BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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奇妙な共存

 ――――深い雷鳴が、烈火のように心を打つ。

 灼鉄の光で焼き尽くされた空から、(あめ)(くだ)る龍の如くに、(いなな)く迅雷が戦列を組んで牙を剥く。蒼然たる雷光は見る者の眼を潰し、轟く天鼓は耳朶が千切れるような耳鳴りを生じさせている。光り輝き有り余る力で中空を噛み締め、地表を穿つ雷神の葬列は、無数に聳える黄金の塔の一角を怒りによって貫き砕いた。

 黄金の塔が滅びていく。絢爛たる威容を落雷に隠し、見果てぬ夢の末路の様に砕かれた大地へ消えていく。その、魂の奥底が滴る血で溢れていく様な光景を彼方へ見遣り、御蔭丸は影の巡る唇で無情の皓歯を死蔵させながら、黄金の宮殿へゆらりと脚を踏み入れた。

 

 滴る血の澱を濁らす眼は紅く、黄金の玉座を描いている。あらゆる財への陶酔を材料に(つく)られたような、それ一つで金殿玉楼と云えてしまえる玉座には、ひどい仏頂面を引っさげた少女がふんぞり返っている。少女は頬杖を突きながら唇の端を面白くなさそうに曲げ、心を焚きつける情熱的な薔薇のドレスを組んだ脚で翻し、苛立ち紛れに肘掛の先を人差し指で叩いていた。

 少女は喉を鳴らす事は無く、臓腑が竦み上がるような眼付きで無遠慮に彼を蔑視する。金色の光を集約させた特徴的な猫の瞳は、ただ御蔭丸を写していた。無縁塚に葬られた骸の骨よりも白い肌を、黒い死覇装でひた隠しにする彼を、である。

ただ意味も無く、其処に居る。そんなあまりに無意味な事をする御蔭丸に不興を招かれたのか、不愉快そうに舌を打った。

 

「■■■■……」

 

 その後すぐに何事かを呟いたが、すぐ悟ったように唇を止めて、大気に響かない長いため息をついた。姿は見えても声は聞こえず。少女の言葉は、御蔭丸に届いていない。それが何を置いても唾棄したい程耐えがたかったらしく、少女は拳を握って肘掛に強く叩き付ける。そして整った顔をあらぬ方向に背けて、不機嫌そうに瞳を閉じてぷっくりと頬を膨らませた。

 少女はそうやって、時折見た目相応の態度を見せる。少女に似合う可愛らしい振る舞いは御蔭丸の魂を繋ぐ少女と瓜二つで、きっと少女が己の斬魄刀でなかったら、御蔭丸もいつものように笑っていただろう。

 

 しかし少女が己の斬魄刀であるという事実は、殊の外重く彼にのしかかっている。御蔭丸の魂の精髄を写し取り誕生したその少女が、己から生まれた己そのものであると想うと、どうしても身構えずにはいられないのだ。彼が戦いを嫌う性分であるが故に、彼は己の戦いの本能とも云える少女と向き合う事が出来ないでいた。

 ……最も、今の御蔭丸に限定すれば、斬魄刀たる少女とて拒絶の意志を露骨に面に出しただろう。何せ――今の御蔭丸の身体には、明らかに彼ではない黒色の影が、切り落とされた髪のようにひたりと纏わりついているのだから。

 

 厄介な事に、御蔭丸自身がその黒色の影に気付いていない。ぴったりと背に貼り付き、彼の身体に腕を這わせて嫋やかな手で耳を塞いでいる事を認めてすらいないのだ。無意識なのか、その影を自らの死覇装で隠しているのも気に入らない。

 だから少女は、御蔭丸から眼を逸らす。この精神世界に同調しているが対話をする気が全くない主人など、相手にしていられないと不貞腐れた。

 無意識に耳を塞ぐ御蔭丸も、それくらいは感じ取れる。原因が自分自身にある事も認識しているが、その原因の最果てを知らぬが故に、こればかりはどうしようもないとため息をついた。

 

 斬魄刀の対話は、己の意志で行わなければならない。その意志が欠落し、他者の願いの面影にしかなれない御蔭丸には、とある状況下では届いていた声も聞こえなくなってしまっていた。

 そのまま数十分もの間、彼は玉座でそっぽを向く少女と対面していたが、今回も対話は無理だと分かり切った事を悟り、黄金の宮殿に背を晒す。そして意識を雷鳴の彼方へ融かし、現実の己へ立ち戻った。

 ――結局俺は、あの子が嫌いなんだろうな。

 ――だから声を聞いてやる事さえ出来ない。

 ――それを何とも想わない自分が、少し嫌になる。

 

 多少、感情的に眼をつむる御蔭丸は、暫くして荒れた顔に深紅を灯す。胡坐をかき、膝の上に斬魄刀を置く『刃禅』を取っていた彼は、斬魄刀を左手に持って疲労を滲ませて立ち上がり、刃禅用に拵えた祭壇から降りて腰に巻く帯を緩めた。それは死覇装の帯ではなく、単なる白い布を縛っているだけのものだ。元々纏っていた死覇装は既に使い物にならない為、共存している大虚(メノス)が代わりにとよこしてくれた。

 彼が居る場所も、元々大虚が使用していた潜窟の下を鬼道でくりぬいて色々といじくった場所だ。簡素な台所があったり寝床があったりと、それなりの生活が出来るようになっている。食器やら何やらは潜窟から動けない彼に代わり大虚に用意してもらった。彼もそれなりに貢献しているつもりだが、正直な所八割がた温情で持っているようなものだ。

 

「全く、頭が上がらないな……」

 

 軽くぼやいて髪に手を伸ばす。血を吸った紅い扁桃花の髪留めを取り、脱ぎ捨てた布と斬魄刀を一緒くたにしてその辺に置き、彼は裸で部屋の中で特に区切られた扉へ歩いていった。

 台所や寝床と違い壁と扉で明確に区切られたそこは、生活空間を形作る際、最も苦労をかけて作成した一室だ。何に苦労したかというと、部屋全体に鬼道の術式を埋め込み、単に霊圧を流すだけでその鬼道を発動できるようにした事だ。単純な鬼道で熱を生んで水を沸かすだけの簡素な代物だが、熱量が高すぎて貴重な水がすぐに蒸発しないよう調整するのに手間がかかった。

 まあ、所謂浴室という奴である。何故作ったかと言えば、鍛練で流した汗を払う為でもあるし、食器や衣服を洗う水場として使用する為でもあるし、排泄を行う為に水場が必要だったからでもある。

 一番の理由は御蔭丸がとても衛生面に気を遣っているからだ。四番隊として数十年を過ごした結果、清潔感を保つのが生態の一部とすらなっている彼にとって汚れを落とせないのは何よりも耐えがたい。だからこそ共存する大虚に無理を言って水を大量に調達してもらい、風呂場をつくったというわけだ。

 

 御蔭丸が虚圏に墜ちて既に半年。傷が治ってからというもの毎日のように鍛練を重ねる彼は、一日の大半を肉体の修行と斬魄刀の対話に費やし、その後風呂で汗を流すのが日課になっていた。

 ――……少し、あの子の世界に居過ぎたな。

 ――心なしか身体も重い。

 刃禅で疲弊した精神を引きずって、御蔭丸は浴室の取っ手に手を掛ける。浴室には散湯浴(シャワー)も備え付けているし、まずはそれで適当に身体の汚れをとってゆっくり湯船に浸かるとしよう――呆けた頭で考えながら、彼は身体を引きずる勢いで扉を開いた。

 

「……うおっ!?」

 

 途端、彼の顔面を湯気が襲った。身体の大きな彼に合わせて扉の大きさには余裕を持たせているが、それでも手を挙げれば簡単に扉の上枠を掴める。そのせいで上方へ逃げる湯気が彼の顔目掛けて飛び出してきたのだ。

 急に目の前が真っ白になって、彼はよろりと体勢をぐらつかせる。無意識に熱い湯気から逃れるようにしゃがんで、御蔭丸は妙な違和感を覚えた。

 ――おかしいな、俺は湯を沸かした覚えはない。

 ――勝手に鬼道が起動する筈もないが……どうなっているんだ?

 困惑しながら、湯気の奥へ目を凝らす。普段の御蔭丸ならこの時点で察して速やかに退散しただろうに、精神的な疲弊が判断力を鈍らせていた。だから湯気が晴れるまで呑気に扉の前で待って――はたと、目の前の光景に釘付けになる。

 

 少し考えれば分かる事だ――この鬼道で隠された潜窟の浴室を使う存在など、彼以外には一人しかいないというのに。

 

「……………………」

 

 視界を塞ぐ、湯気が晴れる。桃源郷の甘い鱗粉が晴れるように、煙の奥に揺らいでいた影の輪郭が露わになる。

 浮き上がった肩甲骨を晒す背は非情に滑らかで、湯気を生む熱湯が気持ちよさそうに流れている。肩甲骨の間で美しい線を描くくぼみを通り、妙に艶やかな腰のくびれに触れて、熱湯ははちきれんばかりの形の良い尻から女神の彫刻のような脚線美を堪能して地面に滴る。湯気で曇った浴室の光に照らされる褐色の後ろ姿は、腰のくびれの下、特に尻と太腿を妖しく光らせていた。

 ただ全裸で湯を浴びている女性の背中であるだけだというのに、薄い湯気にぼかされて佇む褐色の彼女は言いようのない淫靡さを漂わせていた。ざっくばらんに短く揃った黄金色の髪も、今は濡れて首筋に貼り付き、髪に含んだ水を滴る汗のように肌へ滑らせている。

 

 思わず、溜まった唾をごくりと呑みこむ。御蔭丸とて男だ――不可抗力とは言え美しい女性の裸体を前にすれば、肉の欲望を覚えずにはいられない。ただそこで理性が追い付き、それ以上情欲に突き動かされはしなかった。

 ……まあ。それは完全に、後の祭りでしかなかったのだが。

 

「…………!?」

 

 ぞくりと、信じられない寒気が御蔭丸の全身を包む。肌という肌に余さず無数の刃の切先が触れているような、肉体が強制的に緊縮する威圧感。それは湯気の立つ浴室の中から見目麗しい肩越しに大気を凍りつかせる、あまりにも鋭く冷たい翠の眼光が発している。

 

「――――――――」

 

 褐色の背を惜しげもなく見せる彼女は、山の様に重い沈黙を保って御蔭丸を視線で殺しにかかっている。美しい睫毛の下の濡れた光を揺らめかせる翠の瞳には、「消えろ」という三文字がはっきりと書かれていた。その眼に気圧され、御蔭丸は慌てて扉をしめようとする。が、その時になって己も裸である事を思い出し――裸体の異性を前に裸であるという事実に、理性とは裏腹に興奮したモノ(・・)が勝手にイキり勃つ(・・・・・)

 隠すには巨きすぎるモノの動きは絶対零度の視線を送る彼女にもはっきり認識できたようで、動く気配を察知し、ちらりと翠の眼を下に降ろした彼女は――ゴミを見るような眼で睥睨する。そしていつの間にか装備した右腕の刃を躊躇いなく御蔭丸へ定め――彼にはとても耐えられそうにない霊圧を集中させた。

 

 ――ああ、終わったな……

 己のモノが意志に関係なくイキり勃った時点で全てを諦めていた御蔭丸は、乾いた笑い声を漏らした。そして最後に、彼女の裸体を眼に焼き付けて死ねるなら割と幸福なのではないかと呑気に考え――にへらと腑抜けた笑顔ごと、彼の姿は光に塗れた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 ティア・ハリベルは現在、死神と共生関係を結んでいる。それは彼女が望んで得た繋がりではなく、“運命のいたずら”とも云うべき偶然を経た結果である。

 遡る事半年前、虚圏の闇にひっそりと生きていた彼女は、運命の起点となった死神と出遭った。生者よりも死人に近い、命辛々という言葉が霞むような手酷い傷を背負う死神と相対し、最初は止めを刺すのも無意味かと見逃してやった。

 運命が廻ったのはその後だ。死神から離れてすぐ、数十のアジューカスに囲まれた彼女はあわや傷を負うところまで追い詰められた。だがそれを救われたのだ――他ならない、死に際で命を繋ぐのが精一杯の死神に。

 

 その後死神と共にアジューカスを殲滅したハリベルは、猜疑の刃を死神に向けた。その死神は行動から目的を読み取るのが至難の業で、直接聞き出す以外に方法はないと感じたからだ。だがやる事なす事全てが狂った愚者のようであった死神に、彼女は一旦は場から離脱する事を選んだ。

 しかし――その瞬間を狙ったかのように、死神は柔和を通り越して溶解した顔立ちに微笑みを刻み、ハリベルの心に土足で踏み込んだ。彼女が心の底の底に封じ込めていた感情に容易く手を突っ込み、止める間もなく引き上げられてしまったのだ。

 それがどれ程の恐怖を彼女に与えたか。たった二回、それも一時間にも満たない時の中で自らの魂を見抜かれた衝撃は尋常なものではなかった。その証拠に彼女は一瞬にして理性を失い、死神を殺しにかかったのだ。

 

 心の墓場を暴かれた殺意は無意味な争い、犠牲を嫌うハリベルの性分によって止められたが、それすらも死神は見越していたに違いない。そうでもなければああも笑いながら遥か格上の彼女に真っ向から対面する事など在り得ないだろう。というよりも、そう思いたい……今はこうして共存している隣人が、地獄と桃源郷の区別もつかぬ愚昧であるとは考えたくなかった。

 そうして殺意を理性で抑え込んだハリベルは、その後常軌を逸した死神の行動に激昂し、彼女自身余り出さない張りつめた声で真意を問うた。何が目的で、何の為に死神はハリベルに近づいたのか――その答えもやはり真っ当な代物ではなく。事もあろうに死神は、虚であるハリベルを癒したいとのたまったのだ。

 

 莫迦莫迦しい話だ。気を抜けばすぐにでも死にそうな死神の何処に、他人を癒せる余裕がある。そうでなくとも死神が虚を癒すという時点で、普段のハリベルならば一笑に付していた筈だ。

 だが、その死神がいとも容易く心の深奥に踏み込んできた事。常識外れにもほどがある行動が、彼女の正常な判断力を失わせていた事。

 そして何よりもハリベルが孤独からの脱却を望み、死神がそれに応える形で手を差し伸べた事が、彼女に迷いを抱かせた。

 結局――悩んだ末にハリベルは死神の手を振り払ったのだが、それが原因で死神を窮地に落とし込んでしまい、笑う死神の目論見通り、彼女は助けざるを得ない状況に追い込まれたのである。

 

 それから半年が経ち――ハリベルの生活は一変した。当てもなく虚圏を彷徨い、挑んでくる虚を見逃すか殺すかのどちらかしか選べなかったところに、死神――大神御蔭丸の世話という微妙な項目が加わったのだ。

 といっても、御蔭丸は身の回りの事は全部一人でやっていた。絶対安静の重体でも斬魄刀の力を借りれば動けない事はないようで、彼女の仕事は食料や諸々の消耗品を現世から調達してくる事くらいだ。それも多少骨は折れたが、見返りもそれなりに大きなものだった。

 

 まず御蔭丸は、ハリベルが住処としていた潜窟を他の虚に探査されないよう、鬼道を使って隠匿した。今までハリベルは一定の住処には長く留まらず、転々と場所を移して過ごしてきた。身を休める棲み処が他の虚に露見すれば、休眠時を狙って彼女を襲いにくるからだ。

 しかし彼は怪我で潜窟から動けないので、鬼道で発見されないよう隠したいと提案し、棲み処を変える際わざわざ彼を担ぐのも面倒だと思った彼女はそれを了承した。そのためハリベルは棲み処を変える必要がなくなったのだ。

 他にも虚との戦闘で傷を負っても、潜窟に帰れば御蔭丸が治してくれた。棲み処には彼が居るので気は抜けないが、虚の襲撃を気にする事なくゆっくり休めるようになった。僅かではあるが、殺伐と絶望しかない虚圏で娯楽というものを感じられるようにもなった。彼は手先が器用で料理や裁縫も行い、また鬼道の造詣が深く、霊圧さえ通せばハリベルでも使用可能な設備を製作したのだ。

 

 最も、ハリベルと御蔭丸の居住空間は上下階で分けられているので、ハリベル自身はそこまで詳しく知らない。ただ水をかなり使う設備にはかなり興味があった。熱い水で身体の汚れを落とし、湯船に浸かって心を癒す――御蔭丸がそう説明していた人間らしい生活というものを、ハリベルは好奇心につられて自分で確かめようと思ったのだ。

 その日ハリベルは棲み処の上階で何をするでもなく過ごしていて、水を使う設備について考えたのはその時だった。思い立ったが吉日と御蔭丸の部屋に降りたハリベルは、胡坐をかいて膝に斬魄刀を置き瞑想する彼に一言声をかけて、返事を待たずに浴室へ入った。御蔭丸には居候の上に頼りっぱなしで申し訳が立たないから、部屋の設備やら何やらを好きに使っていいと言われていたし、修行の邪魔をするのも良くないだろうと判断しての事だ。

 

 浴室に入ったハリベルは、清潔感溢れる真っ白な壁や滑り止めらしき模様のついた床、岩を削って綺麗に磨いた浴槽などに心惹かれる。暇を持て余して現世の暮らしを見物に行った事はあるが、ハリベルの霊圧に死神が群がってくるのでこうも隅々まで観察する事は出来なかった。なので人間らしい生活を垣間見れる事については、あの男に感謝してもいいかもしれない。

 そう思いつつ浴室に目を遊ばせていると、壁にぶらさがっている銀色の物体に意識が止まる。壁の膝辺りから生えた蛇腹の管が続く先に、無数の小さな穴が開いた銀の円盤に取っ手が付いたものが壁に掛けてあった。これが御蔭丸の言っていた湯を浴びる為の設備だろう。

 

 冷えているが、好奇の光が見え隠れする眼でそれを手に取って、どう使うのかを考えてみる。|銀盤がある部分を手で転がしてみたり、蛇腹の管の先を眼で追いかけている内に、水を堰き止めている蛇口と、その横の黒い板に赤で幾何学的な模様が描かれた霊圧を通す箇所を見つけた。どうやら取っ手を上下する事で水の量を調節し、通す霊圧の力加減で温度を変えられるようだ。

 霊圧を通して暖まった水を手に当てて確認したハリベルは、ますます好奇心を強くする。じいっ、と湯気を立てて掌を流れる湯を食い入るように眺めて、彼女はぼそりと透明な声で呟いた。

 

「…………使って、みるか」

 

 言って、訳も無く辺りを見回す。視界にあるのは浴室の壁と扉だけで、此処にハリベル以外の存在はいない。扉の向こうに御蔭丸の霊圧を感じるが、静まり切っている所を鑑みるとまだ瞑想の途中だろう。ならば今、彼女が浴室を使っても邪魔する者はいない。

 

「…………」

 

 暫し無言で、逡巡するように水の流れを見ていたハリベルは、意を決して蛇口をひねり、銀盤のつくもの――散湯浴(シャワー)を壁に掛けてから鎧をさっと脱ぎ始めた。

 まず肩から指に掛けて広がる白の装甲を外し、次にヒール状の脚甲を浴槽の淵に座って脚を組みながら脱いでいく。それが終わったら頭部や胴体を守る部分を身体から離して、最後に全身を覆う肉体にぴっちりと貼り付いたタイツ状の布を一息に脱ぎ去った。

 ふう、と息をついて、脱いだ鎧は刃と一緒に一つに纏めておく。それは虚の仮面が全身鎧になったもので通常外せるものではないが、もともと顔の上半分が露出している彼女にとってその常識は意味をなさない。一糸纏わぬ姿になったハリベルは散湯浴(シャワー)を持って蛇口をひねり、水音を立てて噴き出す熱湯をやや固い面持ちで見つめた。

 

 ハリベルは虚として産まれてから今までに、湯を浴びるという経験が無い。彼女の能力故に水そのものには慣れているが、それも鎧を着込んでの話だ。何一つ身に付けぬ裸体に湯をかけるのは、少し抵抗があった。

 だから最初は温度を落とし、ぬるめの水を腕に浴びさせる。ひと肌よりも少し熱い位の水が褐色の肌を滴る感触に目を細め、ゆっくりと浴びせる場所を手から肩へゆっくりと移していく。

 二の腕から上腕へ、そして肩峰へと順に湯を浴びせていく。そのまま首筋まで持って行くのかと思いきや、まだ躊躇いがあるのか散湯浴(シャワー)を持ちかえて今度は逆の手を濡らしていく。そのまま数分、同じように手首から肩先まで湯に晒して熱さに慣れた頃、ハリベルはようやく首筋へ湯を通した。

 

「……ん……」

 

 思わず、くぐもった声が小さく漏れる。首を撫でられるような免疫の無い感覚と、湯が背筋を滑る妙な暖かさが少し心地良い。また湯を当てる箇所を首筋から鎖骨辺りへと変えれば、男の手にも収まり切らない豊かな胸に逃げ場を限定される熱水が、形の良い胸の谷間へ流れ込んで滝をつくり、小さなへそをくすぐって下へ逃げていく。その密やかな刺激は慣れないが、嫌いではない。上から下へ流れていく温い湯を感じながら、徐々に身体を慣らしていく。そして熱水を堪能できるくらいになったハリベルは、熱水の温度を上げてみる事にした。

 籠める霊圧を強くすれば、熱湯の温度も上昇する。ひと肌より少し高い程度から、はっきりと熱を感じられるところまで水を熱する。

 途端に、今までのやわな水の触感ではない、確かな熱を帯びた湯が彼女の肌に襲いかかった。産まれてから冷たさしか宿してこなかった秘宝のような褐色の肉体を、猛る熱湯が無理矢理暖めていく。

 

「……ん、んう……」

 

 指でなぞられるように背筋を撫でられ、鎖骨に落ちては胸全体に弾けていく熱湯の群れに、ハリベルはびくりと身をくねらせた。こんな風に全身が強制的に暖められた事は一度も無い。怪我をすれば傷口が熱を帯びるが、この熱さはそんな痛みの伴うものではなく、暖かな優しさを宿していた。それ故にやはり、慣れないものだと――立ち昇り始めた湯気を吸って、湿った吐息を零していく。

 そうしている内に段々と、身体が熱に親しんできた。湯の熱さに震えるだけだった肌も火照り、身体の芯がぼんやりと暖まる。熱の籠もった身体から汗が出てきて、それを散湯浴(シャワー)で洗い流す。うっすらと赤く染まった褐色の身体が照明に照らされ、水気が溢れる濡れた光を妖しく反射する。

 

「ふう……ん……」

 

 言葉には表さないが、熱湯を全身にまんべんなく振りかけながら、ハリベルは満足げに息をついた。初めは温さばかりが目立って水が肌を滑る感触しかなかったが、そこに熱さが加わると気持ちの良い刺激が身体を巡る。それに加え湯は凝り固まった身体を優しくほぐしてくれるようで、疲労と共に力が抜けていくのが小気味良い。

 身体を清めるというのも中々堪えられない感覚だ。冷たい血の地獄で生き抜いてきたこの身を暖かく、血の通った肉体に変えてくれるようで、それが錯覚だと分かっていてもたまらない。

 成程――――これは、クセになる。毎日湯船に浸かっているという御蔭丸の弁を思い出しながら、湯の熱で朱が差す頬に恍惚を交えて、ハリベルは泡沫(うたかた)のような淡い微笑みを口元に浮かべた。

 

 そして今度は、その湯船にも浸かってみるとしようと蛇口に手を伸ばす。蛇口の取っ手は二つあり、一つは散湯浴(シャワー)の湯量を調整するもので、もう一つは浴槽の端についていた。それを回そうと、姿勢をかがめようとしたその時――背後の扉が勢いよく開かれ、同時に耳に届いたギョッとしたような男の声が彼女を凍りつかせた。

 その瞬間、ハリベルの心には様々な感情が去来した。どうしてという疑問や、一瞬で膨れ上がった怒りと殺意。何かの間違いだと考える思考と、僅かながらに胸を貫いた羞恥の心。

 それらに苛まれてちょっとの間動けなかったが、とりあえず確かめてからどうするか決めようと肩越しに視線だけを男、御蔭丸に向けてみた。翠の瞳の中に切り取られた彼は、ひどく驚愕した色を表情に刻んでいる。その顔を見る限り、何かの間違いである可能性が濃厚か、と彼女は心を落ちつけようとした。

 

 ……のだが。その直後、見たくもないモノをこれ以上ない程はっきりと蠢かせた男に、ハリベルの心は一気に氷点下まで冷え切ってしまい。

 気付けば彼女は刃を手に取り、煮え滾る霊圧を腑抜けた顔に変わった彼へぶち込んでいた。

 

 そして今、御蔭丸は上半身裸の姿で土下座している。焦げてボロボロになる程度ですんだ身体を全力で五体投地する彼の前には、鬼神も裸足で逃げ出すような憤怒を携えるハリベルが、汚物を見るような眼で御蔭丸を見下していた。

 

「…………何か弁明があるなら聞こうか」

 

 虚の仮面を再装着した彼女のまだ熱の残る濡れた唇から、地獄の釜も凍りつく絶対零度の呪言が紡がれる。普段は理知を宿らせる翠の双眸も、今は閻魔に睨まれた方がまだマシといった有様だ。

 そんな彼女を前に、御蔭丸は九割九分諦念に身を委ねつつも、精一杯の謝罪を全身で伝える。己を大事にしない彼は本当にハリベルに対し本当に申し訳なく思っており、心の底から詫びていた。口にする言葉も、正真正銘自分が悪いと思っての事である。

 

「……ぼ」

「悪いが言い訳が聞けるほど私の気は長くないんだ」

 

 しかし、ハリベルの怒りは相当根深いようだ。御蔭丸が口を開いた瞬間、よれよれになった白い頭髪は彼女のしなやかな脚に踏み潰され、背中には憤怒の霊圧で磨かれた刃の(きっさき)が断頭台の様に差し向けられた。無論その間も、氷結煉獄を宿す眼は御蔭丸を精神的に殺し続けている。

 弁明を聞くと言ったにも拘らずこの仕打ち。非常に理不尽であるが、踵で旋毛をぐりぐりされる彼は諦め顔で、これで彼女の気が済むならと全てを受け入れていた。

 

「……………………」

 

 そんな彼をハリベルは、少し落ち着きを取り戻した双眸で静かに見透かす。

 この男の態度からして、誠心誠意謝罪しているのは間違いない。寝食を共にしたのは半年程度だが、御蔭丸がどれ程他者を尊重し、どれ程自己を顧みないかはハリベルもよく識っている。だから彼が心の底から反省しているのは手に取るように分かるし、ハリベルはそんな彼に対してなおも当り散らせるような自己中心的な性格ではない。

 それに、今回の事は彼女にも落ち度がある。御蔭丸の返事を待たずに浴室の設備を使ったのは彼女であるし、瞑想している彼に意識を向けなかったせいで浴室の扉を開けられるまで接近に気付かなかったのも悪いと言えば悪い。

 

 御蔭丸は死神で、ハリベルは虚なのだ。何処までいってもこの大前提は変わらない筈で、それだけに御蔭丸(しにがみ)から意識を放したのは彼女の失態である。いくら半年の期間を経て多少打ち解け、心を許していようと、だ。

 だから今回は喧嘩両成敗と云う事で、水に流してやるべきなのだが――理屈(それ)感情(これ)とは話が別だ。いくらハリベルにも非があるからといって、産まれたままの姿を御蔭丸(おとこ)に見られたのは我慢ならない。目の前で土下座する情けない男に、背中だけでも見られたかと思うと――冷やかな眼で睥睨する彼女の白髪頭を踏む脚の力が、訳もなく強くなる。ギリギリと軋みを上げて床にめり込む御蔭丸が抗議の一声も上げなかったのは流石だが、背中にヤバい感じの汗がダラダラと流れてきた。

 

「…………次は無いぞ」

 

 それで憐れんで、というわけではないだろうが、彼女も止める口実が欲しかったのだろう。不意に脚先を離したハリベルは、冷え切った双眸で小さく告げて上階へ去っていく。

 御蔭丸は身体を起こして何か言おうとしたが、それで気が晴れるのは自分だけだろうと止めておいた。代わりにまだ怒りが残っていそうなハリベルにどう詫びるべきか思案する。

 まあ、その必要はまるでなかった。どうしたものかと唸っていた彼は後日ハリベルから、罪悪を想うなら上階にも浴室を造ってもらいたいと躊躇いがちに、少し気恥ずかしそうな眼で頼まれたのだ。彼はそれを快く了承し、それ以降特に怒った様子もない彼女にほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 大神御蔭丸は現在、大虚に庇護される形で生活を送っている。身を潜める場所は虚の集う深く静かな闇・虚圏。死神たる彼が其処で虚に護られながら生活しているのは、幾重もの偶然と自らに託された願いを成就せんが為だった。

 遡る事半年前、彼は仲間を護り戦った末にアジューカスに肉体を奪われそうになった挙句、虚圏へ墜ちてしまった。そして今は共に暮らしている最上級大虚と出遭い、彼女との間で紆余曲折を交わして最終的に共存という形に治まった。

 彼女――ティア・ハリベルに拾われて最初の一週間は、傷を綺麗に治す為の準備に追われた。絶対安静の身であったが、虚圏には医療器具も無ければ肉体を休める場所もない。だから彼は斬魄刀から霊力を引き出せるだけ引き出して、彼女の棲み処を大改造して専用の居住空間を得たのだ。

 

 これにハリベルは異論を投げかけると思ったが、時折棲み処を変える彼女にとって暮らす場所の変容はあまり気にかからないらしい。むしろ一つの空間で暮らす方が嫌だったようで、潜窟を二層構造にして上をハリベル、下を御蔭丸の部屋にしてくれれば後は好きにしろといった態度だった。

 有り難い話だ、と丁寧に礼を述べて御蔭丸は一週間かけて部屋の製造に取り掛かった。それで出来たのが寝床、浴室、台所、刃禅の祭壇と修行をする為の開けた空間である。簡素な造りで浴室と水回りに拘った以外は並みより下の出来栄えだったが、半年間外に出ずに生活しても不満が出ない程度には住み心地が良かった。

 

 生活の場を手に入れた御蔭丸は次に潜窟の隠遁を計った。半年前の御蔭丸は虚圏で生きていくにはか弱く、誰かの庇護が無ければ生存できない。しかしその庇護者たるハリベルは四六時中彼の側に居るわけではない。“食事”をする為に外に出る必要があったし、御蔭丸の要求する物品を集めるために現世に赴く必要もあった。

 それで彼は、側でずっと護り通すのが無理ならば見つからぬよう隠れてしまえばいいと、潜窟の周囲に隠匿の鬼道を張ったのだ。これに関してもハリベルに不平は無く、棲み処を襲撃されないよう定期的に場所を変える面倒がなくなったと素っ気なく呟いた程度だった。

 

 治療をする為の道具と環境が揃った彼は肉体の治療に専念する。怪我はかつて卯ノ花に治療してもらった時よりもひどかったが、それを一人で三週間弱で完治させた。回道の腕が卯ノ花より圧倒的に劣る御蔭丸が、それなりの道具と環境しかない状況でそれだけ短い期間で傷を快癒させたのは、斬魄刀による処が大きい。

 まだ始解もしていないにも関わらず、斬魄刀には霊力が漲っていた。斬魄刀自身が御蔭丸の意志に関係なくその霊力を注いでいた事を鑑みるに、その霊力は彼にも使用可能なのだ。何故これ程の霊力が始解もしていない斬魄刀に宿っているのかは疑問だったが、彼に思案する余裕はなかったので、傷を治すのに出来る限り利用した。

 そうして御蔭丸は虚圏に落ちてから丁度一カ月で、尸魂界に帰還できる状態まで回復した。後はハリベルに黒腔(ガルガンタ)を開けてもらえばすぐにでも帰れる――が、しかし。それから今に渡る五カ月間を、彼は全て己の鍛練に費やしていた。

 

 

 台所の床下から砂に埋めた人参とジャガイモ、そして通風口付近の甘藍(キャベツ)を取り出し、調理台に並べていく。必要なものをとったら床下の戸を閉めて、吊るしてある玉葱(たまねぎ)も一つとって材料に加える。それと塩漬けにして保存していたよく分からない肉を一塊取り出して、御蔭丸は割烹着姿で調理に取り掛かった。

 まずは虚圏に存在する特殊な霊蟲から剥ぎ取り塩漬けにした肉を一寸六分(5センチ)角に切り、次にジャガイモの皮をむいて水にさらす。晒している間に甘藍の根をとって櫛切りに、人参は縦と横に一回ずつ切り、玉ねぎは四等分にする。切り終えたら水を張った鍋にジャガイモ、甘藍、人参を放り込んだら鍋を焜炉(コンロ)に置き霊圧を通して火を起こす。

 

 沸騰するまでの間、材料を入れていた容器とまな板、包丁を洗っておく。特に肉を切ってついた油をよく落とすよう注意しながら洗いつつ、御蔭丸は荒んだ紅い瞳の奥でこれからについて考えていた。

 虚圏に墜ちてから半年、動けるようになってから五カ月、御蔭丸は尸魂界に帰還する事無く虚圏に留まり続けている。行っているのは鍛練に次ぐ鍛練だ。死神となって数十年間一度として遂行してこなかった己の練磨を、彼は漸く始めていた。

 その理由は、御蔭丸の右腕に今も健在している。半年前からずっと維持し続けている改造した『鎖条鎖縛(さじょうさばく)』の上を、黒い布が覆っている。薄い繭のようなそれには骨格に沿って赤い幾何学模様が奔り、彼が右腕を動かす度に仄かに明滅していた。

 

 御蔭丸の右腕は今も猶、アジューカスに取り憑かれている。彼の肉体を浸蝕した蜘蛛のアジューカスによって右腕の支配権は奪われており、その為彼は自力で右腕を動かせない。それで封印鬼道の上から更に鬼道を重ね掛け、操り人形を糸で動かすように無理矢理操作している。普段生活する分ならそれで問題はない。

 しかし、御蔭丸は死神である。護廷十三隊に籍を置く一死神が虚に取り憑かれたまま尸魂界に帰還して、果たして無事に済むだろうか?

 ――まあ、在り得ないだろうな。

 ――まず間違いなく“処分”される。

 戒律に厳しい元柳斎の姿を思い浮かべて、食器を洗う彼は嘆息する。このまま帰ったと仮定すれば、おそらく彼は表向き行方不明のまま処刑されるだろう。それは「生きて帰って欲しい」という願いに反してしまう。

 

 だから尸魂界に帰還する為には、右腕からアジューカスを分離させなければならない。だがそれは口で云う程簡単ではなく、むしろ限りなく不可能に近い条件だった。

 アジューカスと御蔭丸の右腕は“融合”している。虚の中には時として融合能力を持つ個体が生まれる事も少なくないが、その能力の矛先は大抵現世の人間に向けられるものだ。現世のあらゆる物質は器子によって構成されている――そこに霊子で構成された虚が融合しても、融け合う事の無い二つの物質を乖離させるのはそう難しくない。

 しかしそれが霊子と霊子同士の融合ならば話は別だ。元を辿れば全く同質の存在と融合した場合、融合した側とされた側は完全に一つとなる。それはつまり霊子レベルで同一存在となるという事であり、通常の方法では永劫解ける事は無い。

 

 乖離できないなら右腕を斬り落とせばいいと考えた事もあったが、それも事実上不可能だった。虚圏に墜ちながらハリベルのような稀有な心を持つ大虚と出遭い、庇護下に置いてもらえるという幸運のツケが回ったのか、彼女に斬魄刀を弾かれた際に進んだ浸蝕は右肺から心臓にまで達している。その為切除という形で乖離させれば同時に御蔭丸も死んでしまうのだ。

 幸か不幸か、虚圏に墜ちる時御蔭丸はアジューカスの脳幹を刺し貫いたので、右腕に蠢くアジューカスに意識はない。知性を司る部分を破壊したので、今は本能のみで御蔭丸を喰らい生きようとする無意味な肉塊と化している。仮に意識があればとっくに浸蝕された心臓部を引き裂かれて死んでいたので、結果として虚圏に墜ちる要因となったあの突貫は、命を繋ぐ意味で無駄ではなかった。

 

 食器類を洗い終わった御蔭丸は、煮立った鍋に塩漬け肉を放り込み、ハリベルが適当に採ってきた野生の香草を入れておく。後は蓋をして煮込むだけだ。四種の野菜と肉がくつくつと煮込まれる鍋を蓋で隠し、鬼道の炎を弱火に調整して煮え上がるのを待つ。

 調味料をほとんど使ってない単純な料理だが、塩漬け肉は軽く塩を抜いただけなので肉に残った塩気で味はきちんとつく。本音を言えばもう少し調味料の類が欲しいが、こうした人間らしい食事が必要なのは御蔭丸だけなのでそれは贅沢な考えだ。空腹感が喉から飛び出しそうな腹をさすって、待っている間食卓の前に座って、おもむろに巻物を取り出してさっと広げた。うねる白い蛇の和紙には、なにやら幾何学的な模様と小難しい字が並んでいる。

 

 さて、彼が目を通しているのは『右腕のアジューカスを分離させる為の新たな鬼道』を書き記した巻物だ。といってもまだ開発段階の初期の初期で、霊子同士の融合を解くには未熟に過ぎ、これから膨大な時間をかけねば完成には至らないだろう。

 だがこれが考えうる中で一番現実的な方法である。切断による患部除去も出来ない、霊子同士の融合を解く能力を持った人物は尸魂界にさえ存在しないとなれば、自分で新たな鬼道を造り出す以外に方法は無いのだ。

 無論、勝算があるからやっている事だ。多くの資質を認められている御蔭丸の才覚の中でも、特に鬼道への適性は天賦の賜物と云ってよい。それに殊に霊子分野となれば、御蔭丸が最も得意としている領域である。実際の処、荒唐無稽の狭き可能性であるが、不可能ではないと御蔭丸は確信していた。

 

「……ん。そろそろか」

 

 と、鬼道の開発記録から問題点と解決策を考えていた彼の鼻腔を刺激する良い香りが漂ってきた。煮込んでいた料理が食べ頃のようだ。巻物をさくさくと巻いてしまった彼は、蓋を開けて小皿に少量の汁を取って出来栄えを確認する。

 

「ふむ――いい出来だ」

 

 杯に口をつけるように汁を飲んだ彼は、やや満足げな光を荒んだ双眸に実らせた。使った小皿を軽く水に流して水分をよく拭き取ってからしまい、底の深い大皿一枚に適当に盛り付ける。味の染みた甘藍と玉葱に、柔らかくなった人参とジャガイモ、そして主菜の肉を並べて旨味の詰まったスープをたっぷりとかければ完成だ。

 最後に乾かした香草を散らした彼は食事をするべく食卓へ移動する。と、食欲をそそる香りが立つ大皿と箸を持って振り返ったところ、いつの間にか台所から最も遠い壁際に腕を組んで佇む女性――ハリベルが凛とした瞳でじいっと大皿を見つめていた。

 

「……召し上がりますか?」

「…………」

 

 彼は困ったような苦笑いを浮かべて一応聞いてみる。が、ハリベルは特に反応を起こすでもなくただ視線を向けていた。

 ――まあ、分けて置いておけば勝手に食べるか。

 食事時にしばしばみられる光景に彼は笑顔で息をついて、食卓に出来上がったばかりの食事を置くと台所に戻って適当な皿とフォークを取り出す。彼女には箸が使い辛いようなのでその配慮だ。軽く水洗いして水気を拭き取ってから、大皿の中の四分の一程度を新しい皿に分けていく。それなりに見栄えよく盛ってからハリベル側の食卓の端にフォークと一緒に置くと、彼はハリベルに背を向けて食事を前に手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 身に染みついた習慣を経て、まずは甘藍に手をつけた。しっとりと柔らかくなった甘藍の葉を二、三枚まとめて取り、一口に頬張る。程よい熱さが口腔にいきわたり、スープの旨味と甘藍の繊維質の歯触りと特有の甘さに彼は舌鼓を打った。ついで人参、ジャガイモと箸を伸ばしていき、野菜中心に食していく。そうして大皿の野菜の半分を平らげたところで、彼はいよいよと言わんばかりに肉をつまんだ。

 塩漬けにして保存した肉はかなり柔らかくなり、火を通さなくても食べられるものになる。それを煮込めば更に柔らかくなって旨くなると、時間をかけて味わう御蔭丸は満足そうに頷いていた。

 と、虚圏においてはかなり手の込んだ食事を堪能している彼の横に、空になった皿がことりと置かれる。振り返ればヒレのような尾のようなものを揺らす彼女の背が遠ざかっていった。

 

 ――今回は気に入ってもらえたか。

 綺麗に完食された皿を見つめてなだらかに微笑む。少し塩気と油分が多いかと思ったが、特に気にならなかったらしい。喜んでもらえて何よりだと、彼は後ろで壁によりかかる彼女へ感謝する。

 人間らしい食事が必要なのは御蔭丸だけだが、ハリベルが全く食べないと言えばそうでもない。腹の足しにはならないが味を楽しむ事は出来る。煙草や酒のようなもので、ハリベルは嗜好品として時折彼の料理を喫していた。

 しかし食事時というのは得てして無防備になりやすい。半年共に暮らした仲とはいえ、隙を晒せるほど御蔭丸を信頼してはいないのだ。だから御蔭丸の食事をつまむ時は必ず別の皿に分けて貰って、彼に見られない場所でひっそりと口にしている。

 

 それは別に構わない。彼女に縋る情けない居候の分際である御蔭丸にとって、本来ハリベルには必要ない食事の材料の調達をしてもらうのはひどく申し訳ない事だった。だから食事を分ける事で少しでも恩を返せたら幸いで、信頼に足る相手と思われていないのはある意味どうでもいいのだ。

 ……まあ、その小さな恩返しさえ果たせない事もある。例えばそう――食事が終わったにもかかわらず、後ろで妙にそわそわした気配を漂わせる彼女に謝罪せねばならないかと思うと、心が重くて仕方がない。

 

「……あの、ハリベルさん?」

 

 途方もなく苦い笑いをする御蔭丸が小さな声で名を呼ぶと、ハリベルはぴくりと反応する。相変わらず冷えた眼光を走らせる瞳が、今は何処か期待感をちらつかせていた。まるで無垢な子供の瞳の輝きにグサリと胸を突き刺された彼は、本当に心苦しいと言った体で、彼女の期待をばっさりと裏切る。

 

「申し訳ないのですが……果物はありますが、その、蜜を切らしておりまして……デザートはないの、で……す……」

「…………………………………………」

 

 困り笑顔で紡いだ言葉は、次第に尻すぼみになっていく。一つ言葉を言う度に期待感を失っていく彼女の眼に縫いとめられている内に、心労が彼の顎に鉛を敷いて動かなくしてしまった。だからすうっと潮が引いたように輝きのさめた彼女を見つめ続ける事しか出来ない。

 紅い切れ眼の視界の中で、ハリベルは沈黙を保っている。身体のラインを綺麗に描く鎧を纏い、意図してやってはいないだろうが左手で右腕の上腕を掴み、結果として胸を強調するように立つ彼女は、じいっと御蔭丸を睨みつけていた。あまりに冷たい視線に御蔭丸は底冷えのする思いをする。

 ――しかしどうしようもない。

 代案があるのならそれについてとうに伺いを立てている。それがないから、こうして何も言えずに視線を受け止める事しか出来ない。意味もなく無念を滾らせる彼を睨むハリベルは、ふとした瞬間、しゅんとして眉根を下げた。

 

「…………ない、のか……」

 

 余程楽しみにしていたのだろう、心なしか瞳の光も弱弱しくなっている。彼女の発する張り詰めた空気も、どこかしおらしいものに変わってしまった。

 ――こうなるのも仕方ないか。

 珍しく意気消沈しているハリベルに、御蔭丸は心が痛くなる。彼女がこうなったのは、食卓に彩りを添えようと現世の果物に霊蟲から採取した蜜をかけたものを出して以来だ。どうも彼女の嗜好に合致したらしく、それを出すと鼻歌まで聞こえてきそうなくらい上機嫌な雰囲気になる。だからこそそれがない落胆は一際強いようだった。

 ちなみに以前にもこんな事があり、その時は果物のみを差し出したが食べなかった。蜜と果物が一緒でなければ駄目らしい。慰めるにしても、彼女はあまり話をしたがらないのでどうしようもない。

 

 どんよりと、重い空気が辺りに漂う。空気の根源たるハリベルはしおれたままで、全身に重りを乗せられる御蔭丸は穏やかな笑みで大量の冷や汗を流していた。

 ――……耐えるか。

 いつまでも晒されるには厳しい空気だが、蜜の在庫を確認しておかなかった彼が悪いのは明白なので、笑顔のままで耐え続ける。そのまま時間が解決してくれるのを祈っていると、不意にハリベルが鋭い眼付きで彼に問うた。

 

「……どいつだ」

「は?」

「どの霊蟲を狩れば蜜を採れる」

「あ、えっと、多少蜜の味や質が変わりますが、とりあえず蜂型の霊蟲を狩猟すれば蜜は採取できますが……まさか今から狩りに行かれるのですか?」

「…………」

 

 困惑気味の問いに答えず、ハリベルは颯爽と姿を消した。止める間もない早業に御蔭丸は手を差し出したままぽかんとしている。が、ハリベルの霊圧が潜窟から遠ざかっていくのを感じて、やれやれと首を振って笑みを消した。

 ――そんなに食べたかったのか?

 食器を手に持って台所に向かい、適当に洗いながら考える。確かにデザートに関して言えば普段御蔭丸の行動を黙認し、何の意見もしない彼女が要求してくるくらい好きだったようだが、それでも今日のように即座に狩猟へ行きはしなかった。

 ――やはり、この前の事が響いているのか。

 

 つい先日に起きた出来事を思い返して、手に抱く皿を砕いてしまう。破片が刺さり、血が噴き出すのを荒みきった双眸で見下して、悔いるように握りしめる。

 ――思い返せば卯ノ花隊長にもやってしまったな。

 ――どうして俺はこうも、失敗から学べない。

 後悔ばかりの生前と、後悔を捨ててきた死後の旅路を脳裏に描く。その上で誰かの願いの面影になろうと決めている彼は、当然ハリベルの願いにもなろうとしている。

 ハリベルの元に身を寄せているのは生きて尸魂界に帰る為だが、最終目的がそれでも彼女に言った言葉は嘘じゃない。御蔭丸は本気でハリベルの孤独を癒そうと努力している。にも拘らず傷付けるばかりの己を不甲斐ないと断じていた。

 

 ――悔い続けても仕方ないか。

 ――それで気持ち良くなるのは自分だけだ。

 気持ちを切り捨てて、これからについて思考を巡らす。

 ハリベルとの生活が何時まで続くかは分からない。この生活は御蔭丸が自らと融合したアジューカスを完全に分離する鬼道を完成させるまで続くだろうが、完成までの見通しが全く立っていない今は終焉の予測すら叶わない。

 その間、彼はずっとハリベルの世話を受ける事になるが、それをハリベルが許すかどうかも分からない。彼女を傷付けるような事を繰り返せば、いずれこの棲み処を追われる事もあるだろう。

 ――心にもない事を思うんだな、俺も。

 

 自嘲して、その考えを否定する。棲み処を追われるのならそもそも、傷の治った五ヶ月前に放逐されている。なのにただ鍛練をし続けるだけの彼を此処に置いているのは、他ならぬハリベルがそう望んだからだ。

 彼女はただ、此処に居てもいいと云った。特に理由を話すでもなく、嘆願も毛嫌いもせずにそう認め、それ以降彼に干渉する事は無い。それだけを照らし合わせれば“望まれて此処に居る”とほざくなど吐き気のする解釈だろう。

 だが現実として、それが真実であると御蔭丸は見抜いている。たかだか一カ月、たかが半年、何かを語らうでもなく、何かを交えるでもなく、何がしかの果てに契ったわけでもない。ただ彼女の側で息衝いていた――それだけの分際であるにもかかわらず、そう断じる理由は何か。

 

 ――そう、凝った話でもないがな。

 ――彼女は安らいでいる……そう感じただけだ。

 ティア・ハリベルは己との生活の中で確かな平穏を抱いている。そうでなければ彼の造った設備など使わなかっただろうし、そうでなければ彼の作った食事など見向きもしない。そうでなければ彼に裸体を見られるような過ちも犯さなかっただろう――そうでなければ、御蔭丸と共に生きる意味がない。

 ――だが、その一方で彼女に拒まれているのも事実。

 ――それは彼女にも、そして俺にも問題がある。

 

 血を濯ぐ水に心を落として、御蔭丸は静謐に想う。

 彼女は何処か、己の裡の孤独を認めていない。それは弱さであり、強くなければ生きられない虚圏では致命傷になりかねない事実だからだ。仮に孤独を面に出せば、御蔭丸がそうしたように口の上手い虚に懐に入られてしまうかもしれない。

 そうでなくとも産まれ堕ちた瞬間からずっと張り詰めていたハリベルに、半年過ごしただけの相手を受け入れろというのも酷な話だ。その相手が自らを殺し、如何なる時も慈母の様に微笑む男ならば、尚更である。

 ――いずれ彼女には、俺の本当を話さなきゃならない。

 ――それで漸く、彼女を癒す第一歩を踏み出せる。

 

 いつかその機を用意して話そうと彼は決め、荒れ果てた表情を日常に帰す。ハリベルの前でいつも見せる、誰も傷付けない穏やかな笑みを無に刻み、砕いた皿を慌てて片付ける素振りを演じた。

 そんな御蔭丸を、いつの間にか戻ってきたハリベルが階段の影に背を預けて眺めている。カチャカチャと食器を洗う姿はあまりに自然すぎて、此処が虚圏である事を忘れてしまいそうだ。

 だからこそ、信頼出来ない。場にそぐわないその性質を瞳におさめる度に、果たしてこの男に頼ってもいいのかと躊躇が生まれる。その反面、一度知ってしまった人の暖かみを手放す事も出来ない彼女は、何も語らずただ御蔭丸を棲み処においている。

 

 お互いに腹の内を明かさぬまま表面上は普通に過ごしている彼らは、まさしく奇妙な共存関係だ。そしてその奇妙な間柄を打開できずに過ごす彼らの元に、巨大な火種がくべられる。

 おそらくは。笑う男の笑みを掻き消す程の、昏い冥府の底から生まれた火種が、静かに熱く襲来しようとしていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 蛞蝓のような黒い泥が、身体中を這っている。

 天高き神の光が降り注ぐ、息の継げぬ大地の最奥で昏き泥濘に囚われる。それは朽ちた牙のような、降り積もった雨雪のような、腐敗した死骸の腕のような。

 香りも無く、音も無く、味も無く、黒に紛れて眼に写る事も無く、ただ白い体表を当て所も無く滑り剥ぐその泥は、皆見覚えのある顔をしている。

 生きながらの幽霊のような女性が、特徴的な猫目を苦痛に歪ませる少女が、死に果てた己のような相貌の少年が、鬼のような仮面をかぶった男が、皆責めるように眼を向けてくる。

 

 鈍い銀を溶かしたような泥の腕から、彼は逃げない。この光の泥土の奥深くで自由を奪われる事こそ、彼の贖罪の証だからだ。同時に身を鎖す死者の腕は、彼が捨てた後悔でもある。

 ――…………。

 何も、想う事は無い。此処は尸魂界でも虚圏でもなければ、己の斬魄刀が待つ精神世界でもない。ただの虚像、ただの幻だ。故に此処では、彼もまた死者。何かを想像する事は(すべから)く生者の特権であり、生を失った死人が一体何を想えるというのか。

 ――…………?

 そんな彼の、茫洋と消えゆく露の眼の端に、何者かの影が踊る。遥かなる眩い大地を削り踏む跫音を響かせるその影を、何時ぞやの記憶から引きずり出し――

 跳ね回る魚のように、御蔭丸は死者の眠りから跳ね起きた。

 

「…………ッ」

 

 ――妙な悪夢だ。

 ――こんなもの、今まで見なかったんだがな……

 護れなかった誇りに詰られる感触が、夢であるのに現実味を帯びて肌に残っている。そのせいか息も荒いし、寝巻も肌に貼りつくほど汗が染み込んでいた。

 ――……着替えるか。

 長い息を吐いて心を整えた御蔭丸は、寝台(ベット)から降りながら乱暴に寝巻を脱ぐ。今日も鍛練をこなす一日が始まるなと、白い装束を纏いながら思っていると、ふとハリベルの霊圧が近くにない事に気付いた。

 ――何処かに行っているのか?

 

 軽く探査してみても引っかからない事から、近場には居ないようだ。珍しい事だが、全くないわけでもない。彼女にも時々遠くへ行きたくなる衝動があるのだろうと、着替え終わって軽く顔を洗いに行こうとしたその時――彼の驚異的な霊圧知覚を、巨大な霊圧が剣戟した余波が弦を引き千切るように掻き鳴らした。

 

「―――――莫迦、な――――!?」

 

 その余波が届いた瞬間、隼もかくやという勢いで余波の中心へ身体を向ける。普段は微笑みを浮かべる彫りの深い顔に浮かんでいるのは、驚愕と焦燥だ。在り得ない(・・・・・)――その一言がずっと、頭の中を廻っていた。同時に、鉄の残響のように響く霊圧が暗然とハリベルの劣勢を告げる。

 ――ハリベル……!

 心中で叫び、御蔭丸は斬魄刀を強く掴む。そして後先を考えず、半年ぶりに虚圏の永遠の夜の(しとね)に飛び出した。

 失った筈の感情を、余す事無く世界に晒し。

 遠く隠した記憶の渦へ、自らの身を投げながら。

 

 走り、走り、走り、走る。

 砂の嵐を縦に裂き、砂丘を乗り越え岩場を飛び抜け、霊圧の中心へ我武者羅に行く。道中、何体ものギリアンやアジューカスと正面から向かい合ったが、彼らは御蔭丸に目もくれず一目散に逃げていた。彼からではない――この夜天よりも昏く熱い、ひどく粘ついた霊圧を恐れている。

 その霊圧に当てられて、墓場に埋めた記憶が暴かれそうだ。余波が砂漠を波立たせる度に奔る脳髄の痛みに耐えて、苦悶の表情で脚を動かす。考えるのはハリベルの事と、そして彼女と戦っている霊圧の持ち主。

 ――……在り得る筈がない。

 ――だがもしもそうなら、危険だ。

 ――ハリベルでは、勝てない。

 

 孤独に浸る彼女の姿を脳裏に描いて、無事でいてくれと切に願う。アレは彼女の手に負える存在ではない……手に負えたとしても、彼女に任せるわけにはいかない。

 脳を砕く痛みに耐えている内に、ぶつかり合う霊圧の中心はすぐそこまで迫っていた。後は岩山一つ越えれば、ハリベルともう一人が居る筈だ。焦燥を刻んだまま、御蔭丸は瞬歩で岩山を飛び越え――――血の滴る紅い双眸に、在り得てはならない暗黒を写し出す。

 

 そこには、肢体を覆う鎧を破壊され、ボロボロの格好で首を握られ中空に浮くハリベルと。

 あまりにも昏く、あまりにも熱い。

 この世のものでは在り得ない、狂気の牙を剥き出しにして嗤う深い闇が、佇んでいた。

 

「――――――――」

 

 その光景を認識した刹那、御蔭丸は雷神となる。

 瞬塵、抜刀、斬閃、納刀。人が一度目を瞬く時間、音を大気に置き去りにした白い死神は、佇む暗黒が理解するよりも速く刃を閃かせ、ハリベルの首を掴む右腕を躊躇いなく斬り落とした。直後、ハリベルを抱えてその場から離れた砂丘へ身を落とす。

 斬魄刀を鞘に納めた御蔭丸は呆けた暗黒に眼もくれず、首に残った腕を投げ捨ててハリベルの容態を確認した。全身の鎧に罅が入っているが、装甲の役割は果たしたようで内部の傷はひどくない。ただ受けた衝撃が強過ぎたのか、意識が朦朧としている。しばらくは動けないだろう。

 

 小さく呻くハリベルの首に残る痣に手を当て、治療を行う。御蔭丸自身の霊圧を流し外側から治療し、ハリベルの霊圧を回復させる事で内部からも治癒を促す。回道の基本を精練された技術で行い、それを終えた瞬間――今まで沈黙を保っていた暗黒の影が、ギシリと異様な軋みを上げた。

 感情の見えない顔つきで御蔭丸が目を向ければ、その闇は切断された右腕の断面を見ながら笑っていた。血も零れなければ肉も見えない、ただその姿と同じ暗黒の霧が蠢くのみの断面を見つめ――鋭すぎる乱杭歯を、ギシギシと蟲翅(むしばね)の様に軋らせる。

 

「――――――――……ギハッ」

 

 獣の内臓のような生臭い熱気が這い出る乱杭歯は、顔を覆う仮面の一部だ。奇妙な事にその仮面には鼻が無く、耳が無い。ただ神の心臓を斬り裂いたような三日月形の乱杭歯が並ぶ口と、綺麗な円を描く二つの孔があるのみである。その孔の中は全くの空洞であり――底の見えぬ闇の裡に白い炎が燃えているような眼がぬらりと潜んでいた。

 その仮面を被虐する肉体も、人型なれど尋常ではない。ともすれば骨髄のみの骸よりも細い異様に長い手足を持ち、体幹もその身長にまるで合わない幅の狭さだ。その上全身の至る所、特に肘や膝の関節部から鋭すぎる棘が無数に生えている。特に頭部は髪の代わりと言わんばかりに、肘から手首程の長さの棘が針鼠のように蠢いていた。

 そして仮面を除き、その腕も足も体幹も棘も全て黒い。虚圏の闇より昏く、されど生の息吹よりも熱い――まるで人間の底知れぬ悪意の塊のような姿をするその闇は唯一、仮面の左眼を上から下に斬り裂くような黒い螺旋と、そのまま首を通り胸と腹を裂いて腰まで続く反転した白い螺旋の仮面紋(エスティグマ)が異彩を放っていた。

 

「――――……ギハハッ、ギハッ……」

 

 闇が、断続的に震えている。漏れ出ているのは神経を掻き鳴らすような不愉快な嬌声だ。何がそんなに可笑しく、何に対して喜びの声を上げているのかは、分からない。寄せては返す(さざなみ)のように小さな声をクツクツと漏らすその闇を、御蔭丸は厳しい眼で殺そうとしている。

 ハリベルは、定まらない意識の端で彼の表情を見つめていた。それはいつも見ている、慈母のような優し過ぎる笑顔じゃない。いつぞやの戦いの最中に見た、虚無を宿す無貌でもない。彼女のいない時に晒す、荒れ果てた戦士の形相とも違う。

 そこに満ちているのは、確かな怒りと明確な憎悪。常に優しさばかりを湛えている男が今、度が過ぎた負の感情で冷たい大気を灼いている。こんな顔は、初めて見る――心の揺れる翠の瞳で、ハリベルが揺籃とそれを眼に写した時、震えるばかりだった闇が、突如として弾けた。

 

「――――ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!」

 

 その笑い声で、砂が砕ける。白い白い白い砂漠の上に陣取る闇の周囲が、巨大で不快で歪んだ霊圧を載せた凶笑に呑まれて一瞬の内に死んでいく(・・・・・)。霊圧に押された風が吹き荒れ、御蔭丸とハリベルを呑みこむ死に砕けた砂の嵐は、圧倒的な死臭を形の無い肉体に押し込めていた。

 そしてただ大気に堕とすだけで周囲の存在を絶命に追い込む闇の狂笑が途切れ、死者の嵐が過ぎ去った頃――笑いのあまり首が折れていないのが不思議な程喉を逸らす闇が、ぎしりと乱杭歯を軋らせる。そのまま細すぎる手を宙に伸ばし、細く尖り過ぎている棘の指で狂然と御蔭丸を指差した。

 

「――――私は」

 

 だが、その狂った態度とは裏腹に、顔が上下逆さで背に貼りつくほど曲がった喉の先から、静かな声が小さく溢れる。

 

「――……私は、私は私は私は、今日というこの時この刻この瞬間ほど、運命と云う宿命と云う天命と云う代物を、感じ考え想った事は無い。

 もしも、その女と逢わなかったら――

 もしも、私が現世へ行っていたら――

 もしも、今宵贄を探さなかったら――

 かならずきっと間違いなく、私はお前に貴様に汝に逢い(まみ)え邂逅しなかっただろう」

 

 しかしその静かな声は、常道と呼ぶには輻輳(ふくそう)し過ぎている。意味も無く言葉を重ねる異様な闇は、ぎちぎちと錆びついた歯車が廻るようにゆっくりと首を戻し――三日月の狂気を咲かせる口を軋ませ、白い炎が揺れる眼を限界まで見開いた。

 

「故に、私はこの運命に感謝する。何せ――――お前を貴様を汝を再び、私の手で滅し葬り殺す事が出来るんだからなアアアァアァァアアアァアギアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハゲアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」

 

 乱れている。攻撃的な棘だらけの静寂な闇かと思えば、次の瞬間には金属板を引き千切る獣の牙の如く狂った声で嘲笑う。安定しない、常軌が無い、まるで際限無く増殖する細菌のようなその闇へ、御蔭丸は予備動作も無く鬼道を打ち放った。

 

「……――――『赤火砲』!!」

 

 縮小し回転する火矢の如く捻じ曲げた赤火砲が、闇の左肩を焼いてブチ抜く。しかし自分の肩が炎で焼かれ吹き飛んでも、その闇は痛がる様子も無く頬が裂けると錯覚するほど不気味に嗤い続けていた。その光景を紅い双眸に燃え盛る憎悪で灼く彼は、怒りに歪む唇から怨嗟の声を吐き出す。

 

「…………如何してだ。如何して貴様は生きている……貴様は俺が殺した筈だ――俺の全霊をかけて滅ぼしてやった筈だ!! なのに如何して生きている!? 答えろ――――

 

        ――――アルヴァニクス・エヌマニュエル!!!」

 

 御蔭丸は死の戦慄を載せた眼光で、アルヴァニクスと呼んだ闇へ咆哮した。剥きだされた剣歯と風貌は、獣のようで鬼に近い。そして彼が死して浮かべたどんな貌よりも、人間らしいものだった。

 それを耳が壊れる程の狂気で嘲笑って、闇は嬉しそうに身を悶える。右腕が無く、左肩もない不気味な人型は明らかな歓喜に満ちていた。その異常な情動に突き動かされるまま、身を捩って狂悪の絶叫を吭から絞り出す。

 

「あァ!? それはそれはそれはそれは実に奇妙奇天烈奇怪な問い掛けだなあ!! この私が、千年の彼方で無限の殺戮を繰り返してきたこの私があの程度のあの程度のあの程度の素晴らしき神撃で死ぬ筈がない!!! それは!!!

 

 

 

 

 

 

 ――――貴様も理解()かっていただろう――――?

 

 

 

 

 

 

     ――――――――ええ、滅 却 師(クインシー)――――――――!!!」

 

 

 

 

 

 

 吐き出されたのは、世界を壊す者の総称。

 それは間違いなく、この場で斬魄刀を担う唯一人に向けられている。

 虚の仮面よりも白く。死人が流す血涙(ちなみだ)より赤く。地獄を造る悪鬼よりも鬼らしい――大神御蔭丸を、差していた。

 

 虚圏の永遠の夜が壊乱する。狼と、鮫と、あと一人。留まらぬ闇の化身は、ただただただただ嗤っていた。

 




原作より六八四年前の出来事。
はい、また次話投稿の予告をオーバーしてしまった筆者です。もう次回予告なんてしない方がいいんじゃないかと思っています。以下、言い訳が続きます。
本編について。
前半は虚圏での生活、後半は筆者の趣味全開で書きました。ハリベルの鎧については色々突っ込みがあると思いますが、この作品では脱げる設定です。
死覇装について。
あまり関係ない話ですが、死覇装は勝手に再生しないという設定で書いてます。原作では死神の力を得た一護が急に死覇装を着ていたりしていますが、実際のところどうなっているのかよく分からないので着ている支給品一枚を失ったらそれっきりという感じだと筆者は思っています。
次話投稿について。
性懲りも無く書きますが、八月の最初に所用でPCを触れない時期がありますので、その間は執筆できません。なので八月は一話、筆が乗れば二話投稿すると思います。なお期限をオーバーするのはたぶんデフォです。申し訳ございません。
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