影武者華琳様   作:柚子餅

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3.『拓実、曹操に謁見するのこと』(※)

 

「昨日は本当、酷い目にあった……」

 

 宛がわれた部屋の寝台から上半身だけ起こした拓実は、ぼんやりと昨日起こったことをひとつひとつ思い出していた。そうして出てきたのが今の一言であったし、それは見事に全てを言い表してしまっていた。

 何故か荒野に倒れていたことが一つ目の酷い目だった。どうやら自分がいるのが三国時代だというのも現在進行形で遭わされている酷い目である。考えてみれば、いきなり殴られ気絶したのもそうだった。地面を転がった時に打ったのか、今もふとした時に体の節々が痛んでくる。春蘭に恨み言を言うつもりはないけれど、被害にあったことに変わりはない。

 だが、それより男であると伝えたのに、春蘭に押し倒され体を弄られたことこそが理不尽で、これから拓実の恥部になるような『酷い目』だった。しかも男だと確認されて尚、春蘭からは「これからもお前のことは男だとは思わん。華琳さまになりきるのだ」などと命令されてしまった。だったら確かめる必要なんてなかったじゃないか、と喉まで文句が出掛かったものだ。

 

「いいや、落ち込んでいても仕方ない。ええと、今日は曹操様に顔合わせに行くんだったっけ」

 

 言われるまで気がつかなかったが、拓実が寝泊りしていたこの部屋は民家の客室などではなく、城の中の、将官を住まわせる為に用意した一室であるらしい。州牧として陳留を拠点としている華琳、その配下である春蘭と秋蘭もまた華琳の居城に一室を与えられている。昨日の秋蘭からの家事の仕事の話もどうやらこの城を指してのことのようだった。

 当然ここで仕事をする拓実も城内に住んでいた方が都合がいいのだけれども、それには領主である華琳に仕事のことも含めて伺いを立てなければならないということである。昨夜は日も落ちていたので無断で借りたらしいこの空き部屋を使わせてもらったけれども、これからもとはいかないようだ。

 

 華琳の真似をすることも仕事の一貫であるらしく、拓実は昨日のうちに渡された衣装に着替えて華琳と謁見するようにと言われている。問題は、その渡された服が女性用であるということだ。再三のことだが、拓実は男である。

 衣服を広げて見てみれば、インナーは黒を基調としたワンピース状になっていて、肩から二の腕までの部分がなく袖だけが独立して分かれている。コルセットのような形状の金属の鎧と襟元だけが赤紫色に染められていた。女性用にと作られた物であるから当然のようにスカートであり胸部にも余裕があるのだが、胸元が生地で覆われて肌が見えないようになっているのは拓実には果たして良かったのか、悪かったのか。

 春蘭はこれを指して「この格好も勿論華琳さまにお似合いになると思うが、真の華琳さまは決して着てはならんものだ」とわかる人にしかわからない発言をしていた。もちろん拓実には春蘭の発言は理解できない。

 

 拓実なりに葛藤はあったがなんとかそれらを身につけ(勿論胸の部分はすかすかなのでハンカチを何枚か詰めてある)、慣れた手つきで髪をお団子状にまとめ上げると、そこに衣服と一緒に渡された赤紫の髪留めに銀の髑髏の髪飾り、ウィッグを取り付ける。

 最後に身だしなみを整え、全身を姿見に映し見るや拓実は思わず「へぇ」と関心の声を上げていた。

 

「突飛なセンスだと思ってたけど、合わせてみると中々いいデザインなのかも」

 

 全部合わせてみればゴシック系でまとめられていて、ところどころにフリルがちりばめられていて可愛らしさもある。強いて言うなら、これを着ているのが男の拓実でさえなければ言うことはなかった。

 ――ともかく拓実が着ているこの衣服は春蘭が華琳の普段の格好に合わせて買ったものと言うことだから、そっくりであるという華琳は鏡の中の拓実の姿にとても近いのであろう。

 長時間に渡って華琳の武勇伝を聞かされた為に、拓実はおおまかな性格や口調だけではなく、幼少の頃から今に至るまでの半生をも把握させられている。春蘭から聞いた限りでは、行動は大胆ながらも余裕を持ち、佇まいは気高く、振る舞いは自信に溢れ、万能といって良いほど才に恵まれた少女ということである。

 そんな完全無欠の人物が存在していることが驚きなのだが、拓実の興味は別にあった。容姿だけとはいえ瓜二つだという拓実と会って、彼女はいったいどんな反応をするのだろう。姿見に映る少女に、得た情報を重ねていく。拓実は鏡の中で不敵に笑う少女のことを、じっと見つめていた。

 

 

 

 

「なんでもない、ただの朝の挨拶じゃないですか」

「いいから、拓実は華琳さまの口調で話してくれ! そんな笑顔で華琳さまに挨拶されたら、私達はどうすればいいかわからんのだ!」

「拓実。申し訳ないが、私からも頼む」

 

 一日の始まりとなる挨拶なのだからと演技は止め、入室した二人を出来る限りの元気と笑顔で以って出迎えたのだが、どういうわけか拓実は顔を赤くした春蘭に叱られていた。

 演技をしていろと言うが、朝一番からそれをさせられていては気の休まる時もなくなってしまう。拓実が不満げに唇を尖らせていると、秋蘭もが続いてそうしてくれと声をかけてきた。どうやら春蘭の態度に隠れていたが、秋蘭も仏頂面ながら密かにうろたえていたようである。

 

「……仕方がないわね。朝の間ぐらいは私らしくしていたかったのだけど」

 

 二人にお願いされて仕方なく口調を切り替えた拓実は、一つだけため息をつく。

 秋蘭が持参した朝食――何故なのか海苔の巻かれた日本でお馴染みのおにぎりが二つだった――を済ませた後は、拓実は二人に先導されて予定通り華琳の居る謁見の間へと向かうことになった。

 

 

 

 

 

 ほどなくして謁見の間に繋がる扉の前に三人が到着すると、まずは秋蘭が伺いを立てるために入室していった。秋蘭が謁見の許可を取って戻ってくるまでの間、残された春蘭と拓実はそのまま入り口付近で立ち尽くすことになる。

 拓実はそこで、これから華琳と何を話せばいいのか改めて頭の中をさらっていた。出会ってから挨拶に進むまでを頭の中でシミュレートしていって、早い段階で問題が発生することに気がついた。実際に華琳に会う前に、確認しておくべきことがあったのを思い出したのだ。

 

「春蘭。ひとつ訪ねておきたいのだけど」

「はいっ、何なりと……ではない。な、何だ、どうした?」

「私は、この口調のままで孟徳様と謁見して構わないの? 貴女に言われているから崩していないけれど、問題になりはしないかしら」

「む。確かに、ど、どうなのだ? 華琳さまに無礼な口を利くなど許されんが、しかし……むむむ。秋蘭! は、いないっ!? ……そうだ、中に入ってしまった! ちょっとここで待っていろ、今聞いてきてやる!」

 

 ひとしきり一人でうろたえた後、春蘭は謁見の間へ駆け込んでいった。そうしてすぐに「申し訳ありませんっ! 華琳さま!」と情けない声が中から漏れ聞こえてきた。大方走って入っていったことでも注意されたのだろう。

 

 

「すまない。待たせたな」

 

 そのまましばらく拓実が手持ち無沙汰にしていると、中から出てきたのは春蘭ではなく妹の秋蘭だった。どうやら、途中で入室した春蘭は中にいるままのようだ。

 

「口調や態度についてだが、華琳さまは『好きにせよ、無礼を許す』と仰られていた。拓実には思うまま、可能な限り真似てもらって構わない」

「……そう。ならば孟徳様などと呼ぶのもやめて、まるっきり本人であるようにした方がいいのかしらね?」

「その方が華琳様も喜ぶかもしれま、……しれん」

 

 秋蘭が言い違えたことで気がついたが、彼女も稀に拓実に対する言葉遣いが恭しいものに変わっている。思い返してみれば、昨夜にも似た言い回しをしていたことがあった。拓実はてっきり、春蘭が思い込みの激しい性格である為に取り乱していたものと考えていたのだが、落ち着き払っている秋蘭もとなると、今の格好の拓実はちょっとしたそっくりさん程度ではないようである。

 そんなにも華琳という少女に拓実は似ているというのだろうか。いまだ実物を見ていない拓実はどれほどのものかを知らない。こうも勘違いされていると、本人と会うのが楽しみになってくる。

 

「ねぇ、秋蘭。孟徳殿には私のことを、どのように伝えたのかしら?」

「実際にお会いしてもらった方が話が早いと思ってな。華琳様に仕えたい者がいるということ、その者が華琳様の益になるかもしれないとだけお伝えしてある」

 

 それを聞いた途端、拓実は身震いしていた。遅れて、自身の異常に気がつく。ばくんばくんと心臓が大きく強く打っている。

 この緊張感には覚えがある。己の内から湧き上がってくる衝動を受けて、深く瞑目した。

 

 ――――好きにせよ、無礼を許す。可能な限り真似てもらって構わない。

 

 拓実の中で、役者魂とも呼べるものが猛っていた。挑戦されている。試されているのだと。これから向かう先は、舞台の上であり、そして、そこは勝負の場であるのだと。そう訴えかけている。

 思い込む。春蘭から聞いた英雄譚は、己が為したものであると。そこで語られた姿こそが己自身であるのだと。この存在こそが紛れもなく曹孟徳であり、しばらく南雲拓実という人間はこの体から消え失せる。拓実は自身に強く暗示をかけて、まだ見ぬ人物に成りきっていく。

 

「ふふ……、なるほどね。そういうことであれば、孟徳殿に世にも珍しい己の姿を見せてやりましょう。秋蘭、あなたは後からついてきなさい」

「はっ!」

 

 秋蘭は咄嗟に華琳を相手にするよう返事をしてしまったことに驚いたようだった。口元を手で押さえ、拓実を凝視している。その間にも拓実は、さらに別人へと切り替わっていく。

 華琳にあって、拓実にはなかったもの。今までどれだけ上手く演技をしていても秋蘭たちが感じることがなかった、相対するだけで平伏したくなるような王者の気質――『覇気』を、拓実は発し始めていた。

 

 

 

 

 

「失礼します、華琳さまっ!」

 

 今朝方に秋蘭より新しく雇用したい人物がいるとの申し入れがあり、詳しい話を聞き始めたところで春蘭が堰を切って駆け込んできた。

 形だけの入室の言葉といい、その慌しい様子といい、華琳の描いている臣下像からかけ離れた振る舞いである。本気で怒りが湧いたわけではなかったが、躾けておく必要はあった。

 

「春蘭、はしたないわよ。あなたがそのような振る舞いをすれば、臣下にどのような教育を授けていたのかと主である私の品格が疑われることになるわ。もしや、お仕置きされたいのかしら?」

「う、うむ。だが、そんな場合じゃない、……い? って、ちちち、違う。コレは拓実ではなく華琳さまではないか!」

「『そんな場合じゃない』? その上、この曹孟徳を指して『コレ』ですって? ……ふふ。春蘭、あなた本気で躾け直さねばならないようね」

 

 まさか信頼している臣下からコレ呼ばわりされるとは思わずに、一拍の間華琳の時が止まった。すぐに平静を取り戻すも、華琳は消しきれない怒りで笑みが浮かんでしまっていることを自覚する。

 

「も、申し訳ありません! 華琳さま!」

 

 すかさず跪いては地に伏して謝罪の言葉を上げる春蘭だが、華琳はそんなことで許す気など毛頭ない。春蘭は粗忽者ではあったが、公私の区分ぐらいは出来ているものと思っていたのだ。今の発言は流石に聞き捨てがならない。そこで春蘭を弁護するように頭を下げたのは秋蘭である。

 

「華琳様、恐れながら申し上げます」

「秋蘭。悪いけれど、早急にあなたの姉を教育し直さねばならなくなってしまったわ。雇用の話はその後にしてもらえるかしら」

 

 待たせるのは礼を欠く行為だが、幕下に入れるかどうかわからない者より部下の不始末を正す方が優先される。何故今更になってそのような返答を、幼少の頃より仕えている春蘭がしたのかも疑問であった。そこに理由があるのであれば何としても聞き出し、理由がないのであれば二度目がないよう厳正に罰してやらねばなるまい。

 

「いえ、姉者がそのような無作法をしたのには、その希望者が関わっておりますので……」

「どういうことかしら?」

「その者は旅をしていた大陸外の者なのですが、姉者がその者を気に入りましてこうして口利きに参った次第です。当初は小間使いに、と考えましたが、他ならぬ華琳様であればより有用にお使いできるかもしれません。姉者が無作法をした理由については言の葉で説明するよりも実際に華琳様の目で確かめて頂いた方がご理解も早いかと存じます」

「……そう。では秋蘭に免じて、春蘭への仕置きはその者に会って決めるとしましょうか」

 

 華琳は考える。春蘭が気に入ったということは、その者は武を尊ぶ者だろうか。彼女が気に入る相手となると、弁が回る者――文官は毛嫌いしている為に除外されてしまう。

 しかし、それでは当初小間使いに考えていたという秋蘭の話と繋がってこない。では、大陸外の者という線が関係しているのだろうか。納得のいく答えは出てこないので、一旦置いておくこととした。

 

「それで春蘭、慌てて駆け込んでくるに足る危急の用があったのでしょう? 言って御覧なさい」

「は、はっ! その拓実……あの、雇う予定の者からなのですが、華琳さまに謁見するのに言葉遣いを改めるべきか、と言ってまして。いや、その言葉遣いや振る舞いは私がさせているのですが、華琳さまに会わせるのにはどうすればいいのか私ではわからなかったので、秋蘭に意見を聞いてみよう、と」

「ふぅん……。どのような言葉遣いや立ち振る舞いなのかは知らないけれど、察するに改めさせると面白味がなくなる類のものなのでしょう? それにどうやら春蘭だけではなく、秋蘭もその者を気に入っているのでしょうし」

「……恐れながら」

 

 薄々気づいていたが、華琳の言葉にも秋蘭は否定せず頭を下げるばかりだ。秋蘭は、華琳の身を案じて刺客の疑いが少しでもある者を近づけさせたりはしない。その彼女が気に入るとなれば、春蘭のように表裏のない人間だろう。

 しかし、武官でなく文官でもなく、だというのに有用に使えるかもしれない者というのだから、流石の華琳もどんな人物であるのかまったく想像がつかない。

 

「ならば、この私が直々に許すわ。秋蘭、伝えなさい。その者にさせている言葉遣い、態度のままで、私に会うようにと」

「御意に」

 

 そうして秋蘭は一つ礼をして、入り口へと向かっていく。それを眺めながら、華琳は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

 華琳の一の忠臣ともいえる春蘭、秋蘭の両名に気に入られるというだけで、まずその者は只者ではないだろう。そんな者が麾下(きか)にと申し出ているのだ。面白い。どうしても期待が高まる。

 

「春蘭、もういいわ。立ちなさい」

「は、はいっ」

 

 華琳の期待以上の才人であるなら、その者を推挙したという春蘭のことを責める気はない。先の無作法だって全て水に流してやってもいい。その人物が華琳の眼鏡に適うものであれば、だが。

 

「――――なっ!?」

 

 笑みを浮かべて春蘭を見ていた華琳は、それを知覚した瞬間に身構えていた。右の手は、帯刀してもいないのに腰の物を探している。

 華琳が受け取ったのは、敵意ではない。肌に感じたのは感覚的な重圧、全ての者を跪かせようとしている威圧であった。それを放つ者は、明らかに華琳に狙いを定めて叩きつけているのである。

 

「これは」

 

 他ならぬ華琳は感じ取っていた。この気配の持ち主は、王者としての役割を授かり、この世に生れ落ちてきた意味を理解して生きている。華琳と同じ天命を持つ者だ。そうでなくては、この気質に説明がつかない。

 華琳は過去そういった意志を持つ幾人を見ている。綻びを見せる王朝に対し、己の力を頼りにして野望を抱える者たちは皆似通った気配があった。だがしかし、同種の意志でここまでの強さを持つ者など、華琳は己以外には知らない。

 同時に不可解にも思える。王を目指す者が自ら他人の下につくのでは、道理が通らない。この気質を持つ人間が、他の人間の傘下でおとなしくしている筈がない。一時的に降ろうとも、あらゆる手で成り上がり、自身の力で覇を唱える筈。

 横目で見れば、隣に立つ春蘭が息を呑んでいた。予想外だったのか、顔に驚愕を貼り付けている。華琳はその様子から、春蘭がその人物の根底を見通せていなかったことを知った。一目見ればわかるであろうこのような大器を、春蘭が量り違えたのか。

 

 その者は秋蘭に促されて入ってくるのではなく、秋蘭を連れて入ってきた。これから華琳の下につくというその者は(かしこ)まらず、(おそ)れず、けれど無礼にはならない立ち振る舞いで悠然と歩いてくる。

 雰囲気でわかる。相手は笑みを浮かべている。常人ならば間違いなく気後れするだろうこの曹孟徳を前にして、愉しげに笑っている。

 

「へぇ。道理で、春蘭や秋蘭が私を見違えたわけね」

 

 向かいから届いた声に、華琳は自身の耳を疑った。その呟きの質は、あまりに若い女の声である。いや、聞き違いでなければ、常日頃からよく耳にしている声だった。

 そして程なくして華琳は視認する。自身と同じ意志を持ち、自身と同じ声を持ち、自身と同じ者の姿を。

 

「そんな……まさか」

 

 華琳は、彼女にしては珍しく狼狽の声を上げた。目の前の人物が明らかな異常であるというのに、華琳は何の対策も取らずただ呆然と、歩いてくるその者を見つめ続けていた。

 そうしているうちに目の前まで歩み寄った人物は、見詰め合っている華琳に向かって笑みを深めてから恭しく膝を突く。だが、頭を下げたその者から謙遜や敬服するといった華琳を上に見る意思は感じられない。現状、州牧である華琳の方が地位が高いという理由でそうしているに過ぎない。華琳にはそんな相手の思考が透けて見えていた。

 侮られているとして、普段であれば激昂しているところである。その後の相手の対応次第によっては首を刎ねていただろう。しかしこの者が、華琳を軽く見ている訳ではないことも理解してしまっていた。この相手は『華琳を侮っている』のではなく『華琳と対等である』として振舞っているだけである。そして、華琳の目の前に跪いた人物はそうするに足るだけの風格を備えていた。

 

「お会いできて光栄よ、孟徳殿。姓は南雲、名は拓実。此度は貴女の覇業の一助となるべく、秋蘭の勧めで参らせていただいたわ」

 

 華琳の前で跪き、話し、動く者は纏った衣服の細部こそ違えど、まるで鏡に映したような姿。

 そう。華琳が今相対している相手は、他ならぬ自身の写し身であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 どういうことだ――春蘭は奇しくも、同じ瞬間に主君と同じ事を思っていた。同時に目の前の光景を見て、信じられない、といった感想しか出てこない。

 

 初めて拓実に会った時、春蘭をして見間違えるほどに似た人物が存在する筈がないということから他人であるという選択肢は春蘭に与えられなかった。昨夜に演技をさせた際には、その姿にふさわしい声が揃ったことにより体が勝手に誤認してしまっていた。そうして今朝は、着せたその服装もあったが、気を外にやっていた時に話しかけられたものだから咄嗟に対応を誤った。

 違う人物であると認識してからは条件反射はともかくとして、春蘭は本質的な意味では拓実と華琳を見違えることはなかったのだ。それが今、春蘭の中で少しだけ崩れかかっている。

 

 拓実が演技を始めた時に春蘭が言っていたように、今までの拓実には気品こそあれ王としての気迫というものが一切たりとも存在していなかった。

 確かに表面上であるところは春蘭が教えたとおりの華琳であった。それだけでも見事な演技であるし、あの秋蘭ですら慌てていたものだ。言葉のみの情報でそこまで似せてしまえる拓実は演技という分野において、非凡のものを持ち合わせているのだろう。

 しかし今の拓実はそれまでの演技からは一線を画してしまっている。姿形、そして振る舞いだけではなく、正しく内面までも華琳になりきっていた。

 

 声や表情、雰囲気からの全てが華琳と紙一重のところにまで迫っている。だが、紙一重までだ。春蘭にはわかる。項目にして挙げることは出来ないが、確かに違った。春蘭だからこそ、対面している二人の華琳の違いを認識することが出来た。拓実は今相対している華琳を表現しているのではなく、春蘭を介して伝えられた『春蘭の描いている華琳像』を再現しているのだ。

 華琳とは別人である。だがそれでも拓実の放っている雰囲気や、ぴりぴりと肌に伝えてくる風格は華琳と同質であり同等。

 覇道を歩まんとするその意志は、華琳をして気圧されるほどに本物であった。

 

 

 

 

 

 動かない。拓実を見下ろす華琳も、側で華琳に控える春蘭も、跪く拓実も、拓実に控えるようにして立っている秋蘭も。その中で唯一余裕の笑みを浮かべているのは、拓実だけである。

 

「南雲、拓実といったわね」

 

 長い沈黙を破って口を開いたのは華琳であった。その華琳にしてもまだ全ての動揺は鎮まりきってはいない。当たり前の理屈ではあるが、目の前に存在しているのが己自身ではないと認識できただけだ。

 

「ええ。相違ないわ」

「貴女の目的は我が覇道を支えることではなく、自身が覇道を歩むことではないのかしら」

 

 華琳には、問わなくともその返答が如何なるものかはわかっていた。少しずつ余裕を取り戻している華琳が、目の前の存在を僅かなり知る為に様子見したものに過ぎない。だが華琳の予想に反して、拓実はしばし逡巡するような素振りで瞑目している。

 

「……そうね。私が貴女の立場にいたなら、貴女がしているようにそうしたでしょうね」

「そう」

 

 若干の間の後返ってきた答えに、華琳はやはり自身の直感が鈍っていないことを知った。そしてその直感に従うならば、とうに答えは決まっている。

 

「春蘭、秋蘭。貴女たち二人はこの者を、私に使えと言うのね」

 

 響く、華琳の声。しかしその問いに対して春蘭と秋蘭から言葉はない。いや、返すことが出来ずにいる。今、この変貌した拓実を目の前にして、本当に志を同じくしていいものかという疑問が二人の中には浮かんでしまっていた。

 秋蘭が、華琳と顔合わせしても問題ないと踏んだのは、拓実に王としての内面がまったく感じられなかったからだ。姿や声が似ているだけならば華琳もこうして身構えることなく、面白がって即決で招き入れたことだろう。秋蘭もそれを予想して、この場を用意したのだ。

 だがしかし、今の拓実はこれまでこそが偽りだったのではないかと思えるほどに華琳に――真に迫ったものあった。春蘭、秋蘭共に、ここにきて、どちらが本来の拓実であったのか確信が持てなくなってしまっていたのだ。

 

「はっきりと言いましょうか。貴女たち二人の推挙であろうと、私がこの者を配下に加えるなんてことは、ありえないわ」

 

 春蘭も秋蘭も、言葉を忘れたように発することが出来ずにいる。構わず、華琳は言葉を紡いでいく。

 

「確かに、こうまで私に似ているならば、秋蘭の言うように様々な使い道があるのは理解できる。それこそ場面によっては千や万の兵よりも価値あるものかもしれない。志も、私と違わぬものを持っているのは言葉にせずとも感じることができた。それを為し得るだけの気概が備わっているだろう事も」

 

 華琳は背を向けて歩き出し、玉座の横に掛けられた自身の愛鎌――【絶】に手を掛ける。置かれていた台座の揺れる音が、謁見の間に妙に大きく響いた。

 

「けれども、この者は私に似過ぎている。この大陸は、世は、覇王を二人も必要とはしていない」

 

 背中越しに、華琳は跪いている拓実を視線で射抜く。華琳がどのような決断に至ったのか、とっくに理解していることだろう。しかし拓実は笑みを湛えたまま、華琳の挙動を眺めたまま動かない。

 

「我が陣営に迎え入れれば、必ずやこの者は自身の覇道を歩み始め、我らを二つに分かつことになる。しかしこのまま野に放てば、いずれこの者は我が覇道を阻む強大な敵として、我らの前に立ち塞がることになる」

「……孟徳殿ではこの私を従えることは出来ない、そういうことでいいのかしら?」

 

 得物を手にゆっくり歩み寄ってくる華琳に、拓実は動じた様子もなく質問を投げかけている。それを受けて、華琳は一瞬だけ足を止めた。そして、すぐにまた歩みを進める。

 

「ええ、そうね。認めましょう。私では、貴女を従わせることは出来ない。逆の立場で貴女が私を従わせることが出来ないように、不可能なことよ。もっとも、私だけではないでしょう。その上に立つのが誰であろうとも、従わせようとした者の腹を食い破ることには変わりはないのだから」

 

 跪いたままの拓実の前に歩み寄った華琳は、その手に持った鎌を振りかぶる。

 対して拓実は、ここにきても動こうとはしない。命乞いも、弁明も、服従も、反発も、どれも声にして出すことなく、振りかぶる華琳をただ見つめ続けていた。

 

「誇りなさい。この私にここまでのことを思わせたのは、貴女が最初で最後となるでしょう。そして詫びましょう。私は、必ずや来るとわかっているその禍根の芽を、類稀なる王の器ごと今絶たねばならないのだから」

 

 拓実の不動の態度にも、華琳の瞳は揺るがない。本気の色だけが煌いていた。

 そして鎌は振り下ろされる。

 

 

「……ふっ」

 

 鈍く耳に障る金属音が謁見の間に響いた。首を刎ねんと振るわれた鎌の刃は、拓実の首横で止まられていた。

 止まった鎌を、額に僅かの汗を浮かばせて見るのは拓実。そして、それを信じられないような顔で見ているのは、他ならぬ華琳であった。

 

「――春蘭。貴女のその行動は私の下を離れ、その者の下につく意思表示と見なしていいのかしら」

 

 冷ややかな、凍りつくような視線を向けた先には、鎌と拓実との間で自身の誇りとも言える大剣を構えた春蘭の姿があった。顔面を真っ青にしながら、鎌の刃を完全にその大剣で防ぎきっている。

 

「い、いえっ! この私は、華琳さまの剣です! しかしながら、華琳さま。この拓実は、私が無理やりに旅をしているところを連れてきた者です。ので、その。この拓実には何ら責はなく……」

「私の臣下であるというならばそこをどきなさい、春蘭! 最早、この者に責があるかどうかなどという小さな観点での話はしていないの。この曹孟徳がこの者自身を危険と判断し、排すと決めた。その決定に貴女は関係ない!」

「しかし、それではあまりにも……。拓実、お前も早く華琳さまに謝れ! 今謝らねば、首を刎ねられるのだぞ!」

 

 あと一押しで絶縁を突きつけられるというのに春蘭は尚も食い下がり、必死に華琳に拓実の助命を懇願する。

 そうして、横で跪いた状態で顔を上げていた拓実の後頭部をむんずと掴み、無理やりに地面と元の位置とを往復させ始めた。

 

「は、離しなさい春蘭! 何をするの!」

 

 それに慌てたのは拓実だ。相手は馬鹿力で自身の頭部を掴んでいて、必死に抗おうとするも拓実の首の筋肉では対抗すらできていない。

 

「春蘭、その者が無礼を働いたと言う話でもないと……」

 

 決して慌てふためく様子を見せなかった拓実が上げた声と、春蘭のその場違いな行為に、気勢を削がれたのは華琳だった。目の前で自身と同じ姿をしたものが、自身の臣下に頭を掴まれて無理やり下げさせられている。それは、視覚的にあまりに衝撃的なものだった。

 そうして、ふと華琳は変なものを見つけた。見れば床に広がる、光を反射する金の糸の塊だ。

 

「髪?」

 

 床に、見事にカールした艶のある金の髪の毛の束が二つ、落ちていた。位置は拓実がぺこぺこと頭を下げさせられている場所の真下。まるで、拓実の髪の毛が『取れてしまった』かのような……。

 

「あ、姉者! 拓実の付け毛が取れてしまっているぞっ!」

「そんな場合ではないだろう、秋蘭! 何としても拓実のことを華琳さまに許していただかなければ!」

「……つけ、げ?」

 

 当然のように髪の毛が取れたことを話している姉妹に、流石の華琳も理解が追いつかない。その落ちた髪の束を眺めることしか出来ずにいる。

 

「ウィッグが取れているですって? ……って、うわわわ!? そ、曹孟徳様、この鎌を引いてください! 危ない! それに色々と冷たい! ひっ、ちょっと切れて血が出てる!」

 

 華琳がしばし呆然としていると、次なる変化が起こっていた。まずは聞き慣れた声色で、ありえない言葉の連続。己の首を落とそうとする鎌に対しても冷や汗を浮かべる程度という豪胆さを見せた目の前の人物が、今はただ突きつけられているだけだというのに涙を溜め、死んでしまいそうなほどに顔を真っ青にしているのだ。

 そして空気。拓実からはもう威圧も何も感じない。ただの凡庸な一般人のような気配しか残っていなかった。互いを下さんとして侵食し合っていた空気が、いつの間にか一方がしぼんで消えて、元の華琳が支配する空間に戻っていたのだ。

 

「ほれ謝れ、地面に額をこすりつけて謝るんだ、拓実!」

「ごめんなさい! 何だかわからないけど、許してください!」

 

 春蘭の手を借りずに自身からぺこぺこと謝る、髪を両脇で小さな団子にしてる自身と同じ姿の者を見て、華琳には悩みが生まれていた。

 これはどう収めたものなのか、そんな判断に迫られていたのだ。

 

 

 


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