彼の顔が近付いてくる。
キスをされると思い、あたしは目を閉じた。
だけどそれは、扉をノックした音と同時に聞こえた声に、止められる。
「よぉ、いい雰囲気のとこすまんな。あと、クソボケ野郎。誰がナツキに手を出して良いと言った? 師匠とナツキが許しても、ここにいる限りは私が許さん」
「……保護してもらい、感謝しかない。俺は放り出されても構わんが、シャルはよろしく頼む」
カヅキに対し、ナズナは深々と頭を下げた。
彼女は舌打ちをした後、ナズナをミドルキックで蹴り飛ばす。
「ナズナっ!!」
「殺しちゃいねぇよ。ったく…お前を放り出した所で、ナツキもついて行くに決まってんだろボケ。良いか? お前をここに置いているのはナツキの為だ、お前の為じゃない。そこんとこ履き違えんじゃねぇぞ、アホ」
カヅキの口の悪さが、五割り増しになっている気がする。
唖然としてしまっていたが、あたしは彼女に弁明した。
「あの、カヅキ。あたしの状態はあたしが悪いのであって、ナズナが悪いわけじゃないの。ほら、精神的に脆くなってるだけで、総帥になるための教育を受けてた頃を思い出せば…」
「「却下」」
ナズナとカヅキ、同時に同じ事を言われる。
なんでと首を傾げると、
「あの頃のお前、追い詰められていただろ。師匠もお前を気遣って、好物ばかり出してたはずだ。そんな頃に戻させる訳には行くか」
「あのシャルは、恐ろしいと思う。流石に勘弁してくれ」
と言われてしまった。
え、そんなに?
追い詰められていた記憶はない。
やるべき事をやっていただけだ。
それが、あたしがあたしである、唯一の方法だと思っていたから。
…ナズナに怖がられているのは、理解しているけれど。
「あの、カヅキ。あたし達、元の世界に戻りたいのだけど」
「わかってる。こんな状態のお前を帰すのは、私としては心配なんだがな」
ギロリ、とカヅキはナズナを睨みつけた。
全部が全部、ナズナが悪いわけではないと思うんだけどな。
拒否れなかったあたしも悪いのだし。
「髪を切られる事態になったのは、ナツキ自身のせいではある。だが、それ以外はテメェの行いのせいだ、わかってんのかナズナ!」
「あぁ、わかっている。重々、承知しているとも」
あぁ、ナズナが凄い落ち込んでいる。
好奇心は猫をも殺すとは、よく言ったものだ。
「カヅキ。気分転換にお散歩したいの。あと、元の世界に戻れるまで、ここで療養させてもらえないかな。貴女が迷惑だと、思わない範囲で良いのだけど」
「ナツキ…」
反省しているナズナに助け舟を出すため、あたしは話題を変える。
それを理解したのか、カヅキはため息を一つ吐いてあたしの前に跪いた。
「私の大切なお嬢様。貴女が望むのならいくらでも。貴女の憂いが無くなるまで、こちらで療養してくださいませ」
「ありがとう。本当にごめんなさい。ナズナの介助がないと、どこにも行けないの。だから、ナズナのお世話もしてくれると、ありがたいのだけど」
あたしがそう言うと、カヅキは少し複雑そうな顔をしていたが、またため息をついて了承してくれる。
「ナズナ、またうちのお嬢様に無体を働こうってんなら、私は容赦しないからな」
「わかってる。すまない、カヅキ」
ナズナは立ち上がると、またカヅキに頭を下げた。
この人、自分が王族って立場なのわかっているのだろうか。
まぁ、カヅキには権力とかそういうの、通じない方ではあるけれど。
◆◆◆
カヅキは仕事があるようで、屋敷の案内をメイドさんに任せ、影に沈み込んでいった。
相変わらず、長距離転移が苦手なようだ。
「綺麗…」
「お館様自慢の庭でございます」
最初に案内されたのは庭だった。
色とりどりの薔薇が、そこかしこに咲き乱れている。
あたしが目覚める前雨が降ったのか、水滴が太陽の光を反射して煌めいていた。
「香りも良いな」
「あまり匂いがキツくないものを、お館様自らが選定し、植えられたものです。その後のお世話は我々が」
カヅキ、土いじりも好きだったのか。
また彼女の知らない一面が出てきて、あたしは少し寂しい気持ちになる。
あの頃のカヅキには、やはり無理をさせてしまっていたようだ。
あたしの婚約者としての教育も、護衛としての教育も。
彼女には、とても大変で苦痛だったのではないかと、想像してしまう。
「シャル?」
「…ううん、何でもない。とても綺麗で、感嘆しただけ。心が洗われるようで、癒されると思ったの」
腕を組んで、あたしをエスコートしてくれていたナズナが、あたしの顔を覗き込んでくる。
それに少しだけ微笑んで、あたし達はメイドさんの後を追った。
屋敷内に戻り、各部屋の説明を受けている最中だった。
背後の扉が勢いよく開かれ、壁に当たる大きな音が聞こえて、あたしは肩を跳ね上げる。
「っあ゛ーっ!! くそっ!! また失敗しやがった!! おい、カヅキ! どこいった…って…」
あまりの衝撃すぎて、あたしは固まってしまった。
あたしを庇うように、ナズナがあたしの前に立ってくれている。