影武者華琳様   作:柚子餅

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32.『拓実、試験を終えるのこと』

 

 秋蘭は、今まさに流琉の手で取り分けられようとしているその料理を酷く真剣に見つめている。ある意味、戦場において敵を弓矢で射抜くその時よりも張り詰めていた。

 会食はもう始まっているというのに、他の者たちもまた口も開かずに流琉と主君である華琳の様子を眺めている。

 

「あのぅ、華琳さま……このお料理は豆板醤が結構入っちゃってますけど、本当にいいんですか?」

 

 流琉が取り皿を左手に、しかし思い直したかレンゲを握る右の手を止めて恐る恐る声を上げている。注視していた秋蘭からしても、やはりその料理は他に比べて随分と赤みが目立っているように見えた。

 

「大丈夫よ。このぐらいであれば、問題なく味を楽しめる範疇でしょう?」

「う……。その、はい……」

 

 華琳に何事もなく言葉を返されるも今回ばかりは胸中の不安を拭い切る事はできなかったようで、取り分けを再開した流琉の顔は依然に優れない。

 その流琉の反応にも特に気にした様子を見せない華琳は視線を逸らし、ちらりと離れたところに座って俯き黙したままの拓実と桂花を見やっている。どういう思惑のものか、僅かにその口端が吊り上げられた。

 

「華琳様。そうは仰られますが、以前にお口に合わず下げさせた料理はこれよりも、その……辛味が少なかったかと」

 

 傍から見ていた秋蘭も居ても立っても居られずに、流琉の言葉に同意を示した。秋蘭や流琉がこうまで渋っているのも、無闇に主君の機嫌を損ねたくないが故だ。

 

 華琳は、辛いものを苦手としている。口でこそ料理に辛味の必要性を認めないという体裁をとっているが、つきあいの長い秋蘭に春蘭、そして時折料理人を任されている流琉はただただ華琳が辛いものが食べられないということを知っている。

 どんなに旨いとされても、辛味が含まれる料理であれば華琳はまったくと言っていいほど口にしない。(らつ)味であろうと()味であろうと辛いもの全般が駄目である。

 その華琳が、食事が始まってすぐに上座から最も離れた位置にある辛味のある料理に目をつけ、流琉に取り分けるよう命じた。どんな心変わりかわからないが、秋蘭らからすればそれこそ驚天動地の出来事と言ってもいい。

 

「いいのよ、これもいい機会だもの。確かに、私は辛味を得意としてはいない。けれど苦手だからと避けていては、いつになっても克服なんて出来はしないでしょう。ああ、もう取り分けている季衣以外も特別に辛いものでもなければ平気だったわね。あなたたちも食べて御覧なさい。秋蘭、皆の分も取り分けてあげて」

「……御意」

 

 しかし、不得手をそのままにしておけない華琳にしてみれば、その物言いも確かに尤もか。いや、この向上心に溢れた発言を聞いた後では、今まで克服しようとしなかったことにこそ疑問を覚える。

 華琳に言われるがまま秋蘭が大皿から取り皿へと人数分を移し変え、各々の前へと皿を置いていく。そうして秋蘭が取りよそって、改めて再確認したことがある。この料理はいささか赤すぎる。激辛好きの凪が喜びそうだ。度を越えた激辛でもなければ関係なく食べて見せる季衣でさえ、そのあまりの赤さを目の当たりにして戸惑う様子を見せている。

 

「全員に行き渡ったわね。それではいただいてみましょう」

 

 周囲を見回して一言言うなり、率先して華琳がレンゲで料理をすくい――そのまま躊躇なく口に運んだ。咀嚼する華琳を、料理に手もつけず固唾を呑んで春蘭や秋蘭、流琉が見守っている。季衣はいつものように目の前の料理に手を伸ばそうとしているが、荀攸に扮している拓実は密かに華琳を覗き見てはこれより起こるだろうことに顔から色を失くしているし、その横ではおろおろと桂花が視線を惑わせていた。

 そんな異様な空気だからか、瞬間、華琳が口を動かす以外に音がなくなってしまう。

 

「秋蘭。水を」

「はっ、こちらに」

 

 静かに口内のものを飲み込んだ後、言葉少なに華琳が伸ばした手に秋蘭がすかさず用意しておいた杯を手渡す。華琳は眉根を寄せたまま水を口に含み、飲み下してから口元を手巾で拭った。

 華琳がなんらかで誤って辛いものを口にしてしまった時はこういった反応をした後、決まって機嫌を損ねた様子を隠そうともせずに料理を下げさせる。それがあまりに辛味が強い料理だとその場で料理人を呼んでは叱責までしている。

 

「……(えび)の下拵えは完璧。具材の大きさも、火加減も適当だわ。ただ、豆板醤の分量が多いようね。もう少し抑えて、つなぎにしている出汁を増やした方が素材の味が活きるのではないかしら」

「はい、申し訳ありません。気をつけます」

 

 調理法まで当ててみせるほどの正確な舌を持つ華琳の発言でも、辛い料理を食べた時ばかりは少々的外れになる。この料理にしても華琳本人がわざわざ城下まで足を運ぶ程に認めている流琉が作ったもの。他の者が食べたなら辛味はあれど許容範囲とする味付けなのだろう。

 やはり、口に合わなかったに違いない、秋蘭は華琳の手元の料理を下げるために僅かに椅子を引き、腰を浮かす。しかし続く発言を聞いて、秋蘭は驚きのあまり、上げかけた腰をそのまま下ろすことになった。

 

「まぁ、けれど今回のもまったく食べられないというほどの料理ではないわ。今後も集まる際にはこういった料理を一品、取り分けるようにお願いするとしましょうか」

「あ……は、はいっ! 次もがんばりますっ!」

「おお……! 華琳様!」

「華琳さま……ついにっ!」

 

 そうは言いつつも未だ辛さに顔をしかめている華琳に対し、賛辞をもらった流琉は元より、秋蘭と春蘭の二人は感激した様子を隠さずに瞳を輝かせている。いや、姉の春蘭は既に落涙までしていた。幼少の頃からの長年の弱点が、今こうして二人の目の前で克服されたのだ。辛いものが苦手という数少ない弱点も華琳の可愛らしさの一つではあったが、それを克服してしまえばまさに完全無欠の主君である。

 こうしている間にもまたちびちびと少量を口に運んでは過剰なほど水を飲むといった、珍しくお茶目な様子を見せている華琳だったが、二人の目にはその姿にさえ後光が差しているように見えている。

 

「あの。華琳様、大丈夫でしょうか……」

 

 そんな最中、隣に座っている秋蘭でさえ聞き逃しそうな声量で桂花が苦悩ににじんだ声を上げていた。

 何事かと秋蘭が見れば、華琳を気遣う言葉を吐いておきながら桂花の視線はちらちらと隣の、口をつぐんだままの拓実へと向けている。その拓実は伺うようにしている桂花には反応せず、じっと目の前に置かれた料理を見つめ続けている。嬉しそうにしている季衣や、感激している春蘭らとは空気に明らかな温度差があり、気がつけば二人だけが明らかに浮いた様子である。

 

「ふふ、桂花にそうまでして気をかけられるほどのことを成し遂げたわけじゃないわ」

「え? あ……」

 

 囁きのようなか細い桂花の声を、華琳はしっかりと聞き届けていたらしい。桂花本人も聞こえるとは思っていなかったのか、一瞬息を呑む。そうして愉悦を隠し切れないと言った様子でにっこりと笑顔を浮かべる華琳に見据えられ、桂花はわたわたと忙しなく視線を彷徨わせている。

 

「多少の辛味はあれど、こうして味わってみれば中々に趣のある味わいかもしれないわね。皆も、私の前だからといって遠慮をする必要はないわよ」

「うむ! 拓実、華琳さまの仰られたとおり中々いけるぞ。色が赤いから相当に辛いかと思っていたがそうでもないな。また食べたくなるような、不思議に後引く辛味だ。お前も食べてみろ」

 

 にっこりと笑みを浮かべる華琳に、最早何の憂いもないといった様子で料理を口に運んでいる春蘭が追随する。秋蘭も促されるままに一口食べてみれば、確かに春蘭の言うとおり不思議な味だった。

 記憶が正しければ『乾燒蝦仁』という料理だった筈だが、いくらか独自に手を加えてある。葱と剥いた蝦を豆板醤で炒めてあり、ほどよい辛味と酸味、歯ごたえのよい蝦が後を引く。おそらく隠し味に番茄(トマト)醤が加えられているため赤味が強いのだろう。色合いに騙されたが、辛味はそれほど強くない。

 なるほど本来の乾燒蝦仁とはまた違った味わいではあるが、美味い。流琉と同じく料理の腕を華琳に認められている秋蘭は、食べなれぬ味に戸惑いつつもそう分析する。

 

「この馬鹿春蘭っ! 余計なことばっかり言ってるんじゃないわよ!」

「な、なんだとぉ! これと似た料理をこの前に拓実がうまそうに食べてたのを見たぞ! どこが余計なことなんだ!」

「だからそれが余計なこと……っ! そ、そんなの、あんたの存在に決まってるでしょ! わかりきったこと言わせないでよ、恥ずかしい」

「貴様! 少しばかり私が下手に出ていれば好き放題に……!」

「はん。あんたがいつ下手に出たっていうの。言って御覧なさいよ」

 

 もしも華琳がこの味を気に入ったというのなら再現できるようになっておかなければ、などと秋蘭が後で調理法を流琉に尋ねることを決めている間に、最早恒例となっている桂花と春蘭の口喧嘩が始まっている。二人のやり取り自体はいつものことではあるが、今回は珍しく桂花から食って掛かったようだ。

 こういった場合に調停役となるのは華琳を除けば秋蘭か荀攸ぐらいしかいないのだが、荀攸は性格上、二人を無理やりに黙らせることもあれば火に油をぶち込んでさらに炎上させることもある。どうやら今回は拓実に動くつもりはないようだが、華琳が同席していることを考えれば事態を悪化させてくれないだけで秋蘭としては助かっている。

 

「姉者。そこまでに……」

「桂花、春蘭。場を弁えなさい。これ以上言い争いをするつもりならば、外で存分にやって頂戴。あなたたちの所為で、せっかくの食事の味が損なわれているわ」

「も、申し訳ございませんでした、華琳さま!」

「はっ、はい。申し訳ございません」

 

 さて、どうして二人の矛を収めさせたものかと秋蘭が口を開いたところで、先んじて華琳が二人を黙らせた。

 いつもの華琳であればもうしばらくは笑みを浮かべながら二人の様子を静観しているところである。虫の居所が悪いのかと思えば、しかし別段、機嫌が悪いと言うわけでもなさそうだ。ところどころでいつもとは僅かに違う反応を見せるのはいったいどうしたのかと秋蘭が見れば、華琳は頭を下げる二人に構わず、忙しなく手を動かして料理を口へと詰め込んでいる季衣に視線を向けている。

 

「この料理は、季衣でも食べられる味付けだったかしら」

「はい! ボクや流琉でも食べれるくらいの辛さだし、タレもおいしいし。あんまり食べたことない味だったけど、ボクはこの料理好きです」

「そう。どうやら、秋蘭も気に入ったようね」

「は。時間が空きましたら、流琉の元を訪ね、師と仰ぎ教えを乞おうかと考えております」

「そ、そんな、師だなんて。秋蘭さまってばからかわないでくださいよぅ」

 

 口の端を吊り上げて言った冗談めかした秋蘭の言葉に、流琉はてれてれと恥ずかしそうに身をよじる。そんな流琉を見て、華琳と秋蘭も薄く笑みを浮かべた。

 

「ふふ。そうね、皆が気に入ったと言うなら、私も試作してみましょうか。秋蘭や流琉が作るものと食べ比べしてみるのもいい趣向となるかもしれないわ」

「おおお! それは今から楽しみですな!」

「もう、春蘭さまってば気が早いですよ?」

 

 口元を緩ませてよだれを垂らさんばかりに期待を露にする春蘭を見て、流琉が思わずと言った様子で笑顔を見せる。

 同じく、愛らしい姉の姿に秋蘭の頬も緩んだ。最近の春蘭は他の街への調練ばかりで秋蘭と顔を合わせる頻度が減っていた為、こうして笑顔を見せ合うのも久しぶりだ。

 

「桂花と拓実はどうかしら? あなたたちも…………あら、二人とも手をつけていないじゃない」

「……っ」

「あ……華琳様は、いえ、拓実は、その」

 

 言って次に華琳が見るのは、卓に置かれている取り皿。まだ手もつけられずに残っているのは桂花と拓実、調理人として皆の反応を見ていた流琉の分だけだ。

 拓実が目を見開いて華琳を注視し、桂花が慌てて何事かを声に出しているが、そのどちらも意味を成していない。

 

「そうね。この料理は初めて作ることになるのだし、特別にあなたたちの好みに合わせて作りましょうか。今まで辛味に手は出してこなかったから、二人の意見を聞かせてもらえないかしら――流琉の作ったこれよりも辛くすべきか、否かを、ね」

「け、けれど……」

「ほら、二人とも。食べてみなければ、どれほどの辛さかわからないでしょうに」

 

 何事かを述べようとする桂花を意に介さず、華琳は料理を口にしろと二人を促す。しかし、桂花はうろたえるばかりで、拓実は至ってはじっと料理を見つめて微動だにせず、どちらも料理に手をつけるのを躊躇っている。

 ここに来てようやく、秋蘭も華琳が何事かを仕組んでいることに気がついた。桂花が庇おうとしていることから、華琳がしようとしているイタズラの対象はおそらく拓実だ。話し振りから察するに料理に何か混ぜていたのだろうか。しかし調理したのは流琉で、取り分けたのは秋蘭自身。思い返してみても華琳は大皿に手も触れていない。

 

「拓実、これおいしいよ。ほらー」

「……ぅ」

 

 その言葉を証明するかのように、季衣が食べてみせる。にこにこと笑って、本当に幸せそうだ。やはり、拓実の分だけに何かが混入されている可能性は低い。華琳に手を加えられる機会があったとしたなら、季衣に取り分けた分にも同じようにされている筈だ。

 全員の視線が桂花と拓実へ集まる。注目されて、拓実が呻くような声を漏らした。そうして視線に押されるように、卓に置かれたレンゲを手に取る。

 

「そ、そうね」

 

 上ずった声をあげながら、拓実はレンゲをくぐらせる。そろそろと料理をすくって、震えながらも拓実の口に運ばれようとしている。

 秋蘭のように華琳の思惑に気づいた訳ではないようだが、異様な雰囲気を感じ取ったらしい流琉や春蘭もまた、いつしかじっと拓実に注目していた。張り詰め始めた空気に、ごくりと誰かが息を呑む。

 

「だ、駄目ぇっ!」

「あ、け、桂花?」

 

 困惑した拓実が、調子外れた声色で桂花の名を呼ぶ。秋蘭も、また他の者もその光景に目を見張った。もう少しで拓実の口に入ろうとしていたレンゲを、はしたなくも横から桂花が飛びついて口に咥えてしまったのだ。

 

「んぐ! んー!」

 

 桂花は固まっている拓実の手からレンゲと皿を奪い取っては、その中身をまるで汁物かのように流し込んでいく。その勢いのまま、桂花自身の分もまた同じようにして口の中に掻き込んでしまった。いきなり料理を奪われた拓実は呆然とそれを見る他ない。流石にああも口に詰め込んでは辛かったのか、もごもごと咀嚼しながら桂花は目に涙を溜めている。

 流石の華琳も桂花の奇行は予想外だったようで、目を真ん丸にして、ほっぺたを一杯に膨らませている桂花の姿を見つめていた。しかし、それも彼女が口の中の料理を嚥下するまでのこと。けぷ、と桂花が小さくおくびする頃にはいつもの微笑みを浮かべていた。

 

「あら。まったく桂花ったら。名門荀家の娘は、こんなにも意地汚かったのかしら?」

「ぅくっ。か、かか、華琳様のお料理とあらばこの荀文若、意地汚くもなります! 拓実にこの料理を食べさせさえしなければ、華琳様が私の為だけにお料理を作っていただけるということ! 体裁ごとき気にしていられません!」

 

 体裁を気にしない、などと言いつつも羞恥心はあるらしく、その顔はこれ以上ないほどに上気している。その発言もどこかやけっぱちだ。

 心なし、桂花が華琳のことを見つめている目には非難の色が混じっている。秋蘭には相変わらずその仔細はわからないが、華琳が何事かを二人に仕組んでいたのは間違いないようである。

 

「……なぁ、桂花。日頃、華琳さまに呆れられることが多い私だってやって良いことと悪いことぐらいはわかるつもりだ。流石にな、その、今のお前の行動はだな……」

「うるっさいっ! そんなのわかってるわよ! いいから黙ってなさいっ!!」

 

 そんな華琳の謀略に気づく様子もない春蘭が、可哀相な物を見るような目で、これ以上ないほどに呆れた様子で桂花を嗜めようとする。それは、最後まで言わせまいとした桂花が無理やりに遮った。

 周りを見れば、季衣や流琉までもが桂花のことを気の毒そうな目で見ている。秋蘭は何事かの理由あっての行動だと気づいていたが、それを踏まえても今の桂花の行動は擁護する気になれそうにない。

 

「まったく、仕方がないわね。恥を捨て、そこまでした桂花の熱意に免じて料理ぐらいは作ってあげましょう。けれども、今後はそういった品位に欠ける真似は控えなさい。まさかないとは思うけれど、あなたを見て季衣や他の者が真似をしたりしたらどう責任を取るつもりなの」

「華琳さま! いくらなんでも他の人から食べ物を盗って食べたりなんてしませんってば! ボクだって、そんな意地汚いことしちゃいけないってわかってます!」

「季衣っ、バカ!」

「え? あっ…………」

 

 流琉に注意されて失言に気づいた季衣が、狼狽した様子で桂花を見る。桂花はフードを深く被って机に突っ伏し、頭を抱えて体をぷるぷると震わせていた。

 誰も動けなくなった。中庭が、重苦しい空気と寒々しい沈黙に包まれる。

 

「あ、あの、桂花。ごめんね。ボク、そんなつもり、全然なくて……」

「いいわよ! 同情なんかしないでよ! 哀れに思うのなら殺して! 殺しなさい! いっそのこと、殺しなさいよぉ!」

「ふふっ。桂花ったら、いくら目を覆うような失態を晒したからといって自棄になってはいけないわ。ふふふ」

 

 泣き声交じりで喚く桂花に、ついに耐え切れなくなったらしい華琳がくすくすと笑い声を漏らしている。何だかんだでいつもの結果に落ち着いたようで、弄られる桂花と機嫌のよさそうな華琳の姿を見て、秋蘭もまた相好を崩したのだった。

 いくつか引っかかっている疑問はあれど、それを桂花や拓実、まして華琳に追求する気はない。仕事では几帳面にも見える秋蘭だが、私事においては、主君と姉が幸せでさえあるならば他のことはある程度二の次なのである。

 

 

 

 

 ようやく予定していた一日の日程をこなし、華琳、桂花、拓実の三人は華琳の私室に戻っていた。多少なりげんなりとしている桂花や華琳に対し、試験を課された当の拓実はといえばその機嫌に陰りはなく、むしろ時が経つほどに活き活きとしている。

 

 春蘭や秋蘭のみならず、季衣、流琉、桂花もが同席することとなった先の昼食会。結果としては桂花という犠牲を払うことでなんとか乗り切ることが出来た。

 秋蘭ら数人には知るところになっているが、華琳は辛いものが苦手である。口にすれば味覚が麻痺して鈍くなり、無理に飲み込めば胸焼けを起こしてしまって、度合いによってはしばらく食べ物が喉を通らなくなる。

 実際、あの料理は見た目ほどの辛味がなかったようなので華琳でも問題なく食べきれたのかも知れないが、そうでなかったことを考えると桂花の身を挺しての行動は大金星といえた。その忠誠に報いてやるため、彼女に手料理でも振舞ってやるのもいいかもしれない。華琳はそこまで考えて、それでは拓実が発言したとおりの行動をしてしまうではないかと思い直した。

 

 しかし曹孟徳とは、ああも臣下を振り回す人物だったのだろうか。こんな調子で毎日を過ごしていては気が休まる時もない。正直なところ華琳は、慣れない荀攸としての演技とばれてはいけないという気苦労、そして何よりちょっかいをかけてくる拓実の存在に、内心では酷い疲労を感じていた。

 そうして華琳が隣を盗み見てみれば、同じように拓実に振り回されていた桂花は多少疲れはしていても然程でもなさそうである。この程度のからかいなど桂花にとって日常茶飯事であるのだろう。つまりは、普段している華琳の悪戯も今日拓実がしていた悪戯と大差はないということだ。単純に華琳自身がああいった手合いとの対応に慣れていないだけだと遅れて自覚し、深くため息をついた。

 

 

 華琳はそうして回顧していくうちに、拓実が自ら進んで他人をからかうようになったのは最近になってからのことだと気づいた。

 少なくともこれまで、曹孟徳に扮した拓実には自主的に他人に悪戯して愉しむような趣味はなかった。しばらく荀攸や許定として過ごしていた為に、華琳が『この状態の拓実』を目にするのは久しぶりだが、それだけは間違いない。そのような旨の本人の言もある。

 加えて言えば、華琳が会ったばかりの――曹孟徳の演技をし始めた頃の拓実は完璧だった。清廉潔癖で欠点もない、春蘭が華琳を更に美化した姿そのままの、正しく理想の君主だった。

 それと比べてみれば今の拓実は昔より劣化したといえる。他人の才能を目にすればわかりやすく感情を表し、からかい甲斐のある相手には悪戯をしかける。楽しいことは自ら率先して行い、わがままで執念深く、実は負けず嫌い。

 だが、どちらが華琳に近いかと問われれば、他は勿論、華琳の人物像を拓実に伝えた春蘭だって『今の拓実』と答えることだろう。華琳本人にしたって同じ回答をする。

 

 同じ覇王としての気質に目を囚われていた為に気づけなかったが、以前の拓実は酷く人間味に欠けていた。性格にしてもいいところばかりを持ってきた欠点のない曹孟徳。表層はそのものであるから、場面場面の影武者は勤まることだろう。

 しかし、それ以前の問題として欠点のない人間など、最早人ではない。そして華琳は、人ですらない者に己が誇る名を騙らせるつもりはなかった。

 

「さて、日も没したことだし、刻限を迎えたわ。この時を持って、試験の終了としましょう。他の者に指摘されなかった以上いうまでもなく合格だけれど、せっかくだから今後の為に春蘭、秋蘭、季衣、流琉を呼んで違和感がなかったか確認をとっておきましょうか」

「恐れながら、凪たち三人の意見も募っては如何でしょうか。他の四人は拓実の役割を既に知っている為に、知らぬ三人とは応対した印象が違っているかもしれません。また、これより先は場合によって三人が影武者と対することも出てくることでしょう。知らせるならば今が唯一の機ではないかと」

 

 上げられた宣言に対して、跪く桂花が頭を下げたままに進言する。

 なるほど、もっともな意見である。この試験が終われば、拓実は影武者として公の場に出る。直接三人に下知する場面もあろう。

 

「そうね……桂花の言うように凪たちに影武者の紹介を兼ねましょうか。拓実、警邏の仕事も終わっているでしょうし、凪たち三人を玉座の間へ呼んで頂戴。桂花、あなたは春蘭に秋蘭、季衣と流琉よ。私もすぐに向かうわ」

「……かしこまりました」

「はっ」

 

 拓実は順調に演技の質を向上させている。元より華琳と近しいところにいた拓実だが、その存在が重なり始めている。元より異質な才故に、更なる才の開花を果たしたのか、それともただ曹孟徳という情報が不足していただけなのか、華琳にその判別はつかない。

 しかし、この時期に影武者の最終試験を設けたことを正しいと確信する反面、厄介なものを生み出してしまったのではないかという危惧をも抱いていた。どうにも、仕上がりすぎたような気がしてならない。主君をからかい、必要であるなら躊躇すら見せず命令してくる存在を自ら作り出したことに、苦みばしった表情が浮かぶのを止められない。

 

「ほら拓実、何顔をしかめて突っ立っているの。私に見蕩れている暇はないわよ。さっさと行ってきなさい」

「……はい」

 

 促され、未だに『拓実から拓実と呼ばれ続けている華琳』は三人を呼ぶために部屋を退室すべく踵を返した。

 試験は終わった。つまりは、もう華琳が仮装する必要もない。であるならば不躾に命令した拓実に文句をつけて、さっさといつもの服装に着替えるところなのだが、もう少しだけならばアレの思惑に乗っかってやるのもいいだろう。

 拓実が華琳の考えを読めるように、華琳も今の拓実の考えは手に取るようにわかった。何も知らない凪ら三人に加え、影武者の存在に半信半疑だという流琉に拓実の存在を知らしめるのにもっとも効果的な状況とは、と考えれば行き着くところは一つ。今の状態を活用しない手はない。華琳が人知れず唇の端を吊り上げたのと時同じく、拓実の唇も二人打ち合わせたかのように吊り上っていた。

 

 

 

 夕食の直後であったからほとんどが自室にいたようで、召集がかかってすぐに春蘭や秋蘭が駆けつけたようだった。続いて凪、流琉。季衣に真桜と沙和が他に少しだけ遅れて玉座の間へとやってくる。真桜と沙和を伴い、最後に入場した華琳が外に音が漏れ聞こえないよう、しっかりと扉を閉め切った。

 見れば、華琳に扮した拓実が玉座に腰掛け、春蘭、秋蘭と共に和やかに談笑していた。微笑を浮かべながら二人が話す内容に相槌を返している。肘掛に体を預けて、緊張もなく楽々とした様子である。拓実は入室し終えた華琳に気づくと、目を細めて正面に向き直った。

 

「思いの外早かったけれど、これで全員揃ったわね」

「は。しかし華琳さま、警備の凪たちまでお呼び出しになられるだなんて、何事かあったのですか? 桂花の奴めが言うには、目前に迫った反董卓連合への遠征の件ではないとのことですが……」

 

 特に用件を聞かされずに集まった面々を代表し、春蘭が拓実へと質問を投げかける。直前まで華琳が談笑していたことから場に切迫した様子はないものの、呼び出された者たちは揃ってその顔に疑問を浮かべていた。

 

「直接的ではないけれど、まったくの無関係という訳でもないわ。あなたたちをこうして呼んだのは、以前より話していた影武者の運用、それの始動を知らせる為よ」

「ええと、華琳さまのご意思に従いたく思いますが、しかし、その、何も知らぬ凪たちへも……?」

「これまで顔を合わせることもなかったからその存在を知らせる必要もなかったけれど、影武者が曹孟徳として下命するとなれば今後応対することもあるでしょう。逆に、この機を逃せば後にいらぬ混乱を招くことにもなりかねないわ」

 

 拓実の言葉に、春蘭に秋蘭、季衣が会得のいった様子を浮かべ、三人ともがちらりと未だ荀攸として立っている華琳を盗み見る。対してさっぱり意味がわからないという様子を見せているのは凪、真桜、沙和。

 流琉も影武者の存在を知る一人であるが少し特殊であり、『拓実が華琳の影武者であることを隠すために許定と名乗っている』という情報だけで、拓実が荀攸として活動していることまでは知らないのである。

 華琳のそんな思案に違わず、凪が他を代表しておずおずとした様子で口を開いた。

 

「え? か、影武者、ですか? 華琳様、その、いったい何の話で……」

「そうね。初めて耳にする三人にも簡単に説明しましょうか。といっても、そう難しい話ではないわ。立場上私が動けない場面もあるから、代わりに兵を鼓舞しては采配を振るわせる、曹孟徳と瓜二つな人物を代役に立てるという話よ」

「は、はぁ。華琳様にそっくりな……」

「そんなんがおるんですか? まぁ、街の警備や兵に調練してるうちらが見たことないってことは、おるとしたら城にいる文官の誰かやね」

「いくら華琳さまの言うことでも、とてもじゃないけど信じられないのー」

 

 突然の話に、凪たち三人困惑した様子を隠せない。それを見て若干意地の悪そうな笑みを浮かべるのは、そんな到底信じられない人物を見知っている春蘭と秋蘭である。季衣もまたにこにこと訳知り顔で三人の様子を眺めている。

 正しく事情を把握している桂花はといえば、華琳の横で目を瞑り、貝のように口を噤んで立ち尽くしている。華琳や拓実がこの状況を楽しんでいるのを察し、どちらにも口出しすることも出来ない為に静観を決めたようだ。

 

「そうは言うが、お前たちは華琳様にそっくりな人物とはかなりの頻度で会っているのだがな。ああ、流琉は既に知っていたな?」

「あ、はい。その、拓実が……許定がそうだって聞いてます。でも、私もとてもじゃないけど、信じられないです……」

 

 秋蘭の問いかけに答えた流琉は未だに半信半疑な様子で、きょろきょろと視線を惑わせている。

 

「はぁ!? いやいやいや! あの元気っ子が華琳様とそっくりやなんてありえへんやろ! どこも似とらんし、いくらなんでも……あ、でも一応背ぇは同じくらいか? そや! ちょっくら拓実の奴を呼んできて、その影武者ってのを目の前で見してもらえば」

「はっはっは! お前たちは何を言っているのだ。拓実の奴ならもうここにいるではないか! なぁ、秋蘭。季衣」

「そうだな。姉者の言うとおりだ」

「へへへー。そですねー」

 

 含みを持たせた三人の視線が、ちらちらと華琳へ向けられる。それに気づいたらしい凪、真桜、沙和、流琉が同じように華琳を見て、その顔に疑惑を浮かばせた。

 

「ネコ実ちゃん?」

「ん? ネコ実ちゃんとは一体なんだ?」

 

 沙和の呼んだ聞き慣れぬ名に反応した春蘭が首を傾げて見せる。

 

「春蘭には関係のないことよ。後にして」

 

 そのまま話を逸らされて長引くのを避けたい華琳は、練習していた通りの声質へと変えて春蘭を嗜めた。ふん、とそっぽを向く振りをしながらも、胸はばくばくと大きく拍動している。

 これまでは声を上げても荀攸と面識の薄い凪たち三人の前だけで、返事だけというならともかく春蘭たちの前で荀攸として言葉を発したのは初めてである。口調は問題ない筈。後は、荀攸の声色を上手く模倣できているかどうか。ちらりと拓実を盗み見れば薄く笑みを浮かべている。どうやら今の物真似は及第点であったようだ。

 

「なんだと! 誰が『場の流れが読めないトウヘンボク』だ!」

「姉者、誰もそこまでは言ってはいないぞ」

 

 唾を飛ばし、華琳に向かって怒鳴り上げる春蘭。いつものように秋蘭が、暴走する春蘭を落ち着かせている。

 二人が荀攸の正体には気づいていないのを見て取り、華琳はこっそりとほくそ笑む。とはいえ華琳自身まだ騙し通せるだけの自信はない為、これ以上荀攸として声を発することは難しいだろう。

 春蘭が一応の平静を取り戻したのを見計らってから、秋蘭が華琳へと向き直った。

 

「拓実よ。その姿であっても華琳様の演技や許定になることは出来るのだろう? これ以上四人を混乱させても仕方あるまい。実物を見れば四人も納得するのだから、あまり出し惜しみをしてやるな」

「…………ふふ。そうね。ああ、この姿であなたたちと会うのは初めてね」

 

 秋蘭に水を向けられ、ちらりと拓実と目配せした華琳は、口を開くと同時に今まで意識して抑え込んでいたものを遠慮なしに開放させた。神経を研ぎ澄まし、視覚に入るあらゆるものに注意を向ける。自分のいる空間の音、匂い、空気の流れを細かく把握していくうちに、いつもの張り詰めた感覚が戻ってきた。普段からしていることであるから荀攸の演技をするまで気が付かなかったが、華琳の他人を怯ませる威圧感の一部はこういった警戒心から生まれているらしかった。

 そうしながらも華琳は、凪たちに向き直っていつもの口調で言葉を投げかけている。誤認させるような言葉を選んだが、決して嘘を言った訳ではない。ただ、限りなく真実をぼやかしているだけだ。

 

「おぅわっ! なんや、これ、ほ、ホンマに……?」

「そんな、この気圧される感じ、本当に華琳様そのものじゃ」

 

 華琳からの威圧感にたじろぐ真桜と凪。一日に渡って溜め込んでいた分、制約がなくなった途端に全開である。この畏怖される視線もまた懐かしい。己の威風に慄く様子を見て、華琳の笑みが深まった。

 

「しゅ、春蘭さま、秋蘭さま。本当にこの人、ネコ実ちゃんなのー? こんなの、沙和には本物の華琳さまにしか見えないのー」

「うう。わたしにもそうとしか……もしかしたら、いつも会ってる華琳さまよりすごい……」

 

 思わず一歩二歩と退いた沙和と流琉が、苦しげに声を上げる。ついつい気を良くしてやり過ぎていたようである。僅かばかり気を緩めるのと同じくして、春蘭がずいと華琳の前に身を乗り出した。

 

「は、はは、ははははははっ! お前ら、何をバカなことを、と言いたいところだがその気持ちはよくわかるぞ。わ、私も最初は騙されたものだからな。確かにちょっとばかり今日はすごい気もするが、これの中身はあの拓実だからな。なあ、秋蘭!」

「う、む。いや、しかしだな。姉者よ。拓実にしてはこれはあまりに、……っ!?」

 

 同意を求められ、しかし秋蘭は腑に落ちなかったのか曖昧に返す。秋蘭の普段の鋭い瞳は見開かれ、何度となく瞬きを繰り返しながら華琳の姿を見つめている。

 秋蘭がそうしているうちに何事かに気づいたらしく、途端に血相を変えた。衣装が入れ替わっている拓実と華琳とを見比べ、驚愕を露に問いかける。

 

「か、華琳様、そのお召し物は!?」

「ふん! 私は華琳さまの剣だ! しょせん影武者でしかない拓実になんて、怖気づいていないからな!」

 

 そんな慌てた様子の秋蘭に気づかない春蘭は、華琳に向かって大股で歩み寄ってくる。部下である凪たちの手前もあって、引くに引けぬのだろう。強がりであるのは見えみえだったが、何とか自尊心を保とうと華琳が被っているフードの上に手を置こうとする。

 

「ほら、こうして……」

「春蘭。それ以上手を伸ばしてどうするつもりかしら? ないとは思うけれど、主君の頭に手を置くなどといった己が分を弁えない者を、私がどう処するかを知らないわけではないわね?」

 

 しかしそれも、直前で華琳にぼそりと呟かれるとぴたりと止まる。冷ややかに睨みつけられ、春蘭は凍ってしまったかのように固まってしまった。

 そうして伸ばした手のやり場に困っては所在無さ気に惑わせることしばし。盛大に冷や汗をかきながら恐る恐る、それこそ猛獣の檻の中に手を伸ばしているかのように慎重に華琳の手を握った。

 

「ほ、ほうれ見ろ、このとおりだ! これは拓実だからな! こんなことだって出来るのだぞ!」

 

 そのまま跪き、手に頬擦りしている様を凪たちに見せ付ける。あまりの緊張に、自分が何をしているのか理解できていないのだろう。華琳がなすがままにされながらもじっと冷徹に春蘭を見つめ続けていると、春蘭の手や顔から、どんどん冷や汗が噴出しているのが見て取れた。

 

「あ、姉者。悪いことは言わないから、すぐに華琳様から手を離すんだ……」

「は、はぁ? 何を言ってるのだ秋蘭。ついに華琳様と拓実の見分けがつかなくなってしまったのか? こっちは拓実だろう。なにせ、今までこっちが荀攸だったんだからな。いくら私でも間違えたりはしないぞ」

「それは、そうなのだが……しかし、この方が本物の華琳様である可能性がある。頼む。言うことを聞いてくれ」

「な! ほ、本物の華琳さまだと!? い、いや。その、しかしだな、もし本当に拓実だったら、あまり情けない態度を見せるのは凪たちの手前もあってだな……」

 

 ほう、と華琳は小さく息を吐く。素直に感心していた。何が契機となってのことか華琳にはわからないが、どうやら秋蘭は正体に気づきかけているようだ。まだ確信を持つには至っていないものの、どちらにしてもそろそろ潮時だろう。

 

「へえ。面白いわね。それでは秋蘭は、この私が影武者――偽者であると、そういうつもりかしら?」

 

 華琳がひとしきり関心していると、またも場の空気が変わる。玉座に腰掛けていた拓実がすっくと立ち上がり、常人であれば竦み上がってしまうほどの気迫を全身から溢れさせて秋蘭を鋭く睨みつけていた。

 まるで再現。流石に抑圧されていたのを解放した先の華琳ほどではないものの、その華琳でさえ圧迫感を覚えるほどの威圧だ。ちょうど華琳と拓実とが発する威圧に挟まれる形になった春蘭なんて、腰砕けになってしまっている。

 

「ぁ……いえ、そのような。その、お召し物を拓実の奴から借りているということも……正直なところ、まだ私にもはっきりとは」

 

 面白いなどと言いつつも、拓実の声色には明らかな苛立ちが乗っている。直前まで荀攸であった華琳か、衣服の細部が違うだけの拓実か。さしもの秋蘭も分の悪い二者択一を迫られては言葉を詰まらせた。

 下手に平伏することも出来ない。どちらかにすれば、その相手こそが本物の華琳であるという意思表示と見做されてしまう。目を伏せるだけで精一杯なようだ。いつも冷静な秋蘭が困窮している様子など、このような特殊な状況でもなければそうそう見れるものではない。調子を戻した華琳はいつものように腕を組み、口角を吊り上げながら黙って拓実の動向を見守っていた。

 

「まったく、嘆かわしいことだわ。曹孟徳の一の忠臣であるあなたたちからしてこの有様とは。けれど――」

 

 拓実に言われ、春蘭と秋蘭の二人は返事も出来ずに縮こまってしまった。数分前までの、訳知り顔であった得意げな様子などはもう欠片も見えない。

 今この場で笑みを浮かべることが出来ているのは、華琳と拓実の二人だけ。そして、そのうち片方の顔つきが瞬く間にがらりと変貌した。

 

「――秋蘭さま、すごいです! ボク、こんなに早くばれるなんて思ってませんでした!」

「は?」

「……え?」

「?」

「っ!? ッッ!?」

 

 拓実の顔が邪気のない嬉々としたものに変わり、最後に目がぱちくりと開かれた。覇王としての気質が、人好きする軽く明るいものへと塗りつぶされる。

 表情が、声の調子が、声色が、口調もが別人のものへと変わった。衣服こそ曹孟徳のままではあるが、そこには確かに『許定』が現れていた。

 

「ふっ、あは、あははははっ!」

 

 呆けた声。疑問にまみれた声。状況を把握しておきながら理解を拒み固まった声。ただただ息を呑むことしかできない声ともいえない音。玉座の間に響く声や音は、どれも意味を成していない。

 もう耐え切れない。華琳は口を大きく開いて笑い声を上げた。全員が間抜け面を晒して動けずにいる。見るからな阿呆面である。

 

「はぁぁぁぁっ!? な、なんやソレ!? ちょ、ありえんやろ!」

「えぇ!? えと、あれ!? 拓実ちゃん? 華琳さま? ネコ実ちゃん? …………あ、あれー?」

 

 真桜が頭を抱えて、沙和が眉根を寄せて悩みだす。凪に至っては声もなく、口をぱくぱくと開閉させることしかできずにいる。

 

「ええと、拓実?」

「ん? 流琉ってば、どーしたの? 季衣もなんかぽかんとしちゃってるしさ」

「な、拓実? 本当に拓実なのか?」

「そーですってば。だって秋蘭さまがボクになれって言ったんじゃないですかー」

 

 そんな拓実に近寄り、まじまじとその顔を見つめる流琉。拓実は不思議そうに首を傾げ、見つめ返す。秋蘭の確かめるような問いかけにも、拓実が楽々とした様子で答えている。

 

「そ、それではこっち、こっちの、荀攸の姿の拓実は……?」

 

 春蘭が手を取ったままの相手を恐る恐ると見上げる。当の華琳は顔を背けて笑い声をこぼすだけだ。

 

「――ふん、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、そこまでなの? 私がここにいるんだから、そちらにおられるのは華琳様に決まってるじゃない。っていうかあんた、いつまでも華琳様の御手に触れているんじゃないわよ!!」

 

 じっと見つめていた流琉の瞳が大きく見開かれる。拓実の、その変化を目の当たりにしたからだろう。

 天真爛漫といった様子であった拓実の表情が、次の瞬間には大きく意地悪そうな嘲る笑みに変わっていた。人を小馬鹿にした口調に、目じりが僅かに下がり柔らかくなった目元。華琳そっくりの姿で、華琳様と口にしたのは明らかに『荀攸』その人である。人が変わったようだ、という比喩はあるが、拓実は正しく人が変わってしまう。

 

「は、はぁっ! も、もうしわけございません!!」

「ふっ、ふふふ」

 

 顔を真っ青にさせた春蘭が華琳の手を離して跳び退き、その着地と同時にひれ伏した。その行動の移り変わりの無駄のなさに、それまでの無礼を叱り付けるより先に華琳の口から笑いが漏れてしまう。

 

「華琳ったら随分とご機嫌じゃない。ここまでやった甲斐があったというところかしら」

「ええ、お蔭様でね。こんなに退屈が待ち遠しかった日も珍しいわ」

 

 いつの間にか拓実の人格が、元の格好に即したものへと戻っている。何度見てもその変わりようは見事と言う他ない。

 そんな拓実へと、ようやく笑いが収まった華琳は皮肉をふんだんに込めて言葉を返した。そうしてからこほんと咳払いを一つ。

 

「さぁ、皆には見苦しいところを見せたわね。ともかく、という訳で今日一日曹孟徳として表立っていたのはこちらの拓実よ。暁から宵まで、臣下にも判別つかない精度で成り代われるか、それが影武者として役目を果たせるかどうかの試練。露見せねば合格としていたのだけれど、結果はこのとおり」

「何事か気づいたならそれを述べてもらおうと考えていたのだけれど、どうやら凪・真桜・沙和、流琉と季衣には一切気取られなかったようね。一応の説明は終えたことだし、五人には退出を許しましょう。だいぶ遅くなったことだし、私についてまだ聞きたいことがあるのならまた後日ということにして頂戴」

 

 華琳の言葉を引き継いで、拓実が続ける。異口同音、違う場所から聞こえてくる同じ声色に、流琉や沙和が目を回している。

 

「は、はぁ。それでは失礼します……」

 

 退出を促したのは華琳ではなく拓実の方だったが、困惑していた凪たちはその違和感に気づかずにそのまま退出していった。華琳としても年若い季衣や流琉たちがいてはこれから続く話をするに支障をきたすので元より退出させるつもりではあったが、当然のように主君のように振る舞い、自身の前でそれが受け入れられているのはどうにも腑に落ちない。

 

 とはいえ先の言葉のとおり、拓実は『華琳になりきる』という役目を、これ以上ないほどに果たしていると言えた。華琳の想定していた以上の出来で曹孟徳として振舞えている。

 問題は、それを華琳をからかうことに特化させていたことだ。いくら要求以上の成果を見せられたとしても、やられたまま、おちょくられたままというのは華琳の性には合わない。春蘭たち全員が間抜け面を晒すほどの見事な暴露をこなして見せたことでいくらかは相殺したが、それでも華琳の腹の底に溜まった鬱憤はまだまだ売るほどある。

 

「そうね。荀攸となってみて、私も拓実の苦労の一端を感じることができたわ。こちらの課した以上のものを見せた拓実には、私から特別に恩賞を与えましょう」

「あら、別に構わないわよ。私はただ、華琳に命じられたことをそのままこなしたに過ぎないのだから」

 

 こいつはどの口でそれを言うのか。思うまま気の向くままに振舞っていただけの癖に平然とそんな戯言をのたまう拓実に、華琳の口の端が思わず引き攣った。それでも何とか笑顔を崩さずに、努めて冷静に振舞うことを心がける。

 

「ふふ、その忠心には報いるところがなくてはならないでしょう。素直に受け取っておきなさい」

「華琳にしては面白いことを言うわね。忠心ですって? あなたが試験を課した、私がそれに合格した。そこに忠心なんてものが入り込む余地などないでしょうに」

 

 いつもの拓実であれば、何だかんだと言いながらも貰えるものは貰っている。ここまで固辞しようとはしない。華琳が何事かを企んでいるとでも考えているのだろう、拓実はその表情に怪訝な色を隠しもせずにいる。

 

「拓実」

「……はぁ。三度薦められ、三度とも断れば私が礼を失する。わかったわ。その恩賞とやらを受けましょう」

 

 しかし、こう切り出せば拓実も頷かざるを得ない。こうして言質は取れた。もう表層で取り繕う必要もないだろう。華琳の笑みが嗜虐的に深くなる。

 

「そう。では、湯浴みをして一刻後に私の部屋に来なさい。今夜に限り、曹孟徳でも許定でも、荀攸でもない南雲拓実として、一切の演技をせずにね」

「……華琳、私たちがしているのは恩賞の話ではなかった?」

 

 拓実が眉根を寄せて、手を額に寄せる。どうやら一度聞いただけでは理解が及ばなかったようだ。

 

 華琳がどうあっても辛いものが苦手なように、拓実にもどうしようもないものがある。ある事柄が話題になると拓実がそれまでどれほど見事に演技をしていても、途端に役に成りきることが出来なくなる。華琳は幾度か、拓実がそうなったのを見ていた。

 

「恩賞よ。今宵は私の手直々にあなたを悦ばせてあげると、そう言っているの」

「なっ!? あなた、何を……」

 

 それは房事。拓実の弱点は、男女の交わりなどの性行為だとか、そういった方面に初心なところだ。

 桂花と引き合わせた時に固まってしまったのが初めてだっただろうか。その後も華琳から声をかけたことが幾度かあったが、拓実は決まって顔を真っ赤にして逃げ出してしまう。

 華琳としてもほとんどがからかい目的で誘いをかけていただけだったが、毎度断られている為に最近は面白くもない。こうなっては市井で美少女と謳われている華琳の沽券にも関わってくる。

 

「華琳様! まさか、拓実と!? 駄目です! 絶対になりません!」

「桂花。お黙りなさい。私が誰と閨を共にするか、それを決める権利などあなたにはないわ」

「しかし、そのような短慮を……!」

 

 その発言に逸早く反応した桂花が声を張り上げて必死に食い下がるが、華琳はそれに聞く耳を持たない。隣で状況を眺め見ていた春蘭が首を傾げ、いきり立つ桂花に不思議そうな顔を向けている。

 

「おい、何をそんなにむきになっているのだお前は。夜伽を命じられなかったことは私も悔しいが、華琳さまがお選びになられたのだから仕方がないだろう」

「春蘭! あんたこそ何でそんな静観しているのよ! 拓実はこんな(なり)をしていても男なのよ!? 各地の群雄が飛躍しているこの時期に、万一、万が一よ!? 華琳様が妊娠でもなさられたりしたらどうするつもりよ! そうなれば、確実に全てが後手に……」

「妊娠? お前は何…………ん? おお、そうか! そういえば拓実は男だったな! うーむ、しかしだな。考えても見ろ、華琳さまがそんなヘマをすると思うか?」

「くっ、この馬鹿じゃ話にならない! 秋蘭、あんたはそれでいい訳!?」

「……む」

 

 良識派の秋蘭を味方につけようというのだろう。春蘭は別として、桂花に加えて秋蘭にまで抗弁されては口の回る拓実のこと、上手く二人を利用して逃げてしまいかねない。

 そうはさせない。させてはならない。ここで頓挫すれば拓実にやられっぱなしのままだ。要は敵になりかかっている周りを、全て味方につけてしまえばいいのだろう。

 

「ふん、妊娠……ね。ふと思いついたのだけれど、もし仮に私と拓実との間に子が出来たとしたならば、いったいどちらに似るのかしらね? 拓実に似ても私そっくりでしょうし、私に似ても拓実そっくりの子が生まれると思うのだけれど、どうかしら?」

「え……?」

 

 呆然と聞き返してきた桂花に、突然の質問に目をぱちぱちと見開いている春蘭・秋蘭。その反応を見て、華琳は成功を確信する。

 

「そうなった場合は当然、私に子はいないのだからそれが世継ぎとなるのでしょうし、次代の曹家当主も私と酷似した容姿を持つことになるのかしら?」

「華琳様のお世継ぎも、華琳様そっくりに?」

 

 燃え盛る火のように勢いづいていた桂花が急速に鎮火された。呆然と意識を飛ばして立ち尽くし、その光景を思い浮かべて口元をにやつかせている。大方、華琳とその嫡子の直近に仕えている自身の姿でも妄想しているのだろう。もしくは、華琳そっくりな幼児に教育を施す未来だろうか。どちらにせよ、意識に隙間は作れたらしい。

 

 こうして述べたのはあくまで桂花や秋蘭への説得が目的のものだが、華琳としても言ったとおりになってしまったとしても構わないと考えている。

 恋だ愛だを楽しむことなど、覇王を目指す華琳には出来ない。しようとも思えない。とは言っても、異性に恋したことのない華琳は拓実に対して抱いている感情が恋ではないと言い切ることはできないのだが、例えそうだとしてもうつつを抜かすことなどあってはならないと考えている。

 しかし、国を興し統一を目指すのであれば己一代で終えるわけにもいかない。愛した相手でなくても、異性との間に子を成す必要がある。それが政略によるか相手の能力によるかはまだわからないが、現時点で華琳に釣り合うだけの男は現れていない。

 ならば、多少なり気に入っている唯一の異性であり、華琳をして唸らせるだけの才を持つ拓実が相手であるなら、まぁ納得できなくもないという話である。もちろん、建国すら出来ていない今の状況で身重になるなど考えられることではないが。

 

「そうね。あとは仮定の話だけれど、もしも桂花と拓実との間に子が出来たとしたなら、本来ならありえない私と桂花の子のような容姿なのでしょうね」

「華琳様と、私の、子ども?」

「ああ、桂花でなくとも、春蘭と秋蘭でも同じことが言えるわね。それを実現するには、拓実に頑張ってもらわねばならないのでしょうけど」

「おお。私と、華琳さまの子……」

「ふむ……」

 

 そして桂花たちが妄想に花を咲かせているうちに、次の妄想の種を植え付ける。反応は三者三様ではあるが、誰も悪い気はしていないようである。こうなってしまえば後は簡単だ。意識さえを逸らせば、例え百般の学問を修めた智者が相手であろうとも口先だけで丸め込める。

 

「ちょっと華琳、何を勝手に話を進めているの! 私はそんなことをするだなんて一言も……!」

「ええ。あなたに子を作れだなんて一言も言ってはいないわね。けれども、あなたはこうは言ったわ。『私からの恩賞を受ける』と、確かにね。そしてこれが私からあなたへの恩賞というだけのことよ。『曹孟徳』、あなたは一度口にした事を違えるような人間だったかしら?」

「それと、これとはっ!」

「抗弁することがあるのならば、私の部屋で存分に聞きましょう。ともかく解散よ。先ほども言ったとおり、拓実は一切演技をせずに私の部屋に来ること。いいわね?」

「ぐっ!」

 

 言うなり、華琳は返事も待たず肩で風を切って玉座の間から退出する。あの姿では珍しい、歯噛みする拓実の声が華琳の後方から聞こえてきた。

 

 

 こうまでしてやったが、それでもおそらくは拓実のこと。言われたとおりに華琳の寝室までは来ても、頭を下げ、侘びを入れてでも同衾を断ろうとするだろう。

 もしも今回に限りそのまま押し切れそうならば、手加減なしに一晩中弄り倒してやろう。これまで焦らされたのだ。完膚なきまでにこの曹孟徳の虜にしてやる。

 あくまで断るというなら、それはそれでいい。『私では恩賞とはならないのか』『私では不満なのか』なんて言いがかりでもつけて、一晩中責め立ててやる。曹孟徳になり切っている状態ならともかく、演技を止めた拓実であれば上手い言い逃れも出来ずに困り果てるに違いない。

 

 責められ小動物のように弱った拓実の姿が華琳の脳裏に思い起こされ、華琳の胸が締め付けられるように疼いた。次いで涙目の拓実が浮かんで体が熱くなり、つい艶かしい吐息が口から漏れ出てしまう。最後に己そっくりな姿が自身の手で乱れる様が頭を過ぎり、倒錯したような妙な感情がわきあがる。

 自室へと向かう華琳の足取りは軽く、顔には絶えず悪い笑みが浮かんでいる。どうやら、拓実の無理無体なちょっかいで今日一日蓄積されるばかりであった華琳の鬱憤は、どう転んだとしても十二分に晴らすことが出来そうであった。

 

 


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