影武者華琳様   作:柚子餅

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25.『曹操、偏在するのこと』

 

 

「あら、春蘭だけなの? 午前は二人とも、これといった予定は入っていなかった筈よね? こちらの仕事が一段落ついたものだからあなたたちの顔を見に来たのだけれど、開けてもらえるかしら」

 

 今しがたまで自身が声に出していたのと同じ声色である華琳の声が拓実の元へも届いてくる。歩調からそうではないかと思っていたが、やはりその推察は違っていなかったようだ。

 薄暗い物置きの中で、拓実は間一髪で姿を隠せたことに安堵の息を吐いた。

 

「は、はいっ! ただいまお開けしま……あっ! いえ! 華琳さま、申し訳ありませんが少々お待ちください!」

 

 華琳に返事をして、しかし何かに気づいたらしい春蘭は、ごとごとと物音を立て始める。何事かと拓実が物置きの扉の隙間から部屋の中を覗くと、『等身大着せ替え華琳様人形』を抱えた春蘭がきょろきょろと焦った様子で周囲を見回していた。人形を置いてはまた抱え上げ、次の場所を探している。

 なるほど。拓実が隠れて代わりにスペースを埋めてしまったために、人形を目に付かずに置けるところがなくなってしまったようである。涙さえを浮かべながらあちこちをうろうろ歩き回る春蘭の姿に、自身が原因であるのを棚に上げた拓実は口の端を吊り上げていた。うろたえている春蘭の姿が可哀想で、なのに拓実がその様子を見てにんまりと笑みを浮かべているのは、きっと華琳の演技をしている所為だろう。拓実には華琳のような加虐趣味はない、筈である。

 

「春蘭。何をしているかは知らないけれど、いい加減開けさせてもらうわよ」

 

 華琳がそう言うが早いか、扉が開かれる音が響いた。

 

「こうしている間にも時間が削られているのよ。突然来訪した私にも非はある。多少部屋が散らかっているぐらいならば大目に見ましょう」

 

 数分は部屋の外で待っていた華琳だったが、一向に開かれる様子のない扉にどうやら痺れを切らしたようである。生憎、物置きの扉の隙間から覗く拓実には入り口あたりは見えなかったが、不機嫌そうな表情で扉を開ける華琳の様子は容易に想像できた。

 扉を開けながら上げられた声には随分と苛立ちが含まれていて余裕がない。普段であればもう少しはおおらかなのだが、どうやらあの華琳をしてもここ数日間の激務は堪えているようだった。

 

「あっ……か、華琳さま」

「……」

 

 部屋へと乗り込んできた華琳の姿が、拓実の視界に入ってくる。春蘭は『等身大着せ替え華琳さま人形』を抱え上げようと人形の腰に手を回した体勢で動きを止め、華琳もまたその様子を見て立ち止まり、言葉をなくした。

 

「――拓実。あなた、ここで何をしているのかしら?」

 

 二人のうち、先に動きだしたのは華琳だった。静かな、温度の一切を感じさせない冷え切った華琳の言葉に、物置きの中の拓実は思わず息を呑んだ。そうしてすぐに自身に向けられた言葉ではないと気づいて我に帰る。

 

「確かに、私はその姿のあなたをもう一人の曹孟徳として認めたわ。けれど、まだ働きをすることまでは許してはいない。あなたともあろう者ならばそれぐらいのことは理解しているものと考えていたのだけれど、買いかぶっていたのかしら。……拓実! 何とか言ってご覧なさい!」

 

 苛烈な言葉を『等身大着せ替え華琳様人形』に投げかける華琳。文字にするならばどうにも間抜けな光景を想像してしまうだろうが、観察力に優れた華琳や人間観察が趣味の拓実にすら看破させないほど、春蘭お手製の人形が精巧なのだ。

 拓実が見ても鋭く睨みつける華琳と不敵に笑みを浮かべて見据えている人形、一瞬だけ切り出して見れば華琳が二人いるかのようだ。睡眠時間を削り、珍しく冷静さを欠いている華琳は身じろぎひとつしない人形の不自然さに気がついてはいない。

 

「あの、華琳さま。その、これは……」

「春蘭、あなたもよ! 仕事にかかりきりになっているのをいいことに、私の預かり知らないところで拓実と戯れているだなんて……いくらあなたでも、あの約定を忘れた訳ではないでしょう!」

「はっ! もちろん華琳さまのお言葉ですので、しっかり覚えてます! 『もしも拓実があなたたちの誰かと事に及ぶ様子あれば、私に一報しなさい。一緒に可愛がってあげる』との仰せでした!」

 

 物置きの中で人知れず、拓実はそのあんまりな言葉に呆れから肩を落とした。こめかみに手を当てて顔をしかめる。気のせいか頭痛がしてきた。

 どうやら拓実の知らないところで恐ろしい密約が交わされていたようである。しかもその『あなたたち』という話し振りでは、秋蘭や桂花あたりも同じ場にいたのだろう。自室で演技を解いてリラックスしているならばともかく、演技中は女性に対して情欲を覚えたりはしない。しかし、もしも一歩間違えていたらどうなっていたのやら、と拓実の背に悪寒が走る。

 

「そうね。なら、何故私に隠れて拓実と……」

「これは拓実ではないからです! 華琳さま、どうかこちらへ。近くで見ていただければお分かりいただけるかと」

「何ですって?」

 

 拓実がそんな風に身震いしていると、扉の向こう側では、春蘭の言葉で冷静になったらしい華琳がじっと人形を見つめていた。そうして、ようやくその異常に気づいたらしい。

 春蘭に言われるがままに近づくと、そっとその人形の頬に手を滑らせた。そしてその質感に驚いたらしい華琳は目を見開き、電気が走ったかのように手を離す。

 

「これは、木材の感触。かなり精巧ではあるけれど、つまりは人形ということ? ……どうやら私の早とちりだったようね。春蘭、要らぬ嫌疑をかけてしまったこと、謝りましょう」

「いえ、そんな! 華琳さまが謝られることなど……」

 

 春蘭がすぐさまに跪き、華琳に深く頭を下げた。だが、華琳はそれで追求を終えたわけではないのは明らかだった。それを表すように、華琳は鋭く春蘭を見据えたままである。

 

「けれど春蘭、いったいこれは何なのかしら? 見事ではあるけれど、私の姿を使ってこんなものを作る許可を出した覚えはないわよ」

「え。は、はいっ。えっと、あれ? どこかでそんな質問を……ああ、そうだ! 確か、秋蘭が言っていたのは……」

 

 春蘭が思い返しているのは拓実とのやり取りだろう。なにせ細部こそ違うものの、華琳がした問いかけはつい先ほど拓実がしたものとほぼ同じである。思案していた様子の春蘭は数秒を置いてようやく思い出したのか、眉を開いて表情を明るくさせた。

 

「華琳さまに服を贈らせていただく前に、本当にぴったり着れるのかどうかを試してみるために作ったもの、です。あっ、それと、私が毎週華琳さまのお体に合わせて調整しておりますから!」

「そう。なるほど。道理は通っているわね。そういった用途であるならば、まぁ許しましょうか。代わりといっては何だけれど、先ほどの失態は忘れて頂戴。この私ともあろう者が少しばかり取り乱してしまったわね」

 

 拓実が気づくか気づかないかの、ほんの僅かばかりの疲労をにじませて華琳が笑みを浮かべた。素振りこそほとんど見せてはいないが、華琳はやはり相当に疲れているようだ。そうでもなければ華琳のこと、端から見て疲労していることを感じさせたりはしない筈である。

 

「大変お待たせしました、華琳様」

 

 ちょうどそんな折、扉を開けて秋蘭が帰ってきた。盆の上には三つの茶碗が乗っていて、湯気を立てている。

 

「秋蘭? 戻ったの」

 

 秋蘭は華琳へと礼で返して、何事もなく盆を机へと降ろす。華琳と対していた春蘭の顔は強張り、そして拓実もまた、秋蘭の登場に密かにうろたえていた。

 たまたま直前に呼び方を変えていた為に華琳は普通に応対しているが、秋蘭は部屋を出ていたので拓実と華琳が入れ替わっていることを知らないのである。今の言葉も、秋蘭が現状を正しく認識していれば出てくる筈がない。拓実ではなく華琳だと知っているなら「華琳様、いらしていたのですか?」と尋ねるであろう場面であった。

 悪いことに華琳と春蘭の位置関係は、秋蘭が出て行く前までの拓実と春蘭とほぼ変わらない。精々が『等身大着せ替え華琳様人形』の位置がずれているぐらいである。先ほど忠告したように秋蘭自身が華琳の胸元を見て違いに気づいてくれればいいのだが、果たして一度拓実と認識してしまった固定観念は崩れてくれるのだろうか。思い込みというのは存外馬鹿にならないものだ。加えて言えば拓実が無断で華琳の姿をしているのも、大本は秋蘭の『華琳は仕事で忙しく、決して部屋から出てこないだろう』という判断からのもので、秋蘭はきっと目の前の相手が華琳であるだなんて露ほどにも思っていない。

 

「あら、この香り、中々上質のものね」

「は。この三人でこうして話すのも久方振りですので、普段飲むものより少しばかり良い茶の葉を用意致しておりました。華琳様、どうぞ。ほら、姉者にも」

「ありがとう」

「お、おう」

 

 華琳は秋蘭から優雅に茶碗を受け取り、香りを楽しむように目を瞑って口をつける。どうやら落ち着いたらしく、先ほどまでの取り乱した名残などは欠片も見えない。

 春蘭がその隙を見計らって、華琳に気づかれぬよう身振り手振りで秋蘭に何事かを伝えようとするも、何を勘違いしたのか秋蘭はそんな春蘭を見て微笑んでいる。

 

「悪くないわね」

「ありがとうございます。ああ、姉者。姉者が先ほど言いかけていた菓子を出してもらって良いか? あれを茶請けにしよう」

「えっ? いや、秋蘭。あれは……」

「以前に華琳様が美味しいと仰っていた店のものだからな。きっと華琳様も気に入ってくださることだろう」

「秋蘭がそうまで言う菓子屋と言えば、そうね。中央通りの『不死爺(ふじや)』か『好爺好名(こうじいこうな)』あたりかしらね」

「ほう、ご存知でしたか。……姉者? 菓子が置いてある場所を忘れたのか? 日に当たらないようにとしておいただろう。まったく、しょうがないな」

「あっ!」

 

 立ち上がり、何の気負いもせずに秋蘭が物置きの扉から覗き込んでいる拓実の元へと近づいてくる。もしや、春蘭が戸惑っていたのはそれが取り出せない場所にあるからではないだろうか。ふと横を見れば、なるほど『不死爺』という文字が入った箱が置いてある。

 視線を戻せばもう秋蘭が扉に手をかけようとしていたが、声などを出して華琳に存在を知られるわけにはいかない拓実には為す術がない。それでも取り乱すことなくその瞬間を待つのは、いったい何の矜持があってだろうか。拓実本人でさえもわかっていない。

 

「ああ、春蘭。一つ尋ねるけれど、あなた拓実の所在は知っているかしら? ここに来る前に仕事の用件であの子の部屋に足を運んだのだけれど、留守にしていたのよね」

 

 秋蘭が物置の扉を開けたその瞬間、思い出したようにそう問いかけた華琳は春蘭に顔を向けた。

 その時、その部屋の反対側では、物置きの扉を開け放った体勢のままの秋蘭と、腕を組んで仁王立ちしている拓実が無言で対面していた。

 

「……」

 

 秋蘭は口元をひくひくと引きつらせ、いつもであれば鋭く怜悧なその目を見開いて、拓実を凝視している。拓実がさてどうしたものかととりあえずにっこりと笑って、横に置いてあった『不死爺』の箱を手渡してみた。目をまん丸にしている秋蘭はそれを素直に受け取って、何度かまばたき。視線を手元の箱と拓実とで何度か往復させる。

 

「た、たくみのやつですか。わたしはまったくもってぞんじませんが。いや、はは、どこへいったのでしょうか。せっかくかりんさまがあしをはこんでくださったというのにあいつめはけしからん」

 

 春蘭の棒読みな声が届く。おそらく位置的に秋蘭の後姿と物置きの中にいる拓実の姿がその視界に入っていることだろう。拓実はその性格からなんとなくわかってはいたが、その大根役者振りから春蘭が役者には向いていないことに確信を持った。

 

「妙に片言になったりしてどうしたの、春蘭ったら。それにしてもまったく。あの子は本当にどこへ行っているのやら。今いるのは荀攸の方だろうから、さては桂花のところかしらね」

 

 華琳は視線を物置側へと向けず、天井へとやってそのまま思案している。拓実の目前にいる秋蘭はゆっくりと首だけで背後を振り返って、そんな華琳と『等身大着せ替え華琳様人形』の姿を視界に収めた後、また拓実へと向き直った。

 笑みを浮かべたままの拓実が何となく手を振って見せると、秋蘭は表情を変えないまま手を振り返す。そうして秋蘭は己が自失していたことに気がついたらしく、扉にかかった手に思いっきり力をこめたようだった。もちろん必要のない力を無理に入れたならば過ぎた音が響くのは道理であり、扉は乱暴に閉められて、ばん、と物を叩きつけたようなけたたましい音が部屋中に響いた。

 

「っ、どうしたの秋蘭? 春蘭じゃあるまいし、そんなに力いっぱいに閉めては扉が壊れてしまうわよ」

「も、申し訳ございません! 少々、力加減を間違えまして……」

「そんな問題ではなかったと思うのだけれど……。ああ、それと秋蘭。聞きそびれていたけれど、事前に知らせておいた訳でもないのによく私の分のお茶を用意していたわね? どうやら部屋に私がいることも知っていたようだし」

「いえ、その。準備を終えて戻る途中に華琳様のお姿をそこの廊下でお見かけしましたので、急ぎ茶碗を一つ多くご用意させていただいただけで……」

「……何やら今日のあなたたちは二人とも様子がおかしいわね」

 

 頭を下げたまま煮え切らない態度で弁解する秋蘭を、いよいよ華琳は鋭く見据える。秋蘭の登場からところどころで怪訝な色を含めていたが、ついに確信に至ったようである。

 

「いえ、そのようなことは」

「……いいわ。あなたがそう言うのならば、これ以上の追求はよしておきましょう。そうね。それでは気分を入れ替えて、茶請け話にこの人形についてでも聞かせてもらいましょうか。これはどこの職人に作らせたものなのかしら。ここまでのものを作れる技術を持つのならば、是非に城に招致したいわ」

「あ、あっ! 華琳さま、私です! それは私が作ったものです!」

 

 手を上げて必死に自身の存在をアピールする春蘭に、華琳は驚きながらも相好を崩し、機嫌を回復させた様子を見せた。不承不承ながらも華琳が納得した様子を見せたことで、表情こそ変わらないものの秋蘭の肩から余計な力が抜けたのがわかる。何とか乗り切ったと安心したのだろう。

 拓実はただじっと身じろぎもせずに、扉の隙間から三人をつぶさに観察していた。

 

 

 

 その後、十数分ほどたわいない雑談を交わした華琳は、執務室に戻ることを告げて退出していった。幾度か怪しいところはあったが、春蘭、秋蘭は共に華琳の疑惑の目からやり過ごしたようだ。

 扉が完全に閉まり、華琳の足音が部屋から遠ざかっていくのを聞き届け、ようやく二人は拓実が潜む物置きの前に集まった。

 

「ふぅ。危なかったな、姉者……」

「ああ。事が事とはいえ、恐れ多くも華琳さまに隠し事をすることになろうとは」

 

 二人は疲れた様子で言って、近くにいた秋蘭が物置きの扉を開ける。その先にはもちろん、いつものように笑みを浮かべた拓実の姿があった。

 

「このような場所で長らくお待たせして申し訳ありません。さぁ、こちらへ」

「……」

「……華琳、様?」

 

 しかしおかしい。拓実は物置きから出ようともせずに立ち尽くしている。いや、それどころか秋蘭の呼びかけにも応じずに一言も声を発さず、中空の一点を凝視していて瞬きすらしない。

 思わず秋蘭は後ろに振り返った。その先には先ほど華琳の興味を集めていた『等身大着せ替え華琳様人形』があった。それを目に焼きつけて視線を戻すと、微動だにしていない拓実の姿。問題は、それらの表情も、体勢も焼き付けたそれとほぼ同一であること。極めつけは、拓実のその体からは活力が感じられない。それこそ、作り物のようだ。

 目の前にいるのは華琳を模した拓実ではない。そう、これではまるで、拓実が模しているのは

 

「……『等身大着せ替え華琳様人形』」

「あら。二人して私に何事か隠していると思えば、もう一体人形を隠していたの」

 

 呆然と秋蘭が呟いたその時、二人の背後――入り口からも突如声が響く。その声の持ち主は先ほど帰ったばかりの筈である。だが、二人が驚き振り向けば、予想に違わぬ人物が立っていた。

 

「か、華琳さまぁ!?」

「執務室にお帰りになられたのでは!」

「ええ。けれど拓実に渡すつもりだった竹簡をここに忘れてしまったから、引き返してきたのよ」

 

 華琳は「すこしばかり疲れが溜まっているのかしらね」ところころと笑って、椅子の上に置かれた書簡を拾い上げた。

 それを聞いて春蘭は馬鹿正直に納得してしまったようだったが、秋蘭は違う。秋蘭は華琳が退室する前に、忘れ物がないか部屋の中を確認している。入り口の扉を閉めたとき、その椅子の上に何もなかったのを知っている。

 ならば何故そこにある筈のない書簡が存在しているのか。そしてそんな嘘を華琳がついているのか。二人は決してやり過ごせていた訳ではなかった。何事かを隠しているのを察した華琳は、こうして尻尾を出すまで二人を泳がせていただけなのだろう。

 

「ふふ、驚かせてしまったようね。さて、少しばかり拍子抜けだったけれど気掛かりも晴れたことだし、私も残りの仕事を片付けてしまいましょうか」

「華琳さま、どうかお気をつけて!」

 

 春蘭の声を背に受けて、華琳は颯爽と去っていく。今回華琳が仕事の合間を縫ってここに来たのはおそらくは最近顔を合わせていない春蘭を心配してのことだろう。

 その気持ち自体は嬉しいものである。ただ、最後に春蘭や秋蘭にちょっとした罠を仕掛けていったのは、今回ばかりは控えて欲しかったが。

 

 秋蘭が言葉も忘れて呆然と華琳が去っていった先を見つめ続けていると、しばらくして背後で「ふぅ」とため息が吐かれた。振り向けば、まるで動く様子を見せず人形のようだった拓実が首を右へ左へと傾けてほぐしている。

 

「まったく、恐ろしい子ね。あの子にしてみればちょっとした悪戯なのだろうけれど、相手をする方は一切の油断ができないわ。春蘭、秋蘭。助かったわ。ありがとう。それにしても華琳が来ることがわかっていたなら、私がわざわざ出向くことはなかったわね」

「……いえ。今回の件は私の我侭に華琳様をお付き合いさせてしまったことがそもそもの原因ですので。責があるとすればこの私に。まして、労わっていただくことなどは、何も……」

 

 にっこりと笑ってみせた拓実に向き直った秋蘭は、深く深く頭を下げた。拓実に向けた礼には、謝意がある。だが、それ以上の驚きと、少しばかりの畏怖が混ざっていた。

 華琳が並外れた洞察力と加虐性、そして今回のようなどこか子供染みた悪戯心を持っていることなどは、長年の付き合いである春蘭、秋蘭であれば当然のように知るところである。しかしそう認識していても、彼女は二人の予想を更に上回ってみせる。それも一つの華琳の恐ろしさだ。

 華琳を相手にしては、拓実の言うように気を抜けない。現に今回も、拓実がその意図に気づかなければ、今回のことは華琳に露見してしまっていたに違いない。

 

「いいわ。秋蘭のお茶を頂きたいところだけれど、どうやら日がよろしくないようね。また後日としましょう。そろそろ私も部屋に戻るとするわ。春蘭、今日は口に出来なかったから、次の機会にも『不死爺』の菓子を茶請けに用意しておくこと。いいわね?」

「はい、この春蘭めにお任せください!」

「それでは念のため、私がお供いたしましょう。華琳様が拓実を探していないとも限りません。私でも華琳様を引き止めさせていただくぐらいのことは出来るでしょう」

「そうね。では秋蘭、私の先導をなさい」

「かしこまりました」

 

 

 

 秋蘭は先んじて入り口の扉を開き、拓実の先を歩き出す。そうしながらも秋蘭は考えていた。華琳のこと、そして今自身の後ろを悠々と歩いている拓実のことを。

 

 華琳が何事かを隠しているだろうと二人を疑っていた様子には、秋蘭も気づいていた。しかし、華琳がそれらしく露にしたのはたったの一度のみであって、その後はそんな様子は一切見せずにいつものように三人で談笑していたのだ。

 秋蘭はもちろんのこと、春蘭も戸惑っていたのは最初だけで、以降は拓実の存在を忘れたかのような自然さでボロを出したりはしなかった。だからこそ秋蘭は華琳が行動に起こすほどまでに懸念しているとは考えていなかったのである。今ならわかるが、そう考えるようにと華琳に誘導されていたのだ。

 

 そんな華琳の行動を拓実は見通していた。いったいどうして華琳が潜んでいることを知れたのだろうか。つい今しがたまでそれが秋蘭にはわからなかった。

 事が起こった後であれば、結果から順序を追って一連の行動に納得も、隠されていた意味に気づくことも出来る。しかし、その兆候を見つけるのはあまりに難しかったはずだ。あの華琳を相手では、外からではまず察することは出来ないだろう。

 ならば、何故拓実だけはそれを知れたのか。難しいことではない。拓実は、秋蘭のように外から華琳を見ていて気づいたのではなく、一つ一つの物事が起こった時に自身を華琳として考えていたのだ。華琳の反応を見ての補強はあっただろうが、あくまでも拓実は自身だったらこうするだろうとしていたのである。それは拓実が華琳と同じ境遇に立たされていたなら、華琳とほぼ同じ行動を取っていたということになる。

 

 秋蘭はそうして思い出した。ここ数ヶ月の間で、一人の人格として振舞っている荀攸や許定と接していた為に忘れていたのだ。この姿の拓実は、華琳なのだ。華琳として考え、華琳として行動する。華琳に成り代わるべく、その全てを模倣しているのである。

 荀攸や許定という人格は、もちろん桂花や季衣が思考の組み立て方の基準とはなっているが、本人たちとは明らかに独立している。影武者としての拓実からは、華琳であろうとする意識の剥離がほとんどない。

 そして拓実の演技には違和感がどんどん無くなってきている。その証拠に秋蘭は今日、拓実を華琳として対応し、また拓実が華琳と入れ替わっていることに気がつかずにいたのである。華琳と謁見した時は別にしてだが、出会った当初の拓実の演技ではこうはいかなかっただろう。

 

 あの完成度であれば遠くない未来に、拓実に影武者の役目が任されるだろう。そう考えるも、秋蘭は手放しで喜べない。この感覚には覚えがあった。いつか、玉座の間で桂花と秋蘭が二人して華琳に対して感じたそれを、今また感じている気がする。

 妙な既視観を振り払うように思考を切り替えた秋蘭は後ろへと顔を向けて、拓実に問いかけた。

 

「それにしても、人形にまでなりきることも可能なのですね。初めて見ましたが、姉者が彫ったあれと入れ替わってもすぐには気づかないかもしれません」

「ああ、先ほどのあれね」

 

 一瞬考える様子を見せたが、拓実はすぐに思い当たったようで小さく笑みを浮かべた。

 

「あれも演劇の一種なのよ。言葉を使わずに、身振りや手振り、或いは表情で表現する手法。その中の人形振りといって、言葉そのままの意味で人形のように静止するものね。同じ手法で、簡単なものだと……っ!?」

 

 秋蘭の見ている前で、話の途中で突然、拓実の左肩が何かに当たったかのように弾かれた。無防備によろけた拓実は目を白黒とさせてたたらを踏む。

 

「華琳様っ!?」

 

 秋蘭は慌てて身構え、その当たったものを確認しようと視線を巡らせる。瞬間、刺客の存在が頭をよぎったが、しかし殺気はなかった。秋蘭の視界に何かが入った様子もない。弓使いである為に秋蘭は動体視力に自信があった。

 それを表すように周囲にも何ら異常はなく、拓実もまた何もない宙を見て不思議そうに左肩を押さえている。

 

「華琳様、少々お待ちを……」

 

 警戒している秋蘭を他所に、僅かに首を傾げた拓実がまた歩き出す。しかしそれも同じところで拓実の体が何か障害物に当たって止まってしまい、またも歩行を妨げられてしまった。

 

「おのれ、妖術の類か!」

 

 秋蘭がその箇所を手で払うが、何も掴めずに空を切る。二度、三度とやっても結果は同じ。だが、拓実が右手を伸ばすと、何かに当たってそれ以上進まない。左手を伸ばしても同じ位置で止まってしまう。拓実の両手の平がぺたぺたとそれを探っていくと、どうやら広範囲に壁があるようだ。しかも、どうやらそれは秋蘭には触れられない壁である。

 

「面妖な……! ……む? もしや、華琳様?」

「ふふふ。こうまで反応してくれると、やってみせた甲斐があるわね」

 

 にこにこと笑っている拓実が、今度は何にも遮られることなく歩き出した。置いていかれた秋蘭は言葉が出てこない。かつかつと軽やかな音を立てて上機嫌に歩いていく拓実の後姿を、呆然と眺めるしかない。人が驚いているところを見て喜んでいる拓実は、正しく華琳を相手にしているようだ。

 いや、華琳からは考えられないからかい方をする分、よっぽど性質が悪いかもしれない。若干呆れた様子で息を吐き、次いで小さく苦笑いを浮かべた秋蘭は先を歩く拓実を追いかけ始めた。

 

 


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