影武者華琳様   作:柚子餅

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44.『曹操軍、宦官軍討伐に仕掛かるのこと』

 

「ボクが授けた策を張譲たち宦官軍がそのまま使っているとしたなら、部隊は……」

 

 曹操軍が野営している天幕の中、一人立っている詠が卓上の簡易地図に碁石を落としていく。伸びた手はまず丘陵に一つ、続いて森林に一つの黒石を置いた。そして下を向いてずり落ちた眼鏡の位置を直しながら、最後の一つを地図上の長安から中央を抜けて洛陽へと滑らせる。黒石はその中途に置かれた白石にぶつかって、かつん、と軽い音を立てた。白石はそのまま洛陽方面へ押されて、黒石と並んで停止する。

 

「こう、展開している筈よ。遊撃指揮に配置していた張済が捜索に駆り出されていたということは、捜索隊として部隊二つはこの付近に抜けてきているわね」

 

 今しがた黒石とかち合った白石は、華琳を逃がすために殿を買って出た曹仁の部隊を想定したものである。地図上ではその白石と、洛陽と長安の間に置かれた現在地を示す二つ目の白石はほど近い――つまり戦場は、曹操軍がいる現在地からはそうも離れていないということになる。

 言うべきことは言ったという様子で詠は卓より一歩退いた。卓を囲むようにして椅子に座っている面々が地図を覗き込む中、軍議が始まってから今に至るまで卓上に一瞥もくれず、眉根を寄せて詠を睨みつけていた春蘭が口を開いた。

 

「おい、賈駆と言ったか。きさまが嘘をついて、我らを敵軍に誘い込んでいないという証拠がどこにある?」

「はぁ? あるわけないでしょ。そんなもの、どう証明しろっていうのよ」

 

 言葉に裏があるのかといぶかしんでいた詠だったが、敵意をむき出しにしている春蘭を見て嘆息する。感情的に振舞う春蘭に、その発言も難癖の類と気づいたのだろう。

 どうして詠に呆れた物言いをされたのかを察せない春蘭は吊上がっていた眉の傾斜を更に強くすると、椅子から勢いよく立ち上がっては首を取ったとばかりに詠を指差した。

 

「やはりな! 華琳さまの腹心であるこの私の眼を欺くことはできんと知れ! さぁ、お聞きになさりましたか華琳さま! こやつ、このとおり自分が宦官軍の間者だと認めましたぞ!」

「……はぁ」

「あの? か、華琳さま?」

 

 天幕の中央奥に座っている己が主へと得意げに声をかけた春蘭だが、当のその主はといえば椅子の肘置きに体を預けて騒ぎ立てている腹心を呆れ果てた眼で眺め見ていた。褒められると思い込んでいたらしい春蘭は、眼をまんまるに見開いてうろたえている。

 暴走しがちな春蘭の(なだ)め役である秋蘭はといえば、劉協護送の為に洛陽へと向かってしまっている。同様に追撃部隊に参加して負傷した将兵、洛陽での足場固めの為に桂花、劉協の身辺警護に流琉が護送隊についていった。

 そうして春蘭や詠の他にこの軍議の場に残っているのは真桜たち隊長格のまとめ役である凪と、親衛隊から代表として参加している季衣なのだが、剣呑な空気におろおろと慌てるばかりで役に立ちそうにない。そもそも、秋蘭を除くとなると曹操陣営において彼女を諌められるのは『曹孟徳』以外にない。陣営内における秋蘭の重要性を再認識して深く嘆息すると、困惑している様子の春蘭を見やって重々しく口を開いた。

 

「いい加減になさい春蘭。賈駆――詠は、この曹孟徳が何としてもと欲した才物。文句があるのならば、彼女を迎え入れた私に言いなさい」

「しかし、華琳さま……」

「くどい。殿軍の水夏が今も戦場で戦っているだろうというのに、実のない問答で時間を無駄にするつもりはないわ」

「……はっ」

 

 忠心からの進言を切って捨てられ、しかし春蘭はおとなしく口を噤む。敵軍にいた詠を警戒し、彼女の策を採り入れることに難色を示す春蘭とて、ここで(いたずら)に時間を割いている場合ではないと理解していないわけではないのだ。

 当初は五千もの兵数で帝奪還を目的に進軍していった討伐隊だったが、曹仁からの伝書では前線が崩壊していたということなので兵は少なくとも半数近くまで減っている。それから日数がたった現在、一千も残っていれば御の字で、もしかしたら部隊は跡形もなくなっているかもしれない。

 もしも部隊が形を成しているならば、曹仁は今この瞬間も神経を擦り減らしながら戦闘を継続し、華琳を遠く逃がす為の時間を作り出そうと奮戦しているに違いない。であるからこそ、一刻も早く彼女たちの救援に向かわねばならないのである。

 

「今一度状況を整理しましょう。まず敵方についてだけれど『私』の話によれば増援を含めおおよそ九千ほど。対して我らが戦闘に動員できる兵数は四千。残る九百は次期天子となる劉協様を戦場に同行させるわけにもいかない為に逸早く洛陽へと撤退させたけれど、護送隊であるため進軍速度は期待できない。護送隊が宦官軍に捕捉される前に、我ら四千で奴らに痛手を負わせる必要があるわ」

 

 その言葉を受け、軍議に参加している凪と季衣の顔が強張った。二人は然程深くは軍略を学んでいないが、それでも倍を相手にすることがどれだけ難しいかは理解できる。当然、軍師であった詠の表情も明るいものではない。

 いつもと変わりない様子でいるのは春蘭ぐらいのものだが、そんな彼女の存在こそが心強い。例え死地であろうとも、春蘭はそれが主命であるならば遂行の為に命を惜しまない。揺るがず次の言葉を待っている春蘭の姿を見て、凪と季衣も覚悟が定まったか表情が引き締まる。

 

「この地図上の配置は詠の策を宦官軍がそのまま使っている場合を仮定してのものということだけれど、水夏への追撃を緩めずにいた以上は陣を立て直す余裕もなかったものとする。敵が陣形を変えずにいるか否かは七分三分程度の賭けとなるでしょう。詠の想定通りであるならば、まずはこの辺りに伸びて孤立しているだろう敵方の捜索隊を各個撃破。しかる後に伏せられている別部隊を強襲し、宦官軍本隊へ向けて進軍。水夏と合流しこれを討つ」

 

 そうして一息に告げた後、軍議に参加した面々を見回した。首肯し理解を確認すると、卓上の碁石をまとめて隅へと払い退ける。

 

「陣形が想定と違っているようならば、捜索隊を撃破した後は水夏と合流し、かく乱を交えての持久戦を採る。こちらの被害も増えるでしょうけれど、兵数で負けている以上は敵の士気を削いで撤退を余儀なくさせる他ないわ。――以上を基本方針としようと思うのだけれど、詠から見て不備はあったかしら?」

「……いいえ。方策に関しては特にボクから言うべきことはないわね。宦官軍は劉協様を捜して、連合が撤退していった洛陽にまで攻め入ることも考えられるもの。それよりも、他に確認しておかなきゃならない部分があるわ。宦官軍本隊を討つだなんて言うのは簡単だけど、実際どうするつもりなのよ? 分散しているとはいえ集結すれば敵兵数は自軍の二倍以上、上手く分断したとしても本隊だけでさえ兵数は負けているっていうのに」

 

 詠の懸念も尤もである。四千に対して九千。常道を語らずとも退くべき兵数差だ。

 しかしその大軍をここで止めねば、宦官軍は詠の言ったように洛陽まで進軍を止めず、劉協を奪還すべく攻撃を開始することであろう。洛陽の防衛に当たれるのは一千程度の劉備軍、三百にも満たない諸侯・義勇軍が三つ程度、今撤退している負傷兵を抱えた曹操軍の九百である。まず太刀打ちは出来ない。

 そうなれば再び洛陽は戦火に呑まれ、諸侯の援助によって何とか生き長らえた民たちの生活は完全に瓦解し、人も住めない廃墟と化すこととなる。あるいは、多大な犠牲を払って奪還した劉協も奪い返されることとなるだろう。

 

 それを防ぐ為には四千の寡兵で何としても痛打を与え、宦官軍を長安へと追い返す必要がある。平地で真っ向からぶつかりあえば、いくら将の質に兵の質が勝っていても圧し潰される。二倍を越える兵数差を覆し、勝利を得るのは並大抵のことではない。

 けれども、まったく目がないという訳でもない。今この曹操軍には敵軍の軍師であった詠が参軍している。それはつまり、これより相手が取るであろう行動を把握できるということである。

 

「まず、付近の捜索部隊を撃破し、護送隊への追跡を断つと同時に我が軍への目を潰す。そして山道を抜け、丘陵中腹に潜んでいるという伏兵一千五百を死角より攻撃、これを速やかに殲滅する。その後に水夏を追う本隊を後方より奇襲し、混乱から立て直される前に敵軍の総大将の首を上げるか、あるいは進軍不能となるまで損害を与えるというところかしら。時間さえ許すならば搦め手で攻略していくところだけれど、今それを選べば目と鼻の先で私の為に奮闘しているだろう水夏を見殺しすることになるでしょう。あの子はこのようなところで散らせていい者ではないわ」

「……へぇ。風聞での曹孟徳は義よりも利を取る現実主義者と聞いていたのだけれど。それとも世に広まっている曹孟徳は、洛陽へ向かった方なのかしらね。ともかく、そういうことなら今選べる選択肢の中では妥当であるとボクは見るわ。疲弊の度合いでは宦官軍の方が大きいことでしょうし、状況が上手く進むようなら勝ちの目はあると思うわよ」

 

 詠の返答を聞き、疲弊し、負傷していたもう一人の曹孟徳――『洛陽へと護送されていった華琳』に曹仁の救援を頼まれたことを思い出した拓実は、薄っすらと笑みを浮かべた。

 華琳は確かに不正を犯した者や規範を破る者があれば側近の部下であろうとも容赦なく罰則を与えるが、その心根が仁徳に欠けている訳ではない。才ある者に対しての執着はあれ、無才であるからという理由だけで排することはしない。彼女は定められた法を(ないがし)ろにして己の為すべき役割を果たさず、その上で自身を誤魔化して鍛錬を怠るような者を軽蔑しているのだ。詠が聞いたという噂も、大方は新たに州牧となった華琳の規律を破り、不正を働いて領内から追放された旧態然の役人によるものであろう。

 一つ息を吐いた拓実は椅子より立ち上がり、卓に着いた面々を見渡すと仕切り直すように高らかに声を上げた。

 

「では、詠のお墨付きも出たことだし、以上を我が軍の方針としましょう。本隊の指揮は引き続き私が執る。前曲はこれまでどおり春蘭に任せるわ。速やかに我らの敵を駆逐なさい」

「この春蘭めにお任せください!」

「秋蘭の受け持ちであった二陣の遊撃部隊の指揮は凪に一任する。遊撃部隊に任せるのは主に前曲の援護よ。これまでよりも兵数は増えるけれど、隊長として指揮経験を積んできた凪であれば問題はないでしょう」

「はっ! 楽文謙、拝命いたしました!」

「季衣、索敵任務は引き続き沙和・真桜の二部隊で行うようにと通達を出して頂戴。以後は副将として春蘭の指揮下に就きなさい。今回の戦はいかに敵に悟られずに、速やかに別働隊を撃破できるかにかかっているわ。沙和と真桜にはしっかりと励むよう申し伝えておくように」

「わっかりました!」

「また、宦官軍の内情に詳しく、洛陽・長安周辺の地理に明るい詠を軍師として正式に任命する。あなたは私の側につき、進軍経路の立案と献策をなさい。四半刻後には陣を引き払い、進軍を開始する。兵たちにはただちに出立準備をさせ、用意が出来次第に前曲春蘭の号令により出陣を」

『はっ!』

 

 応の声を揃えて返すなり、春蘭に凪、季衣が席から立ち上がって並んで礼を取り、天幕から足早に出て行った。間を置いて春蘭や凪の声が上がり、外がにわかに騒がしくなる。

 彼女たちを見送り、兵たちのざわつきを天幕の中で聞いた拓実は椅子に座り直した。もうすぐにでも出陣となるのだろうが、その僅かな時ですら惜しい。卓上の地図を改めて眺め見る。

 

 ――これで、よかったのだろうか。拓実の頭の中でその自問自答は尽きることがない。荀攸として書物を漁って培ってきた知識を土台に、許定として隊を率いた経験を加味し、華琳のこれまでの采配を思い出して指示をした。しかし、そのどれもが今回の状況で役立つ知識であるとは言い難い。

 荀攸が読んだ軍略書にはまず敵より兵を揃えること、もし敵方が明らかに多いならば疾く撤退すること、それが適わないのであれば有利な状況を作って交戦し、援軍を求め、耐え忍ぶこととある。しかし敵方は大軍であり、この場より後退は許されず、洛陽にも予備兵力がない現状で援軍は考えられない。

 許定が警備隊や小隊を率いて学んだのは、如何に効果的に兵を配置してこちらの被害を抑えられるかである。決して倍以上の兵数差をひっくり返す為のものではなく、大勢で小勢である敵を速やかに鎮圧する為のものだ。

 そして華琳の指揮もまた、事前に兵力を多く揃えて敵に援軍あって戦況不利となれば無理せずに退いている。拓実の知る限りでは明らかに大軍に対して攻撃を仕掛けることなど直前の劉協奪還戦ぐらいのもので、それだって目的こそ達したが華琳は負傷して落ち延び、部隊は大損害を受けて敗走している。

 果たして、勝てるのか。智謀に長けている華琳も、秋蘭も、桂花も今この陣にはいない。現状で頼みとなるのは軍師として名を馳せている詠と、その彼女が(もたら)してくれた敵軍の情報である。

 

 拓実がこれからの戦についてを思案していると、当のその彼女は顔をしかめながらもまじまじと拓実のことを見つめていた。その視線に気づいた拓実は、奇妙な様子でいる詠へと笑みを向ける。

 

「どうしたの? もしや、この私に見惚れでもしているのかしら?」

「はぁっ!? ち、違うわよっ! ……その、将の差配に関して、そこらの軍略家気取りよりよっぽど的確だと思ったものだから。あなたが軍師泣かせなんて呼ばれてた意味がわかったわ。これじゃ、ボクのやることがほとんどないじゃない」

 

 顔を赤らめて声を荒げた詠は、ふてくされたように目を伏せて拓実から視線を外した。そうして指先でみつあみをくるくると弄っている。

 月の安全を対価に軍師として任命されたものだから、彼女の為に殊更に張り切っていたのだろう。肩透かしを食らった心持なのかもしれない。

 

「何を言うのかと思えば、詠にも献策をするようにと主命を下したでしょうに。今この陣営の軍略面において、最も頼りになるのはあなたなのだからしっかりしてもらわないと困るわね」

「献策はするわよ。でもそうじゃなくて……ボクが都で月の軍師をしていた時は、戦に限っても作戦の方針に糧食の手配、将の配置に兵の割り振り、進軍撤退の経路立案から戦後処理まで全部軍師のボクがやってたのよ。呂布も華雄も突撃一辺倒で、二人よりいくらかマシな高順と参謀を務められるぐらいに頭の回る陳宮は呂布にべったりでしょ。臨機応変に動いてくれるのは張遼ぐらいだったもの。この陣営でいうなら、夏侯惇ばっかりがいるようなものだったんだから」

「あら。一癖二癖ある武官らを御するも軍師の務めでしょうに。その上それが名のある勇将なら、それこそ軍師冥利に尽きるのではないかしら?」

 

 拓実はそう言いつつも、春蘭が三人四人といる光景を思い描いて口元を綻ばせる。そんなことになったら特に秋蘭が苦労しそうではあるが、毎日が面白おかしくなりそうだ。春蘭率いる部隊が三つもあればきっと戦だって負け知らずだろう。

 

「う、それは、確かにそうだったのかもしれないけど……」

 

 ごにょごにょと口の中で決まり悪そうに呟いた詠は、いつの間にか諭されていることに気づいてはっと目を見開く。

 

「ああもう、やりにくいわね! なんだって軍師のボクが言いくるめられてるのよ!? 普通は逆でしょう! これなら宦官ども相手に煙に巻いてた方がよっぽど楽だったわよ!」

「悔しかったならこの私が納得するだけの理を説き、あなたの意のままに私を操って御覧なさい。私もそれぐらいの気骨ある者が相手なら楽しめるわ」

 

 あの悪逆の限りを尽くす宦官よりも厄介と言われて、しかしまったく意に介す様子のない拓実に詠は歯噛みした。眼鏡の奥で、悔しそうな目で拓実を睨みつけている。

 そんな地団駄を踏む詠の様子が拓実には可愛らしく見えてしょうがない。甘噛みしてくる子猫を手のひらで転がしてやりたくなるような、むずむずするような感情が胸中に湧き上がっている。

 

「ぐっ……そ、そんなことよりも! 月は無事なのよね? あっちにもいる性悪なのと一緒に洛陽に連れていかれちゃったりして、ねちねちといびられていなければいいけどっ!」

 

 詠はそんな拓実の嗜虐的な色を灯している瞳を直視して怯んだようで、話題をあからさまに変えてきた。顔だけは何事もなかったように洛陽のある方角へ向けたが、その腰は引けている。

 気圧されながらも暗に拓実をも性悪と言ってのける詠に拓実はまたぞくぞくとしたものを覚えて、妖しく笑みを浮かべてしまう。何ともいじめがいがありそうでそそられるが、今ばかりはよろしくない。深く肺から空気を吐き、意識を空白にして頭を冷やす。この後すぐに出陣が控えていることをぎりぎりのところで思い出したのである。

 仕方なしに振られた話題に乗ることにした拓実もまた、洛陽方面をいつもの涼やかな、悪戯っ気のある瞳で見やった。

 

「そうね。場合によってはありえない話ではないわ。気弱ながら気丈に振舞おうとするあの子の姿は嗜虐心が煽られるもの、閨で可愛がったとしてもおかしくないわね。――ああ。付け加えておくと、あっちの私はこの私より意地が悪く、色狂いよ。月が大切なら絡め盗られないように気をつけなさい」

「はっ? はぁっ!? ちょ、ちょっと!? そういうことはボクと月が別れる前に言っておきなさいよ!」

 

 バンバンと卓に左手を叩きつけ、仮にも主人である拓実を糾弾してくるという予想通りすぎる反応を見せた詠に、拓実はつい、くつくつと笑声を漏らしてしまった。

 

「ふふ、『場合によっては』と言ったでしょう? 大丈夫よ、あちらの私も負傷と戦疲れとで洛陽までの道中は寝入っているでしょうしね。劉協様を保護していることだし、領地に帰るまでは流石におとなしくしているでしょう」

「……さっきの言葉、絶対嘘よ。こっちと比べれば、あっちのにはいくらかの分別はある筈。きっとそうに決まってるわ。こんな性悪なのが二人もいて堪るもんですか。そんなことになったら心労でボクの胃に穴が空くわよ」

 

 肩を落とし、げんなり萎びた詠が懐から紙片を取り出すと、机の上から筆を取って何かを描いている。そうして「はい」と力なく告げられた言葉と共に詠に渡された紙片を見れば、二つの図があった。拓実はそれをまじまじと眺めて、意味するところを思案する。

 

「これを行軍中にでもなんでもいいから作らせておいて。物資も限られているだろうから、それとわかる程度で構わないわ。もしかしたら使う機会はないかもしれないし、効果があるかもわからないけれど何もしないでいるよりはマシでしょ」

「……そうね。確かにこれを上手く使えば戦場の優劣を一手でひっくり返すかもしれないわ。名軍師と名を馳せるだけはあるというところかしら」

「やめなさいよ。その程度のものを策だなんて言うつもりもないし、そもそも付け焼刃に過ぎないんだから。それより、それを見せただけでボクがやろうとしていることに思い至ったってことは、似たようなことは考えていたんでしょう?」

「さぁ、どうかしらね」

 

 意味ありげに笑みを浮かべて拓実は言葉を返したが、詠の言うように後々あわよくばといった程度に予定はしていても、戦場でそれを行おうとは考えてもみなかった。目前に迫る戦を注視し過ぎていたのだろう、それを考察していられる余裕がなかったのである。

 全軍の指揮は洛陽での数日があって手馴れてきたが、こと戦となるとやはり軍略を本格的に学んでいないことが足を引っ張っている。ここにいるのが拓実ではなく本物の華琳であれば、あるいは詠に言われずとも先んじて準備をさせていたかもしれない。そんなことが頭をよぎり、益体もないことだと振り払う。

 

 ここにいるのは誰なのか。華琳が不在である時、春蘭や秋蘭、桂花を相手に拓実は何と言ってのけたのか。華琳はこの姿の拓実が表に出る場合は、誰であるとしたのか。曹孟徳に、偽者がいてはならないのだ。

 

 

 

 進軍の途上。華琳の愛馬である絶影に跨る拓実は、隣で馬を併走させている詠と弁を交わしていた。

 官軍の軍師を務め、多くを一人で指示していただけあって詠の段取りの組み方はわかりやすく、且つ簡略化されている。その上で先を見据えて、何をすればどう変化していくかを常に考えるようにしているらしい。

 そんな詠の物事への考え方からは、彼女を育てた環境が垣間見えてきて面白い。理詰めには桂花に分がある上、詠は政務をそれほど得意としていないようだが、他人の感情と理との均衡を把握し、それによって及ぼされる影響の見極めが正確である。そういう物の捉え方があるものかと、話を聞きながら拓実は感心しきりである。

 

 そうして詠と会話していながらも、拓実は周囲の様子を機敏に感じ取っていた。華琳の演技をしている拓実は常に気を張っている状態の為、他の演技をしている時であれば気づかないような些細なものを認識することがある。

 拓実は、ずっと表立ってではない兵たちからの視線を感じていた。その理由は簡単に思い当たることが出来る。曹孟徳の影武者なる者がいるということが、将はおろか配下の兵卒たちにも知れたからであろう。

 

 

 秋蘭が、劉協を曹操軍野営陣地へと案内した時分へ遡る。

 劉王家最後の血筋にして次代の天子を保護したことは末端の兵たちにまで広まり、それにより士気が高揚していた曹操軍将兵は洞窟へと向かった主君の帰還を聞くなりに歓声を上げ沸き立った。けれどもその熱狂は長く続かず、端からその口は閉ざされていくこととなる。閉口した彼らが目にしたのは、不審な少女に肩を貸して現れた主君・曹孟徳の姿である。

 一勢力の主君自らが肩を貸している件の人物は、体格は肩を貸している曹孟徳と変わらず、また衣服の意匠も非常に似通っている。目に見える大きな違いは頭部を覆っている白い覆面。それを除いてしまうと、傷や土汚れがあること、あまり日の下に出ないのか色白く見える程度の差異しか見られない。

 

 ――曹仁が率いて戦っているだろう追撃部隊の兵たちは、荀攸の変装を解いた華琳の指揮の下で宦官軍と一戦している。現在追撃部隊にどれほどの兵が残っているかはわからないが、拓実に率いられている兵と彼らが合流すれば当然両者の間では話が食い違うことになる。長安へ向かった五千と洛陽に残った五千、どちらも『曹孟徳』が指揮していたのだから、いくら隠そうにも曹孟徳が二人同時期に存在していたのは曹操軍全体に広まってしまうのである。

 そうなってからでは知らぬ存ぜぬで通すことは出来ない。兵たちが疑心に駆られる前に、華琳の口から直々に影武者の存在を公言せねばならないだろう。拓実と華琳のどちらも本物の曹操であると詠や月、劉協の前で嘯いたこともあり、兵たちにも近く『二人目の曹操』を公表せねばならないということで、敢えて荀攸に変装せずに二人並んで帰還することになったのである。

 

 しかし、だからといってこれよりまた戦場へと向かう兵たちを相手にして、劉協らにしたように華琳と拓実、二人が二人とも本物の曹孟徳であると振舞うことは出来ない。全軍へ周知させるのは領地へ帰ってからのことであり、そこで知らせることが出来るのも影武者という役割を負った人物がいるということだけだ。

 華琳の求心力は極めて高く、彼女を支える兵たちの忠心も偽りのないものである。だからこそ、従姉妹である春蘭や秋蘭でさえも見分けのつかない立ち振る舞いをする『もう一人の主君』がいるとなれば、兵たちの胸中に固められている覚悟は揺らいでしまう。彼らが心酔しているのは『曹孟徳』に他ならず、兵たちも知らぬ間に別人に命を預けさせられているのかもしれないとなったら、大本となる華琳への忠誠が揺らぎかねないからだ。

 忠臣であればこそ、二君に仕えるという信を欠く行為を嫌う。また、華琳を信奉し敬愛しているだけ、彼女に何事かあればその影響は大きい。華琳率いる部隊が壊滅した報を受け、右往左往の挙句に無様を晒した春蘭らを思い起こせば理解は易い。上の人間がこの有様なのに、下の人間に動揺が走らないわけがない。

 これより己が死ぬことになるかもしれない戦場へと向かう兵たちが惑えば、士気は見る間に崩壊するだろう。信じるべき主君に疑念を覚えていては、勝てる筈の戦にも勝てはしない。

 だからこそ兵たちの前では『見分けのつかない偽者』ではなく、逆に『見るからにわかりやすい偽者』の存在が必要だったのだ。そうして野営地へ戻るに当たり、負傷した華琳は白い布を頭巾のようにして被ると口元にも同じく白布を当て、目元だけを覗かせるように顔を隠したのである。

 また、拓実は駄目押しに、影武者の負傷を己を庇ってのものとして(ねぎら)い、華琳仕えの医師をつけてやるなど手厚く世話してやることでその功績を讃えてみせた。そうして、得体はしれないながらも曹孟徳をして一目置いていて、信を置いている重臣の一人であると印象づけたのである。

 

 

 だが、少しばかりやり過ぎていたのかもしれない。今、曹孟徳である拓実に時折送られる兵たちの視線には、驚きと困惑とがあった。

 州牧の任に就き、漢朝廷から官位をも賜っている曹操という人物は配下にとって正に雲の上の存在である。同じく漢より同格の官位を頂いている春蘭でさえ主君への敬意を欠かさずにいるのだ。今現在、曹操陣営にてその華琳本人に敬語も使わずに話しかけることを許されているのは僅か二人。影武者である拓実と、月の為に仕えていると言って憚らない、半ば客将扱いの詠だけである。

 華琳自身も部下とは一線を引いているように思える。そうして兵に畏れを抱かせ、それを求心力の一つとしている節があった。拓実が知る限りでそれが顕著であったのは、仕事の件で対面した時である。華琳は部下が相手であろうと表情を意図的に消して己の感情を読ませず、相手を威圧して優位を得ようとする。仕事が絡まない休暇中であればいくらか応対は柔らかくなるがそれ以外では崩れない。そんな曹孟徳が一配下の為に自ら肩を貸してやるというのは、これまでの人物像からすると想像も出来ないことであろう。

 

「随分と尊敬されているみたいじゃない、『曹操様』?」

「それも、先の一件で僅かならず揺らいだようだけれどね」

 

 茶化すように言って笑う詠に、拓実はあっさりと言葉を返した。兵たちは、今回のことで華琳に対して少なからず親しさを覚えたことだろう。それが忠心へと繋がるならいいが、他と隔絶していることが華琳の求心力の核であったなら悪い方へ転がりかねない。どちらに転ぶのか、拓実は判断しかねていた。

 とはいえ、今回の拓実の振る舞いについては華琳と二人で決めたこと、彼女からこれといった物言いがなかった以上は許容範囲には収まるのだろうと楽観的に考えている。

 

「見たところこの軍は多少揺れているくらいで丁度いいんじゃないの? 凝り固まってしまった忠誠は、何かがあった時に酷く脆いものだとボクは思うけど。そうね。もし、ここで主君が倒れでもしたらどうなるか……ああ、そういうこと。だから『本物が二人』なのね」

「それは――」

 

 考え過ぎか、そうでなくては見当違いだ。……そう詠に答えようとして、しかし拓実は続きを口にすることはできなかった。

 詠の言わんとしているのは、曹孟徳に何事かあった時に保険と成り得る為、どちらが本物でどちらが偽者なのかを断言しなかったということだろう。

 華琳が動けず、だが曹孟徳が必要である場面で代わりに動く者。それが影武者である拓実の役割であった筈だ。春蘭を始めとする曹操軍の重鎮にも、華琳直々にそのような説明がなされていた。負傷して動けずにいる華琳の代わりを拓実が引き継いでいるこの状況は、華琳の想定していた運用がされていると言える。詠の言ったような、本物が半ばで死んだ時に、もう一人の本物が跡を継ぐ為などではない。

 

 けれど、違う。そうだ。そうであるべきだ。何故言われたことをそのまま額面どおりに受け取っていたのか、拓実は自分の事ながらそこからわからない。

 華琳の立場に立ち、華琳として物事を判断し、華琳として兵を率いて戦場に立つ。これを不足なく行う為に拓実は数年に渡って自分の中に華琳の思想を写し、彼女に準ずる力を得る為に鍛え、考えを同じくする為に学んできた。

 そうして拓実の中で生まれて、今拓実の体を動かしている『華琳』が言うのだ。華琳がみんなに言い含めていたそれは私の考えではないと。詠の言うとおりでないほうがおかしいのだと。

 

「孟徳様、伝令にございます! 敵の捜索部隊を発見致しました! 兵数はおおよそ五百! 手筈どおり元譲将軍率いる先鋒部隊が突撃を開始するとのこと! 後続部隊への指示を願います!」

 

 鼓膜を打つ音に対して、無意識に視線を巡らせる。前方より馬を走らせてきた伝令兵が、声を張り上げていた。華琳の思考を辿っていたところで強制的に中断する形になった拓実は静かに息を飲み、即座に頭を切り替える。

 これは領地に帰ってからゆっくりと考えるべき事だ。少なくとも拓実に、生きて帰れるかもわからぬ戦場で悠長に他所事を考えている余裕などはない。

 

「我ら本隊は速度を維持したまま進軍、鶴翼を敷きつつ包囲の形を取る。討ち漏らしはしないだろうけれど、万が一にも前曲を抜けた敵兵に後方の護送部隊を捕捉させる訳にはいかないわ。二陣には右辺より全速にて敵部隊の後方へと向かわせなさい。合わせて、楽進将軍には敵軍が撤退を開始した際の追討の伝令を出すように」

「はっ! 承知致しました!」

 

 伝令兵が馬頭を返して前線方面へと駆けていくのを見送ると、拓実も本隊の進軍に続くべく絶影の腹を蹴る。絶影が加速するのと同じくして、向かう先から喊声が上がっていた。

 

 

 

 


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