻ってくるんだもの。昔みたいにみんな一緒に……)
哀は雨脚の音に耳を澄ませながら、いつしか物思いにふけっていた。
こんな夜の雨の日には、時々思い出すことがある。
初めてこの家にやって来た時のこと。
つまり――"灰原哀"が生まれた日のことを。
「あら?」
何気なく大窓に近づいた哀がふと気づくと、中庭にふらふらと迷い込んでくる何かが見えた。
リビングの明かりに照らされ、それが子猫であることがわかった。ただどこか様子がおかしかった。後ろ脚を引きずっているような不自然な歩き方で、ひどく弱っているようだった。
(もしかして、脚を怪我しているのかしら……)
暗いしずぶ濡れでよくわからないが、膝のあたりから血が流れているようにも見える。子猫は庭の真ん中で腰を下ろし、座り込んだ。こんな酷い天気の中、雨ざらしの場所で休むなんて普通の行動ではない。衰弱していることは間違いなかった。
哀の心拍数が上がる。
その時頭をよぎったのは、あの雨の日のことだった。
まだ哀が元の姿だったころ、彼女は組織に所属しシェリーと呼ばれていた。姉の死をきっかけに組織に逆らって投獄され、死ぬつもりで薬を飲み、奇跡的にも縮んだ体で脱獄して闇雲に工藤新一の家を目指し走った。目的地を目の前にしてとうとう力尽き、工藤邸の門の前で倒れ込んだ。
(そう、その時私を助けてくれたのが、博士だった)
見ず知らずの哀を助け、組織からの逃亡者という荒唐無稽な話を信じ、温かいスープを飲ませてくれた。あのスープのぬくもりは、一度だって忘れたことはない。
(あの時博士がいなければ、私はきっと野垂れ死んでいた)
命を救われたシェリー、すなわち"宮野志保"は、阿笠とともに新しい名前を考え、その名前で小学校に入学して彼らに出会った。それが仮りそめの、そしてのちの新しい人生である灰原哀の始まりだった。
(あの猫はまるで――)
まるで、あの日あの雨の中うずくまっていた自分のようだった。全てに絶望して死を受け入れようとしていた、あの時の。
哀は大窓を開け、中庭に飛び出した。ほんの一瞬躊躇したが、見て見ぬ振りをすることなどできなかった。
そう、何かが不自然だということはわかっていた。
賢明な判断ではないということは理解していた。
だけど目の前のあの猫を見捨てることなど、彼女には決してできなかった。
ずぶ濡れの子猫を抱え、持ち上げる。
思ったとおり、その子は脚を怪我していた。ナイフか何か、鋭い刃物で膝付近を切られている。明らかに人為的な傷だった。
(ああ、なんてこと――)
自分は判断を誤った。
そう気づいた時には全てが遅かった。
背後から何者かが哀の口を塞いだ。
抵抗する間もなく、
哀の意識は
薄れて
いっ
た