年上からもそう呼ばれるのは、少々キツイものを感じる。
あたしは取り敢えず、観客席に向かって軽く手を振った。
さらに黄色い悲鳴が上がる。
悪循環な気がして、すぐ振るのをやめた。
ターニャがバイオリンを出して、軽く音を出す。
多分調律しているのだろう。
それが終わったのか、彼女が目で合図をしてきた。
あたしはそれに頷きを返す。
大きく息を吸い、歌い始める。
それを邪魔しないよう、ターニャがバイオリンで旋律を奏で始めた。
エレンの歌第3番。
一般的にはアヴェ・マリアの名前が有名だろうか。
聖母マリアに助けを求めて祈る、というのがこの曲の本来の姿なのだが、マリアの名前が入っているせいで宗教曲だと勘違いされた、と家庭教師で来ていたオペラ歌手が呟いていたのを覚えている。
歌っている最中、観客席にいるナズナを見つけた。
彼はあたしと目が合うと微笑みかけてくれる。
ヴェスタ、今日はあなたに感謝します。
あたしを、この世界に送り込んでくれてありがとう。
ナズナと出会わせてくれてありがとう。
今日ばかりは、あなたを崇めます。
歌い終わると、観客席から割れんばかりの拍手が上がった。
少し驚いていると、ライオット先輩が壇上に上がってくる。
「これだけの拍手です。今年の歌姫は、シャルロットさんですね。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます?」
他の係の人が、優勝トロフィーなるものを持ってきて、あたしに持たせた。
身動きが取れないあたしの手を取り、ライオット先輩は口付けを落としてくる。
「っ?!」
「ただの社交辞令ですよ。王妃になったら、こんな事日常茶飯事ですからね。今の内慣れておいた方がよろしいかと」
年上の人達には前世でもされた事はあるが、同年代では無いので少々驚いてしまう。
「…ご忠告、ありがとうございます先輩。先輩の事業も軌道に乗れるよう、お祈り申し上げますわ」
「えぇ、その際にはスポンサーになっていただけると有り難いですね」
トロフィーは、その後傍に寄ってきてくれたターニャに渡し、そそくさと寮へと帰路についた。
あのままあの場にいたら、囲まれる事必死だったからだ。
◆◆◆
「あの、ナズナさん? 着替えたいんですけど」
動きにくいドレスで必死に寮に帰ってきたのだが、その直後、同じく帰ってきたナズナに所謂壁ドンをされてしまっていた。
何があったかなんて、彼の表情を見れば理解出来る。
ライオット先輩に、手へ口付けされたのが気に食わなかったのだろう。
「あれ、社交辞令だって言ってたんだけど」
「…わかってる」
わかってるならそこ退いてほしいんだけど。
あたしのそんな視線に、ナズナは口を引き結んでしまう。
嫉妬してくれてるのは嬉しいのだけど、あたしが王妃になってこんな事があるたびに、こんな状態になるのは正直いただけない。
「ねぇ、ナズナ。そんなにあたしが信用出来ない?」
そう問うと、彼は首を横に振る。
しかし、腕の拘束は解けないようだ。
「あたしが貴方を愛しているのは、変わらない事実なの。他の人に靡くわけがない、分かるでしょう?」
「…わかってる」
そんなにあたしが誰かのものになるかもしれない、なんて不安があるのだろうか。
そんな未来、訪れるわけがないのに。
「愛しい人。不安にならないで? …はしたないかもしれないけど、そんなに不安なら婚前交渉でもしましょうか?」
頬に触れ、妖艶に笑む。
今日のあたしは、ターニャがお化粧してくれたおかげで、年相応に見えないくらい綺麗になっている。
彼は驚いて腕の拘束を解き、反対方向の壁に激突した。
顔は真っ赤になって、ハクハクと口が動いている。
「…ふふ、冗談よ。貴方の意志の固さに感謝を。では、私はこれで。今日は、私が傍にいても眠れないでしょう? また明日、あなた」
カーテシーをして、あたしはテスタロッサ邸に飛ぶ。
メイド達にお風呂に入れてもらいながら、あたしは自分の心臓がドクドクと鳴っているのを感じた。
ナズナの意志が固くて良かった。
もしあのまま流されてしまっていたら、あたしもどうなっていたかわからない。
少し、期待してしまった自分がいた。
いずれは夫婦になって、そういう事もするだろう。
世継ぎを作らなければならないのだから当然なのだが、今、そうなっても良かったと思ってしまった自分を恥じる。
あたし、馬鹿だなぁ…。
目を閉じてそう思う。
そうなってしまったら、子供が出来てしまったら、傷付くのはあたしではなく、ナズナだ。
あたしに負担を強いてしまったと、一生後悔するだろう。
彼は、優しい人だから。
お風呂から上がり、バスローブを着させてもらったあたしは、寝室のベッドにダイブする。
好き、大好き、愛してるのナズナ。
心がそう叫んでいる。
だからこそ、自分の欲は封じなければ。
彼を傷つけないためにも。
次の日、寮に帰ったらナズナに全力で謝られた。
いや、あたしも悪かったって言ったのだけど、土下座する勢いだったものだから形だけだけど、許す事にしたのだった。