影武者華琳様   作:柚子餅

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43.『曹操軍、曹操と劉協を保護するのこと』

 

 華琳らが潜んでいるという報告を受けた場所は、官軍が捜索していた林のその奥、ところどころ地肌が見えている山の側面にある洞穴の中であった。

 春蘭に軍を任せて周辺の偵察と残党の掃討を命じた拓実は、秋蘭と季衣の二人だけを連れて面会に臨む事とした。秋蘭が先導し、その後ろに拓実、最後尾には武装した季衣が周囲を警戒している。

 

 洞穴の入り口には、僅か数名の兵士が身を屈めて潜んでいた。実際に上ってみてわかったことだが、眼下に官軍が捜索していた林や曹操軍が進んでいた平野が見渡せるようになっている。見張りの兵に身を伏せさせておけば木々や背の高い草で下方からは死角となるようだ。

 その見張りの兵たちは歩み来る拓実を視認するなりに揃って呆然となり、目を見開く者、しきりにまばたきする者、目を擦る者と、総じて己の目を疑いかかっているような反応である。

 春蘭が官軍を蹂躙している間、林周辺の偵察をしていた秋蘭にコンタクトをとってきたのは華琳側である。この場の兵たちには華琳より説明があったのだろう、拓実の姿を認めても困惑と驚愕こそ見られるものの取り乱しまではしていない。

 そのまま周囲の兵士を見回していると、あることに気づく。皆女性であり、誰もが一般兵の服装こそしているが親衛隊に配属されていた筈の面々である。どうやら、華琳が密かに一般兵に扮装させた親衛隊の兵士を傍仕えに同行させていたようだ。

 

「そこの者。……ん? お前だったか」

 

 洞穴の前まで辿り着くと、秋蘭が入り口の警護の任についている兵へ声をかけた。拓実もその女性兵士を見てみれば、何やら見覚えがある顔だ。

 

「夏侯淵さま! 救援、感謝致します! 助かりました!」

「壮健なようで何よりだ。積もる話もあるだろうが、とにかく華琳様への取次ぎを頼みたい」

「は、はっ! かしこまりました! ご案内させていただきます!」

 

 色白の肌に映える長い黒髪をポニーテールにした少女。無骨な大剣を背負っているというのにその重みを苦に感じている様子は無い。そして、春蘭と秋蘭をも上回る大きな乳房をぶら下げている。

 追撃部隊に曹洪の副将に配属されていたらしい牛金である。鎧は傷ついているし髪の毛もぼさぼさ、衣服に至っては土と血に塗れてところどころ破れてはいるようだが、見る限りでは大きく負傷しているようには見えない。

 

「……ふん」

 

 荀攸の時はとにかく気に食わなかった牛金が、華琳に扮しているとまた違う印象となるようだ。彼女を見ていると拓実は何だか自分が惨めになるような、しかしよくぞここまでという賞賛する気持ちになるというか。他には、人々の間に貧富の差が現れるのは何故なのかという疑問が唐突に頭を過ぎったりする。よくわからないが拓実は物悲しくなった。

 荀攸にしても今の拓実にしても、決して彼女に対して含むところがあるわけでも嫌いという訳でもない。むしろ人懐こく好ましい人柄をしていると思っているのだが、なんだかもやもやとしたものが残ってしまう。

 

「それで、あの、夏侯淵さま。そちらの方は、ほ、本当に曹操さまにございますか?」

「あなたには、それ以外の何者かにでも見えているのかしら?」

「ハイっ!? い、い、いえっ! ちが、今のハイは違くて、その、そんな、滅相もございません! ただその、追撃部隊に同行なさっていた方の曹操さまが『洛陽にもう一人の私がいる』と仰られていたものでしてっ!」

 

 秋蘭への問いかけに横から拓実がちょっと不機嫌に答えてやると、それに気圧された牛金はぶんぶんと首を振って否定にかかった。相変わらず彼女の声は大きい。

 これで追撃部隊では主将の曹仁に曹洪、副将の牛金。そして今、華琳に随行している親衛隊の兵士数名に影武者の実在を知らせたということになる。どうやら華琳は随分と曖昧に影武者の存在を伝えていたようだが、この反応を見る限りでは牛金たちにはどちらが本物であるかわかっていない。

 

 華琳率いる追撃部隊が洛陽を発ったのは日も上らぬ早朝のことである。前日復興指揮をしていた拓実は見送りには立ち会わず、華琳は変装を解いて曹操として洛陽から発っていった。これは追撃部隊の五千の兵たちに余計な情報を与えぬようにする為だ。

 他にも、曹操が二人存在することないようにと事前に華琳と話し合い、出来る限りのつじつまを合わせてある。曹操が二人存在していることは、出兵してから曹仁・曹洪・牛金へと伝える手筈になっていた。こっそりと参加させたらしい親衛隊の彼女たちに知らせたのはおそらく追撃部隊が敗走してからのこと、洛陽からの救援があった時に情報伝達に混乱を起こさない為の配慮だろう。

 もし不審に思われるとしたら、追撃隊に編成されている筈の荀攸の姿がどこにも見えなくなっていることぐらいか。

 

 荀攸は普段、武官連中にはあからさまに見下した振る舞いをしていることで煙たがられていて、桂花の補佐官としてつきっきりで働いている為に文官らとも個人的な交友は無いに等しい。表舞台に立ったのも、軍師としての名が広まるきっかけとなった汜水関の攻略戦が初めてである。その軍師としての役割にしても、本職顔負けの主君が追撃部隊を率いるとなれば荀攸のすべき仕事などあってないようなもの。顔合わせの際には華琳直属と紹介されていることもあって、周囲から執拗に追求されるようなこともない。

 しかして、例外はある。それが先の汜水関で荀攸の副官を務めた牛金である。汜水関で、荀攸である拓実と彼女との間には多少なり繋がりができてしまっているのだ。故に牛金は参加している筈の荀攸の姿を追撃部隊に探しただろうし、荀攸が見つからないというのにその上で主君がもう一人存在していると聞かされたなら、当然に疑問を覚えたことだろう。

 こうして目の前にいる拓実と今洞穴にいる華琳、どちらが本物であるのか彼女に見分けはつくまい。けれども参加している筈の荀攸が追撃部隊に見当たらず、これまで噂にも上らなかった二人目の曹操が洛陽にいるとなれば、荀攸こそが華琳の影武者であると牛金が気づいてもおかしくない。いや、気づいているものと想定しておくべきだろう。

 

「まあ、いいでしょう。私が誰であるか理解したのならば、すぐに私が来たことを『私』に伝えなさい。余計な時間を取らせないで頂戴。この場での問答など求めていないわ」

「は、はっ! 申し訳ございません!」

 

 いくら秋蘭や季衣と共にいるとはいえ、警護の任についている以上は何者であろうと疑ってかからねばならない職責からの誰何(すいか)でもあったのだろう。

 すっかり気圧されてしまっていて冷静に判断が出来ていないようではあるが、それを責めるのは酷というものか。主の警護をしていたら主の姿をした者に取り次ぎを頼まれるとは、まず思うまい。

 

 

「曹操さま! その……洛陽から曹操さまが到着なさいました!」

 

 洞穴前で警備を務めていた牛金が慌てふためいた様子で声を上げて中へと入っていくのだが、まず内容がおかしい。あんまりな発言に拓実は呆れて脱力してしまった。次いで秋蘭へと視線を向けるが「仕方の無いことでしょう」と言わんばかりに首を横に振られた。季衣なんかはくすくすと笑い声を漏らしている。

 拓実は気を取り直して洞穴内に立ち入る。中は入り口からは想像できないぐらいに広く、二、三十人なら問題なく入れるぐらいだ。中には、入り口傍に親衛隊の兵士が三人と曹洪の姿。秋蘭と彼女に促された季衣は入り口で立ち止まり、控えていた曹洪の隣に並んで礼を取り、深く頭を垂れた。

 

 拓実が一人進んでいくと、奥まったところに何枚かの(むしろ)が敷いてあり、その上に置かれた簡易椅子にはそれぞれ、数人の少女たちが腰を下ろしている。

 椅子に座る少女たちの中に華琳を見つけると、拓実はちらと一瞥した。流石の華琳といえど玉砕覚悟の突撃に命がけの撤退はこたえたらしく、衣服は汚れ、鎧には土がついたまま。大事には至ってないようだが、負傷したらしい左足と右手には布が巻かれている。

 彼女は拓実からの探るような視線に表情を消すと目を瞑り、僅かに顎で左方を指し示す。意図を察した拓実は向けられた方へと歩き出した。

 

 華琳が示したその先には特に身なりが豪奢な人物が座っている。驚愕を隠せない様子でいるのは、拓実が華琳と瓜二つな容姿をしているからだろう。拓実は静かに歩み寄るとその目前にて両膝を突き、眼前で両手を合わせて深い礼の形を取った。

 

「拝顔の栄に浴した幸運に感謝致します。敵軍が迫っておりますので、略式にて礼を欠くこととなりますがどうかご容赦をいただきたく。朝廷より(エン)州牧の任を戴いております、曹孟徳にございます。陛下におきましてはご機嫌麗しく……」

 

 本来であれば中より声が掛かり、名を名乗り上げ入場し、歩み寄るにも口上を述べるにもいくつもの順序を踏まねばならないのだが、今この時においては一刻を争う。

 古くは荀子、以降も代々朝廷に出仕していた荀家の血族である桂花よりその辺りの作法・立ち振る舞いはきつく教え込まれていたが、それを悠長にこなしている余裕もない。

 

「よい。顔を上げてくれ。陛下などと。弁義兄(あに)上様が崩御なさられたとはいえ、私が帝になると決まったわけではないのだ」

 

 許しを得たことで拓実が顔を上げた先には、己を鑑みて苦笑を漏らす黒髪を纏め上げた少女の姿があった。その豪奢な身なりといいその風格といい、帝救出のお題目を掲げていたこともあって目の前の少女が帝であると思い込んでいた拓実だったのだが、どうやらそうではないようである。

 弁義兄上というのは劉弁のことであろう。目の前の人物は拓実が知っているものとして語ったが、どうやら長安の遷都に際してかこの逃亡中に何事かがあってのものかはわからないが、既に亡くなられてしまったようだ。となると、今拓実が話している相手は劉協であろうか。

 

「とは言え、此度のことで私の一族は皆(たお)れてしまった。残す私が皇位を継がねば劉王家は滅びるだけではあるのだがな。ああ、名乗っておらなんだか。私は、いやしくも彼の光武帝の末裔に名を連ねる劉協。陳留王である」

 

 どこか厭世的な雰囲気を漂わせて名乗った劉協のその声には、威厳はあれど力はない。見る限り十台半ばほどの少女。しかし、その発言の端々には年に似合わぬ落ち着きと知性の高さが垣間見える。

 

「ところで、そちも曹操と名乗り、また周りの者より呼ばれておったな?」

「左様にございます」

「では、軍を率いて参ったそちこそが本物の曹操ということか? それとも、あちらに座る曹操が本物であるのか? 見る限りでは声も、その背格好も寸分違わぬ。加えて雰囲気も同じとなれば、私には見分けがつかぬ」

「は」

 

 劉協の問いかけに声を返しながら、拓実は薄く笑みを浮かべた。おそらくは、華琳もまた同じように笑んでいることだろう。

 華琳たちが曹操軍を捕捉してからこうして拓実が向かうまでには、僅かとはいえ時間はあった。本隊へと伝令を出すことは出来ただろうに指示がなかったということは、影武者としての拓実がこの場に必要であったのだ。であるならば、拓実がどう振舞うべきかは言わずとも知れている。

 

「見分けがつかぬと仰られた陳留王様のお目は確か。ご覧の通り、どちらも本物にございます。と申し上げますのも、この私も、あの私もこの場で名乗る名は曹孟徳の他に持ち合わせておりません」

「なっ!?」

 

 目を見開き声を上げたのは劉協その人ではなく、筵の端の方に座っている眼鏡を掛けた緑髪の少女である。ちら、と拓実がそちらに目線を向ければ、眼鏡の少女はその隣に座る、劉協にこそ劣るが華美な衣服の少女を庇うように体の位置を変えた。

 

「む。私を前にして、名を偽るのか?」

「恐れ多くも陳留王様に名を偽るなどと。されど今この時においては、どちらも曹孟徳にございますれば」

「ほう。今は、か。ならばよい。どちらが本物であるか、この私の目で見極めよう」

 

 何事か理由があると察したか、劉協はあっさりと引き下がった。それで不機嫌になるどころか、むしろ見分けもつかない二人の人間を前に面白がっているように見える。

 問いかけに対して、拓実の返答は明らかに不敬であるといえた。それを咎めないのは劉協自身の気質も多分にあるが、彼女たち義兄弟がその取り巻きに傀儡(かいらい)として扱われ、権力を持たされなかった境遇によるものなのかもしれない。

 

「陳留王様。この洞穴は身こそ隠せても防備に関しては多くの不安がございます。まずは我が陣にてお休みいただくがよろしいかと」

「私の処遇は曹操に任せる。良く計らってくれ」

「御意に。――秋蘭、陳留王様を我が軍へご案内なさい。私たちが戻り次第動けるように、春蘭には軍の再編を急がせておいて」

「はっ!」

 

 秋蘭が拓実の声を受けて立ち上がると劉協へ歩み寄り、いくつか言葉を交わして彼女の先導を始める。曹洪と親衛隊の兵士を護衛に連れて洞穴より退出していった。

 

 

 劉協の姿が見えなくなるまで見届けると拓実は立ち上がり、向きを変えた。そうして見下ろすようにした先には、負傷し腰を下ろしたままの華琳の姿があった。

 

「どうやら、随分と梃子摺ったようね?」

「そうでもなかった、と言いたい所だけれど、このざまでは虚勢を張ることすら出来ないわね。……見ての通り、今回ばかりは肝を冷やしたわ」

「まあ、それでも救出自体は成功させたのだから十分に及第点でしょう」

 

 (あざけ)る様に投げかけられた拓実の言葉に対して、華琳は手のひらを開いてお手上げという風に首を振って見せた。他人に弱みを見せたがらない華琳が、拓実が近づいても一向に立ち上がろうともしない。

 華琳をしてここまで言わせるなど並大抵のことではない。追撃隊は相当の苦戦を強いられたようだ。拓実は口元を緩めて、ゆったりと足を進める。

 

「それで、この者たちは?」

 

 隣へと歩み寄り、屈んで足を負傷している華琳に肩を貸してやる。拓実も華琳も声に出して合図を取らずとも、息の合った自然な動作で立ち上がる。

 そうして立った拓実が視線をやった先には、緑髪を二つのみつあみにして眼鏡をかけた少女と、薄紫色の髪を肩ほどまでの長さで切り揃えた気弱な印象を見せる少女。眼鏡の少女が拓実の視線を遮るようにして、困惑の色を混ぜながらも拓実と華琳を睨みつけている。

 

「帝を傀儡として洛陽に悪政を敷いていた董卓と、その参謀の賈駆よ。劉協様と同じ馬車内に監禁されていたものだから、成り行きで共に連れ出すことになったのよ」

「ち、違う! 月はそんなことしてないわ! あいつら宦官が月の名前を騙って、好き放題に! 悪いのはみんな、あいつらが……!」

 

 言った華琳に緑髪の少女が立ち上がっては詰め寄り、掴みかからんばかりの勢いで声を張り上げる。

 彼女の発言から察するに、月とは董卓の真名であり、薄紫色の髪をしている方の少女のことだろう。とすると、この緑髪の少女が賈駆ということか。特に董卓はだいぶ拓実の持っていたイメージとは違っていたが、最早驚くことでもなかった。

 必死に董卓を庇って抗弁している賈駆のことを、華琳は冷ややかな目で見ている。おそらくは同じ思いから拓実もまた、賈駆の発言にはまったく共感できそうにない。

 

「あなたは、周りの人間に利用されただけの董卓には一切の責もないのだと、そう言いたいのかしら?」

「それは……一切、とまでは言えないかもしれないわ。でも、あいつらが月を騙して、家族を人質に取ったりしなければ!」

「そうして易々騙された結果として、民は搾取され、餓え、死んでいった。もっとも理不尽を強いられたのは彼ら無辜(むこ)の民よ。その民たちの無念の怨嗟は、他ならぬ董卓の名へと向かっているでしょう。確かに、元凶は宦官の連中だったのかもしれないわ。けれど、洛陽でそれを止めることができる力を持っていたのは、いったい誰だったのかしらね」

 

 呼吸を僅かに荒くして、気だるそうに華琳は董卓を見やる。怪我をしているからか、それとも本隊と合流したことによる安堵からか、多少朦朧としてきているようだ。

 ちら、と華琳に目配せされて、今度は仕方なしに拓実が口を開く。どうやら華琳は今、出来る限り体力を使いたくないようだ。

 

「言うまでもないことだけど、朝廷の大将軍の任に就いている董卓に他ならないわ。人質を取られたからといって民がその身内とやらの身代わりとなって死ぬ理由にはならないわね。民を、人を従わせる立場にある者が弱くていい筈がない。洛陽の治世が宦官のものであると見抜いていた民はいたけれど、そんなものは何の慰めにもなりはしないわ。力を持ったことへの責任を果たせぬのなら、人質を取られた時点でさっさと自害でもしたほうが余程よかったのではないかしら」

 

 拓実が華琳の言葉を引き継ぐ。その言葉が思いの他辛辣になってしまったのは、洛陽よりすぐさま追撃に出た華琳ではなく、復興指揮として残りその惨状を深く知った拓実だったからかもしれない。

 餓死したのだろう骨と皮だけとなった死体、道端に放置されていた病死人、赤子を抱いたままでもう二度と動くことがない母子――。民の話によれば、人食いもあったという。復興支援する上での問題を見つけるために、拓実は洛陽の滞在中視察を欠かさなかった。今も、それらの光景は拓実の目に焼きついている。

 確かに董卓は一側面からすれば被害者であったのかもしれない。そのことだけなら同情もできなくもない。だがそれは董卓らの主観でのことであって、第三者からすれば悪政の片棒を担いでいたことに変わりがないのだ。

 

「曹操! あんたっ!」

「詠ちゃん、やめて。曹操さんたちの言っていること、間違ってないよ。私が弱かった所為で洛陽の人たち……それだけじゃない。私についてきてくれた兵士の人たちもいっぱい傷つけて、死に追いやってしまったのは事実だから……」

 

 そう言った董卓の顔は血の気が引けて青ざめている。不安げに組んだ手は震え、深く自責しているようだった。彼女は民の困窮する声を聞いて、毎日嘆いていたに違いない。

 董卓は優しく、臆病すぎたのだろう。己の境遇に、日に日に悪化していく洛陽の窮状に、嘆くことしかしなかった。その宦官に取られた人質が誰なのかを拓実は知らないが、民も自分も人質も部下も、そのうちのどれも傷ついてしまうことを恐れ、動けずにいた。そうした結果が洛陽の惨状であり、大陸に広まる董卓の悪名であり、反董卓連合軍だった。

 

「月……」

 

 激昂しかかった賈駆もまた、董卓の一言で悲壮な表情に変わる。賈駆にとって、董卓は唯一無二の人物であるようだった。母猫が子猫を庇うように、自分の命に換えても董卓を守るという意志が見える。

 拓実は、隣の華琳を見やった。追撃部隊で何があったか拓実は知らない為に、華琳がどうして二人を同道させていたのかを理解できない。董卓の罪の所在は明らかであり、連合軍の諸侯も領地に帰還していったとはいえ首謀者とされている董卓を倒さない限りは収まりがつかないだろう。どちらにせよ、董卓は殺さねばならない状況だ。こう言ってはなんだが、生死を賭けての撤退に人間二人も余計な荷物を連れている必要などなく、その場か、あるいは道中にでも斬り捨てるべきではなかったのだろうか。

 

「賈駆。追撃隊の迎撃策を官軍に授けたのはあなたなのでしょう? 洛陽制圧から間も置かずに進軍を開始したというのに、官軍はその経路に伏兵を配置していたわ。虎牢関の放棄が決まる時にはもう、長安の制圧に動き出していたとしか考えられない。兵を遣わし、長安では別に軍備を整えさせ、洛陽が制圧された時には追撃に備えが出来ていた。追撃進路への効果的な二段の伏兵に加え、機を計っての長安からの出兵。官軍で軍師と呼べる人物といえば、賈駆に李儒と伝え聞いている。李儒は姦計立案に一長があれど、軍略においては並以下。董卓の安全を引き換えにされて宦官どもに案を出さざるを得なかったのだろうけれど、全てはあなたの策と見ているわ」

「……そうよ。張譲たちが自分たちの退却を最優先にした所為で、劉協様とボクたちがこうしてあんたたちに追いつかれることになったけどね。けど、それでよかったのかもしれない。悪名をなすりつけて利用価値がなくなりつつあったボクたちが長安まで逃げ延びたとしても、そう遠くないうちに処断されていたでしょうし。あんな奴らに劉協様を任せようものなら、大陸は更に荒廃するでしょうよ。それに比べたなら曹操の方がまだマシだわ」

 

 賈駆へ語りかける華琳の表情を見て、拓実は浮かんでいた疑問への答えに思い至った。表情こそ変わらないが、気だるさが消えて瞳には隠し切れない輝きが見える。また、敗軍の将に向ける言葉にしてはあまりに賛辞が溢れていた。

 そう。華琳がわざわざ二人を連れて逃亡していたのは、自身に痛手を負わせた賈駆を自軍に引き込む為だったのだ。華琳がそう考えていたのならば、二人を揃えて生かしていることにも納得がいった。

 

「あなたの策謀は見事だった。流石に名軍師と名を馳せているだけのことはあるわ。そんな傑物を、このようなつまらぬところで潰えさせるにはあまりに惜しい。私に仕えなさい、賈駆。私の下へと来れば、あなたはその才を十全に生かすことができるわ」

「お断りよ」

 

 賈駆の返答は早かった。華琳の話し振りから、そういった話になるのを予想していたのだろう。

 彼女が意識を向けている相手は誘いをかけてきた華琳ではなく、いつだって背後に庇っている董卓だ。

 

「それを受けたとしても、あんたは月の助命を受け入れたりはしないでしょ? もしも連合に参加した諸侯連中から月の安全を保障してみせると約束できるのなら、あんたに仕えるのも構わないけれど」

「詠ちゃん、そんな……私はいいから、詠ちゃんだけでも」

「月がいないのなら、ボクだけが生きてたってしょうがないもの」

 

 賈駆は続けて、「どちらにせよ曹操が軍師一人の為に、いくつも敵を増やす愚を犯すような人間には思えないけどね」と諦観した様子で嘆息する。

 彼女は勘違いしているようだが、華琳の欠点の一つが人材収集の悪癖だ。確かに華琳は損得をしっかり見極めて理知的に事を進めるが、人材関連に使っている損得勘定の秤だけは不良品なのだ。

 

「やはり。董卓をその場で斬らずに生かしておいたのは正しかったようね」

 

 ぽつりと呟いた華琳の言葉に、拓実は首肯した。もしも董卓を殺していたら、賈駆は決して曹操軍に降ることはなくなり、そのまま後を追って死を選びかねない。

 それならまだいいが、最悪は董卓を殺した華琳を生涯の敵と定めてからまかり間違って逃亡するようなことになれば、敵軍で曹操軍を相手に全力で以ってその才を振るうことになるだろう。

 

「いいでしょう。賈駆が我らが軍師として仕えるというのであれば、董卓の命は保障するわ」

「は、はぁ!? 連合に参加した諸侯を敵に回しかねないのよ、そんな簡単に決めていいの!?」

「あなたという軍師を手に入れられるというのならその程度、安いものだわ」

「う……そ、そこまで買ってくれるのは、軍師冥利に尽きるというか、嬉しいけど」

 

 華琳よりあまりに直球な言葉で返されて、賈駆は頬を染めてたじろいだ。少しの間もじもじしていたが、華琳と拓実に微笑を浮かべて眺められていることに気づいて、途端に形相を変えた。

 

「そ、それなら! 月はどこか安全な、戦に絶対に巻き込まれないようなところに匿ってあげて! ボクがその手間分も含めて、命を賭してでも軍師として働くから!」

「残念だけれど、それは出来ないわね。賈駆も董卓も、曹孟徳が二人存在していることを知ってしまったのだから。これを知った者は私の手元に置かれるか、そうでなければ永遠に口を開けぬようになるかのどちらかよ」

「あんたたちが勝手に姿を晒して見せた癖にっ!」

 

 にやりと笑って返す華琳。わざわざ拓実に影武者のまま来させた理由は、機密を知らせて董卓を華琳の側に置き、賈駆の逃げ道を塞ぐ為のようだ。

 その手管に呆れるやら感心するやらだが、拓実もまた賈駆に対して興味を覚え始めている。華琳をしてここまで言わしめる軍師。そうであるなら手元に置きたがる彼女の気持ちはよくわかる。

 

「では董卓。あなたには今の名を捨て、身分を偽ってもらうわ。今後は……そうね、董卓と一族を同じくする董白とでも名乗っておきなさい。加えて私は命は保障すると言ったけれど、だからといって無能を飼う気はないの。私の手元にいる以上は、何かしらの仕事を覚えなさい」

「え……」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 月が名を捨てることだって納得できないのに、勝手に名前まで決めて! だいたい、名前を変えるっていうのなら、何で董の姓を残すのよ! 全然別の名前にしないと、名前を変える意味が……」

「ええ。賈駆の言うように完全に新しい名にしてしまえば、董卓本人であると露見しない限りは民からも諸侯からもこの子が責められることはないでしょうね。私としても、そうした方が匿うにあたっての面倒は減るわ」

「そこまでわかっているのに、なんで!」

 

 身を乗り出してまで食って掛かろうとする賈駆を無視して、華琳は董卓を見つめる。その視線の篭められているのは、慈悲ではない。

 

「董卓の血族を名乗るのであれば、董卓本人ではないと理解していようと民は皆あなたを罪人かのように扱うことでしょう。それを召抱えた私も、少なからず民からの評判を落としかねない。だからといって、これまでの己の所業を別の物として過去を封じ、罪から逃れて安穏と過ごすなど私は許さない。己の弱さが招いたものを理解し、直視して生きていくべきではないかしら?」

「それは、そんなのは曹操、あんたの決めた勝手な……!」

「詠ちゃん」

 

 華琳に向けて言い募ろうとした賈駆の前に、董卓が歩み出る。顔は青ざめたままだが、先程のような体の震えは見えない。

 それまでの彼女と最も違うのは、雰囲気だ。拓実が初見で感じた、今にも枯れてしまいそうなそんな儚げな野花のような気弱さが薄れている。踏まれても決して折れはしない、しぶとい根が張ったような印象を受ける。

 

「……曹操さん、わかりました。私はこれから、董白として生きていきます」

「ゆ、月っ!? そんな、月は本当にそれでいいの?」

「いいの。私はいっつも詠ちゃんに守られて、周りのみんなのことを頼ってばかりだったから。何が出来るかわからないけれど、これからは私自身が頑張らないといけないと思うから。曹操さん。ご迷惑をかけてしまうと思いますけど、どうかよろしくお願いします。ほら、詠ちゃんも」

 

 拓実と華琳に向き直り、しっかりと頭を下げる董卓。賈駆はわたわたとその隣で慌てるばかりで、董卓のした決断に戸惑っているようだった。

 見るからに頼りない董卓が真っ直ぐにこちらを見据えて、華琳を負傷させるほどの軍略を見せ付けた賈駆はこの急展開に冷静さを失っている。どうやら、本当に肝が据わっているのは董卓の方なのかもしれない。

 

「ふうん……董卓は主体性のない、言ってしまえば暗愚であると見ていたのだけれど」

「そのようね、私もすっかり見誤っていたわ。賈駆に言われるがままなのかと思いきや、意外と(したた)かなのかしらね。それに、己が決断するべきところは理解しているみたいよ」

 

 僅かに感心したような華琳に拓実もまた同意の声を返し、二人の様子を眺め見る。なにやら考え直すようにと董卓を説得しようとしていた賈駆だったが、その意志が固いと知るや天を仰いだ。

 

「ああ、もう、わかったわよ! こうなった月は頑固なんだから! ボクも、月も、これからは曹操を主君として…………」

 

 言葉の途中で突然に賈駆は口を閉ざし、はっと気づいた様子を見せるや寄り添い立つ拓実と華琳を目を細めて見比べる。そうして眺めた賈駆は、怪訝そうな顔を変えないままにまた口を開いた。

 

「ちょっと待って。それで結局、どっちが本物の曹操なの? これから、ボクと月はどちらを主君と仰げばいいのよ」

「この私が言っていたでしょう? どちらも曹孟徳だと」

「その私が言っていたでしょう? どちらも曹孟徳だと」

 

 特に意図してやった訳ではなかったのだが、たまたま拓実と華琳の声と、台詞と、声の調子が重なった。それを左右から聞いてしまった賈駆は目を白黒させた後、また瞳をきょろきょろと拓実と華琳との間で彷徨わせる。そうしてから両手で耳を塞いで、甲高く声を張り上げた。

 

「同じことを同じ声で、同時にしゃべらないで! ボクの耳がおかしくなったみたいじゃない!」

「これからが楽しみね。賈駆はからかい甲斐がありそうだわ」

「これからが楽しみね。賈駆はからかい甲斐がありそうだわ」

「やめなさい! あんたら、ボクで遊ぶんじゃないわよっ!」

 

 華琳と肩を並べて、二人してくすくすと笑い声を漏らす。今度は拓実が意図的に華琳の言いそうなことを言いそうな呼吸で言ってみたのだが、どうやら上手くいったようだ。

 まんまとからかわれた賈駆は顔を真っ赤にして憤慨し、だんだんと地団駄を踏んだ。その賈駆の様子を見て、多少持ち直してはいたが変わらず沈んでいた董卓が、思わずという風に笑みを溢す。

 

「月ぇ……ボクたち、絶対早まったわ……。人がうろたえている様を見て、こんなに屈託のない笑顔を浮かべられるだなんて絶対に碌な人間じゃないわよぉ……そんなのが二人もいるし……」

「駄目だよ、詠ちゃん。これからは、曹操さん……曹操さまは私たちのご主人様になってくれる人たちなんだから、あんまり酷いこと言っちゃ」

「これから仕えることになっちゃったからこそ、不満が出てくるんじゃない。だいたい、何で二人いるのよ。双子の姉妹? それだって普通はここまで似ないわよ。月は大丈夫そうだけど、ボクはこの二人に苦労させられる予感があるわ。もう、仕える前から先が思いやられているなんてぇ」

 

 肩を落としては項垂れ、愚痴をこぼす賈駆を、董卓はよしよしと慰めている。

 随分な言われようなのだが、それを心外とは思えない。拓実もやっておきながら趣味が悪いとは自覚しているのだ。それでも影武者となっていると止められないのだから、業は深い。

 

 そうしてしばらく。最後に大きくため息をついた賈駆はそれで気を取り直したようで、二人は揃って拓実と華琳に向き直り、跪いた。

 

「それでは曹操さまたち、これからよろしくお願いいたします。今日から董白と名乗ります、真名は月です」

「どっちが本物か知らないけど、どちらも本物だと言い張るつもりならもうそれでもいいわ。ボクの名前は賈駆、字は文和。……月が預けたことだし、それに助けてもらったこと自体には感謝してるから、ボクからも『曹操様』に預けとくわ。真名は詠よ」

 

 

 


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