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林の中を緑色の鎧を纏った一団が進む。極力音を立てず、そして木々を揺らさずに兵たちが歩いていく。彼らが目指す先には、黄色の布を体のどこかしらに巻いた集団――黄巾党が無防備な姿を晒していた。
「どうやらまだ私たちに気づいていないようだね。朱里ちゃん」
「そうだね、雛里ちゃん。簡略ながら指揮系統を作っているようだけれど、結局は農民や盗賊の集まりだから。見張り兵を立たせるだけで、曹操さんたちや私たちのように周囲に細作を放ってもいないみたい」
「それじゃみんな、このまま静かに進んでねー! 大きな声とか出すと黄巾党の人たちに気づかれちゃうからねー!」
「桃香様! あなたが大声を上げてどうするのですか!」
「にゃはは、そーいう愛紗も声がおっきいのだ」
人目に惹く聖フランチェスカの制服を着込んだ青年、北郷一刀の隣からは少女たちの声が聞こえている。会話を続ける彼女たちを眺め、一刀は笑みを浮かべながら兵と共に進んでいた。
柔らかい桃色の髪、暖かな雰囲気が見る者に安らぎを与える劉備、真名を桃香。
青龍偃月刀を肩に担ぎ、美しい黒髪をなびかせている関羽、真名を愛紗。
デフォルメされた虎の髪飾りをつけ、無邪気な笑顔で
周囲の行軍に遅れないように小さな体を一生懸命に動かして小走りしている諸葛亮、真名を朱里。
そんな諸葛亮にくっついて離れず、大きな魔女帽子で顔を隠そうとする鳳統、真名を雛里。
そのいずれもがうら若い少女の姿。一刀にとっては見慣れたものとなっているが、彼女たちに初めて会った時は同名の人物像が頭にあったためにいったい何の冗談かと思ったものだ。
未来では偉人となり、多くの人物の知るところになっている彼女たちを横に、一刀は半日ほど前のことを思い返した。こうして考えるのは何度目だろうか。今日一日にも渡って考えていたのは、共同戦線を組むことになった曹操軍について――ひいてはこの世界についてだった。
英雄たちが女の子になっているというこのおかしな三国時代。一刀がこの時代に来てからもう数ヶ月が過ぎている。今こそこうして少ないながらも兵を率いることができているが、当初は劉備、関羽、張飛との四人での旅だった。
天下大平の志を掲げてからこれまでの数ヶ月、一刀にしてもただ平穏に暮らしていたわけではない。近隣で悪行を働く賊を討っては日銭を稼ぎ、しかしそれでも一日の食事に困ることもあった。飢饉や
追剥にあったか街道を少し外れれば道に人骨が落ちていることもある。実際、一刀たちが野盗や追剥に襲われたことも一度や二度ではない。この時代では毎日を生きていくだけで必死だった。劉備たちに拾われなければ、きっとどこかで野垂れ死にしていたことだろう。
人を助ける為に人を殺し、人の死に触れ、悩み、そして一刀はここに立っている。これまでの日本での生活がどれだけ恵まれた環境だったのか、それこそ身に染みて感じている。けれども同時に、自分が『生きている』ということを実感できたのはこの時代に来てからかもしれないとも考えていた。
どうしたら劉備たちの力になれるのか、どうすれば困っている人が助けられるのか。より良い方法を考えて、朝から晩まで動いて回って、動けなくなるまで頑張って。そうして喜んでくれる人がいる。こんなに必死に『生きたい』と思えたのは、今まで生きてきてなかったことだった。
――「人は何かをなす為にこの世に生を受ける、その大小はあれど、それを見定めることができるのかどうか……」
これは先ほどの曹操の言。これを耳にした時、幼い頃より言い聞かされていた言葉が一刀の脳裏には浮かんでいた。
――「世に生を得るは事を為すにあり」
それは、一刀の祖父の言葉。剣の師匠でもあった祖父。その祖父が幾度か口にしていた教え。言葉が意味するところは曹操のモノと同じである。
一刀は祖父に剣だけではなく、生き方を教わってきた。何かに迷った時、自分を奮い立たせる時、一刀は祖父の教えを思い返す。この世に生を受けた意味。そして、この世界に来てしまった意味。
何の因果かはわからないが、一刀は桃香たちと出会った。きっとこの出会いにも意味があるはずだ。一刀はそれを、彼女たちを助けて弱きを護ることだと見出している。そこに迷いや望郷の念がないかと問われれば一刀は否と答えるだろう。だがそれでも一刀は、この時代で生きていこうと考えている。
しかしいざ助けるといっても、一学生でしかなかった一刀に何が出来るのか。剣道を習い、現代では結構な実力を持っていたとはいえ、この世界では一刀自身の武力はせいぜい兵士に勝る程度のもの。この世界にはない優れた政策を知っていても、勢力とも呼べない現時点では活用できるものはいくつもない。そんな一刀が活用できている数少ないアドヴァンテージが『三国志の知識』であった。
現代で英雄と称される何人かの人物たちと一刀は邂逅している。桃香ら義姉妹を始め、公孫賛や趙雲、朱里、雛里。さらに有名所というくくりでは曹操や荀彧、夏侯惇や夏侯淵。どういったことか、それら全てが女性だった。だが自軍で言うところの
武将や軍師が加入する時系列がばらばらだったりと未だわからぬことばかりのこの世界においては、『現代で一定以上の知名度がある人物は女性になっている』。これは一刀が薄々気づいていたこの世界の法則である。
覚えのある名で
そこに今回例外が現れた。背丈は桃香よりも低く、丁度曹操ほどの小柄な体躯には赤い糸で花が刺繍された白のチャイナドレス。下は活発な印象を与える黒のキュロットスカート。金の髪を後ろに流して、手には木製のトンファーと腰に細剣を佩いた、おそらく一刀よりも三つは年下だろう少女。曹操軍にいた武官の少女、許定である。
聞けば年若くしてすでに兵を任される役職に就いているようである。劉備軍にだって女性兵がいないわけでもないが、部隊の指揮を執れるほどとなるとそれこそ愛紗や鈴々、朱里や雛里。あとは直前に加わった徐庶ぐらいのものだ。そしてそれ以外に任せられるだけの能力を持つ者は、先ほど挙げた田豫や簡雍などの男性になってしまう。英雄が女性となっているこの世界ではある程度女性にも武への門戸が開かれているとはいえ、一般的には女性より男性の方が戦いに優れている点は変わっていない。
この世界において許定は女性でありながら武将を任せられている――つまりは英雄らと肩を並べるだけの実力を持っているということになる。加えて後世で有名な許緒を差し置き、最愛と公言していた従姉妹の夏侯惇・夏侯淵に、己が子房とまで才を評価する荀彧らと混じって同行させるのだから、曹操は特別に許定を重用しているのかもしれない。
しかし、そんな彼女の名に一刀は見覚えがまったくなかった。小説はもちろん、史書ではスポットがほとんど当たらない人物でも登場する、三国志を舞台にした戦略ゲームなどでも見た覚えがない。今後おそらく敵対することになるだろうそんな彼女の情報を、比較的三国志に詳しい一刀でさえも一切知らないのである。その事実は一刀に小さな不安、そしてしこりのような疑念をもたらしていた。
また、一刀は何となくだが、彼女のことだけが妙に気にかかっている。そもそも、本来なら先述したことなども特別に気にするほどの差違ではなかったろう。同行していたのは単なる人数合わせで、たまたま一刀が注目してしまっただけかもしれない。許定なる人物が史実でも女性だっただけかもしれない。多少首を傾げてしまうことはあれど、思い悩むほどのことではない筈だった。
だというのにこんなにも許定のことを真剣に考えてしまうのは、一刀が彼女の雰囲気の中に妙な親しみを覚えているからだ。他の者からは感じられないこの違和が、興味からくるものなのか、無意識下からの警戒からくるものなのか、そのどれとも違うのかもわかっていない。どこがどうとは説明はつけられないのだが、ともかく彼女のことが一目見たときから気になっていたのである。
そんなおかしな気がかりを彼女に覚える一刀だったが、思い悩んで答えが出るわけでもないと頭を振った。今はそれよりも身近に迫った問題がある。答えがでるかもわからないことを考えるのはそれが解決してからでもいいだろう。
ともかく、その許定を含む曹操軍との邂逅からもう半日が経っている。進路途上の村で義勇兵を募り、また曹操軍の補充兵を加えて数を増した劉備軍は現在、行軍しながら作戦内容についての最終確認を行っているところである。曹操軍・劉備軍による共同戦線の攻略目標、黄巾党の拠点はもう目と鼻の先にある。兵の準備は終えられ、後は曹操軍から伝令が届くのを待つだけだった。
「えっと、話を戻しますね。このまま林の中を進み、気づかれないように敵軍へ接近します。その後は曹操軍の陽動部隊の攻撃に合わせて、愛紗さん、鈴々ちゃんは兵を率いて
「おー! 鈴々にお任せなのだ!」
「……ああ。そうだな」
元気に矛を掲げてみせる鈴々に対し、どこか気もそぞろに立ち尽くす愛紗。そんな様子の彼女を前に、劉備軍の軍師を任されている朱里はきまりが悪そうに自身の金髪の上に乗っている帽子を被り直した。妙な雰囲気を感じ取った一刀は、努めて明るく朱里に問いかける。
「えっと、それじゃ曹操軍との交渉は上手くいったんだ?」
「あ、はい。当初陽動は我が軍のみとなるところでしたが、いくら相手方が雑兵の集まりといえど私たちとはあまりに兵数差が開いてます。より大きな打撃を黄巾党軍に与えるという名目で曹操さんから我らと同数ほどの隊を陽動に廻して貰えました。曹操軍からは楽進さん、李典さん、于禁さん、許定さんが陽動に参加されるようですね。それでも敵方の半数に届いていませんが、兵質からいって拮抗できない差ではないかと」
「へぇ、あの子もか……」
つい先ほどまで気にかけていた少女の名前が出てきたことで、一刀は思わず声を漏らしていた。
やはりというか、同じく女性になっているという楽進、李典、于禁と並べられるほどの武将ではあるようだ。今回戦場を同じくするということは、正体の掴めていない彼女の実力の一端を見ることができるかもしれない。思わぬところで懸念のひとつが解消できるかもしれないことに、一刀は小さく口の端を吊り上げる。
「……」
また、許定の名に反応したのは一刀だけではなかった。それまで気の入っていなかった愛紗もまた、許定の名を呼んだ朱里へ、そして一刀へと顔を向けていた。口元を綻ばせている一刀を見て、僅かに眉をひそめている。
「曹操さんが黄巾党の備蓄を焼き払うまでの遊撃・陽動を任されていますが、拠点から煙が上がったら私たちも追撃を開始します。……あの、愛紗さん。どうかしましたか?」
腕をぶんぶんと振り回して気炎を上げている鈴々と考え事に耽る一刀を除いた、朱里や雛里、桃香の三人の視線を集めていたことに気がついて、愛紗は一つ咳払いをした。
「いや、すまない。少し考え事をしていた。私と鈴々が前曲を率いるのだろう。任せてくれ」
「伝令!」
取り繕うように愛紗が答えるのと、陣に伝令兵が駆け込んでくるのは同時だった。そのドクロを模した特徴的な鎧は曹操軍のものである。
「これより敵軍へ接近の後、于禁・許定弓兵部隊による一斉射撃を開始する。劉備軍は混乱が収まらぬうちに突撃願う! 楽進・李典隊に遅れることなかれ! その後の手筈は事前の打ち合わせの通りにとのこと!」
「あ、わ、わかりました!」
用件を聞き取りやすく述べた伝令兵は、桃香の声に礼で返答し、きびきびとした様子ですぐさま自陣へと駆けていく。劉備軍の兵ではああはいかないだろう。先ほども一刀たちは曹操軍の行軍の様子を見ていたが、号令ひとつで揃った行動を起こす様は感嘆するほどだった。
「それでは我らは前曲へと向かうぞ、鈴々!」
「行ってくるのだ!」
先ほどまでいささか気が抜けているように思えた愛紗も、ここに至ってはそんな様子は素振りも見せない。鈴々共々、周囲を圧倒するほどの戦意を放ちながら、己が得物をその手に駆け出した。
「二人とも、気をつけてな!」
関羽と張飛の背に声をかけながら、ぐらりと大気が揺れ動いた気がした。何かに急かされるように胸がばくばくと拍動している。これからまた命のやり取りが始まるのを、一刀は感じていた。
▽
地面を踏み鳴らす音が響く。大地が震えている。前方からは遠く悲鳴が聞こえていた。おそらくは先ほど命じた一斉射撃で、矢に射られた者たちの叫びだろう。
それに遅れて銅鑼の音が響き、各方面から突撃の喊声が上がる。そしてそれは、拓実の前方――恐らく、凪や真桜がいるあたりからも同じく上がったのだった。
「二陣、構え! 目標、敵軍右後方、放てー! 一陣は後退して次射、構えて!」
拓実の声に従い、放たれた矢が空を覆う。味方の頭上を越え、拓実が示した方向へと降り注ぐ。あちらでは喚声が上がり、それはこちらからの喊声に飲み込まれ、かき消されていく。
敵軍へと矢を射掛け、その行動の勢いを削ぐ。前曲が接敵し弓が使えなくなれば武器を持ち替え、遊撃に回る。今回、沙和と拓実が命じられているのは後方支援である。
その与えられた役割を、拓実は十二分にこなしているといえた。額に汗を浮かばせながら声を張り上げ、冷静に、そして的確に指示を飛ばしている。事前に頭に叩き込んでおいた陣形図を頼りに、沙和隊との二隊のみで機先を制し、敵方のほとんどの行動を封じていた。これは警備隊での高所からの物見、相手の出方を抑える伝令の役割で培われていた、場を俯瞰する指揮によるものであった。
こうまで上手く相手方を押さえ込めたことなどはこれまでの演習でも一度もなく、拓実のその指揮はここに至って一番の冴えを見せている。だが、実のところ拓実は好調どころか、今にも倒れそうなほどに精神的に疲弊していた。
――警備の仕事中、人死にを目の前で目撃したことがあった。治安を保持する仕事柄、刃傷沙汰で殺人に出くわすこともある。だから拓実には、人の死にいくらかの耐性がついている自信があったのだ。けれど、治安維持でのそれは日に一人や二人、多くとも十を超えないほどで、今日のそれとは桁が違う。
半日ほど前の劉備軍との会見からの帰りに気づいた、放置された百を超えるヒトの死骸。血で黒く染まる大地、風に乗って届く言いようのない鉄の臭い、暖かかったからか既に羽虫が飛び回り、死肉を鳥がついばんでいる。
まず血の気が引き、拓実の頭の中は真っ白になった。正しくその光景を認識すれば胸の中には吐き気が渦巻き、手足には勝手に震えがくる。視界が歪み、周囲がまるで地獄にでもなったような錯覚を覚えていた。
しかし、それでも拓実は『許定』という役を崩さず、周囲にいつもどおりに振舞って見せた。そんな拓実を不審に思った者はきっと、いなかっただろう。
そして今回の戦、初撃――つまるところ開戦の号令は、華琳より拓実に任されていた。拓実に従い沙和が一斉攻撃の指示を出し、それを合図に劉備軍と凪、真桜が敵陣へ吶喊する。こちらでの戦闘開始を見て、別働隊である華琳が拠点へ攻撃命令を発するのだ。つまり、これを発端に先ほど見た以上の命が散ることになる。自分の声ひとつであの時の地獄を――いや、更に大きな地獄を作らなければならない。
武将としてならば先陣を切ることは名誉なことなのだろうが、拓実は許されるのならば今すぐこの役目から逃げ出したかった。けれどもそんな消極的な拓実の考えとは裏腹に、いざ定刻となれば僅かも躊躇うことなく『許定』は攻撃命令を下してみせた。
今必要とされているのはこの時代の価値観で生きている、武将である許定だ。現代日本の常識を持つ『南雲拓実』などはただただ迷いを生むだけの邪魔な人格でしかない。許定という役になりきり、役立たずで弱い自分を押さえ込む。いつもしていることをここでもこなすだけだ。華琳がわざわざこの役目を命じたのは、平和な国で育ったという拓実が戦場で使い物になるかどうかの試金石としていたのだろう。
人を殺せるのかという自問に対しての答えは、いつかに出してあった。
影武者として勤めるかの是非を華琳に訊ねられた時に、拓実は拒否することもできた。けれども、そうはしなかった。華琳に従い、彼女のあまりに重過ぎる荷物を受け持ち、平和な世を作る助けになると決めた。その為には人を殺すことも辞さない。そう決めたのだ。酷いエゴイズムであると自覚しながらも、拓実はさながら華琳のように己の決定を覆すことはしなかった。
的確に指示を出して敵の多くを殺し、味方には極力戦死者を出さない。それが拓実の立場にあって死者を減らすことのできる唯一の方法だと信じている。ならばこそ、拓実に逡巡する暇などはない。戸惑い、悩み、動揺し、動きを止めれば、それだけ味方が、人が死んでいくことになる。今こそ武将としての最善をこなさなければならないのだ。
しかしそれでも、拓実は内より浮き出てくる己を封じきれない。浮かんだ汗は酷く冷たく、その顔色は白を通り越して青がかっている。脚や腕には力が入らず、気を抜けば膝から崩れ落ちそうだ。死んだ者に向けての哀悼か、これから殺しゆく者たちへの懺悔なのか。考えに即せず涙が流れ出てしまう。
「全員、弓から剣に持ち替えて! 突出している右辺、李典隊の後詰にいくよ!」
袖で視界を塞ぐ涙を拭い、腰の細剣を引き抜いた拓実は剣先を敵軍へ向けて大きく叫ぶ。しかし拓実のその涙は止まることなく、しばらくの間流れ続けていたままだった。
開戦の引き金となった矢の掃射より四半刻(三十分)を待たずして、優劣は決した。遠く自拠点から煙が上がったのを見て、半数にも満たない兵に劣勢を強いられていた黄巾党軍はいよいよ不利と悟り、背を向けて逃走を開始したのだ。もちろん機を見逃すような将は劉備・曹操の両軍におらず、奇襲に成功した華琳らを含め、各隊が逃走する黄巾党軍に追撃を開始する。堰が押し切られたかのように、戦況が一方へと傾いていく。
撤退しようとする黄巾党軍をすさまじい勢いで食い破っていく春蘭・秋蘭隊と関羽・張飛隊に、負けじと凪・真桜隊が続いている。その様子を目前に、後方配置されていた拓実と沙和は兵たちの進攻を緩めさせ、華琳の率いている本隊へと合流を目指していた。距離がある上、散々に食い散らかされている今からでは進撃に加わることは出来そうにはなかった。
「あっ、ほらほら拓実ちゃん。黄巾党の備蓄が置いてある砦が完全に堕ちたみたい。凪ちゃんや真桜ちゃんの部隊も大きな損害はないようだし、快勝、快勝なのー!」
隣を歩く沙和の声を受けて拓実が周囲に顔を向けてみれば、最後に残っていた黄巾党軍が集団を保つことが出来ずに四方八方へと散り散りに逃げ惑っていく光景があった。
それを追い回して、熱に浮かされたように興奮するのは自軍の兵士たち。勝ち鬨があちらこちらで上がり、気づけば拓実や沙和の部隊もそれらと反響しているかのように声を上げていた。沙和もにっこりと笑みを浮かべ、拓実の手を取っては前後に振って機嫌よく歩いている。
だが、どうにも拓実は周囲が感じているような喜びを共にできなかった。それよりも役目を果たしたことによる安堵の方が大きい。色々と懸念することはあったが、ともかく拓実は無事に初陣を飾ることができたようだった。
「さて、今後のことだけれど……」
主要な顔ぶれを集めた本陣内では、手を顎に当て目を配らせている華琳の姿があった。戦闘の簡単な
「そうね、桂花。現状で我々が早急にせねばならないことは何かしら?」
「はっ。周知の通り、主戦場ではまだ十万の黄巾党軍が控えています。そして、備蓄が焼き払われたことは遠くないうちに黄巾党軍の主力軍へと伝わることでしょう。黄巾党の中枢はともかく、大部分は生活に困って参加している者がほとんど。少なくない数が戦場を放棄し、この拠点めがけて進攻してくることが予想されます。ですがこのままこの場所に駐留し黄巾党軍の本隊と真っ向からぶつかっては、劉備軍を含めたとしても数の力で押し切られてしまうのは明白。今は転戦して耐え忍び、勢いを削ぐ事が肝要かと。つきましては、この地より一刻も早い離脱を進言致します」
「ええ、そうね。私も同じ考えよ。仮にも中央からの正式な要請で討伐に任されている我々が、一撃離脱を強いられている現状は業腹だけれどね」
不機嫌そうに、だが桂花の返答にどこか満足そうに返した華琳は、他所へ向けていた視線を改めて前方へと戻す。
「秋蘭、春蘭。戻ってきたばかりのところ悪いけれど、供をなさい。これより劉備の元へ向かうわ。桂花、あなたは自陣に残って損害の確認を」
「お任せください! 雑兵を蹴散らしたぐらいで疲弊するような柔な鍛え方はしておりません!」
「御意に!」
「かしこまりました」
自負が見て取れる春蘭の答えに、打てば響くように返す秋蘭、至極冷静に声を返す桂花。彼女らの堂のいった様子は見ている方に安心を与えてくれる。
「真桜と沙和は兵をまとめて、私たちが帰り次第すぐに発てるように備えなさい」
「了解や。っやなくて、了解です!」
「は、はいなのー!」
対して、世間話程度ならばともかく、どうにもこういった正式な場での華琳との応対に慣れていない様子の真桜や沙和。にこにこと笑みを浮かべながらそんな初々しい様子を眺めていた拓実は、無表情ながら全身を震わせている人物に気がついた。
「えっと、凪ちゃんどうかしたの? だいじょーぶ?」
「え、なあ!? あ、たた、たく……み、か?」
拓実の声に反応し、ブリキの人形のように首をかたかた動かして顔を向ける凪。どうやら凪は極度の上がり症のようだったが、拓実はそれに気づくのが遅すぎたようだ。凪の意識が拓実へと向くと同時に、華琳から声がかかってしまう。
「季衣、凪、拓実の三人は私や春蘭たちの先導をお願いするわ。目ぼしい集団は殲滅したけれど、残党が残っていないとも限らないものね」
「わっかりました!」
「え? あ、わっ」
「はーい! ……ほら、凪ちゃんも返事しなきゃ!」
慌てふためき、きょろきょろと挙動不審に周囲を見回している凪の背を小さく叩いて促す。直前に声をかけてしまったからだろう、と考えてのことだったが、これはどうやら逆効果になってしまったようだ。
「うあっ、ひゃい!? 了解しまひたぁ!」
背を叩かれ、びくんと全身を跳ねさせた凪は、顔を耳まで真っ赤にさせて盛大に噛んでしまった。それも緊張から声の加減がつかなかったのか、陣にも響き渡るような大声である。
「……」
ぽかん、とした表情で凪を見つめる華琳。それに倣ったような他の面々。言葉を発した張本人といえば、ぴしりと石になったかのように固まってしまっている。
同じように拓実も固まっていたが、すぐさまに硬直から回復し、必死に頭を働かせていた。せめてフォローの一つもしてやらないと、あまりに凪が不憫だった。
「ええっと、か、華琳さま、早く行きましょう! 早くしないと、ほら、黄巾党が!」
「そ、そうね。それではこれを以って軍議は終わりとしましょう。……春蘭」
「解散!」
珍しく面食らった様子を見せる華琳だったが、それを認識できた者は果たして何人いたのだろうか。華琳には無条件で反応するらしい春蘭の号令が響き渡り、固まっていた周囲もようやく動き出した。
みな一様に気の毒そうな表情を浮かべながらも、視線は決してある人物がいる方向へは向けずに軍議の場となっていた天幕から出て行った。
「……あの、ごめんね凪ちゃん。ボクが話しかけちゃったからだよね。ほんとにごめんね」
「あ、ぁあ。うわあぁぁぁっ!」
「でもね、そろそろ行かないと、華琳さま行っちゃうよ? だから、その、ね?」
人気がなくなりつつある陣内。そこには頭を抱えては振り乱して座り込んでいる凪と、それを必死に慰める拓実の姿がぽつんと残っていた。