BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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破綻

 大神御蔭丸の朝は早い。

 虚圏に夜明けはないので、自動点灯する鬼道の照明が一日の判断だ。紅い扁桃花のない男は荒れた表情で、寝床に闖入者(ちんにゅうしゃ)がいないか確認する事から朝を始める。

 ここ最近は御蔭丸しか寝床にいない。そんな当たり前のことを今日も今日とて確かめて、白い男は起き上がり身だしなみを整える。

 それが終われば朝食の用意だ。正直なところ虚である同居人にとって栄養など意味が無いので、純粋に味だけを追求した軽めの食事を手早く作る。出来た料理を皿に移し、無意味な笑顔で食卓に運ぶと……凄まじく不機嫌な顔をした絶世の美女が、肩肘をついて座っていた。

 

「お、おはようございます、ハリベル」

「……………………」

「い、いやあ、今日は良い天気ですね! 絶好の洗濯日和です、濡れた着物もカラッと乾いてくれるでしょう!」

「……………………」

「あ、あの……朝食をご用意しましたので、よろしければご賞味くだ、さい……」

「……………………」

 

 虚圏(ウェコムンド)で天気の話をするという(はら)の冷える駄洒落を吐いた御蔭丸だったが、凍ったのは彼自身の笑顔だけだった。神秘的な褐色の肌を鎧に隠し、美しい翠の光彩を覗かせる麗人、ハリベルは明後日の壁を黙々と視殺している。一瞥(いちべつ)すらくれない無情っぷりに御蔭丸はおどおどと、ハリベルの前に朝食を並べる事しか出来なかった。

 そのまま彼は身体に見合わぬ小ささでそそくさと部屋を後にする。下手な刺激を与えないよう静かに寝床へ戻った御蔭丸は、フーッと長い溜息をついて、自分の寝台に腰掛けた。

 ――今日も機嫌が悪かったな。

 ――まだ話せる状態じゃあねえか。

 

 ハリベルの朝食のついでに作った自分の(まかな)いを口に運びながら、今後の事を思案する。

 ――発端はやっぱり、あれだよな……

 思い出すのは羚羊の彼女。つい最近最上級大虚(ヴァストローデ)へ進化した快活な友人、ネリエルの事だ。

 あの日、御蔭丸は妙に遠ざかるネリエルの霊圧が非常に不安定なのを察知した瞬間、彼女の元へ駆けつけようとした。それを妨害したのが他でもないハリベルだ。

 二人の間で何か約束事があったのだろう。全てを投げ捨てて向かおうとする御蔭丸を、ハリベルは頑として通そうとはしなかった。怜悧な眼光で御蔭丸を貫く彼女は、無理を通すなら四肢を斬るとまで言い放ったのだ。

 それだけではない。今まで形骸だった彼らの関係を持ち出し、「お前は私の物だから行くな」とか「行くなら二度と敷居を跨がせない」などと、非常に強い口調で御蔭丸を阻んだ。

 それでも御蔭丸だ、笑顔で押し通ろうとする。ハリベルは数度刃で御蔭丸を斬り、本気である事を示したのだが……それで止まるようならば、この死神は虚圏に居ない。

 最後は懇願にも似たハリベルの静止を振り切ったあの日以来、関係はめっきり冷え込んでいる。御蔭丸としては追い出されていないだけでも有り難いのだが、あんなに不機嫌な彼女と共に暮らすのは些か問題もある。

 

「いつかは解決しなきゃいけねえ事だが……さて、どうしたもんかな」

 

 空になった器を乱暴に置いて、御蔭丸は乱れた身なりを正す。考え事に集中したいが、どうやら来客が来たようだ。部屋を出た御蔭丸が玄関に到着するのと同時に、扉が勢いよく開いた。緑が香るような力強い若草の髪が、御蔭丸の眼を眩しく彩る。

 

「おはようございます、ネリエル」

「おはよー、御蔭丸ー! わざわざ出迎えに来てくれたの?」

「ネリエルは一応客人ですからね。ハリベルと懇意にされていても礼儀は通すべきでしょう」

「まあそうだけれど、貴方はもう少し砕けた口調でいいんじゃないの? 私達、それなりの付き合いじゃない。ちょっと壁を感じちゃうわ」

「ハハハ、申し訳ございません。これは癖のようなものですので」

「出た! 御蔭丸の困ったら癖っていう癖! 別にそれって万能の言葉じゃないんだから、もうちょっとマシな言い訳考えなさい」

「これは失礼(つかまつ)ります」

「もっと固くなってどうするのよ! ホント貴方っておかしな人ね」

 

 御蔭丸の胸をぽんぽんと叩くネリエルは屈託のない笑顔をきらめかせる。こっちはこっちであの日以来、少し影のある顔をしていたが、どうやら綺麗に吹っ切ったようだ。そういう尾を引かないネリエルの性格は好ましいと御蔭丸は微笑む。

 が、その微笑みは背後から迫る剣呑な空気にピシリと凍りつく。目の前のネリエルもやや吃驚(びっくり)した面持ちで、ぎこちない笑顔を御蔭丸の奥へ向けた。

 

「お、おはよう、ハリベル!」

「……おはよう。今日も元気そうでなによりだ、ネリエル。上がっていくか?」

「え、ええ、もちろん! 喜んでお邪魔するわ」

 

 さっきよりは大分マシだが多分に冷えた声色にネリエルはそそくさと上がり込む。部屋の奥に消えるハリベルを追いかける彼女は御蔭丸とすれ違う時に脇腹へ肘鉄を打ち込んだ。

 

「うぐっ!?」

「……さっさと何とかしなさい、この馬鹿」

 

 ギロリと一睨みしてネリエルもぱたぱたと奥へ消えた。残された御蔭丸は後頭部を掻いて本日二度目のため息をつく。

 

「……分かっちゃいるんだがな。俺にはどうも荷が重い」

 

 血のように紅い瞳を薄くして、御蔭丸もハリベル達を追いかける。せっかく友人が来たのだ、もてなしの一つも出さないのは家主の沽券に係わる。今日は腕によりをかけようと、御蔭丸は逃避気味に考えるのだった。

 

 

 

『ねえ、ハリベル。頼みがあるの』

『……何だ、ネリエル』

『もしも御蔭丸が追いかけてくるなら、どうか貴女に止めて欲しい』

『……どうしてだ』

『だって、私はもう耐えられそうにないんですもの。今だってホラ、自分を抑え込む事で精いっぱい。私の気力が尽きた時に、彼が目の前に居たとしたら……我慢できる、保証がないわ』

『…………どうにも、ならないのか』

『……ごめんなさい。私じゃどうあっても無理みたい。今までだって、あなた達と出逢うまでは毎日のように食べてたのよ。それが月に一度食べるかどうかにまで減って……今更元に戻しても、きっと死ぬまで止まれないわ』

『アイツなら……御蔭丸なら、どうにか』

『いいの……それ以上は言っちゃダメ。だって彼は――死神だから。虚が死神に頼るなんて、馬鹿みたいな話じゃない。自分勝手で救えなくて、意味の無い私達が、死神に命を救われていいわけが無い。例え神様が許したって……きっと誰にも、赦されない』

『…………ネリエル……』

『今までありがとう、ハリベル。私、貴女と友達になれて本当に良かった。別れるのは、寂しいけれど……貴女がいれば、後の事を託せるから。そうすれば私にも少しだけ、生きた意味があったって思えるの。それはとっても、幸せな事よ。

 ……それじゃあね。私が言うのもおかしな話だけれど――御蔭丸の事、頼んだわ。さようなら、ハリベル』

 

 少し前、そんなやり取りが交わされた。

 現世ではまだ日が上がったばかりのこの時間。朝食を終えたハリベルは食器を片付けた後、食卓に座り込んでネリエルとの約束を思い出していた。

 結局、果たせなかった約束だ。ハリベルは出来る限り御蔭丸を止めようとしたが、通るためなら死んでもいいと矛盾に満ちた笑顔を向けられて、そのまま押し切られてしまった。

 分かっていた筈だ。御蔭丸は目的を果たす為なら簡単に死を選ぶ男であると。それでも約束を交わしたのは、死を受け入れた友のため。ネリエルの意志を無駄にはしまいと、必死になってハリベルは止めた。

 ……けれど、じゃあ、止めきれなかったのは。彼を通したのは、誰のためだったのか。御蔭丸の生き方を通させたかったから? あるいはネリエルに生きて欲しかったから? それとも――自分を捨てて走り去る彼を、これ以上見ていたくなかったから……?

 暗澹(あんたん)と揺れ動く心と思考を振り払って、気分転換に外へ出ようとしたらネリエルがいた。対応していた御蔭丸をとりあえず睨みつけてネリエルを招き入れたものの、何を話すべきか定まらない。挨拶をしながら食卓に座るが、半ば上の空で話していたハリベルは、ふと視界を横切った白い大男に思いを馳せた。

 

 ティア・ハリベルにとって大神御蔭丸がどのような男か。そう問われれば、分からないと答えるのが一番正しい。

 白髪紅眼の大男と言う目を引く外見に、それに反した穏やかな性格。そう言った人物像なら簡単に答えられる。答えられないのは、ハリベルにとっての御蔭丸の立ち位置だ。

 大事な男ではある。厄介な男でもある。命を救ってやった同居人だし、逆に命を救われた恩人にも当てはまる。友人かと言われれば首を(かし)げるし、かといって嫌いかと問われても(うなず)けない。

 要するに、分からない。ハリベルは今、御蔭丸をどのような立ち位置で接するべきなのか見いだせないでいた。とりあえず不機嫌そうに振る舞って――実際不機嫌ではあるのだが――御蔭丸を近づけないようにしても、何時までもこのままとはいかない。

 あの狂った死神に限っては無いだろうが、あまり邪険に扱うと人は逃げ出したくなるもの。万が一御蔭丸が、ハリベルの元から黙って消えてしまったら――己はきっと自害するだろうと、妙な確信だけがハリベルの中で渦巻いていた。

 

「――ハリベル? どうしたの、ハリベル」

「んっ……あ、ああ、すまない。少し(ほう)けていたようだ」

「大丈夫? 最近の貴女、少し変よ。もし体調が悪いならちゃんと休んだ方がいいわ」

 

 ハッとして顔を上げれば、心配そうにこちらを覗き込む青い緑と視線が絡む。一層美しくなった彼女の顔立ちは仮面を被っていても良く見える。自分とは大違いだなとハリベルは心の隅で暗く思い、何でもないと手振りで示した。

 

「いや、大丈夫だ。少し考え事をしていてな、深みに嵌まっていただけだ。心配してくれてありがとう、ネリエル」

「どういたしまして。でも無理は禁物よ? 御蔭丸もそうだけど、最近の貴女は特に危なっかしいわ。相談があればいつでも乗るから、あまり自分を追い込まないでね」

「……そう、だな。せっかく来てくれたんだ、辛気臭いのはやめにしよう。アイツも何か作ってるようだ……すまないがネリエル、とってきてくれないか?」

「りょーかい! 美味しいものいっぱい持ってくるわね!」

 

 屈託なく笑うネリエルが軽やかな足取りで台所に向かう。進化した彼女に食事はもはや不要だが、健啖家なのは相変わらずのようだ。そのまま、また深みに嵌まりそうな思考を振り払って、ハリベルは努めて明るい方へ心を引っ張っていた。

 そうしなければ、荒んでしまう。この心に巣食うよく分からない感情は、意識しなければハリベルをすぐに引きずり込む。

 斬るとも言った。行くなとも言った。だが御蔭丸は笑って、そうしなければならないと。斬っても止めても、自ら死地へ走っていった。もう二度と、戻ってこないような予感を漂わせて。

 その走り去る背に、何を感じたのだろう。ハリベルはあの時からずっと心に巣食っているそれの名前を掴みあぐねている。こんなに痛ましい気持ちは、今まで抱えた事がなく。そしてその名を知ってしまう事が何故だか堪らなく恐ろしかった。

 

「じゃっじゃーん! みてみて、いっぱい持ってきたよー!」

「……持ってき過ぎじゃないか、それは」

 

 そんなハリベルの淀む思考が、陽気な声に断ち切られる。心底幸せそうな顔でこぼれそうなくらいの甘味を両手で抱えるネリエルに、思わずクスリと微笑んだ。落ちそうないくつかを受け取りつつ支えて、食卓に並べる。かなりの量だが、きっと大半はネリエルが食べてくれるだろう。

 そんな期待を込めて視線を向けると、顎に指を当てて何やら難しい顔で唸っていた。

 

「う~ん……足りるかしら」

「…………その時はまたアイツに作ってもらえばいいさ。言い損ねていたが、私は朝食を食べたばかりだしな」

「ん~、そっか……ならそうしましょうか! ていうかハリベル、食べてたなら先に言ってよー。そしたらもっと持ってきてたのに」

「何故もっと持ってくるという発想になったのかは分からないが、とりあえずすまない。大丈夫と言ったが、少し頭が鈍くなっているかもしれないな」

「そうなの? じゃあ無理のない程度に甘いものを食べましょう! 頭を動かすのには甘いものが必要だって、御蔭丸も言ってたし!」

「アイツが言うなら、違いない」

 

 医療には全幅の信頼を置いている死神を思い浮かべようとして、ハリベルはやめた。こんな状態では気が沈むだけだ。それより今はこの快活な友人との会話を楽しみたい。席について早速頬張るネリエルを微笑ましく見つめながら、ハリベルは時折零れる言葉を拾う。

 

「それでねー、御蔭丸ったらひどいのよ! 事あるごとに『たくさん食べるネリエルは好きです』なんて言うの! 私だって女の子なんだから、もうちょっと言い方があると思うのよね!」

「そうだな。アイツは正直者だが、時折過ぎるきらいがある。嬉しい事だが、ああも褒められては胃がもたれてしまう」

「そうそう、ご飯も褒め言葉も量が多すぎるわ! もっと少なくしてくれても……ああいえ、褒める回数を下げてもいいんだけれどね。その辺律儀と言うか、極端と言うか……」

「今に始まった事ではないさ。いい加減慣れろというところじゃないか?」

「うーん、慣れられる・かなあ……なんだか自信がないわ。ああ、慣れると言えば天獄ちゃん! この前やっと奴隷扱いしないで口聞いてくれたの! なんだかんだあったけれど、あの子と話すのは楽しいわ。これからもっと交流を深めたいわね」

「ああ、私もそう思う。ここ最近会ってないし、今度声をかけてみるか」

「いいわねそれ! ナイスアイディアよ、ハリベル! よーし、そうと決まったら御蔭丸に色々準備してもらわなくちゃ! 私もたくさん用意したいし、材料集めのためにしっかり食べなきゃね!」

「私も少しつまんでおこう。提案したものがサボるわけにはいかないしな」

 

 瞳に安らぎの色を湛えるハリベルがもう半分ほど減ってしまった食物の山に手を伸ばす。ネリエルはハリベルが答える僅かな合間に取って食べて飲み込んでを繰り返していて、相変わらずの食べっぷりだと美しい鮫は感心していた。

 同時に、ネリエルの顔にも心にも影が残っていない事を確認して、ソッと胸を撫で下ろす。あの日、御蔭丸がネリエルを救って戻ってきた時。完全な人間の姿になった彼女は非常に不安定だった。二人とも血塗れで何があったかは想像に難くなかったが、御蔭丸は決して口を割らなかったのでハリベルも忘れるようにしている。

 しかしあの時のネリエルの不安定さの原因がそれにあった事は間違いない。人の姿を得た彼女はそれを喜ばず、ひたすら謝罪を繰り返していた。見ていられなかったハリベルは御蔭丸を追い出し、しばらくの間つきっきりで過ごしていた。

 

 今では開き直ったのか、今まで以上に明るい態度でハリベルと御蔭丸に接している。やや引き気味だった天獄への対応も、ここのところ良好のようだ。むしろ奴隷扱いして楽しんでいた天獄が逆に鬱陶(うっとう)しそうに振る舞っている。

 ハリベルはネリエルのそんなところが好きだ。良い意味でも悪い意味でも、彼女はあまり尾を引かない。断崖を駆ける羚羊のように、過ぎた困難を振り返らない。

 今は深い水底に囚われているハリベルにとって、それが眩しいくらい羨ましかった。ネリエルのようにさっぱりと区切りをつけられれば、自分にも御蔭丸にも誠実な姿勢をとれるのに。心の海を荒れ狂わせる曖昧な感情をはっきり見る事も出来なくて、苛立ちをあの死神に押しつけている。

 

 ――私は……どうしたいのだろうな。

 手に取ったまま口に運べない菓子を見つめて、自嘲気味に唇を曲げる。このままで居たいのか、以前の関係に戻りたいのか――それとももう戻れないところまで、突き進んでしまうべきなのか。

 まるで死神と出会ったあの日の再現だなと、彼女は金の頭髪を静かに揺らす。指先で踊らせる菓子を髪の隙間からしばらく眺めて、クッと喉を鳴らして口の中へ投げ込んだ。

 ――そうだ、まだ時間はある。

 あの時と違って、すぐに決断すべき事でもない。だからハリベルは問題を先送りにした。元はと言えば、あの男のせい。癒やすと言ったのに傷付けられた心の傷が癒えるまでは、八つ当たりに付き合ってもらおうと、久しぶりに穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

 

 

   φ

 

 

 

 

 虚圏(ウェコムンド)、絶えぬ月光の降る砂漠。見通しが良く、本来なら絶え間ない死闘が繰り広げられる乾いた夜。その中に一見して何もない、けれど近づき難い霊圧を感じる場所が現れていた。

 鬼道による霊子迷彩。それが直径五〇〇間(900メートル)に渡る広範囲に展開されている。術の使用者は大神御蔭丸、霊子迷彩の内側で今まさに死にかけている死神だ。

 

「――ああ、()いのう、お前様。そうして頬に血化粧を塗るお前様の、なんと愛らしい事か。妾は嬉しいぞ――そこまでお前様が追い詰められている様は、大慶(たいけい)()(ごく)この上ない」

「…………」

 

 三間半槍程に長い(げき)を片手で振り回しながら、紅い少女は凶悪に嗤う。もう片手にはネリエルが持つ双頭の槍に似た黄金の武器を優雅に操っている。身体に見合わぬ長物(ながもの)二刀の出で立ちは、嫌に少女に似合っていた。そしてそれが伊達ではない事を、血塗れの死神が証明している。

 

「さて、泥黎(ないり)幕間(まくあい)もこれまでとしよう。傷の浄化も済んだだろうしな。

 天が宴はまだ終わらぬ。斬り裂き、血を吐き、吼えるがいい。愛しい愛しいお前様よ――さあ、妾の胸に、その刃を突き立ててみよ!」

 

 眼を煌かせて高揚する天獄が、軽やかな足音を残して消える。瞬間、横なぎの一撃を右の短刀でいなし、間髪入れず左の長刀を叩き込む。戟を叩き込んだ姿勢で止まる天獄は槍を螺子のように高速回転させ、長刀をいなしながら反撃した。

 紅の眼球を貫かんと迫るそれを戟ごと振り抜く短刀で弾く。ついで戟の柄を脚で絡め取り、力任せに小さな天獄を蹴り投げた。離れる瞬間絡ませた脚を戟で斬られたが構わず、無防備に空を吹き飛ぶ天獄の胸目掛けて両手の刃を投擲した。

 しかして、それは命中する。寸分違わず少女の胸を貫いた二刀は――次の瞬間消え去り、周囲に群がる黄金の何処かへ突き刺さる。

 

「……――うむ、これで七四一本目。随分とまあ多くの刃金を積み上げてきたものだ。お前様にしては上々、なんと()快適悦(かいてきえつ)な事か。カカッ、その調子で残り二五八の武具、使い(こな)して見せるがよい」

 

 胸に刃物が刺さった事がまるでなかったかのように、天獄は華麗に着地し、感嘆の息をついた。満足そうに犬歯を光らせる少女は、ひどい有様の男へ近づいていく。片膝をついたまま動かない御蔭丸に臣下へ下賜するように手を伸ばし、貯蔵していた霊圧を自らの主人に流し込んだ。

 御蔭丸はそれを利用し、肌をくまなく朱色に染める傷を塞ぐ。傷痕の残らないよう回道を駆け巡らせ、一分も経たないうちに全ての治療をやり終えた。

 

「…………」

「カカッ、そうだな、今宵は仕舞いと相成ろう。このまま続けてつまらぬ座興を見せられるよりは、お前様の生き様を嗤うほうが心地良い。名残惜しいがいざさらば、次はもっと踊って見せよ」

 

 穴だらけの衣服を着替える御蔭丸へ言葉を投げて、天獄は黄金の粒子を残して消えた。同時に周りに突き刺さる無数の武装が、金の輝きを引いて一つに集い、十字架となる。空中で形を成し自然落下するそれを振り抜くように掴み取って、御蔭丸は始解を解いた。

 並より長い斬魄刀が、冷たい大気をぬらりと裂く。それを皮切りに景色が歪み、霊子迷彩が霧のように消え失せた。周囲に残る霊圧の痕跡が完全に消えた事を確認して、白い大男は鞘に納めて背中に差す。

 ――……今日は随分、戦ってしまったな。

 感情の無い眼で不動の月を見上げて、心中で静かな言葉を呟く。天獄と長く相対していると起こる心境の変化を振り戻す為に、いつもやっている事だ。もう戦いを厭わなかった、あの頃に戻るつもりはない――壊れた心が抱いている唯一に近い想いを掴んで、御蔭丸は扁桃の花を髪に添えた。

 

「……今日はもう帰るか」

 

 迷彩が消えた事で現れつつある虚の霊圧を探知しながら、御蔭丸はそう呟く。普段なら鬼道の鍛錬もするのだが、やはり天獄との戦闘は負担が大きい。早々に戻ろうと近場に岩の影に寄り、隠しておいたメノスの森に続く通路へ潜り込む。

 石英の巨木が連なる地下の森は、相変わらず陰気な空気が漂っている。所々に最下級(ギリアン)の影が混じる住み慣れた森の中を、御蔭丸は鬼道で隠れながら進む。無意識の警戒だけで充分だと判断している彼は、これからの事を考えていた。

 ――アルヴァとの戦いまであと二年。

 ――あまり時間は残されていないが、どうにかなりそうだ。

 卍解の修行は順調ではないが着実に進んでいる。鬼道の技術も虚圏に墜ちた当初とは比べ物にならない程上がった。この調子なら多少の余裕を残して目的は達成できるだろう。

 

 ――なら、今考えるべきはハリベルの事、か。

 二年前からずっと不機嫌な同居人を思い浮かべる。一応和解はしているのだが、御蔭丸は彼女との間に厚い心の壁を感じていた。

 ――それが願いと言うのなら、構わないんだがな。

 ――ハリベル自身が何を望んでいるか定めていない。

 今のハリベルは、逃げている。自身の心からも、御蔭丸からも。それはいい、御蔭丸とて大きな物事から逃げた経験はある。時は偉大なもので、時間をかければいずれ解決するものもあるのだ。

 ――……問題は、そのかける時間の長さだ。

 ――霊体と言うのはどうも、人間より気が長い。

 

 人間で在った頃の記憶と死神として過ごした記憶、その二つを比べて彼は頭をガシガシ掻いた。一応寿命と言う概念はあるものの、人間より遥かに長く存在できる霊的存在は平気で何十年も浪費する。

 御蔭丸とてその一人だが、それは時間がある時だけだ。アルヴァとの戦闘までという括りのある今、あまり変わらないハリベルの態度にもどかしさもあった。

 しかしそれは、ハリベルが望んでいるもどかしさ。御蔭丸から行動を起こして欲しいとうっすら期待されている。それにひっぱられる面影の男は、近々話をつけようと決心した。

 ――ん……?

 ――この霊圧は……チルッチ、か?

 

 知覚に引っかかった覚えのある魄動に彼は止まって首を傾げる。いつもの獰猛で好戦的な霊圧じゃない、弱弱しい霊力の響き。御蔭丸はチルッチの願いと霊圧から推測される状態を天秤にかけて、一応向かう事にした。

 地表から石英の枝へ飛び移る。霊圧の欠片も残さないよう鬼道を新たに重ね掛けて、影も落ちぬような速さで枝から枝へ飛び継いでいく。そうして十分も経たないうちに、御蔭丸は霊圧を発する洞窟の入り口に到着した。

 外から様子を見て、入口周りに鬼道をかける。引きずった跡とそれに寄り添うような血痕があったからだ。途中で邪魔をされない様に隠滅して中に入れば、ひどく汚れた巨大な(たてがみ)が目についた。

 

「……これはこれは、チルッチ様。いつにもまして無惨な姿でいらっしゃいますね」

「……ナニ? 笑いにでも来たの、御蔭丸」

 

 あえて神経を逆撫でる物言いで近寄ると、刺々しい眼光が鬣の隙間から放たれた。威圧的で、けれど薄暗い感情の無い純粋な敵意。これだけ弱っても衰えない気高い闘争への飢えを、御蔭丸はチルッチの長所だと捉えている。だが今回は無視しようと笑顔で決めて、彼はスタスタとチルッチの傍まで歩み寄った。

 ――ふむ。大小形の違う爪痕、歯形に霊圧の痕跡。

 ――相当な数の虚を相手取ったようだな。

 数十秒で視診を終えた御蔭丸は懐からいくつかの薬を取り出した。ゴソゴソと不審な動きをする男の意図を察したチルッチは、溢れんばかりの怒気を乗せた紫の眼で睨み付ける。が、仮面の奥で開かれた唇は先回りした御蔭丸に封殺された。

 

「僕はこのまま貴女が死ぬのを眺める事も出来ます。しかしそれは交わした約束に反するでしょう。チルッチ様、貴女は僕への雪辱を拭わぬまま、滅び去ってもよろしいのですか?」

「……ハンッ! 今すぐ()りゃあいいだけの話でしょ!!」

「冗談をおっしゃらないでください。勝機の無い戦いに身を投じるのが貴女の言う本能ではないでしょう」

「ぐっ……ッチ! 相ッ変わらず口ばっか回る嫌味なヤツ! そんなに女の身体をまさぐりたいなら好きにすればいいでしょ、このスケベ野郎!」

「はい、喜んでそうさせていただきます」

 

 苦し紛れの悪態に全く動揺しない男に再度舌打ちして、チルッチは不貞寝(ふてね)するように目を閉じた。抵抗しないからさっさと終わらせろと言外で示している。言われずとも心得ている御蔭丸は、治療するのに最適最速の回道を傷の数だけ展開して走らせた。

 取り出した薬は記憶している比率通りに混ぜ合わせ、消毒液にしておく。洗浄料としても利用できる液体を瓶に詰め、清潔な布と一緒に近場へ置いておいた。用途は暇潰しの一環に教えてあるので、その気があれば勝手に利用するだろう。……使われなかった薬品の山は、意図して見ないようにする。

 そうしているうちに治療が終わり、巨大な燕を覆う回道がキラキラと剥がれ落ちる。その小さな光を細めた赤色で観察する御蔭丸は、そっぽを向くチルッチに疑問を投げた。

 

「チルッチ様、貴女は一体何処でこれ程の怪我を負ったのですか?」

「…………アン? そんなの聞いてどーすんのよ」

「個体の違う中級(アジューカス)にやられたと思しき傷がいくつもありましたので。それだけの数の虚が密集する地域に近づかないためです」

「あっ・そう。いっつもみたいに笑いながら突っ込んで死ねばいいのに。……まっ、お礼代わりに一応教えておいてあげるわ。上の砂漠から遠くに見える、一際高い丘の向こう側よ。今あそこには自称虚圏の王様がいるから、近づかない方がいいわ」

「虚圏の、王……? そのような存在、聞いた事がありませんが……」

「そりゃあ死神は知らないでしょうね。でも、結構長く生きてる虚なら誰でも小耳に挟んでるはずよ。馬鹿みたいな数の中級を従える、虚圏は自分の物だって調子に乗ってる骨の王様の事はね」

「……大虚を統率する骨の王……? 事実だとすれば、前例の無い……チルッチ様」

「あ~ダメダメ、もう教えないわ。怪我はあんたが治しちゃったし、霊圧はそこそこ減ってるけど……あたしはもう戦える。これ以上ここに居るなら、本気の暇つぶしに付き合ってもらうわよ」

「……分かりました。どうかお大事になさってください」

 

 鬣の間からチリチリと振動する刃を見せつける燕の虚に、御蔭丸は早々に諦めて洞窟を出た。入口に張り巡らせた鬼道は一定時間で消えるよう術式を再構築して、足早に拠点へ向かう。

 ――チルッチの言う通り、虚圏の王が実在するのなら。

 ――何としても尸魂界(ソウルソサエティ)に伝える必要がある。

 ――実在を確かめる為にもっと詳細に調べなければ。

 少なくとも死神統学院では示唆すらされていなかった。徒党を組む虚はいくらでも確認されているが、大規模な組織を編成しているのなら話は別だ。虚との戦い方が根本的に変わる可能性もある……とにかくもっと情報を集めなければならない。

 拠点に向かうのは、そこにネリエルがいるからだ。チルッチの言を全て信じるのなら、長く生存しているネリエルも知っている可能性が高い。感じる霊圧は何やら慌ただしいが、とにかく話をしようと御蔭丸は駆け、拠点に到着してすぐさま扉を強く開いた。

 

「ネリエル! 急で申し訳ないのですがお話が……」

「御蔭丸! 貴方こんな時に何処行ってたのよこの馬鹿! 大変、大変なのよ!」

 

 喋りかけていた台詞はすぐさま胸元を掴んできたネリエルに中断された。突然の出来事に御蔭丸は目を白黒させたが――次の瞬間放たれた叫びは、それ以上の衝撃を白い男に与えた。

 

「ハリベルが――ハリベルが、虚圏の王を名乗る奴に目をつけられて! たくさんの中級に囲まれてるのよ!!」

 

 

 

 同時刻、冷たい風の吹く砂漠の一角。他の砂丘よりも一際高く、周囲を一望できる丘陵の真ん中に、深海のように重い威圧を放つハリベルがいた。一見して自然体だが、握る仮面の刃には研ぎ澄まされた霊圧が(みなぎ)っている。

 

「――ほう。これは中々、活きの良い霊圧よ。儂に言葉も無く斬りかからん程度には理知的で、造形もそれなりに美しい。

 たまには辺境に足を運んでみるものじゃな。野暮な岩肌と頭の足らん雑魚しかおらんと思っておったが、塵芥の山に(ぎょく)が混じる事もある。それも至高の輝きに比べれば劣るものだが――貴様は儂の眼に適う程度には、輝いておるようだ」

「…………」

 

 隙間なく周囲を警戒する鮫の最上級(ヴァストローデ)に対し、響く言葉は傲慢と威厳に満ちている。昏い闇を嵌め込んだ眼窩はあからさまに全てを見下し、骨の玉座に腰掛ける様はまさに王と呼ぶべき姿だ。

 感じる霊圧もまた壮絶。仮に骸の姿をした王に(はべ)る虚達の霊圧を全て束ねても、到底及ばぬであろう絶対的な力。さながらかつて相対した死を運ぶ黒い棘に勝るとも劣らない霊圧の奔流に、ハリベルは戦意を鋭く尖らせる。

 畏れは感じるが、あの闇程の恐怖はない。狂気と共に全てを殺戮する奴とは違い、少なくとも目の前の存在には言葉が通じるからだ。それに見るのは初めてだが、知らぬ虚ではない。今この場所に君臨する骨の王こそ、噂に名高い最上級――

 

「――――バラガン・ルイゼンバーン」

「ほう、儂の名を知っておるのか。まあ、当然か。我が城たる虚夜宮(ラスノーチェス)は虚圏の全ての空が城の屋根。その下で生きる下等な貴様らが、儂の名を知らぬわけが無い。

 だがそれすらも知らぬ蟻がいるのもまた事実。それに比べれば貴様はまだ見込みがある。儂の名に免じて特別に、名を名乗る事を許してやろう」

「…………ティア・ハリベルだ」

 

 不遜に満ちた物言いにハリベルは素直に答える。会話などただの戯れだ。バラガンにとっては珍しいから声をかけた程度だろう。だから軽んじられる不快感を気にするより、周囲を囲む中級達の動向を警戒するべきだ。

 そうしているとしゃがれた笑い声が聞こえてくる。見れば顎の骨を鳴らすバラガンが、愉快そうに肘掛けを指で叩いた。

 

「フハハハハハハ――何とも健気な事よ。儂を前に逃げ出す算段をし、それを(おくび)にも出さん。そして儂に気付かれておらんと信じておる。長い年月を生きる最上級とはいえ、所詮は小さき者じゃな」

「……その小さき者を見るために、貴様はわざわざやってきたのか」

「愚かな発想じゃ。この儂がいるかも分からん虚のために辺境の草を踏むものか。ハリベル、貴様も此処を縄張りとしておったのなら気付いておるじゃろう――新たなる最上級がこの地で生まれた事ぐらいはな」

「……目的はそれか」

 

 元々半眼だったハリベルの瞳が、更に細く切り取られる。バラガンの発言は言うまでもなく、ネリエルの事を指しているのだろう。それならば、話は別だ。ハリベルは牽制のために研ぎ澄ましていた霊圧を本格的に上昇させる。

 ハリベル一人が目当てなら、この場を斬り抜けて逃げればいい。必要のない戦いにわざわざ身を投じる理由もないし、元々戦いは好きではない。同居人の死神に言えば移住も楽に終わるだろう。

 けれど目的が友と言うのなら、ハリベルが立ち向かう理由になる。少なくとも滅ぼすには惜しく、手駒とするには(かた)い存在だと示さなければならない。力を振りかざして回避できる争いもある、それが今だとハリベルは身構えた。

 ――その瞬間に捉えた急速に接近する霊圧に、彼女は僅かに目を見開いた。バラガンも気付いたようで、やってくる霊圧の方向へ眼を向けるような仕草をする。それから数瞬を置いて、上空から二つの影が舞い降りた。

 

「――ハリベル!! 大丈夫!?」

「……私は無事だ。ネリエル」

 

 砂漠を力強く踏みつけて現れた友の叫びに少し頬をほころばせる。見えないだろうが感じ取ったネリエルは満面の笑みで頷いて、キッとバラガンを睨みつけた。

 

「噂はかねがね聞いているわ、虚圏の王様。虚圏の空の全てが自分の城の屋根・なんて豪語してるみたいね。そんな天上の身分の貴方が、どうしてこんな辺鄙なところにいるのかしら?」

「……――――フハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

 

 ネリエルの挑発的な問いに帰ってきたのは、霊圧を伴った骸の哄笑であった。笑う、ただそれだけで虚圏が揺らぐような支配的な霊圧。それにつられて周囲の虚も仮面を鳴らして嘲り笑う。

 そこでハリベルとネリエルの二人は気付いた。この笑い声が向けられているのは、彼女達ではない。先程ネリエルと一緒にやってきた、白い外套を纏う死神に向けられたものだ。周囲を油断なく警戒しながらちらりと眼を向けると――何故か頭巾(フード)を深く被る死神の顔から、知らない虚の仮面がちらついていた。

 

「……いや、いや、これは。何とも滑稽な事よ」

 

 上から押し付けるような哄笑が止む。バラガンの視線は身構える最上級二人ではなく、明らかに霊力を隠している死神に向けられている。自分の霊圧だけを隠して融合した中級の霊圧は垂れ流しと言う妙なやり方だが、仮面を被っている意味を照らし合わせれば、自ずと答えは出た。

 分からないのはそれをなぜ、バラガンが嗤うかだ。ハリベルはそこにいる大男が死神だと知っているが、傍目から見て死神らしさは微塵も無い。白い外套、頭巾から見える仮面、そして垂れ流される中級大虚の霊圧。一見してただの虚にしか見えない男を、どうして最上級二人を無視して嘲るのか。

 その答えはバラガン自身の口から吐かれた。

 

「せっかく儂が慈悲を与えてやったと言うのに、喀々(おめおめ)戻ってくるとはな。あまりにも愚かで、救いようがない。いや、ここは褒めてやるべきか。儂の座を簒奪(さんだつ)せんと挑んできた、勇者ではある。それに免じて現世への放逐だけで済ませてやったが、まだ刃向かう気力が残っておったとはな!

 ――滑、稽。分を弁えぬ蟻と同じじゃ。いやそれ以上に愚かで、退屈を散らすには丁度良い道化よ。フハ、フハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

「――――!」

 

 ハリベルの中でバラバラに記憶していた情報が一本の糸で繋がっていく。バラガンの発言、死神が虚圏に墜ちた経緯、垂れ流される中級の霊圧……どうやら因果と呼ばれるものは、ここから始まっていたようだ。

 ちらりと死神を流し見る。彼は一度戦い始めると感情が無くなってしまったかのように静かになるが、例に漏れず今も平静そのものだ。バラガンは知らないだろうが因縁芽吹く相手だろうに、深く冷たい霊圧しか感じない。やはりあの闇は特別なのだろうなと今にそぐわない事を思い、ハリベルはガシャリと刃を構える。

 周りには王を名乗るバラガンとその配下がいる。そこへ見知らぬ最上級が二体と王の首を狙った不届き者が一匹飛び込めば、何が起こるか想像するまでもない。先程まで嘲笑していた虚達は皆霊圧を噴き出させ、戦闘態勢に入っていた。

 宙でぶつかり合い吹き荒れる霊圧が夜の(とばり)を軋ませる。堰き止められた濁流のように張り詰め、破裂する時を今か今かと待っている。それを押し止めたのは、バラガンが肉の無い指を鳴らした音だった。

 

「待て、お前達。そこの連中がいくら不届き者とはいえ、久しぶりに活きの良い奴らじゃ。儂の退屈を凌ぐためにも、相応に歓迎してやらねばなるまい」

「……お優しい事ね、自分から軍を引かせるなんて。私達が貴方を倒せるとは思わないの?」

「大層な戯言だ、小娘。如何に最上級まで届いたとはいえ、所詮井の中の蛙。貴様のような生まれたばかりの小さき者が、”大帝”であるこの儂に挑めると思う事すら不遜の極みよ。……だが儂は寛大だ。そんな貴様等にも王としての敬意を払おう。

 ――つまりは、絶対的な”死”だ。我が軍門にて最も強く、儂が最も信頼する”剣”を以て、貴様等の生に幕を下ろしてやる」

 

 傲岸にして冷徹に、蟻を踏み潰すような物言いでバラガンは片手を上げた。その瞬間、遥か遠い地平線に天を衝く刃のような光が上がる。ネリエルは顕著に、ハリベルは眉間を絞り、白い死神はただ静かに。三者三様に刃を構えた三人の前に、剥がれ落ちる流星のような速度でそれは現れた。

 砂塵が上がり、すぐに吹き飛ばされる。現れたものが腕を振るい、舞い上がった砂を消し飛ばしたのだ。腕に絡むのは銀灰色の防護外套(マント)、それと同じ色彩の金属光沢を放つ甲冑は全身を覆っている。吹き出る霊圧は他の中級を隔絶し、その威圧感は龍の如く。異常な数の角が生える兜のような仮面には、唯一黄昏のような金の光を放つスリットが刻まれていた。

 全身銀灰色の騎士。明らかなる、最上級大虚。バラガンが自らの”剣”と呼んだその虚は腰から両手剣を抜き取り――自らの神へ誓うように、眼前に捧げた。

 

「――――”大公”ゴッドブリード・フォレスティエ。いざ、参る」

 

 

 

 交戦から剣を五合交えた直後、それに気付いたのは御蔭丸であった。

 斬魄刀の解放はせず、ハリベルとネリエルを前衛に、徹底した支援をはかる。そのつもりで赤火砲を撃ち込んだ彼は、その手ごたえから銀灰の騎士にある危険な可能性を感じ取っていた。

 騎士は同時に五つ撃ち込んだ炎の塊を物ともせず、槍と刃の連携に難なく対応する。動きを封じるために鎖条鎖縛を地面から脚に絡ませ、前衛の合間を縫うように圧縮した赤火砲を再度叩き込む。

 甲冑に当たり爆散する炎の弾け方。交錯する剣劇の中に見える、槍と刃の弾かれ方。それを後ろから目撃した御蔭丸は、膨れ上がる危険な可能性を確かめる為に、全く同じ霊力をこめた白雷を二条撃ち放つ。

 その結果を目撃し――可能性を確信に変えた御蔭丸は、即座に撤退を選択した。この三人では勝ち目がない、仮にあったとしても通用しなければ敗北は必至。戦ってはいけない存在だと判断し、赤煙遁を発動させる。

 

「――!?」

「御蔭丸!?」

 

 急に視界を遮った赤い煙に驚愕の声が上がるが、答えている暇はない。解号を唱えながら瞬歩で騎士と二人の間に身体を捩じり込み、振り下ろされた一閃を十字架で受け止める。重く、肉全体を叩き潰すかのような響く一撃。凪いだ眼をした無貌の男は渾身の力で剣を弾き、間髪入れず護形刃界を発動させた。

 

「ちょ、ちょっと御蔭丸! どういうつもりよ!」

「…………」

「……ネリエル、ハリベル、時間がありません。結論だけ申し上げます。我々ではこの敵に勝つ事が出来ません。僕が全員に鬼道の迷彩をかけますので、それが終わったら全力で逃げてください」

「なっ……」

 

 今まで一度もされなかった優しい死神の強い断言にネリエルは絶句する。一瞬また御蔭丸一人で戦うのかという推測が頭をよぎったが、自分にも鬼道の迷彩を施すのを見てそれはないと胸を撫で下ろした。御蔭丸の言葉をいち早く吟味したハリベルは、一歩前に出て騎士と睨み合いを続ける白い死神に声をかける。

 

「……それほどの相手なのか」

「……見ていればすぐに分かります」

 

 半分ほど鬼道を発動した御蔭丸の呟きに、二人が騎士へ眼を向けると――スリットから覗かせる黄昏の光を強くする騎士は、(きっさき)を十字架の中央に突き立てる。そしてそのまま莫大な霊圧を噴き出させ――あろう事か天獄の壁を押し始めたのだ。

 一瞬目の前の事象が信じられず、ハリベルとネリエルは目を見張った。確かに御蔭丸の斬魄刀、天獄の放出する霊圧の壁は十字架を起点に発動している。故に壁を壊せずとも壁ごと押し潰してしまえば破壊出来るかどうかなど関係ない。

 だが――それを天地を二分するような護形刃界に対して実行し、やってのけるなど並の大虚ではない。少なくとも膂力はこの場に居るどの最上級よりも高いと確信できる所業に、彼女らは逃げ出す事に同意した。

 御蔭丸が鬼道をかけ終えたのを確認して、ハリベルとネリエルは離脱する。周りで混乱している中級には目眩まし程度に虚閃を放って、追ってこれない様に仕向けた。殿(しんがり)となった御蔭丸は、極限まで練り上げた縛道の八・『(せき)』を護形刃界の解除と同時に全力で天獄に纏わせる。着実に壁を押していた騎士の剣が、斥によって弾かれ――その瞬間御蔭丸は、無刃爆星を発動させた。

 

 そして不動の月天夜に、神の十字が突き立てられる。しかしそれはここ数年幾度か現れた断罪の光には程遠く、丘陵にメノスの森まで続く穴を開ける程度の規模でしかなかった。

 それでも敵を見失わせるのには十分だったようだ。剣を盾のように構えて防御していた銀灰の騎士が眼を向ける頃には、もう三人の霊圧は感じ取れなくなっていた。騎士は自分の足元で不自然に横へ縁取られた穴を一瞥し、剣を収めて背後のバラガンに(ひざまず)く。

 

「――申し訳ありません、バラガン様。取り逃がしました。追討致しますか?」

「……いや、その必要は無い。蟻を踏むのにわざわざ立ち上がる王などおらん。儂の威光を示しただけで充分じゃ。大義であった、”大公”」

「勿体無きお言葉。賜りし命に報いる事のみが我が悦びである故に」

「フン……相変わらず情のない奴よ」

 

 形だけの労わる言葉を吐き捨てて、バラガンは腕を横に振るった。それだけで混乱の醒めていなかった虚達は姿勢を正し、全員バラガンの前に跪く。最早見飽きた光景に溜息さえ出ないバラガンは、先刻足元を歩いていた蟻の事を空っぽの頭に過ぎらせる。

 ――儂の座を奪わんとしたあの蜘蛛。

 ――大方儂の(からだ)と融合しようとした術で、どこぞの奴から奪ったと思っておったが。

 ――ありゃあ逆に奪われておるな。愚か者に相応しい末路よ。

 それだけ考えて、バラガンは放逐した蜘蛛の虚を完全に忘れ去った。逆に蜘蛛を取り込んだと推測される何者かも、所詮は小賢しい技を使うだけの蟻。傲慢たる骨の王がそれ以上思考を巡らす事は無い。

 神の視座より世界を見通すバラガンにとっては、等しく小さい虫けらに過ぎないのだから。

 

 

 

 

   φ

 

 

 

 

 三方バラバラに逃げたハリベル、ネリエル、御蔭丸の三人が合流したのは随分時間が経過してからだった。念には念を入れてかなり遠回りをして戻ってきたからである。

 合流したのはメノスの森にある御蔭丸の拠点。ここに集まったのは場所が地下にある事と、知られても簡単に破棄できるからだ。三人はとりあえず一息つき、御蔭丸がいつの間にか用意した軽食を適当につまみながら情報をまとめた。ネリエルからはハリベルがバラガンに目をつけられた経緯。ハリベルからはバラガンがこの地に現れた理由。御蔭丸はゴッドブリードを名乗る騎士の持つ能力の推測を話す。

 特にゴッドブリードに関しては分かる限りの情報を統合しておく。あの銀灰の騎士は非常に危険だ。推測される能力は格下なら余程特殊な能力を持っていない限り絶対に適わない。実力が同等かそれ以上であっても苦戦を余儀なくされるだろう。

 幸いかどうかは不明だが、戦う前の態度とバラガンの言から首輪をつけられた忠犬かそれに近いだと思われる。だからしばらくはバラガンの動向に注意するという結論に落ち着いて、今日のところは解散となった。

 

 別で暮らしているネリエルは森の何処かへ消えていき、御蔭丸はハリベルの洞穴へ一緒に戻る。その間に彼らに会話は一切なく、共有している食卓へ入った二人は適当に座って、互いにあらぬ方向を向いていた。気まずい沈黙が綺麗に保たれている部屋に充満する。

 ――さて、これは好機と捉えるべきだろうな。

 壁を背に座り込む御蔭丸は台所に続く通路を眺めながらそう思った。いい加減ハリベルとのもつれた関係を正さなければと思った矢先、事件があった。いつもと違う日常は停滞していた関係を切り開く起爆剤にもなる。御蔭丸が此処に居られる時間も二年弱しかないし、今しかないだろうと白い大男は口を開いた。

 

「ハリベル、少々時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「…………」

 

 返事はない。食卓に座って壁を見続けるのが常になったハリベルは、今日も今日とて不機嫌そうにしたままだ。けれどそこには現状の打破を望む心も確かにある。御蔭丸は見通した心の通りに、引かぬつもりで立ち上がった。

 

「ハリベル。貴女にお話があります。聞いてはいただけないでしょうか」

「…………」

 

 返事はない。けれど傍までやってきて顔を寄せる御蔭丸にハリベルは視線を向けた。交錯する翠と紅の瞳の色。口調は少し強気だが柔和な笑みは変わらない男の、瞳の奥を覗き見て。ハリベルは一瞬だけ動きを止めて、逃げるように顔を背ける。

 

「ハリベル。どうか話を聞いてください」

「…………嫌、だ」

 

 諦めの悪い御蔭丸にハリベルが返したのは、そんな拒絶の言葉だった。彼女自身は口にしたことが信じられないと言うように目を見開くが、御蔭丸は変わらない。笑みは揺らがず、想定の内であったかのように安定して、柔らかく冷えた言葉を突きつける。

 

「――ハリベル。僕に残された時間は、あと二年しかありません」

「…………!」

「アルヴァに与えられた十年は元々、卍解を得るためのみに許されたものでした。しかしその内八年を過ごした今、鬼道による融合した虚の分離が出来る目処が立つほど、鬼道の腕も上がっています」

「っ…………」

「貴女なら分かるでしょう。それはつまり、アルヴァとの決着が勝利か敗北どちらに転ぼうとも、僕はもう戻ってこないという事なのです。アルヴァニクスに負ければそれまで。勝っても虚を分離して、僕は尸魂界に帰ります。貴女の元へ、脚を運ぶ事はありません」

「……だったら、なおさら。お前の話は、聞けないな」

 

 震える声で、ハリベルが言う。顔を見せない鮫の虚は、アルヴァと戦ったあの日のように弱弱しい。

 御蔭丸が尸魂界に帰るまで、ハリベルが匿う。それが彼らの始まりだった。ハリベルは孤独を埋めるために、御蔭丸は傷を癒やすために。それだけの利害関係でしかなかったのに、どうして今は、それがこんなに突き刺さる。

 ハリベルには、分からない。いや、答えは二年前に出ている。ネリエルのためにハリベルを見捨てたあの日に、彼女を支配した情動こそが痛みの答え。それを分かりたいとも、分かりたくないとも願う孤独の鮫は、衝動的に拒絶する。

 

「お前が何処かへ帰るのなら、私はお前に頼れない。いつかいなくなるのなら、私の脚で、立たねばならない。御蔭丸……私はお前に、癒された。もう、充分すぎるくらいにだ。だから、もういい。何処となりとも行けばいい。

 お前がいなくとも――私はここで、生きていける」

「……それが本当に貴女の願いならば、僕はここまで食い下がりませんよ」

「知ったようなっ……口を、聞くな。今話しているのは、私の意志だ。他ならない私が、お前を必要ないと言っている! だからっ……だから、この話は、おしまいだ」

 

 そこまで言い切って乱暴に立ち上がったハリベルは足早に去っていく。振り切るように、逃げるように外の闇へと進む彼女の掌は、ギリギリと固く握り締められていた。

 ――これで、いい。

 ――私にもコイツにも、果たすべきものがある。

 ――それに初めから、許されない事だ。

 ――だから私は、これで――!?

 自分に言い聞かせていた言葉が、止んだ。零れ落ちそうな程見開かれた水面に揺れる翠の瞳が、ゆっくりと振り返り手元を見る。仮面の鎧に覆われた手だ。この孤独な世界から身体も心も護ってきてくれたその白を、死神の黒い腕が掴んでいる。

 

「……話は終わっていませんよ、ハリベル」

「…………いいや、終わりだ。この手を放せ」

 

 引き留めた男に対する言葉は直前までのそれとは違い、ひどく冷たく恐ろしい。怒っている――始めて出逢った夜のような重く深い刃の眼を、御蔭丸は変わらぬ笑みで受け止めていた。

 光の無い深海のような憤怒が、霊圧となる。全身に降り注ぐ津波のような圧力に姿勢を崩すも、白い死神は笑ったままだ。

 その笑顔に何度、心を掻き乱されただろう。何処までも他者を受け入れて、どうしようもなく空っぽで。誰かの為にしか生きられず、誰が為にも死んでしまう。そんな風に無責任で、心に大きな孔のある男。

 そんな無くした中心(こころ)のような(うつ)ろの中に、居場所があるのだと錯覚させるその笑顔に――何度心が、満たされただろう。

 

「……改めて申し上げます、ハリベル。それが本当の願いなら、僕は貴女を押し止めません」

「――三度は言わん、この手を放せ……!」

 

 だからこそハリベルは、ここで断ち切らなければならないのだ。帰ってこれなくなる前に、ただの虚に戻らなければ――約束さえも果たせない。

 ――雨のようなこの男と、交わした(ちぎ)りが一つある。

 ――行くなとは言わない、ずっと此処に居ろとも言わない。

 ――その代わり、私に黙っていなくなるなと。

 ――ただそれだけで……充分だった筈、なのに。

 手加減なしに手を振りほどいた。無理矢理引き剥がされた死神の指は、あらぬ方向へ蜷局(とぐろ)を巻く。そうしたら今度は、反対の手で掴まれた。怒りと痛みと逃げ出したい気持ちが(ない)交ぜになるハリベルは、刃を握って御蔭丸の胸の前に突き付ける。

 

 ――もう私は、私がどうしたいのかも分からない。

 ――なあ、御蔭丸。お前には理解できるか。

 ――この静かな闇ばかりがある夜の世界で、変わる事の恐ろしさが。

 腕を掴まれているせいで、二人の距離は近い。ハリベルの刃は御蔭丸の衣服を裂き、白い肌に血の一筆を描かせている。(きっさき)が既に刺さっているのだ、普通ならもう下がっている。

 ああ、だけど、御蔭丸は普通じゃない。笑いながら前に出て、どんどん刃を沈ませていく。あの日のように、心臓の前で。止まった刃から伝わる鼓動が、執拗にハリベルを追い立てる。

 ――変わってしまえば、もう戻れない。

 ――もう孤独には、耐えきれなくなる。

 ――私をそんなに脆くして、お前なしにはいられなくなっても。

 ――それでも、お前は――――

 

「――――私の元から、いなくなってしまうのだろう?」

 

 ガラリと、落ちた刃の音が響く。

 もう、ハリベルは限界だった。血に濡れた刃を取りこぼし――一度も流した事の無い涙を、冷たい仮面へ伝わせる。

 

「お前は私を、こんなにも弱くしておいて、いつかいなくなるんだろう?」

「…………」

「答えろ、御蔭丸……答えてくれ。それともお前は永遠に、私の側にいてくれるのか」

「…………いいえ」

「なら、答えろっ……あの日のようにいなくなると、答えればいい。ネリエルの為に……――他の誰かの為に、私を裏切っていくんだろう、お前は!」

「……………………ええ、その通りでございます」

「だったらどうして暴き立てる!! どうしてあのまま、放っておいてくれなかった!!!」

 

 がむしゃらに御蔭丸を引き寄せて、堪え切れない想いを叫んだ。仮面越しにも分かるハリベルの激情が、涙となって御蔭丸の瞳に写る。けれど男に、もう笑みはない。ここまで不躾に踏み荒らしたくせに、今更になって御蔭丸は、拒絶の意志をハリベルに見せる。

 ――そんな事など知るものか!!!

 御蔭丸は言っていた。自分の過去は他の誰かを傷付けると。だからそれでも良いと願われない限り、語る事などありえないと。だが今となってはそんなの些事だ。かつて孤独であった鮫は、もう認めてしまっている。

 いなくなって、裏切られたと思ったのは。それで心が痛んだのは。

 ハリベルがもう、孤独ではいられないという表れなのだと。

 

 ハリベルにとって、御蔭丸が。

 この世界で唯一の、かけがえのない男なのだと。

 ハリベルはもう、認めてしまっていた。

 

 ――だから今更、拒絶するなど許さない!!!

 ハリベルは激情に任せ、自分の身体ごと御蔭丸を壁に叩きつけた。紅い扁桃が地面に落ちる。胸の傷から血が噴き出し、彼女の涙が朱色に変わる。それも今は気にならない、ハリベルはどうしようもない心に支配された眼で、心亡き男を貫いていく。

 

「――御蔭丸。私はもう我慢しない。矜持も虚の身の上も、そんな全てがどうでもいい。

 御蔭丸――――私は、お前を愛している」

「…………ハリベル…………」

「愛しているんだ――何もかも捨ててしまっていいくらいに!! お前さえ私の傍にいるのなら、全てを犠牲にしていいくらいに愛している!!!」

「……ハリベル、俺は……」

「何も言うな……言わなくていい。どうせ最後には、受け入れるしかないんだろう? お前は空っぽで、誰かの願いで埋めてしまわなければ生きられないのだから。お前の意志など、何処にも無い。お前は誰も愛せない。一方通行なのは、分かっている。

 ――それでも、お前を愛しているんだ。だからもう、何も言うな。黙って私を、受け入れてくれ。私に手を差し伸べてくれ。最初に出逢った、あの日のように――――」

 

 ……それっきり、ハリベルは喋らなくなった。御蔭丸の胸に顔を埋めて、止まらない嗚咽を喉から絞り出している。

 貌を亡くした御蔭丸は、じっとハリベルを眺めていた。心の壊れた狼は、眼に写る決壊した女を見ても、何も感じてはいないのだろう。……けれど、願いによって形作られた彼の心は、確かに願いを受け取っていた。

 似合わぬ血化粧を纏う男は、そっと女を抱き寄せる。女はビクリと肩を震わせ――やがて男へ、身を預ける。

 

 その日、奇妙に繋がっていた二人の関係は完全に破綻した。戻る事はもはや叶わず、歪みが正される事も無い。

 ――けれど、それでいいのだろう。元より虚と死神の関係。許されざる運命に加え、片や犠牲を忌み嫌い、片や既に壊れている。お互いに歪んだ形で生きていたのなら――破綻している関係が、丁度良いというものだ。

 寄り添う彼らの足元で、扁桃の花が静かに開く。作り物の、五片の花びらの、血のように紅い面影の欠片。世界の中でそれだけが、彼らを祝福するように。床に垂れた血の上で、これ以上ないほど咲き誇っていた。




17話 後書き
原作より六七七年前の出来事。
ジェバンニがデスノート複製の片手間に手伝ってくれたので投稿。
週末が潰れているので一週間は更新がないと思われます。
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