影武者華琳様   作:柚子餅

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28.『許定、趙雲と出会うのこと』

 

 壮行会より三日後、劉備軍は(かね)てからの予定通りに陳留を発ち、(エン)州より東方にある徐州方面へと向かっていった。

 見送りには春蘭、季衣、許定としている拓実に、州牧という要職に就いている華琳までもがわざわざ出向いて行われた。その際、季衣と張飛、二人に巻き込まれる形で拓実が口喧嘩していたのだが、それが周囲の面々には妙に寂しそうに見えたらしく三人のやり取りを微笑ましく見守っていたものだった。

 また、以前の一回の食事ですっかり荀攸を上客扱いしているらしいあの料理店からは、劉備軍へ餞別として僅かながら日持ちする食材が贈られた。それを受けて華琳や許定姿である拓実は、劉備より荀攸個人に向けて感謝の言付けを頼まれることとなった。陳留でも噂となっている高級店からの贈品と劉備よりの念の入った感謝の言葉に、春蘭や季衣は拓実がいったい何をしたのかと首を傾げていたが、事情を知っている華琳だけはそ知らぬ素振りをする拓実を見て微笑んでいるのだった。

 

 

 それからまた数日して、他の州に潜ませている細作から政務に明け暮れる陳留に報告が届くこととなる。いくらか威勢が落ちたとはいえ未だ万単位での規模を保つ、黄巾党の中でも大軍団の動向が明らかになったのだ。どうやら(エン)州より南東部にある城から太守を追い出しては住民に暴虐を働き、城下町に飽き足らず、近辺の邑などからも食糧、財産などを根こそぎ略奪してこもっているようである。

 華琳は黄巾党を叩く好機と見て討伐へと動き出したが、しばらく腰を落ち着けて領地経営に集中するつもりでいた為に行動が遅れてしまう。そうこうして件の城へと辿り着いた時には、同じく動きを察知したらしい諸侯らが討伐へと乗り出し、黄巾党のこもる城の周囲を取り囲んでいた。

 

 

 その位置関係だが、まず件の城より見て北西に華琳の率いる曹操軍。北には袁紹の金の旗がはためき、北東は公孫賛とそれに合流したらしい劉備軍の姿がある。また、南西方向には袁術の客将となっているという孫家の旗が見えていた。

 また、遠巻きに様子を伺うようにしている他の勢力、義勇軍などの存在もあるが、いずれも兵力としては小粒。直接的に介入する気はないようである。

 

「本来であれば出遅れた、とするところだけれど、どうやら今回はそれが上手く転んだようね」

 

 右を春蘭、秋蘭で固め、華琳は奪われたという城へ向けて馬を走らせる。その反対に並び走らせている桂花が華琳の呟きに首肯した。

 

「どうやら城にこもる集団、そしてその周辺で略奪をしているものも含めると四万もの数に上るようです。捕捉した時点で出兵していては手を出せず、(いたずら)に物資を浪費していたことでしょう。我らと同じく逸早く黄巾党の動きを察知したらしい孫策、偶然にも進行方向上にあった劉備らもまた独力で相対するには兵が足らず、迂闊に動けなかった模様です。そこに北部より南進してきた公孫賛と、近場にありながら察知の遅れたらしい袁紹、初動の遅れた我らが合流した形となっています。討伐に集まった総数は二万ほど。敵数は倍にも及びますが、されど兵の質、将の質から見て覆せない数の差ではございません」

「今現在、大陸に勇名を轟かしている者の名が、よくもまあここまで揃ったものね。さて、黄巾党四万に対して、こちらは二万。劉備軍が公孫賛と轡を並べているのでは、他勢力との連携はないものと考えるべきか」

「妙才将軍、失礼いたします」

 

 そこでぼろの布切れを身につけた、農民のような風体の男が秋蘭の元へと駆け寄ってきた。全速力で馬を走らせているわけではないが、そこそこの速度の華琳らに併走している。いくつか秋蘭に耳打ちした後、男は踵を返して駆け出し、あっという間に後続の兵士に紛れ込んでその姿を消した。

 

「……華琳様。彼の城に張角・張宝・張梁の三人がいるらしい、との情報があります。黄巾党連中が新入りらしき仲間に吹聴していたのを、付近の農村の老人が耳にしたとのこと。真偽のほどまでは定かではありませんが」

「華琳さま! であれば、是非ともこの春蘭めに先陣をお命じください! 二万の差など物ともせず、必ずや張三姉妹を討ち取って御首級(みしるし)を上げて見せましょう!」

 

 秋蘭の言葉を聴いて、目をぎらぎらとさせた春蘭が声を張り上げた。戦と聞いて昂ぶっているようで、全身からは戦意が立ち上っている。

 自然、華琳は目を細める。微塵たりとも物怖じしている様子がないのは頼もしいが、流石に四万の兵に当てるわけにもいかない。桂花に至っては、そんな春蘭を暑苦しいというように見て顔をしかめている。

 

「少し落ち着きなさい、春蘭。出来ることならば張三姉妹は討ち取るよりも拿捕を優先させたいところ。私としても彼女らに少しばかり訊ねたいこともある。それに真っ向からぶつかって我が方が有利となれば、張三姉妹も人に隠れて逃げてしまうでしょう」

「は、はっ。かしこまりました……」

 

 さっきの勢いはどこへやったやら、しょんぼりしてしまった春蘭はうな垂れる。こうしているともう戦意などは欠片も見えない。そんな状態の春蘭に構わず、華琳は秋蘭へと顔を向けた。

 

「そうね、秋蘭。この状況と条件、あなたであればどう動くかしら?」

「……はっ。奪われた城は南東側が崖となっているため、我らが合流したことで攻城に易い地点は全面埋まっております。側面は攻めるに薄く、攻めかかるならば正面となり、またその先鋒となれば被害は甚大かと。私であれば先陣を切るよりも先に、まず搦め手を用いましょうか」

「桂花。あなたは?」

「『孫子曰わく、昔の善く戦う者は先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ。』(*1)――四万もの数が守勢ともなれば、容易に抜くことは適いませぬ。ならば機が迫るのを待つと同じくして陣を堅め、来る機に何者よりも迅速に動く体を整えるのが肝要かと」

 

 (そら)んじてみせた桂花に、華琳は笑みを以って返す。

 

「そうね。倒すだけならともかくとして、張三姉妹に手を届かせるならば攻め入ってから間を置かずにその首元まで追い詰める必要がある。到着したばかりで準備も整っていない我らが搦め手を用いようにも、実際に行動を起こすまでに出し抜かれないとも限らない」

 

 華琳は遠く見える、他の陣営地を見渡した。勇名を轟かせるだけあって、この地に集まっている誰も彼もが一筋縄とはいかないに違いない。この面子と戦場を同じくしては、最早単純に敵を討伐さえ出来ればよいという話ではなくなっている。他の諸侯を抑えて一等の戦果を上げれば、その名声は揺るがぬものとなるだろう。華琳がこれに思い当たると同じくして、他も同じように考えている確信がある。

 そうして全てを眺め見た後にひとつ頷き、また桂花へと視線を戻した。

 

「であるならば、桂花の言うように何よりも先にこちらの体勢を整え、もし討って出てこられたとしても護りきれる用意がなければ話にならないわ。桂花、兵士に城より三里(約1,500m)に陣を張り、軍を三つに分けて順番に休息を取らせなさい。ただし装備着用の上、即時行動の取れるように、ともね」

「かしこまりました」

「秋蘭、あなたは分けた内の一つを使って構わないから、各軍の周囲に細作を放っておきなさい。何かしらの動きがあれば、すぐに私に知らせるように」

「御意」

 

 併走していた桂花と秋蘭が手綱を操り、華琳より離れていった。そうして空いた華琳の隣の空間に、春蘭が馬を寄せてくる。

 

「城に最も近い前曲には、騎馬編成のあなたの隊を。その補佐には季衣をつけましょうか。また突破力のある凪、咄嗟の応変ができる拓実を後詰めとして配置するよう通達を。それらの隊には特に黄巾党の動向を警戒させておきなさい。あなたたちには城門が空き次第、逸早(いちはや)く城の内部へと侵入して敵将を討ち果たす役目を授けましょう。ただし、女性武将は出来る限り生け捕りになさい。その中に張三姉妹が紛れていないとも限らないわ」

「はっ! 承知いたしました、華琳さま!」

 

 先陣を任せられた喜びを顔一杯にして、春蘭は馬の腹を蹴って、前方の季衣や凪、拓実の元へと馬を走らせていった。あっという間にその姿が見えなくなり、しかし春蘭の指示する張りのある声が彼方から聞こえてくる。

 華琳は宙を仰いだ。もう日は落ちるだけとなっていたが、今日という日がまだ終わらないだろう予感があった。その顔には挑戦的な笑みが浮かべられている。

 

「さて。来るその『機』、もたらすのは時によるか人によるか。どちらにせよ、そうも遠いことではないでしょう」

 

 

 

 

「孫策軍に、城に攻め入る気配! 夏侯元譲将軍より出撃の命あり! 夏侯元譲将軍より出撃の命あり!」

 

 その声は、陣を張り、夜半となってから拓実の天幕に届いた。言いつけどおりに装備をつけたまま横になっていた拓実は、毛布を跳ね除けて飛び起き、武器を手にすぐさまに天幕より這い出る。

 春蘭の隊にいる伝令兵が、声を上げながら陣内を駆け回っている。拓実と同じく、飛び出してくる兵士の姿がちらほらと見えた。

 

「拓実、聞いたか!?」

「凪ちゃん!」

 

 両手に填められている手甲【閻王(えんおう)】を調整しながらも、凪が拓実の元へと駆けてきていた。横の髪の跳ねがいつもより大きいのは急報のために寝癖を直す暇がなかった為だろう。拓実は無意識に自分の髪を撫で付ける。

 

「最前線の春蘭さまと季衣は伝令を飛ばした後、既に準備を終えて進軍を始めているらしい。私たちも続くぞ!」

「うんっ!」

 

 二人もまた駆け出し、慌しく兵を整えて進軍を開始させる。

 

 

 拓実と凪が城門に辿り着いた時には、既に孫の旗を掲げた軍が軍鼓や銅鑼を鳴らして示威行動を開始していた。

 だが孫策軍は不可解にも、攻め寄って矢の反撃があれば、被害が出たわけでもないのにあっさりと退いてしまう。飛んでくる矢が散発的になるやまた寄り、そして退くを繰り返している。まるで統率が取れているように見えない。敵兵も引け腰な孫策軍に対して城壁の上から罵りの声を上げている。

 

「あやつめらは城門に陣取って、いったい何をしているのだ! あれでは陥とせるものも陥とせんぞ!」

 

 騎乗した春蘭が拓実の遠く前方で苛々とした声を上げていた。孫策軍が邪魔となっていて、春蘭や季衣は碌に攻撃に加わることができずにいる。奇襲にしては妙な動きをしている孫策軍を前にして、拓実と凪もまた進軍の勢いを落とさざるを得ない。

 

「春蘭さま、荒れてるねー」

「騎馬編成では接近し、城内に乗り込まないことには始まらないからな。それよりも、春蘭さまの言うように孫策軍は何をしているんだろう。単独では難しいかもしれないが、我らの助勢があれば城門ぐらい落とせるだろうに。これではむしろ私たちの邪魔をしているみたいだ」

 

 ぼんやりとした拓実の言葉に、凪が真面目な顔で疑問の声を上げた。

 距離がありすぎて拓実や凪の兵の下には矢も飛んでこない。前曲の春蘭が前進できない為に、後詰めの拓実や凪も後に続けないでいる。動けずに十と数分。戦場ともいえない位置にいる拓実と凪は気勢が削がれた様子で遠く城壁を眺めるばかりだ。

 

「ふうむ、確かに妙ですな。そも、闇に紛れての折角の奇襲だというのに、まるで攻め気が見えない。さて、そちらにおわす曹操軍の方々は、あの孫策軍の動きをどう思われますかな」

 

 気づけば、同じく孫策軍の攻撃を察知し駆けつけたらしい公孫賛・劉備軍も立ち往生していた。

 その中でいつの間にか拓実たちの横に軍を並べていたのは、公孫の軍旗を立てている眉目秀麗な女性である。水色のセミロングほどの髪に、胸元を大きく開けた白が基調の格好。手には見事な設えの直刀槍が握られていた。飄々としていながらも立ち振る舞いには隙が見えない。

 

「……そちらは?」

 

 凪が警戒した様子で声を投げかける。密かに拳を握り、【閻王】をいつでも構えられるように気を張っているのが見て取れた。そんな凪に気づいているだろうに、女性は意に介した様子もなく眉を開いて笑みを浮かべる。

 

「おおっと。名乗っておりませんでしたか、これは失礼。私は伯珪殿――公孫賛殿の下で客将をしている趙雲、字を子龍というものだ。もっとも、伯珪殿の下ではこれが最後の働きとなるため、この名乗りも今回限りとなるのだろうが」

 

 にやり、と笑って見せた趙雲に、拓実は僅かに目を見開いた。その名乗りを聞いて、陳留の自室で影武者の衣装と共に眠っているだろう青釭の剣が頭によぎっている。

 趙雲。蜀の五虎大将軍と数えられている英傑である。今は拓実が所持している青釭の剣などは、演義では巡り巡って彼の得物となっている。後の世でも美丈夫として語られることが多かったが、拓実の目の前の趙雲は目鼻立ちがすっきりした涼やかな麗人である。

 

「すまんな、許定殿、楽進殿。星は……趙雲はいつもこの調子なのだ。気を悪くしないでやってくれ」

 

 こちらのやりとりに気づいたらしい関羽が近寄り、戦闘前の厳しい表情を崩すことなく声を挟んできた。茶々を入れられた趙雲はむすっとした顔でそっぽを向く。まるで不貞腐れた子供のような仕草である。

 

「愛紗はどうして、真面目でいかん。もう少し余裕を持ったらどうだ? そう頻繁に眉間に皺を寄せていては跡が残ってしまうぞ。孫策軍があの調子では、今しばらくの間は戦況も動かないだろうよ」

 

 趙雲が関羽へと振り向いた時、いつの間にやら己の眉間を親指と人差し指で摘んで、無理に険しい顔を作っていた。どうやら関羽の真似をしているつもりらしい。それを見て、険しかった関羽の眉間の皺が更に深くなった。

 

「うるさい。余計なお世話だ。まったく、私は先に戻っているからな」

 

 ぷんすかと怒ってみせる関羽の背を見送って、趙雲は「相変わらず冗談の通じんやつめ」と肩を揺らして笑った。笑いが収まったらしい趙雲がふと城を見やると、彼女の瞳がほんの一瞬だけ刃物のように鋭くなる。

 

「まぁしかし、この様子では一度動いてしまえば、後は破竹のごとくとなるだろうからな。そう長話している暇もないか」

 

 漫才のような趙雲と関羽のやり取りをぼんやりと眺めるしかなかった拓実たち。置いてけぼりにしていた二人をようやく思い出したか、趙雲は右拳の側面をぽん、と左の掌に打ち付けた。

 

「おお、そうそう。ところで、こちらが名乗ったのですから是非ともに其処許(そこもと)のご尊名をお伺いしたいものだが」

 

 無駄に慇懃な、だからこそふざけてるとわかるその調子を崩さずに趙雲は凪と拓実へと視線を向ける。慌てて姿勢を正した凪、対照的にきょとんとした様子のままの拓実が並んで言葉を返した。

 

「失礼しました。曹操軍の楽進、字を文謙と申します」

「えっと、ボクは許定です。よろしくおねがいしますね、趙雲さん」

「ふむ。楽進殿に、許定殿か。どうかよろしく頼もう。それと、初対面の相手にすることではないが、この戦が終わりましたらちょっとした頼みがありましてな。どうか聞いてはいただけませぬかな?」

「……それは、内容にもよりますが」

 

 怪訝さを隠そうともしない表情の凪に、趙雲は思わずといった風に苦笑した。

 

「いや何、楽進殿。そう大したことではないからそう身構えてもらわずとも。とにかく一通りが終わりましたらまた伺わせていただきますので、詳しい内容やその是非はそれからに。これ以上話していてはあの堅物……おっと、真面目な関羽殿が煩いのでこの辺りで」

 

 言うなり、からからと笑った趙雲は颯爽と公孫の兵の下へと帰っていく。

 

 

 見送り、その姿が見えなくなると拓実と凪は息を吐き、自然と顔を見合わせた。さっと懐に入ってきては逃げていく風、捕らえようとも捕らえられない雲のような、不思議な雰囲気を持った女性であった。

 

「なんというか、掴み所のない方だったな」

「うん。でも趙雲さん、相当強い人だと思う」

 

 彼女は立ち姿から見事で、歩く姿にもぶれや無駄がない。おまけに、それを自然に行えている。言うは易いが、精強な曹操軍でさえもそれを実践できている者は十いるかどうか。そして、拓実は自身がその中に含まれていないのを自覚している。

 

「……拓実もか。立ち振る舞いから同じく私もそう感じてはいたが、それでもその底が見えない。私で相手になるかどうか。もしかしたなら、春蘭さまとも互角にやりあえるほどかもしれない」

 

 確かめるように凪は【閻王】を握って、喉を鳴らした。拓実も緩ませていた表情を入れ替えて、酷く真剣に趙雲の背を眺めていた。

 

 凪でさえそう言うのならば、実力で及びつきもしていない拓実では趙雲に敵う道理がない。しかし、立場柄拓実はそれではいけない。趙雲が所属する蜀とは今後敵対する可能性が高いのである。ともすれば、蜀についた趙雲を相手にして戦うこともあるだろう。悪いことに、演義では趙雲に奪い取られる運命にある青釭の剣も何の因果なのか拓実の持ち剣となっている。趙雲に殺され、宝剣を奪い取られた夏侯恩と同じ結末に至らないと誰が言えるのか。

 趙雲が敵となりかねないというのに、今の拓実では初太刀で斬って落とされてもおかしくない。半年に渡って鍛錬を続けてはいるがそれが拓実の現状である。

 

 さらに言えば、初太刀で討ち取られかねないという話は趙雲だけに限ったものではない。蜀の関羽、張飛のみならず、呉の甘寧や周泰。袁紹陣営の顔良や文醜。場合によっては今後、あの呂布を相手にすることも考えられる。

 それらを相手に拓実が武技だけで勝利するなどは、例え生涯に渡って鍛えようともまず不可能だろう。春蘭と渡り合うだろうそんな人外とも言える化け物たちには、並大抵の武才があった程度では太刀打ちさえも出来ない。

 しかし、拓実も将の一人である以上は実力不足など何の言い訳にもならない。相手がどんな無双の将であろうとも、この時代では自衛も満足に出来ないようでは話にもならないのである。

 

「うあー、もうっ! がんばるぞーっ!」

「なぁ!? た、拓実? いきなりどうしたんだ? だ、大丈夫か?」

 

 南雲拓実であれば挫折してしまいそうな高すぎるいくつもの壁を前に、しかし許定はへこたれず、むん、と気合を入れて腕を振り回す。そんな許定のいきなりの奇行に驚いたらしい凪が、真面目に同僚を心配し始めた。

 

 膠着していた戦場が動いたのはそんな時だった。突然に、城門の方向から悲鳴が聞こえ始め、混乱している様子が伝わってくる。

 拓実は慌てて馬の背の上にぴょんと立ち上がると、騎乗している兵や武将の上から遠くを見やった。状況を把握するより早く、隣の凪が見上げるようにして視線を投げかける。

 

「拓実、何か見えるか!? 前方の春蘭さまたちは!?」

「ううん、ダメ! 変わってないよ! 春蘭さまも季衣もさっきの場所から動いてない!」

 

 同じく孫策の兵が動いている様子もない。城門も変わらず閉ざされたままだ。それでも城内の混乱は収まりを見せていない。

 そうしてしばらく拓実が目を凝らして見続けていると、ようやく異常が目に見えるような形で現れた。あちこちが橙色で照らされ、幾筋もの灰色の煙が上がり始めたのである。

 

「凪ちゃん、いくつも煙が上がってる! 城が燃えてるみたい!」

「燃えてるだって? どういうことだ。孫策軍が火矢を放っていた様子はなかったのに」

 

 黄巾党軍と実際に交戦していたのは孫策軍だけである。曹操軍、劉備軍、公孫賛軍は実質孫策軍に邪魔をされて城壁にとりつくことすらも出来ずに居たのだ。

 いくら城壁から離れているといえど、夜闇の中で火矢が放たれたのであれば容易に視認出来た筈。趙雲との会話で暫時目を離してはいたものの、それはなかった、と拓実も確信している。

 

「甘寧将軍ー!」

「わあああっ! 周泰将軍ー!」

 

 拓実たちが訳がわからないままに様子を伺っていると、突然に孫策軍がにわかに活気付きだした。

 見れば、何かを持った二人の武将らしき女性が城壁の上から黄巾の兵士を蹴落としている。黄巾の兵士たちは、どういったわけかその女性たちに対して恐れ戦いて逃げ惑うばかりで、碌な抵抗をしようともしない。

 

「こらーっ、思春! 明命! 折角の名を売る機会なんだから、ちゃんと名乗りをあげなさーい!!」

 

 なにやら孫策軍の中央にいた女性武将から、城壁上へと声を投げかけられている。二人の女性は若干戸惑った様子を見せた後、手に持っていた塊を高く空へと掲げた。

 

「張角が首、孫策軍、甘寧が討ち取った!」

「張宝、張梁の首、同じく孫策軍の周泰が討ち取りました!」

 

 彼女らが掲げている、ぽたぽたと何かが滴っている塊。どうやらそれは、胴体から切り離された人間の頭であるようだ。滴っているのは首から流れ出ている血なのだろう。

 火が上がっているため先ほどまでの暗闇よりはマシではあるが、距離があるためはっきりとまでは見えない。拓実は必死で目を凝らしてある程度を見て取ると、小さく息を吐いた。

 

「な、何だとォ! くそっ!」

「ウソ……」

 

 拓実たちの知らぬ間に張角らが討たれていた。その事実に、曹操軍の面々は言葉もない。驚き、そして同じだけ落胆している前方の春蘭。その隣の季衣も呆然と城内から上がる煙を見やるだけだ。

 

「いつの間に……。いったい、何がどうなっているんだ」

 

 その後方では凪などは顔を曇らせては立ち尽くし、城壁の上で名乗りを上げた甘寧と周泰を見上げている。拓実は凪の横で黙りこくり、孫策軍の様子をじっと眺めていた。

 

 おそらくは城内に忍び込んだ甘寧と周泰から注意を逸らす為に、孫策軍はあのような奇妙な行動をしていたのだろう。

 腰が引けた戦い方で敵兵を慢心させ、その隙に蔵や城に火をつけ、生じたその混乱に乗じ敵の首領を討つ。足止めされる後続が動けなくなるのも計算のうちだったのだ。『兵は詭道なり』を見事に実践している。

 甘寧、周泰が行ったそれをこなすには、城内に忍び込める技能、そして暗殺できるだけの武力がなければならない。曹操軍では凪、季衣あたりが候補として挙がるが、こうも鮮やかにはいかないだろう。少なくとも、現時点の曹操軍では取れない戦法である。拓実は正しく状況を把握すると、内心で孫策軍の手際に感服していた。

 

「進め! 進めィ! 興覇のやつに一番首こそ取られたが、敵はまだまだ残っているぞ! 黄蓋隊よ、孫家の力を見せ付けてやれェ!」

「うおおおおおぉぉぉっ!」

「わぁぁぁぁぁ!」

 

 拓実たちが突然のことに動けずにいると、ゆっくりと城門が開かれていく。内部に侵入していた甘寧、周泰らの別働隊によるものか。

 火の手の上がる城内から黄巾の賊徒が逃げ出そうと殺到するそこに、城門前で体制を整えていた孫策軍が喊声を上げながら突撃を開始する。拓実らがこうしている間にも、逃げ惑う黄巾党らは勢いのある孫策軍に一方的に狩られていく。

 

「呆けている場合ではないぞ! 既に張角が討ち取られてしまった以上、せめてより多くの残党を狩らねばならん! 季衣! 凪! 拓実! 指揮官を失ったやつらは烏合の衆だろうが、逃がせば違う土地でまたも略奪を繰り返す! 黄巾の賊どもを逃がすな! 殲滅するぞ!」

「はいっ!」

「承知しました!」

「了解ですっ!」

 

 春蘭の号令の下、気を取り直した三人が兵を率いて、城門から溢れ出そうとしている黄巾党の逃げ道を塞ぐように展開していく。

 孫策軍は城内へと雪崩れ込み、既に戦闘を開始している。公孫賛軍、劉備軍は曹操軍と同じく殲滅の為に陣形を変え、城の周囲には三軍による包囲網が出来上がった。自然と三軍は援護をする形となる。戦場は、孫策軍の独壇場となっていった。

 

 

 

 

 数時間に渡る黄巾党との戦闘は、朝日が昇ろうとする頃に終わりを告げた。頭を失った黄巾党軍は末端から散り散りになり、禄に反撃をすることもなく逃げ惑っていた。四万のほとんどが一方的に斬り殺され、または包囲の隙間を抜けてほうほうの体で逃げ出していった。

 帰還した拓実たちはその足で、報告の為に華琳の天幕を訪れていた。まず先陣を任されたというのに戦果を上げられなかったことを春蘭が陳謝し、それを許した華琳に、続いて凪や拓実が戦果報告をしていく。

 

「つまり拓実は、甘寧と周泰が討ち取った首は張三姉妹のものではなかった、と言うのね?」

「はい。遠目だったのでちゃんとは見えませんでしたけど、たぶんあれ、男の人だったと思うので」

 

 一通りを終えたところで華琳より所感を求められ、拓実は観察していたことを余すことなく伝えていった。

 あの時、甘寧と周泰が掲げていた首はどれも黒髪、そして髭を生やした強面の男だった。それは、市井に噂として広まっている張角らの面体と一致している。しかし華琳たちが把握している張角らは女性であって、また拓実の記憶が正しければ、三姉妹の髪色はそれぞれ桃、水、薄紫と随分と明るい色ばかり。それだけの違いがあれば遠目とはいえ気づくことが出来た。

 

「ボクのとこより、季衣のとこの方が近かったと思うんだけど、そっちからは見えなかった?」

「んー、ボクは春蘭さまについてたから、ちゃんとは見てなかったな。でも、姉ちゃんの言うように、女の人の頭にしてはおっきかったかも」

「……そう。ということは、張三姉妹が本当の首魁であるとするなら、姿を眩ます為に意図的に内部に偽報を流していたと見るべきか。ふふ。三人のうちの誰だかは知らないけれど、多少は頭が回るようね。となれば、まだ近辺の州に潜伏している可能性もありそうだわ」

 

 困ったような顔で話し始める季衣が自信なく答えていたが、華琳は拓実や季衣の証言の確度は高いと判断したらしい。広げられた地図にいくつかの経路を探している。目線は現在地点から東にやり、今度は黙り込んだ。どうやら次点で北方を疑っているようである。

 

「ですが華琳さま。このままでは、黄巾党を討ち倒したのは孫策ということになってしまいますが」

「ええ、そうでしょうね」

 

 春蘭の言葉を受けて、顔を上げた華琳は何を当然のことを、とでも言うように返した。

 

「十中八九、孫策らが討ち取った張角らは偽者でしょう。けれども、確たる論拠があって言及するのでなければ、周囲からは手柄を立てられなかった故の負け犬の遠吠えとしか取られない。張三姉妹が変わらず存命していれば、そう遠くないうちに似た反乱が起こるのは想像に難くない。であるなら、我らは一時得られるだろう名を捨てて(じつ)を取るとしましょう」

 

 正しい情報を示したところで信じてもらえなければ意味がない。よしんば上手くいったとしても周辺諸侯は張三姉妹の討伐の為に動き出すことだろう。

 それは、張三姉妹の身柄の捕獲を考えている華琳にとっては好ましい状況ではない。つまり、ある意味では華琳の悪癖ともいえる、人材収集癖が疼いてしまっているのである。こうなっては拓実たちが何を言っても華琳は止まらない。とはいえ張三姉妹の曲を口ずさむぐらいには気に入っていた拓実にしても、殺さず捕らえるというのは歓迎するところではあるのだった。

 

「とりあえず、張三姉妹の行方については、陳留へと戻ってからにしましょう。兵に休息を取らせたら、あなたたちも少し休んでおきなさい」

 

 そうして日が真上に上ってから帰還することを三人に通達して、華琳は今回の討伐を締めくくった。

 

 

 

「おお、こちらにおられましたか」

 

 華琳の天幕から辞して、春蘭、季衣、凪、拓実の四人が各々の天幕へと戻る途中、声がかけられた。うち、春蘭が真っ先に顔をそちらへとやって声を発した人物を視界に収めると、眉を寄せて少しばかり考える素振りを見せる。

 

「んん? 貴様は公孫賛の軍にいた、趙雲だったか?」

「いかにも。猛将として高名な夏侯惇殿に名を覚えていただいているとは光栄ですな」

「関羽や張飛と並んで、ああも賊らを食い散らかしていれば嫌でも目に付く。その槍術の冴えにしても、そう見れるものでもなかったからな」

 

 いやお恥ずかしい、そう言って趙雲は相好を崩した。言葉こそ謙遜しているが、その表情から自身の槍に誇りを持っているらしいことがわかる。しかし相変わらず、立ち振る舞いには隙がない。

 

「それで、その趙雲がこんな時間に何用だ?」

「いやいや、そう大したことではありません。事前に話していたように、そちらの楽進殿と許定殿に少しばかりお時間をいただこうかと思いましてな」

「何だと? よもや、引き抜きの類ではあるまいな」

「はっはっは、むしろその逆。まぁ、隠す類の話でもなし。夏侯惇殿さえよろしければお話致しましょう」

 

 問い詰めるような春蘭の言葉に、趙雲は笑みを以って返す。春蘭の放つ威圧を意に介さず、飄々とした様子を崩していない。

 

「私は伯珪殿――公孫賛殿の下で客将として禄を()んでおりましたが、実は今回の遠征を最後に諸国を見て回ろうと考えておりましてな。その道中、我が槍を預けるに足る御仁がおられましたら、あわよくば将として末席に加えていただこうかと。出来ることならば今回の張角らをこの槍【龍牙】で討ち取り名を売り込もうかと画策しておったのですが、いやはや『穴の(むじな)を値段する』とはこのこと」

 

 趙雲は手の槍を掲げてみせた。言葉の割には、張角を討ち取れなかったことに悔しがっている素振りは見えない。

 

「まぁ、そういった訳で、出来ることならばこれから帰還するそちらの討伐隊に同行し、許可がいただけましたらそのまま曹操殿のお膝元に逗留させていただきたい。路銀の関係もありますので、おそらくは数日のこととなるでしょうが」

「ほう。なるほどな、そういうことか。私などは華琳さまがおられたから唯一無二の主君と仰げているが、その志はわからんでもない。よしわかった。華琳さまに伺いを立ててきてやろう。問題なく許可は下りるだろうが、少しばかり待っていてくれ」

「よろしくお頼み申す」

 

 感じ入った春蘭が言うなり踵を返した。そうして今しがた出てきたばかりの天幕へと足を進めていく。残る四人は、何をするでもなく春蘭の背を見送った。

 

 楽々とした様子の趙雲を、拓実は密かに伺い見ていた。青釭の剣のこともあって、拓実にとって彼女は一番に警戒すべき相手なのかもしれない。

 視線に気づいたか、趙雲は不思議そうに拓実を見返した。幼子を相手するようにその顔には笑みがある。拓実は内心ではその一挙手一投足に注意しながらも、表面上にはそんな素振りの一切を見せず、無邪気にはにかんで返したのだった。

 

 

*1
孫子が言うには、良い将というのはまず相手が付け入る隙を無くすように手を尽くし、そうして相手から付け入るところが現れるのを待ってそれを狙うものである。転じて、勢いに乗って闇雲に動いたりはせず、落ち着いて足元を固めることが肝要であること。


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