影武者華琳様   作:柚子餅

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17.『曹操、拓実について思案するのこと』

 

 中庭には、くたびれた犬のように舌を出してぐでっとだらけている少女の姿があった。

 息は弾み汗をだくだくと流して、見るからに疲れた様子だというのにそれが心地良いのか表情は明るい。女性の身から見ても、ぱっちりとした目で表情豊か、愛嬌ある可愛らしい顔立ちであった。地面に投げ出した脚の肌が露になっていることからわかるように、着ているものは動きを邪魔しない丈の短いものであり、髪も顔にかからないよう後ろに流していて全体的に活発な印象を受ける。

 

「はっ、はっ、はぁ……うへー、へとへとだぁ。しばらくは動きたくなーい。つかれたー」

 

 情けない声を上げた少女は全身の疲労により自力で立つこともままならないらしく、目を瞑ってただただ息を整えようとしている。形振り構う余裕なんてないほどに疲弊している筈なのだが、度を過ぎたはしたなさは見えない。とはいえ、それで無理をしている様子もない。

 そんな少女――いや、少女になりきっている拓実の様子を、華琳は複雑な表情で眺めている。側で見ている華琳からしても、その様子に不自然なところを見つけられない。これが男のしている演技だというのだから、生粋の女性である華琳としては改めて信じられない思いがしている。

 おそらく演技している状態では、そうあるべき行動を取ることが拓実にとっての自然体となるのだろう。そうでなければ、こうまで違和感を感じさせずに振舞うことは出来ないはずだ。これほどの完成度で別人に成り切られてしまっては、いっそ演技の一面として応対するよりも知識を共有する別の人間と認識した方がよいのかもしれない。滅多な事がない限り綻びを見せない拓実の演技に内心で感嘆しながらも、華琳はそんなことを考えていたのだった。

 

 手合わせを終え、華琳にとって色々な意味で衝撃的だったあの発言の後。拓実は引き続き、声を上げて元気に剣を振るっていた。

 しかしそれが満足に続いていたのは初めの数分だけだった。両手で握っていた剣を片手に持ち替え、手合わせの際の華琳の動きを体に覚えさせるように反復しているうち、まず楽しそうな掛け声が聞こえなくなった。続いて疲労で腕が上がらなくなり、それに伴って剣速は落ちて鈍くなっていく。動きにしても目に見えて踏ん張りが利かなくなり、重心はふらふらと流れてしまう。始めこそ華琳の動きを正確に、それこそ鏡に映したようになぞっていただけに、こうなっては最早見る影もない。

 それからいくらもしないうちに全身が言うことを聞かなくなった拓実は、地面に仰向けに転がって息を激しくすることになっていたのだった。

 

 拓実がそうして素振りをしている間、華琳は拓実の人格の変化に今更ながらに戸惑っていた。それは拓実と会った当初からずっと感じていたもので、荀攸と許定の間にある差異によって明確になったものである。

 演技をしていない状態の気弱でどこか儚げである拓実に、華琳を写し取ったように威厳に溢れた影武者としての拓実、思慮深く理屈っぽい男嫌いの荀攸に、明るく奔放で明け透けな許定。

 それらの性格は違いすぎていて、華琳の頭の中では今でも一人一人が同じ人物だと上手く繋がらないでいる。そうやって華琳の認識を妨げているのも、話し方や仕草、目に見える性格などの表層だけではなく、それぞれ内面――嗜好や考えの組み立て方までに違いが生まれているのを理解出来てしまうからだ。

 

 極端な例としては、やはり荀攸と許定であろうか。今朝に献策していた時は活き活きとした様子の荀攸であるが、その後に警備隊に組み込むと言われた時には隠そうとしても隠し切れずに落胆した様子を見せていた。だが、これは決して拓実個人の意に沿わない話ではなかった筈だ。今朝に献策した警備補填案の基礎知識となるものであるから、その情報を得られる機会というものを本来は歓迎すべきである。しかし、拓実の演じている役柄として相応しくない――つまりは桂花であれば絶対に任されないであろう肉体を使う仕事に対して、忌避感を覚えていたのだろう。

 荀攸であった時はそんな様子であったのに、その後すぐに許定として現れた拓実は手合わせには内心でどうあれ嬉々として応じ、終わる頃にはおそらく本心からそれを楽しそうにこなすようになっていた。こうして疲労しながらも気持ち良さそうにしている今の姿に、身体を使う仕事に対しての忌避感などは欠片も見られない。

 

 荀攸と許定は、会話ひとつにしても違いが見られる。口調だけでなく、使われる言葉なども違っているのだ。許定の発言には抽象的なものや擬声語が多く、反して難しい言葉はあまり使わない。荀攸の時にはその使用頻度が逆転し、小難しく理論立てた話し方を好んでいる。それだけなら役作りの一環ということで説明もつくのだが、許定などは華琳に対して敬語を忘れてしまう素振りを見せているのである。そこに故意的な意思は見つけられない。これらは恐らく計算でしているのではなく、無意識によるものなのだ。模倣している桂花と季衣の性質が正しく現れているのだろう。

 これは、常識的に考える演技の枠組みには収まらない。演じているなどというよりはいっそ、いくらか融通の利く多重人格といった方が近いのかもしれない。だからこそ華琳にとっても拓実の演技は理解の外にあった。拓実の演技が常人離れしている為に、大元である精神構造が理解できないのだ。同時に華琳が類稀なる希少な才能として認めている所以(ゆえん)でもある。

 

 しかし演じている拓実は振る舞いこそ確かにそっくりではあるが、もちろん本物の桂花や季衣とは違っている。拓実の意識を役柄で覆っているために、覆い切れない部分が出てきてしまうというところだろう。

 季衣を模倣している許定に関しては、その容姿を揃える事が出来なかったからなのか内面にしても荀攸ほど本物に迫ることはない。こうして今拓実が晒しているような困憊(こんぱい)する姿など、季衣なら意地でも見せたりはしないだろう。季衣は子供のようでいて、武については中々に自尊心が高いのだ。

 もちろん武についての技術も自信も持たない拓実では自尊心など持ちようもない。こうしている姿は日常の季衣を延長させたような、そんな態度である。だがそれでも華琳は演技としては不完全な許定から、他の二役や本来の拓実の性格を見出すことは出来ずにいるのだった。

 

「へへへ。でも、ちょっとだけ、華琳さまがどう動いているのか、わかった、かも」

 

 にっこりと得意気に笑みを浮かべて華琳を見上げている拓実。未だ息は荒く、言葉はぶつ切りである。今までの考えを一時放置することにして、華琳も応えるように僅かに口の端を持ち上げた。

 

「ええ、動きは悪くなかった。けれどやはり、根本的に体力が足りていないわ。あなたはまず、武器を扱っての調練に入る前に基礎体力を何とかせねばならないようね」

 

 さて。もう一度重ねる形になるが、拓実がしていたのはただの素振りである。はしゃいで飛び跳ねたり、仮想敵を相手にして動き回ったりはしていない。ひたすらに、一箇所に立って華琳の剣の振り方、足の運び方を真似ていただけであった。

 そしてそれを終えた拓実は、あまりに疲労の色が強すぎる。まるで長距離を走り終えた直後のようだ。

 

 拓実の持っている剣が特別に重たいものであったから疲弊しているのかといえば、そういうわけでもない。拓実が振っていたそれは他に比べ軽量で、だからこそ取り回しやすいように造られた刀身の幅が狭い細剣である。これならば、日常生活をこなせるだけの筋力を持つ者なら誰にでも扱える。そんな剣を使ってどうして拓実がこんな有様になってしまったのかといえば、単純にそんな『誰でも』という括りの中に拓実が含まれていなかっただけである。

 

 現代基準でいうならば確かに、演劇準備などでの機材運びをしていた経験から拓実にもそこそこの体力はあった。しかしこの時代で求められる能力水準はもっと高い。肉体労働を課せられない者など生粋の文官や貴族の息女、皇帝など少数であって、日々鍛錬している武将や兵は言わずもがな、農民にしても農作業で培った体力と筋力がある。

 その上、拓実はただでさえここ半月を桂花につきまとって頭脳労働ばかりをしていたのだ。この時代基準での並の体力も持たない拓実に金属製の武器を振るいながら動き回れというのは荷が勝ちすぎていた。

 

「あ、はい……。まずはそこからですよね……」

 

 拓実は疲労に喘ぎながらも何とか苦々しく笑顔を返した。どうやら拓実自身が誰よりも体力不足を実感しているようである。

 

「そうね……」

 

 しかし今の素振りにしても立会い開始時の拓実の動きにしても、華琳をして見るべきものがないわけではなかった。剣の扱いに不慣れだというのに、手を抜いていたとはいえ拓実は華琳の剣速についてこれたのだ。これは反射神経や動体視力に特別優れていなければ不可能である。

 身のこなしの初速や反射神経、判断力だけならば、今の状態でも親衛隊の者と比べて遜色はない。華琳と同じく小柄であるから、剣を振るうにも身を翻すにも小回りが利いている。また、素振りを見ていればわかるように手本を自身のものとするのが非常に早い。流石に体の方がついてこないようで鋭さこそないものの、足の踏み出しから振るう剣の軌道までを寸分違わず目の前で盗んで見せた。

 華琳や春蘭から体捌きを学び、挙動の効率を上げていけば、速度に限っては自身と並ぶだけの素質を秘めているだろうと華琳は見立てている。

 

 けれども、拓実にはその利点を打ち消してしまうほどの欠点がいくつかあった。

 まず体力が足りていないこと。全力で動き回って数分程度しか持たないのでは使い物にならない。この陣営で誰よりも貧弱な桂花と比べて、ようやくいくらかマシ程度のものである。

 そして軽い。動きは軽快だが同じだけ動きに重さがなく、吹けば飛ぶような印象がある。それ故に、耐久力もないだろう。何気ない一太刀が致命傷となりかねない。

 加えて、絶望的なまでに筋力に乏しかった。振るった剣に速度はあっても、脅威となるだけの威力が伴っていないのだ。不意をついて喉笛を掻き切るぐらいのことは出来ても、相手の首を切り落とすことは出来やしないだろう。鎧に守られてる部分などは言わずもがなである。打ち合えば雑兵程度の相手であっても力だけで押し切ることは出来まい。それらを束ねる武将を相手にと考えれば、剣を合わすだけでも自殺行為と呼べるほどだ。

 拓実からは致命傷を与えることは出来ず、少しばかり動きが速いだけ。得物同士で打ち合ったならその華奢な体躯も手伝って十中八九押し切られることになる。剣を合わす事も出来ないのでは勝負にもならない。その上で持久力すらもないとなれば、今のままでは満足に動けるうちに逃げ切る他、拓実の生き残る術はない。

 

 拓実は自身を、太らない体質で且つ筋肉がつきにくいと評している。華琳と同じ体型を維持するという面で見ればこれ以上ない体質ではあったが、自衛の問題や戦働きを考えるといいことではなかった。

 持久力はまだ何とでもなる。細身だろうとも毎日動いて回れば自然と身についていくもので、成長の余地は多く残っている。しかし問題は筋力である。鍛えれば大丈夫だと本人は言うが、見た目に変化が出ないのではその限界は知れている。常人の域を大きく超えることはないだろう。だがそれでは、春蘭ほどの豪傑相手と剣を合わすことになった時、初撃で討ち取られてしまうのだ。

 春蘭と互角に渡り合う華琳にしても、あの剛剣を受けるのはぎりぎりのところなのである。似たような体格ではあるが、それでも日頃から鍛錬を欠かさない華琳は拓実より力がある。それどころか、天に愛されているのか体格に優る男性兵士相手に力勝負で勝るほどだ。もちろん、人より多少膂力(りょりょく)が優れている程度では春蘭に敵いようもないのだが、それを覆して可能とするだけものを華琳は有していた。華琳について特筆すべきは、能力的な不利を覆せるほどの巧みな武技と、軍師顔負けの戦略。そして類稀なる集中力を持っていることである。

 逆をいえば、それら単純な武力以外をも総動員してようやく武一辺倒である春蘭と引き分けることが可能なのだ。もし拓実が模倣の技術を十二分に発揮して華琳に劣らない剣技を身につけたなら、一合ぐらいであれば春蘭とも剣を打ち合わすことが出来るようになるかもしれない。それでも華琳に多くの能力で劣る拓実では、どうしたって華琳や春蘭に敵う道理がないのである。

 

「果たして拓実のそれは、武の才と呼べるのかはわからない。しかしどうやったとしても私を越えることはないでしょう。けれど、だからといって何もないというわけではないわ。剣を合わせられなくても、拓実に合った戦い方さえ見つければあるいは……」

「え? 何ですか、華琳さま?」

 

 華琳が考え込んでいるうちに息を整え終えた拓実は、立ち上がって服についた砂を払っていた。それに集中していたから華琳の呟きを聞き逃したのだろう。きょとんとした顔を向けて聞き返してくる。

 

「なんでもないわ。拓実の動きが思いの外良かったものだから、春蘭と一騎打ちしたらどうなるものかと仮定していたのよ」

「……えー、えと、無理だと思いますよ。全然歯が立たないです。だってボクが勝ってるところ、まったく想像出来ないですもん」

「当然よ。春蘭は私の陣営でも一、二を争う武将なのだから。……ああ、つい脱線してしまったけれど、警備としての実力を見るための手合わせだったわね。全てを満たしているとは言い難いけれど、不足しているのは体力と筋力だからそれに関しては働いているうちにある程度は身につくでしょう。辛うじての及第点といったところかしら」

「やったー! あっ、ありがとうございます、華琳さま!」

 

 聞いて、拓実は諸手を上げて喜びを露にした。そんな自分を静かに見ている華琳の姿に気づいたか、慌てて深く頭を下げる。

 

「春蘭ほどの猛者がそういるとは思えないけれど、この大陸は広い。統一を果たすとなれば、今は野に埋もれているまだ見ぬ英傑と矛を交えることもあるでしょう。それらに負けぬよう鍛錬に励みなさい」

「はいっ! 頑張りますっ!」

 

 打てば響くような小気味の良い返事をした拓実の容姿は、季衣とはあまりに違っている。だというのに、華琳の目には拓実に季衣の姿が重なって見えたのだった。

 

 

 

 

 

「…………あれ? なんだろ、この音」

 

 警備の仕事について語り合おうといったところで、拓実と華琳はいつからか響き始めていた音に気がついて、揃って何気なく城門を見やった。門の向こうには、だだだだっ、とけたたましい音を立てながら遠く砂煙が舞っていた。暴れ馬だろうか、何かがものすごい勢いでこちらに向かってきている。

 ものの数十秒も経たぬうちに、二人は何が駆けているのかを知ることになった。兵舎の方から、黒髪をなびかせてすさまじい勢いで駆けてくるのはなんと女性である。

 

「華琳さまぁ! 春蘭めに何かご用がありますでしょうか!」

 

 噂をすれば影というべきか、声を上げて急ぎ華琳の前に馳せ参じたのは春蘭であった。拓実の姿が目に入っていないのか、【七星餓狼】を手に脇目も振らず華琳の前へと向かっては膝をついた。

 その春蘭の様子からてっきり何事かを言いつけていたのかと思えば、しかし華琳は首を傾げている。

 

「春蘭? 別に貴女を呼んだ覚えはないわよ。これといって危急の用事もありはしないし」

「あ、そ、そうでしたか。華琳さまが私の話をされている気がしたので、部隊の調練を終えて、急ぎ戻って参ったのですが……」

 

 喜びの顔から一転、春蘭の顔がしょぼくれた。肩を落とす姿は、華琳と拓実より大きな体だというのに異様に小さく見える。驚いたのは拓実である。おそらくは偶然なのだろうが、つい先程まで話題の端に春蘭が上っていたのは確かなのだ。

 

「しかし、調練を終えたというのならば丁度いいわね。こちらも実力を見極めるための手合わせと寸評を今終えたところだから、春蘭は引き続き私に代わって武術指導なさい。ただし、まだ剣を使わせるには早いわ。まずは白打(格闘術)から始めるといいでしょう」

 

 しぼんでいた活力が見る見るうちに湧き出して、春蘭の顔を彩っていった。きびきびとした様子で横に携えていた【七星餓狼】を目前に持ち直し、深く頭を下げる。

 

「はっ! 白打をですね! ……えーと、ところで指導とはいったい誰にすれば?」

「何を言っているの。許定に決まっているでしょう」

「許定に、ですか。かしこまりました! 華琳さまの命とあらば、全力で鍛え直してやりましょう! しかし、許定とやらはどこに……」

 

 呆れたように華琳に見られ、慌てて了承の意を表した春蘭は、きょろきょろと周囲を見渡して視線を右隣で止めた。ようやく横にいる拓実に気づいたか、春蘭が訝しげな視線を拓実へと向けて口を開く。

 

「む? 娘、親衛隊の者か? しかし、それにしても見かけぬ顔だな……もしや、華琳さまを害する者ではあるまいな!」

「な、何言ってるんですか、春蘭さま! ボクですよ、ボクが許定です!」

 

 どうやら春蘭は初見では今の許定を拓実だと認識することは出来なかったようで、歯を剥いて拓実を睨みつけている。そんな大声でいきり立つ春蘭に対して、その怒気に当てられ慌てた拓実もまた大声で返した。

 

「おお、そうだったか! いや、すまん。今までまったく気がつかなかったぞ」

 

 睨みつけていた顔からまた一転、明るく笑い出した春蘭。悪びれもせずに笑う春蘭に、華琳は息を吐いてみせる。

 

「はぁ……とりあえず、後は任せるわよ、春蘭。しばらくは桂花がしていたように、今度は貴女が許定の面倒を見てあげなさい」

「はっ! お任せください! 必ずや、華琳さまの名に恥じぬ武将へと育て上げて見せましょう!」

「そう、期待しているわよ」

 

 言って、華琳は執務室へと足を向けた。どうやら手合わせには休憩の時間を使っていたらしく、まだまだ仕事は残っているらしい。自身の得物である【絶】と【倚天の剣】だけを手に、残りの後片付けを拓実に言いつけて足早に去っていく。

 しかしその足は、背後から聞こえる春蘭の声で止まることになった。

 

「よし。それでは調練を始める前に一つ。許定よ。私の真名を呼んでいるのだから、華琳さまに真名を預けていただいたのだろう。華琳さまが定めた決まりだから、お前が私の真名を呼んでいることを怒るつもりはない。だが、一方だけが知っているのは不公平だ。改めて自己紹介をして、真名を預けあおうではないか」

「……えっ? あのぅ……?」

「うん? どうしたのだ? 秋蘭が言っていたが、こういう時は目下の者から始めるものらしいぞ」

 

 拓実は呆けた声を返しながらも、視界の端で背を向けて歩いていた華琳が踵を返しているのを見る。目の前で胸を張って先輩面している春蘭の朗らかな笑顔とは対照的に、こちらに向かってくる華琳の仏頂面にはどこか哀愁が漂っている。

 春蘭がしている勘違いには気づいていたが、あまりの想定外の事態に拓実の思考は止まってしまっていた。視線を春蘭と華琳の間で行き来させながら、とりあえず促されるままに口を開く。

 

「えっと、ボクは許定で、字はその、まだありません。真名は、拓実、ですけど……」

「ほう、拓実というのか。ふむ、思ったより拓実という名を持つ者は多いのだな。まだ知らないだろうが、この陣営にはお前の他にも同じ名を持つ者がいるぞ。いけ好かない奴と見た目はそっくりなのだが、中身は文官にしてはそこそこマシな方だ。困ったことがあったら荀攸という奴に会ってみるのもいいだろう。歳も近いだろうし、同じ名という(よしみ)もある。何、あいつのことだから多少の悪態をつきながらも助言ぐらいはしてくれる」

 

 朗々と声を上げる春蘭。おまけに本人の目の前で、どう思っているかを語り始めた。腕を組んでうんうんと頷いている春蘭を、拓実はぼけっと眺める他ない。そして華琳はもう、春蘭のすぐ後ろまで近づいていた。

 

「さて、既に知っているのだろうが名乗らせてもらうぞ。私は夏侯惇。字を元譲と……」

「いいわ春蘭、それ以上言わなくて」

「華琳さま? えっと、ここは私にお任せしてくれるのでは……」

「今の様子でわかったわ。とてもじゃないけど、貴女には任せておけないことが」

 

 言われ、春蘭は動揺で顔を青くした。端で見ている拓実にはともかく、当人にとっては華琳の言葉はあまりにいきなりのものである。

 

「な、何故でございますか? 初顔合わせの時には礼儀として、例え相手が一兵卒の者だろうときちんと自己紹介はしておくべきだと華琳さまも……」

「いいえ、そうじゃない。そうじゃないのよ。私が悪かったわ。先の問答で貴女が理解していると勝手に思っていたこと。更に、まさか許定の真名を聞いておきながら思い出せないとは思ってもみなかったこと。これらは私の落ち度よ。もう半月近くも前の、それも話の上の事だけだったものね。貴女なら覚えていなくても仕方がないわ」

「半月前ですか? ん……?」

 

 眉根を寄せて、視線を宙に巡らせる春蘭。ここ数日のことを思い返しているのだろう。しかし思い当たることがなかったのか、頭を抱えてばつが悪そうに拓実へと顔を向けた。

 

「ええっと、拓実といったか。すまんが、私は以前にお前と会ったことがあったのか? いくら私でも会った者の顔と名前は覚えているつもりなのだが、どうにも心当たりがない」

 

 訊ねられて、拓実は思わず視線を華琳へと向けた。それを受けて華琳は目を瞑り一つ頷いた。その動作はおそらく『ありのままに話せ』という意図からのものだろうと拓実は読み取る。

 

「半月前っていうか、ここ最近はボク、春蘭さまとは二日にいっぺんは会ってましたよ。結構前ですけど、春蘭さまや季衣と一緒にラーメンを食べに行ったこともありますし」

 

 何でもないような風に話す拓実の返答を聞いて、春蘭は驚きに目を見開いた。

 

「待て!? 私は覚えにないぞ、そんなこと! いや……、そうか! さては私の知らんうちに拓実のやつが私に化けて、お前や季衣と一緒にラーメンを……ん? 拓実?」

「はい。ボク、拓実ですよ」

「な、なんだと! お前、拓実か! 何のつもりだ貴様! 私をたばかりおって!」

 

 春蘭の瞳に理解の色が灯ると、途端に彼女はきっ、とまなじりを吊り上げて、糾弾の声を上げる。もちろんそんなことに文句を言われても、拓実にしたらあまりに謂れのないことである。

 

「ええっ!? 春蘭さまが勝手に勘違いしてたんじゃないですかぁ~!」

「問答無用だ! こいつめ、そこに直れ!」

 

 身を乗り出し、拓実を捕まえようと春蘭が腕を伸ばす。拓実も痛い目に遭うだろうことがわかっているからすぐさま身を翻した。上手く腕を掻い潜った拓実は、なんと立ち尽くしている華琳の背中へと隠れる。

 そうなってしまえば春蘭は弱い。華琳に向かって無礼な振る舞いをすることも出来ず、伸ばした手は宙で止まってしまう。

 

「このっ、拓実! 華琳さまを盾にするとはなんという奴だ! 恐れ多いぞ! 逃げるなっ!」

「ボクだって春蘭さまが追いかけなかったら、逃げたりなんかしませんよー!」

「まったくもう、この子たちは……」

 

 間に挟まれることになった華琳は呆れた様子でため息を吐いてから、拓実に向かって伸ばされた春蘭の腕をぺん、と横から叩く。

 

「春蘭。少し落ち着きなさい」

「し、しかし、華琳さまぁ」

「言ったでしょう。桂花や秋蘭、拓実たちと同じ尺度で貴女を測ってしまった私の誤りだと」

「はっ? はぁ……」

 

 華琳の言葉には少なからず皮肉が混ざっていたのだが、春蘭は気づかなかったようで首を傾げている。とりあえず春蘭からの追求が止んだことに、拓実は華琳の後ろで密かに胸を撫で下ろしていた。

 

「ともかく、拓実についてしっかりと理解できたのなら、今度こそ後を任せるわよ。一応、罰とした拓実への鍛錬の期限は有効であるから、二ヶ月で私と手合わせができる錬度を目安に予定を立てなさい」

「……はっ!」

 

 春蘭は先ほどまでの醜態が嘘のように、静粛にその場で膝をつき、再び華琳へと了承の言葉を返したのだった。

 そうして今度は振り返ることなく、華琳は執務室がある区画入り口の奥へと消えていった。そんな華琳の後姿を並んで見送る拓実と春蘭。

 

「なぁ、拓実よ。お前のそれは、季衣の演技をしているのか?」

「はい、そーですよ。なんだか全然違う格好になっちゃいましたけど」

 

 華琳の姿はもう見えない。だというのに二人して入り口を眺めながら、向き合うこともなく言葉を交わす。

 

「ボクの髪の毛じゃ季衣の髪型にするには長さが足りなくて、それで服もおんなじのじゃ駄目でしたし。あー、でも季衣、ボクが真似するの楽しみにしてたからなぁ。がっかりしちゃいそうですよね」

「確かに見た目は似てはおらんな。なんだか知らんが、見てると無性にでこを引っぱたいてやりたくなる。だが、まぁ中身は季衣っぽいんじゃないか」

「そーですかね? それだったらいいんですけど。あと、華琳さまが言うには、見た目は季衣より春蘭さまのちっちゃい頃に似てるらしいですよ」

「何だと!? そんな筈は……しかし、華琳さまがそう仰られたのなら、むぅぅ……」

「……春蘭さまがボクを引っぱたきたくなるのって、一応これも同属嫌悪ってやつなのかなー?」

「銅像研磨? 何を訳の分からんことを言っているんだ?」

「何でもないでーす」

 

 そのまま二人は並んだままぼんやりと会話を続け、調練を開始したのはしばらくしてからだった。

 

 春蘭は調練で身体を動かしたことですっきりしたらしく、終わる頃には憂いもなくなり、大笑いするほど上機嫌になっていた。拓実もまた笑顔ではあったが春蘭を相手にするには実力が足らず、ぼろぼろのぼこぼこにされてまた地面に転がることになるのであった。


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