BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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卯の花の咲く木漏れ日の側で

「デートをしましょう」

「…………はい?」

 

 うららかな陽光が降り注ぐ昼下がりの瀞霊廷(せいれいてい)

 朝方はけたたましい声で鳴いていた(にわとり)も昼寝を始める頃。総合救護詰所の一角で書類仕事に勤しんでいた御蔭丸は、机の上で動かしていた筆を止めて、とりあえず周りを見回した。当然ながら、部屋には卯ノ花と御蔭丸以外の人影はない。それでも一応他の人間がいないか入念に確認して、やっぱり誰も見つけられない。その事実に彼はため息とも吐息ともつかない息を吐いて、困った微笑みで卯ノ花を見た。

 

「ええと……それは誰に言っているんですか?」

「実はこの間、流魂街(るこんがい)へ薬草を採りに行ったら景色の素晴らしい場所を見つけたのです。瀞霊廷からかなり離れた場所で普段は行かない地域だったのですが、物は試してみるものですね。食事の出来そうな開けた場所もありましたし、明日にでも一緒に参りましょう」

「……ああ、僕に言っているんですね」

 

 質問を華麗に無視して話を続ける卯ノ花に、御蔭丸は苦笑しながら諦念の息をつく。自分の隊長(じょうし)がああ言っている以上、御蔭丸の同行は既に確定事項だからだ。

 ――やれやれ、今回もまた唐突だな。

 卯ノ花から机の書類に意識を戻して、止めていた筆を動かしながら御蔭丸はそんな事を思う。

 四番隊に入って十数年、こつこつと実績を重ねてきた御蔭丸は、ようやく席官の中に名を連ねる事が出来た。席官と言っても一席につき一人しかいない上位席官ではなく、御蔭丸の他にも十四名存在する第二十席ではあるが。四番隊は派手な実績を残せない為、昇進するには地道な仕事をこなしていくしかないのだ。

 

 とは言え、彼は元々隊長・副隊長に次ぐ実力を秘めている。彼にとって昇進とは自分の実力に見合った仕事に就くという事であり、自身の成長にはつながらない。現に死神となった十数年前から、彼自身の霊圧はさほど上昇してはいないのだ。

 成長した点を強いて挙げるとするなら、鬼道の熟練度が上昇し、使用回数の上限や効率の良い運用法を覚えた事。そして瞬歩がそれなりに使えるようになった程度だろう。それも四番隊の業務に携わる過程で自然と身に付いたものだ。仕事熱心と言えば聞こえはいいが、それはつまり、御蔭丸が自分を高める修行をほとんど行っていないという表れでもあった。

 さて、そんな御蔭丸に卯ノ花がこうしてデートの誘いをするようになったのは、丁度彼が席官になった頃からである。昼夜問わず仕事を問わず、二人でいる時に不意にこんな事を言っては、有無を言わせず連れて行くのだ。そうする理由は御蔭丸には分からないが、あまり乗り気でない事は示して置く必要があると考えていた。

 

「卯ノ花隊長、こんな事を言うのはとても心苦しいのですが、僕は明日も仕事があります。ですから貴女の期待には応えられないと思うのですが……」

「その仕事は既に別の方に引き継いで貰う手筈を整えております。だから安心して私についておいでなさい」

「いえ……しかしですね、皆が仕事をしている時にデートを楽しむと言うのは抵抗がありまして……」

「それなら心配いりません。食事や景色を楽しむのはあくまでついで、目的は薬草の採取にあります。量は二人で持てるくらい採れれば良いのですが、かなり遠い場所ですから、瞬歩が得意な貴方に頼んでいるのですよ」

「そう、ですか……」

 

 御蔭丸の遠回しな拒否を卯ノ花はにこにこ笑いながらことごとく破り捨てた。いつもの事ながら、既に蜘蛛の巣に頭から突っ込んでいる状態のようだ。もがいたところで雁字搦(がんじがら)めになるだけである。

 

「はあ……分かりました。不肖の身でよければ(うけたまわ)りましょう。待ち合わせはいつもの場所でよろしいのですか?」

「ええ。時間もいつも通りでお願いします」

「了解です」

 

 御蔭丸は苦笑交じりに首を縦に振る。嬉しそうに微笑む卯ノ花はたおやかな所作で窓辺を離れ、御蔭丸の傍まで寄った。そしてさりげなく御蔭丸の横に座る。

 

「……あのー、卯ノ花隊長……?」

「どうかしましたか?」

 

 御蔭丸はその行動の理由を問おうとしたが、「何か問題が?」という表情を返されてしまう。それで言葉がつっかえてしまった。考えてみれば、卯ノ花が隣に座ったから何かあるわけでもない。

 ――卯ノ花隊長がそうしたいなら別にいいか。

 困惑していた御蔭丸はそう納得して、にっこりと笑った。

 

「いえ……なんでもありません」

 

 言って、書類に目を戻す。さらさらと書類に書かれていく文字は、綺麗な姿勢で座る彼の印象と違ってやや乱雑だ。体裁をあまり気にせず仕事をこなしていく様子を、卯ノ花は優しい目付きで見守っている。

 ――……まずいな。

 そんな時間が十分ほど過ぎた後、御蔭丸は重大な事実に気付いた。

 ――……卯ノ花隊長が側に居ると、集中が途切れる……。

 卯ノ花は御蔭丸と肩と肩が触れ合うくらいの距離に座っている。以前よりも少し伸びた黒髪は、御蔭丸の目線から彼女の瞳を絶妙に隠していた。その髪が揺れるたび、彼女の良い匂いが鼻腔をくすぐって仕方がない。この香りは石鹸か――なんて考えてしまい、手の動きが緩くなってしまう。

 

 しかしそれはあくまで心の中の話。内面と行動が必ずしも合致しない彼は、望まれた通りよどみなく仕事をこなす。徹底した公を優先する姿勢。そんな姿を卯ノ花は、ただ微笑んで見つめていた。

 ――むう、やりにくい。

 暖かな視線にむずかゆいものを感じつつ、悪くない、と御蔭丸は思う。卯ノ花が側に居てくれる――それだけで、例えようのない安心感に浸れる。

 ――……懐かしいな。

 遠い眼をして口元をほころばせる。机に並ぶ書類と筆が、いつしかの頃に重なった。心までもその時に帰ろうとして――白い腕に、小さな手が添えられる。

 

「――字が、間違っていますよ」

「え、あ……」

 

 はっとして見れば、確かに漢字を間違えていた。慌てて×印を書き足し、隣に訂正を加える。

 

「申し訳ありません……」

「いいのですよ、間違いは誰にでもありますから」

 

 卯ノ花は頭を下げる彼に優しい目付きで、自然に彼の頭を撫でた。まるで子供をあやすように白く硬質な髪を梳かしていく。御蔭丸はびっくりしてのぞけりそうになったが、予想外の心地良さに動けない。

 ――うむむむ……

 

「……あのー……卯ノ花隊長……?」

「どうかしましたか?」

 

 おそるおそる聞いてみるけど、やはり笑顔でそう言われた。「何か問題が?」という顔をされてしまうと、やはりしがない下級席官でしかない御蔭丸はそれ以上口を開けなくなる。

 ――一体どういうつもりなのだろうか……

 唇を微妙な角度で固定しながらされるがままになる御蔭丸。身体の大きい彼が相対して小さな卯ノ花に撫でられている光景は微笑ましい。が、される側としては気恥ずかしさで一杯だった。

 卯ノ花はしばらく彼の頭を撫でていたが、やがて満足したのか手を下ろして席を立つ。

 

「では、私はこれで仕事に戻ります」

「あ、はい、了解です。いってらっしゃいませ」

「明日の約束、忘れないでくださいね」

 

 さっと立ち上がってお辞儀する彼に軽く手を振ってから卯ノ花は退室した。笑顔で見送った御蔭丸は卯ノ花が去ったのを確認すると、途端に荒んだ顔になって頭を掻く。

 

「ふう……卯ノ花隊長の真意が読めんな……」

 

 首をごきりと鳴らして、御蔭丸はため息をつく。どうしてあんな事をするのだろうか――初めてデートに誘われた日からずっと考えているのだが、今一つ納得のいく答えが見つからない。

 ただ、一つだけ推測出来る事があった。卯ノ花とデートをしている時、彼女はそれとなく御蔭丸の嗜好や思い出を聞いてくる。一回のデートに一度、あるかないかの頻度なので目につきにくいが、御蔭丸の事をもっと知ろうとしている節が見て取れた。

 ――俺を知ろうとされるのは、正直困るんだがな。

 ――卯ノ花隊長がとても素晴らしい人だからこそ――俺と深い関わり合いにはなって欲しくない。

 ――だからあまり二人きりでは居たくないんだが……中々上手くいかないもんだ。

 

 卯ノ花が去っていった扉をなんとなく眺める。顔ではにこやかに笑いつつも、用意周到に逃げ場を塞いで誘ってくる彼女は割と強引だと思う。自分の隊長である事を考慮すれば、頼もしさ半分、恐ろしさ半分だ。

 ――まあ、悪い気はしないんだがな。

 ――どうにも調子が狂って仕方がない。

 ――しかし俺個人の事であるし、別にどうでもいいか。

 御蔭丸は少しだけ頭を働かせていたが、結局自分の心の機微だから気にする必要はないと結論付ける。卯ノ花隊長が望むならそれでいいのだと心を閉じて、仕事に戻ろうと席に着きかけた時、扉が開いて部下の女性死神が敬礼した。

 

「大神殿。頼まれていた薬品の在庫確認、終わりました」

「ああ、御苦労様です。それではこの書類を事務に持って行って、現在我々が担当している患者の診断書をここまで持ってきてください」

「りょ、了解しました!」

 

 扉まで歩いた御蔭丸が書類を手渡してにっこり笑うと、彼女は急に赤くなって、慌てて一礼してパタパタと去っていった。角に消える後ろ姿を見送った御蔭丸は、クスリと小さな声をもらす。

 

「可愛い反応だ。あれくらい分かりやすいと、こっちも適度に距離を置ける」

 

 呟いて、今度こそ机に戻る。四番隊の仕事は他の隊から押し付けられた雑務も含めて山積みだ。早めに終わらさなければ、明日のデートに差し支えてしまう。目にかかる前髪を払って、御蔭丸は仕事を再開した。

 昼下がりの瀞霊廷。四番隊の一室に差し込む陽光の中、荒涼と柔和を同時に表す笑顔の上で、真っ赤な扁桃の花が冷たく光っていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 一晩経って翌日の事。まだ日の出が訪れていない静まり返った瀞霊廷の端。四つしかない門の内、北に位置する瀞霊門・黒陵門(こくりょうもん)の前に御蔭丸の姿があった。

 死神の証である死覇装に四番隊専用の医療袋、そして背中に大きな籠を持った出で立ちである。流魂街へ出るので、一応斬魄刀は所持していた。有事ではないから精霊門は遥か空にあり、瀞霊廷と流魂街を明確に隔てる溝がある。その前で立っている御蔭丸は、荒んだ顔で暗い空を眺めていた。

 ――今日は晴れそうだな。

 雲一つない冷えた黎明(れいめい)を、荒んだ赤色の瞳で切り取る。何をするでもなくぼうっとしている姿からは、無気力さが漂っていた。

 

「…………ん」

 

 ――そろそろ到着する頃合いか。

 その無気力さも、黒陵門に近づいてくる卯ノ花の霊圧を感知するとすぐさま霧散する。それから、卯ノ花隊長と二人きりの仕事なので、失礼のないように身形を正し始めた。身体をほぐして衣服を整え、荷物を確認する。そして最後に、御蔭丸には似合わない真っ赤な扁桃花の髪留めの位置を調整する頃には、彼の表情に笑みが刻まれていた。

 

「おはようございます。卯ノ花隊長」

「おはよう、大神二十席。今日も早いのですね」

「隊長を待たせるわけにはいきませんので」

「良い心掛けです。いつからこちらに?」

「ほんの十分ほど前ですよ」

 

 お互いに会釈して二、三言軽い歓談を交わす。暖かな微笑みを絶えず浮かべる卯ノ花の格好は御蔭丸と似たり寄ったりで、医療袋と隊長羽織、そして手に下げる布で包まれた重箱が顕著な違いだった。彼女の姿を軽く見通した御蔭丸はふと何かに気付いたような仕草をしたが、すぐに手荷物を確認して、黒陵門をくぐって目的地へ向けて出発した。

 

 

 

 二人並んで踏み固められた道を駆けていく。流魂街(るこんがい)瀞霊廷(せいれいてい)と違ってあまり整備がされていない。人の手の加えられていない地域は数多くあり、行く道の左右には自然の残る長閑な情景が連なっている。時折見える人家は流魂街の住人達の物だろう。のんびりとした流魂街の空気を味わいながら走っていると、卯ノ花が話を振って来た。

 

「最近の調子はどうですか? 部下を持つ身になると色々と大変でしょう」

「今のところ良好ですよ。皆聞き分けの良い子達ばかりですから。ただ宴会の誘いが多いので、酔いを翌日に持ち越さないようにするのが辛いですね」

「ふふっ、そうですか。楽しく過ごしているようですね」

 

 嬉しい悩みとも言える彼の発言に卯ノ花は優しく微笑む。心をあまさず包み込むような笑顔はとても眩しくて、くすぐったくて仕方がない。照れくさそうに頬を掻く御蔭丸は、返す言葉に笑みを乗せる。

 

「卯ノ花隊長のおかげでもあります。日頃から目をかけてご指導してくれますので、厳しい境地に立たされても切り抜けられるのですよ。僕は貴女に感謝してもしきれないくらいの恩を頂いております」

「嬉しい事を言いますね。でも、私はただ助言をしただけです。困難に立ち向かい打ち勝てたのは、貴方にそれだけの実力があったからこそ。私は貴方を高く評価していますよ」

「ありがとうございます、卯ノ花隊長」

 

 隊長らしい部下を想う台詞に御蔭丸は軽い礼を口にする。卯ノ花とデートする時、特に遠方へ赴く道すがらは、まず仕事関係の話から始めるのが通例になっていた。だから彼女が御蔭丸の仕事ぶりを褒めるのはいつもの事なので、彼もそう大げさな振る舞いはしない。彼らが身振り手振りを交えたり色々な表情を見せて話すのは、仕事の話が終わった後だ。

 

「業務は滞りなく進んでいるようですね。それを聞いて安心しました」

「卯ノ花隊長に迷惑をかけるわけにはいきませんから。……ところでその帯留め、使ってくれているんですね」

「ええ、大切に使わせてもらっています」

 

 卯ノ花は少し頬を赤らめてそっと自分の腹部に触れる。薄紅色の帯を締めた細い腰に置いた、細く美しい手の下で、水晶で出来た竜胆の帯留めが控えめに光っていた。

 それは数年前に御蔭丸が席官に昇進した時、日頃のお礼と卯ノ花の誕生日祝いを兼ねて贈った物だ。人に自慢できる程格式高い代物ではないが、給料の範囲内で良質な物を吟味して感謝の言葉と一緒に差し出した。卯ノ花は表面上はニコニコして、はにかまずに快く受け取ってくれたけれど、耳の裏が真っ赤になっていたのを御蔭丸は覚えている。

 

「素直に嬉しいです、卯ノ花隊長。僕の贈った物を使っていただけるだけで舞い上がってしまいそうですよ」

「そこまで喜んでくれるのは私も使う甲斐(かい)があったというものですが、少し大仰ではありませんか?」

「そんな事はありません。それに嬉しいのは僕の物を使ってくださっているからだけではないのですよ。その竜胆の帯留めは貴女によく似合っています。日頃よりも、より一層美しい貴女の姿を目にできた事が――僕にとって何よりも嬉しい事なのです」

 

 御蔭丸は真っ白な大きい手を胸に当てて、満面の笑みを輝かせた。どんよりと垂れ込めた曇天も一瞬で晴れ渡りそうな笑顔に、卯ノ花はしばらくぱちくりと瞳を大きくしていたが、頬の朱を更に深くしたと思ったらさっと顔をあらぬ方向へそらした。

 

「~~~~……っ、そ、そうですか。そう思ってくださるなら、私もとても嬉しいです」

 

 柔らかに耳朶を揺らす声は平静を装っていたけれどどこか震えている。こちらから見えない彼女の顔は、さぞかし真っ赤に熟れているのだろう――それを想像すると穏やかに笑う御蔭丸の心に、ぞくり、と危うい電流が走ってしまう。

 ――可愛いなあ、もう。

 ――本当、抱きしめてしまいたい。

 実際にそうしたらどうなるのだろうか、といらぬ妄想をする。後ろから抱きしめてしまったら、彼女はきっとあたふたと慌てるだろう。普段は隊長然としているだけに一度崩れると、喜びに悶えるような羞恥を堪えるような、たまらない表情をするのが目に見えている。その先までやってしまえば、まず命を失う覚悟がいるが――卯ノ花のあられもない姿が見られるなら、それもいいかもしれない。

 ――まあ、実行には移さないがな。

 

 そこまで考えてから、御蔭丸は自嘲するように笑った。今のはただの妄想で、実際がどうであるかなんて推測の域を出ない。己の勝手な空想で卯ノ花隊長を計るなんてできないだろう。そもそも瞬歩を挟みながら走る今、そんな危険は犯せない。

 それにただでさえ二人きりでデートを――仕事をしているから四番隊内で邪推に満ちた噂が流れているのだ。御蔭丸が誰にでも優しく接し、整った顔立ちをしている事も噂に尾ひれをつける要因になっている。だから彼は噂を噂のままで留めるようと、部下との距離を慎重に測っているし、卯ノ花へ帯留めを贈る時も、四番隊の隊花と同じ装飾の物品ならば卯ノ花が使っても違和感がないと考えて、竜胆の帯留めを贈った。

 その努力を考えれば卯ノ花に抱きつくなんて天地がひっくり返ってもできないし、何より初対面の時の暴漢のような行動をしたという前科がある限り、間違っても許されない事だ。

 

 ――だから俺は、彼女を遠くから眺めるだけだ。

 ――こんな近くからじゃなくて、もっと関わりの薄い遠くから、眺めるべきなんだ。

 切れ長の眼の奥にそんな感情を浮かべて、御蔭丸は卯ノ花から視線を外す。彼女の頬の火照りがとれるまでは待っておこうと、過去の如くに過ぎ去っていく景色を茫洋と眺め始めた。

 連なる緑と青の光景。高速で流れる森の緑と空の青は、一つ一つが持つ個の形を光に溶かし、まるで一つの生き物のように長大な色となって視界を刺激してくる。一個では取るに足らぬ物でも、それらが寄り添い一つの生命となれば強い存在となる。御蔭丸は凡庸な光景が、群像という生命の一形態を言葉なく伝えてくるような妙な感覚を感じていた。

 

 ――ああ、懐かしいな。

 かつて身体の一部となっていた流魂街の大気が身に沁みる。飽きるほど見てきた単調な景色と、草と土と人の匂い。芸も格式もないもない、葉の擦れる音や鳥の鳴き声が奏でる自然の音楽が、彼を現在(いま)からセピア色の過去へと押し戻していく。

 天を衝く草々の檻。大地を貫く、鈍色の雨。そして音の無い世界を斬り裂く、星屑の如き光の洪水――

 

「――聞いていますか? 大神二十席」

「え、ああ、すみません、上の空になっていました」

 

 現在から伸ばされたしなやかな腕に、御蔭丸の心は引き戻される。散漫に揺らいでいた瞳が理性の色を取り戻し、申し訳なさそうな表情となって卯ノ花を見つめ直した。既にいつもの微笑みとなっている卯ノ花は、「いいのですよ」と優しく言って、指を使って彼の視線を正面へ誘導した。

 

「そろそろ目的地へ着きますから、それを知らせただけです」

「そうですか。わざわざありがとうございます」

 

 お礼を口にしつつ、正面に目を向ける。見れば確かに、木で囲まれた踏み固められた道の奥がまぶしく光っていた。隣を駆ける卯ノ花と一緒に光へと進み、視界が開けた時――御蔭丸の口からは、自然と感嘆の声が溢れた。

 

「――――すごい」

 

 発せた言葉は、それだけだった。目に飛び込んできた雄大な景色は、言葉ではとても言い尽くせないくらい、見る者の心を震わせるものだった。

 千紫万紅、では足りない。柳緑花紅と(さえず)っても、とてもじゃないが言い表せない。目の前に広がっているのは人の手では決して創り得ない、楽園のような世界だ。さっきまでの景色とは違う。草も木も花も、空を飛ぶ鳥も全てを支える土もこの身に取り込む空気の一片さえ、何もかもが違う。この世界に比べてしまえば、他の全てが色褪せていく想いすら込み上げていく。

 草も木も花も、空を飛ぶ鳥も全てを支える土もこの身に取り込む空気の一片さえ、さっきまでとは何一つ変わらない見た目をしているというのに、一体何が違うと言うのだ――

 ――ああ、そうか。

 ――ここには、争いという争いが何一つ存在しないのか――

 

 その地はきっと、神が望んだ原初の世界に近かったのだろう。争いの無い、怒りの無い、憎しみの無い、ただ穏やかで平和な場所だ。瀞霊廷から隔たれ、流魂街からも遠く離れたこの場所は、誰にも踏み荒らされる事無くずっとこの姿を保ってきたのだろう。だからそこが御蔭丸には、他の何よりも輝いて見えるのだ。

 

「――気に入って、いただけましたか?」

 

 言葉を失い、こぼれんばかりに目を開く事しかできない御蔭丸に、彼の眼に写る世界と同じ穏やかさを湛えた卯ノ花のふっくらとした麗しい唇が(ささや)いた。本当なら御蔭丸がどきりとする仕草だったし、いつもなら余裕を持って言葉を返せただろう。でも彼はずっと景色に目を奪われていて、卯ノ花に目もくれずに感嘆の吐息で文字を繋げる。

 

「――ええ、それはもう……ここに住まいを移してしまいたいくらい、気に入りました」

「それはなによりです」

 

 そんな周りが目に入っていない少年のように目を輝かせる御蔭丸を、卯ノ花は燦然とした笑みでほがらかに見つめていた。うっすらと開かれた黒真珠の瞳には母性の光が宿っている。そしてその奥に、彼女自身も知り得ない熱い情動が身をひそめていた。それも一つ二つの瞬きの間に、仕事人のそれと入れ替わる。

 

「でも、ここに来た本来の目的を忘れてはいけませんよ?」

「……そうですね。僕達は薬草を採りに来たのですから。それで、その薬草はどちらに?」

「この花畑を抜けた先ですよ。でもこんな綺麗な花を無碍になどできませんから、少し迂回して参りましょう」

 

 目の前に広がる景色から名残惜しそうに視線を切って、御蔭丸は卯ノ花の言葉に頷く。心底未練があったが、ここで食事もするのだから、その時にいくらでも見ればいいと自分に言い聞かせた。そして卯ノ花の後をついて花畑を迂回した後、彼らはいつの間にか昇った太陽が南中を指すまで薬草採りに勤しんだ。

 

 

 

「……そろそろ、休憩にしましょうか」

「はい、分かりました」

 

 大気を暖める日差しが一番強くなった頃に卯ノ花がそう言って、近場で薬草を採っていた御蔭丸が返事をする。その場にかがんで使える薬草を見分して摘んで籠にいれる、という動作を繰り返した彼は、凝り固まった身体をさっと伸ばした。軽く身体の関節を鳴らしながら、横目で卯ノ花を見る。彼女は御蔭丸以上に働いていたが、疲れた様子どころか身体の筋肉を伸ばす仕草もない。御蔭丸は、身体に不具合が出ないように徹底した体調管理を行っているからやる必要がないのだろうと、称賛と尊敬の念を感じていた。

 ――本当にすごい人達だ。

 頭の片隅で、かつて稽古をつけてもらった元柳斎の顔を思い浮かべつつ、いそいそと移動の準備をしている卯ノ花に近づいて、彼女の籠を手に取った。

 

「かさばりますから、これは僕が持ちますよ」

「いえ、私は大丈夫ですよ」

「そんな事言わないでください。日頃からお世話になっていますし、こうして二人で遠出する時はいつも隊長が作ってくれた弁当にありついています。これぐらいやらないと申し訳が立たないのですよ」

「まあ……そういう事ならいいですよ。では、あちらまで運んでいただけますか?」

「勿論でございます」

 

 柔らかい笑顔を浮かべる御蔭丸は、卯ノ花が示したなだらかな丘へと歩を進める。位置的に彼が心を奪われた花畑が一望できる場所だから、そこで食事をとるつもりなのだろう。その大きな図体には似合わないはやる子供のように彼女を追い越して一足先にその場所へ到着した彼は、籠と一緒に持ってきた御座をその場に広げる。そして竹の水筒やら何やらを手早く用意して、正座して卯ノ花を待った。そんな御蔭丸を見て、彼女はコロコロ笑う。

 

「ふふふ、そんなにお腹が空いていたのですか?」

「え、あ、いえ、そういうつもりではなかったんですが……そう見えましたか?」

 

 御蔭丸は一瞬あたふたして、恥ずかしそうに縮こまる。その瞬間、彼の腹から隠せない大音量が鳴り響いて、二人して笑い声をあげた。御蔭丸は本当に恥ずかしそうに、卯ノ花は楽しそうにだ。

 

「無理に嘘をつかなくてもいいのですよ」

「ええ、まあ、そうなのですが……面目ないです」

「謝る事はありません。誰でもお腹はすくものですから」

 

 クスクスと小さな花のつぼみのように微笑みながら、卯ノ花は優美な所作で重箱に手を付ける。布をとり、重ねた箱を丁寧に並べていく。そうすると食欲をそそる美味しそうな匂いが辺りに漂って、御蔭丸は知らず生唾を飲み込む。

 重箱は三段あって、一ノ重はおにぎりだった。一つ一つ丁寧に形を整えられた綺麗な白米が黒い海苔(のり)に包まれている。経験則から言って、何個かは梅干しなどの具が入っているだろう。二ノ重は酢の物と焼き物だ。いくつかの酢を使った和え物と、鮭の焼き物がある。三ノ重は季節感あふれる旬の野菜を用いた筑前煮などが並んでいた。

 

「相変わらず美味しそうですね。先ほどはああ言いましたけれど、実はかなり楽しみにしておりました」

「貴方は良く食べますからね。こちらとしても腕を振るういい機会になっていますよ」

 

 重箱を並び終えると、卯ノ花は御蔭丸に箸と小皿を差し出し、弁当を挟んだ彼の正面に綺麗に座る。そして自分の前にも箸と小皿をおくと、二人して胸の前で手を合わせた。

 

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 

 声が重なり、彼らは少し遅い昼餉に取り掛かった。

 しかし手を付けたのは御蔭丸からで、卯ノ花はまだ箸をとっていない。柔和に微笑みながら御蔭丸の動向をじっと見守っている。彼は食欲の赴くままに箸をとり、鮭の焼き物を一つとってまるごと口に入れた。しばらく、味わうように口を動かす。そして嚥下すると、満面の笑みを咲かせた。

 

「――とても美味しいです!」

「それは良かったです。たくさんありますから、いくらでも食べてくださいね」

 

 それを聞いて安心したのか、卯ノ花はほっとしてしずしずと箸に手を伸ばした。卯ノ花がこしらえた弁当の感想をまず御蔭丸が言って、それから卯ノ花も食べ始める――これも何度かデートを重ねるうちにできた慣習だ。

 さて。二人は今のところ黙々と食事を進めているが、食べ方はやはり違う。卯ノ花の場合、食べる速度は結構遅い。ゆったりとくつろぎながら、大和撫子らしい控えめな態度で箸を伸ばしては、少しずつ口に含んでいく。更にきちんと咀嚼(そしゃく)するので自然と食べる量も少ない。

 対して御蔭丸は、食事の礼儀作法は一応守っている。が、卯ノ花と違い、中々豪快に食事をしていた。箸で一度に取る量も多く、大口を開けて飲み込んではすぐに新しい物を食べる。よく噛みながら味わって食べつつも、卯ノ花よりも遥かに早く食べ進めていた。普段の優しい態度から考えれば、あまり想像できない食事の風景であろう。

 

 そうして黙々と食べ進め、重箱の中身も半分ほどなくなってくると、彼らの食事の速度も落ちてくる。すると沈黙していた二人の間にちらほらと会話が生まれてきた。

 

「そういえばこの間、新しい甘味処が開店しましたけど、卯ノ花隊長はもう行かれましたか?」

「いいえ、店の事は耳に入れていましたけれど、まだ足を運んだ事はありません。貴方はもう行かれたのですか?」

「ええ、部下と親睦を深める為に休憩の意味も込めてそこで休んだのですが、中々味わい深い甘味がありましたよ」

「まあ、そうなのですか。それなら今度行ってみるのもいいかもしれませんね」

「ぜひお勧めします」

 

 会話の内容はとるに足らない四方山話だ。こんな風にどちらかが話を振って笑顔の花を咲かせている。例えば二人は元柳斎の主催するお茶会によく出席するので、共通の話題として会話に上がる事も多い。他にもデートに行った場所の景色や名物で言葉を交わしている。今も甘味処の話から竜胆の帯留めを買った店へと流れ、そして目の前に開けた花畑に話が移っていた。

 

「それにしても、ここは本当に美しい場所ですね。僕は流魂街で数十年暮らしてきましたが、こんな場所があるなんて夢にも思いませんでした。ここまで連れてきてくれた卯ノ花隊長には頭が下がる思いです」

「そんなに気に入ったのですか? でも、私は見つけて、貴方に教えただけなのですよ」

「何をおっしゃいますか。僕が嬉しいのは何もこの風景が好きだからではありません。貴女と一緒にこの風景を眺められる事が幸せなのです」

「――――……そう、ですか……」

 

 少々キザったらしい台詞を彼は恥ずかしげもなく言う。先程そんな風に笑いかけられて顔をそむけてしまった卯ノ花を考えれば、また目をそらしてしまうと思うだろう。しかし彼女はほんの少しだけ眉根を下げて、悲しそうに微笑んでいた。

 御蔭丸はそれに気付いて尋ねようとしたけれど、その悲哀の色もすぐさま霧散する。一瞬の出来事だったので、見間違ったんだろうと思い、話を続けようとした。すると卯ノ花が不意を突くように言葉を発する。

 

「懐かしいですか?」

「え?」

「いえ、ここまでの道中で遠い眼をしておられたものですから、流魂街に居た頃を懐かしがっていると思いまして」

「ああ……確かに懐かしい思いがします」

 

 唐突な質問に少し戸惑いつつも箸を止めて、淡い笑みを浮かべて御蔭丸は花畑とその先の森、そして晴れ渡った空を見上げる。目に沁みる真っ新な光に凪いだ瞳を向ける彼の髪を、木の葉を揺らす緑の息吹きがさらっていった。

 今の御蔭丸の眼に写っているのは在りし日の流魂街なのだろう。道中と同じように遠い眼をする御蔭丸は、ぽつりぽつりと話し出した。

 

「本当に懐かしいですねえ……あの頃は子供に混じって遊ぶのが日課になっておりましたから。一日中色んな遊びをして、みんな泥だらけになっていました」

「楽しかったですか?」

「ええ、とても楽しかったです。言う事を聞かない手のかかる子もいましたけれど、退屈はしませんでした。あの子とはもうかなりの間会っていませんが……きっとこの辺りで元気に過ごしている事でしょう」

 

 ざあ、と流れていく草の声に、耳触りのいい言葉を乗せる。ここではない場所を見つめ続ける彼の傍で、卯ノ花は優しそうに笑っていた。母性の光る黒の瞳に、小さな理知の色を混ぜ込みながら。

 その一方で、御蔭丸があまりにもほがらかに笑うものだから、少しむっとしてしまう。自分で話を振っておいて図々しいけれど、昔ばかり思い返していないで今の私を見て欲しいと、燻る嫉妬心のようなものが彼女の心に生まれた。その情動に突き動かされ、ついつい口を開いてしまう。

 

「貴方は今よりも、昔の方が楽しかったと思うのですか?」

 

 言って、彼女はしまったというような反応を示した。喜んでもらおうと精一杯に作った料理の先で、予想しなかった言葉に目を瞬かせる御蔭丸が見つめてくるのを、避けるように目を逸らす。

 

「すみません、変な事を聞いてしまって……」

 

 伸びた髪に瞳を隠して、恥ずかしそうに彼女は言った。艶やかな色を放つ黒髪の間で赤く染まった頬を見て、御蔭丸は意図を察してくすりと笑う。

 

「いいんですよ。せっかく卯ノ花隊長と食事を楽しんでいるのに、昔ばかり懐かしんでいた僕が悪いのです。それと僕にとって、過去は過去以上になりえません。どれだけ想ったところで、過去に戻れるはずもないのですから。僕に在るのは過去ではなく――貴女と過ごす今なのですよ、卯ノ花隊長」

「……!」

 

 彼が当たり前のようにそう言うと、卯ノ花の黒髪の影に隠れた頬の色が濃くなった。それは妙な事を聞いた羞恥と自己嫌悪の表れではなく、何気ない好意に当てられたが故の無意識の情動だったのだろう。だから御蔭丸はその反応から、彼女の気付かない彼女の想いが目についた。視界の端にチラリと影が横切った程度の小さな意識だったが、見えぬ心の尻尾を掴みかけた。

 しかし次の瞬間、卯ノ花が取ったとんでもない行動に度肝を抜かれて、手にしかけた思索が頭から吹っ飛んでしまう。

 

「あ、あの……」

「はい、なんでしょうか?」

 

 一向にこちらを見ようとしない彼女を微笑ましく思いながら、軽い調子で相槌を打つ。男らしくない柔らかな態度で言葉の続きを待つ彼は、心中で卯ノ花に対し心臓が早鐘を鳴らす心持ちでいた。

 御蔭丸の知る卯ノ花烈とは、弱っている人や困っている人に真なる善意から手を差し伸べる優しさと、一方で護廷十三隊の隊長を務めるだけの厳しさと恐ろしさを併せ持つ、尊敬すべき人物だ。しかしこうして二人きりでいる時、彼の持つ人物像からかけ離れた姿を見せる事がある。初めて会った時に褒めたらやたら赤くなっていた事などがそうだ。

 今にしても、彼女は言葉の続きを切らした代わりに、胸元で組んだ小さな手の指をいじいじと合わせながら、垂れた前髪の間から上目遣いでこちらを覗いてくるのだ。強く美しい、大和撫子の体現とさえ言える卯ノ花が見せる、青い乙女の如き愛らしい姿。それも自分の前でだけという条件がつけば、舞い上がるのも無理ならぬ事であろう。

 

 ――いかんいかん、気をしっかり持つんだ、俺。

 どこか熱っぽい情が混ざる彼女に瞳にさらされる御蔭丸は、表面上だけでもなんとか笑みを保持する。だが一見して爽やかな笑顔の下は獣寸前の衝動に駆られていた。それでも理性を保てたのは、以前卯ノ花に話した彼の冷めた思考があるからだが――普段の優しい余裕がなくなっていたのは確かだ。

 だから卯ノ花が何かを決意するように下唇をきゅうっと噛んでも、その意味を深く思案し切れなかった。そもそも御蔭丸には、卯ノ花がとった行動が完全に想像の範疇(はんちゅう)を超えていたのだ。

 卯ノ花は胸元で握った手を離して、休めていた箸をとる。そしてたどたどしい手つきで上品な食事が並ぶ重箱へ伸ばすと――――

 

「あ……あーん……!」

 

 涙目で顔を真っ赤にしながら、卵焼きを差し出した。

 その瞬間、彼女を除く世界の全てが動きを止めた。

 

「…………………………………………え?」

 

 穏やかな空気に身を弛緩させていた御蔭丸が、まるで仏像のように硬直する。色素という色素が抜け落ちた白黒の不動世界は、勿論彼の主観だ。柔らかな微笑みが柔軟な印象のまま固まっているという矛盾を孕んだ表情をするほど、目の前で起こっている事態は容易に飲み込めるものじゃなかった。

 だってそうだろう。自分の上司が、それも尊敬する女性が、二人っきりの状況で、恥ずかしそうに目を閉じて、真っ赤になりながら「あーん」と言って、自分のお箸でとった卵を差し出してくる――これが熱烈な恋人同士なら当たり前のように口にするだろうが、上司と部下としてこの場に居た御蔭丸には、真っ先に「何故?」の二文字しか出てこない。嬉しいとか恥ずかしいとか思う以前に、その行動の意味が全く分からないからだ。

 

「え、あ、その、えっと……」

 

 ようやく喋れるくらいまで硬直が溶けてもも、口から出る言葉もしどろもどろで内容が無い。こんな想像の範疇から天地の隔たりほど離れた事態への対処など、流石の御蔭丸も事前に用意はしていない。それに、仮に用意していたとしても、いつものように余裕の対応など出来なかった。

 ――お、おいおい……!

 御蔭丸に卵焼きを食べさせようとしている卯ノ花は、弁当を挟んでいるので身を乗り出している。なまじ身長差があるから正座が膝立ちになるくらいの乗り出し方だ。それに加えて顔を真っ赤にしながらぎゅうっと目を閉じて唇を軽く尖らせている。そんな卯ノ花を見下ろす御蔭丸からしてみれば、彼女のしている事は卵焼きを食べさせようとしているのではなく、恋人に対する無言の欲求に見えてしまい――

 ――は、反則だろう、これは……!!

 

 許されるなら、顔を背けてしまいたかった。こんな劣情を掻きたてる無防備な彼女を前に、笑顔を保ち続ける自信などなかった。それでも形だけでも笑っていられるのは、今までの経験と初対面の彼女にしてしまった暴挙を本当に猛省していたから、そしてここで理性をかなぐり捨てる事なんて、卯ノ花が望んでいなかったからだ。

 ――落ち着け、落ち着くんだ、俺。

 ――きっと卯ノ花隊長に他意はない。仲がいい隊員だからやってるんだ。というかそう思え、そう思わなきゃこの危機は脱し切れん。

 貼りつけた笑顔に一筋の汗を流す御蔭丸は、ごくりと喉を鳴らす。大丈夫、女性から「あーん」されるのは慣れている。いつも通りさっくりと食べて笑顔で「おいしい」と言ってやればそれで済むんだ。それが卯ノ花隊長でもなんら問題はない――そう頭では分かっていても中々身体が動いてくれないのは、それだけ卯ノ花の行動が衝撃的だった表れだろう。

 

 しかしこのまま何の反応もしないと言うのは不味い、というのも彼には分かっていた。少し冷静になって卯ノ花を見れば、彼女がどれだけ勇気を振り絞ってこんな事をしているのかは一目瞭然だったからだ。だから何らかの反応を示す必要があると考えたが、少し冷静になった程度では何とも出来ない。刻一刻と流れる時間にますます混乱が深まる最中、助け舟を出してくれたのは他ならない卯ノ花だった。

 

「あ……あーん……!!!」

 

 笑ったまま何もしない御蔭丸の鼻先に、卯ノ花はずいっと卵焼きを突きつける。羞恥だけでも胸が一杯だろうに、彼女にここまでさせている事を悟った御蔭丸は、自分が情けなくなった。

 ――俺は何をしているんだ。

 ――今すべき事なんて、分かり切っているじゃないか。

 覚悟を決めて、目を閉じる。緊張で乾いた唇を開いて、箸の先にある卵焼きを口腔に閉じ込め、咀嚼した。

 言葉にすれば、ただそれだけの他愛の無さ。けれど御蔭丸と卯ノ花にとって、一連の流れに秘められた想いは背負うのもやっとの重さがあった。

 咀嚼した卵焼きを飲み込んで、赤い瞳を卯ノ花に合わせる。僅かな赤を頬に刻む御蔭丸の眼には、暗い影の中でもそれと分かる熱を帯びた朱を纏う、上目遣いの彼女がいた。

 

「…………」

「…………」

 

 どちらも、言葉は発しない。

 御蔭丸は「美味しかった」という賛辞の言葉や「ありがとう」というお礼の言葉を述べたかった。だが、はち切れそうなくらい真っ赤になっている卯ノ花が目に入った時、どんな言葉を使っても彼女を労う事は出来ないと悟った。

 卯ノ花は、ただ御蔭丸の言葉を待っていた。自分がこれだけ頑張ったんだから相応の見返りが欲しい、という心はない。そもそも彼女にはどうしてこんな行動に出たのかという気持ちの自覚もないし、それはさして問題ではなかった。ただ御蔭丸の一声、一言が欲しかった。どんな言葉でも彼の心の声を聞けるなら、いまにも狂ってしまいそうな感情の猛りを治める事が出来たから。

 

 でも、御蔭丸は話さない。それが卯ノ花には耐えられない。これ以上羞恥の檻に閉じ込められるなら、恥も外聞もなく逃げ出してしまいたい。そう思った矢先――彼女の頭に、武骨で大きな手がのせられる。

 それは御蔭丸の腕だった。言葉では、彼女への感謝は表せない――そう考えた彼は、ただ黙って頭を撫でる事にした。まるで子供を相手にしているようなやり方だが、それ以外の方法は思いつかなかった。

 ――言葉にできない想いは、いつもこうして伝えてもらった。

 ――だからきっと、卯ノ花隊長なら受け取ってくれる。

 静かにゆっくりと、丁寧に手を動かす。座高の高い御蔭丸からは、完全に俯いた卯ノ花の顔は見られない。だから御蔭丸の気持ちをきちんと分かってくれたか、これで正しかったのかは知れなかった。

 

 ――――けれど。

 俯く彼女の髪の間からふと見えた、千年の恋が成就したような花咲く笑みを――彼は生涯、忘れる事はないだろう。

 

 

 

 そうして昼が過ぎ、太陽が大地に横たわる夕方が近づいてきた頃。食事を終えて薬草の採取を続けていた二人は、どちらからともなくその手を止めた。

 

「……そろそろ、帰りますか」

「ええ、もう十分でしょう」

 

 籠に満杯になった薬草を確認して、帰り支度を手早く済ませる。荷物は薬草の入った籠、四番隊の医療袋、卯ノ花の持つ空の重箱くらいなので、忘れ物が無いかの点検だ。御蔭丸としては空の重箱くらい持ってやりたいのだが、卯ノ花は頑として拒否している。これに関してはなにやら意地があるらしく、一度として持たされた事はなかった。そのあたりは二、三度デートを繰り返すうちに分かったので、御蔭丸も無理は通していない。

 

「今日は早く終わりましたし、ゆっくりと帰りましょうか」

「賛成です」

 

 穏やかに微笑む卯ノ花に追従する。早めに終わったのはそれだけ忙しく採取をしたという事なので、疲れているから帰りを急ぐ必要はないと判断したのだろう。そんな小さな気遣いを、御蔭丸は嬉しく思っていた。

 風に翳る木の葉の道をゆっくり歩く。来た時は瞬歩を挟みつつ走ったが、今はこのペースでも日が暮れる前に瀞霊廷へ帰れる。並んで歩く御蔭丸は、隣の彼女へ目を向けた。

 日に照らされた彼女の笑みには、昼間みせた乙女の色はない。いつも通りの隊長然とした顔だ。春の木漏れ日のような穏やかさを湛える卯ノ花を見つつ、御蔭丸は昼間の出来事を思い出す。

 ――結局、あれは何だったのだろう。

 

 あの出来事から帰りの合図をするまで、御蔭丸と卯ノ花の間に会話はなかった。ただ、卯ノ花がずっとにこやかに頬を染めて鼻歌まで歌っていたので、まあ間違いではなかったと考えている。

 ――と、言うよりも。

 ――俺自身もあまり覚えてないんだよなあ……

 歩きながら吐息をつく。一緒に食事を楽しんでいたら、卯ノ花に「あーん」されて受け入れた、という事実は頭に入っているのだが、その時自分がどう思ったのかという所がすっぽり抜け落ちているのだ。

 ――いや、本当は何かを想う暇もなかったな。

 

 彼女の笑みを、思い出す。

 まるで悪魔に魅入られた気分だった。自分の思考を奪われたような感覚。心臓に火が灯って全身の血液が沸騰したような錯覚。身も心も何もかもを略奪されてしまいそうで、それに全く恐怖を感じない己が信じられなかった。

 心の奥底が霊廟(れいびょう)のように冷えている御蔭丸は、その誘惑に心奪われる事はなかったが、それでもそういう想いを抱いた事には違いない。こうして歩いている今だって、卯ノ花の笑顔が(まぶた)に焼き付いて離れなかった。

 ――参ったな。これじゃあ隊長の顔をまともに見れないじゃないか。

 

 かり、と白髪の頭を軽く掻く。焼き付いた笑顔のせいか、御蔭丸は少し気が抜けているようだった。普段の優しい笑みもなりを潜め、掠れた荒々しさが滲んでいる。そんな彼らしくない姿を意識に止めた卯ノ花は、嬉しそうに笑みを深めた。

 

「やはりお疲れのようですね。疲労が顔に出ていますよ?」

「いえ、そんな事は……っ!?」

 

 無意識に返事をしようとすると、卯ノ花は正面に回って具合を確かめるように彼の頬へ手を伸ばした。消えない記憶に気をとられていた御蔭丸は驚いて言葉を詰まらせる。

 頬を滑る小さな手と、穏やかに見つめる彼女。身を案じてくれているのは分かるが、今の御蔭丸には脳裏に刻まれたあの笑顔が重なっていた。

 ――ま、まずい……!

 

「だ、大丈夫ですから! 問題ありません!」

 

 頬が熱くなるのを感じた御蔭丸は、慌てて卯ノ花の肩を押して距離をあける。そして顔を見られないよう、卯ノ花の前へ場所を移した。でも卯ノ花は置いて行かない。一応仕事中なので上司を置いて先には行かないし、女性を一人残すなんて普段気遣いを絶やさない彼がするわけがなかった。卯の花にはそれが手に取るように分かったから、後ろにぴったりついたのを確認して歩き出す御蔭丸に楽しそうについて行く。それは昼間に見せたあの笑顔のような、恋する乙女らしい喜びだった。

 

 一方の前を歩く御蔭丸は、触れられた感触の残る赤くなった頬をさすって、嬉しいやら恥ずかしいやら自分でも分からない顔をしていた。

 ――……本当にしばらくは、卯ノ花隊長の顔をまともに見れそうにないな……

 色々と支障が出そうだと、空を仰ぎながら思う。今回卯ノ花との心理的な距離が縮まったような気もするし、付き合い方も改めないといけない。もう少し疎遠になるように、対応を考えなければ、と冷静な部分で考えていた。

 ――しかしまあ、それはそれとして。

 ――今日は、楽しい一日だったな――

 

 いつもの柔らかい笑顔ではない、荒々しい笑みを刻む。

 ――もし許されるなら、これからもこんな日を過ごしていきたい。

 それが叶わない、願ってはならない事だと知りながら、そう思わずにはいられない。

 今日という日はそれくらい、心に残るものだった。

 




原作より七二五年前の出来事。
デート回、のつもりです。ハーレムをすると銘打った本作ですが、思ったより女性とイチャイチャしていないので作った話です。
もうちょっと恒常的に女性との絡みを描ければ良いのですが、筆者の趣味を優先するとバトルやら何やらを書いてしまいがちですので、基本的には一キャラにつき一回はデートの描写を入れられればいいかな、なんて思っています。
前回言った卯ノ花烈についてですが、見てみたらあまり変えなくても原作との擦り合わせが出来そうだったのでほとんど書き直しはしませんでした。隊長としての人格と女性としての心は別物、という形で書いて行きたいと考えています。
それと、筆者が二週間ほど風邪が長引いてしまい、投稿が遅れた事をお詫び申し上げます。
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