影武者華琳様   作:柚子餅

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4.『拓実、曹操に仕官するのこと』

 

「そう。貴女は学問や芸を学ぶ私塾に通っていたのね。そこで学び得た芸が他人に成り切る演劇の技術であり、好きにやっていいと許可が出たものだから言われるままに私に成り切ったと」

「そ、その通りです。それにしても、危なかったですよ。春蘭が止めてくれなかったらと思うと……」

 

 死にかけたのを思い出したのか、お団子頭のままの拓実は両目には涙を溜めて背筋を震わせている。よく似た容姿の拓実が小動物のような振る舞いをするのを見て、華琳は思わず頬を引き攣らせ、なんとしていいのかわからない収まりの悪い表情を浮かべた。

 

 拓実の様子が先ほどまでと一変していることに気づいた華琳は、力ずくで謝らせていた春蘭を止め、詳しく事情を聞くことにした。

 そうしてここに来ることになった経緯を春蘭が、来てからの経緯を秋蘭が話し、合間合間で拓実が補足をする。一通りを話し終えたところで拓実の異様な演技力に話が流れ、丁度それについての説明を終えたところであった。

 始めこそ警戒心を顕に拓実を睨み付けていた華琳であったが、説明が始まるや直ぐにそれは取り払われていった。話を秋蘭と春蘭から話を聞けば聞くほどに、そして今の拓実の様子を見れば見るほどに、元の南雲拓実という人間が無害であるか明らかになったからである。

 

 そしてどうやら件の華琳になりきっていた時にしても、拓実がそうしようと思ってのことではないということであった。演技に没入し過ぎてしまった状態であり、いつでもああなれるというわけでもないようだ。むしろ『なれる、なれない』という話ではなく、『なってしまう』といった方が正しいようである。

 拓実の演技は自己暗示をかけて自意識を出来る限りに薄め、その上に演ずる役を乗せて演技をするといったものなのだが、一度あの状態に『なってしまう』とその自己暗示が深くかかり過ぎてしまうようなのだ。

 

 ――以前にも拓実は、演技に集中するあまり前後不覚になったことがある。丁度、今回のようなトランスともいえる状態にである。聖フランチェスカに進学する前、演劇部で参加した県大会という大舞台でのことだ。

 あの時は数ヶ月にも渡って台本を読み込み、舞台道具に衣装にと入念に準備を重ねて自分たちの集大成を不足なく表現することに必死であったし、大きな舞台を前に緊張をしていたものだ。劇自体は大成功で終わったのだが、拓実個人は役に入り込み過ぎて大失態をやらかしたのであった。

 今回は拓実に似ているという、中国史において有名人である曹操と対面できるという期待、そして本人より直々に演技する許可が下され、秋蘭から挑戦とも取れそうな言い回しを受けたことが変に作用し、拓実の精神は似た状況に追い込まれていたのだろう。

 ともかく一度そうなってしまえば、拓実は与えられた役割をこなすというよりは、役割の人物そのままになりきってしまって、自身を省みる余裕がなくなってしまうのだ。

 しかし拓実本人も、今回のような生き死にがかかった状態ですら戻ってこれないものだとは思っていなかった。それどころか華琳によって鎌を振り下ろされる瞬間、「ここで散るならば、それが私の天命」などと至極まじめに考えていたものだから恐ろしいものである。

 

「……まぁ、演技については見事なもの、と一応褒めておきましょうか。もう一度確かめるけれど、あくまで私の演技をしていたからであって、貴女自身に覇道を歩む気はないのね?」

「ええ、ありません。ありませんとも。自分にはそんな道、あんまりに分不相応ですから」

「そう。それならば、その首を刎ねる必要はなくなったわね」

 

 拓実は思わずと言った風に安堵の息を吐くと、「何とか助かったよ」という意図を伝えようとしてか、にこにことした笑みを春蘭と秋蘭に向けた。

 それを見て慌てている夏侯姉妹の様子は面白いのだが、自分と同じ顔がころころと表情を変えている様は、いつまでも華琳には見慣れないままであった。

 

 

 

 

「拓実。貴女、私と同じ顔をしておいて、表情をぼろぼろ崩すのは止めなさい」

「はい?」

 

 それからいくつか言葉を応酬させているうちに、我慢の限界に達したらしい華琳が若干の怒りをこめて拓実に命令を突きつける。突然にそんなことを言われた拓実は戸惑いの顔を見せた。しかし、それがまた華琳には気に食わないようである。

 

「ぼろぼろ崩すって言われても。その、これが素なんですけど……」

「知ったことではないわ。いいから言うとおりになさい」

「えええ……」

 

 素の自分をあっさりと否定された拓実は思わず泣き笑いのような表情を作った。華琳といい春蘭といい、人の意見はおかまいなしといった人がここには多いように思う。そんな風にしおれた拓実をにらみつけたのは、やっぱり華琳である。

 

「言っている側から崩すなんて、どういうつもりかしら?」

「そ、そんなこと言われましても……」

 

 華琳に釘を刺されて、必死に表情を引き締めるものの元々が表情筋の活躍豊かな拓実である。ちょっとの感情のブレですぐ表に出てきてしまう。

 言われて少し経つと眉が落ちてきて、引き締める前の情けない顔に戻っていた。拓実自身はそれに気がついていない。演技をしていない時の拓実などこんなものである。

 

「貴女っ、その情けない顔を止めなさいと言っているのよ!」

 

 「ひっ」と情けない声を上げては落ち込んで縮こまり、気の弱い小娘のようになっていく拓実。それを見た華琳の眉はどんどん吊り上がっていく。血の気が引けて青くなっていく拓実とは反対に、華琳の顔には血が上ってどんどん赤みを帯びていった。もちろん怒りでだ。

 正しく負の連鎖が出来上がっている。情けない拓実を華琳が怒れば怒るほど、その怒気に当てられた拓実は泣き顔になっていくのだから。

 

「華琳様。恐れながら、拓実には普段から華琳様の演技をさせておけばよいのではないでしょうか。さすれば華琳様を基準に行動するようですので、不用意に顔を崩したりはしないかと」

 

 そんな瓜二つながら二人の様子を見ていた秋蘭が、拓実に助け舟を出すために華琳に向け意見を述べた。華琳に圧倒されてかくかくと震える拓実は、傍からでは双子の姉にいじめられている妹のようにしか見えない。静観していた秋蘭の庇護欲を掻き立てていたようであった。

 庇われた拓実はわかりやすく「助かったぁ」などと声を漏らして安堵している。また崩している、と鋭く華琳が睨んでいることには気づかない。

 

「この私の演技を? そんなことさせて先のようになれば、今度こそ間違いなく拓実の首を刎ねるわよ」

 

 華琳は先のことを思い返し、苦々しく顔を歪める。華琳にとってあの一幕は紛れもない汚点であった、失態をさらしてしまったものとして自身の行いを省みている。

 実際のところ、華琳があの拓実の気に当てられて怯んでしまったのは、同じ姿、同じ声、同じ思想を持つ人間がいきなり目の前に現れたことで、しばらく思考を停止させられたことが原因だ。あの時の拓実は、確かに華琳と同程度の風格を持っていた。雰囲気から何から、春蘭から与えられた情報を限りなく再現していたのである。事前情報を一切与えられていなかった華琳では、もう一人の曹操と云える拓実を相手にして拮抗できる筈がなかったのだ。

 秋蘭や春蘭でさえ驚き動けなかった中、自力のみで押し返して五分五分に持ち直し、一歩も退かなかった華琳こそが驚きに値するし、脅威的なのである。けれども、そんなことをやってのけた華琳本人はというとまったくそうは思えないようであった。

 

「いえ、それについて問題はないものと思われます。どうやら先ほどのは極度の緊張と過度の期待に拓実が応え過ぎただけで、それ以前は見た目や口調だけの模倣でしたので」

「ふん。秋蘭がそうまで言うのなら、いいでしょう。拓実、やりなさい」

 

 不機嫌な華琳に促され、ついに自分の意思が完全に無視されたことに落ち込みながらも、拓実は「これだって仕事のうちだから」などと呟いて必死に自身に暗示をかける。

 何とか気を取り直すことに成功した拓実は、取り外していたウィッグを改めて付け直し、深呼吸を数回。格好をスイッチにしてしまった方が、切り替え易くなることを拓実は経験から知っていた。

 

「ああ、もう。これで満足かしら? まったく、話に聞いていた孟徳殿はもっと高潔であったというのに、実物がこんなにも我侭であったなんて驚きよ」

 

 演技を始めた途端に華琳の性質に乗っ取って、拓実はつい本音を漏らしてしまった。直ぐ隣にいた秋蘭の顔が引き攣り、固まった。

 言ってしまってから拓実自身もまずいと思ったが、意外にも華琳が怒り出すようなことはなかった。

 

「あら、それぐらいは疾うの昔に自覚していることよ。今更ね」

 

 いきなり悪態を吐いた拓実を前にして、華琳は満足そうに笑みを浮かべていた。表面上のことでなく、心から嬉しそうにしている。

 

「こうして落ち着いて見ると面白いものね。これの中身がさっきの気弱な少女だとはいくら私でも見破れそうにない。こうも見事に人を変えてしまうだなんて、中々身につく技術ではないわ。誇りなさい」

「……ここは素直に受け取っておきましょうか」

 

 上機嫌らしい華琳ではあるが、それが何故なのか拓実にはわからない。表面上では対等に笑みを浮かべて話しているが、拓実は内心空恐ろしい思いを抱えたままである。何せ、つい先ほどこの少女に殺されるところであったのだ。

 

「そう、貴女に一つ言っておかなければならなかったわね」

「言っておかなければならないこと?」

 

 拓実が演技を始めてから上機嫌であった華琳は、拓実の不遜な物言いに対しても特段機嫌を損ねることはなかった。そうしているうちに、ふと思い出したように声を上げた。

 華琳を相手にするにも慣れ始め、精神的にも余裕が出てきた拓実は首を傾げて華琳を見た。普段の拓実ならばそうはいかないが、演技をしていれば真っ向から見つめ合おうとも気後れせずにいられる。

 

「ええ。私の下で働きたい、そもそもそういう話だったのでしょう? 今の貴女であるなら我が陣営に迎い入れることに否はない。その才、私の為に存分に振るいなさい」

「……喜んで。孟徳殿にそう言ってもらえるとは、光栄だわ」

 

 華琳をしてそう言われるだけの才などを持ちえているのか拓実にはわからなかったが、そう言われてしまえば頷かないことは出来ない。

 いつの間にか家事手伝いの予定だった職務内容が変わっているような雰囲気を感じてはいたが、その逡巡も一瞬。華琳に対しても一歩も退かずに拓実はそう返す。

 

「華琳よ」

 

 突然に言われ、拓実は思わず数回まばたきを繰り返す。視界の中にいる華琳は、僅かに口の端を吊り上げていた。その声が聞こえていなかったわけではないが、拓実はどこか信じられないような気持ちで彼女を見つめてしまう。

 

「これからは『孟徳殿』だなんて他人行儀な呼び方をせず、真名を呼びなさい。拓実」

「……ええ。そうさせてもらうわ、華琳」

 

 華琳は拓実だけを見据え、身内に向ける柔らかさで拓実の名を呼んだ。堪えきれず、拓実は花の咲くような笑顔を浮かべてしまう。拓実のそれはもちろん、華琳が浮かべるような笑みではない。演技とは違う、拓実自身の笑顔の作り方だった。

 

 三国志を読んで、曹操が英雄であったことを拓実は事前に知っていた。そしてこの少しおかしな三国時代の少女の身であっても、それが変わることはなかった。

 華琳は紛れもなく英傑であり、それこそ類稀なる王の器を持つ人物だ。春蘭からの話を聞き、実際に対面した拓実の中でその考えは更に確固としたものになっている。

 その華琳に凡人でしかない拓実が認められたのだ。英雄にそう思わせることの出来た自分を、拓実は誇りであると思えた。今この瞬間、胸を張ってそれが言える。

 

 

 

 

 

「とりあえず差し当たってのことはいいかしら。では、春蘭」

「はっ!」

 

 拓実の命が華琳より安堵されてより春蘭は膝を突き、華琳に頭を下げたまま微動だにせずにいた。華琳からそうしていろと言われた訳でもなく、春蘭が自発的にしていたことである。

 

「主君であるこの私に対して無礼を働いた理由、拓実と会ったことで理解出来たわ。これを相手にしていては対応を取り違えるのも仕方がないとして、それは不問としましょう」

 

 そうして一度、華琳は口を閉じた。体を震わせている春蘭は、跪いたまま次の言葉を静かに待っている。

 

「しかしもう一つ。どのような理由があったとはいえ、この曹孟徳の決定に異を唱え、且つ食い下がることなど許しがたいこと。それは理解しているわね」

「はっ! 如何様にも処罰を!」

 

 打てば響くように返す春蘭に、華琳は満足そうに微笑んでいた。突如始まった春蘭への査問にいざとなれば春蘭に口添えしなければと人知れずに構えていた拓実は、恐れていたようにはならないだろうと気を緩める。

 

「……そうね、許しがたい。けれど、人材を見つけてきた功績も無視はできないわ。この拓実の才、見逃すにはあまりに惜しい」

「は、はぁ」

「よって春蘭。貴女には通常の業務の他に、拓実への武術の教育役に任命する。期限は二月、早急に仕上げなさい」

「華琳さま! それでは私への罰にはなりません!」

 

 罰を求めて声を上げた春蘭ではあるが、その罰を受けることになった原因――拓実を助けるために華琳の目前に飛び出したことに一切の後悔はなかった。

 確かにあのまま拓実の演技が戻らずに華琳に絶縁されてしまっていた仮定の未来を考えれば体に震えがくるほどに恐ろしいことではあったが、例えそうなろうとも春蘭はあの場で退くことは出来なかった。

 

 拓実は、春蘭が気絶させて無理に連れてきた者である。それに当たっていくつもの無礼を働いてしまったが、その全てを拓実は笑って許してくれていた。

 短いながらもこれまでの付き合いから失うには惜しい人柄をしていると感じていた。まして、そんな人のいい拓実を引き込もうとしたのは他ならぬ春蘭なのである。

 ならばこそ己が原因で拓実が命を失うなど、名に賭けても許せることではなかったのだ。もし我が身可愛さで拓実が処断されるのを見逃すことになれば、周りの全てが春蘭を責めなかったとしたとしても他ならぬ春蘭が自身を許せず、生涯に渡って後悔し続けることになると予感していたのである。

 結果それは、主君である華琳に楯突くことと変わらない。それをわかってて尚、春蘭は止めに入った。自身が不忠であったとわかっていたから、課せられる全ての罰をあまんじて受けるつもりであったのだ。

 

「春蘭、あなたは勘違いしているようね。私は仕上げなさいと命じたのよ。早い段階で私と武器を合わせられるまでに鍛え上げられなければ、勿論その時は改めて貴女に罰を与えるわ。拓実の資質に因るところではあるけれども、僅か二月でそこまでを求めるのはまず不可能でしょうし、今回の任命は罰執行までの猶予とでも思っていなさい」

「は……はっ! そういうことでしたら、かしこまりました!」

 

 ようやく顔を上げた春蘭だが、まるで華琳に褒められた後のように顔を綻ばせていた。そしてそれと対比するように、先ほどまでのように崩してはいないものの確かに苦い顔をしているのは拓実である。

 

「ちょっと待ちなさい。私の仕事は掃除や洗濯、調理と聞いていたのだけど、何故その私が武術を学ばねばならないというの」

「あら。役に入り込んでいたとはいえ、この私に向かって『覇業の一助になる』だなんて大言を吐いた者の科白なのかしら。それに、この私と瓜二つの容姿を持っている者にそんな雑用を任せると、本当に思っているの?」

 

 そう言われてしまえば、拓実は言葉を返すことは出来ない。いくらコントロール出来ずにいたとはいえ、そう述べたこと自体は覚えているし、他ならぬ自分が口にしたことだ。

 さらには、同じ顔である拓実の情けない表情一つで機嫌を損ねた華琳である。自身と同じ容姿をしている拓実が雑用を命じられ、人に使われている姿を見て耐えられる筈もない。

 

「言ったでしょう。私のために、その才を存分に振るえと。秋蘭が当初小間使いにするつもりだったと言っていたことも、私はどうかと思っているのに」

 

 隣にいた秋蘭がそれを聞いて静かに頭を下げた。それを流し見た華琳は、構う様子を見せずに言葉を続けていく。

 

「貴女がその才を活かすには、圧倒的に色々なものが足りていないわ。私には及ばずとも、追随するぐらいの能力を身につけてもらわなければならない。まずは春蘭や秋蘭の域に辿り着く事は出来なくとも、刺客を相手に己の身を護れるまで武を磨きなさい。次に戦局を見渡す目と機を見る判断力を培い、兵の運用を学びなさい。そしてこの街の暮らしをその目で見て仕組みを知り、街の発展に努めなさい」

 

 個人の武を磨き、軍を運用する方法を学び、内務をこなせるようになれと華琳は言う。額面通りに受け取れば、華琳の下で武官、文官両方を兼任するために技術を学べと取れる。

 拓実はしかし、それだけにしては最初の『武』が気にかかっていた。まるで、いずれ拓実が狙われる立場にあることを前提に話しているように聞こえる。華琳と間違えられ、狙われることを指し示しているのだろうか。いや、それなら内務だけをやらせて、戦場に立たせなければいいだけのこと。そんなことを華琳が気づいていない筈がない。華琳が考えているのは恐らく、拓実を敢えて戦場へ向かわせることであろう。

 

「つまり私に、華琳の影武者になれということね」

「『影武者』。そうね、主の影となり主の代わりを務めるという意味であるならその通りよ。仮にも私を模倣しているだけあって、同じ考えに至ることが出来るようね」

 

 華琳は興味深いという表情を浮かべ、ひとつ頷いた。

 

「総大将の存在は兵士の士気を高める。自ら剣を交えず、前線指揮に立つだけであっても敵を威圧できる。共に危険を冒してくれる主君であると感じれば、自軍の兵だってその働きを大きく違えてくれるでしょう。しかし大局を見通さねばならない私は本陣から動けないことも多い。その際に私の代わりに兵を率いて鼓舞する人間、それが貴女よ」

「そう。そして、絶対に討ち取られるわけにはいかない。それだけ言って貰えるということは、私のことを随分と高く買ってくれているのね」

「当たり前のことを、何を今更。私を相手に対等に渡り合える者が、果たしてこの大陸にはどれほどいるものか。その曹孟徳に真っ向から挑み、貴女は演じきって見せた。貴女以外にこの役目を任せることは出来はしないわ。そして同時に、限定的にとはいえ拓実にだけはこの私の名を名乗ることを許すと言っているの」

「私が、華琳の名を?」

 

 華琳に対し聞き返すように言葉を返しながら、拓実は自分の心臓の鼓動が大きくなったことを自覚する。

 どくん、どくん、と拓実を中からぐいぐい押し上げている。役者として。そして、それとは違う理由が体を疼かせている。

 

「か、華琳さま!? どういったおつもりですか!?」

「それは、いくら華琳様といえど承服致しかねます!」

 

 血相を変えながら声を上げたのは春蘭、秋蘭の二人だった。華琳に向けての言葉だというのに強い口調であるのも仕方がないと言える。下手を打てば今の州牧の地位すら失いかねない言葉だったからだ。

 血統を尊び、名を命とするこの大陸では、華琳のその発言はありえないといってもいいものである。真名を預けるというだけでも相手の命を預かるという重要な物であるのに、他人の、それも州牧という要職に就く者を騙るともなれば、最早それと比肩できる話でもない。本人よりの許可があるが故に、その事実が公になればたちまち華琳は「命を譲り渡す、名の軽い者」と揶揄されるだろう。曹孟徳という名は、あっという間に堕ちていくことになる。

 

「二人が何を危惧しているかについては理解しているわ。だからこそ拓実がその『影武者』なる者であることは徹底的に秘匿し、中枢の信用おける者のみが知る最上の機密とするつもりよ。拓実には極力外出をさせず、する時であっても完全な別人になるよう変装してもらうことになるわね」

 

 夏侯姉妹からの忠言に華琳は冷静に詳細を話していく。それを聞いて納得してしまった春蘭はともかく、秋蘭の方はまだいくつも問題点を具申したいようだったが、結局は押し黙ることにしたようだ。

 二人がとりあえず納得したのを確認し、その計画の中核になる拓実を華琳は見やった。

 

「それで、拓実はどうかしら? 間違いなく不自由にはさせてしまうとは思うけれど、これは貴女にしか出来ないことよ。問うわ、南雲拓実。――この私の『影武者』として仕える気はある?」

「……少しだけ、考えさせてもらってもいいかしら。自分が今置かれている状況に、整理をつけさせて」

「ええ。自分に納得のいく答えを見つけなさい」

 

 ――華琳の許可を得て、拓実は深く思考の海に沈んでいく。考えるべきは、自身のことである。

 

 この時代に来て色々とあったが、拓実が来てからまだ二日目。一晩しか経っていないのだ。春蘭が華琳について語る中で、いくつかこの時代の情勢についてがあったが、どういった時代であるのかを自分の目で確かめたわけではない。最終的に元居た日本に帰りたいと思ってはいるが、どのようにしてこの時代に来たのかもわからず、当然ながら帰る方法だって存在しているのかどうかすらわからない。拓実はもしかしたら、この時代で一生を終えることになるのかもしれない。わからないことだらけだった。

 そもそも華琳と会うことになったのも、情報を集めるための当面の衣食住を求めてのことだったのだ。当初の仕事の条件であれば、強引に申し出れば出奔することだって難しくはない。しかし華琳の配下として重大な役職についてしまえば途中で逃げることなど許されまい。少なくとも大陸がある程度平定されるまでは、華琳の下を離れることは出来ないだろう。立場柄、集めようと思えば様々な情報を手に入れることが出来るかもしれないが、その中から帰る方法を見つけたとしても戻ることは許されないだろうし、自分の信条的にも出来そうにない。

 

 華琳に仕えることで帰れなくなる可能性が出てきてしまうのだが、それでも配下として迎えてもらうことが自分にとっての正解だと拓実は断じていた。

 堅実に行くならば、華琳の下で大陸の平定に尽力することだ。同時にそれまでに現代日本へ帰る方法を探して見つけておく。何年掛かるのかわからないが、全てが終わった後に帰ればいい。もし帰る方法がなかったとしても、この世界で生きていくだけの仕事はある。申し出を断って出て行くよりも帰る方法が見つかり易いだろうし、衣食住についての心配もなくなるだろう。

 

 けれども、拓実が華琳の配下となれば、これまでやったこともないことをいくつもこなさなければならなくなる。

 一つに政務――これはまだいい。文字の読み書きはこの時代で生きていく上でも必要だし、一応は学生であったのだから恐らく計算なんかも問題ない。一度覚えてしまえば、きっと人並み程度にはこなせるだろう。

 一つに軍務――人を率いて、人を殺すということ。己の目的のために、他人を殺すこと。エゴを突き通さなければならないということ。

 そして自衛――当然『影武者』という立場には危険が付いて回る。殺される可能性があるのは華琳が武を磨けということからも理解できている。いざという時に己の身を護れるぐらいに強くならなければならない。

 

 拓実にとってどれも未体験で、大変なことだ。特にその中でも多くの人を殺していかなければいけないというのが一番堪えるものだと思う。こうして考えていても、人を殺す自分の姿を想像も出来ないでいる。

 しかし華琳の下でなくとも、この時代には他人を殺さなければ自分が殺されるような、そんな状況が溢れているという。旅をすれば、追い剥ぎに遭って殺されることもある。追い剥ぎが返り討ちに遭って殺されることもある。兵になれば敵方の兵を殺し、あるいは殺される。街で静かに暮らしていたって、賊の略奪に遭えばそれでおしまいだ。

 

 こんな荒廃した世を憂い、一つにまとめ正す為に華琳が立っていることを拓実は知っている。

 そんな華琳を支えている春蘭と秋蘭が、己が主君こそが何よりの誇りであると思っているのを拓実は知っている。拓実も、誇って生きていきたいと思っている。例え同じ人殺しになるにしても、少しでも自分に誇りを持っていたかった。

 そして一時とはいえその華琳に成り切っていた拓実は感じていた。弱い自身と、強い華琳との大きな差を。そして、彼女は拓実の知る誰より誇るに足る人物だということを。そんな強い華琳が危険を冒しながらも世を正す為、弱い拓実の力を必要としているのだ。

 

「私は、華琳についていくわ。華琳の作る太平の世を生きてみたい」

 

 そう考え至った時、拓実の中ではすとん、と答えが出ていた。拓実は当たり前のように、華琳と同じ道を歩んでいくことを選んでいた。

 たとえ血で濡れようと、華琳の目指す覇道を終わりまで支えていく覚悟を固める。華琳の覇業を助ける為に人を殺すことを、他ならぬ自分の意思で決めた。

 

「けれど華琳。私という存在が他者に知れれば多くの不利益を生み出すことになるけれど、構わないのね?」

「言ったでしょう。これは、貴女以外には出来ないことだと。逆を言えば、私は貴女であるなら間違いなくこなしてくれるだろうと確信しているの」

 

 笑みと自信を以って、華琳は言い切った。華琳にそうまで言われてしまえば、拓実も何事もなく出来てしまうような気になってしまう。

 

「……ふふ」

 

 こちらに微笑を向ける華琳に対して、拓実も笑って返した。そして静かに華琳の前まで歩み寄り、膝を突く。華琳に向けて頭を垂れ、自身の誓いを口にした。

 

「我が全身全霊を以って、貴女の影武者を務めましょう」

 

 そうして現代からの来訪者である南雲拓実は、後世に英雄と称えられている曹孟徳の影武者となったのだった。

 

 


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