影武者華琳様   作:柚子餅

23 / 55
23.『関羽、許定と相見するのこと』

 

 黄巾党の拠点強襲作戦より幾日かが経ち、曹操軍は未だ劉備軍と共に各地を転戦していた。あの地より即時撤退した両軍は、改めて戦場を同じくする契約を結び共同で戦線を張っている。

 食糧など物資に貧窮している劉備軍と、これより数千、数万もの大軍を切り崩す任務を帯びている為に人手の足りない曹操軍。曹操軍が劉備軍に食糧や物資を提供し、劉備軍は作戦遂行の間、指揮権を曹操に渡すことでお互いの利害が一致していたのだった。

 こうして結成された急場の合同軍ではあったが、保有している兵数はともかく、将の質は現大陸屈指といえるものだ。もちろんそんな一騎当千の武将に率いられた合同軍に民兵ばかりの黄巾党軍が敵うはずもなく、多少の数の差を物ともせずに駆逐されていく。

 

 今拓実がいるのは野営地に張られた天幕の中。華琳によって内々に集められた軍議に出席していた。同席しているのは曹操軍でも一部の者たちだけで、華琳を始めとした春蘭、秋蘭の中核三人。桂花、季衣、拓実と中途より加入した、既に見慣れた顔ぶれ。

 そして今回よりそこには新たに、凪、真桜、沙和が加わっていた。彼女らは新参でこそあるが個々に隊を任せられて結果を出した。こうして軍議に同席させたのは、華琳が彼女らの将器を認めたということなのだろう。

 とはいえこの場にいる他の六人が共有する秘密である、複数の顔を持つ拓実についてを凪たちは知らされていない。これは討伐に出ている現状で許定以外の役を発揮する場面がなく、未だに荀攸として顔を会わせていない為にその必要がなかったこと。加えて、華琳が拓実の経歴を明かすか否かの判断を保留しているからであった。

 

 その拓実はといえば、季衣と凪の間に立ってどこかうずうずとしていてせわしない。最近の拓実にはどうにも落ち着きが無かった。本人は平静を保っているつもりなのだろうが、隠し事が出来ない許定の性質もあってすべて表に出ているのである。

 思い悩んでいるような深刻な素振りではない。何かを心待ちにしているような拓実を、周囲は気にしつつも見てみぬ振りをしている。

 

「それでは軍議を始めるとしましょうか。目下、黄巾党討伐については大きな進展はないわね。順調に数を減らしているとはいえ、目に見える戦果を出すにはもう数ヶ月は必要でしょう。とりあえず今は、協力体制にある劉備軍についてを聞いておきたいわ」

 

 椅子に深く座って足を組んでいる華琳はいつもの泰然とした様子で、まず側に控えている桂花を一瞥した。

 

「この一週間。劉備軍との連絡や作戦立案を桂花に任せておいたけれど……軍師としてのあなたは劉備軍をどう見る」

 

 受けて桂花は小さく目礼し、続いて感情の篭もらない声を上げた。その表情は意図的に消されている。

 

「は。勢力としては弱小ながら、関羽、張飛と武将は正しく勇に優れ、諸葛亮、鳳統の二人の軍師はどちらも広い見識の持ち主です。我らと共に行動し連戦連勝することで着々と名声を得、兵数も日に日に増えているようです。以前に劉備軍を指して眠れる龍と例えましたが、その(まなこ)は薄く開かれつつあるように思います」

 

 桂花の所感に頷いた華琳は、次に秋蘭へ視線を向ける。

 

「秋蘭。報告を聞いたところ、どうやら我らの部隊指揮を改良して兵らへと施しているようね」

「はっ。どうやら我が軍の調練に細作を紛れ込ませ、その錬兵法を調査している模様です。どうやら対象が調練のみの上、華琳様が好きにさせろと仰られました為に、細作は放置致しておりますが……」

「それはおそらく諸葛亮あたりの発案かしらね。我らの指揮や軍の編成を模倣し、錬度を高めようということでしょう。形振り構わずとも機会を逃さず、貪欲に学ぶ姿勢は好ましいものよ。我らがわざわざ教えてやる義理はないけれど、まぁ、共に戦っている以上見て真似られるぐらいは致し方ない。そうでしょう?」

 

 薄く笑みを浮かべた華琳は、視線を動かした。向けられた視線からは、一様に困惑の感情が返ってくる。

 その意図はどうあれ、他勢力に密かに工作員を送り込まれているのである。もしも何事かが起こってからでは遅い。本来であれば捕らえては尋問し、その責の次第を劉備に問い質すべきである。だが、華琳にはそれをする気はないようである。

 

 華琳は天より与えられた、または磨かれた才を愛している。無能な、それも分をわきまえない者には辛辣であっても、華琳をして認めさせる技能を有し、己が天命を知り動いてみせる者に対してはかなり寛大ともいえる。今回の寛大な態度も、劉備軍の有する綺羅星のように輝く才人たちの存在あってのことだろう。華琳はそんな才を持つ者に酷く執着し、己の手元に置きたがるという一種の人材収集癖を持っていた。

 そんな華琳が劉備軍に目をかけているのは部下たちには周知の事実である。それも今までに類を見ないほど過大なものであった。だというのに、いつものようにその将や軍師を自軍へ勧誘せず、一勢力として見て成長を助けてやっている。彼女の性質であれば、有能と認めている劉備らを己の傘下へと加えようとする筈であるのだが、一週間を過ごした今もその様子は見せていない。

 決断の早い華琳が勧誘の機を遅らせる筈もなく、だが形式上は『契約』という対等な条件で一週間もの期間の同行を許すのだから劉備らを評価していないわけでもない。それがどのような思惑からのものか、周囲は判断がつきかねているのだった。

 

「そうね……拓実。あなたは劉備の人体(にんてい)をどう捉えたかしら」

 

 次いで華琳より声がかかったのは、許定の姿をした拓実。周囲から視線が集まるのだが、その中でも横に並んでいた真桜と沙和の疑問の視線が拓実に突き刺さる。

 この一週間。凪ら三人と行動を共にし、兵を率いていた拓実に劉備と会話するような機会はなかった。精々、初日に顔合わせで会ったぐらいのものだろう。それこそ連絡役を任されている桂花や、その護衛を任されていた凪の方が劉備らとは幾度となく会っている。だからこそ、他の者を差し置いて拓実の名が出てくる理由がわからずにいるのだろう。

 そんな視線を向けられている当の拓実は、その問いに対して気まずい表情を隠そうともせずに口を開く。

 

「ごめんなさい、華琳さま。顔合わせの時にちょっとだけ話しただけだから、まだ大まかな性格ぐらいしかわからないです」

「構わないわ。把握している限りで言って御覧なさい」

「う……えと、わかりました」

 

 間髪を容れずに華琳より言葉が返ってきたことで、拓実はちょっとうろたえた。僅かな時間視線を宙にやり逡巡した後、自信のない、いつもよりいくらか小さな声量で返答していく。

 

「その、劉備さんは最初は流されやすい性格に見えたんですけど、考えかたの根っこはかなり頑固っていうのかなぁ。とにかく平和にしたくてがんばっているっていうのはウソじゃなさそうです。優しくて、戦いとか嫌いで、でも困ってる人がいると助けずにはいられない感じみたいで。そういう性格だから他人に好かれやすくて、わるだくみとかが苦手だと思います。あとは、天の御使いの北郷一刀さんのことを、なんていうんでしたっけ? えっと、いぞん? その……すっごく頼ってると思います。ボクが劉備さんを見てて感じたのはこれぐらいですけど……」

「ふふ、僅かな時間でそれだけわかれば充分よ」

 

 満足そうに笑みを深める華琳に、拓実は安堵からほっと息を吐いた。横で疑問を浮かべていた二人も拓実に感心したような様子である。そんな光景を視界に入れながら、華琳は今までの桂花、秋蘭、拓実の言葉を吟味し、考え込む素振りを見せている。

 

「武、智、仁。少人数ながらもこれを揃えることが出来る勢力が、この大陸にいくつあるか。妙な横槍さえないなら、劉備らは黄巾討伐にて戦功を立てて地方を任せられることになるでしょう」

 

 華琳の口から珍しく賛辞の言葉が発される。瞳には熱が篭っている。その熱が何に向けられているのか、そして何を捉えているのか、拓実にはなんとなく見えていた。

 有能な人材であればあわよくば自軍に引き入れたいと話していた華琳が、その珠玉ともいえる劉備軍の将らに目をつけぬはずはない。だが、反して華琳は沈黙を守ったまま。味方でないなら、いつの日か劉備ら一行が自身と比するだけの敵になるだろうことを感じたのだろう。

 王が二人いては、やはり対することになるのだろうか。あるいは劉備らと共に一つの勢力を築ければ、大陸統一は早い段階で為されたかもしれない。拓実も密かにそれを願っていた。だが、やはりこの世界でも曹操と劉備は対峙するらしい。それはまるで、大きな流れの上にあるようだった。

 

 

 さて、曹操・劉備合同軍は一週間の転戦を経て、一時華琳の治める(エン)州へと戻ったところであった。

 劉備軍へと備蓄を譲渡し、また連戦を重ねて心許なくなってきた物資を補充するためであるが、討伐はまだまだ続く。陳留へは入らずに街が見える位置に陣を張り、補給に要する数日の中から将兵たちは順繰りに休日を与えられていた。

 

 そんな束の間の休日。拓実はきょろきょろと辺りを見回しながら見慣れぬ陣の中を歩いていた。拓実にとってついにやって来た機会である。逸る気持ちを抑えきれずに、その足取りも軽い。

 

「あ」

 

 歩いているうちに見知った顔を見かけ、拓実は思わず頬を綻ばせた。

 

「すいませーん、天の御遣いさまはこちらですかー?」

 

 天幕の前に仁王立ちしている人物へと拓実は声を掛けた。その手には青龍偃月刀。表情は引き締まっていて、猫の子一匹通すまいといった風情。目を惹くのはやはり、その艶やかな黒髪だ。

 なんと、この麗しい女性が劉備軍の武将である関羽であるらしい。気勢を上げる春蘭を相手に一歩たりとも引かなかった様子から余程の武芸者だろうとは拓実も感じていたが、まさかこの女性が彼の美髯公(びぜんこう)だとは夢にも思うまい。後に調べてみれば、以前は幽州を中心に『黒髪の山賊狩り』と呼ばれていたとのこと。(ひげ)に変わって美しい黒髪を持つこの世界の関羽は『美髪公』というところだろうか。

 

「……見慣れぬ姿が歩いているので誰かと思えば、曹操軍の許定殿か」

 

 声を掛けたところ、関羽に一瞥されて硬い声が返ってくる。拓実は笑顔のままたじろいだ。当初こそ、後世で神格化しているというあの関羽に会えたことで舞い上がったものだが、どうにも拓実はこの女性に好かれてはいないようなのだ。

 拓実の前に姿を見せれば、酷く険しい顔で拓実のことを見つめている。その視線に悪意はなかったようだが、だからといって好意的なものでもなかった。どうやら曹操軍所属の武将は一様に警戒されているようなので他の者であっても対応は似たり寄ったりではあるのだが、拓実に対してはそれが顕著に思える。

 

「そうです! あの、関羽さん、ですよね?」

「ええ。いかにも」

 

 とはいえ実際に相対してみて、関羽の許定への対応はそう素っ気ないものでもない。春蘭や秋蘭など同世代の相手にする際は関羽は警戒からこうまで柔らかい応対はしないようだが、明らかに年下に見える拓実や季衣相手では勝手が違うようである。実際のところ、北郷一刀と一歳違いの拓実は関羽ともそう歳は離れていない筈なのだが、そこは拓実の容姿が幼すぎたのだろう。

 関羽は青龍偃月刀を持ち替え、入り口を塞ぐように構えてみせた。

 

「ところで、我らの主君を探しているようだが、いったい何用なのだ?」

「用事は、えっと、ちょっとした私事というか。少しお話したいだけなので、あんまり時間はかからないと思うんですけど」

「私事……申し訳ないが、ここは通しかねるな。私も警護の任を任されている。共同戦線を組んでいるとはいえ、武装した者をみだりに主君に近づけるわけにはいかん」

 

 きっぱりと即断した関羽は、再び武器を手に天幕前の警護へと戻ろうとする。それを止めたのは明るい拓実の声だった。

 

「あ、そうですよね! それじゃ、武器を置いていけばいいですか?」

 

 言って破顔した拓実は腕のトンファー、腰に佩いた細剣をあっさりと取り外し、纏めて関羽へと手渡した。

 まさか他所の陣で言われるまま武装を解除するとは思わなかったのか、きつく張り詰めて不動だった関羽の表情が、そこで初めてきょとんとしたものに変わる。手でトンファーと細剣を受け取り、それをまじまじと見つめた後、遅れて焦ったように口を開いた。

 

「いや、待て待て待て! そういった意味ではなく、一軍の長である者に私事などという不透明な理由で通すことが出来ないという意味だ。それに、武器を手放したからといって暗器等を潜ませている危険もあれば、なおのこと……」

「ええー! 暗器なんか持ってないですよー」

「う、そのだな。許定殿がご主人様を害すると疑っているわけではないのだが、護衛の任を受けている以上はだな……。そうだ! その私事とやらの内容を私に話してみないか? その内容の重要性次第では取次ぎも考慮に入れてみるが……」

「えっと……ボク、御遣いさまとお話してみたいって思って」

「む、それはご主人様相手でなければできないことなのか? 内容は?」

「え? 内容?」

 

 関羽より問い詰められて、拓実はようやく自身が何も考えずにここに来ていたことに気がついた。体の芯がどんどん冷たくなっていく。先ほどまでに感じていた高揚感などは、どこかへ消えてしまっていた。

 

「ぁ、その……」

「どうした?」

 

 ついつい馬鹿正直に同郷の人間と話したいとだけ考えていたが、立場柄、拓実は己の正体を他の人間に語るわけにはいかなかったのだ。一刀と同郷であること。許定や荀攸ではない、南雲拓実という日本名。今現在の自分の立ち位置。ここに来てからのこれまでの生活。どれか一つでも話せば、華琳の影武者としての地位を知られることに繋がりかねない。それは、そのまま華琳の不利となってしまう。さらに悪いことに、一刀は今後華琳の強敵となるだろう劉備軍に属している。なおさら話すわけにはいかなかった。

 どうやら同郷の人間に会えたことで相当に舞い上がっていたらしく、拓実はこの一週間を一刀と何を話そうか、何を聞こうか、そんなことばかりを考えて過ごしていた。自分の正体を明かすことは出来ない、そんな大前提に気づかずこの休日を待ち望んでいたのだった。

 

「……天の国のお話とか、御遣いさまに聞いてみたかったんです」

 

 それらを除いてしまった上で、拓実はいったい何を語れるというのか。もし会ったとしても正体は明かせず、一刀からの話を聞いて、今は帰れない日本の記憶に浸るだけになるだろう。

 搾り出すように、酷く落ち込んだ声を拓実は上げた。あまりの自身の愚かしさに自己嫌悪し、落胆に沈んでいる。数ヶ月に渡り、食文化も文字も、そして価値観さえも異なった異国で過ごしてきた拓実。表面上にはその一切を見せないでいたが、小さくないストレスが内心に累積していたのだ。それが同郷と会って一度緩んでしまい、だというのに打ち明けて鬱憤を解消できないとなれば、中々立ち直れない。

 拓実はまるで、目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えていた。

 

 

 

 

 

 はぁ、と深く息を吐いた愛紗は、同時に若干呆れた様子で許定を見やってしまった。自陣に滅多に見ない曹操軍の将兵の姿があるから、すわ、何事か、と身構えた己がまるで間抜けである。

 

「なにかと思えば、そんな些末事だったのか」

 

 続いて、話がしたいからと他陣営に気軽に来るとは劉備軍は軽く見られているのだろうか、そんな考えが浮かび、愛紗は若干苛立ちを覚える。だが、ふと視線を許定へと向けた直後に、そんな感情は吹き飛んでいた。

 そこにはうなだれて、どんより沈んだ許定の姿があった。直前の快活な笑顔と比べてみると酷い落差である。どうやら本人は気づいていないが、その目元は若干光っている。感情が溢れ出して、涙となって出て来てしまったのだろう。

 

「あ、ああ、すまない! 些末かどうかは私が決めることではなかったな。それほどに天の国の話……ご主人様と話すのを楽しみにしていたのか?」

 

 そんな拓実の様子を見て、自身の発言から面会の許可が下りないだろうと考えてしまったのか、そう理解した愛紗はうろたえた。声をかけるも聞こえているのかいないのか、許定は顔を俯かせたまま際限なく落ち込んでいる。

 愛紗はわたわたと助けを求めて周囲に視線を巡らすが、君主の天幕付近だからか誰もいない。どうしていいものか、万夫不当の武を誇る関雲長も泣く子には勝てない。

 

 あることがきっかけで、個人的な興味から許定の姿を見かければその様子を観察していた愛紗。つい初見の戦闘では見事な指揮をしていたから許定を一人の武将と見ていたが、よくよく見てみれば鈴々とそう年が変わらない少女である。その鈴々が世間一般で言う大人の振る舞いをしているかといえばそれは断じて否。鈴々にしても就寝時には肉親が恋しくなるほどの年齢でしかない。

 愛紗は思う。これではまるで、天の国に想いを馳せていただけの無邪気な少女を、難癖つけていじめているだけではないか。

 

「ああもう、わかった。わかったから泣くな! 仕方ない、話を聞くぐらいなら構わないだろう。あまり時間は取れないだろうが、今ご主人様に取り次いできてやるから。ただし、ご主人様の安全の為に私も同席させてもらうぞ」

 

 許定の視線の高さを合わせ、慰めるように何度か肩を叩いた後、愛紗は慌てて身を翻す。丁度その時、天幕の中からは声を上げながら長身の青年が潜り出てきていた。

 

「おーい、愛紗。大声出したりしてどうしたんだ? ってあれ? 君は許定ちゃんだったよね。何で泣いてるんだ?」

 

 現れたのは件の人物、北郷一刀。何事か書き物をしていたのか手を墨で染めて、入り口で立ち尽くしている愛紗と許定を不思議そうに見比べている。

 

「あ、あはは。ボクのことは何でもないですから、気にしないでください」

 

 許定は愛紗、一刀と立て続けに泣いていること告げられてようやく己の異常に気づいたか、目元を袖でぐしぐしとこする。放った言葉を真実とするために一刀に向けて笑いかけたようなのだが、力を入れて擦り過ぎたのか目が赤くなってしまっている。泣いたのが丸わかりで、それでも無理に笑ってみせる許定の姿は酷く痛々しい。何でもない筈もなかった。

 

「なぁ、愛紗。どうしたんだ? 愛紗が何かしたのか?」

「い、いえ。私は警備の任を全うしていただけで」

「そ、そーです! えっと、ボクがバカだったから悪いんです。関羽さんは悪くないんです!」

 

 二人してそうは言うが、その結果として許定が泣き、落ち込んでいるこの状況である。自然と、一緒にいた愛紗へ一刀の疑念が向くのは当然といえた。

 愛紗に責が向かいそうな現状に許定が声を上げてかばったのだが、泣いているところを見られた恥ずかしさからすぐさまに顔を伏せてしまった。

 

「えーっと……それじゃ許定ちゃんは何で泣いてたのかな?」

 

 自身に完全に責がないとは言えずにいる愛紗に対して、一刀から声がかかる。何故こうなったのか。愛紗も把握しきれてはいなかったので、とにかく頭を落ち着けて順を追って話していくことにした。

 

「その。許定殿はどうやらご主人様の生国の話が聞きたくてここまで足を運んだそうで。ただ、ご主人様の身辺の警備を任されている私としては、武装している許定殿を通すわけにもいかず」

「あ、もしかしてそれで武器を取られるのを嫌がったとか? まぁそりゃそうだよな。他所の陣中で武器を取られたりしたらいざという時に困るだろうし」

「いえ! あ、そうではなく、武器はあっさりと私に預けてはいました。ですが、事前に約束もなく話をしたいというだけで主君の下へと易々通すのもいかがかと思い、詳しく話したい内容を聞いていたのです。ただ、どうやら許定殿はご主人様と話されるのを随分と楽しみにしていたようで、その想いを知らず、私が軽んじてしまったというか……」

「そっか……」

 

 一刀は頭をがしがしと掻くと、空を仰ぐ。その後、うむむ、と唸った一刀は、呆っと気が抜けたように見つめてくる許定に近づいた。

 

「そうだなぁ。愛紗の意見もわからないでもないけどさ、この一週間、曹操のところとやり取りするのは軍師を通してばっかりで陣地も別だったじゃないか。お互いの武将が自由に行き来できるような暇もなかったし、そもそも休みという休みも今日ぐらいしか取れてないだろ」

 

 一刀はきょとんとしている許定の頭を墨のついていない左手でぐりぐりと撫でながら、愛紗へ向け笑顔を浮かべた。許定は猫のように目を瞑って、一刀の手の動きと一緒に頭を揺らしている。どうやら悪い気はしていないようである。

 

「流石にそう頻繁だと困るけど、話ぐらいなら通しちゃっても構わないからさ。もちろん、今後はこっちの陣に入る前に武装は解いてもらうけど」

「しかし。それでは万一、ご主人様が襲われでもしたら……」

「うん。だからさ、愛紗も同席してくれるならその危険もないだろ? それにあんまり曹操のところの人たちとも交流取れてないし、丁度いい機会じゃないか」

「それは、確かにそうですが」

「頼むよ。これからも数ヶ月は一緒に助け合っていく相手なんだしさ。愛紗には負担をかけちゃうとは思うけど、何も毎日って訳でもないし、休みの日ぐらいは……」

「あの、御遣いさま。やっぱり迷惑になっちゃうから、ボク大丈夫です。関羽さん、色々と無理言っちゃって、ごめんなさい」

 

 なすがままに頭を撫でられていた許定は一刀の提案に渋る愛紗の様子に気づいたようで、背の高い一刀を見上げておずおずと声を上げる。そして、愛紗へと向き直って深く頭を下げた。その横では一刀が真剣な表情で愛紗を見つめている。

 二人に見つめられている愛紗はというと、もちろんいたたまれない。観念したように口を開いた。

 

「ああ、もう。これではまた私が悪者ではないですか! ご主人様は鈴々の時もそうですが、(わらべ)らに優しすぎます!」

「愛紗、それじゃあ?」

「ええ。許定殿が来られた時は、私が同席することを条件に許可致します。許定殿。今後は前日でも構わないから事前に連絡を頼みたい。他陣営の将を招くともなれば、こちらにも準備があるからな」

「あ、わかりました! ありがとうございます!」

 

 許定もどうやら持ち直したらしい。若干表情に陰りは見えるが、それでもだいぶ明るさが戻っている。

 腰に手をあて、まったく仕方がない、という風に肺から息を吐き出す関羽ではあるが、その顔は控えめに笑っていた。

 

「よし! 愛紗の許可も出たし、それじゃ今日は三人でお茶でもしよっか」

「やったー! お茶だー!」

 

 今泣いたカラスがなんとやら。直前まで不安げにしていた許定は完全に調子を取り戻したらしく、ぴょんぴょんと跳ねて自身の喜びを露にしている。そんな許定の様子を見て、一刀は遅れて自身の言葉の誤りに気がついたようだった。

 

「あ、あー。ごめん。お茶って言ったけど、そんな高価なものは置いてないからこっちで用意できるのは白湯(湯冷まし)ぐらいだ」

「ええー、そうなの?」

「天の国だと何かを飲みながら話をすることを『お茶する』っていうから、ついさ。お茶も飲むけど、そう珍しいものじゃないし。こっちのお茶って薬や嗜好品扱いされてるから異様に高いんだよなぁ。手で握れるだけ買おうと思ったらいくらになるんだか」

「へ、へぇー」

 

 許定は一刀の話を聞いて、楽しそうにふんふんと頷いている。一刀は彼女へ笑顔で話しかけながら天幕の中へ進んでいく。その後ろ。二人が並んで歩く姿を眺める愛紗は密かに、言い知れぬ疎外感を感じていた。

 

 

 その天幕の中には寝具と机、椅子。それにいくつかのつづらが置いてあるだけで物は少ない。ここが、一刀の自室だった。

 机の上には墨の入った(すずり)と筆、それにいくつかの竹簡が開いて置いてあるが、許定が入室しても一刀は気にせずにそのままにしている。なにせ、これらは劉備軍の内情を記した機密に関わるものではない。ここにある竹簡は朱里や雛里から一刀が借りている政治書や軍事書である。

 

 領地を持たない、根無し草である劉備軍に政務処理などはなく、あっても備蓄の調査書ぐらいのもの。それも気がついたときには朱里や雛里がこなしてしまっているので、ここ一ヶ月ほど一刀は手持ち無沙汰な状態であった。

 政務関係では一刀は手が出せない。ではもう一方の軍務はどうかというと、人を率いる訓練すらも積んでいない一刀がいきなり兵士たちを率いて戦える筈もなく、錬兵や実際の戦闘など軍務も愛紗や鈴々に任せる他ない。

 領地を任されてしまえば現在の立場柄、劉備と並んで領主と扱われる一刀にもこなさねばならない仕事が出てくるのだろうが、現時点では一刀に出来ることはいくらもなかった。せいぜい、来たる時の為に政治、軍事などの統治者としての知識を学ぶことぐらいである。

 積み重ねが必要なことだとは一刀もわかってはいるのだろうが、黄巾党の討伐に出てからは桃香と一緒に応援することしか出来ない現状に焦っているのだろう。警備を任されている愛紗は、ここ最近、時間があれば竹簡を紐解いて勉強している一刀を知っている。

 

「それで、俺の生まれた国……天の国について訊きたいことがあるって聞いたけど、何かな?」

 

 天幕へと招き入れられ、きょろきょろと好奇心旺盛な様子で中を見回していた許定に一刀は問いかけている。薦められた椅子にちょこんと座った許定は、人差し指を口に当て視線を宙へと巡らせた。

 

「えっと、んー。その、いっぱいあるんですけど、天の国ってどういうとこなのかな、とか。あとは、天の御使い様はどういう人なのかなー、とか」

 

 ピリピリと気を張っている愛紗の横で、許定は足を伸ばし楽々とした様子で一刀へと答えている。万が一許定が暴挙を働いた時の為、取り押さえられるようにと許定の座る椅子の横に控えているのだが、警戒されている当の許定に圧迫感を感じている様子が微塵もない。

 一般人なら竦み、武将であればまず身構えてしまうだろうそれに反応しない許定は鈍感なのか、それとも自身の気迫を受け止めても尚平常を装えるほどの大物なのか。先ほどまでの一連の様子からは作為的なもの――許定という人格に油断を誘う為だとかの他意の一切を愛紗が感じ取ることはなかった。おそらくは前者であろうと考え、ようやく僅かに警戒を緩め始める。

 

「天の国がどういうところ、か。そうだなぁ……とにかく平和な国だったよ。国内での争いなんて滅多になくて、人が死ぬことなんて事故や病気ぐらいでさ。お金さえあれば食べ物だっていくらでも買えるから餓死者だって滅多に出ないし、娯楽もいっぱいあったな。そういう意味では、天の国だったのかもしれない。本当に、平和な国だった。許定ちゃんや愛紗たちには、ちょっと想像がつかないかもしれないけど」

 

 それらを横で聞いている愛紗は、今まで一刀から天の国について詳しく聞いたことがなかったことに気がついた。四人で旅を始めた当初こそは桃香が明るい調子で幾度となく質問を投げかけていたが、一刀が天の国に帰れないことを知ってからは酷な質問だろう、と自粛させていたのだ。

 一刀がこの世界での生活に落ち着いた頃には表立って訊ねる機会もなくなっていて、他はともかく愛紗は一刀自身が言い出した時ぐらいに聞くぐらいとなってしまっていた。

 

「それと、俺がどんな奴かってことなんだけど、ちょっと自分じゃわからないからさ。これからしばらくは一緒に戦っていくんだし、その中で許定ちゃんがどんな奴か見極めてくれると助かるよ」

 

 一刀は質問の答えをそう締めくくって、ああ、と何かに気づいたように声を漏らす。

 

「あと、出来れば『天の御遣い様』だなんて呼ばずに、もっと気軽に接してくれたら嬉しいかな。敬語なんかも使わなくて大丈夫だからさ」

「あの、それじゃ御遣い様のこと、兄ちゃんって呼んでいい?」

「はは、兄ちゃんか。なんかくすぐったいけど、構わないよ」

「代わりに兄ちゃんも、ボクのこと真名の拓実って呼んでいいからね」

 

 その言葉により驚いたのは、真名を許された一刀ではなく愛紗だった。

 

「えっと、いいの?」

「うん! 兄ちゃんには許定じゃなくて、せめて本当の名前の拓実って呼んでほしい」

「そっか。うん。ありがとな、拓実」

「へへへ」

 

 照れくさそうに笑う許定と、優しい笑みを浮かべる一刀を眺め、愛紗はいつかの焦りをここでもまた感じていた。

 

 北郷一刀は、特に女性に好かれやすい男である。それは天の御遣いとしての立場もそうだし、その権威を振りかざして私欲を満たさないこともそう。見た目にしても端整といって差し支えない容姿をしているのも一因だろう。加えて荒くれ者ばかりのこの大陸の男と比べて教養があり、虐げられがちな女性にも優しく、全体的に線は細いが男としての芯は通っている。

 そんな彼を好んでいるのは、もう一人の君主である桃香なんかは顕著だったし、鈴々も彼のことを特に慕っている。女性兵士たちからの評判も上々という話だ。かく言う愛紗にしても、この数ヶ月で一刀に惹かれている部分は多々あった。少なくとも、もしかしたら恋敵になるかもしれない人物を観察するほどには。ともかく一刀を気にしていると、次から次に彼に想いを寄せる女性が出てくるのである。

 そして今までの会話から薄々とは感じていたが、その中でも特に許定は一刀に向けている好意が大きすぎる。碌に会話もしていなかったのに、会話して数分で無条件の信頼を向けている。真名を預けたのがいい例だ。彼女自身、かなり人懐っこい性格だと思っていたが一刀に対してはやはり度を越えているように思える。そんな思考から、愛紗の疑念は確信へと大きく近づいていた。

 

「もしやとは思っていたが、本当に一目惚れ、というやつなのか……?」

「ん? どうしたんだ、愛紗」

 

 茫然自失といった様子の愛紗に気づいたらしく、一刀から声がかかった。

 

「い、いえっ、なんでもありません!」

「それならいいんだけど」

 

 慌てふためく愛紗に首を傾げながら許定との会話に戻る一刀。どうやらいつしか私塾に似た『学校』とやら、それも一刀が通っていた『せんとふらんちぇすか』の話をしているらしい。

 愛紗はとりあえず許定が一刀へ懸想しているかは置いておき、二人の話に聞き入ることにした。今これを聞き逃したら、次いつ一刀の話を聞く機会があるかわからないからであった。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。