破界僧〜Fateの世紀〜   作:ヤン・デ・レェ

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原題"静かなる狂愛"


醸成

 

 

 

 

 

あの日から余はシュルカヌスの想いを受け止め、自らを磨くことに力を注ぐと決めた。

 

芸術は勿論であるが、苦手な運動…戦車の腕も上げようと努力した。

 

皇帝位を継ぐ前から、この身が皇帝となることを市民が望んでくれるようにできることは全てしよう。

 

伯父上の苦悩と栄光をも背負い、彼が成し得なかった英雄へとなる為に。

 

市民を私費で劇場に招き歌や脚本を披露しては喝采を博した。

 

段取りや場所、宣伝に協力してくれないかとシュルカヌスに相談すると、彼は費用も全て出してくれた。

 

劇場での司会も買って出てくれた。

 

シュルカヌスが舞台に上がっただけで人々の間からは喝采が舞った。

 

余の知らぬうちに、いや。

 

余がシュルカヌスから眼を背けているうちに、彼は民の親愛を獲得していたようだった。

 

 

 

 

余は彼に尋ねた。

 

「のう…シュルカヌス。今、少しいいだろうか?」

 

余は大好評で幕を閉じた劇場の撤収作業の陣頭指揮で忙しそうにしていたが、余は待てなかったのだ。

 

「?どうした、ネロ。俺は大丈夫だぞ。」

 

それだけ言うと、手にある道具を置き、陣頭指揮を近衛隊から手伝いに来てくれた元副官に任せると彼はどっしりと余の前の木箱に腰掛けた。

 

「シュルカヌスは…英雄に、なりたい、のか?」

 

吃りそうになるのを努めて抑え問うた。

 

彼は数瞬の間視線を地面に向けた後、余を両の瞳で上目に見つめて言った。

 

「英雄になりたいと思ったことはないよ。俺は平々凡々に穏やかに生きたいんだ。だけど、自分の大切な人の、ネロのためにできることをしないって言うのはなんか違う気がするんだ。…それだけ。」

 

シュルカヌスの心の内を初めて聴いた気がした。

 

平々凡々がいい。

 

「なんか、恥ずかしい、な!…柄にもないことを言った気がする。」

 

シュルカヌスは言い終わると少し気恥ずかしそうに顔を赤くした。

 

…余はずっと見ていたのに。

 

ずっと見ているつもりでしかなかったのだな。

 

シュルカヌスは、余にとって家族以上に大切な人だ。

 

その気持ちは変わらない。

 

けれど、余は彼を、彼の本当の気持ちを知らなんだ。

 

余は英雄になりたいのか、皇帝になりたいのか、はたまた芸術家になりたいのか。

 

今、恐らく余は人生の行く末を決める最後の選択を迫られている。

 

栄光と名誉と大望と希望と才能と…どれを選んでも沢山の輝きが余を包むだろう。

 

余はきっと後々までも悩むであろう。

 

どれかを選んだことを後悔するかもしれない。

 

…だが、実の所初めから選択肢は一つだけだった。

 

この場にはない、本当に余が望んでいること。

 

余はそれを選んだ。

 

 

 

 

 

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全てを選び決めたあの日から1ヶ月が経とうとしていた。

 

世の心中は度し難き泥濘と暗澹に彩られている。

 

 

 

暫し前から、シュルカヌスと現皇帝クラウディウスの対立が徐々に深まっていた。

 

シュルカヌスは伯父上が皇帝の頃より積極的に異教徒…

 

(シュルカヌスからそう言う呼び方は良くないと言われたのだった…)

 

…キリスト教徒とユダヤ教徒との交流を図っていた。

 

彼は自分が与えられた褒美、金銀、食料などを惜しむことなく彼らに施していた。

 

伯父上はシュルカヌスへの深い信頼から咎めることは一度もなかったが、積極的に彼らに関係することもなかった。

 

結局、伯父上の治世ではキリスト教やユダヤ教への扱いが悪くなることは決してなかったのだ。

 

寧ろ、彼が積極的に彼らを麾下の近衛隊へ登用し始めた際も、元老院の反対こそあったものの皇帝は黙認していたために、彼らの社会的立場は向上に向かっていた。

 

…だが、伯父上が譲位を受け入れクラウディウスが皇帝位につくと、当初こそ自身の皇帝就任の立役者であるシュルカヌスへの厚遇が見られたが、彼が法務官に就任して間も無くそれまで彼が築いてきた一切の軍事的権限を剥奪し、政務における権限をも徐々に狭めていったのだ。

 

シュルカヌスは不平不満を漏らすことはなかったが、ある時他宗教への待遇緩和を皇帝に上申し、これを元老院、そして彼らに唆された皇帝クラウディウスによって強く批判された上で却下されている。

 

元老院は伯父上による治世に見られたシュルカヌス主導の他宗教への融和傾向と、彼の輔弼により前代よりも拡大した皇帝権限が元老院の権威弱体化への警戒からか、クラウディウスとの関係を早くに強め元老院勢力にとって障害となりうるシュルカヌスを排斥する動きを強めていたのが背景にあった。

 

シュルカヌスは強力なカリスマを自然と発揮し近衛隊の将兵から絶大な支持を受けており、宮廷内での軍事力には比肩するものがいない状態であったが、彼が長官職を解かれるとすぐ様に近衛隊の配置編成が強引に進められ、元老院子飼いの新旧の貴族の子弟からなる非実力主義的な組織に作り替えられた。

 

まもなく近衛隊は皇帝クラウディウスが率先して賄賂をばら撒き、売官蔓延る腐敗集団へと変貌した。

 

そして、シュルカヌスの冷遇が決定的となったのが法務官の職を剥奪された時であった。

 

一般には皇帝との対立とされているが、実際は皇帝の個人的なコンプレックスによる嫌悪が大きな要因となったと考えられている。

 

クラウディウスはその背中の曲がった容姿にコンプレックスを抱き、人望厚く、容姿も黒髪黒眼で整っているシュルカヌスへの強い敵愾心を抱いていたとされている。

 

また、結婚こそしたものの妻である小アグリッピナや、養子のネロも両者ともにシュルカヌスへの信頼が厚いことを不満に思っていたともされる。

 

背景はともあれ、賄賂を糧に徐々にシュルカヌスを追い詰めていったクラウディウスと元老院勢力は、贈賄を迫られるとそれを拒否した彼から法務官の位を剥奪すると、まもなく冤罪を用いて彼から公私双方の称号と全ての職権を剥奪するに至った。

 

これはクラウディウスの私生活においての妻と養子との対立を決定づけることとなり、それを怨みに感じた彼は最終的にシュルカヌスを再びの不敬罪によって投獄した。

 

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その日、ローマはカリグラ帝退位の折りにも増して閑散としていた。

 

まるで通夜の如く静かなローマのお膝元において、かろうじて声を張っているのは市場の鮮魚商か新編された近衛隊による違法立件が市民を責め立てる声と、冤罪への弁明と称した罰金を泣く泣く支払う市民の嗚咽ぐらいだ。

 

ローマの火は揺らいでいた。

 

だが、市民の不安はもう一つあった。

 

投獄された名士シュルカヌスの安否である。

 

彼はかれこれ数週間、全く姿を見せていない。

 

噂すら流れない。

 

ローマの民はその信じる教義の違いに隔てなく、一心に親愛なる為政者の身を案じていた。

 

彼らはにわかに考えざるをなさ得ない。

 

ローマは、皇帝をいただくべきではなかったのではないか?

 

共和制の春を懐かしむべきなのか?と。

 

 

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元老院の思惑は想像以上に成果を挙げていた。

 

元老院はシュルカヌスの排除後、その政治的助言機関としての機能を態と停止した。

 

そして、皇帝に表向きの政治を恣にさせた。

 

クラウディウスは自身へと権威が集中することを喜んだ。

 

日の目を浴びることがなかった、本来であれば皇帝になりえなかった自身への喝采が聞こえるようであった。

 

彼は自信を持つと大いにその不健康な細腕を振り回した。

 

反動のように遠征計画と反他宗教政策を打ち出した。

 

あまりに苛烈な内容を書き殴ったそれは直接市民に施されることなく、静かなる元老院の介入のもと、より長期的計画で、じわりじわりと進められることとなった。

 

抑、元老院は彼に実権を委ねる気などなかった。

 

元老院は政策実行のために、その汚職に塗れた手を直接下すことはなかった。

 

贈賄により捕縛されていた犯罪者やカリグラ帝の治世では不正への加担が発覚して冷遇されていた元老院のメンバーに、近衛隊や首都防衛のために残されている軍での肩書きを与えて実働部隊とした。

 

彼らには警察権が付与されており、恣意的な治安悪化により市民の不満を順調に高めていった。

 

彼らは口を開けば皇帝の名を用いるよう指示されており、凡ゆる弁明と反論に皇帝の権威を根拠として使い、これはアウグストゥス帝以来のローマ帝国皇帝の権威への信頼と尊敬を著しく毀損した。

 

宮廷ではクラウディウスと元老院間の贈賄が常習化、元老院側は主に金品を要求し、表面上は恭しく女を献上する始末であった。

 

クラウディウスはそれまでの前半生における不遇への不平不満に熟され爛れた欲求を満たさんと酒色への傾倒が徐々に現れた。

 

クラウディウスの欲は自身の養子であるネロにむき始めていた。

 

已んぬる哉、この時ネロは既に随一の美貌と豊かで整った身体に成長していた。

 

この時こそ、ネロの生涯における艱難辛苦の極みであったと言える。

 

度々"誘い"を受けては断固として断り、シュルカヌスの復職を引き合いに出されようとも決して頷くことはなかった。

 

シュルカヌスを引き合いに出したのは本来の目的ではなく、ネロが自らシュルカヌスを見捨てたという事実が欲しかったがためだったという。

 

しかし、それを伝えられたシュルカヌスはあくまでも冷静穏和に尽きる返答を返したとの噂が広まり、当事者たちの発言なくしてローマ市民の間では美しき皇位継承者ネロと忠節と愛を湛える名士シュルカヌスによる王道政治と題した彼らへの支持に消えない火が燻り始めていた。

 

 

 

 

 

市民の不満は日々募っていく。

 

しかし、彼らは決して皇帝へ反旗を翻そうとはしなかった。

 

既に不満とネロ・シュルカヌス支持の機運は地方の総督や彼らの旗下ローマ軍団将兵にまで浸透し始めていた。

 

しかし、それでも反乱一つ起きなかった。

 

彼らには唯一とも言える希望の光があったのだ。

 

ネロの成人、そして成人に際しての恩赦でのシュルカヌスの復職である。

 

ネロとシュルカヌスの間に断絶不可能の太平なる繋がりがあることはローマの民にとって常識であった。

 

彼らは正式に皇女ネロが誕生した時こそが、ローマの復活であると期待していたのだ。

 

或いは、ローマの零落が限りなく確かなものになるのか否かの最終判断であると捉えられていた。

 

 

 

ネロの成人の暫し前、事件が起こった。

 

ネロがシュルカヌスの釈放を強く皇帝に求めたのだ。

 

"雷号に勝る甚だしき威勢なり"

 

のちにそう書き残されるほどの剣幕でネロは義父へとシュルカヌスの釈放を求めた。

 

 

 

 

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「義父上!今すぐ我が股肱の臣であるシュルカヌスを解放されよ!貴方はご自身が何をやっているのか理解されていない!!この身をして市井の惨状を学んで参った!!何たる失政乎!義父上に確と上奏申し上げる!!」

 

「もしも欠片でも皇帝たる矜持をお持ちであらせられるのであれば!今すぐローマ三代の大勲功者である彼に自由を与えられよ!彼は善良な市民であり、彼らの第一人者でありますぞ!皇帝を推して彼には及びますまい!!」

 

「義父上、いいえ!陛下はお気づきになられていないのか⁉︎貴方の失態は甚だローマ創世の偉大なる父祖への最悪の醜態となりうるのです!!一度として市井の不穏を感じられていないと言うのでありましたならば、それは陛下の御近々の傍側の佞臣が邪なる企みに違いありませぬ!!いま一度!申し上げましょう!」

 

「もしも皇帝たる矜持をお持ち合わせになっておられるのであれば、その天地に届かんとする懐中の慈悲を実践なされますように!!決して!決して!お忘れなきようこと!!固く申し上げる!!!」

 

「さぁ!今すぐその崇高なる信義を示しなされませ!!!」

 

「否か⁉︎或いは応か⁉︎」

 

 

 

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轟々と覇気を漲らせながらネロはその場での返答を求めた。

 

愚かな義父はただ呆然と首を縦に振るばかりであった。

 

ネロは一度義父を睨めつけると、後は何も言わずに玉座を後にしたという。

 

彼女はその足で牢獄に向かい牢を開け放った。

 

暗がりにシュルカヌスの姿を見つけると、嗚咽を漏らしながら抱きついた。

 

シュルカヌスは温かく微笑むと胸元の彼女の身を熱く抱擁し返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネロは心中で驚きを隠せなかった。

 

目の前のシュルカヌスの服装は以前最後に会った時と変わっていなかった。

 

彼が投獄されたのは用を足す設備も備えられていない気張りの寝台だけの不潔極まる独房であった。

 

彼には食物も与えられていなかった。

 

しかし、シュルカヌスには何の変化もなかった。

 

シュルカヌスは食事をする。

 

シュルカヌスは入浴好きだ。

 

シュルカヌスはトイレが長い。

 

だが、ネロが抱きついたシュルカヌスに不潔な様子は小指の爪ほども見られなかった。

 

心労からか窶れた微笑みであるのには違いなかった。

 

しかし、ネロは心労で倒れた現在療養中の母の言葉を思い出した。

 

"彼はいつも美しい"

 

"彼だけは変わらずにいてくれるの"

 

"美しい容姿も、寄り添う温かさも、誰かを愛する気持ちも"

 

"彼は不変、だからきっと無事でいてくれるわ"

 

前向きな言葉とは裏腹に食事も喉を通らずに倒れた母が言っていた言葉をネロは半ば信じていなかった。

 

だが、今ようやく理解したのだ。

 

シュルカヌスは本当に特別な存在なのだと言うことを。

 

彼は自分たちとは本質的に違う存在なのだと言うことを。

 

思考を区切ると今は再会の喜びを噛み締めようと目の前の変わらぬ…変われない存在への抱擁を強めた。

 

 

 

 

 

 

ネロの心中には二つの火が燻り始めていた。

 

一つは自身にとって不可欠な存在を失いかけた恐怖心から生まれた彼への深愛。

 

もう一つは彼と言う存在の不変という歪さを知ってしまったが故に生まれた溺れるような独占欲である。

 

彼女の内側で二つの火が混じり合う時は近い。

 





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読者諸賢には日頃よりご愛読頂き感謝に絶えません。
今後とも御愛読のほどよろしくお願いいたします。

そろそろ〜一世紀ローマの時代〜は終盤に差し掛かります。
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