影武者華琳様   作:柚子餅

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36.『荀攸、荀諶と逢着するのこと』

 

「……ぅあっ……ん、んん?」

 

 がたんと一際大きな揺れを感じて、拓実はぼんやりした意識の中で上体を起こした。半目のまま、ぱちぱちと何度か瞬きする。

 どうやら拓実が置かれている場所は屋外のようで、周囲はざわついてうるさい。太陽は高い位置で煌々とその存在を主張しているから昼過ぎといったところだろうか。頭の中が一旦リセットされたかのように真っ白で、拓実は自分が置かれている状況がわからないでいる。

 

「んー」

 

 更に、体の節々もこっていて疲労がほとんど抜けていない。頭も痛いしで寝起きの体調としては最悪である。あくびついでに伸びをして、肩を回そうとするもどうも上手くいってくれない。そうしてようやく、右腕が布で巻かれて動けないように固定されていることと、じんじんとした鈍痛と熱とが右肩から下に巣食っていることに気がついた。

 

「あら、ようやくのお目覚めね」

「えっ、華琳? 何で?」

 

 起き抜けに荷台の隣で馬に乗っていた華琳に名を呼ばれて、拓実は反射的に返事を返す。

 それを聞いた華琳は一度だけ目を鋭くさせるや、それを消してまるで子供に言い聞かせている時のようにやんわりと笑みを浮かべた。しかし、その心情は笑みとは正に逆へと向かっているのだろう。

 

「荀攸。寝惚けているのかしら?」

「荀……? あっ! 申し訳ございません、華琳様!」

 

 寒気さえ覚えさせる冷たい呟きと尋常ならざる迫力とを発した笑顔の華琳を前に、拓実は呆然と己の格好を見回し、ようやく自身が今『誰』であるかを思い出した。

 どうやら本当に寝惚けてしまっていたようだ。揺れる台車の上で姿勢を正し、馬で併走している華琳へ頭を向けて深々と平伏した。

 

 改めて周囲を見回せば、どうやら拓実がいるのは行軍している曹操軍の中ほどあたりのようである。進む道は相変わらず切り立った崖に挟まれていて、道幅はそれなりにあるというのに押し潰されそうな圧迫感を覚える。

 拓実は荷台に積まれた飼葉の干し草、それに被せた麻布の上に寝かされていたらしい。舗装もされていない道を進む荷台の上はお世辞にも寝心地がいいとは言えなかったが、置いていかれなかっただけ良かったといえる。

 記憶を過去へと手繰っていくうちに、華雄と一騎討ちをして全治数ヶ月もの怪我を負い、その痛みのあまりに気絶したことを思い出した。しかし劉備軍に派遣されていた自分は、どうして曹操軍にいるのだろうか。兎にも角にも、記憶と己の失態とを合わせて思い出し、拓実の顔面からどんどんと血の気が引いていく。

 

「また、随分と活躍してきたようね。医術を修めている者にその右腕を診せたところ、完治には二月を必要とするらしいわよ」

「っ、め、面目もございません」

 

 治療を施され固定されている右腕に、布を巻き直されている左足首とをじろじろと見られて、拓実は再び深く頭を下げる。

 口でこそ『活躍』と言っているがそれは皮肉だろう、拓実を見る華琳の目はまったく笑っていない。自分が気を失ってからどれほど経っているのかわからないが、華琳には劉備軍であった一部始終を既に知られているようだった。

 

 捻挫をこしらえて華琳直々に叱責されたのは遠征出発のほんの数日前のこと。戦働きが出来ないからと文官の荀攸としてついてきたというのに、敵将と一騎討ちしてより深い怪我を増やして戻ってきてしまった。これでは日頃に猪なんて罵っている春蘭のことを笑えない。それどころか怪我人でありながら明らかな格上を相手に突っ込むなど、拓実の方がよっぽど猪武者の命知らずである。

 加えて、軍師である筈の荀攸が部隊を率い、その先頭で指揮を執っていたことも耳にしているのであれば、当然に人が変わったかのような様子であったことも知れている筈。あまりに致命的といえる失点が多すぎて、拓実はひたすらに頭を下げることしか出来ない。

 

「まったく。たまたま生き長らえたようだからよかったものの、華雄を相手に一騎討ちを仕掛けただなんて耳にした時は何の冗談かと思ったわ。おまけに牛金が気絶しているあなたを抱えて戻ってきたものだから汜水関攻略で沸いていた我が軍の士気もいくらか落ち込んでしまったし。桂花なんて、軍師が剣を取るなんてと驚きを通り越して呆れ返っていたわよ」

「あ、う。申し訳ございません。そ、その、私はどれくらい眠ってしまっていたのでございましょうか?」

「眠っていた? 知らないようだから教えてあげるけれど、あなたのそれは失神していたというのよ。……はぁ、そうね、おおよそ二日といったところかしらね。汜水関を抜け、連合軍の先鋒が勢いに任せて虎牢関に差し掛かっている頃ではないかしら」

 

 華琳より詳しく聞けば、やはり拓実が気絶した後に程なくして、汜水関は曹操軍の手によって陥落したとのことである。時を同じくして敵将であった華雄は孫策に倒され、交戦していた董卓軍も連合軍の布陣の前に敗走していったようだ。

 また汜水関でまんまと功を持っていかれた袁術と袁紹が次の虎牢関の攻略を買って出ているとのことで、汜水関でいいところを持っていった曹操軍と劉備軍は、袁紹のやっかみから兵を休めるようにという建前で後方に配置されてしまったらしい。

 そうして華琳が汜水関攻略について話していく中、拓実はあることを聞いて酷く驚いた。

 

「汜水関攻略に使われた劉備軍の策が、諸葛亮・鳳統・荀攸三名によって編み出され、成されたものであると広まっているのですか?」

「ええ。攻略における戦果、関羽・張飛・趙雲らの戦を誇張した英雄譚のような内容と併せて、連合の兵らに意図的に流布されているわ。更には『曹操軍が軍師、荀攸の鬼謀により敵将華雄は戦場にて一騎孤立、その命数を為す術もなく失った』、『荀攸がひとたび兵を率いれば万の敵兵を翻弄し、これを瞬く間に打倒する』などといったところね」

「なっ! 何故そのような内容に!? そんな、私はそんな大それたことなどはしておりません!」

「わかっているわ。あなただけではなく、関羽や張飛、趙雲らについても似たようなものよ。大方、兵らを通して市井へと劉備軍の大々的な活躍を流し、大陸の民心を掴もうというのでしょう。ふん。荀攸を必要以上に褒め称えているのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりかしら」

「つ、罪滅ぼし、ですか?」

「――ともかく、あんまり劉備軍が上手く汜水関を攻略したものだから連合軍は勢いづいて攻め込んでいるけれど、それも今しばらくのことよ。汜水関を抜かれた敵方も当然警戒を強めている。小さくない兵力を代償にして虎牢関が汜水関のようには破れないと知れば、あの子のことだから他の軍を当てていいところだけ持っていこうとするでしょう。遠くないうちに軍議の召集がかかるわね」

「はぁ。その、華琳様、随分と袁紹のことにお詳しいのですね」

「麗羽のことはいいわ。それよりも劉備軍で何があったのかを報告なさい。牛金から報告は受けているけれど、事情を知らない彼女が得られる情報はどうしても正確なものとはならないのだから」

「……は」

 

 正直なところ失態ばかりであった為、出来ることなら改めての報告なんてしたくはないのだが、華琳に言われてはそうもいかない。

 副将の牛金では把握しきれていなかっただろう諸葛亮と鳳統の策、劉備軍の軍編成、そして連合軍の動きと、拓実は一つ一つを事細かに華琳へ報告していく。

 

 

 

 

 華琳は、痛々しい拓実の姿を前にして内々に抑え込んでいた苛立ちを隠せずにいる。仮にも戦功を立ててきた拓実に対する語調も、きついものになってしまっていた。

 こんな苛立ちが華琳を苛むようになったのは、先日の汜水関を攻略した直後に劉備軍より届いた荀攸負傷に関しての謝罪の報を受けてからのことだ。出来る限り表面上には出さないようにと努めてはいたが、春蘭や秋蘭、桂花たちが勘付いて慮ってくるほどには怒りに満ち溢れていたのである。

 

 劉備軍は思惑が絡んだ連合軍全てを動かし、見事に汜水関を攻略して見せた。統率面では三倍もの兵力の華雄隊を相手に互角にやりあった関羽に張飛、武力においては猛将である華雄をも軽くあしらった趙雲、策略では連合軍を思うままに操ってみせた諸葛亮に鳳統。そして、それら一線級の人材を麾下に加えるだけの求心力を持った劉備に北郷一刀。

 協力者である華琳には汜水関の制圧の機会を譲って顔を立て、同じく協力者であるという孫策には敵将を討つ場を与えた。劉備軍自体、相応の打撃を受けて敗走していたのも事実ではあったので袁紹軍に強く叱責されることもなく、これ以上はない働きと言える。

 六千強程度の勢力が、二十万にも届こうかという連合軍全体の陣形を二転、三転させ、敵方を完全に押さえ込んだ。諸葛亮と鳳統が立案したその策は、様々な兵法書を読み解いている華琳にさえ着想できるものではなかった。

 

 だが、その策を成就させる為に監督役として派遣した拓実に死線を越えさせていたのではまったく話にならない。独断した拓実にも怒りはあるが、劉備軍に対して覚えた憤りに比べれば些細なものだ。

 確かに兵を率いることぐらいであれば出来るから存分に使えとの申し伝えてはいたが、だからといって援兵を送った軍の将をむざむざ戦死させかけるなど恩を仇で返すが所業。そのような運用をしなければならない戦況を作った諸葛亮や鳳統、如いては劉備を見誤っていたのかと期待を裏切られた気でいたのである。

 

 正味の所、華琳が拓実に掛けている期待は大きい。最近こそ拓実は様々な場面で働きを見せているが、武力は春蘭の足元にも届かず、内政面では桂花に及ばない。拓実のように文武の両面で活躍できる人材はそういないが、その分野においても上に秋蘭がいる。政策の立案・現場での部隊指揮にこそ光るものはあれ、他の追随を許さないほどではない。

 しかし華琳が拓実を評価しているのはそこではない。才気煥発な人物が点在している曹操軍において尚華琳の目を惹きつけているのは、類稀なる才とその容姿があって初めて出来上がる『もう一人の曹操』を演じられるところにある。先日の試験において一応の完成こそ見たが、もし拓実が先の一戦で運悪く討たれでもしていればどうか。影武者としては何の働きもなく、拓実へとの掛けていた期待分がそのまま失望、そして怒りへと転換するだろう。実際、拓実より報告を聞くまではと抑え込んでいたが、事の次第によっては劉備に代償を支払わせてやるべきかとさえ考えていたのだ。

 だが、実際に拓実から報告を聞いていくうちに、華琳はこの怒りの半分ほどは筋違いであったことを知るに至った。劉備に向かっていた怒気は見る間に霧散していき、代わって胸のうちに生まれ出たのは己に対しての憤りである。

 

「あの、華琳様、どうなされたのですか?」

 

 戦況に合わせて自身の行動を添えた拓実の報告は珍しく主観的であり、それだけ当時状況が見る程の余裕がなかったことが知れる。

 それを聞きながらも華琳は、眉根を寄せて目を閉じていた。当然そんな華琳の様子に気づかない拓実ではなく、一通りを語り終えた後におずおずとした様子で問いかけてくる。

 

「今の話だけれど、関羽・張飛隊が退いた後は趙雲隊が殿を受け持ち、そして華雄に抜かれたと言ったわね?」

「はっ、仰られるとおりにございます」

 

 華琳は、拓実が報告し始めてすぐに違和感を覚え、そうしてある失念していた事実に気がついていたのだった。

 もしも、『それ』がなかったならどうなっていたのだろうか。そんな思考に沈んでいたのだが、自身の考えに確信を持つに至るや、確かめるようにゆっくりと口を開く。

 

「……それは、監督役の荀攸が劉備軍に属してさえいなければ防げた事態だわ」

「えっ? その、確かに部隊を率いた際の私の行動は軽率極まりないものではありましたが、そんな、それ以前の私に、何か落ち度がございましたでしょうか?」

 

 突然の発言を受け、血相を変えて慌てふためく拓実に、華琳は静かに首を振って返した。言葉が足らなかったようで、拓実は己が行動により劉備軍を危機に追いやったと勘違いしたらしい。誤解を招く発言をした華琳も、自責していた為に気づかぬうちに平静を失っていたようだ。

 

「いいえ。聞いたとおりの戦況であるなら、軽率でこそあったけれど結果的にあなたの判断は妥当と言っていい。落ち度は、あなたを派遣した私にあるでしょうね」

「華琳様に、ですか? いったい……?」

「そもそも軍師が三人揃って総兵数の三分の一である二千もの兵を率いることから、寡兵であった劉備軍にとって受身に過ぎていた。私の知る諸葛亮や鳳統は、理由もなくそんな手を打つような凡愚ではないわ。ならば、まず監督役である荀攸を危険に晒さぬようにと二千もの兵を割き、実働部隊とは名ばかりの軍師隊を編成したのでしょう」

「それは……。確かに、隊の編成にはそういった意図があったと存じますが」

「荀攸を監督役でなく純粋に戦力として計算できたならば、先鋒に関羽・鳳統隊、遊撃に趙雲・荀攸隊、殿に張飛・諸葛亮隊と分けるところね。そうすれば各隊の軍師がそれぞれの隊の動きを把握し、引き際の見極めも命令の伝達も容易に出来た。当然各隊の兵も充実し、その分先鋒の撤退は滞りなく終わる。殿が易々と抜かれることもなかった。仮に荀攸がいなかったことを想定しても、戦場の機微に敏感だという趙雲であれば遊撃も撤退も独力でこなせなくはない。諸葛亮や鳳統とて当然その程度のことは把握しているでしょう」

 

 今回と、そして以前の黄巾党本隊殲滅戦の際と、戦場の変わり目を逸早く察知していたのは趙雲であったと報告したのは華琳の目の前にいる拓実本人である。それを知っているだけに、華琳の推論について言葉を挟むことなく黙り込んでいる。

 華琳も以前陳留に滞在していた彼女が目通りに来ていた時の事を思い起こした。飄々としているが隙のない、春蘭や秋蘭とも五分にやり合えるだろう武人。それが趙雲に対する華琳の見立てである。

 

「けれども、実際には全隊に指令を送る諸葛亮や鳳統から監督役である荀攸を切り離せない。それ故に軍師たちで固めた隊を作る他ないのだけれど、人員が不足している劉備軍では将を回せず自衛力に欠ける為、代わりに兵を多く配して中盤以降の半端な位置に隊を置かざるを得ない。監督役の荀攸がいては、指揮の発信位置の関係からしてもこれ以外に取れる編成は似たり寄ったりのものになる。条件を同じくして劉備軍が立てた策の達成を目的としたなら、私や桂花であっても同様に隊を編成していたことでしょう」

 

 合同で黄巾党討伐遠征を行っていた際に、劉備軍の主要な将の能力のある程度を華琳は把握している。兵の統率に最も秀でていたのは関羽に張飛であったが、それに次ぐ者が武将連中を差し置いて軍師の諸葛亮と鳳統なのである。

 その諸葛亮と鳳統の部隊に、万が一の自衛に不安が残るからと武官を加えたところで、指揮精度で彼女たちに敵わない為に結局は手隙の者を作ることとなってしまう。そして危急の時――(くだん)の華雄相手の足止めにしても、関羽たちが率いるのでなければ諸葛亮が指揮した方がよほど成功が見込めてしまうのだ。それこそ今しがた華琳が言ったように、超一流の武将である関羽に張飛、趙雲らに部隊の指揮を主導させ、軍師をその補佐につけるのでなければ、劉備陣営の人材を十全には活用できないのである。

 指揮する将が不足している劉備軍において、諸葛亮と鳳統の為に人員を割いている余裕はない。むしろ、わずか八百からなる義勇軍を率いていた劉備たちが、六千を超える軍団を相手にああも見事に指揮してみせたということこそ賞賛に値する。諸葛亮や鳳統でなければ、軍議から攻略開始までのほんの僅かな猶予を与えられたとして、下位部隊までの命令伝達の経路からして作れていたかもわからなかっただろう。

 

「つまりは、軍編成が制限されている中でさえ、劉備軍はそれぞれが出来る働きをしていたということになるわ。そして余計な要素さえ含まなければ、窮地に立たされることもなく策を成功させていたことでしょう。その上で何故、今回あの策を採った劉備軍が華雄を抑え込めなかったのかといえば、私が監督役を遣わせたことで劉備軍の編成を制限させてしまったのを原因としていた」

「し、しかしながら、その論は乱暴に過ぎます。元々、劉備軍は援兵を受ける対価として私を監督役として迎え入れたではございませんか。当初の劉備軍の兵力は八百。袁紹から三千の兵を借り受けたとしても四千には届きません。それでは汜水関で見せた大掛かりな策は成らず、よしんば別の策を用いて攻略したとしても間違いなく規模の小さなものとなっていたでしょう。一義勇軍の立場に余る戦果を得ようとしてのことですから、諸葛亮や鳳統とて不利益を被ることも織り込み済みのことかと。策の選択を誤ったことまでを華琳様の落ち度というには、いささかばかり……」

「ええ、そうね」

 

 確かに拓実が言うように、そこまで面倒を見てやる義理など華琳にはない。荀攸を自身の戦力として組み込んだ上で失策し、全滅するのは劉備の勝手である。

 監督役をつけたことにしても、それは兵を貸してやるのだから当然の権利といえばそう。そも、いくら(よしみ)があるからといって他勢力に三千もの援兵すること自体が異様といえるだろう。

 

「あなたが劉備軍に同道しなければ、我が軍はお膳立てされた戦場に赴くことなく独自に行動していたでしょうし、あの諸葛亮と鳳統のこと、私に助力を持ちかけてきたかどうかも怪しい。荀攸がいるからこそ劉備軍が連合を巻き込んだ大掛かりな策を採用し、それに見合うだけの戦果を得た。成功だけを考えるならば利は少なくとも他にやりようもあったのだから、諸葛亮と鳳統が採用する策を違えたのも確か」

 

 劉備軍は曹操軍や袁術軍、その他の諸侯まで当てにせずとも、袁紹軍へと敵軍を引きつけた後は公孫賛軍と劉備軍だけで対応できた筈なのである。

 時間こそかかったかもしれないが、その間の損害の大半は袁紹軍が受け持つため、公孫賛軍と劉備軍はほぼ一方的に攻撃を加えるだけだ。そして、伸るか反るかといった策を選ぶか、成果は低くとも安全を重視した策のどちらを選ぶかといった選択権は紛れもなく劉備軍に委ねられていた。

 であれば劉備軍に課され、そして華琳もまた失念していた『監督役がいるという縛り』の影響を諸葛亮や鳳統らが把握しきれず、判断を違えたことに今回の責任は集約すべきであろう。

 

「けれども、私が言っているのは、この曹孟徳の矜持の問題。援兵を隠れ蓑とした奸計はあれど、劉備に功を立てさせる為、全面的な援助をするとしていたのも本心からのもの。劉備に送った書簡には、汜水関攻略で存分に戦功を立てるようにと書き記していたこともある。その癖、実際のところで不利益を与えていたのでは、軍としての面子が保たれていようとも私の誇りが許さない」

 

 春蘭や秋蘭、桂花や拓実の前で劉備に助力すると宣言したのは他ならぬ華琳である。三千の援兵は劉備軍の策を成す為の土台となり、派遣した荀攸はよもや瓦解かというところを救うという大役を果たしてきた。表面上には宣言したことを見事に実現したよう見えるだろう。それだけであれば一方的な援助にこそ見えるが、華琳としては実のところでその対価をしっかりと得ていた。

 しかし、その上で華琳の差配ひとつでその危機が訪れることすらもなかったとしたならどうだろうか。華琳からすれば自身で火をつけたものを消火してやって、恩に着ろと強要しているかのような心持である。

 

 きっと劉備軍は、返しきれないほどの大きな恩を曹操軍より買ってしまったと考えているだろう。三千の援兵、汜水関攻略の際の助力、監督役として遣わされた荀攸に窮地を救われ、そして負傷させてしまったこと。

 華琳の思惑あっての荀攸派遣に対する問題は、劉備軍が荀攸を遣わせたその真意に気づけないが為にそれらと相殺は出来ない。仮に侘び代わりに何かしらの施しをしようとも、劉備軍からすれば更なる恩の押し売りとしか映らない。だからこれは曹操軍と劉備軍の間の勢力としてではない、華琳の劉備に対する個人的な借りとなる。

 

「誰かある!」

「はっ!」

 

 華琳が呼びかけると、拓実との会話が漏れ聞こえない距離に控えさせていた伝令役が馬を寄せてくる。

 

「劉備軍から引き戻させていた兵を二陣の兵と入れ替えるよう秋蘭――夏侯淵に伝令を。死傷・疲弊した者を除いた数と同数を、引き続き劉備軍への援兵として虎牢関攻略に随行させるようにとも。先の劉備軍の戦振りを見れば、もう監督役も不要でしょう。兵らにはすぐさま出立するように伝えなさい」

「承知いたしました!」

 

 言いつけられた伝令は馬の腹を蹴って、脇目も振らずに駆けて行く。その姿が見えなくなると、華琳は未だ腑に落ちない様子の拓実に向き直る。

 

「拓実。あなたが独断でしたという演技の件は不可抗力であったとして減刑し、その上でこれから先半年の減給としましょう。私の失念が招いた穴を塞ぐ形になった働きだったけれど、一度君主として取り決めた決まりは遵守させねばならない。そうでなくては誰も法を守らなくなるもの」

 

 これは華琳の矜持であった。規律とは、法とは、上の人間がしっかりと守るからこそ下がついてくるものであると華琳は考えている。

 君主であるから、重臣であるから、その血族であるからと見逃し、その癖に下を厳しく取り締まっていては部下や領民には不満ばかりが溜まっていくこととなる。それでは人はついてこない。下を律するのであれば、上の者はそれよりも厳しくしなければならない。その一番上に立つ華琳は、配下の誰よりも法を遵守していて然るべきと生き方を決めている。

 

「その代わりに、礼を言わせて頂戴。あの場で曹操軍に属しているあなたが敵軍を抑えなければ劉備軍は瓦解し、そうはならなかったとしてもその被害を拡大させていたことでしょう。立身の助けになれと命じておきながらもその動きを阻害していた曹孟徳の面目も立たないところだったわ。ありがとう」

「そのような! 軍師としてあるまじき失態を晒した私など、叱責されることはあれ華琳様に褒めていただけるようなことなどは、なにも……」

「ここは素直に受け取っておきなさい。それとも何かしら? また、私の閨で一夜を共にすることを礼代わりとでもしましょうか?」

「は、え? あ……その、ぅ」

 

 以前のようにお仕置きを画策してのものではない。感謝か労りか、どの感情からなのは華琳自身も定かではないものの、やわらかく微笑みを浮かべていた。

 それに対しての拓実も、いつもからかわれている時とは反応が違っていた。突然にそんな話を振られたからか、あまり見ない華琳の笑顔に面食らったか、胸の前で両手を合わせては忙しなく握り直して目線を惑わせている。

 

「失礼します! 曹操様、連合軍総大将の袁紹様より伝令にございます!」

「――その、用件は?」

「は、はっ! その、虎牢関攻略の軍議召集の書簡が、こちらに……」

 

 華琳自身からしても珍しいと思える、礼の言葉。困惑しきりの拓実に更に言葉を投げかけようとしたところで、進軍方向から駆けてきた伝令の声によって遮られてしまった。

 どうやら拓実は、真っ直ぐな攻め方をした方がいい反応をしてくれるらしい。桂花と同じ姿であったり、本来の南雲拓実が弱気な性質であるから、ついいじめてやろうと考えてしまっていたのが悪かったのかもしれない。或いは今回は、押し切れたかもしれないというのに。

 困惑していた拓実を見てふつふつ嗜虐心が沸き上がっていた華琳、その機嫌は急速に降下した。何の(とが)もない伝令役の兵士は、華琳からの凍りつかせるような鋭い視線に晒されて身を震わせている。

 

「なんて間の悪い。まったく、伝令一つを寄越すにしても無粋極まりないのだから」

 

 華琳は伝令より書簡を受け取り、行われるだろう名ばかりの軍議を思っては気が進まない様子で紐解く。中を一度流し読むと、その内容を読み取るにつれその双眸を鋭くさせた。そうしてもう一度視線を冒頭へと戻し、読み返す。そうして二度読み終えてから華琳は瞑目し、深くため息をつくと天を仰いだ。

 

「あ……あの、華琳様? また何かおかしなことでも書かれていたのでしょうか」

「内容は何のことはない、当たり障りのない軍議の召集よ。ただし、先の攻略戦で劉備軍にて活躍した軍師を随行させるようにと添えてはあるのだけれどね。あの子のこと、荀攸が負傷していると言っても聞きはしないでしょう。充分に考えられる事態ではあったのだけど、さて、どうしたものかしら」

 

 またも拓実を起因とした、頭を悩ませる事案が沸いて出てきた。

 どうやら反董卓連合軍の総大将袁紹は、先の戦で目覚しい功績を立てた劉備軍に一人混じっていた曹操軍の軍師、獅子奮迅と云える活躍してみせた荀攸に興味が湧いてしまったようである。

 

 

 

 

 官位を保持している春蘭を護衛に兼任させ、その後ろを威風堂々と歩みを進める華琳。そして万が一の事態に備えての弁の立つ桂花に連れられて、書簡にてわざわざ指名されてしまった拓実は足を引き摺りながら荀攸として続いていた。

 前方には金色の袁の一字が書かれた旗が立てられている豪奢な天幕。四人が進むのは、軍議の場として指定されている袁紹の陣であった。

 

「本当にありえない! 普段、武を嫌っているだなんて公言しているだけにその愚かさが極まるわ。仮にも軍師を名乗る者がよ!? いくら進退窮まったからといって剣を取った上に、隊の先頭に躍り出て突撃するだなんて……!」

「わ、わかってるわよ! ただ、あんまり士気が低いものだから、鼓舞しようとしただけなの! 私だって、先頭で突撃なんてするつもりはなかったんだから」

「はぁ!? つもりがあろうとなかろうと、やってしまえば同じことでしょうが! 他の文官連中の中には知略を捨てて剣を取り、ほぼ無策で突撃したあんたの行動を非難しているのだっているんだから!」

「ぐ……」

 

 少し背の高い桂花に肩を借りながら歩く拓実は、隣からの甲高い怒鳴り声に度々渋面を作っていた。言われている言葉も尤もで、抗弁する拓実の言葉に力はない。なにせ、春蘭の演技から荀攸としての役柄に戻って、まず自身に感じた怒りも同じ類のものであったからだ。

 

「む、そうなのか? 第一といっていい戦功を立ててきたというのに、文官連中の考えることはやはり訳がわからん」

 

 先頭を歩く春蘭が肩越しに振り返り、同じ姿で肩を抱き合いながら歩く軍師二人を見やる。あごに手をやり、視線を宙へ。春蘭はしばらく会得がいかない様子で眉根を寄せていると、何事かを思い出した様子で顔を明るくさせる。

 

「ああ。それにな、武官の奴らはみんな、文官にしてはもったいないほど気骨がある奴だと気持ちよく笑っていたぞ。兵の中には、荀攸の指揮する隊へ転向すれば戦功を立てられる、と言っていた者もいたぐらいだ。荀攸と一緒に突撃隊に参加した兵は話をせがまれてひっぱりだこだったと聞いたしな。それにしても一千を率いて、いくらか減っていたとはいえ万もの兵に突撃か。私も機会があれば……」

「ふん、ほら見なさい。賛同するのは、どうせこんな脳みそまで全部筋肉で出来ている奴らでしょう! 荀攸と血縁の、似た格好している私がこの二日間どんな目で見られていたかわかってる!? 『やっぱり荀彧様も、必要とあらば一万の敵兵に対して一千を率いて突撃されるんですか?』だなんて訊かれる事自体が酷い屈辱だわ! 春蘭じゃあるまいし、軍師がそんなことするもんですか!」

 

 その後も「あちこち怪我を増やしたりして」だの、「まさか気絶して戻ってくるなんて」だのと桂花は拓実へ不満を漏らし続ける。途切れることない罵声ときんきんと耳に響く声に、拓実の次に顔をしかめたのは華琳である。

 

「あなたたち、拓実に対して言いたいことがあるのはわかるけれど、そこまでにしておきなさい。特に桂花。貴女がどれだけ拓実を心配していたのかはわかったわ。けれどもここから先も同じ調子で話されていては、諸侯が集まっている天幕の中まで声が届いてしまうでしょうに」

「も、申し訳ございません華琳様! しかしながら、私はこんな考えなしの心配なんか、一度たりとも……!」

「はんっ! 嘘をつけ、私は知っているぞ! 桂花、お前は昨日、拓実を乗せている荷車を少なくとも朝昼晩の三回は見に来ていただろう!」

「なな、なんであんたがそれを知って……、あっ!? 荷車を警備していた兵は、あんたが調練した部隊の……」

「ふははは! そんな返しをするとは、おけつを掘るとはこのことだな!」

「くぅ……我が生において、最大の汚点だわ。言葉の意味を理解していないだけならともかく、下劣な間違いするこんな馬鹿にしてやられるなんて……」

 

 春蘭の誘導に見事乗ってしまったことが桂花にとっては余程の屈辱だったのか、苦虫を噛み潰したように顔を歪め、空いた手で頭を抱えている。

 歩いている間中酷使させられていた左耳の鼓膜をようやく休ませられそうだ。拓実はぶつぶつと怨嗟の声を上げる桂花に肩を抱かれながら、そっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

 前線にある袁紹軍の陣、そこに設えられている一つの大きな天幕は剣呑な空気がたちこめていた。そこに入場してきた華琳に向かってすかさず、待ちかねていたように居丈高な一声がかけられる。

 

「あーら、華琳さん。またあなたが最後ですわよ。まったく、決められた時間すら守れないようではその育ちが知れますわね。汜水関に一番乗りした程度のことで調子に乗られて、あまり好き勝手にされては困りますわ」

 

 その声の主は、反董卓連合軍総大将である袁紹である。縦ロールの頭髪、鎧、装飾品に至るまで、そのほとんどが金色。相変わらず、いるだけで眼がちかちかするような人物だ。

 拓実が改めて彼女を観察していると、華琳がちらと目配せしてから首を振った。今のは『袁紹の思考や性格を写し取っても役に立たないからやめろ』といったところだろうか。

 

「そうね。召集を出した誰かは最後方の我らの陣からここまで早馬で飛ばしても到底間に合いはしない、たった四半刻で集まるようにだなんて言い出しておいて決められた時間もないとは思わないのかしらね? まぁ、簡単な計算すら出来ない誰かが、わざわざ負傷している者を随伴するようになんて無茶を言い出さなければもう少しばかりは早く到着できたのかもしれないのだけれど、召集をかけた愚か者にはともかく諸侯を待たせてしまったのは申し訳なく思うわね」

「ぐっ! ま、まったく、そのようなこと誰が言ったのでしょう? わたくしは存じ上げませんが、いいですわ。今回遅れたことはこのわたくしの寛大な心に免じて、特別に不問にして差し上げますわ」

「はいはい。わかったからさっさと本題に入ってちょうだい」

 

 何気ない挨拶のようにやりこめた華琳は憎憎しげに睨み付けている袁紹に目もくれず、さっさと空いている椅子へと着席してしまう。桂花、春蘭、拓実もその後へ続き、華琳の背後に控える。今のやりとりを見ていた周囲の面々からも寒々しい視線を向けられている袁紹は、ふん、と鼻を鳴らした後に大きく胸を張った。

 

「みなさん、よろしいですこと? これまでこの反董卓連合軍の為、この総大将であるわたくし自らが兵を犠牲にしながらも偵察を行ったところ、虎牢関は汜水関とは違って引きこもっていて一向に出てくる気配がなさそうですわ! まぁ、わたくしの高貴な軍にかかればあっという間に倒してしまえるのですけど? 寛大にも、ここはみなさんに手柄をとる機会を差し上げようという次第ですわ!」

 

 しばしの沈黙が訪れた。どうだといわんばかりに袁紹が胸を張っているのを見て、華琳は脱力した様子でため息をついている。その他の諸侯についても華琳と似たような様子である。

 

「なぁ、えーと、汜水関で先鋒やってたあんた……劉備って言ったよな? あたしの記憶違いじゃなければ、袁紹の奴って自分の軍だけで虎牢関を陥とせるって言って、前回の軍議で自分から先鋒を買って出たんだったよな?」

「う、うん。そうだったと思います」

「だよなぁ。何だ何だ? 虎牢関攻略がいつから偵察になってたんだ? それに董卓軍が虎牢関に篭っているのなんて、こっから見てもわかることじゃないか」

「そこっ! ごちゃごちゃとうるさいですわよ!」

 

 有無を言わさずに発言を遮られたことで、茶のポニーテールの少女――馬超は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。隣では劉備が縮こまってしまっている。

 そんな様子を眺めて、拓実はどうして前回にも増して軍議の場が険悪になっているのかに思い当たった。ここに集まる諸侯らのほぼ全員が、好き勝手に振舞う袁紹をいい加減に疎ましく思うようになったからだ。

 

 名門、そして治める領地も広大であるということもあり、袁紹は連合軍内において最大兵数を動員している。そうなれば、それだけでも彼女が総大将となるのも妥当といえた。

 しかし、総大将となっても軍議においては議題を乱し、攻略に際しては口にする策を要約してしまえば『突撃』のみである。加えて汜水関で寡兵の劉備軍が董卓軍と互角にやり合っていたのに対し、袁紹軍は三分の一以下の兵相手に苦戦を強いられていた。その対比が余計に、袁紹の将としての資質を露呈させていた。盟主としての器を見極める為静観していた者たち、その家格もあり取り巻きになることを考えていた者たちも、この場で袁紹について得られる利はないと愛想を尽かしたのだろう。

 

「さぁ、我こそはという者があれば、特別に我が袁紹軍の進路を切り開く大任を授けてあげますわ! 名門袁家の旗を掲げてその先鋒まで担えるという栄誉を得る、またとない機会ですわよ! ……あら? みなさん、どうしましたの? 早い者勝ちでしてよ?」

 

 いきりたって立ち上がり、高らかに宣言する袁紹に、ある者は卓に肘をついては視線すら向けず、ある者は小さく含み笑いを漏らす。結構な人数が詰めていながらも寒々としていた天幕内は、袁紹の一言を皮切りにして乾いていく。

 これまでも協調路線を取ろうとする者の方が少なかったが、辛うじて横の信用からの連携が取れた段階を総大将自らが完全に踏み越えているのである。諸侯の誰もがこの連合軍はもうまともに機能しないことを確信して、意識を己の軍のみに向けている。

 自信満々に周囲を見渡した袁紹は、思い描いていた光景と違うことに目を白黒とさせる。そうしているうちに何か思いついたのか、会得がいった様子で眉を開いた。

 

「ああ、さてはみなさん、袁家の先陣を賜ることを恐れ多いとでも考えているのでしょう? 仕方ありませんわね。今回限りは家格など関係なく、どのような生まれの方でも構いませんわよ」

 

 確かに袁紹の言うように、高貴な生まれの末席に連なることは栄誉なことである。まして、遡る事四代に渡る家系上にて、国の最高官位と呼ばれる三公を五人輩出した袁家は名門の名に違わない。その発言内容自体は紛れもない事実であろう。しかし、今回諸侯は戦で戦功を立てて、名を売ることを目的として連合に参加しているのだ。決して一時の名誉に縋るが為に、一つ間違えれば国の反逆者となりかねない連合に参加している訳ではない。

 当然袁紹がそんなことを今のこの場で言ったところで、周囲からすれば面と向かって敵方を切り崩すまでの盾としていいように使ってやると宣言しただけのことである。総大将からして、仮にも個々間の同盟によって連合軍として成り立っている筈の相手を盾や壁、己の配下以下としか見ていないことをこの軍議の場で公言したのだ。

 事実として、今回の袁紹の思惑はそのままその通りであることは傍目の拓実からしても明白。そして、諸侯らも目の前で公言されては何らかの策を成すようにと号令が出たとしても素直には従うまい。それでは幾人かは指示通りに動いたところで軍として機能する訳がない。故に横の信用はなくなり、それぞれ独断で軍を動かすことになるだろう。

 

「あなたがた、もしやとは思いますけれど悪賊董卓の兵を前に臆病風に吹かれたのではありませんわね? まったく、いいですわ! 劉備さん。汜水関を攻略のきっかけを作ったあなた方でしたら同じように虎牢関も攻略できるのではありませんこと?」

「ええっ!? また私たちがですか!?」

 

 己のした発言の意味を理解できていない袁紹は、一向に反応を見せない諸侯から見当違いの理由を見つけ出し、苛立ちを隠せずにいる。そんな袁紹の様子を眺めていた拓実は、尊大に振舞っている彼女も小さくない焦りを覚えていることに気が付いていた。

 汜水関攻略において、大軍を擁しながら目立った戦功を上げられずに兵数ばかりを失ったのは袁紹と袁術である。だからこそ虎牢関攻略で自ら先鋒を名乗り出たのだろうが、先の一戦で警戒を強めている董卓軍は地の利もあって容易には崩せない。攻めあぐねた挙句に、更なる兵を失って軍議を開くことになる。その場で周囲から参戦に立候補でもあれば自尊心が傷つくこともなかったが、現状としてそうはならなかった。彼女からすれば理解しがたい状況なのだろう。

 

「なんですの? わたくしが寛大にも劉備軍に華々しい戦功を得る機会を差し上げるというのに、まさか、あなたも不満ですの?」

「いや、待ってください袁紹さん。不満て言うよりは、可能かどうかって話ですって。汜水関の時より戦える兵が減っちゃってますから、いくらなんでも俺たちだけじゃどうにもなりませんよ」

「まったく、情けありませんわ!」

 

 どうやら先の攻略戦でまがりなりにも指示に従っていた劉備は、袁紹にとっては味方という認識であったらしい。まさか反論があるとは思っていなかったようである。

 今の、円卓を叩きつけた袁紹の怒りようからすれば、一刀がすかさずにお手上げという身振りをしながらその理由を説明していなければ、今この場で爆発して劉備に対して怒鳴り散らしていたかもしれない。

 

「恐れながら袁紹様。一つ、私に考えがございます」

 

 誰もが発言せず、憤慨する袁紹から目を逸らしている。そんな中で声を上げたのは、袁紹の背後に控えていた文醜、顔良の、そのまた後ろにいた一人の少女。

 小柄な体躯。とはいえ、背は拓実より頭半分ほど高いぐらいか。その茶の髪はふんわりとしていて、肩に届かないあたりで切り揃えられている。現代の髪型でいうところのソフトボブだろうか。頭の上にはベレー帽、裾の広いコートのような衣服とその上に肩掛けと、身に纏う全ての衣類は暗めの赤色である。相変わらず古代中国とは思えない服装ではあるが、一番に拓実を驚かせたのはその顔つきだ。

 

「あいつ! ……拓実っ、そこの猪の後ろにでも隠れてなさい!」

 

 隣にいた桂花に小声で耳打ちしながらも押しやられて、拓実は無理やりに拓実は春蘭の背後に立たされる。為すがままにされながらも、拓実は春蘭の影から発言者をじっと見つめ続けていた。

 

「あら、あなたは我が軍の…………斗詩さん。この方、名をなんて言いましたか。今回の軍議にどうしても参加したいと言うものですので連れてきましたけれど、わたくしとしたことがちょっとド忘れしてしまいましたわ」

「ええっ? 麗羽様、忘れたって、この前もそう言って私が教えたじゃないですか。数年前に軍師として採用した荀諶さんですよ」

「ああ、言われてみればそうでしたわね。いまいちぱっとしない方ですから、すぐ忘れてしまいますわ」

 

 まったく悪びれずもせずに言ってのける袁紹にも動じず、荀諶と呼ばれた少女は目を伏せたままでいる。

 さらに拓実が驚くべき言葉が出てきた。『荀諶』――かつて荀攸であった人物が、改名した名が荀諶であった筈である。しかし、拓実はその名前についてまで思考が及んでいない。

 

「西新井、会長? いえ……」

 

 呆然と、口の中だけで呟いた。そして、春蘭の影から視線を送って、荀諶の挙動をひたすらに観察する。容貌が酷似している人物の名を口に出してみたが、やはり違う。しかし拓実はその人物と荀諶の姿が重なってしまって、目が離せないでいた。

 

 拓実、そして北郷一刀が通っていた聖フランチェスカ学園。拓実が部活動として所属していたのが、会員僅か三名という弱小同好会の民族学研究会である。そこの会長、二年女子の西新井会長の顔つきと、今袁紹に向かって発言していた荀諶の顔立ちが瓜二つといえる程にそっくりなのである。

 しかし、西新井会長は黒髪で、みつあみにしたお下げは背中にまで届いていた。野暮ったい黒ぶちの眼鏡を掛けていて外すと清楚な大和撫子といった風ではあるのだが、代わりに周囲の物が視えなくなって日常生活に支障をきたす程には目が悪い。

 荀諶と呼ばれた少女は眼鏡をかけていないが、物が視えていないといった素振りはない。体格も同程度で、声質も似てこそいたが、どちらも別人だとわかる程度には違う。よく似ているだけの他人の空似。いや、拓実が存在しているここが過去の中国であるなら、もしかしたら西新井会長の祖先だったり、オカルト的に言えば前世だったりもするのかもしれないが、少なくとも同一人物ではないと断言できる。

 

「まぁ、そんなことはどうでもいいですわ。荀諶さん、何かあるのでしたら言って御覧なさい」

「それでは僭越ながら、袁紹軍にて軍師の任を預かる荀諶、字を友若が発言させていただきます。虎牢関攻略についてですが我が軍が威力偵察を行ったところ、肝心の虎牢関は汜水関より幾分開口部が小さく攻略に適した地点が少なくなっており、攻め手は兵数が制限されてしまっています。諸侯様方が一つ二つ当たっては被害と負担が集中し、多大な消耗を許すことになりましょう。場合によっては壊滅ということもありえます。よって虎牢関攻略は諸侯が単独で担うのではなく、複数勢力より精兵を選りすぐった、攻略の為の混成部隊の編成を具申いたします」

「攻略の為の混成部隊? どういうことですの?」

「具体的には兵数五千以上の各勢力より精兵二千ずつを預かり、攻めかかる兵の質を高めつつ充分な兵数を揃えようという策にございます。現在の連合総兵数は十六万ほど。そのうち兵数五千を数えることのできる軍団は十と八つになりますので、三万六千の兵力によって虎牢関の攻略を行うのです」

 

 にわかに軍議の場がざわついた。それぞれ、荀諶の挙げた作戦について面食らったという様子であった。

 

「のぉ、のぉ。七乃。わらわにはよくわからんのじゃが」

「美羽様は気になさらなくていいんですよー。適当にのんびりしていれば、勝手に孫策さんたちが頑張ってくれますからねー」

「うむ、うむ。そうか、ならば七乃、後のことはよきにはからえ」

「……斗詩さん」

「ええっとですね、五千以上の勢力から二千ずつですから、二万五千近くの私たちもよく鍛えた二千の兵だけ出兵させればいい、ということです。たぶんですけど、兵数が多ければ多いほど負担の割合は少ないんじゃないかな。ちょうど五千ぐらいしかいない劉備さんのところなんかは大変だと思いますけど」

「あら、それでしたらわたくしもたった二千ぽっちの兵を出せばいいという訳ですのね。優雅さには欠けますが、お手軽で非常によろしいですわ! それではその攻略部隊の指揮は、反董卓連合軍総大将、この袁本初が率先して……」

「お待ちなさい」

「なんですの! 華琳さん!」

 

 あちらこちらで内々の相談が始まっていた天幕の中、すっくと立ち上がり、策を述べた荀諶に対して鋭い眼差しを向けた者があった。春蘭と桂花の前に座っている華琳である。

 袁紹の噛み付くような物言いにはまったく反応せず、じっと荀諶を見つめている。自然と場も静まり返り、諸侯らの視線が華琳に集まった。

 

「連合に参加している諸侯より選りすぐった精鋭部隊。とても面白い案ね。けれど、いくつか前提部分に疑問点があるわ。いくら諸侯から精兵を選りすぐると一言に言っても、兵の錬度にどうしたって差が出てくるでしょう。それはどのようにして埋めるつもりなのかしら? また、問題を解決したとしても、いきなり他の勢力の者の指示を聞くかどうか。加えて、兵がいくら強くとも肝心の指揮する者が無能であるならどうしようもない。その人物如何(いかん)によっては私も大事な配下を預けるわけにはいかないわ」

 

 非難するかのような発言と共に、荀諶へと向けられた華琳の威圧感は尋常ではない。しかし、袁紹に対してするような全面的な否定ではない。拓実にはどうにも、華琳が軍師としての荀諶を試しているように感じられた。

 

「はい、曹操様が懸念されましたことも尤ものことかと。兵の錬度の差については埋めようとは思っておりません。それぞれ野戦、偵察、攻城、潜入……得意としている分野が異なることでしょう。足並みを無理に揃えてはその特色までを殺してしまいかねません。しかし、いうなればこの精鋭部隊は各諸侯のみなさまが誇る、最強の兵の集団にございます。まさか、他の諸侯の兵に遅れを取るような錬度不足の雑兵を送り出すことなどはありえないものと考えております。万が一著しく劣る部隊があったとして、その程度の弱卒しか保有できない領主が誰であるのか白日の下に晒されるだけではないでしょうか。命令無視も同様。この群雄が集まる場で名を落としたければ独断専行も好きになされるが結構かと。董卓を討伐を果たした後我ら袁紹軍を始めとして、諸侯らよりどう見られるかまでは存じませんが」

 

 荀諶はまるで柳に風といったように怯む素振りもなく、目を伏せ、理路整然と告げて返す。

 

「指揮についてですが、我ら袁紹軍が全てを主導してはご不満もあることでしょう。曹操様が兵の錬度についての返答にご納得いただけるようでしたらこれより説明させていただきたく思います」

「なるほど……ふふ、見た目に似合わず中々挑戦的な案を出す子ね。興味が湧いたわ。話の腰を折って悪かったわね。続きを」

 

 その対応に満足したのか、華琳は手で荀諶を示すとあっさりと椅子に腰を下ろした。

 

「ありがとうございます。――つきましては、お預かりした各部隊指揮をお任せする将、具体的な作戦を煮詰める軍師の方も兵を五千以上保有する勢力より選抜いたします。こちらは勝手ながら、汜水関攻略中のご活躍から勢力の代表者様を除いた、今回の攻略作戦に適しているだろう方を各勢力より選出させていただいております」

 

 てっきり兵だけを各勢力から抜き出し、それを袁紹の指示で戦わせるのかと思えばそうではないようである。荀諶が言っているのは、どちらかといえば現代の野球などでいうところのオールスターゲーム。各勢力から兵と、主力の将、軍師までも招集した混成部隊である。

 

「今回は拠点攻略ということですので、単純に戦上手な方が選ばれているわけではないことを先に申し上げます。指名されなかった勇将・知将の方にはどうかご了承いただきたく思います。ではまず部隊指揮。袁術軍より孫策殿、甘寧殿。曹操軍より夏侯惇殿、曹仁殿。馬超軍より馬岱殿、ホウ徳殿。公孫賛軍より公孫越殿、田豫殿。劉備軍より関羽殿、趙雲殿。我が袁紹軍よりは顔良殿、文醜殿……」

 

 その人選を告げられていく軍議の場に、様々な思惑によってどよめきが走る。告げられた将の中で、この場に同席している者たちへと視線が集まった。 

 

「そして立策には、袁術軍の周瑜殿。曹操軍の荀彧殿……荀攸殿。劉備軍の諸葛亮殿、鳳統殿。我が袁紹軍からは沮授殿、田豊殿と、立案者として私荀諶が参加させていただきます」

 

 荀攸もまた名を連ねていた為に、拓実は静かに春蘭の影に隠れる。そうして人目から逃れるようにしながらも密かに戦慄していた。

 この荀諶の人物眼は、いったいどれほどのものなのだろうか。拓実は、三国志の英雄たちのまさかの競演に身震いすると共に、荀諶に対して空恐ろしいものを感じている。挙げられた者たちの名は拓実にも覚えがあるものばかりであった。大半はどんな功績があったかまではわからないが、拓実が名前だけでも知っていたということは後世において名を残している英傑であるということである。何を間違ってかその中に拓実の名が含まれてしまっているが、その他の将を見るにその人物眼は確かであるといえるだろう。

 

「五千以上の兵数を保有しながらも配下の将の名がなかった領主の方々、申し訳ありませんが汜水関の動きを基に選別したので全ての将の力量を把握しきれておりません。拠点攻略に適した将を二名派遣していただければ幸いです。攻略法、細かい打ち合わせにおいては、これより選抜した軍師らでの軍議によって決定し、また各勢力からの将の方々は袁紹軍の陣へと召集をかけていただきたく思います。それぞれ自勢力の兵を指揮下に致しますので、兵についても同じく出立するよう通達を願います。これに異議がないようでしたら、こういった形で作戦を進めたく思いますが、袁紹様よろしいでしょうか?」

「正直、面白くはありませんわね。けれど、他の方々も碌な案を出しませんし……」

「あの、麗羽様。ここで私たちの陣営から出た意見を反対したりすると、もっと不利な話になるかもしれませんよ? 私たちも二千出すだけで何とかなるってことですから……」

「……斗詩さんまでそう言うのでしたら、仕方ありませんわ。荀諶さんといいましたわね! この反董卓軍の総大将である袁紹の名を汚さぬよう、雄雄しく勇ましく、華麗に事に当たるんですわよ!!」

「かしこまりました。諸侯の方々もよろしいでしょうか?」

 

 荀諶の問いかけに、否定の声は上がらない。諸侯らは同席させた部下と顔を見合わせるが、そのまま席に座り直す。ほとんどが肯定的な態度を見せている。

 

 連合軍で最大の兵力を擁している袁紹であっても難航する虎牢関の攻略に対し、五千に満たない小勢の諸侯は発言権を持たない。選抜隊から除かれたことで活躍の場が失われてしまうが、袁紹に命令され盾にされる可能性を考えれば余計なことは言えない。先の汜水関攻略を果たした劉備にしても、釣り出しなどの主導こそしても実質戦闘面は連合軍による総力戦であった。警戒を強めている虎牢関の攻略は、汜水関より難しくなっている。そのような場面に数千や数百が出てもすり潰される未来しかない。

 辛うじて五千を超える諸侯にとって今回の作戦は、多少の不満はあれども利が大きい。兵力の四割程度の派遣となれば大きいが、本来ならば並び立てない有力諸侯の袁紹たちとも同条件で戦えるのである。もし他を差し置いて一等の戦功を上げられたならば彼らにも一目置かれることとなるであろうし、大陸にその人ありと噂されることも充分に考えられる。最悪兵力の四割を失うが、そうだとしても半数以上は残るのである。これが三千の派兵となったら辞退する者も出ていただろう。

 そして、大軍を有する諸侯は、概ね袁紹と顔良が話していたところに落ち着く。大軍を有しているということは、矢面に立たされやすく被害を被りやすい。そして兵数が多いが故に活躍が目立ちにくい。数を揃えているのだから戦果があって当たり前という見方をされてしまうからだ。失敗してもたかだか二千の兵、けれども少数で戦功を立てれば大軍である上に『精強』という評判を得られる。損失の割に得られる利益が大きいとなれば、文句は出ない。

 

「……では、一刻後に前線である袁紹軍の陣へお集まりください」

 

 荀諶より解散が告げられ、どよめきながらも諸侯らが三々五々に軍議の場を後にする。拓実が春蘭の影から退出していく者たち様子を眺めているうちに、軍議の序盤にはあった不満の色が薄くなっていることに気がついた。さらに見れば、鋭く荀諶を見ては警戒している者が幾人かいる。振る舞いからして文官然している為に、おそらく軍師たちなのであろう。

 そうして拓実はその者たちに遅れて荀諶の思惑に気づいて素直に感心する。目からうろこが落ちるとはこんな心持ちなのだろうか。荀諶の献策した選抜部隊は、虎牢関攻略の為だけのものではなかったのだ。

 

 この選抜部隊によって、荀諶は袁紹に対しての不満を逸らした上に諸侯の横の連携を繋ぎ直している。軍議での袁紹の発言により、彼女を反董卓連合軍の旗印にして戦おうという空気は欠片もなくなっていた。この連合軍の目的である董卓の粛清が大成功と成れば、総大将である袁紹は見事に諸侯を纏め上げたとして名を高めるだろう。軍議の場を乱していた袁紹が大将として評価されることに対して、反感を覚えた諸侯が総大将の命令を無視する可能性すらあったのだ。このまま総指揮を袁紹が執っていたなら、まず総大将としての面目は丸潰れとなっていた。

 そこで荀諶は指揮を袁紹から外しながら、立案者として選抜隊の中核に残って袁紹の総大将としての顔を立て、諸侯の袁紹に対する反感をも餌にして全体の意識を虎牢関攻略で得られる戦功へ向けてみせたのである。更には華琳との問答の中で、得手にしているところで戦功を立て、不得手は他の部隊に任せればいいという意識を植えつけていた。選抜部隊に集められた武将や軍師は、自軍の戦功を立てる為に動きながらも結果的に連携を取ることになる。

 連合軍内部の様々な問題を和らげながらも異見が出にくく、虎牢関攻略にも作用している。あんまりに鮮やか過ぎて、拓実としては見事と感嘆する他ない。

 

 

 

 込み合う出口がいくらか空いてきた頃、ちょうど華琳が席より立ち上がった時に、拓実は視線を感じた。視線を巡らせれば、上座である袁紹の横に立っている荀諶が、確かに拓実を見つめていた。視線同士がぶつかりそのまま数秒もすると、それに気づいた桂花に慌てて腕を引っ張られ、拓実は天幕の外へと連れ出された。

 

 荀諶が名を呼ぶ際にも、荀攸の時にだけ僅かばかりの間があった。当然、年下の叔母である桂花とほぼ同じ姿をしている上、過去の己の名を騙っている拓実は謎の塊であろう。同姓同名という誤魔化しは通用しまい。現に荀諶の視線より、拓実の内面を探ろうとしているのを感じていた。近いうちに直接的なり間接的になり何らかのアプローチがあるだろうが、軍議の場で追及されなかったことからどうやら今しばらくの間は曹操軍に所属している『荀攸という人物』の異様さを公にするつもりはなさそうである。

 そして拓実にしても、まだ荀諶の人となりは読めない。荀攸を警戒している所為もあって、わかったのは華琳をして挑戦的と言わしめる策を立案する、そして人並み外れた人物眼がある、といった程度のものだ。陳留にいる間にも荀諶が話題に上ったことはあったが桂花の口は何故か重たく、今日も軍議に参加するまで同じことを考えていたが、桂花にはひたすら罵られていたために荀諶について聞くことはできていなかった。

 どうやら出兵の準備に充てられた一刻の間に、今度こそ荀諶の情報を詳しく訊ねておく必要があるようだった。

 

 

 


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