どれほどの時間、混濁した無意識の海をさまよっていただろうか。
長い、夢を見ていたような気がした。
その夢の中には姉や母がいて、なんの苦しみも別れもない幸せなだけの世界で――
「う…………」
意識が戻ると、そこは無味乾燥な灰色の部屋だった。
哀はハッとして辺りを見渡す。
自分はパイプ椅子にもたれていて、後ろ手を縛られ固定されている。目の前には安っぽいテーブルが置かれている。古い事務所ビルの空き室らしきコンクリートむき出しのその部屋には、他のまともなインテリアなど一切なかった。
窓にはブラインドが降ろされていて、夜のわずかな闇光だけがその隙間から差し込んでいた。
「目が覚めたようだね」
その静かな低い声とともに天井の蛍光灯が灯された。部屋の広さの割には照明の数が少なく、そのせいで薄暗いケチな光だったが、それでも暗さに慣れていた哀の目には一瞬眩しかった。
「乱暴な手段で連れてきてしまってすまないね。ただ少し君と話をしたいだけなんだよ」
その男はゆっくりと歩いてきて、テーブル越しに哀の正面に置かれていた椅子に緩慢に腰を下ろした。
男は、ただの冴えない中年男性にしか見えなかった。
しわだらけの柄シャツに使い古しのジャケットを羽織っており、やや丸みのあるその顔立ちは明らかに日本人のものだ。年の頃は40代か50代といったところだろうか。くたびれた顔で、背筋が丸まっていて覇気がない。
この男が組織の復讐者?
とてもそうは見えなかった。
それに哀には、組織の人間の「臭い」を感じ取る直感がある。この平和な10年で勘が鈍ったということはもちろんあり得ることだが、それを差し引いても目の前のこの男からは組織の人間らしき気配はまるで感じ取れなかった。
「こいつは違う」それが哀の直感が下した判断だ。
だがそうであっても、今自分の命はこの男に握られている。哀にとってそのことだけは確かな事実だった。
「……女性をエスコートするには不適切な誘い方なんじゃないかしら」
哀は辺りを見回し、せめて精一杯の余裕を装って皮肉を言う。
「そうだね、それにここは小洒落たレストランでもない」
男が薄笑いを浮かべる。
「だが話ぐらいはできるだろう」
「……嫌だと言ったら?」
男は腕を組み、少し視線をさまよわせて首をひねった。
「"3人目"の彼女はそういう態度だった。絶対に一言も話したくないとね。結局、少しばかり乱暴なことをせざるを得なかった」
男は淡々と、まるで単なる仕事の雑談のようにそんなことを言い放つ。
「私だってそんなことがやりたいわけじゃないんだ。ただ少しだけ協力してほしいだけなんだよ」
腕を組んだままごく静かにとんでもないことを言い出す男に対して、哀の腹奥から怒りが込み上がる。
(ふざけたことを……!!)
この手に銃があるなら、きっと引き金を引いている。だが現実には、後ろ手で縛られた腕を動かすことさえできない。
もちろん助けを呼ぶ手段もなかった。当然のことながら、ポケットに携帯は入っていないようだった。
「私は、恋人を探しているんだ」
「恋人……?」
まさかこれが婚活だとでも言うつもりなのだろうか?
この男が何を考えているのか、哀にはさっぱり理解できない。
「こんな私にも恋人がいたんだ。20年以上も前の話だよ。もっとも、私の方が一方的に熱を上げているだけで彼女の方はそうでもなかったようだがね」
男がうつむいて頭を抱える。
「ある日、私達は酷い喧嘩をした。彼女が他の男と関係を持ったと疑ってね。車の多い大通りの前だというのに、私達は人目もはばからずに互いを罵りあった」
「彼女は、引き留めようとした私の腕を振り払って車道に飛び出していった。酒も入っていて、冷静な判断ができなかったんだろう。そして……」
「ドン!!!」
男が自分の手のひらを拳で叩いた。
「彼女は帰らぬ人となった。それで終わりだ。つまらない話だよ」
「……」
哀にとって、いやおそらく誰にとっても、全く意味不明な語りだった。その昔話と、今ここでこの男がやっていることとになんの関係があるというのか。
哀が顔をしかめているのに気づいたのか、男は一つ咳払いをしてから話を続けた。
「私はしばらく絶望に打ちひしがれていたが、ある本が救いになった。死んだ人間は生まれ変わるんだ。彼女もきっと、死んでからしばらくして現世に生まれ変わっている。私はそう確信した」
「なっ……」
「20年か、25年か……いずれ必ず彼女の生まれ変わりは、かつての彼女と同じように美しく成長してどこかで新しい人生を送っている。きっとそうだ。それを信じることだけが私の人生を支えた」
「まさか、そんなことのために……」
「そのためだよ。私はついに彼女の生まれ変わりを探し出すことに決めたんだ。誰よりも彼女を愛していた私になら、きっと探し出せると思った。かつての彼女とよく似た女性に的を絞ってね」
男の言葉には熱がこもっていた。瞳は力強く哀を見据えている。表面的にはとてもたちの悪い冗談を言っているようには見えない。いたって真顔だ。
逆に言えば、こんなふざけた話を本気で信じている人間ほど恐ろしいものはない。
(狂っている……)
どうやら組織の復讐者という想定は外れていたようだが、まったくもって幸いなどではなかった。まさかこの平和な日本にこんな狂人がいたなんて!
「私はね、本当は誰も巻き込みたくはないんだ。今まで犠牲になってしまった女性たちも――彼女たちはひどく取り乱して、私に協力してもらえなかった――だからやむなく手をかけてしまったんだよ。君さえ快く協力してるなら、決して乱暴なことはしない。約束しよう」
「ふざけたことを……っ!!」
哀の顔が怒りに歪む。
一体誰がそんなでまかせを信用できるだろうか。目の前にいるのは、身勝手な狂った理由で4人もの人間の命を奪った殺人鬼だ。
「そう慌てないでくれ。いくつか質問に答えてくれるだけでいいんだ」
男は床に置いていたらしき革のバッグをテーブルの上に乗せ、それを開いて赤茶色のカードケースを手に取った。
「まず、君の名前は灰原哀、だね?」
そのカードケースは、哀が学生証を入れていたお気に入りのものだった。どうやらいくつか持ち物を盗まれていたらしい。
「ええ……そうよ」
今はこの茶番に付き合うしかない。それが哀の結論だった。
さっきから手の拘束をなんとか外そうと試行錯誤しているが、すぐにはできそうにない。なにか行動を起こすためにも、時間稼ぎは必要だった。
「君が通っているのは帝丹高校なのかい?」
「見ればわかるでしょう?」
そう言い捨てながら哀はあごを突き出して学生証を指し示す。
「質問しているのは私だ」
男は落ち着いているが、哀に質問に答える以外の自由を与えるつもりはなさそうだった。
「ええ、帝丹高校の2年生よ」
哀は極力目を合わせないようにしながら答えた。
「君にきょうだいはいるのかい?」
「……きょうだいは……」
いる。宮野志保には、確かにいる……いた。
だが、灰原哀という少女にはいない"ことになっている"。であればそちらに合わせて答えるべきではあるだろう。そもそもこんなことを聞かれる意味もさっぱりわからないのだが。
「いないわ」
ひとまずそう答えた。
「君に恋人はいるのかい?」
「そんな人いないわ」
今度は即答だった。
「……なるほど、君は彼女によく似ている」
「あらそう」
哀は適当に答えながら窓を観察していた。ブラインドに阻まれて外の様子はさっぱり見えないが、漏れてくる明かりの色味を見る限りまったくの僻地ということはなさそうだ。ほぼ間違いなく、周囲には他の建物もある。
今は夜中かもしれないが、周囲100メートルに人っ子一人いないということはないはずだ。なんとかしてこの部屋を脱出できれば、逃げる手段はあるはずだった。
とはいえ、まともな出口は部屋の隅にある扉一つしかない。男の目を盗んでそこから出ることは相当に難しいだろう。
仮に窓を破ることができたとして、ここが何階なのかはわからない――いや、外の明かりの方向を見る限り、そしてこの部屋のみすぼらしい作りからして、少なくともそこまで高いビルではないはずだ。
できる。脱出は可能だ。
哀はそう結論した。
まだ腕は開放されていないが、この拘束を抜けるのは時間はかかるとしても不可能ではなさそうだ。腕さえ動くようになれば、自分には切り札がある。
哀は左手の腕時計が外されていないことを触覚で確認し、かすかな笑みを浮かべた。
「それじゃあもう一つ」
哀が思考に集中していたその時、男が口を開いた。
「君は
「!!!」
その瞬間、哀の息が止まった。眼が見開かれ、顔が引きつり、唇が震えた。心臓までもが、止まってしまったような気がした。
まさか。
ああ、そんなまさか!
「……どうやら、答えを聞くまでもないみたいだね」
「っ……!」
男がゆっくりと立ち上がり、哀に近づいて見下ろす。
「今まで誰も、この質問にそんな反応はしなかった。ただ意味がわからないと顔をしかめるだけだった。だが君は違った」
哀は男を見上げる。言葉が出てこない。呼吸はどうしようもなく乱れ、全身から冷や汗が流れ落ちる。震えが止まらなかった。
「その
それは完全な油断だった。心の準備さえ出来ていれば、こんな安易な罠にかかるはずもなかった。澄まし顔でとぼけることは容易だったはずだ。
だが哀の頭の中から、この想定は抜け落ちていた。
この男は、組織とはなんの関係もないただの狂人。完全にそう思い込んでいた――思い込まされていた。
「君が、シェリーなんだね」
男の目から光が消えていた。獲物を見つけたというよりはまるで、愚かな子羊をあわれんでいるかのように。
「さっき話していたことは……」
「ああ、でたらめだよ。君の不意を突く必要があったんだ。そのために作り話をでっち上げた。私が探していたのは最初から、シェリーという名の女だった」
男が膝を曲げ、哀と同じ高さにまで顔を下げた。
「君を、探していたんだ」
「……!!」
しばしの時間を、沈黙が支配した。
哀にはもはや、ここから脱出しようという気力は残っていなかった。ただただ放心していた。
男は椅子に戻り、腕を組んだまましばらくの間何も言わなかった。ただじっと哀を観察していた。
「事情は知らないが」
ようやく男が口を開いた。
「君にとってはよほどこたえることらしいね」
「事情を……知らない……?」
哀が顔を上げる。
「あなたは、組織の生き残りではないと……?」
「組織、ね……。そんなことを言われても答えようがないが」
男が頭をかきむしる。
「私の
「そう……そういうことね……」
哀は組織の人間の「臭い」がなぜこの男から感じ取れなかったのかをようやく理解した。
つまるところこの男は組織の生き残りではなく、単なる使い走りに過ぎなかったというわけだ。
――だけどそういうことなら、この場から脱出してこの男の口を塞げばあるいは――
「……などとは考えない方がいい」
「!」
哀の思考が遮られる。
「先程からずっと、この部屋での会話は依頼人に伝わっているんだ。私が持っている盗聴器を通じてね。今までは無駄な時間ばかりを使わせてしまっていたが……」
男がジャケットをつまみ、裏地を見せる。裏ポケットには、盗聴器らしき四角い機械が差し込まれていた。
「今回は
哀は、理解した。
もはや逃げ場などないということを。
だからもう、力なくうなだれる以外には何もできないということを。
(ああ、せめてみんなにはお別れを言いたかった。でも――)
博士のこと。歩美や元太や光彦のこと。そしてコナンのこと。
こんな自分につかの間の、それでも充分に長い幸せを与えてくれたかけがえのない人たち。
彼らのことが次々に脳裏に浮かぶ。
自分が死ぬことに未練はない。
もちろん、恐怖がないわけでもない。死の恐怖は万人に共通だ。かつて何度も自ら死のうとした哀は、そのことを身をもって知っている。
でも、彼らを巻き込まずに済むなら、それで良かった。
それだけで充分だった。
(そうだよね、お姉ちゃん。これでいいんだよね)
来るべき時が来た。それだけのことだ。
だから受け入れよう。
哀は微笑んだ。そして顔を上げて天井を見つめた。
(さよなら、工藤君。最後のデート、楽しかったわ。……本当に、楽しかった)
哀は目を閉じた。一粒の水滴が、そこからこぼれ出た。
その水滴が頬をつたってぽとりと落ちた、その時だった。
「灰原ぁッ!!! ここにいるのかッ!!!!」