自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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第94話 旧時代の真人類

「────否、魔術師バリーナース!!」

 

 復讐者は叫んだ。

 薔薇の幼女を示す名称としてはあまりにも場違いな言葉を。

 しかし、ローゼンクロイツは笑った。解を導いた生徒を褒めそやすように、または生きのいい獲物を前に舌なめずりをするかのように。

 

「素晴らしい。死という断絶を経てもなお陰らぬ復讐心!! それほどまでに燃え上がるは生来の生真面目さ故か!? エドモン・ダンテス!!!」

 

 返答はなかった。

 

「『虎よ、煌々と燃え盛れ(アンフェル・シャトー・ディフ)』」

 

 代わりに蒼炎が爆ぜ、薔薇の魔術師を呑みにかかる。

 ローゼンクロイツは微動だにしない。復讐者の炎はガラスの壁に堰き止められた水のように、眼前で押し留められていた。

 彼の周囲に常時展開されている防御結界『120年の納骨堂(Post Annos CXX)』───曰く、宇宙を模して造られたと言われる、ローゼンクロイツの墓所。その象徴を利用した防護機構。これを破壊するにはそれこそ、ひとつの世界を滅ぼすに値する力でなくてはならない。

 魔術師の意識の矛先は戦闘に向かず。

 自己の魂に付与した固有時制御の術式を加速し、思考を回す。

 

(……とは言ってみたものの。これは可能性が高い未来のひとつではあった。問題は、エドモンくんの登場がカルデアの諸君にとってイレギュラーであるか否かだが────)

「おいおいよそ見か!? ローゼンクロイツ!!」

 

 円卓の騎士ペレアス。彼はベイリンより受け継いだ紅鎧を纏い、必勝の神剣を振りかざした。

 雷光の如き一太刀が奔る。神殺しの刃は如何な作用か、『納骨堂』の宇宙を超えた。ローゼンクロイツは迫り来る斬撃を十字架の礼装で受け止め、もう一方の手を背後に回す。

 

(連携が取れている。彼らならば即興で合わせるのは造作もないだろうが、事前に打ち合わせてきたと考えるべきだろうな)

 

 それはまるで予定調和な演武のように、エドモン・ダンテスの燃え盛る左拳を掴んでいた。魂すら焼くはずの炎を、傷ひとつないままに。

 復讐者は目を細める。

 ロアすら屠り得た蒼炎。不死身の半神と雷神の武器を斬り伏せた魔剣。それらを意に介さぬ馬鹿げた防御性能。エドモンはそのカラクリを知っていた。

 ローゼンクロイツの体は『時が止まった不変の肉体』だ。固有時制御の魔術が概念的に彼の時間を停止させている以上、如何なる攻撃をもってしても、瑕疵や絶命といった現象が訪れることはありえない。

 

「巌窟王はともかく、ペレアス卿。貴殿の剣が結界を通過するとは思わなかった。いや、侮っていたわけではないぞ?」

「ハッ、どうして魔術師って連中は気取った言い回しをするんだ? ちったあ低俗になりやがれ!」

「貴殿のマスターのようにか?」

「アイツはちょっとどころじゃねえよ!!」

 

 刹那、ローゼンクロイツの理解は遅れた。

 ペレアスの剣が巻き上げるような軌道を描き、十字架を上方へ弾く。騎士の純粋な技量が生んだその隙に、魔術や神秘が介在する余地はない。

 故に、薔薇の魔術師は遅れて現状を理解した。深遠なる魔術の叡智が及ばぬ技であったがために。

 

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』」

 

 その間隙に、絶死の一刀が滑り込む。

 それは間合いのうちであるのなら、回避も防御も不能となり、対象の運命を断つ。すなわち直死の魔眼ならぬ直死の魔剣。万物すべからくに死の線を発生させ、断ち殺す。

 ローゼンクロイツの不変の肉体に死は存在しない。そんな性質は神殺しの魔剣の前に無為と化した。

 

「「…………は??」」

 

 思わず、エドモンとペレアスは目を剥いた。血の軌跡がローゼンクロイツの首をぐるりとなぞり、それに合わせて頭がゆっくりと首の断面を滑り落ちる。

 魔剣に誤謬はない。

 ただ一点、対象を殺傷するという機能においては騎士王の聖剣や竜殺しの魔剣さえも凌駕し得る。

 ───ここに、薔薇の魔術師は絶命した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………こんな結末もある!! うむ、これは道場行きというやつだなっ!!」

 

 天上の薔薇が咲き誇る結界。ダンテの至高天になんとも間の抜けた声が響き渡る。

 セーブを失念したデータを読み込んだ時みたいに、それぞれの立ち位置は元の場所に戻っている。ペレアス、エドモン、湖の乙女、マーリオゥとその従者たちはあんぐりと口を開けて叫んだ。

 

「「「「────んなぁっ!!?」」」」

 

 ローゼンクロイツは微笑む。彼の相貌には些細なイタズラが露呈した時のような、無邪気な悪辣さが滲んでいた。

 

「私の命を守る盾は二つ。『宇宙』と『不変』だ。ペレアス卿が前者を突破したことを鑑みるに、どうやら私の手の内は知られていたらしい。伝えたのはエドモンくんとマーリオゥくんかな?」

「…………当たりだ、バケモノ。世界各地を徘徊してやがったのが運の尽きだ。わざわざそこの不審者が語らなくても、テメェの情報は判明済みなんだよ」

「流石は聖堂教会。長年の研鑽と調査は伊達ではないな」

「そりゃ嫌味か? ……ああ、まだあった。テメェの失敗はロアのクソ馬鹿と関わったことだ───!!」

 

 少年は糸を繰る。

 先の現象を考察している暇はない。彼の周囲に佇む僧女団は一斉に黒鍵を構え、投擲した。

 無駄。ローゼンクロイツを知る者ならば、誰もがその攻撃の意味を否定するだろう。

 黒鍵とはあくまでも対死徒を想定された武器だ。死徒の肉体に人間であった頃の自然法則を叩き込み、洗礼する。それだけの武器。ローゼンクロイツの結界を突破することなどできない。

 が、他ならぬローゼンクロイツ自身が知っていた。ラウレンティスの落胤であるこの少年が、敵を目の前に無駄な行動を取るはずがないと。

 

「なるほど」

 

 未来視の魔眼を発動するまでもなく読めた結末。黒鍵の投擲は宇宙の結界を容易く通過した。

 大気中の魔力を操り、一本を残して黒鍵の群れを押し潰す。ローゼンクロイツは見逃した黒鍵の刃先を左手の甲で受け止める。

 鉄骨を金属バットで殴りつけたような音が響き、黒鍵が弾かれる。白い肌の表面には一点、針で刺したような傷が穿たれ、少量の血が流れた。

 

「この術式の癖はロアくんだな。自然法則を叩き込む性質の拡大解釈! 私の宇宙を中和し、不変をも貫いてみせるとはあっぱれだ!!」

 

 黒鍵は死徒の肉体を自然法則で塗り替える。ならば、その性質を強化すればどうなるか。

 あらゆる他の領域・異界を十字教テクスチャに書き換える。そして、聖書の申命記に記された通りに、対象の魔術をも否定する。

 ───それが、ロアが幾度かの生で編み出したローゼンクロイツへの対抗策。彼の死後、マーリオゥが発見した蛇の研究成果のひとつだった。

 不死の蛇がなぜ、薔薇の魔術師を殺す手段を模索していたのか。マーリオゥに知る由はない。知る必要はない。教会の仇敵が生んだモノだとしても、有用なら使う。それだけだ。

 マーリオゥは若干の苛立ちを纏いながら言う。

 

「どこまでも余裕じゃねえか、ローゼンクロイツ。テメェの冷静さ、ここで引っぺがしてやる」

「冷静? とんでもないさ、マーリオゥくん。私は今も焦り散らかしているし、足の震えが止まらんのだからな!!」

「その割に楽しげなのはなんなんだ!?」

「付き合うなペレアス卿。もう一度奴の力を見極める!」

 

 再度、エドモンとペレアスは特攻する。

 シャトー・ディフ脱獄を果たした精神力が昇華した巌窟王の宝具は、あらゆる縛め───時間と空間さえも───を超越する。彼はこの力をもって、ローゼンクロイツの結界を抜けたのだ。

 対して、ペレアスに結界を通る能力はない。だというのに、騎士はまたもやローゼンクロイツへと接近してみせた。

 隠されたものを暴き立て、詳らかにする魔術師の性。ローゼンクロイツはそれに従った。様子見としてこの島を沈める程度の魔力を用意し、指先から凝縮して放つ。

 一条の閃光が迸る。地球の重力を振り切り、大気圏外へと飛び去っていく速度。それはペレアスの目の前で霧の壁に阻まれて消えた。

 

「ほう! 見えてきたぞ、これはつまり」

「これ以上お前に喋らせるかよ! 文字数稼ぎなら他所でやってろ!!」

「そう、今からここは私とペレアス様のいちゃいちゃ───いえ、ドスケベワールドですわ! 部外者はお引き取り願いますっ!!」

「言い直した結果悪化してるだろうが!?」

 

 霧が辺りを覆い尽くす。

 湖の乙女リースの異界。湖上に浮かぶ霧の城が至高天と混在する。カリスの理想化を受け、リースの霊基・能力はサーヴァントとして召喚された際のそれに向上している。

 リースは自身の異界でローゼンクロイツの宇宙を中和した───だけではない。単なる結界と異界の陣取り合戦だったなら、ペレアスの移動範囲はリースの異界の範囲内に限られていた。

 水の精霊たる湖の乙女たちはそれぞれ固体・気体・液体の掌握に長ける。その権能の真価は、水素と酸素の支配だ。

 宇宙に漂う星間分子の中でもっとも多いのは水素分子。ローゼンクロイツの結界が宇宙を模しているが故に、リースの権能は敵の防御機構にまで及んだ。

 

「結界、そして不変。私の護りを貫く手段をよく揃えた」

 

 霧中にいくつもの影が飛び交う。

 炎が、魔剣が、無数の黒鍵が殺到する。ローゼンクロイツは目にも留まらぬ速度でことごとくを躱した。

 時間を加速させた魔術師に一撃を加えることは難業に違いない。だったら、物理的に回避する隙間を無くしてしまえばいい。

 それでもローゼンクロイツは倒せないだろう。ペレアスによる致命傷を否定してみせたように、何事もなく同じ現象を再現してみせるだけだ。

 巌窟王は冷徹に考える。

 

(それでいい。先程のアレはおそらく時間の巻き戻し───世界の修正力から遮断された固有結界の中だからこその芸当だ。外界に影響がないのなら、勝機はこちらにある!)

 

 ───なぜなら、これは互いに互いの最強の駒を潰し合う戦いだ。

 ノアトゥールとローゼンクロイツ。どちらが先に敵の捨て駒を排除し、有利な状況に持ち込んだ上で決戦に望むか。時間を稼ぐほどに、勝算は増していく。

 エドモン・ダンテスは復讐者だ。他人に獲物を任せる考えはない。が、目的のためなら他の何をも捨て去ることのできる人間でもある。

 かつてパリにて蛇への復讐を阻み、ついぞまみえることのなかった薔薇の魔術師。彼の命脈を絶つためならば、復讐者は己の矜持をも犠牲にするだろう。

 エドモンは結界を超えられても、不変を抜くことはできない。

 その事実こそが布石。誰にも見せたことのない手札で、ローゼンクロイツを刺す───!!

 

「その努力に敬意を表する。貴殿らは確かに私を殺す手を用意してきた。故に私は謝罪しよう」

 

 魔術師の礼装、薔薇十字が魔力を帯びる。

 

 

 

「ここまでの過程は、全て忘れていいぞ」

 

 

 

 瞬間、世界が死んだ。

 音なく光なく、五感が意味をなさぬ中で、彼らは物質ならぬ精神でその光景を知覚した。

 ローゼンクロイツが天へ向けた手掌から、流星が放たれたことを。

 狙いは誰でもなく、この世界。ダンテが織り紡いだ固有結界を破壊するために、それは撃ち出されたのだった。

 薔薇の魔術師の結界は仮想宇宙である。彼は惑星を円状の並びに配列し、これを魔術回路に見立てた。それはさながら宇宙規模の粒子加速器だ。星のレールで魔力を循環・加速させ、勢いのままに射出する。

 言ってしまえば、ただの魔弾。

 ローゼンクロイツからすれば、魔術と名付けるまでもない技。

 されど、そのエネルギー量は存在するだけで世の理を歪めるに値する。

 彼はその技を端的に、こう表現した。

 

 

 

「─────()()()

 

 

 

 …………地球から約38万km、月表面上『雲の海』。

 太古の昔から蒼き星を見守り続けてきた月のかんばせはこの日、たったひとりの魔術師の手によって、新たに直径50kmのクレーターを刻まれた。

 至高天が消える。

 現実の風景が取り戻される。

 余波だけでこの島を沈めるほどの魔弾は無用な被害をもたらすことなく、ただ天井のみを綺麗にくり抜いていた。月夜の星空を覗かせる天蓋はしかし、ひとりでに元の形に直されていく。

 プラネタリウムのような部屋。半球状の天井に数え切れないほどの光点が輝き、部屋の中央には生命の樹を立体化したオブジェが屹立している。

 ダンテが宝具を使う以前と変わらない光景。ペレアスたちは安堵するでもなく、ぞくりと全身に怖気を走らせた。

 ローゼンクロイツは薔薇十字の礼装をくるくると弄び、

 

「んむ。少しはしゃぎすぎた。この部屋は大切な場所でな。危うく壊すところだった」

 

 呑気に反省する見た目幼女の実年齢2000歳以上。ヘタレ詩人ダンテとヘタレ代行者ノエルは地面に内股でへたり込んで、胃の中身を吐くみたいに言葉をぶちまけた。

 

「な、なんですか今のは!!? 明らかに世界観が違うレベルのトンデモビームだったんですが!? アーサー王の聖剣でもああはならないですよねえ!!?」

「もうだめよ、おしまいよぉッ!! サボれそうだからクソガ、マーリオゥ様についてきたのに! これだったらシエルの世界一周死徒ぶっ殺しツアーについてったほうがマシだったわ!!!」

「王様ナメんな、エクスカリバーが本気出したら月だってぶっ壊せるに決まってんだろ!!」

「おいブタテメェの基本給を無にしてやってもいいんだぞ」

 

 ダンテはペレアスに、ノエルはマーリオゥに鉄拳を落とされる。前者と後者ではいささか意味合いが違ったが。

 そんな彼らとは裏腹に、エドモンは鋭い視線の切っ先をローゼンクロイツに突きつけていた。復讐者は隠せぬ驚愕の色合いを声音に滲ませる。

 

「…………十字架の礼装、唯一神の力を振るうとはそういうことか。貴様の魔力出力、肉体の器が許す限りの全能!! 不遜が過ぎるぞ、ローゼンクロイツ!!」

「ああ、若き時分は様々な道具を造ったものだが、これのおかげで全て役目を終えたと言って良い。人の身で権能を扱うのだ、不遜と言われても仕方がないな」

「詭弁ですわね。神様の力は神様が用いるから強大なのですわ。たとえ神体化術式で魂の位階を上げたとしても、魂のラベルが人間である以上、全能ではなく万能が精々でしょう」

「湖の乙女よ、それは私が未熟というだけだ。この全能を真の意味での全能に押し上げる道の途上に私はある」

 

 ローゼンクロイツは不敵な光を瞳に宿した。

 それを見て、ダンテは戦慄した。他者の心を感じ取るスキルに耳を傾けるまでもなく、詩人の共感性はその異常性を察知する。

 彼の言葉には、一切の他意がない。

 つまり、それは偽りがないということ。

 口から流れる言葉は全てが包み隠さぬ本心。込められた感情さえもみな一様に、同じ色で染められている。

 己の心を、感情を、常に一切違えることなく口に出すことができる人間なんて存在しない。どうしても言葉が足りない時はあるし、嘘をつく時もある。けれど、ローゼンクロイツにそんなことはない。いつだって真実をありのままに語っているのだ。

 だから、詩人は言わずにはいられなかった。

 

「……あなたなら気付いているはずです。全人類を根源という新たなステージに到達させ、救済する、その目的の誤謬に」

「ああ、そうだ、我が友よ。私の望みは全人類の総意を得ていない。余計なお世話に過ぎぬ行為だ。全人類の救済を目指すはずが、全人類の総意を蔑ろにしている───私は、最初の一歩から間違っているんだ」

「そこまで理解しておきながら、なぜ」

「いいや、そこまで分かっているからだ」

 

 ローゼンクロイツは告げる。

 

「───間違っているから失敗する、なんてルールはない」

 

 彼の包み込むような気勢が鋭く尖る。

 それは薔薇の魔術師が初めて露わにした、敵への戦意だった。

 

「全ては根源という無限の新天地で考えれば良いことだ。全人類の意思を切り捨てた私は大罪人となることだろう。だが、それでいい。私がこの世全ての罪を背負い、遍く衆生を新たな位地に押し上げる」

「オイオイオイ、外付けの権能と神体化ってだけでよくも思い上がれたもんだな。テメェがやろうとしてることは、丘の上で死んだロン毛の元大工と同じだぞ」

「然り! 第一の獣ゲーティアは創世記のやり直しを望んだ。だとするならば、私が望むのは磔刑と新約のやり直しだ!!」

 

 その昔、神の子はゴルゴタの丘にて自身を捧げることで、アダムとイヴの失楽園から続く人類の原罪を贖った。そして、彼は神と新しい契約を結び、信仰を通じた人類の救済を約束することとなる。

 計画が成就したなら、ローゼンクロイツは旧時代が重ねた最後の罪業として、新世界の人類の断罪を受けて死ぬ。

 しかし、それだけが彼の理想ではなかった。

 

「同時に、信じている。貴殿たちが私を打倒する未来を。私のようないかにもなボスキャラはやられるのが定めだろう?」

 

 結局、ローゼンクロイツはどこまでも人間を信じ切っていた。自分が望みを果たし裁かれる未来も、敵に望みを否定される未来も、彼に言わせればどちらも道理だ。

 ペレアスは呆れたように嘆息し、手持ち無沙汰になった剣の腹で肩を叩く。

 

「……アンタ、随分と難儀な性格してんだな。勝ちも負けも望み通りなんて、人生楽しそうで何よりだ」

「褒め言葉と受け取っておこう。だが負けるつもりは毛頭ないぞ。生半可な者に理想を譲るつもりはない」

「そりゃこっちもそうだ。オレたちのマスターが死に物狂いで救った世界を、お前に好き勝手されてたまるかよ」

「そう、つまるところは力による決着だ。暴力こそが人類が生み出した最高の議論の片付け方だよ」

 

 薔薇十字が地面に突き立つ。

 全能の礼装。それは例えるなら、RPGゲームで『たたかう』や『にげる』の選択肢の他に、『なんでもできる』というコマンドを持つようなものだ。

 通常のキャラクターはスライムを倒すために物理なり魔法なりでHPを減らすところを、ローゼンクロイツはゲームのデータからスライムを消すことだってできる。

 要は、戦うという行為の次元が違う。

 相手を倒すのに武器を使う必要がない。

 本来ならば敵と向き合う手順も要らない。ローゼンクロイツが真に全能であったなら、ペレアスたちが死んだ現実を構築してしまえば事が済む。

 それをしないのは、できないのは、ローゼンクロイツが人で、人を信じているからだ。自分に負けるはずがないと本気で信じているからこそ、全能は万能に堕ちる。

 

「さあ、戦いを始めよう」

 

 とはいえ、その力は絶大だ。なにしろ強さの物差しが違う。他者がレベルやステータスで競い合っているのに対して、ローゼンクロイツの強さはどれほどゲームのシステムを掌握しているかに掛かっている。

 勝算を立てることもおこがましい。その現実を前に、湖の乙女リースはむんと両手を握り締めた。

 

「全能者との戦い方は弁えていますわ! 私におまかせくださいませ───『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』っ!!」

 

 湖の異界が溢れ出す。この場を完全に入れ替えるのではなく、共存するように。リースは星の聖剣を象った霧剣を形成し、振りかぶる。

 それと同時、霧の剣はまばゆい輝きを発した。

 水素の核融合反応。太陽と同質のエネルギー。リースはそれを、

 

「ていやぁーっ!!」

 

 くるりと振り返って、ローゼンクロイツとは真反対の方向に解き放つ。

 とうとうドスケベ精霊の脳みそが完全に茹だったか───ペレアスでさえそう思ったその時、薔薇の魔術師だけは苦い顔で呟いた。

 

「……正解だ」

 

 全能が本領を発揮する。

 極大の爆発がまるで握り潰されるかのように消滅する。それを見届けるが早いか、リースは満面の笑みで叫んだ。

 

「みなさん、この部屋を壊してください!」

 

 要領を得ぬ呼び掛け。最も速く動いたのはペレアスだった。次いで、意図を察したマーリオゥとエドモンが騎士に追随した。

 その戦いを評するならば、異様という一言に尽きた。敵であるはずのローゼンクロイツに背を向け、辺りを荒らしにかかる。

 彼らの振る舞いが異様ならば、対峙すべき相手の様子もまた異様。空間の断裂が各所に行き渡り、床を壁を破壊せんとする敵の攻撃を遮る。薔薇の魔術師はだらだらと冷や汗をかきながら、

 

「……は、話し合おう! 戦いに情け容赦がないことは知っているが、それにしてもこれはあんまりだ!! 貴殿らがやろうとしていることはひとつの世界を、」

「あァ!? 散々カッコつけて〝戦いを始めよう〟とか言ってたのはどこのどいつだ!? 今度はテメェが汗水垂らすターンだぜ!!」

「対全能者の心得その一! 『相手の土俵に上がってはいけない』ですわ! ああいうのとはまともに戦うだけ無駄なのです! まあ私は女なので土俵には入れな」

「おいやめろ!!!」

 

 ローゼンクロイツは『惑星轟』を放った後に言った。〝この部屋は大切な場所〟と。彼の発言の意図は定かでないが、リースはそれを聞き逃さなかった。

 全能者との真っ向勝負に先はない。わけの分からないままに、わけの分からない力でやられるだけだ。だから、リースは戦闘の目的を変えた。ローゼンクロイツが敵を倒す殲滅戦から、この場所を守る防衛戦へと。

 全能、万能と言えど、力は目的に即した使い方をしなくてはならない。常勝無敗の横綱が相撲の必勝法を知っていても、水泳競技では何ら役には立たないだろう。

 つまりはそういうこと。ローゼンクロイツは最強の力士にも最速の水泳選手にもなれるが、それは競技に適した力を振るうからだ。倒す戦いと守る戦いでは対処が異なるように。

 全能の使い道を絞る。部屋を守らなくてはならないローゼンクロイツの弱点を突いた戦法。故に彼の対処も単純明快だった。

 

「停滞固有結界『不凋花(クロノスタシス)』!!」

 

 相手に土俵に上がるつもりがないのなら、土俵を広げてしまえばいい。

 ローゼンクロイツの固有結界は時が止まった世界だ。取り込まれれば最後、術者以外は時間ごと凍結する。自身の領域を現す術を持たない者は抵抗する権利も与えられない。

 加えて、それは全能によって無敵と化す。結界と異界のぶつかり合い───本来ならば拮抗に持ち込まれたはずのそれを、強引に押し切る。

 静寂のみが満ちる灰色の花園。

 何もかもが停止した世界。

 寂寞たる空間を、一条の蒼炎が駆けた。

 

「───窮したな、ローゼンクロイツ!!」

 

 巌窟王エドモン・ダンテス。時空を超越する彼はただひとり、時が凍結したこの空間を飛翔する。

 総身に漲る業火を全身全霊で叩きつける。並のサーヴァントであれば塵ひとつも残らぬ連撃。今までのそれとは一線を画す全力の打撃を受け、ローゼンクロイツの不変の肉体に鈍い痛みが走った。

 

「2000年に及ぶ貴様の妄執はここで終わる! この世の影となり闇を歩んできた人生の末路、その幕引きが俺だ!!」

「……貴殿は私をバリーナースと呼んだ。嬉しいぞ、ここ最近はローゼンクロイツの名を聞き飽きていたところだ。どうやって調べた? いつ知った? なぜバリーナースとローゼンクロイツを結びつけた? 疑問が尽きんよ」

 

 ───いいや、そうか。

 そう言って、薔薇の魔術師は鼻腔から流れた血を舐め取った。

 

「サーヴァントとして召喚された後に知ったのだな? 聞けば、女神アト・エンナのもとにはかの名探偵もいるそうじゃないか。彼ならば私の真実に辿り着いたとしても、なんら不思議ではない」

 

 彼の視線は、憐憫を帯びていた。

 エドモンは息を呑む。

 全身を流れる血潮が氷河の水にそっくり置き換わったような感覚。生前、幾度か味わった予兆が肉体の末梢にまで行き渡る。

 

「すまない。謝って許されることではないが、悪いことをした」

 

 …………そう、この感覚は。

 

「貴殿はファリア神父を陥れたロアくんを取り逃がし、その張本人となった私の正体を最期の時まで掴めなかった」

 

 フェルナンに婚約者を奪われ。

 ダングラールに濡れ衣を着せられ。

 ヴィルフォールに真実を握り潰され。

 奴らがのうのうとパリの重鎮に登り詰めたことを知らされた。

 その時の感覚と、よく似ていた。

 

「───私は、復讐者たる貴殿の人生をも貶めてしまったのだな」

 

 珠のような涙が溢れる。ローゼンクロイツは心の底から眼前の復讐者を憐れみ、ついぞ自身への雪辱を果たせなかったその人生を哀しんだ。

 もはや声すら出なかった。

 怒りが、憎しみが、臓腑を焼き尽くしていく。

 ローゼンクロイツは巌窟王を踏み躙った。復讐者の矜持を粉々に打ち砕いた。憤怒が天を衝き、この世界を焼く憎悪を込めた拳が、魔術師の顔面を打つ。

 彼は血混じりの唾を飛ばし、

 

「よく戦った。後は新世界の訪れまで眠るがいい」

 

 右の魔眼が、めくるめく妖光を放つ。

 死徒ロズィーアンの魔眼を模倣した瞳。

 その眼差しは対象の精神を終わりなき悪夢に閉じ込め、魂を破壊する。

 魔眼の性能は全能の加護を上乗せされたことで、真作を上回る。あるいは、異なる世界にて原理血戒へと昇華したそれさえも。

 

〝スパダ伯爵の財宝はモンテ・クリスト島にある。……これが、その在り処を示した地図だ。君に受け取ってほしい〟

 

 彼は家系に由来する奇病に冒されていた。

 一度、二度、三度の発作がそれぞれ不定期に訪れ、必ず三度目で死に至る病。ある日、二度目の発作に苛まれ、死期を察した彼は小さな地図を手渡した。

 300年前の大貴族が島に隠した莫大な宝物。受け取れない、と断る手に薄汚れた紙片が押し付けられる。

 

〝君は私の息子だ。主は司祭であり、囚人であり、父親になれぬ私に、君というかわいい息子をくださった。君は……私の、息子だ……エドモン・ダンテス……〟

 

 巌窟王には二人の父親がいた。

 ひとりは彼をこの世に産んだ実父。無実の罪で投獄された息子を信じ抜き、自分たちを不幸の底に叩き落とした運命を呪いながら飢え死にした。

 もうひとりはファリア神父。シャトー・ディフにて己が知識の全てを与え、復讐を成し遂げるための力の在り処を示した。

 この世の汚濁を知らぬまま、幸福を甘受した船乗りエドモン・ダンテスを生んだのが実の父親だとするなら。ファリア神父は恩讐の彼方より花の都に舞い降りた、モンテ・クリスト伯を生んだと言える。

 神父はねじ切れるほどに五体を捩らせ、血の泡を噴き出し、壮絶な苦しみの中で死に絶えた。

 

〝君のあらゆる幸福を願っている。我が子よ、いいか……モンテ・クリスト島───モンテ・クリスト島を忘れるな……!!〟

 

 ───どこまでも、エドモンの行く末を想いながら。

 

 

 

 

 

 

 

「〝主曰く、汝は竜の牙をも引き抜くべく、足下に獅子をも踏みにじるべし〟」

 

 

 

 

 

 

 

 それは、最後の復讐に迷いを覚えたエドモンの背を押した言葉。ファリア神父が書き残した巻物に記された一句だった。

 鋼の矜持は折れず。

 如何なる苦界にあるとも、復讐者が果てることはない。

 エドモン・ダンテスは、固く握り締めた拳を振りかざす。

 

「おおおぉぉぉぉっ!!」

「……心苦しいな」

 

 ぐしゃり、とエドモンが振るった右腕が潰れる。高次元の力場による、三次元時空の圧縮。布切れのようになった腕が空を掻き、そして、ローゼンクロイツの視界の右半分が暗転した。

 

「────!!」

 

 鮮血が飛び散る。

 冷たく澄んだ刃が、薔薇の魔眼を散らす。

 それは黒鍵。右眼から後頭部まで貫通した刃を残った左手で掴み、丹田まで斬り下げる。

 ファリア神父に与えられた知識のひとつ。代行者が扱う、黒鍵の投擲技法。敵の五感の死角から武器を投げつけ、突き刺す───影縫い。エドモンの宝具によって異空間から射出されたそれは、全能者の間隙を突いた。

 

「湖の乙女に代わり俺が示そう。対全能者の心得その二、『未知を押しつけろ』。貴様を刺したのは俺ではなく、我が父の技だ」

 

 全能者に既知の事柄は通じない。が、思考があり、全知ならざる存在であるが故に、未知の戦法や不意打ちは効果を発揮する。

 右脳を挫滅させ、脊髄を断ち割り、人体の中心まで切り抜いた。黒鍵による自然法則の付与まで付け加えて。

 それでもローゼンクロイツは死なないだろう。肉体を治すことなど造作もないし、ここは奴の固有結界の内側だ。一連の事象を否定することもできる。

 しかし、結界を維持する術者の脳と反射を司る脊髄を断たれたなら、彼が肉の器を借りる生命体である以上、少なからず効果はある。

 全能を行使する司令塔が壊れたということは、空間に及ぶ支配力が弱まるということ。ローゼンクロイツの肉体が再生する一瞬、灰色の庭園に霧が侵食する。

 リースの異界が姉妹の世界と融合するが故に有する特質。それは他世界との共存。他者の固有結界を下地に霧の城が現れ、止まった時間が動き出す。

 

「なんだか見せ場を奪われた感がありますが、対全能者の心得その三! 『諦めない心とやり遂げる意志』ですわ!」

「それに関してはオレたちが最強だな。ダンテ以外」

「なんてことを言うんですかペレアスさん!? ノエルさんと私以外に訂正してください!!」

「そうよ! サーヴァントとかいう人外どもと一緒にしないでくれる!? というか最後の心得は学級目標みたいになってるし!!」

 

 ここに聖堂教会とカルデアの二大ヘタレが共鳴した。ダンテはサーヴァントのくくりには入っていなかった。宝具を使う時以外はほぼほぼ、ただのおっさんなので仕方がないところではあるが。

 ローゼンクロイツに追撃を加えようとする者はいなかった。全能がある限り、殺害も封印も不可能。反撃の可能性を恐れてのことである。

 マジックテープを留め直すみたいにローゼンクロイツの体が繋がれる。彼は錆びついた挙動で起き上がり、裂けた右眼を抜き捨てた。

 

「あれは今から500年ほど前のことだったか。千里眼を用いて、南米大陸に眠る蜘蛛を覗いたことがあってな。興味本位とはいえ、馬鹿をしたと反省している」

「そうか、そのまま死ねばよかったのにな」

「マーリオゥさん、辛辣すぎませんか?」

「『結界』と『不変』があるから大丈夫だと思っていたら、アレを視界に入れた瞬間、右眼が結晶化してしまった。薔薇の魔眼はその代用だ」

 

 彼はスカートの裾に手を伸ばし、ピンポン玉ほどの宝石を取り出す。

 つるりとなめらかな表面の球体。それをそっと空いた眼孔に押し込み、馴染ませるようにまばたきをした。

 

「これは、その時に結晶化した眼球だ。今こそ見せよう! ヒトが乗り越えるべき滅びの具現を!!」

 

 ソラの彼方より堕ちたる究極種。

 その力の一端を、さらにほんの一欠片にまで縮めた宝石の眼。それを魔眼大投射の技法をもって行使する。

 けれど、至高の魔術師であるローゼンクロイツをしても、全能でしか御し得ぬ世界であった。

 その名を『水晶渓谷』。

 星を侵す法則が、ここに物質化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時として、言葉には聖性が宿る。

 だが、それはある意味当然のことだ。

 数多の獣を差し置いて、人間だけが言語を持つ。ヒトをヒトたらしめ、人と人を繋げることができる。だからこそ、人々は文字や発声に神秘を見出したのだろう。

 古代エジプトにおいて、魔術とは言葉であった。

 文章や発声、すなわち呪文を介して世界に影響を及ぼす。とりわけ有名なものは『死者の書』だ。死者の冥界行が描かれたこの書物には、死後のガイドラインとなる呪文や儀式が記されている。

 魔術。魔術の原動力となる超自然的なエネルギー。そして、この概念を擬人化した神格。それらをヘカと呼ぶ。が、現代に残る神々をはじめとした古代エジプトの言語は、全て研究者が翻訳したものだ。古代のエジプトの民がオシリスを、イシスを、ホルスを、一体どのように発声していたのかは永久に判明することはない。

 だというのなら、彼らを示す真名は本当の意味で真名たり得ない。エジプトの神々は二度と自らの名前を呼ばれぬ非業を背負っている。

 ───現代日本語の書き言葉・話し言葉でヘカと称される神。虚ろなる真名の少年神は闘争の場に在りながら、じっとりと笑みを浮かべた。

 

「…………凄まじいね、グリゴリの天使シェムハザ。魔術を使わずとも、ここまでとは」

 

 ヘカの眼下に広がるバルドルの庭園。純白の甲冑を纏う天の騎士が、神の言葉を具現化した剣を振るう。

 光の神の絶対防御を欺く白刃。殺すことはおろか、傷をつけることさえできない。しかし、天使の斬撃は確実に敵の動作と思考を止める。

 停止は一秒にも満たない一瞬。ノアトゥールは歯噛みする───その余裕すらない。

 刃が身を通り抜ける度に、脳も筋肉も止まる。つまり、反撃や回避を取ろうとする行動の一切に断絶が生じる。

 喩えるなら、自分だけがラグを背負った状態で格闘ゲームをするようなもの。ただし、そのラグは操作するキャラクターではなくプレイヤー自身に適用される。動きを見極める目も、コマンドを入力する手も阻害され、相手は常に数瞬先の未来を先取りし続けるのだ。

 

「おま え!! 無線で Wi-Fi使っ  てんじゃ ねえ!!!」

「機械の話か? すまない、俺は門外漢だ。アザゼルがいればよかったのだが」

「真面目に付き合ってんじゃねえですわ、天然ボケ天使。上のショタ神も働きやがれませ、あたくしは電子レンジのスイッチを押してくるので」

「そうだったね。じゃあ私はLANケーブルを抜き差ししてこよう」

 

 ぶちり、とノアの堪忍袋の緒が切れる。

 元より彼のそれが飴の糸より脆い事実は置くことにして。ノアは不定期に、そして間断なく訪れる停止の最中、無理やり術式を構築した。

 反物質の砲撃。だが、魔力はそれを形にする直前で散り散りに拡散してしまう。

 

「術式の完成度が甘くなったね。ようやく、干渉できた」

 

 魔術神ヘカによる魔力の完全掌握。絶対無謬の神、バルドルの魔術行使に漬け込み、術式が立ち上がる前に魔力を霧散させた。

 周囲一帯はバルドルの世界。異なるテクスチャであるが故に、魔力の根源ヘカと言えど、古代エジプトテクスチャにおける規模の権能は使えない。

 だというのに、彼はバルドルの魔術を解いた。それはなぜか。

 

「さんざ無敵チートに付き合わされてきたのですから、こちらの番ですわ。幸い、BANする運営はいないことですし」

 

 アンナ・キングスフォードが有する世界法則の展開。ノアが停止するごとに緩む世界の支配権。アンナはその隙にノアの世界を押し返し、己の色に染めていた。

 故に、ヘカはバルドルの魔力に干渉することができた。三者三様、己が業の粋を駆使することで無敵の光神を機能不全に追い込む。

 ノアは拳足を用いて、シェムハザに反撃を試みる。だがしかし、どれも天使の五体に届きはしない。彼の剣の影響がなかったとしても、掠りもしないと確信させる。それほどの身のこなしだった。

 魔術の祖シェムハザが誇る、神秘の業を欠片も現していないのにも関わらず。

 そうして、ノアは確信を得た。

 ───シェムハザは、魔術を使わないのではなく使えないのだと。

 

「命拾い したなク ソボケ天使。  舐めプで魔術 を出し惜し  んでやがっ  たとしたら、 世にも珍し い羽つき死体にし てやるとこだった」

「いや、羽つき餃子じゃねえんですから」

「シェムハザに斬り刻まれながらこのレベルの悪態をつくとは。一体どれほど他人を貶めることに人生を懸ければああなるのか……」

「ん。悪意はともかく、自身の境遇に対する不満を主張するのは良いことだぞ。頑張りすぎる人の子は多いからな」

 

 こくこくと頷くシェムハザ。首から上とは裏腹に、剣技を操る体は最適解を打ち続けていた。命を危機に晒す戦場に身を置き慣れたからこその余裕。ノアはそれが決して油断ではないことを見抜いていた。

 バルドルはあらゆる罪を調停し、不変の裁きをもたらすとされる裁決神だ。本質を見抜くことにかけてはお墨付きがある。

 天を仰ぐ。澄んだ青空の真ん中を、二羽の烏が飛んでいた。ノアは軽く舌打ちをして、

 

「───だから」

 

 その時、シェムハザたちは目を疑った。

 

「俺も 出し惜しみは しない」

 

 最初からそこにあったかのように、ノアの右手に一本の槍が握られていた。

 同時に、シェムハザの頭部を覆う兜が破砕する。天使はたたらを踏み、反射的に距離を取る。

 槍。その情報だけでそれが何であるかなど容易に推し量れる。アンナは吐き捨てるように言った。

 

「オーディンの神槍───!! ついに出してきやが」

「あ? こんな槍なんざ隙を作るだけで十分だ。出し惜しみしないってのはもう終わりだ。おまえらはあくまで俺の魔術でぶちのめす」

 

 あらゆる空間と時間に偏在する神槍グングニル。ノアは大神の象徴たる武装をあっさりと投げ捨て、無属性魔術を発動する。

 豪奢な装飾を施された高座が創られる。ノアはどかりとそれに座り込んだ。ゆったりと腰を深く据え、頬杖をつき、足を組む。どれもが戦場に似つかわしくない振る舞いだった。

 その姿は不遜を極める。真っ白な髪の隙間から覗く眼差しに鋭気を込めて、彼は言う。

 

「もう動いていいぞ。さっさとかかってこい」

 

 そこで、三者は初めて気付く。

 餌を目の前にして〝よし〟と言われるまで、よだれを垂らして座り続ける犬のように。ノアの隙だらけの一挙一動を見逃せなかった。

 ヘカは僅かに口角を吊り上げる。

 ───重なる。背格好も、放つ威気も、何もかもが異なるというのに、あの男の姿が重なって見えた。

 かつての聖杯戦争を争い、敗北した魔術の祖。互いにサーヴァントの身とはいえ、魔術神をも退去させてみせた魔術師、ソロモン王。

 

「それじゃあ、お言葉に甘えて───!!」

 

 ごうん、と宙空の黄金船が内部の太陽炉を稼働させる。

 ヘカの宝具『輝天の太陽船(マンジェット)』。太陽神ラーが天空(昼間)冥界(夜間)を旅する乗騎である。このうち、日中の船をマンジェット、夜中の船をメセケテットと呼称する。魔術神ヘカはマンジェットの乗組員であり、日没とともにラーが失う力のひとつとされた。

 日中、つまり太陽が最も強く広く地球を照らす時間帯。太陽神ラーが旅する中で最大の力を示す全盛期。その象徴たる太陽船は、北極全土を消滅させる熱量をノアだけに解き放つ。

 

「眩しい」

 

 ノアは蚊を払うように、左手を振る。

 瞬間、紅炎の砲撃は空を埋め尽くすほどの光の粒と化して四散した。

 砲撃を構成する魔力の組成。ソレを魔弾として成り立たせるエネルギーの形を解く。ちょうど、ヘカが同じことをやったように。

 高座を中心に、世界に煌く亀裂が走る。

 地面のみならず、空間そのものを断裂する光。裁決神の権能が秘められた光を受ければ、まさしく断罪を受けることになる。それは四方八方、縦横無尽に紡がれ、シェムハザたちは即座に退避した。

 

「オイオイオイオイ、どうした。俺の声が聞こえなかったのか? 尻尾巻いて逃げてんじゃねえ、おまえらの役目は俺に気持ちよくぶっ飛ばされることだろうが!! 雑魚は雑魚らしく、陸でのたうち回って乾いてろ!!」

「うん、私は初めて人間にウザいという感情を抱いたかもしれない」

「おお、超自然的概念の擬人化たるきみにその感情を抱かせるとは。やはり彼には見所があるな」

「その見所クソに塗れてません?」

 

 言いつつ、アンナは眉間にしわを寄せる。

 シェムハザがノアを止め続けた傍ら、広げていた自身の世界が押し返されていく。

 ノアとアンナの戦いは自己法則が支配する世界の押し付け合いに言い換えられる。言うまでもなく、己の世界に相手を取り込むことで圧倒的な有利を実現できる。

 黄金の夜明け団三人の創設者。彼らの師であり、かの時代で唯一神域に到達したアンナ・キングスフォードをしても、ノアの領域の侵食を止められなかった。

 バルドルはラグナロクの後、再生した世界に生まれ変わり、新たな北欧の主神として統治を行う。神代が終わった世界こそが、バルドルの支配する土地なのだ。

 故に、ノアトゥール/バルドルは地球上におけるテクスチャの争奪戦では、無類の強度を発揮する。

 この地球を一枚の絵画だとして。アンナはその絵の上から画材を用いて新たな絵を上塗りしなくてはいけないのに対し、ノアは元の絵に名前をサインするだけでいい。

 ……だが、アンナ・キングスフォードの限界は誰も知らない。

 

 

 

「幻想綺譚『灰燼剣・劫火に帰す黄昏(レーヴァテイン・ムスペルヘイム)』」

 

 

 

 彼女の魔術は古今東西あらゆる物語を再現し、要素を抽出する魔法級の絶技。神秘の業が、炎の巨人スルトの魔剣を現出せしめるに至った。

 レーヴァテイン。その起源は諸説入り乱れ、剣であるとも、杖であるとも、形態すら明らかではない。

 だからこそ、都合が良い。物語には複数の解釈が付き物だ。アンナは乱立するレーヴァテインの要素をひとつにまとめ上げ、炎の剣を創り上げたのだ。

 一閃。アンナが振るいし魔剣はノアのブレイザブリクを切り裂き、焼き尽くす。

 しかし、ノアは相変わらず高座に腰を落ち着けるのみだった。

 

「褒めてやる、アンナ・キングスフォード。おまえのそれが見たかった」

 

 ぱきり、と左手から黄金の枝が伸びる。

 神殺しのヤドリギ。黄金色に輝く聖枝は先より発火し、根元を包み込む。

 

「『燎約・終焉の魔杖(ミストルティン・レーヴァテイン)』」

 

 レーヴァテインを巡る異説のひとつ。

 バルドルを屠ったミストルティンこそが、レーヴァテインであるという説がある。ノアはアンナの魔術を目視することで解析し、自分の魔術に取り込んだ。

 魔杖を地面に突き立てる。

 魔剣が空間を斬りつける。

 テクスチャを焼く火焔が衝突し、捻じれ狂いながら周辺に撒き散らされる。

 ヘカとシェムハザは炎の間隙を縫うように駆けた───その機先を、裁光の亀裂が制す。

 裂け目は彼らを追尾する。あたかも相手の行く先が見えているかのように、行動のことごとくを阻んでいた。

 ヘカはむすりと唇をとがらせる。

 

「……動きを読んだ?」

「いや、違う。この感覚は動きというよりも……」

「未来ですわね。これみよがしにケツを擦りつけてやがるあの椅子、」

「『神王聖座(フリズスキャルヴ)』。おまえの察しの通りだ。理解したか? じゃあ大人しく絶望しろボケナス」

「テメェその口振りで主人公名乗って許されるんですの!?」

 

 世界の全てを見通すことができると言われるオーディンの玉座。ノアは玉座の機能を借りることで、アンナの術式の模倣と未来予測を行った。

 世界の全てを見通す───もはや、ノアの観測は無数に枝分かれする未来にまで及んでいる。

 レーヴァテインの炎と、裁きの権能を込めた光。ノアはその二つの武器だけで、アンナたちの行動を封殺していた。

 さらに、拡張を続けるブレイザブリクの外縁で異常を察知する。未知の粘液生命体。ソレの爆発的増殖を視界に捉え、通信機の電源を入れる。

 

「───そのまま走れ」

 

 虚数空間のシャドウ・ボーダーを手助けする一手を打つ。

 シェムハザたちは聞かされた。戦闘の合間にも関わらず、彼女と通話する男の声を。

 無論、炎と光の追撃は止まらない。短い会話を終えて、ノアは悠然と足を組み直した。

 

「アンナ・キングスフォード。おまえはひとつ間違えてる。この世には脇役なんていない。みんながヒーローで主人公なんだよ……!!」

「え、その話続いてたんだ」

「しかも薄っぺらさがパネェですわ。主人公らしさを稼ごうとして失敗してやがりますわ」

「なぜけなすんだ? 彼はとても良いことを言っているぞ?」

「そうだ、天然天使。その上で言ってやる。今までの俺の魔術はメラゾーマではなくメラだったってことをな!!」

「結局大魔王じゃねえですか、このアホ白髪!!!」

 

 用意は既に完成している。

 ノアがアンナの世界を押し退けてもなお、ブレイザブリクの拡張を続行した理由。それは万が一にも、敵を逃がさぬためのものだった。

 無属性魔術の架空粒子を散布する必要はない。世界法則は既に掌握している。

 

「おまえらにはまだ聞きたいことがある。殺すつもりでやるが、死んだら殺すからな」

「「「どっちだ───!!?」」」

 

 ノアは左手の指を三本立てる。俗に言うスリーカウント。あろうことか、彼はアンナたちに防御・回避の猶予を与えた。

 ブレイザブリクを広げた目的と相反する行為。それは支配者たるノアをしても、次の一撃を制御しきれないことを意味している。

 

「三」

 

 薬指が畳まれる。

 魔力の予兆はない。

 次の手が予測できない。

 ……分からない。それが最も恐ろしいということを、彼らは知っていた。

 

「二」

「───位階遷移『深淵(アビス)』!!」

 

 最初に動いたのはアンナだった。

 魂の位階を変動させる魔術。神域の業を行使できる最高位を捨て、霊魂と肉体を隠された次元へと移行させる。

 ただ頂点を目指すのみがセフィロトの業ではない。アンナ・キングスフォードの知識の深奥が、この世界から退避することを囁いたのだ。

 

「一」

 

 それはヘカとシェムハザも同様だった。

 前者は地球上のマナに存在を溶融させ、後者は天界の法則を纏うことで護りを固める。

 彼らの足掻きを見届け、ノアは拳を握り込む。

 

 

 

 

 

「────零」

 

 

 

 

 

 そして、世界が無に還った。

 物質はエネルギーが低い状態で安定する。その物質が最も低いエネルギーになる場合を『真空状態』と呼び、宇宙のほとんどはこの状態で安定しているとされる。

 だがしかし、現在安定している状態よりもエネルギーが低い状態があるとしたら。さらに、何らかのきっかけでその偽りの真空状態が解けてしまったら。

 それはガソリンで満たしたプールに、火のついたライターを投げ込むようなものだ。

 もしもこの現象が素粒子に質量を与えるヒッグス場に起きたのならば、膨大なエネルギーの放出反応が連鎖し、光の速度で宇宙に拡散するだろう。

 これは宇宙に待ち受けているかもしれない結末の一種。

 その名を、()()()()

 偽りの真空が解け、真の真空に移行する現象。ノアはブレイザブリクを掌握する支配権を操り、局所的な真空崩壊を実現した。

 結果的に、アンナたちが取った行動は正解だったと言える。

 アンナは別次元に逃亡し、ヘカはブレイザブリクの外に存在を広げ、シェムハザは別世界の法則で自身を囲った。

 けれど、真空崩壊は影響範囲の物理法則さえ書き換えてしまう。連鎖反応はどこまでも及ぶ。

 再生を始めた世界に、光り輝く影がひとつ。バルドルのみが、無傷なまま灼けた地平に立っていた。

 王に傅く騎士の如く、アンナたちは地面に膝をついている。各々が講じた手段をもってしても、真空崩壊を防ぎ切ることはできなかったのだ。

 

「……シェムハザ。おまえ」

 

 ノアは見た。天使シェムハザの一糸纏わぬ上半身。見事に鍛えられた肉体に大小様々な傷跡が痛々しいほどに刻まれている。

 だが、目を見張るべきは傷ではない。

 全体をくまなく覆う、漆黒の紋様。刺青のようにも見える模様はぐねぐねと絶えず変動し、より禍々しい形に変貌していく。

 ばしゃりと血が落ちる。シェムハザは剣を杖に立ち上がった。

 

「……すまない。見苦しいものを見せてしまった。これは君たちの世界には関係のないものだ」

「おまえだけの言葉で喋ってんじゃねえ。その刺青が出してやがる殺気には覚えがあんだよ」

「そうか。この世界にも、人類悪は生まれていたのだと聞いた。きみの勘は正しい。これは七体の獣が象る罪を封印したものだ」

「ハッ、ご苦労なことだ。おまえが魔術らしい魔術を使わなかったのは、大方そいつを抑え込んでるからだろ。だったら仕方ない」

 

 ノアが感じ取ったのは人類悪の獣たちが放つ、独特の雰囲気だった。シェムハザはゲーティアやティアマトに類する獣を、我が身を檻として閉じ込めているのだ。

 しかも、それを七体。天使の魔術のリソースはほとんどが封印に費やされ、これまで披露した業はほんの片手間以下のものだったことになる。

 ノアは気味が悪いほどに爽やかな笑顔を浮かべながら、シェムハザに歩み寄った。

 

「───なんて言うと思ったかァァ!!」

 

 渾身の手刀が天使の頭頂を打ち据える。

 天使の光輪にびしりと傷が入り、シェムハザは苦悶の声を漏らして地面を転げ回った。

 

「────ッ…………んぐッ!!?」

「いいか、俺は弱らせたやつをボコすのが好きだ。戦いってのはそいつの強みをへし折って屈服させることだ。そうなった人間の卑屈な表情はモナリザに匹敵する名画だと言っていい」

「マジでクズですわコイツ!!」

「だが、最初っから縛りプレイしてきてるやつを叩きのめすことに興味はない。なぜなら〝縛ってるから負けるのも当然〟なんて言い訳が生まれるからな。それじゃ意味がねえ。俺が見たいのは、全身全霊を叩き潰されて絶望するところなんだよ!!!」

 

 ノアは光輪を掴んで、天使の頭をがしがしと揺らす。アンナは天使の輪っかと頭部が連動していることを初めて知ったのだった。

 絶賛脳震盪中のシェムハザ。ノアはブレイクダンスを踊る天使の脳みそに、冷たい声を浴びせかける。

 

「今からその封印とやらを解くぞ。おまえのフルスペックを超えて、真の調教を教え込んでやる」

「おいテメェアホですの!? シェムハザの封印を解いたら、今ここに別世界の人類悪七体が出てくるっつうことですのよ!!?」

「うるせえ。俺はおまえにも不満があんだよ、キングスフォード。おまえが俺を殺す気なら、そんな体たらくにはならなかったはずだ。……ん? ってことはじゃあ、ビーストを出してやれば全員死ぬ気でやるしかなくなるか。よし好都合だ、覚悟しろシェムハザ」

「脳みそブルーチーズで出来ていらっしゃんのかこのドアホ!!?!?」

 

 アンナは真空崩壊で受けた傷も忘れて叫んだ。

 このアホ白髪は本気だ。全力のシェムハザを潰した快感を得たいがために、人類悪を解放しようとしている。天上天下唯我独尊とはよく言うが、発言者が釈迦かヤンキーかで意味が変わってくるように、ノアの場合は名状しがたい邪悪な旋律を伴う。

 アンナたちからすれば、目の前のアホは人類悪を超えた人類悪にしか見えなかった。

 ただ、ここに立香やペレアス、ダンテがいれば、彼らは違った見方をしただろう。なにしろ、ノアの相手をしたのはそれぞれが極上の神秘を擁する先達。加えて、ひとりはソロモン王と同じ称号を持つ天使だ。

 何のしがらみもない状態で、魔術を競いたい。邪悪なベールの下に隠された本心は、つまるところそんなものだった。

 魔術神ヘカは何事もなかったかのように身を起こす。元より一番ダメージが少ないのは彼だった。ヘカは魔力の根源故に、地球上のマナ全てに存在を溶け込ませることができる。正攻法で打倒するなら、それこそ地球のマナ全てに影響を与える必要がある。

 ヘカは苦笑して、

 

「君のやりたいことは分かった。けれどね、シェムハザの封印を解くのは簡単なことじゃない。魔術の祖が、常に全力を注いで組んでいる術式だ。錠前の強度も鍵を解く難度も想像を絶する。魔術神で魔力の根源な私のお墨付きだ」

「知るか。おまえの難題が俺にとってもそうとは限らない。分かったら、」

「それに、どうやらここまでのようだ」

 

 その時、空からひとつの影が墜落する。

 脳天から地面に激突し、犬神家のあのシーンみたいな格好で土に埋もれる。首から下───この場合は首から上だが───は見覚えのある女装をしていた。

 アンナが首を引き抜くと、案の定ヘリオガバルスの顔面が現れる。両眼が完全に裏返り、口は半開きになっていた。

 

「…………何やってんですの、オスブタライダー」

「へ、へへへ……できる限りカッコつけてみたんだけどよ、ケツシバかれまくってトんじまった……足止めもできないなんて不甲斐ないぜ…………」

「テメェほんとに真面目に戦ってましたの!? 単にSMプレイで限界迎えただけじゃねえですか!!」

「いや、オレは首絞めと腹パンもないと満足できな」

 

 ゴッ、とアンナの鉄拳がヘリオガバルスの頭をまたもや地面に埋めた。次いで、頭上から単調な声が浴びせられる。

 

「そう、お前たちの戦いは終わりだ。そこのアホとは違い、立香たちは見事勝利して加勢に向かっている。そして、ここには私が来た」

 

 知恵の女神ソフィア。彼女は惜しげもなく肢体を晒し、ふわりと着地する。その右手には、ヘリオガバルスの尻を嬲ったであろう鞭が握られていた。

 ガラス越しの風景を眺めるみたいに、切れ長の視線が天使たちを貫く。

 

「不本意だが共闘してやるよ、ノアトゥール。お前のためでなく、立香の世界を護るた」

「服着て出直せ」

「痴女はすっ込んでてくれます?」

「アダムとイヴを思い出すな」

「知恵の女神の癖に知恵の樹の実も食べてないのかな?」

 

 取り繕わぬ言葉の数々がソフィアを突き刺す。特に最後にヘカが放った口撃は心の臓を抉った。彼女はそそくさとノアの背中に隠れて呟いた。

 

「おい、もしかして私って変態なのか……?」

「その程度の自己認識力で知恵の女神名乗ってんじゃねえ!! 一回鏡見てこい、おまえと同じ顔で体型の痴女が映ってるから!! つーか今更よく正気に戻れたな!?」

「やめろ馬鹿、私のアイデンティティを崩壊させようとするな。まだ嫁入り前だぞ、本当に露出狂みたいになっちゃうだろうが。恥ずかしさで泣けてきちゃっただろうが。この先どんな顔してアイツらを見ればいいんだ」

「だったら服を着ろォォォォ!!!」

 

 が、ソフィアはノアの訴えを無視した。コミュ障がまれに出す頑固さの良い例だった。彼女は顔を真っ赤に染めて進み出る。

 

「……ぉ、お前たちはいつもくだらん。服がどうだの、世界の陣取り合戦だの、法則の奪い合いだのとな。そういうのはもう飽きた。これからは私のように身ひとつで戦え」

 

 知恵の女神たる全知の発露。アカシックレコードからありとあらゆる術式を喚び、発現させる無類の権能が具象を成す。

 

「第43儀式場『拡散する世界(ビッグリップ)』、展開」

 

 不可視にして不可侵の領域が、島を包む。

 固有結界、異界、神域。それらがひとつの世界である以上、決して否めぬ結末。全てのものには終わりがあり、宇宙さえも例外ではない。

 如何に膨大な魔力でも意味がない。

 如何に強固な法則でも関係がない。

 あらゆるものが滅びを内包しているから、その理には従うしかない。

 ───知恵の女神ソフィアは、この島に敷かれたそれぞれの世界を無に還した。

 

「これは予言だ。お前たちは負け、ローゼンクロイツは死ぬ。その未来だけは変わらない」

 

 なぜなら、

 

「…………運命がそう決めたからな」

 

 全知の女は世界が辿る運命を見据え、諦観とともに言い放つ。

 魔術神は頷き、

 

「……だろうね。それでも期待しようか。私のマスター、メイザースに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 決戦前日のこと。

 我らが時計塔のスター、ロード・エルメロイⅡ世は、ロンドンのある人物と通話していた。

 

〝……ほう。君がマクレガー・メイザースと戦う、と。現代魔術科のロード様はどうやらお疲れのようだ。適度な休養と気分転換をおすすめする。そして速やかに精神科を受診するといい〟

 

 聞くからに馬鹿にした声音と、見るからに意地の悪い顔をした男だった。付け加えれば、加齢のせいか頭髪の不安感が増している。

 水盆を介して、遠隔地の人間と会話を可能にする魔術。一回の通話料は一ヶ月間月光に当て、聖別した南アルプスの天然水である。その男は現代人の癖に機械に疎く、携帯電話もろくに使えなかった。

 

〝なに? 本気だと? 参ったな、これは重症だ。精神科ではなく脳外科に行くべきだったか。頭に何かしら重大な疾患があるかもしれん〟

 

 いい加減にしろ、とiPadほどに広がった男の額に向けて叫ぶ。反射光で目が眩みかけたことは悟られなかった。それで、ようやく彼は真面目に口を開く。

 

〝では、まずは魔術で出し抜こうという考えは捨てろ。それでも勝てはしないが。……故に勝利も諦めろ。メイザースは全ての分野で貴様を上回っている。何度でも言うぞ、貴様は勝てない。天と地がウルトラCの跳躍をキメても、だ〟

 

 そもそも、と彼は言った。

 

〝神秘解体などと称され調子に乗っているようだが、敵の神秘の粋を見抜くのは、卓越した魔術師ならば誰もがしていることだ。多少目端が利くことは認めてやるが……だからこそ、相手の魔術が如何に完璧かを知り、敗北の確信を深めるだろう〟

 

 頭に血が昇る、なんて自惚れはなかった。この男が言っていることに間違いはない。メイザースはかの時代のロードたちが持て余した魔術師だ。彼を打倒するとは、黄金の夜明け団を超えるに他ならない。

 ───だとしたら、戦う敵を変えなくてはならない。

 

〝メイザースの魔術ではなく、メイザースという個人と戦え。幸いあの男はロクデナシのヒモで死ぬまで幼稚だった人間だ。他人の聖遺物を盗むような人間性の男とは良い勝負になるだろう〟

 

 ぐうの音も出なかった。魔力運用云々の妄想を書き連ねた駄文よりも致命的な過去を突きつけられ、エルメロイⅡ世は撃沈した。

 男は───ケイネスは、水鏡越しに笑う。

 

〝私が思うに、君の最大の強みはあらゆる魔術の本質を見抜き、改善点をも提示する分析力ではない。然るに──────〟

 

 ……固有結界『黄金の夜明け』内部。

 マクレガー・メイザースは天使の如き存在へと昇華を果たし、高く羽ばたいた。

 

「───死力を尽くせ。私に触れるつもりがあるのなら」

 

 『生命の樹(セフィロト)』第四位階次元共鳴覚醒『慈悲の青(ザドキエル)』。

 一目見て理解する。

 文字通り、次元が違う。生物としての格が違う。蟻が象に挑む、という使い古された表現がこれ以上なく的確に当てはまってしまう。

 植物の根を編んだような杖。真白の外套。蒼き光輪が輝き、六枚の翼が凛然と羽を伸ばす。

 メイザースはゆらりと杖の先を眼下の魔術師たちに向け、

 

「「「─────!!!」」」

 

 魔力の起こりを察知するよりも速く、ライネスとグレイ、スヴィンは己が業を振るった。

 水銀の刃、聖槍の刺突、人狼の一撃。

 全身の技術、全霊の魔力を込めた攻撃がメイザースを襲う。防がれることは織り込み済み。狙いは彼のリソースを防御に割かせ、先手を封じることにあった。

 なれど、黄金の魔術師は一切の術式を用いず。ただ、左手の指を弾く。

 指を弾く───単に音を鳴らす行為だが、密教や陰陽術においては『弾指』と呼ばれ、魔を祓う効果があるとされた。術式を発動せずとも、魔術的記号を表現することで、神秘の業は現れる。

 それは喩えるなら『圧』。物理的で霊的な圧力。衝撃波が魔力を吹き飛ばし、肉体の動作をも制限した。

 

「古来、魔術は生活に根差したものだった。例えば古代ギリシャ。冥界の神に請願し、他者を呪う鉛板が各地で出土している。民間でも呪術が流行していた証だ。分かるか? 魔術が何かを生み出すだけではなく、私たちが魔術を生み出すんだ」

「黄金の夜明け団創設者にしては家庭的だな。では、自然に篭り、一日一万回の正拳突きをするような修業は無意味とでも?」

「それは儀式と言うべきだ、ライネスくん。生活から外れた特殊な行動はすべて儀式に成り得る。感謝の正拳突き然り、ゴリラを見たり嗅いだりする修業然り、並外れた行いは特別な意味を持つものだ」

「丁寧なご高説に感謝しよう。ただ一点指摘するなら、ゴリラではなく鎖だ───!!」

 

 礼装『月霊髄液』が駆動する。

 流動する触腕刃が大きく振り回され、銀の斬撃を飛ばす。

 悪手。メイザースの脳裏に過ぎったのはその二文字だった。この程度の攻撃は詠唱の必要もなく防げる。加えて、礼装を構成する水銀を飛ばしてしまえば、当然その分の体積が減少してしまう。

 指を弾き、超常の圧力にて無効化する。

 それよりも速く、銀の流刃がメイザースの五体に命中した。

 

(速い───否、速度というよりもこれは)

 

 本来あるべき距離を縮められた。違和感が形を成したその時、ぎぢりと水銀に胴体を締めつけられる。

 しかし、刹那ののちに水銀が跡形もなく弾ける。特異な動作を取らずとも、今やメイザースの全身は天使という魔術的記号で築かれている。圧力の発散だけで、水銀の拘束は無為に帰した。

 ───そう、水銀の拘束だけは。

 水銀の層を取り払った下には、蠢く漆黒の泥があった。

 メイザースは顔面を歪めて、

 

「創世の土! ネロ・カオスの特質を再現してみせたのか!!」

 

 呼応するように、ライネスは獰猛かつ酷薄な笑みを形作る。

 

「その通り! 私の伯父は憎たらしいことに天才でね! フランスの聖樹争奪戦で魔術回路は失ったが、ただでは転ばなかったというわけだ!! ちなみにただ転んだのがそこの愚兄だ!!!」

「黙れ、頼むから黙れ」

「気を落とすな少年。あの頃の君はプライドが複雑骨折していた。それがこうして完治したのだから大したものだぞ」

「メイザース!! 生涯無職のヒモだったお前に言われてたまるか!!」

「黄金の夜明け団のWiki見ると、メイザースさんだけ職業魔術師で笑えてくるんですよね。アレイスター・クロウリーでさえ他に登山家と詩人って書いてあるのに!」

 

 フラット・エスカルドスは地面に何やら絵を描きながら、朗らかに言った。

 これを受けて、メイザースの額に青筋が浮かぶ。

 

「聞き捨てならんな。私の座右の銘は〝働いたら負け〟だ! 俗世の職業を持つなど、魔術師としての純性が穢れる!! 何より私がパクリ野郎のアレイスターより下なはずがない!!」

「魔術師の純性以前に、人としてどう見られるかを考えた方がいいと僕は思います!!」

「スヴィンさんの言う通りです! 仕事と修業の両立に努力する仲間を尻目に、無職ライフを謳歌していた事実を認めてください!!」

 

 グレイとスヴィンは既に攻撃態勢を整えていた。鋭い槍撃が脇腹を打ち、魔狼の尾がメイザースを地に叩き落とす。

 エルメロイ家前当主、ケイネスはネロ・カオスとの戦闘で魔術師の機能を失った。代わりに、かの死徒の能力を解析し、混沌の生命因子を再現した。

 創世の土。英雄王も問答無用で拘束せしめた絶技。曰くその縛りを脱するには、大陸を破壊する域の力を必要とする。

 真作に比べれば数段落ちる性能であっても、その効果は絶大。メイザースは地に落ちてなお、身動ぎひとつすることができなかった。

 だが、グレイとスヴィンは心胆を冷やす。槍を掴む手に伝わる振動、叩いた尾の感触に。

 

((───手応えが、薄すぎる!!))

 

 さながら、新聞紙の束で空中の風船を叩いたかのような手触り。会心の手応えが雪の粒の如く溶けていく。

 事実、命中した瞬間もメイザースは眉をしかめるばかりで、目に見える傷はなかった。Ⅱ世は二人の困惑を言葉もなく察し、声をあげる。

 

「生命の樹における位階は上に行くほど物質的な側面が失われていく! 今のメイザースは第四位階、霊的領域である創造界の住人だ! 基本的に物理攻撃は通用しない!!」

「師匠、その割にちょっと苦しそうな顔でしたが!?」

「それは君たちの魔力のせいだ。私は物質的存在から半歩外れたが、流石に魔力は効いてしまう。アレが騎士王が振るう聖槍だったら、私は二等分されていただろう」

「それは残念、あなたをやるのは怖い怖い狼です!!」

 

 もはや物理攻撃はメイザースに魔力を叩きつける手段に成り下がった。肝要なのは手数と威力ではなく、魔力の出力と量だ。

 薔薇十字団に相対する者たちは例外なく、理想化の術式を受けている。スヴィンはかつて冠位の人形師が従えた金狼の如き速度をもって、黄金の魔術師に接近した。

 魔術回路をフル稼働させ、今の自分が生み出せる最高最大の魔力を両腕に込める。

 サーヴァントの攻撃にも匹敵する爪撃。メイザースの五体が勢い良く転がり、

 

「……あれ?」

 

 肉体のパーツそれぞれが、何枚ものカードになって宙を舞った。

 マジックショーの舞台に迷い込んだかと錯覚する光景。ただしカードの図柄はトランプのものではなく、崩壊する塔や玉座に坐す王者などが描かれている。

 

「スヴィンくん」

「は───んぐぁぁぁぁっ!!!」

 

 背後の声に反射的に振り向き、スヴィンの額にデコピンが見舞われる。その威力たるや、重量までもが人狼のそれと化した彼をきりもみ回転でぶっ飛ばすほどだった。

 ぷすぷすと煙をあげる中指。メイザースは左手を振って、煙を払う。

 

「創世の土……力技で抜けるのは骨だったのでな、少し裏技を使わせてもらった。ワザ○プには載っていないから検索する必要はないぞ」

 

 いつの間にか、彼はスヴィンの背後にいた。

 瞬間移動や隠密ではない。なぜなら、エルメロイⅡ世たちは見ていた。スヴィンのもとまで悠々と歩き、声を掛ける彼の姿を。

 けれど、彼らは気付けなかった。

 森林の風景を写した写真を見せられて、木が生えていることに何の疑問も抱かないように、スヴィンがメイザースを切り裂き、その後ろからメイザースが忍び寄っていたことを、当たり前に受け容れていたのだ。

 Ⅱ世は懐中の大根……バアルを五指で締め上げ、問いかける。

 

「答えろ、メイザースは二人いたか。無駄に多い目玉の使いどころだったはずだ」

「ふっ。物も数えられんのか、節穴め!! あの狼小僧が引き裂いたのと、狼小僧にデコピンをくらわせたので合計ふた…………どういうことだ!!?!?」

「やっぱり目玉なんて二個で充分なんですね。バアルさんの目って家具の下に物落とした時くらいしか役に立たないんじゃ?」

「なに、タロットカードの初歩的な使用法だ。やり方さえ覚えれば君たちにもきっとできる」

 

 メイザースは楽しげに語り出す。

 ───この世に存在する魔術の道具において、最も豊富な魔術的記号と魔術的意味、魔術的象徴を含むのはタロットカードである。

 現代ではもっぱら占いに使用されることが多いが、タロットカードは本来カバラを源流とする道具であり、人が辿る一生の過程を表すとも、真理を解き明かす鍵ともされる。そのどれもが正しい。

 人間の一生を表現する……すなわち、それはひとりの人間を象徴化したに等しい。メイザースはタロットカードを自らの分身に仕立て上げたのだ。

 しかも、本物を凌駕するほどのリアリティとクオリティを分身に付与して。

 故に、創世の土は縛るべき対象を誤認した。

 故に、エルメロイⅡ世たちは本物を認識できなかった。

 フラットはバアルを指でつつきながら、

 

「なるほど。バアルさんがやった分身よりは余程出来がいいみたいですね。こんな大根になっちゃって」

「貴様どっちの味方だ!? 私がやられたのはあの天使が卑怯にも不意打ちをかけてきたからだ! そこらの大根と一緒にするな!!」

「身も心も大根に成り下がったか。……まあ、後はそのニヤケ面を抑えてもらえると助かったのだが」

「言ってくれるなよ、少年。私はこれでも、人に物を教えるのが大好きなんだ」

 

 メイザースはフラットを指差し、柔和な表情を浮かべる。

 

「そして、フラットくん。素晴らしいぞ。君は私の固有結界に干渉したな? ライネスくんの攻撃が当たったのは君の仕業だ」

 

 ぎくりとフラットは震えた。

 彼が地面に綴っていた絵はこの結界に働きかけ、主導権を僅かながら掠め取る術式だった。結界の空間を操ることで、創世の土を命中せしめたのだ。

 ぱらぱらとカードがはためき、ひとりでにメイザースのもとに舞い戻る。黄金の魔術師は眼前の空間に、それらが円形になるように広げた。

 

「故に、調律せねばならん。より強固に、より完璧に」

 

 瞬間、エルメロイⅡ世たちは背中を蹴飛ばされたみたいに、メイザースへと向かう。

 彼の固有結界が勢力を増す。それは致命傷になりかねない。この状況は征服王イスカンダルが、宝具をもって作り出している。

 もしも、メイザースの結界がイスカンダルの宝具を押し退けるようなことがあれば、征服王の軍勢は消え去る。その時点で敗北は確定したも同然だ。

 

「───どうやら、あちらは山場を迎えているようだ。背を向けるか? イスカンダル」

「愚問だな、ウリエルよ。我が宝具は王ただ独りのモノに非ず! 余と臣下たちが紡ぎ上げた、見果てぬ夢よ! 如何にあやつの魔術が卓越していようと、独りの幻想で塗り潰せるほどヤワではないわ!!」

「だろうな、征服王。塗り潰すなどおこがましい。必死に抵抗しているのは私の方なのだから」

 

 メイザースは頷き、タロットカードの配列を完成させる。

 ほぼ同時、黄金の魔術師は空中へ飛翔する。つい、と空気を撫ぜるように手のひらが柔らかな軌跡をなぞり、Ⅱ世たちを差した。

 

「感じるといい。肉体が魂の器に過ぎないことを」

 

 ゆるりと手のひらを前に出す。

 直後。Ⅱ世は、地面に伏せる自分の体を目撃する。

 咄嗟に辺りを見回す。自分と同じように、生徒たちが転がっている。外傷は見受けられない。まるで電池を抜かれたラジコンみたいだった。

 

「固有結界は心象風景の具現。ならば、他者の心象───その源となる霊魂にも干渉できるとは思わないか? というわけでやってみた。私の心象で君たちのアストラル体を押し、体外に離脱させる。実験は大成功だ」

 

 メイザースが引き起こしたのは強制的な幽体離脱だ。肉体を操縦する魂を押し出され、眼下に横たわる体は不随意運動を繰り返す肉の機械に成り果てている。

 エルメロイⅡ世は歯噛みした。

 理解が足りていなかった。メイザースは魂の位階を上昇させ、異なる次元の生命体となった。彼にとっては霊魂や精神は目に見えない存在ではなく、ヒトがモノに触れるように、容易に接触できるものなのだ。

 結論、自分たちは敗北した。

 メイザースにとっては魔術とすら思っていない、片手間の好奇心から出た実験で。

 

(…………い、や)

 

 肌が粟立つ感覚がした。アストラル体故にそれは錯覚でしかないが、いわゆる第六感の類は肉の器に押し込められていた時より敏感になっている。

 メイザースは肉体から霊魂を押し出した。

 だが、ひとつの体に複数の霊魂、人格を有する人間がいたとしたら。

 エルメロイⅡ世が仮説を立てるより早いか、膨大な魔力の奔流がメイザースを呑み込んだ。

 

「……君は──────」

 

 魔力を帯びた空気がばちばちと明滅する。

 メイザースに傷はない。前面に展開していたタロットカードの防壁が焼き切れ、役目を終える。黄金の魔術師は刹那、現を忘れ、ソレを見つめた。

 フラット・エスカルドス。ざわりと伸びた前髪が目元を遮り、側頭部には角のような突起が生えている。右肩から左脇腹、腰部と臀部、左の肩部と二の腕、右腕の肘が劣化した石膏像のように欠けている。

 メイザースは高揚と緊張を綯い交ぜにした顔で独りごちた。

 

「見事に墓穴を掘ったな、私は!!」

 

 エルメロイⅡ世は陰ながら同意する。

 フラットの裡に潜んでいた存在。

 エスカルドス家1800年の悲願。

 ソレは冷たい声音で言った。

 

「───罪深い。罪深いよ、マクレガー・メイザース。その目には見えていたはずだ、彼の中にいた『僕』が。……僕を、起こすべきではなかった」

「私は君の幽体も押し出すつもりだった。君には抵抗されたがな。罪深いという言葉は、私の技量に宛てるべきだ」

「自惚れと蔑んでくれていい。僕は身勝手に、自分勝手に、罰を与える。その短絡さが治るまで」

「是非頼みたい。私の妻も喜ぶだろう。自分の至らなさは自覚しているが、そのせいで彼女には随分と迷惑をかけてしまった」

 

 殺気が膨れ上がる。

 両者の周囲では空間そのものが逆巻き、互いの制空圏を奪わんとせめぎ合う。それすらも、彼らにとっては嵐の前の静けさにすぎなかった。

 

「名前を聞かせてほしい。安心してくれ、真名を介した呪詛なんて狡い手は使わない」

「ティア。僕にはその名前だけで十分だ」

 

 ───流星雨と見紛うまでの光が散乱する。

 空間が捻じれ、折り畳まれ、そして開く。砲撃の嵐をメイザースはタロットカードの術式で遮断し、固有結界そのものでティアの肉体を圧迫する。それをティアは結界に干渉する術式で対処───目まぐるしく入れ替わる超常の攻防。その舞踏は加速度的に激しさを増していく。

 エルメロイⅡ世は呆然とそれを見つめていた。

 

「───は、はははははッ!!!」

 

 何人も立ち入ることのできぬ戦場。一手仕損じればすぐさま敗北が決定する難局にあって、メイザースはあどけない無邪気な哄笑を響かせる。

 

(ああ……くそ)

 

 分かっている。分かっている。分かっている。

 身の丈に合わない望みだ。

 何度も切り捨てようとした願いだ。

 それなのに、それだから、諦めきれなくて、憤りが抑えられない。

 ───メイザースと魔術を競い、あの笑顔を向けられるのは、自分でありたかった。

 認めがたいことだけれど、エルメロイⅡ世は、ウェイバー・ベルベットは、とっくの昔に魅せられてしまっていた。

 彼が伴侶の名前、モイナと名乗っていたあの頃から既に。

 フランスの片田舎で繰り広げられた、魔術師と英霊と死徒の戦争。あの鮮烈な数日間をともに駆け抜け、いつでも飄々と危機を切り抜けた彼の姿。

 彼に託されたノートを読み込むうちに、いつしかモイナの正体に辿り着いて。

 かつての少年は征服王の勇姿に憧れ、魔術師の業に焦がれた。

 だって、そうだろう。

 ウェイバー・ベルベットは僅か三代の家系の生まれで、才覚も乏しく、魔術刻印だって中身のない箱と評される程度の魔術師だ。それだから、才能の無さを否定しようとして論文という名の駄文を書き綴り、素養も歴史もある他者を扱き下ろした。

 だのに、マクレガー・メイザースという男の出発点は、ともすればウェイバーよりも恵まれなかった。魔術の家系に生まれず、魔術刻印もなく、魔道に踏み入ったのは二十代の半ばほど。そんな男が、表の世界にも影響を残す功績を複数成し遂げた。

 だから、身の程知らずの幻想を抱いてしまったのだ。

 

 

 

 

(ボクは、オマエになりたかった)

 

 

 

 

 

 双つの星が絡み合いながら空を征く。

 ティアは不利を自覚し、戦場を変えた。

 その特能は大別して三つ。

 魔力の流れを捉える視覚。

 支配下にある物質、概念の加減速。

 あらゆる術式を搭載する魔力加速砲。

 さらに、彼は完全な計測・計算能力を持ち合わせ、他者の魔術にすら手を加えることができる。

 単騎で地球環境を急変させうる力を備える敵を相手にして、なおメイザースは揺らがない。

 ティアの弱点は肉体の強度。フラットという人間の器を利用している以上、物質としての頑丈さは人間の範疇に留まる。つまり、仮に当てられたなら、銃撃一発で死に至ることも不思議ではない。

 そのため、彼は常に魔力障壁で自身を囲っている。万が一にも攻撃をくらい、フラットを殺してしまわぬために。

 

「「─────うおおっ!?」」

 

 故に、ティアは退いた。

 メイザースが結界内で常時発動していた『世界による圧迫』の影響下から逃れるために、征服王の固有結界へと。

 遅れて鼓膜を揺らした二つの声。それはイスカンダルとウリエルのものだった。ティアは鎬を削る両者の間を抜けた。危険は理解しながらも、それがティアの弾き出した計測の結果が故だ。

 その時、ティアとメイザースの魔術戦は激烈なる戦火に彩られることとなる。

 征服王の軍勢がメイザースへ攻撃を差し向け。

 四大天使たちがティアを止めるべく権能を行使する。

 混迷極まる乱戦。その最中でも、メイザースの笑顔が陰ることはなかった。

 

「ティア! 君の存在は今を生きる人類への離縁状であり挑戦状だ! 私には分かるぞ、君こそがヒトを超えた新たなる霊長のカタチ!! この世の誰もが辿り着けなかった、輝かしくも諦めに満ちた未来だ!!」

 

 …………否、おそらくは、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドも。

 新たなる世界を統べる光の神。

 新たなる時代を生きる新人類。

 マクレガー・メイザースは確信した。

 旧時代の旧人類として乗り越えるべき壁は、この二人だ。

 次の世界。次の時代。次の霊長。

 現行人類は示さなくてはならない。

 まだ自分たちは、お前たちにバトンを渡すまで窮してはいないと。

 

「だが、次など無い!! この戦いで原生生命体の運命は決まる!! ティア、ノアトゥール───君たちが我らの道を阻むか、私たちが全人類を根源へ到達させるかだ!!!」

 

 無論、先にゴールテープを切るのは人類だ。人類でなくてはならない。ヒトの可能性はまだ落ちぶれてはいない。

 

「私は、これを試練と受け止めたぞ!!」

 

 決意を表明した時、

 

「なにを勝手に盛り上がってるんですかこの人は!? 夜な夜なセンシティブな創作をして悶えてるどこぞの魔女みたいです!!」

「ああそう、死にたいのね。なすびごと燃えカスにしてあげるわ!!!」

 

 メイザースの上空から、盾と炎が打ちつけられる。

 

「というか─────」

 

 自動防御が働き、タロットカードの障壁が両者の一撃を塞き止める。突然の乱入者の登場に、思考が一瞬固まった。

 

「───私のノアに、変な役目を押しつけないでください!!!」

 

 少女は電子の魔術を込めた杖を振り下ろす。

 魔術から半歩外れた魔術。

 神秘と混ざりあった科学。

 それ故、カードの防御は乱れ、メイザースの思考の硬直を突いた。

 

「うごぉッッ!!?」

 

 頭蓋骨をカチ割られたみたいな衝撃。眩む視界の端で、一足先に落下する三人娘を捉える。

 

「マシュ、ジャンヌ、着地任せた!」

「はい! マシュ・キリエライトがその大役を承りました! 姿勢と安定性を鑑みて、やむなくおしりを鷲掴みさせていただきますが構いませんね!?」

「言いつつもう掴んでるでしょうが!! 手ぇ放しなさいボケなすび! 私がやるわ!!」

「いだだだだだだ!! 割れる割れる!!!」

 

 ズン、と複雑怪奇に絡み合った姿勢のまま、三人娘は着地する。多大な衝撃が臀部を突き上げ、立香は荒ぶるファービー人形みたいに転げまわった。

 その光景を見て、メイザースは困惑する。

 

「ど、どうやって私の固有結界に入った!?」

「マスターが瀕死なのでわたしが答えましょう。ソフィアさんが変態皇帝を喘がせてるついでに、ここに放り込まれました」

「しかも途中で面倒になったのか、せっかくつけた帽子とローブも脱いでたわね」

「なるほど、わからん!!」

 

 メイザースは理解を投げ捨て、立香たちに意識を傾けた。

 その揺らぎを、魔砲が穿つ。

 魔力を極限まで収束させ、弾速を高めた一撃。魔弾がメイザースの頬を掠め、じわりと血を滲ませる。

 

(くそ、反応が遅れた! コードキャストの阻害効果がここまでとは!)

 

 魔砲に込められた術式が作用する。魔術回路の励起が抑制され、メイザースは全身の血液が水銀に置き換えられたかのような体の重さに苛まれた。

 魔術の行使に問題はない。魔術回路に頼らず、魔力を生産・運用する術は心得ている。

 だが、魔術回路とは神経に等しい。それが抑制されたとなれば、身体操作にこの上ない障害をもたらす。

 立香は腰が直角に折れ曲がった高齢者みたいに杖をついて、メイザースに啖呵を切る。

 

「さあ、第二ラウンド開始です! 無職は無職らしく、大人しく職に就いてください!!」

「いいのかね? 私にその台詞を吐いてきた人間は等しく、然るのちに絶望を味わったぞ」

「かっこいい風に言ってますけど、普通に仕事辞めただけですよね!?」

「そう、仕事の唯一良い点は辞めた時の解放感だ。アレに勝る快感は他にない。…………そうだな、私はいま高揚しているよ」

 

 魔術回路が使えない。

 身体が鈍く重い。

 それがどうした。

 この程度の障害が、マクレガー・メイザースを阻めはしない。

 

「私たちが勝てば、世界は変わる。その時の快感はそれこそ、筆舌に尽くしがたいはずだ」

 

 魔術師はどこまでも笑みを崩さなかった。

 ごっこ遊びに耽る子どもみたいだ、と立香たちは思った。

 親に買ってもらった変身ベルトを腰に巻いてポーズを取った時のように。紅白の体育帽を縦に被って腕を構えた時のように。誰しもが特別な存在になりきることを疑問に思っていなかった、あの時代。メイザースはその幻想の真っ只中を生きている。

 言ってしまえば、恐ろしく幼稚な人間。

 戦闘中だというのにどこか呑気なのは───現実がどこか、自分の意のままになると思っているから。

 手の内を明かしてまで魔術の解説をしてくるのは───知識をひけらかす気持ちよさと善行の押しつけに酔い痴れているから。

 だからこそ、メイザースは本気で世界が変わると信じている。

 

「話は終わりだ。そろそろ決着をつけよう」

 

 メイザースは敵へと踊りかかった。

 もちろん、その顔に笑みを貼り付けたまま。

 ───生命の樹の位階において。

 『王冠(ケテル)』『知恵(コクマー)』『理解(ビナー)』のセフィラは最上位の世界、流出界に位置する。黄金の夜明け団における制度では、これらのセフィラに対応する位階の人間は居らず、物質界の上位世界に存在する超人『秘密の首領』のみが流出界のセフィラにいるとされていた。

 時計塔を始めとした裏の魔術世界の言葉を借りれば、『王冠』の位階は根源……その入り口だ。神代の神々は根源そのものと接続していた。要は、この位階に登り詰めれば、神々と同じ力を振るえるようになる。

 それでは、なぜ創設者であるはずのメイザースすら、最上位の位階に辿り着けなかったのか。

 その理由は二つある。

 ひとつは肉体を持っていては目指せない世界であること。

 もうひとつは、流出界とそれ以外の世界を隔てる障壁があったこと。

 『深淵』。人間を『王冠』へと───根源へと至らせまいとする、大いなる闇。これも裏の魔術世界の言葉で表現すれば、抑止力だ。それが極点を目指す人間の足を引く。

 だが、ローゼンクロイツとアンナ・キングスフォードは深淵を踏破し、霊魂を『王冠』の位階に到達させている。それも、肉体を持った状態で。第一の壁は超えられることを、既に示していたのだ。

 ヒトはまだ、進化の可能性を残している。

 けれど、私はどうしてそこに到ることができないのか。

 ローゼンクロイツの理想に手を貸し、老いなき身体を手に入れ、一日たりとも研鑽を欠いたことはない。

 思いついたことはやり尽くし、それでも、流出界にすら足を踏み入れられない現実。

 これでは、意味がない。

 人として真っ当な終わり方を捨ててまで進んだ、意味が。

 

 

 

〝ま、あなたには無理だろうから。先にあっちで、慰める準備して待っててあげる〟

 

 

 

 ───彼女より、長く生きた意味がない。

 黄金の夜明け団が分裂した時から決めていた。

 私は彼女より先に死のう、と。

 置いていかれる苦痛を想像しただけで心臓がおかしな拍子を打つ。

 彼女を置いて死ぬ。それが道理だったはずだ。しかし、ローゼンクロイツの誘いを受けてそれは歪んだ。理想という名の麻酔で苦痛を和らげていただけだ。

 ついに訪れたその日。妻の葬儀の日、二度と見るはずのない男の顔を見た。

 

 

 

〝ローゼンクロイツ。アンナ・キングスフォード。よくわからんメイド。……そして、我が人生最大最悪の仇敵。揃いも揃ったり、という面子だな? ん? 喜べ。シケたツラの貴様らに、とびきりの慶事を持ってきてやった〟

 

 

 

 アレイスター・クロウリー。ヤツは突如として教会に現れ、言い放った。

 

〝───モイナ・メイザースの合同葬だ!!! 全員死ぬまで念入りにブチ殺す!! 特にメイザース、貴様の肉は豚の餌に、骨は肥溜めにバラまいてやるぞォォォォォッッ!!!!!〟

 

 ヤツは、この世の終わりみたいな男だった。

 世界の何もかもが自分の思い通りになると、本気で思い込んでいた。だから圧倒的な戦力差があっても、真っ向から戦いを挑んできた。

 そして案の定、ヤツは数分後にボロ雑巾と化した。当たり前だ。現実はあいつのためにできていないし、あいつ如きにやられるほど落ちぶれてはいない。

 

〝無様だな、アレイスター。誰がお前に魔術を教えたと思っている。お前が編み出した神秘は全て私の後追いだ。勝てるわけがないだろう、贋作者め〟

〝メイ、ザァァァス……!! 私を、俺を見下すなよ! 貴様は黄金の理想を捨てた! ローゼンクロイツ如きの手を借りた貴様なぞに、新時代が創れるものか!!!〟

 

 何よりも、気に入らないのは。

 

〝───エイワス!! コロンゾン!! 善と悪、セフィロトとクリフォトを合一し、超越し、俺は新たな時代を創世する!!!〟

 

 ヤツが、私の目の前で、『深淵』を踏破してみせたこと。

 セフィロトとクリフォト。善悪の象徴たる二つの樹の位階を同時に駆け上り、己が裡の天使と悪魔を従えた天魔と化し、新しい魔術基盤を創造した。

 

〝『戴冠せしホルスの時代(アクエリアンエイジ)』!!!〟

 

 この時に発揮したあいつの力は、呆れるくらいにデタラメだった。

 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()────この世界の魔術の根底を否定する力だった。

 その結果、私たちは撤退を強いられた。もはや一歩も動けない男を前に、とどめも刺せず、踵を返して逃げ去ったのだ。

 

〝逃げてんじゃねえ、クソどもがァァァ!! おまえらは俺に殺られてから逝く運命だろうが!! だいたい、手足がへし折られているのに、どうやって帰ればいいんだァァァァァ!!!!〟

 

 なぜだ。

 なぜあいつにできて、私にできない。

 あんな、薬物依存症で、黙示録の獣を自称する中二病で、バツ2の不倫野郎で、性魔術という名目で遊びまくる性依存症で、アホでクズでバカなクソの塊に、なぜ私が劣るのか。

 ───もしも、この試練を乗り越えて、全人類が根源に行き着いたなら、私もあいつの位地に追いつけるのか?

 

 

 

「『空洞異譚/忘却は祝祭に至れり(ア・クロックワーク・アバドーン)』」

 

 

 

 新たな霊長が、魔砲を撃つ。

 その直前、メイザースの固有結界が風のように消失した。

 

「む?」

 

 彼には知る由もない。

 自身の固有結界が、この島に展開された全ての異界が、知恵の女神ソフィアに消されたことなど。

 辺りが森林の原風景に戻る。結界の消失を認識した時にはもう遅かった。至高の魔弾がカードの多重防壁を撃ち抜き、メイザースの鳩尾に突き刺さる。

 目にも留まらぬ速度で、魔術師は一直線に吹き飛ばされた。

 いくつもの木をへし折り、およそ500mを過ぎたところで、ようやく地面に墜落する。

 

「ご、ぶっ……!!」

 

 滝のような血が喉の奥から溢れ出す。

 ぐるぐると回る視界。彼は闇に包まれた森の奥から、魔砲の光が閃くのを目撃した。

 動きは止めた。魔弾に込めた術式は通用している。故に反撃はない。が、わざわざ距離を詰める愚は犯さない。あくまで長距離から仕留める。

 ティアの判断は正しかった。魔術回路はとうに封じ、二撃目の魔弾でマナを操作する魔術も使用不可能に陥らせた。万が一の反撃も警戒し、遠距離の砲撃を王手とする───そこに間違いはない。

 唯一、読めていなかったのはメイザースの底だ。

 タロットカードの束に血を吹きかけ、握り潰す。

 

「───ぐっ……!?」

 

 それだけで、ティアは血を吐いて倒れた。

 類感呪術。体内に滞留していたオドを利用した術式。メイザースはタロットカードをティアに見立て、自身の血を染み込ませることで、自身の負傷をティアにも共有させたのだ。

 ティアの肉体強度はフラットのそれと変わらない。霊体を押し出していた結界も解けたことで、肉体の主導権は元に戻る。彼らは意識を手放し、戦闘から離脱した。

 

(見たところ、私の結界が消えたのは更なる別の法則で上書きされたからだ。四大天使と征服王の召喚は結界内だからこその業だったが───彼らも残っているか?)

 

 メイザースは懐から天使ハカミア───に作り替えたゼパルを取り出し、同様の手順を行う。

 ただし、今度は負傷を共有するのではなく押しつける。怪我と術式の影響を取り払うために。

 

(Eチームの三人娘が来る。早く治─────)

「────メイザース!!」

 

 彼は言葉を失った。

 この絶好の機会に現れたのが、かつての少年だったことに。

 

(三人娘ではなく少年だと!? 他の戦闘に向かったのか、だとしたら、あまりにも愚)

「まず最初に言っておく! お前はアレイスター並みのロクデナシだ!!」

「そんなわけがないだろうが少年んんんんん!!!」

 

 あらゆる思考と肉体の治癒をかなぐり捨て、メイザースは立ち上がった。エルメロイⅡ世は凛と彼を見据え、告げる。

 

「誰にも負けない魔術師になる。あの日私は、ライダーが退去する時にそう言った。お前はどうだ。なぜ、魔道を志した」

「人の進化のためだ。そして今は、計画を叶えることにある。そうすれば、この世界も少しはより善く、」

「取り繕うな。お前はそんなに大層な人間ではないだろう。私の知る限り、お前の人生は遊んでいるようにしか見えなかった」

「魔術師の人生など、傍から見ればそんなものだろう。そういう君こそ、どうしてこの世界に入った」

 

 その問いは、考えるまでもなかった。

 

「…………初めて触れた時、楽しいと思った。魅せられた。人生を懸けるに値するものだと思った。それが、ウェイバー・ベルベットの根源だ」

「楽しさか。確かに、それほど重要なものはない。だが君なら分かるだろう! 初心で得た感情だけでは、先は立ち行かないと!!」

 

 メイザースは叩くように手をかざす。

 魔力を固めて射出しただけの弾丸。然れども、黄金の魔術師の手にかかれば雷撃の速度でそれは飛ぶ。

 躱そうとはしなかった。むしろそれを迎え入れるように、歩を進めた。

 唐竹を割るみたいな音が響き、左の肋骨が破砕する。エルメロイⅡ世は揺らぐことすらなく、また一歩を踏み出す。

 

「そうだ。初心はいつしか過去になる。時が経つごとに余計な意味がまとわりつく。目標や目的はきっと、後付けに過ぎないのかもしれない」

 

 二発目の魔弾が放たれる。

 今度はただ受けるのではなく、腕を挟み込む。弾丸と衝突した左前腕の橈骨はあえなく砕けた。

 耐えただけではなく、防いだ。そこでようやく、メイザースは思い至る。

 

「───黄金の夜明け団の術式か」

 

 『生命の樹(セフィロト)』第十位階次元共鳴覚醒『黒の王国(サンダルフォン)』。

 黄金の夜明け団に入団した新参者が、初めて得る位階。霊魂を上昇させるのではなく、自らの霊魂が物質界にあることを知覚する……ただそれだけの基礎基本。

 それ故、得られる恩恵も肉体の存在強度が上がるのみ。Ⅱ世はその耐久力と意地と根性で、魔弾を堪えたのだ。

 

「お前の研究ノートを受け取り、必死に努力した。それでも私の限界はこんなものだ。お前の結社の位階では、下から二番目に過ぎない」

「……しかし、それは紛れもなく君が手に入れた力だ」

「ああ、黄金の夜明け団という存在が世界に刻み込んだ魔術基盤は、回路に頼らない。誰もが修業を重ねれば、相応の位階に到達することができる」

「魔術師の才能とは魔術回路の多寡ではない。理論上は、どんな人間でも『王冠』に辿り着く可能性がある」

「それだ、メイザース」

 

 ウェイバーは、突きつけるように言った。

 

「お前は言ったな、魔道を志したのは人類の進化のためだと!! お前の魔術はその可能性を示した! だというのになぜ、ローゼンクロイツの理想を目指す!!」

「それは─────」

「それはお前が、諦めたからだろう!! 自分の方式を信じ切れず、他者に縋って楽をした!! そんな人間に、世界を救われても迷惑なだけなんだよ!!!」

「諦めた? 否、諦めていないからこそ、私は今ここにいる! 私はヒトを根源に至らせるため、私の魔術を創った! それが人類の幸福と信じて!!」

 

 振り払うように、魔弾が散る。痛みはない。足を止める理由にはならない。ウェイバーはひたすら愚直に突き進んだ。

 

「違う。人類の幸福をここではないどこかに求めるな。お前は、オマエだって、気付いているはずだ。この世界の人を愛し、この世界をより善くしようとしたのならば!!」

 

 ついに、メイザースの眼前に立ちはだかる。

 その呆けた顔を見下げ───────

 

 

 

「───私たちは、この世界で幸せにならなければいけないのだと!!!」

 

 

 

 ────拳を、振り抜いた。

 物理攻撃は効かない。少年の拳に籠った魔力は、頬を多少痺れさせたくらいだ。

 けれど、魂が確信した。認めてしまった。

 彼に、敗北したことを。

 

 

 

 

 

〝……私の友達が描いた絵。素敵だと思わない?〟

 

 その絵の題は『水晶を見る女性』。

 ベアトリス・オフォーという画家が遺した一枚の絵画だった。

 後にノーベル賞を受賞することになる哲学者、アンリ・ベルクソン。その妹であるミナ・ベルクソン───モイナ・メイザースをモチーフにしたその絵画は、確かに彼女の美しさを描き切っていた。

 けれど。

 

〝……彫刻然り絵画然り、芸術を楽しむにはその作品がある場所に足を運ばなければならない。写真の技術が発達すればそれもなくなるだろうが、未だ芸術は高い敷居にあると言わざるを得ない。写真で見る絵と実際に見る絵もまた違う。作品が万人の目に届く時代になったとしても、実物ではなく複製品を見て、美しさを語る人間が蔓延することになるだろう〟

〝え、なにいきなり。気持ちわる〟

〝この絵は美しい。それに異論はない。だが、価値があるとは思えない。なぜなら、普段手に届く場所にないからだ〟

〝…………もしかして、口説いてる? もう若くない、こんなシワだらけの女を?〟

 

 それ以外に何があるというのか。

 伴侶を自らの目と手が届く範囲に置いておきたいなんて、身勝手で前時代的なことでも、言わずにはいられなかった。

 

〝本当に、仕方のないひと〟

 

 ……ああ、そうだ。

 ヒトの進化も、世界の救済も、全てはそのためだった。

 好きな人が生きる世界を平和にしたい。より善いものにしたい。地球全体を、なんて大きな範囲じゃなくても、そう思ったことがある人間はきっと、少なくないはずだ。

 

〝じゃあ、私のことを手放さないでね〟

 

 彼女が死んだあの時、マクレガー・メイザースもまた死んでいたのだ。

 それなのに、生き延びてしまった。

 ここにいる私は過日の光が生み出した影なのだろう。

 ならば、影は影らしく。

 少年が示した光に照らされて、消えるべきだ────とは、思わない。

 今まで好き勝手に生きたツケを払い、責任を取る。

 私という人間はいつまで経っても未熟で幼稚だけれど、箱から出した玩具を片付けなくては怒られることは知っている。

 ───贖罪を、ここから始めよう。

 

 

 

 

 

 目の眩むような光が、林間の闇を駆逐する。

 この日、マクレガー・メイザースは『深淵』を踏破した。

 他者の理想のためでなく、自己のささやかな願いを取り戻したことで。

 『生命の樹(セフィロト)』第一位階次元共鳴覚醒『白の王冠(メタトロン)』。または『神体化・黄金の夜明(アルス・テウルギア・バシレウス)』。

 メイザースはこの戦いの終わりを見据え、少年に告げた。

 

「ここからだ。真の戦いはこれから始まる」

 

 ───クリスチャン・ローゼンクロイツ。彼の変容を、目の当たりにして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ローゼンクロイツは目を疑った。

 蜘蛛の力を掠め取った結界『水晶渓谷』。問答無用で侵入者を結晶化させるはずの異界が、発動直後に消失した。

 それは、彼が先程まで展開していた固有結界の性質。固有時制御の術式を拡張した結界であるが故に、その中の時間の流れは術者の主観的時間感覚に影響される。

 結界の内と外で生じた時間の差異。

 それは、自らの危機を招くことになった。

 星空のドームに大きな穴が開く。そこから三つの人影───アンナ、シェムハザ、ヘカが墜落した。彼らは一様に負傷しており、魔力も目減りしている。

 追って、白き魔術師と知恵の女神が侵入する。ノアとローゼンクロイツは一瞬、視線を交錯させ、同時に動き出した。

 

「───『神聖黄金薔薇十字(ルベド・キトリニタス・ローゼンクロイツ)』!!」

「───『大神宣言(グングニル)』」

 

 相手を倒す。そのために力を削ぐ。そんな定石は、彼らの間では通用しない。

 やられる前にやる。圧勝か惨敗か、互いに必殺を有する彼らの戦いの帰結は、その二つしかなかった。

 ローゼンクロイツは全能によって、神殺しのヤドリギの性質を世界に付与し。

 ノアトゥールはバルドルが後継するが故に、原典そのものの完成度を誇るオーディンの槍を放った。

 まさしく必殺と必殺。

 両者が取った手段には回避も防御も不能。

 その、結果は。

 

 

 

 

「私の負けか」

 

 

 

 

 胸を槍に貫かれ、伏せるローゼンクロイツ。

 無傷のままに彼を見下すノアトゥール。

 超越者同士の殺し合いは、それぞれの惨敗と圧勝で終わった。

 

「……バルドルを殺す手段はヤドリギだけだ。おまえなら、俺を殺る方法くらいは用意してると考えた」

「貴殿は無詠唱で人と神の状態を切り替えられる。すまなかった、ノアくんではなくバルドルを警戒した私の至らなさだ」

 

 死のルーンが発動する。

 神槍グングニルからもたらされる死を逃れる術はない。

 ローゼンクロイツは抗いようもなく、命を手放した。

 そう、これで全ては終わり。全人類の根源への到達という目的も、磔刑のやり直しという願いも、何もかもが死の暗闇に包まれて消える。

 随分と長く生きた、と思った。

 魔術の家に生まれ、神の子の奇跡に焦がれ、唯一神と同じ霊魂・肉体の形になろうと研究したこともあった。

 必要な要素を付け足し、不要なものを排除し、ある程度の位地には昇ったものの、結局研究は完成しなかった。

 ───何故?

 ……ふむ。死に至る猶予を、その思索に費やしてみるのも悪くない。

 有用なサンプルはノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドだ。新世界に復活したバルドル。思うに、彼は出生の時から神体化術式を扱える霊魂の位階であったのだろう。

 むしろ、バルドルの生まれ変わりというのならば、そうでなくてはならない。

 つまり、私が唯一神と同質になるためには、生まれる時から同じ形でなくてはならなかったのか。

 うむ、なんと残酷な結論だろうか。

 私は神の子でなかったが故に、唯一神と同質にはなれなかったのだ。

 

〝神よ、なぜ私を見捨てたのですか〟

 

 ───いいや、違う。

 神の子は磔刑の際、その言葉を口にした。ということは、彼でさえ唯一神の意図を見抜けていなかったのだ。だから弱音を吐き、神になぜ見捨てたのかと問うた。

 結局は彼も、神に導かれる小羊だったのだ。人間はどこまで行っても人間でしかなく、神になろうなどという思い上がりは叶わない。

 

「そうか。それなら、目標を切り替えよう!」

 

 目指すべきは神のカタチではなく、人間の至高のカタチ。

 だとしたら、最初の人間アダムか?

 

「いやいや、そんなことはない! 誰だって子どもの頃にこう教わるだろう───みんな違ってみんな良いと!!」

 

 そう、要は自己を究極まで突き詰めればよかったのだ。

 …………突き詰めると言えば簡単に聞こえるが、その具体的な方法は?

 

「まさにこの状態だ! 私は死んでいる! 死とはその人間の限りない収束であり、根源の渦へと還る瞬間だ!! 今の私には私の総てが分かる!!」

 

 ならば、実に簡単だな。

 

「ああ! 完全に還る前に、この霊魂を我が究極のカタチに整える!! それで私は人の真実を体現できる!!」

 

 ……それではさようなら、不完全だった私よ。

 

「後はよろしく頼む、完全な私よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〝しかし、マリアは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、■■■の死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

 すると、彼らはマリアに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリアは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

 そう言って、うしろをふり向くと、そこに■■■が立っておられるのを見た。しかし、それが■■■であることに気がつかなかった。〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼らは、そこに死者が立っているのを見た。

 膨大な魔力の気配も感じさせず、威圧感も纏わず、ただただ路傍の石のように彼は立っていた。

 彼の姿は幼い少女のものではなく、壮年の男性のそれになっていた。

 そこで、ダンテだけが既視感を覚えた。生前に友誼を交わした薔薇の魔術師。あの頃の外見に、回帰していると。

 アンナ・キングスフォードは震えた声音で呟く。

 

「───ローゼンクロイツのジジイ、ですの?」

 

 ソレは答えた。

 

「私を示す記号(なまえ)は好きに設定するといい。だが、それではお前たちには不便だろう。それ故、適切と思われる称号を考えた」

 

 ───『真なる人(アダム・カドモン)』。私という個体を指したいのなら、この時代に限りそう呼べばいい。

 

「もはや、シモン・マグスとの契約を待つ必要はない。私は全人類を変えることにした」

「……あたくしたちの理想は捨てたと?」

「というより、意味がなくなった。この宇宙のこの地球上で、ヒトは新たなる形質を得ることになる。私はその方法を掴んだ」

 

 『真なる人』はどこまでも淡々と告げた。

 

 

 

「───全人類を殺し、それぞれの究極の形に整え、生き返らせる。それが私の与える救済だ」

 

 

 

 この旧時代に、真人類は生まれた。

 新しい人類ではなく、真の人類。

 かつて救世主が、覚者が行き着いた人間の極致。

 ……『真なる人』は此処に、世界の変革をもたらすことになる。




真名︰サミュエル・リドル・メイザース
性別︰男性(今は女性)
誕生日︰1854年1月8日
魔術系統︰アンナから受け継いだ『幻想綺譚』、そして自ら創り出した黄金の夜明け団の魔術『一たる全、始まりにして終わり』
魔術属性︰アベレージ・ワン
魔術特性︰翻訳、収斂
魔術回路・質︰A++
魔術回路・量︰D
魔術回路・編成︰正常

 腰まで伸びた黒い髪の女性……になった、生涯ヒモのおっさん。その外見は本人曰く〝妻に似てる、というか胸の大きさ以外同じ。もちろん私の方が大きいという意味で。あと尻は妻の方が大きかった〟とのこと。
 黄金の夜明け団三人の創設者のひとり。団の儀式・教義体系は彼の手によって創られ、後年黄金の夜明け団が分裂した時も、対立していたはずの派閥がメイザースの理論が参考に独自理論を構築するほどの完成度を誇った。エレナおばあちゃまやアレイスターもそうだが、もしメイザースがいなければ、現代のオカルトやそれを扱った創作は存在しなかったか、まったく別物になっていただろう。
 黄金の夜明け団におけるメイザースの振る舞いはかなりの専横を振るっており、気に入らない団員がいれば独断で退団させるし、アレイスターを周りの反対を押し切って昇格させるなど、分裂も当たり前なことをやらかしまくっている。妻に紹介された仕事も半年で辞めており、彼の生活はパトロンたちによって支えられていた。働け。そして、最大のパトロンで団随一のお金持ちで妻の親友のアニー・ホーニマンをとあるイザコザの末に追放している。その場その場をノリでしか生きてないと思われる。
 その反面、やはり才能に溢れた人物だったようではあった。英語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、エジプト語を学んだ多言語話者であり、その才能を活かして魔術書の翻訳を行っている。メイザースの功績と言えば黄金の夜明け団の魔術理論の構築だけでなく、この翻訳作業も欠かせない。ソロモンの大鍵と小鍵、アブラメリンの書などを翻訳し、英語圏に大きく広めた。また、イギリスで最初に完全なタロットの解説本を出版した。魔術師としては本当に優秀で、西洋近代魔術の祖と言っても過言ではない。
 ただ、メイザースの作ったフォーマットがあまりに出来が良すぎたせいか、いつくもの魔術結社がパクっている。その最大にして最悪の例はもちろんアレイスター。アレイスターが勝手にメイザースの文章を出版したこともあるし、何ならこいつが作ったトート版タロットは思いっきりメイザースのパクリだし、設立した魔術結社の位階制度はほとんど黄金の夜明け団と同じで、そこまでした挙句、小説の中でメイザースがモデルの人物を悪役として登場させたり…………などなど、やりたい放題されている。
 メイザースの魔術特性は翻訳。そしてあらゆる概念の収斂。翻訳とは個々人の解釈が重要となる作業である。言語を異なる言語に置き換える以上、それが元の言語と完全に同じ意味になることは難しい。というか、人それぞれに語感などの言葉へのイメージがあるため、突き詰めれば完全に同一の翻訳は不可能。メイザースはそれを逆手に取り、〝他者の言葉を自分の言葉にする〟ことで、詠唱を丸パクリして自分の魔術にできる。が、例えば士郎の『無限の剣製』や投影魔術のように、その人間固有の心象風景・資質に基づいた魔術は無理。礼装に対する命令は実物がないとできない。また、虚数属性・無属性の魔術もコピーできない。アベレージ・ワンなので、その他は大体いける。
 しかし、メイザースの真に恐ろしいところは翻訳魔術でさえも、数多くの手札のひとつに過ぎないことである。手数が多い、というよりは選択肢が多いタイプ。師匠のアンナが童話魔術で何でもしてしまうのに対して、メイザースは豊富な手数で大抵のことをクリアしてしまう。なので、魔術師のタイプとしてはアンナよりもむしろエレナに近い。

真名︰クリスチャン・ローゼンクロイツ
性別︰男性(今は女性)
誕生年︰1378年、とされている
魔術系統︰錬金術
魔術属性︰空
魔術特性︰変換
魔術回路・質︰A++
魔術回路・量︰A++
魔術回路・編成︰正常

 右眼に赤薔薇の眼帯をした壮年の男性。雪華綺晶のコスプレをしているおっさんではない。作中では『真なる人』に覚醒するまでは幼女の姿。もう一度言うが雪華綺晶ではない。薔薇十字団は15世紀に結成されたとされ、17世紀にドイツで学者などに知識の公開を求めた宣言書を出した。ローゼンクロイツは薔薇十字団の創設者とされる人物。伝説上の存在と思われていたが、作中には実在していたらしい。
 …………が、その正体はローマ帝国の時代に生まれた魔術師、テュアナのアポロニオスである。バリーナースという名前はイスラム世界で受容されたもの。テュアナのアポロニオスが生き続け、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエと交流した結果、彼はクリスチャン・ローゼンクロイツとなった。故に、どの名前も彼を指すのに間違いではない。
 錬金術の本質とは『変換』の業である。何かを別の何かに変える……古代ギリシャの時代から、錬金術師たちはその秘術に取り憑かれていた。卑金属を黄金に変えるなど初歩の初歩、変換の対象は〝人を神に変える〟発想にまで飛躍した。かの救世主と同時代を生きていたローゼンクロイツは自らの霊魂の位階を引き上げることで、神性を得るまでに至った。しかし、それでも彼の信奉する唯一神には程遠かったため、地道に研究を繰り返したり、ダンテに神様の姿を見てもらいに行ったりしている。
 魔術師としての能力はもはや言うに及ばず。技量の面だけで言えば、我らがカルデア最強マスターもローゼンクロイツ(+アンナ、メイザース)からすればまだまだ修業中と言ったところ。
 世界で起きる多くの悲劇を知りながらも、その醜さのために人類を見限ることはしない博愛主義者。絢爛なる英雄であっても、虐げられる奴隷であっても、彼には等しく愛すべき対象であるし、見捨てたりはしない。彼が憎み、蔑み、叱責するのは常に自分自身であり、また、人が人を見下して遠ざけて傷つける『差別』だけである。
 人を愛し、人を信じているが故に、あらゆる勝負事の最後の最後の最後まで相手の逆転と、自らの敗北の可能性を捨て切れない。捨て切らない。それは強みであり弱みでもある。
 結局、ローゼンクロイツが唯一この世で信じ切れないモノは自分自身であった。






 ─────だが、それは過去の話。
 いまやローゼンクロイツはヒトの究極に辿り着いた。
 彼にあるのは人類救済の意思のみ。
 たったひとり、救世機構と化したソレはまったく異なる存在に成り果てた。
 故に、ここに書かれたローゼンクロイツは既に死に、二度と蘇ることはないだろう。
 呆れ果てるほどの罪を飽き果てずに積み重ねた現行人類の旧時代は、ついにひとつの結論を生んだ。
 彼こそが『真なる人』。
 その称号を、アダム・カドモン。
 千年王国の到来を待たずして降臨した、救世主である。
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