影武者華琳様   作:柚子餅

48 / 55
48.『影武者、勝利を得て気が緩むのこと』

 

 春蘭負傷の報せを受けた曹操軍の本隊は前線援護へ加わるべく急行する。前線部隊は依然として宦官軍の殿部隊と抗戦しているものの、その動きは目に見えて悪い。

 そうして拓実たち本隊が前線へと辿り着く頃には、敵将である高順は殿の役目は果たしたとばかりに撤退を開始していた。背を向けている敵軍に損害を与えるまたとない機会ではあったが、春蘭の負傷に加えて士気や兵数の関係もあり、曹操軍はその追撃を断念することになる。

 

 宦官軍の本隊は長安へと撤退し、その殿を務めていた部隊もまた戦場から離脱していった。それは、拓実たちが敵の主だった戦力を退け、宦官軍に痛撃を与えることを目的としていた討伐部隊がその役目を果たしたということだ。

 宦官らは変わらず存命であり、未だ五千ほどの兵力を保有してはいるだろうが、万に満たないようであれば大規模な軍事行動を起こせまい。少なくとも向こう数ヶ月は、洛陽が宦官によって襲撃されるということはなくなっただろう。

 

 同時に、残党に注意こそ必要ではあるが戦地にある拓実たちへの脅威も、目に見えるものは取り払われたということである。

 こまめな休憩があったとはいえ昼夜を問わずの行軍、そして連戦と、いくら曹操軍が精兵揃いであってもその疲労は限界に達している。一息入れなくては帰還も覚束ないだろうとして、本日は長安方面への見通しがいい平野を選んで夜営することとなった。

 偵察により周囲に残党がいないのを確認。凪に部隊の再編成、真桜に陣立て指揮を一任し、沙和に曹仁隊への伝令を遣わせる。詠には、こちらに呼応し加勢をしてくれた張遼を正式に曹操軍の将として迎え入れるよう説き勧めに向かわせた。そうして兵たちにも持ち回りで休憩するように指示を出し終え、総大将としてすべきことを終えるなりに拓実は傍廻りもつけずに本陣から飛び出していった。

 

「あっ、華琳さま?」

「季衣! 春蘭はどこに!?」

「え、えっと、春蘭さまは救護所です、けど」

「すぐ案内なさい!」

 

 拓実は駿馬である絶影を全速で駆り、前曲部隊の設えた陣営地に急ぎ乗りつける。下馬するなり近場にいた季衣を引き連れ、華琳の姿を借りながらも珍しく人目も憚らずにその脚で駆けている。向かう先は春蘭のいる救護の天幕であった。

 今回の戦、曹操軍の進退ばかりに気を取られていた拓実は、ある逸話とそれについての一切を失念していたのだった。春蘭が呂布配下の高順と交戦中に負傷したと聞き、それが唐突に脳裏に蘇ったのだ。

 

 ――三国志に登場する夏侯惇には、その容姿からつけられた『盲夏侯』という異名がある。これは呂布軍との戦で左目を矢で射られ失っていた夏侯惇を、同じ夏侯姓を持つ夏侯淵と区別する為に呼ばれ始めた『目を失った方の夏侯』というあだ名であった。

 その彼の豪胆さを象徴する逸話に、戦場にて矢に射抜かれた左目をその場で喰らって見せ、射抜いた者をすぐさまに討ち果たし、将の負傷によって怖気づきかねない味方を逆に鼓舞してみせたというものがある。これは三国志演義でも有名な話の一つであり、一度読んだきりの拓実ですら印象深く記憶に残っている場面であった。

 その夏侯惇の左目を射った呂布軍の将の名を、拓実は知らない。誰が放ったかもわからない流れ矢だったのか、それとも記されてはいたが拓実が覚えていないだけなのかも定かではない。何故しっかりと読み込まなかったのか今更ながらに悔やまれるところではあるが、ともかく重要なのは呂布に関連する者によって夏侯惇は負傷したということである。詠から敵将についてを簡単に聞かされたが、高順は呂布直属の部下であるらしい。そうして多く違いがあるとはいえおおまかに三国志の出来事をなぞっているこの世界において、春蘭もまた同名である彼と同じ道を辿る可能性があったのだとようやく気づいたのだった。

 

「春蘭っ!」

「……か、華琳さま!?」

「いいから、楽にしなさい」

 

 簡易寝台に腰掛けた春蘭が礼を取ろうとして立ち上がろうとするのを、拓実は早足に近寄り手で押し留める。どうやら他の負傷者は本陣の救護所へ運ばれていった後らしく、天幕の中には春蘭しかいない。

 春蘭は、血で赤黒く染まった布で顔面の左半分を抑えていた。彼女の座る寝台には血を吸った布が数枚、丸めて置かれている。傷口からは相当量の出血をしているのが見て取れる。

 本当に春蘭が負傷したのだと理解した瞬間、拓実は体の芯から震えた。血も凍る思いとは言うが、今正にそのような錯覚を覚えている。

 

「その、わざわざこのようなところにまでご足労頂き……しかし、いったいどうしてこちらに?」

「どうしてって。私は、あなたが負傷したと聞いて、来たのだけれど……」

 

 そんな春蘭はといえば、突然堰を切ったように駆け込んできては酷く真剣な顔で見つめてくる拓実の姿に目を白黒とさせている。本当に、何故拓実がここに来たのかわかっていない様子である。

 

「……季衣、さては本隊に救援の伝令を出したのはお前だな? 私は大丈夫だと言っただろうに」

「えー! だって、春蘭さまがいくら大丈夫って言っても、その腕の怪我じゃしばらく物も持てないじゃないですかぁ」

 

 眉を寄せた春蘭に睨まれて、伝令を出したことを咎められた季衣は不満を隠そうとしない。春蘭と季衣のそんなやりとりを目の前に、拓実は事態を飲み込めずにまばたきを繰り返す。春蘭が左目を失ったにしては、どうにも二人の雰囲気は軽い。悲壮感を感じない。

 つい懸念していた左目にばかり注目してしまって気付かずにいたが、見れば季衣の言葉通り春蘭の左腕には布が巻かれて固定されている。目を矢に射抜かれたとして、腕をも負傷している関連性は見当たらない。遅れて思い込みをしていたことに気づいた拓実は、改めて春蘭へと向き直った。

 

「春蘭。その怪我の具合は?」

「は。その、ご心配をお掛けしてしまって申し訳ありません。後は血が止まるのを待つだけですし、怪我自体も大したものではないのですが。高順なる武将と一騎討ちを行っていたところ、最中に敵兵の放った矢が顔面をめがけて飛んできまして。あわやというところだったのですが、左腕を盾に、こう……」

 

 ――そうして春蘭と季衣から説明を聞いてみたところ、どうやら左目を目掛けて飛んできた流れ矢に春蘭はすんでのところで反応できたということで、反射的に左腕を顔の前に持ってきて、首を傾げて矢を避けたということらしい。

 ただし、腕を深く傷つけながら矢を逸らすに留まり止めるに足らず、完全に避け切れずに左耳にも矢じりによる傷を負ったとのことである。そのような矢傷を負いながらも利き腕の右手が無事であるから継戦するに問題はないとして一騎討ちを続けようとしたのだが、ものすごい勢いで出血しながらも意気揚々と戦おうとする春蘭に敵味方問わずに尻込みしていたようで、副将を任されていた季衣は止む無く本隊に救援の伝令を出したとのことであった。

 笑い話にしようと思ってか、明るい声で身振り手振りに拓実に説明してみせる春蘭ではあるが、そうしている間にも側頭部を押さえている布はじわじわと血で赤く染まっているし、彼女の顔色は血の気が引いて白いままである。怪我をした身でそうも振る舞われると、拓実には余計に痛々しく見えてしまう。

 

「春蘭、その傷を見せてちょうだい」

「いえ! そんな、このようなものを華琳さまにお見せするわけには。その。酷く、お見苦しいものかと」

「お願いよ」

「……、はっ」

 

 拓実が重ねて告げると、春蘭は恐る恐るという様子で当てていた布を除けた。当てていた布との間に血が固まっていたのか、剥がれるような音を立てて離れた。

 傷を負った箇所は左腕と左耳だけと聞いていたのだが、実際は左目のそば――頬骨の辺りから外へと向かって、矢じりによって出来た長い傷が走っている。その先、矢が直撃したであろう左耳外側部分の中程がえぐり取られたように失くなっていた。治療済みではあるようで何らかの薬が傷口には塗り込められているが、血はまだその下から滲んでいるようである。見ているうちから玉となって流れ落ちそうになる。

 

 春蘭から聞いたよりも、随分と傷は深い。えぐれてしまった耳はまず綺麗に塞がることはないだろうし、武器を持つに支障をきたすほどの腕の傷も、こめかみ下あたりから大きく走った切り傷にしても痕となって生涯残ることだろう。

 そう理解した途端に、拓実の視界はぼやけ出した。呼吸が浅くなって、鼻の奥がつんとする。拓実はその感情を意識しないように、側に畳んで置いてあった白布を手に取っては出来うる限り優しく春蘭の傷口に当てる。

 

「この傷の、いったい何が見苦しいと言うの。あなたが負ったこの傷は、本来であれば私が負うべきだった傷。春蘭は、私の命を忠実に遂行してくれたわ」

 

 しかし、駄目だ。意図しなくとも、薄っすらと涙声となってしまっていた。拓実は己の情けなさに、春蘭が無事であったことに対する安堵、そして彼女への申し訳なさやらと、様々なもので胸がいっぱいになっている。感情をコントロールできていない。

 致命傷でないことは良かった。戦場だ、一歩間違っていれば死んでいてもおかしくなかったのだ。左目を失った時のことを考えれば、これでもかなりの軽傷で済んだと言えるかもしれない。けれどそれだって、今回に限っては拓実がもっと早く思い出して注意を促すなり、護衛をもう一人つけるなりしていれば、そもそも負うこともなかった傷であったかもしれないのだ。

 春蘭の顔に一生残るであろうこの傷は、言ってしまえば拓実の失念が負わせたものである。春蘭が負傷する未来を知り、止めることが出来たのは拓実しかいなかった。この責任は、傷は、きっと拓実が負うものであった。

 

「……華琳さま。今ひと時、ご無礼をお許し下さい」

「春蘭? いったい何を……」

 

 瞳は潤んでいるが、拓実は最後の意地で落涙まではしない。息を吐き出しては口をつぐんで、必死に平静を保とうと心がけている。しかし、感極まっているのは一目瞭然であった。

 そんな風に甲斐甲斐しく傷口に布を当てている拓実に春蘭はしばらく面食らった様子であったが、唐突に頭を下げてから抱きついた。驚きに拓実の手から布が落ちる中、人目に触れぬように拓実の顔を胸の中に掻き抱いて隠すと、耳元に顔を寄せて余人に聞こえぬように語りかける。

 

「おい、しっかりしろ。ここにいるお前は、誰だ。お前は、華琳さまより曹孟徳を任されたのだろう? 華琳さまだって私や秋蘭が負傷すれば(おもんばか)ってはくれるが、いくらなんでも涙を流したりしない筈だ。……まったく。華琳さまが内に秘めている優しさばかりを表に出してからに、お前でも演技しきれないことがあるのだな」

 

 普段の勇猛果敢な振る舞いをしている彼女からは想像もつかない、静かで落ち着いた声が囁かれた。それは子供を寝かしつける母親のような、安らぎを与えようとする優しい声色である。

 彼女の胸に頭を抱かれた拓実は、心臓の鼓動を感じていた。温かい。ささくれだっていた心がその声と音とに覆われていく。これまで動いているのをその目で見て会話していたのだから当然のことではあるのだが、春蘭がこうして生きているのだと強く実感する。

 

「その、なんだ。悪い気はしないというか、そうまで心配してくれたのは嬉しく思うがな」

 

 最後にあやすようにぽんぽんと拓実の背中を叩くと、春蘭はぱっと拓実から離れて跪いた。頭を下げる前に見えた、先ほどまで血を失って白くなっていた彼女の顔は、拓実の気のせいでないなら朱に染まっている。

 言われ、拓実は気づく。重すぎる責任を果たせたこと、博打ともいえる作戦で何とか成功に収めたこと。そうして安堵していたところで春蘭が負傷したと聞き、己の犯していた失敗に気づき、感情のタガが外れてしまっていたのだと。気の緩みから、曹操という役柄に拓実が混ざってしまっていた。

 

 今回の宦官軍への奇襲作戦は紛れも無く、拓実を含めた曹操陣営の全ての者の命運を分けた大戦(おおいくさ)であった。

 敵の兵数を減らせずに大敗していれば、拓実に春蘭、詠たちは当然のこと敵中に孤立して討ち死にする。洛陽にはそのまま攻め入られ、帝は奪い返されて華琳と月は大罪人として処断されたことだろう。万に届こうかという兵を相手にしては桂花や秋蘭らも逃げ延びられたかどうか。たとえ華琳たちが逃げられたとしても領地には満足に練兵を終えていない新兵しか残っておらず、そこを攻められたならひとたまりもない。大罪人に与したとして、一族郎党を根絶やしにされていてもおかしくなかったのだ。

 その重圧の中、拓実は賭けに勝ってみせた。華琳の、万の人命を背負える強さを己に写しとり、曹孟徳を演じ切ってみせたのである。けれども宦官軍の本隊が撤退を始めると、それまで張り詰めていたものが切れてしまった。役目を果たしたと一度でも考えてしまったが為に、舞台に幕が降りたかのように気が抜けてしまったのだ。

 

「申し訳ありませんでした、華琳さま。この無礼に対する罰は如何様にも」

「……いいえ。大役を果たしたあなたに、罰を与えるつもりなどはないわ。こちらこそ見苦しいところを見せたわね」

 

 詠に言ったように、後悔や反省などは全て終えてからすればいいこと。陳留に戻ってから――いや、せめて華琳の居る洛陽に戻ってこの衣装を脱いでから、それでも泣きたいなら一人で思いっきり泣けばいい。

 左手で目元を拭う。大きく息を吸い込み、短く強く吐き出した。意識の中で、境界線が曖昧になっていた部分の仕切りを直す。拓実は、頭を下げている春蘭に向き直った。

 

「けれども春蘭。改めてもう一度言っておくけれど、あなたが負ったその傷は私のものでもあるのよ。こればかりは変わらないわ。見苦しいだなんて、あなたにも、他の誰にだって言わせない。きっと、あの子だってそう言う筈よ」

「は、はぁ」

 

 拓実にそう言われて、春蘭は思い出したように布を手に取ると、首に流れた血を拭って左耳に当て直す。直前のことがあってか拓実に視線を合わせられず、気恥ずかしそうにちらちらと盗み見るようにしている。

 

「しかし、そのですね、この傷をお二人にも分けてしまったら、私の分がほとんど残らないではありませんか」

「そうね。そうして色んなものを分けてしまえたなら、きっと何だって重荷とはならないわ」

 

 おそらくは照れ隠しからの冗談混じりの言葉。それに対して真っ当に返ってきた拓実の言葉を受け、それまで恥じ入っていた様子の春蘭がまじまじと拓実の顔を見る。

 柔らかく、けれども寂しげに笑んで見返す拓実に、春蘭は誰かの姿を見たらしく表情を引き締めた。

 

「意地っ張りなあの子とも、分け合えたらいいのだけれど」

「……はい」

 

 神妙に頷いた春蘭は、遠くを見やった。拓実はゆっくりと瞑目する。

 

 

 こればかりは役に則ったものではなく、拓実の本心からの言葉であった。

 今回の出兵の間、拓実は極力『南雲拓実』として思考することを止めていた。そうでもしていなければ、負わされた責任に耐えられなかったかもしれない。

 討伐部隊を編成してからの数日、拓実は起床して床に入る直前までの一日の大半を華琳として振る舞っている。そうして演技をしている間は人の目もあってか、胸から迫り上がってくるそれを意識せずに済んだ。

 けれども、横になってから眠りに就くまでに与えられる僅かばかりの一人の時間。華琳という役が剥がれた途端に、拓実は重圧や責任に押し潰されそうになって震えていたのだ。

 あの時にもっと上手く指揮を執っていれば死人を減らせたのではないか。明日の戦は、本当にあの作戦で良かったのだろうか。やっておくべきことは、まだあったのではないか。

 己の一つの失敗が、身近な者たちや『曹操』を信じてついてきてくれる者たちをも巻き込んで死に至らしめるという状況に、拓実の精神は悲鳴を上げていた。

 舞台に立っていた経験から度胸と緊張への耐性だけはあったが、これに対しては何の役にも立ってくれない。心臓がばくばくと脈を打ち、すべきことは全て終えたのかと煽って、動け動けと急かすのだ。これでは眠れるわけもない。ここ数日、夜間行軍などでまとまった休息も取れなかったというのに拓実はほとんど寝付けず、体を休めるだけに費やしていた。

 戦場という生死が浮き彫りになる環境とはいえ、数日だけの拓実がこれだ。華琳にだって眠れぬ夜があるだろう。いくら割り切ろうにも、人としての道徳が欠如している狂人でもない限りは己が原因で属する人間が死んでいく状況を堪えないわけがない。こればかりは避け得ぬものであり、そして避けられない以上はなんとしても耐えるしかないものである。

 

 そうして思考が乱れて心が荒れた時、拓実はひたすらに仲間の皆を思い浮かべている。彼女たちを想えば、拓実の中には一本の芯が通る。

 拓実は、みんなが好きだ。これからも一緒にいたい。誰かが欠けるなんて考えられないし、想像もしたくない。彼女たちと共に生きるために、こんなところで死ぬわけにはいかない。そして力が及ぶのなら、彼女たちを失うことのないよう絶対に守り通さなくてはならない。

 そう自分に何度も言い聞かせるようにして、不安となるものを抑えこんでいる。華琳や春蘭・秋蘭、桂花に季衣……彼女たちの存在があるから、拓実は気丈に振る舞えている。倒れそうになった時に支えとなってくれている。そうして仲間の存在が拓実の骨子となっていたからこそ、春蘭が負傷したと聞いて取り乱すことにもなったのだ。

 

 拓実は今回のことで、華琳の負っていた責任の重みを理屈ではなくその身で知った。いつかに華琳一人にあらゆる責任が集中していることを危惧したことがあったが、その時他人事として考えていたことは否めない。

 あらゆることを卒なくこなし、その反面で誰よりも他人に頼ることを苦手にしている少女は、こんな重たいものを抱えてこれまで一人で立っていたのだ。拓実がそうであったように、華琳にとって拓実という存在は支えとなれているのだろうか。今だからこそ、拓実はそう思う。

 

「あのー?」

 

 そうしてひとしきり思考してから拓実が目を開けると、視界の端では季衣が恐る恐るという風に顔の高さまで右の手を挙げている。どうやら、話が一段落するのを見計らっていたようである。

 拓実と春蘭はそんな季衣を見て、思わず顔を見合わせた。

 

「季衣? 手を挙げたりなんかして、どうかしたの?」

「えーっと、華琳さま、春蘭さま。その、もしかしてなんですけど……」

 

 言いながらもちらちらと、季衣は拓実へと視線を送っている。季衣の様子とその口ぶりに、言わんとしていることに先に気づいたのは拓実だった。迂闊とばかりに軽く目を見開いた拓実を見て、遅れて気づいたらしい春蘭もまた両の目を剥き出しにする。

 空気を読んで口を挟まずにいてくれたようだったが、どうやら春蘭と拓実のやりとりから、季衣はこちらにいたのが華琳ではなく拓実であったのだと気づいている。春蘭と秋蘭、桂花の三人以外には此度の入れ替わりについて知らされておらず、臣下にはこちらにいる曹操を本物の華琳として、そして帝と共に洛陽に逃れた方を影武者の拓実であるようにと双方が振る舞っていた。一応春蘭との会話でも言葉を濁して会話していたが、それでも影武者の事情を知っている季衣が気づくには充分だったのだろう。

 

「汗顔の至り、とはこのことかしら」

 

 どうやら拓実は、本当に混乱していたようだ。他の分野ならともかく、誰に対してどういった対応を取るべきなのか、そういった区別を取り違えるのは拓実らしからぬ失敗である。

 とはいえ、どちらが本物の華琳であるのか口止めされていた訳でもなし。拓実がそうと知らせなかった理由である、僅かな不安要素をも排さねばならない決戦を終えた後であったのは救いであった。

 

「……季衣、あなたが思っているとおりよ。洛陽に帰還してから改めて説明があると思うから、今は他言しないでおいてもらえると助かるのだけれど」

「あ、やっぱり! わかりました、ボクしゃべったりしません!」

 

 深く息を吐き出し、今まで黙っていたことに対して申し訳ないという風に告げたのだが、当の季衣が眉をひそめるでもなく疑問が晴れたことに対して明るい顔を見せているものだから、拓実としてもつられて笑っていいものか迷ってしまう。

 こほんと一つ咳払いをして気を取り直すと、拓実は何となしに二人の姿を眺める。そしてあることに気づいて、目を細めた。

 

「ともかく、そのことについては追々ということにしましょう。――春蘭、あなたはそこに座って」

「は。これでよろしいですか?」

「そうね。そのまま動かないで」

 

 拓実に言われるがまま、地に膝をつけていた春蘭は側にある寝台に腰掛けた。春蘭の傷からの出血が収まってきていることに気づいた拓実は、傷口を押さえる為に片手が塞がっていては不便だろうと考え、治療道具の置いてある台を勝手に漁り始める。

 傷薬と包帯代わりになりそうなものを探してのことだったが、傷薬はともかく清潔な長めの布が見当たらない。拓実は止む無く、そこにあった大きな当て布を裂きだした。

 

「えっ!? あの、華琳さま!?」

 

 そうして春蘭の傷を負った頬と耳に薬を塗りつけた布をあてがい、一枚の布に交互に切り込みを入れて作った簡易包帯で上から巻いていく。

 春蘭は、急のことに背筋を伸ばして固まっている。春蘭の頭を両腕で抱くようにして、華琳の姿をしている拓実が手当をし始めたからだ。春蘭は体を硬直させながらも、眼前で左右に振れる胸の膨らみから必死に視線をそらそうとしているようだった。華琳本人ではない、そして目の前の膨らみが偽物だと理解して尚、訳もなく気恥ずかしくなってしまうようである。

 拓実が手当をし始めると慌てて同席していた季衣が治療を代わろうとしたが、「私からの恩賞の一部よ」と一言(うそぶ)いてやればもう抗弁する術はない。それだって拓実が後付けしたに過ぎない。拓実は春蘭のうろたえようを見て、治療してやることが面白くなってきていた。

 

「ところで、その高順やらとは一騎討ちをしたのでしょう? 春蘭から見てどうだったのかしら?」

「へっ? は、はぁ。まぁその、手強い奴ではありましたが……」

 

 手際よく処置をしながら、拓実は春蘭に質問を投げかける。許定として警備隊で働いている間は町人の手当をしていることもあってか、随分と手慣れたものだ。

 目のやり場に困って挙動不審になっていた春蘭は問いかけられてもすぐには反応出来ず、遅れて返答するものの両手をもじもじとさせてまごついている。

 

「手強いってそんな! 一騎討ちじゃ春蘭さまが勝ってたじゃないですか! あの時、矢が飛んでこなかったら、あの人なんか絶対に春蘭さまがやっつけちゃってましたよ!」

「いや。季衣、落ち着け。一騎討ちは流れたのだから、勝っていたは言い過ぎだ」

「言い過ぎなんかじゃないです!」

 

 要領を得ない春蘭を見て、それまで治療しているのを黙って見守っていた季衣が我慢がならないとばかりに口を挟んだ。目を見開いて、何故なのか春蘭の強さを誇示する為に春蘭に食って掛かっている。

 本人である春蘭が同意してくれなかった為、今度は拓実に直接説明するべく身を乗り出した。

 

「華琳さま! あの時の春蘭さまはすごかったんですよ! 相手の武将も確かに強い人でしたけど、一騎討ちの間は春蘭さまばっかり攻撃してましたし! あの時の春蘭さまと模擬戦してたら、ボクじゃ何回やっても勝てそうにないぐらいだったんですから!」

「あら。季衣にそこまで言わせるなんてただ事じゃないわね」

 

 身振り手振り、興奮した様子でその一騎討ちの状況を説明する季衣に、拓実は眉を開かせる。

 武将としての総合力はともかく、個人の武という限りであれば季衣は曹操陣営において上位に入る。当初こそ怪力を頼りにした一辺倒な戦い方であったが、若年である季衣は心身共に成長が著しく、春蘭相手に三割ほどであった勝率を最近では五分にまで近づけている。もちろんそれぞれの得物の相性や得意とする距離などが違うために一概に誰が強いかというと難しいが、対等に戦える季衣をしていくらやっても勝てないと言わせるのはよほどのことである。

 

「……さて、こんなところかしら」

「おお、ありがとうございます!」

 

 拓実が両手をはたいて立ち上がり、少し離れてから眺めるようにすると、春蘭が顔面に巻かれた布を確かめつつ喜色で溢れさせている。

 出来上がったのは、顔の半分以上を布で巻かれて一見重傷者のようになった春蘭の姿である。頬と耳を抑えるためにはどうしても左目ごと眼帯のように巻く他になく、結果として隻眼であるかのような容貌になってしまった。

 

「手当も済んだことだし、私もとりあえず本陣に戻りましょうか。季衣は春蘭に代わってこちらの部隊指揮をお願い。腕を負傷したのであれば馬での移動も苦となるでしょうし、この子は本隊の荷車で運ぶことにするわ」

「わっかりました! 任せてください!」

「あ、季衣。急がなくとも帰還は明朝になってから……」

 

 季衣が天幕の外に駆けていこうとするのを引き留めようと声を掛けるが、どうやら聞こえなかったようで言い終える前に出て行ってしまった。

 伸ばしかけていた己の手を見下ろして小さく苦笑するや、拓実もまた春蘭に立つように促す。二人連れ添って外へと出ると、救護所からは完全に人気が消え失せた。

 

 

 

 絶影の口取りをしながら、拓実と春蘭は本隊の陣営地に向けて進んでいた。春蘭は左腕を負傷している為に乗馬するにも下馬するにも一人でこなすに難しく、時間に余裕もあれば距離もさほど離れていないこともあり、まばらに歩哨が立つ平野を徒歩で戻っているところであった。

 

「それにしても、先程の話は興味深いわね。あなたをそうまで強くさせたのは何なのかしら?」

 

 拓実が話題に上げたのは、春蘭が一騎討ちで敵将を圧倒していたという件である。

 成長途上の季衣に対して、春蘭はある程度が完成している。気の扱いであるとか技の上達にはまだまだ伸び代があるが、身体能力の面ではこれから季衣ほどに伸びたりはしないだろう。

 だからこそ、その春蘭が急に強くなったのであるなら何かしらの理由がある。そうして質問を投げかけると、隣を歩く春蘭は何故なのか頬を軽く染め、背を正してから拓実へ顔を向けた。

 

「もしも私が強くなれていたのだとしたら、それは私の後ろに華琳さまがいてくださったからです」

「……確かにね。けれども、それは今回に限ったことではないでしょう」

 

 守るべき者が後ろに居る――それは拓実も意識していたことだ。確かに、ここで拓実たちが破れていたなら洛陽に逃れた華琳の命運も尽きていたかもしれない。拓実にとって重荷となった絶対に負けられないという責任が、春蘭にはいつも以上の力を発揮させる要因になったのだろうか。

 しかし戦になれば先陣を任される春蘭にとって、背に華琳の存在を背負うのは初めてということはなかった筈である。

 

「そういった意味では……あ、いえ。もちろんそれもあるのですが、私自身何と言ったらいいのか。その、ありのままに言いますと、事前に事情を知らされていた私と秋蘭は、今目の前におられる『華琳さま』からのご命令を、華琳さまに命じられた為として遂行しておりました」

「何も間違ってはいないわよ?」

 

 声が届くほどの距離には誰もいないが、話題が話題なだけに外に漏れ聞こえぬよう声量を絞っている春蘭。そんな彼女を相手に拓実は首を傾げた。そんなことは、疾うにわかりきったことだったからだ。

 洛陽での滞在と支援活動において、拓実は華琳と同等の裁量を与えられている。拓実が華琳本人として振る舞うようにと命じられているのだから、春蘭たちも拓実を華琳として扱わなくてはならない。春蘭たちが拓実の命令に従わなくては、何のための影武者であるのかわからなくなる。

 

「ええと、おそらくお考えになられているような意味ではなくてですね、私の心の持ちようの話でして。その、私は本当の意味では、華琳さまだと思えていなかったのです。一番上に華琳さまがおられて、間に『華琳さま』を介して、私と秋蘭にご命令を下されていると言いますか……そう! 私は、華琳さまよりご指示があるからこそ『華琳さま』のご命令にも従っていたのです」

「……そういうこと」

 

 春蘭のたどたどしい説明を聞いて、拓実はようやく春蘭の言っている意味を理解した。拓実の命令は華琳本人としてのものという感覚ではなく、華琳から従うようにと指示があったから拓実の命令を聞いていたということであり、つまりは春蘭と華琳との間に上官が一人増えたという認識であったらしい。

 しかし、そうだとしても春蘭は何も間違ったことは言っていない。いくら拓実が見事に華琳になりきろうとも、春蘭たちにとって本当の華琳は一人しか居ない。拓実を華琳本人として扱えという命令があっても、決して本物の華琳が二人に増えたりはしない。本物が存在している以上は、影武者は華琳の存在を代行する者でしかないのだ。拓実が影武者であると知っていれば、そう考えるのは当たり前のことである。

 

「我が身の恥を晒すようですが、そういった意味では『この部隊を率いる華琳さまをお護りしようとする意志』は、私よりも事情を知らぬ凪らの方が強かったものと思います」

 

 懺悔するように春蘭は言うが、拓実を影武者だと知っている以上は当然としてそういう心理も働くことだろう。華琳から「影武者を何としても護れ」との命令があれば、己が命を投げ出してでも春蘭は従う。けれどもそれがなかった場合、春蘭が自分の意志で命を投げ出してでも影武者を護るかといえば、それはわからない。

 春蘭が忠誠を捧げているのは華琳である。春蘭がその命を投げ打つべきは華琳の為であって、偽者でしかない拓実にまでそうする理由はない。華琳の右腕である春蘭は、拓実の為なんて理由で死ぬべきではない。拓実とてそう考えている。

 

「今しがた宦官軍に対して『華琳さま』は堂々の名乗りを上げられました。単騎であっても守り通すという私の言葉を疑わず、『華琳さま』は私一人を護衛として敵の眼前に身を晒されました。そのお命を狙って矢が射掛けられている中、私の武を、華琳さまの剣である私を信じて、共に死地に残ってくださいました。……おそらく、あの場に居られたのが華琳さまであっても詠の策に従い、敵前に身を晒されたことでしょう。けれども、私一人に命を預けはしなかったことと思います。御身の重大さを理解されているからこそ、その覇道を途絶えさせぬ為にそのような選択はなされません」

 

 拓実は前方にある本陣を見据えながら頷いて見せて、春蘭に先を促させる。

 

「私は、その、どちらの華琳さまにも不敬になってしまうことだと思いますが、そのことがどうにも嬉しかったのです。華琳さまの為に命を張り、私の武を信じて命を預けてくださった『華琳さま』になら、この命と引き換えにお護りしても悔いは残らないだろうと、そう思えたのです。そしてすぐ後ろに立つ『華琳さま』と、洛陽に逃れられた華琳さま。この一振りで敬愛する主君二人を守れるのだと思ったら、手にある七星餓狼が軽く感じられました。――この耳に負った矢傷にしても、きっとそれまでの私であったなら、一騎討ちに集中するあまり矢に反応すらできなかったことと思います」

 

 拓実は春蘭の言葉に、面食らっていた。どうやら春蘭が強くなったというのは、拓実が命を預けたことを原因としていたらしい。

 あの時拓実は、その後の戦闘において少しでも自軍に有利を(もたら)せるならという思いで敵前に身を晒していた。拓実が命を張ることで華琳の安全を買えるという思いもあり、自身を華琳であると信じ、戦ってくれている兵士たちを思ってのことでもあった。春蘭一人に護衛を任せたのも、前提に幾度と無く調練を共にしてその強さを身に染みていたということがあってだが、そうすることでより効果的に敵軍を威圧できると踏んだからである。

 春蘭は、華琳ならばそうはしなかったと言う。確かに今冷静になって考えたなら、華琳であれば春蘭に加え、万が一に備えて親衛隊から数名なり連れていったことだろう。それはつまり、あの時華琳がするような判断が出来ておらず、影武者として演技しきれていなかったということだ。

 影武者として演技しきれなかったことは反省しなければならない。……だというのに、どういう訳か拓実の感情はそれに対して悪い気がしていないようなのだ。どうにもむず痒くてしょうがない。

 

「……春蘭が、急に強くなった理由についてはわかったわ。それについては、その、私としてはありがとうと言っておくべきなのかしらね」

「あ、いえ。そんなことは……」

 

 華琳を守ろうとする余りに華琳になりきることが出来なかった拓実を、春蘭は認めてくれた。そういうことなのだろう。

 拓実が何やら気恥ずかしくなって礼を言いながらも視線を外へとやると、春蘭もまた顔を背けた。それからは言葉が続かず、しばらく二人の足音と絶影の蹄の音だけが響いている。

 

「ともかく! 春蘭と矛を合わせ、さらに手強いとまで言わしめるのであればその高順という者、並みではないということでいいのね?」

「は! ええ、それは間違いなく!」

 

 何だかぎくしゃくとしてしまっていることに気づいて、拓実は仕切り直しを意識して大きく声を上げた。多少露骨ながら話題を逸らせば、もじもじと困った様子を見せていた春蘭も渡りに船とばかりに乗っかってくる。

 それからは何が嬉しいのか、拓実を見てにこにこと笑顔を浮かべていた春蘭が、はたと立ち止まった。

 

「……ん? その言い様ですと、もしや彼奴めを配下に加えるおつもりなのでしょうか?」

「そうね、可能であるなら我が陣営に迎え入れたいところではあるわ。ただし詠から聞くに高順は呂布に心酔しているということだから、先に呂布を手に入れなければ難しいかもしれないわね」

「む。呂布の奴もでございますか。むむむ……」

「あら? 何やら含むところがあるようね。私としては、強くなったという今の春蘭ならば呂布にだって勝てるのではないかと考えているのだけれど」

「あ……。いや。もちろんあやつに負けるつもりなどありませんが。しかし呂布に異心があり、高順と共に謀反を起こされた時を考えると、流石にこの傷を負った身で華琳さまをお護りできるかどうかと考えましてですね……?」

 

 拓実は過度に期待されて慌てる春蘭をからかうように、足取り軽く歩を進める。固かった空気も、こうしていればもういつもの調子だ。

 

「ふふ」

 

 重傷者のような姿で必死に弁解を試みる春蘭を肩越しに眺め見て、改めて彼女が無事であったことに密かに胸を撫で下ろす。

 拓実は前へと向き直ると目をつむり、春蘭の縋りつくような声を聞いてこっそりと笑みを深めた。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。