自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録 作:なまゆっけ
突然だけれど、私の家ではちょっと……いや、かなり不思議なことが起きる。
両親からクリスマスプレゼントを貰った翌日、枕元に洒落た服が置いてあったり。テスト間近に罹ったインフルエンザが一晩で完治したり。他にも大小数え切れないくらい、そんな不思議な───率直に言えば気味の悪い───ことが起こり続けている。
聞けば、それは代々私の家に受け継がれてきたことで。私のお父さんも、おばあちゃんも、ひいおばあちゃんもそうだったんだと教わった。
〝私たちは、魔法使いに見守られているんだよ〟
ひいおばあちゃんはそう言っていた。
お年寄りにありがちな信心深さ、と片付けるにはあまりにも状況証拠が揃いすぎていた。かといって、家族以外の誰にも信じてもらえるような話ではないから、特に言いふらすこともなく過ごした。我ながら、日本のサブカルにハマった時期に暴露しなかった精神力はなかなかだと思っている。精々が某赤い彗星と天パのCP小説の執筆に全力を注いでいたのが友達にバレたくらいだ。
それはそれとして。
ある時、ハイスクールで家系図を作成する課題が出された。できる限りの範疇で、というなんとも曖昧な条件だったが、ああいう変な家だったから好奇心が湧いて、本気を出してみることにした。
住所録や大昔の国政調査、教会の戸籍記録に課税台帳。方々を駆けずり回って、ありとあらゆる情報を集めた。時にはお父さんの力を借りたりもしたけれど、まあ高校生にしてはよくやったほうだろう。
で、完成した家系図を見て思った。
…………本当に魔法使いなんて存在がいるのなら、きっとこの人がそうなんだろう。
調べれば調べるほど、その人ははちゃめちゃだった。大金持ちな貿易商の家に産まれて、時に出版社を買い取り、時にパリに留学して医師免許を取ったり、時にベジタリアン協会の副会長に就任したり───魔法使いだとか魔術師といった字面からは想像もできないほど、彼女は表の舞台で燦然と活躍していた。
だのに、神智学協会だとかヘルメス協会? なんてオカルトにも手を出す始末。レオナルド・ダ・ヴィンチ然り、昔の人は多分野で才能を示すものだけど、この人もまた同じだ。
でも、そんな人だからこそ、ひいおばあちゃんの言葉が腑に落ちた。
たぶん、こういう人じゃないと、魔法使いになんてなれない。苛烈な現実の世界に身を置きながら、それでも理想を夢見る人間にしか余人を突き放す位地は手に入らない。
「────星?」
……そんな風に思ったことを、ふと思い出した。
大切な人たちが待つ家。その帰路で、私の頭上には星が燦然と輝いていた。それは見たこともない美しい色の光を放っていて、街を往く誰もが足を止めて見上げている。
普段は星空なんて気にも留めない。だけど、自分たちが知るどの星でもないことだけは分かる。なぜなら、それは、今にも落ちてきてしまいそうなほど、私たちの近くにあったから。
────その星は、この世の全てをがらりと変えてしまうような予兆を湛えていた。
「───全人類を殺し、それぞれの究極の形に整え、生き返らせる。それが私の与える救済だ」
『
死からの復活を果たし、ヒトの真実の形態に辿り着いた存在。現行人類史より生まれた、最先端にして最後の霊長は人類の滅びと救いを同時に宣言した。
その言葉に反立を突きつける間もなく、ノアたちは目撃する。
自分たちを見下ろす、輝ける星。この場所を覆うドーム状の天井よりも近く、触れられそうなほどの距離で、それは光を放っていた。まるで『真なる人』を祝福するように。
だが、彼らには知る由もない。この瞬間、その星は地球上の人類みなの上に現れていた。そこに朝も夜も関係ない。あらゆる地域のあらゆる人間が、星の光を目の当たりにしたのだ。
たったひとりの真人類は言う。
「これは『ベツレヘムの星』。根源から可能性という概念が光として現れ、お前たちの目に届いている。たとえ、両目を盲いた人間であっても」
「オイオイオイオイ、俺たちがいつ説明を求めた? いきなり復活して勝手に喋ってんじゃねえ。棺桶なら作ってやるから、さっさと寝てろ!!」
「棺桶、つまり死か。旧時代の悲哀を象徴する悪しき概念だ。安心するといい。もう、そんな運命に追われて生きる必要はない。私が貴殿らを解き放」
「知るかぶっ殺す!!!」
堪忍袋の緒の耐久力がスペランカー以下の男、ノアは当然の如く沸騰した。魔力が激情とともに奔流を成し、組み上げた術式に流し込む。
一瞬にも満たぬ早業。が、その攻撃が実現することはなかった。
アンナ・キングスフォードがノアの後頭部目掛けて平手を振るう。パン、と乾いた音が響き、ノアは床と熱烈な接吻を交わした。アンナはひらひらと右手を振って、
「あ〜ら、ようやく攻撃が通りましたわ。神体化が解けてるとザルにも程がありやがりますわね?」
クリスチャン・ローゼンクロイツはノアトゥール/バルドルを確殺するため、この空間そのものに神殺しのヤドリギの性質を付与していた。故に、今のノアは純度100%の人間だ。光神の絶対防御は失われている。
ノアは額に血管を浮き立たせながら、憎悪にも等しい憤怒を視線に込め、アンナを睨んだ。
「不意討ちのまぐれ当たり一発で調子こいてんじゃねえ! そこの薔薇野郎を始末した後に相手してやるから大人しくしてろ!!」
「ハッ、魔術師のヒヨコが何を鳴くかと思えば……精神の安定法なんて初歩の初歩、どんだけイラつこうが激流に身を任せ同化するのが正しい神秘の徒の在り方ですわ」
「自己認識イカれてんのか? おまえは瞬間湯沸し器だろうが。瞳孔開いてんぞ」
「シャラップですわアホ白髪。そこの薔薇野郎に文句をつけてえのがテメェだけだと思いまして? あたくしのクールなグッドコミュニケーションを見せて差し上げます」
もうオチが読めた。アンナを除く全員が同じ感想を抱く。アンナは眼をギンギンに見開き、『真なる人』と相対した。
「さて、スーパークソジジイ。テメェ聞き捨てならねえことを仰りましたわね? 全人類を殺すだとかなんとか」
「その通りだ。私は死を超越する方法を見つけ出した。死とはその個体の究極。あらゆる情報が一点へと収束し、消えていく刹那を観測し、個体が本来持ち得たはずの真の姿へと昇華させる」
───人間には、無限にも等しい可能性がある。
誰もが母に産み落とされる。生誕の叫びを発したその時、赤子は未だ何者でもなく、それ故何者にでもなれる可能性を持っている。
けれど、無限の可能性は刻一刻と削られていく。
貧困の底で産声をあげたのならば、生きられたはずが生きられず。
衣食住に不自由のない環境に生まれたてしても、成長とともに自らの限界を知り、他人との能力の差に絶望し、掴めたかもしれない理想を諦め。
畢竟、人間は妥協に妥協を積み重ねた果て、無限の可能性を無限に削り続けた先、現実との折り合いをつけ続けた歪な姿で完成してしまう。
何者でもなく、何者にもなれた幼子はいつしか『その他大勢』だとか『有象無象』だとか、そんな言葉で切り捨てられる塵芥に成り果てる。
それは成功者と呼ばれる人種も同じだ。彼らは確かにその他大勢や有象無象から逸脱したのかもしれないが、結局は無限の未来からたったひとつの願いしか叶えてはいない。
『真なる人』は死という名の生命の極点を観ることで、その命に有り得た無限の可能性を知り、それらを内包した至高の形に霊魂を創り変えた。
それこそが新時代の真人類。
無限の可能性の中からひとつを選び取るのではなく、無限の選択肢を無限に選択できる生命体の誕生であった。
「故に殺す。地球人類ひとりひとりを、この手で縊る。私がこの目でもってお前たちの究極を見定め、新たなる生命へと押し上げる」
「…………正気ですの? この星にヒトが何人いると思ってやがりまして?」
『真なる人』は淡々と言い切る。
「───なに、たったの八十億回ほどだ」
彼はアンナの問いに正しく答えていなかった。否、答えなかった。
何人いるかは問題ではない。どうせ全人類をこの手で抹殺するのだから、彼は人数ではなく回数を告げたのだ。
アンナは呆然と立ち尽くしていた。頭蓋に納まった脳が大気圏外にまで吹っ飛んだかのような気の遠くなる感覚を覚えて。
ただひとつ、『真なる人』の問答で理解できたことは───彼とは、圧倒的に視座が違うことであった。
山の麓からその全景を把握することはできないが、天空から見下ろす視点を持てば形が見て取れる。『真なる人』とノアたちとでは、仮に同じものを見たとしても、出てくる感想は全く異なるものになるだろう。
今まで耳を澄ませていたペレアスは盛大にため息をついた。
「呆れたぜ。人間を進歩させるために皆殺しにするなんてのは本末転倒も甚だしいだろ。さっきのアンタがやろうとしたことの方がまだマシだ」
「環境が変わるか人間が変わるかの違いではありますが、人理焼却の二の舞ですわね。矛盾に気付いてない可能性が大ですわ」
「いえ……ローゼンクロイツさんは磔刑のやり直しを望むと言っていました。この世全ての罪を一身に背負う───反発も矛盾も想定した上での発言でしょう」
「だからなんだ、詩人。そりゃあただの開き直りって言うんだろうが」
マーリオゥはダンテの言に唾を吐くように言った。……つまるところ、やることは変わらない。何らかの進化を果たした目の前の敵を屠る。それだけがこの場の真理だ。
が、マーリオゥが動かぬのは未だ敵を見定めているが故か、打つ手を探っているのか、それとも。
『真なる人』はこくりと頷く。
「〝お前は誰だ〟。そんな疑問に人々はまず名前を答え、経歴を語り、職業を示す。そして、趣味や信義、立ち振る舞いを明らかにしていくが───実のところ、何ひとつ問いの答えになりはしない」
なぜなら、ヒトは自分自身のことでさえも決して全てを理解していない。分かってもいないものを他人に説明できるはずもなく、その他人は答えらしきものを受け取ってその人を解釈するしかない。
自分を構成する性質から既知の、しかも有限の要素だけを抜き出す。それを果たして、自分と言い切れるはずもなく。
「私はここに誓おう」
だから、いっそ。
「〝私は私だ〟と、全ての人が胸を張ってそう言える世界にすると」
───清々しいまでに、彼は開き直った。
その時、大地を揺るがすほどの魔力が発散する。
「…………いや、だから、さぁ」
アンナ・キングスフォード。絶世の美貌を憤怒に歪め、隔絶した魔力操作の精度をも投げ捨て、彼女は極寒の凍土に在るかのように震えていた。
「どいつもこいつもぺちゃくちゃと─────」
そして、当たり前に、彼女の激情は破裂する。
「───あたくしが救いたいのは今の人間であって、テメェが変えた人間じゃない!!!」
「クールなグッドコミュニケーションはどうした?」
「うるせえボケ!!!」
───アンナ・キングスフォードの魔術は『幻想の現実化』。あらゆる伝承・物語を自己の解釈によって再現する。
具現化した幻想の強度は、その話がどれくらい人口に膾炙しているかによる。人類の集合的無意識から概念を抽出し、昇華する彼女の御業は魔法よりも魔法らしく空想めいた、御伽の奇跡だ。
この世で最も多くの人間が知る物語。
それは聖書。
書に記された話は西洋世界のスタンダードを構築し、歴史のそばに在り続けた。
「
なればこそ、アンナの魔術は最高の効力を得る。
それは羊飼いの少年ダビデが、巨人ゴリアテを石ころひとつで倒した物語。背に槍を背負い、長大かつ重厚な剣を握り、全身を鎧で武装した巨人兵は、杖と投石器だけを持った子どもに敗れた。
人々はこの話になぞらえて、格下が格上を凌駕する番狂わせをジャイアントキリングと呼ぶ。
アンナが放った攻撃はこぶし大の魔弾。本来ならば一般人でも打ち身で済む威力である。
なれど、それに秘められた幻想は絶大。
成す術なく射殺されたゴリアテの如く、魔弾は敵のあらゆる武装を無視して直撃する。───だけではない。
慣用句となるほど意味が拡大した巨人殺し。アンナは人々の認識から格上殺しの概念をも掬う。よって、その魔弾は威力が低ければ低いほど、相手が強ければ強いほどに勝利が決定する、逆説の一撃───!!!
「─────『
「クリスチャン・ローゼンクロイツとは、テュアナのアポロニオスだ。イスラム世界ではバリーナースという名で受容されている」
マクレガー・メイザースは唐突に暴露する。
彼の言葉に耳を傾けるのは、つい先程顔面を殴りつけたエルメロイⅡ世とそのサーヴァント、征服王イスカンダル。そこにウリエルとEチーム三人娘を加えた面子だった。
イスカンダルとウリエルの存在感に圧されつつ、立香は疑問を口にする。
「バリ……? ナス……? マシュと同じ品種ですか?」
「先輩?」
「いや、そこの彼女は南極産だがアポロニオスはギリシャ産だ。2000年モノの骨董品でもあるな。かの救世主と同年代の生まれだ」
「なるほど、いにしえのなすび」
「先輩、いにしえの秘薬みたいに言わないでください」
「……さっきまであれだけ戦ってたのに、よく呑気でいられるわね」
ジャンヌはじとりとした目つきでメイザースたちを睨んだ。ろくでなしの自称グラユストリー伯爵はぷかぷかとたばこの煙を吐いて、
「都合の悪い過去は水に流すのも健康に生きる秘訣だ。ああ、アヴェンジャーのクラスは忘却補正があるのだったな。貴女には難儀な話か」
「燃やすぞ」
「そこのアホは後でいくらでも荼毘に付して構わないが、メイザースの話には大きな矛盾がある。それを明らかにしてからだ」
「勿体つけるのう。そういうことは結論から言わぬか」
イスカンダルは右の人差し指でぴしぴしとⅡ世のこめかみをつついた。されるがままのⅡ世は苛立ちを覚えつつ、自身のサーヴァントに向かって言う。
「結論も何も、お前のことだ! 〝バリーナースを知っているか〟というメイザースの問いに是と答えただろう!?」
「それの何がおかしい。知っているどころか、ともに竜退治をしたこともある。その竜ときたら、実は魔女が変身した────」
「───前一世紀のアポロニオスと前四世紀のお前が、どうやって一緒に竜退治をすると言うんだ?」
バリーナース、テュアナのアポロニオスとイスカンダルの生きた時代は重ならない。アポロニオスが生まれたであろう時よりおよそ三百年前にはもう、イスカンダルは人生を終えている。
つまり、アポロニオスとイスカンダルが面識を得ていること自体がおかしいのだ。
ウリエルは腕を組みながら頷いた。
「父上が大洪水を起こす前の人間は数百年は生きたものだが、アレはまだ試用期間だったからな」
「人間の寿命をアプデ感覚で変えるのやめてくれます?」
「そう言うな、聖女の影よ。世代交代のサイクルを短くしなければ、人類がここまで発展するのにも時間がかかりすぎたはずだ」
「ついこの間まで長生きした猫くらいの寿命だったわたしにはどうでもいいのですが、結局メイザースさんは何を言いたいんです?」
マシュはさらりと闇をさらけ出しながら、メイザースに問いかける。
「説いている。クリスチャン・ローゼンクロイツの底知れなさと、二千年の妄執を」
───時に。
メイザースはイスカンダルに振り向いた。
「征服王。御身はなぜイスカンダルを名乗っている? 古代ギリシャのマケドニアに生まれた王ならば、アレクサンドロスと名乗るのが適しているはずだ」
「と言われても、ノリとしか答えようがないぞ。余は余であって、指し示す名前はアレクサンドロスでもイスカンダルでもアレクサンダーでも何でもよい」
「……だそうだ。私が何を言いたいのか、貴女にも分かってきただろう? 藤丸立香」
「───そうですね。でも、私が答えを言うのはアレなんでジャンヌに任せたいと思います」
「流石です、先輩。ここに記すには余白が狭すぎるということですね?」
「フェルマーに謝りなさいアホコンビ」
ジャンヌは両腕で立香とマシュの首をクラッチする。二人の顔面は一瞬にして蒼白になり、力なくタップを繰り返した。格闘技なら驚異のダブル判定勝ちである。
メイザースは鼻の穴から煙を漂わせながら、
「イスカンダルとバリーナースの共闘が描かれたのは十二世紀の『イスカンダル・ナーマ』という書だ。そこで書物としては初めて、イスカンダルとバリーナースに繋がりができた」
「それなのにイスカンダルがバリーナースを知ってるとか、クロスオーバー同人誌が本家に逆輸入されるみたいなものじゃない。そんなことあるわけ?」
「英霊とは人々の信仰によって形作られるモノ。然るに、サーヴァントは人類の認識の影響を受ける。アレクサンドロスでもアレクサンダーでもない、イスラム世界で受容された征服王イスカンダルならば、バリーナースは知っていて当然というわけだ」
「後付けの話が征服王という英霊に影響を及ぼしたのか。……まさか、ローゼンクロイツという男はそこまで見越していたのか」
ウリエルは慄然と独りごちた。そして、ぴしりと氷に亀裂が入るかのような静寂が響く。互いに互いを牽制する居心地の悪い沈黙の最中、立香は言った。
「で、それが何なんですか?」
単純、なれど真理を突いた一言。冬のナマズみたいにおとなしかったメイザースが、スタンガンを打ち込まれたように震える。
時として、無自覚だったり不意に放った言葉が急所を抉り取ることは往々にして発生する。煙でむせるメイザースを尻目に、立香を除く全員は思った。
────確かに、と。
『無辜の怪物』というスキルがあるように、現代のイメージによって在り方を歪められるサーヴァントはいる。イスカンダルの場合はスキルとまではいかないものの、後世の物語によって記憶を追加されたのだ。
ただ、彼に言わせれば〝逸話が増えてお得〟といったところでしかない。メイザースに向く立香の目線は純粋な疑問をぶつけているが、彼女以外のそれは咎めるような色を示すのだった。
エルメロイⅡ世は元々深く刻まれていた眉間のシワをさらに濃くする。
「…………メイザース。信じたくはないが、私たちに講釈を垂れるために今の話を、」
「待て待て少年、気持ちよくなっていたのは認めるが、早とちりはよくない。まだ間に合うから。ここから繋げるから。口八丁でパトロンたちから金を引き出してきた話術をナメるなよ。私をなんだと思っているんだ」
「生涯ヒモのクズニートだ」
「わたしは『この世のありとあらゆる脛をしゃぶり尽くした男』でしょうか」
「ニート界の海賊王かな?」
メイザースはマシュと立香のコンボに胸を貫かれた。しかし彼は生涯働いたと言える回数がサイの足一本分の指で数えられるほどの猛者。周囲から向けられる冷たい視線、気まずい雰囲気はもはや歯医者のイージーリスニングに過ぎない。
黄金の夜明け団創設者の一角たる威厳をもって、メイザースは口を開いた。
「───アポロニオス。ローゼンクロイツ。あの男は自らの存在を物語を介して世界に刻みつけた。それぞれが英霊に足る信仰を得てなお生き続けたのだ。その力はもはやサーヴァントをも軽く凌駕する。あらゆる最悪を想定しろ、あの男はそれをいとも容易く上回ってくるぞ」
「おお、割と上手く繋げたのではないか? 我が師アリストテレスも花丸を贈るに違いない」
「アレだな、ペテロが三回知らないと言ってニワトリが鳴いた時のような悲哀を感じるぞ」
「見方によってギャグよねアレ。……じゃなくて!! こんなところでくっちゃべってる暇があるなら、ローゼンクロイツを殴りにいかないとでしょうが!!?」
物理的に燃え上がるジャンヌ。彼女はその勢いのままに飛びかからんとするが、遮るようにひとりの少年が現れる。
青みがかった黒髪と褐色の肌。墨で塗りつぶしたかのような瞳を持つ少年は、古代エジプトの魔術神ヘカであった。
「やめた方がいい。無策で突っ込んでも二の舞になるだけだ。サーヴァントは尚更ね」
───直後、地面が波打つほどの衝撃波が駆け抜けた。追随する轟音が皮膚の感覚を痺れさせ、ぞくりと背筋を凍らせる。
立香たちは目撃した。
ハイ・ブラジル島の中央に築かれた城砦。その中でも一際異質を放つドーム状の建築物。曲線を描いた屋根が爆ぜ、いくつかの影が飛び出してくる一瞬を。
「『黄金創星』。我が右手に剣が『ある』」
薔薇の意匠を散りばめた壮年の男性。彼は目も眩むような星を頭上に戴き、発した言葉の通りに、どこからともなく右手で剣を抜き放った。
何の変哲もない鉄の剣。装飾などは一切ない無骨な造りの長剣は、くすんだ光をそり返す。
「この剣は総てを斬『れる』。この剣の間合いは無制限で『ある』。この剣は一振りで人類の総数に増殖『する』。そして斬られた者は必ず死『に』、回避することもでき『ない』」
空理空論の絵空事。誰もがこの現実ではあり得ないと断ずる夢物語。『真なる人』の眼下にはアンナとヘリオガバルス、ノアとシェムハザ。彼の目はその四人のみならず、地平の何もかもを睥睨する。
そこにあるものをただ反射する鏡のような瞳。意図を探ろうとも映るのは自分の顔だけで、何をも読み取ることはできない。
鏡の端に映る一匹のマゾ。ヘリオガバルスは戦車を駆る一方で犬用のリードをつけられ、アンナに手綱を取られていた。
「おいおい『ぼくがかんがえたさいきょうのけん』かぁ!? オレのリスナーだったら全身掻きむしりそうな内容じゃねえか!! つーかオレの第M感がケツまくって逃げろって叫んでんだけど!!」
「テメェのデカケツで逃げ切れるとでも!? 腹ァ括って突っ込みなさい!! クソジジイの攻撃はあたくしとおまけのアホ白髪で防ぎます!!」
「ほざけメルヘンエセ令嬢が!! あいつをやったら次はおまえだってことを忘れんな!!」
「仲が良いようで何よりだ。この世界の魔術は解析できた。俺は援護に回る」
そして。
総てを斬り、回避は能わず、地球全土に及ぶ射程と地球の全人類に等しい数の絶死の刃が振るわれる。
「■■■■■■■■」
「幻想綺譚『さんびきのこぶた』!!」
「投影、『
迎え撃つは三種の防壁とひとつの世界。それらは天使言語の詠唱による後押しを受け、斬撃を上回る速度で発動した。
周囲の風景が、ここではないどこかの天と地に入れ替わる。斬撃の延長線上に、それぞれ藁と木とレンガで組まれた三枚の壁が展開される。
現実を物語の枠に当てはめる魔法級の絶技。それはおよそ殺し合いの場には相応しくない童話だった。オオカミが藁の家と木の家を崩し、二匹の子豚を腹に収めるものの、ついぞレンガの家だけは壊せず、三匹目の子豚に食べ返されてしまう。
時代の移り変わりで物語の結末に複数のバリエーションは生まれるが、オオカミがレンガの家を壊せないという展開だけは変わらない。
当然、配役は決まっていた。
ローゼンクロイツが新生した『真なる人』───彼こそがオオカミの役に他ならない。
それ故、真人類が放った斬撃は藁の壁を斬り、木の壁を裂き、レンガの壁の前に敗れ去った。総てを切断する剣そのものではなく、使い手に作用する魔術であったがために。
「なるほど、そうか」
『真なる人』は余人の理解を置き去りにして納得する。
アンナの魔術で剣を防ごうと、護れるのは精々この場にいる十人余り。その他の八十億人は先程の一振りで殺す腹積もりだった。
だが、世界の人間が彼らだけだったならば、剣に設定された斬撃の数が増えることはない。
『九天纏繞す亡骸の天地』。オーディンたちがユミルという原初の巨人を解体し、亡骸を材料として世界を創り上げた創造神話。ノアはユミルの遺体を投影することで、別世界を此処に用意したのだ。
結論。彼らは『真なる人』の攻撃を完璧に防ぎ切った。
───たった一振りに、己が魔術の粋を費やして。
「謝罪する。私は易きに逃げた。この世の誰ひとりも見ずして、この世の誰をも殺すところだった。まずはここからだ。お前たちを丹念に、丁寧に、殺してみせるとし」
「「うるせ〜〜死ね!!」」
「オレが言うのも何だけどさ、お前らアホだろ?」
呆れるヘリオガバルスを尻目に、ノアとアンナは同時に魔術を振るう。魔力を集束した砲撃。奇しくも両者は同様の攻撃を放っていた。
「私に向かう攻撃は反転『する』」
『真なる人』の言葉は現実となる。
二条の光線がくるりと跳ね返る。ノアは粒子魔術によって魔力を霧散させ、アンナはヘリオガバルスを盾にして反撃を凌いだ。
彼らは睨み合う。互いに動向を見極める戦場の間隙。立香はぱあっと笑顔を輝かせて、
「ノア! ペレアスさんたちはどうしたんですか!?」
「全員やられた! とりあえずサーヴァントどもは使い物にならねえから、なすび以外下がってろ!!」
「いきなり出ていきなり消えることに定評があるエドナントカさんもですか!? それに聖堂教会の人たちは!?」
「だからやられたっつってんだろ! 説明はおまえの後ろにいる痴女に聞いとけ!」
ノアは『真なる人』との不毛な魔術の応酬に身を投じる。立香は背後に振り向く。
そこには痴女の謂れに違わぬ全裸の変態、知恵の女神ことソフィアが腕を組んで佇んでいた。なぜか、だくだくと涙と鼻水を垂れ流しながら。
立香はじっとりと目を細めて咎める。
「……もしかして、くらいました? 攻撃。敵キャラやってた時はあんなに強キャラ感出してたのに、ボロ泣きして逃げましたもんね」
「うむ、アンナ・キングスフォードの魔弾があいつに反射されてな。なまじ彼女の魔術が強力だったが故に、対抗手段を持たない奴らはやられた。サーヴァントは事情が違うが……たんこぶができた、頭をさすってくれ。スチュワーデスがファーストクラスの客に酒とキャビアをサービスするようにな」
「これでいいですか? ……で、さっきからサーヴァントが仲間外れにされてるのはどうしてなんです?」
「そうね。当てつけみたいに繰り返してますけど、どうせその反射とやらに初見殺しされたんでしょう。だったら攻める他ないわ!」
勇み足で突撃を敢行しようとするジャンヌ。マシュがいつもの猪突猛進ぶりに呆れる寸前、ジャンヌの異変を目にした。
マシュはおそるおそる指差し、端的に異変を言い表す。
「ジャンヌさん、透けてます」
「は? なにが」
「体です。スケスケです。跡部王国が建国されてます!!」
「…………うそぉ!?」
ジャンヌの体は透けていた。心霊写真の幽霊みたいに背景がうっすらと透過しており、サーヴァントの退去反応でおなじみの金色の魔力粒子がきらきらと散っている。
それは彼女だけでなく、イスカンダルやウリエルも同様の現象に苛まれている。平然としているのは魔術神ヘカだけであった。
ジャンヌは両手をわなわなと震わせながら、白目を剥いて叫んだ。
「いやあああああ消える消える!! ホワイ!? なんで!? こんないきなりパトラッシュとか意味分かんないんですけど!!」
「安らかにお眠りください。ジャンヌさんのHDDはわたしが責任を持って処分しますので」
「アンタなんかに任せられるわけないでしょうが!! そもそも死んだ風にしないでくれます!?」
「うむ、サーヴァントは既に死者とはいえ、こうもわけの分からぬままに消えるのは敵わぬ。これはどういうことだ?」
イスカンダルは持ち前の剛毅さ故か、消えかかっているにも関わらず、呑気に疑問を投げかけていた。
ソフィアは目元を擦り、鼻水をすすって答える。
「ローゼンクロイツが昇華した存在───『真なる人』は現行人類から逸脱した、新たにして真の人間だ。ヤツは新たなる時代の生命体であり、ヤツの周囲にはその新たなる時代が展開されている。感覚的には目に見えない結界のようなものだと思っていい」
「新たなる時代、か。基本的に過去の死者たるサーヴァントは、言わば旧時代の象徴。故に否められるというわけか」
「そうだ、ウリエル。大天使は理解が早いようで助かる。それならば、後はどうするか分かるな?」
「いいや、今の私は天使ではなく人間だ。天使の知恵を頼るというなら、彼の方が適任ではないかな」
ウリエルの眼差しがシェムハザを指し示す。すると、指名された方の天使はヘカを両脇から持ち上げて、
「畏れながら申し上げましょう。この戦いの鍵を握るのは彼でございます。無論、私も微力ながら力添えさせていただきますが」
「そうか、君は何か事情が違うようだ。魂の物質化もしていない。……否、捨てたのか」
「やむを得ず。付け加えるなら、俺と貴方とでは護る世界が違います」
「ああ、良かったよ。君は立派に役目を遂げたのだな」
余人の立ち入る隙間のない、天使の会話。普通あるはずの段階を数段飛ばして言葉を交わす二人の真意は、知恵の女神の他に誰も見抜けなかった。
シェムハザは僅かに眉をひそめて言う。
「…………いいえ。俺は役目を果たせなかったがために此処にいるのです。それ故に、この世界にまで累が及んでしまった」
───だから、この身は贖罪に尽くす。
そう告げて、シェムハザは戦場へと飛び立った。人ならざる光輪の輝きとともに。
天使の光輪が描く軌跡を背に、知恵の女神が宣言する。
「この一戦が運命の分水嶺と知れ。───あんな真人類は、一代限りで終わりにしてやるのが慈悲というものだ」
…………一方、『真なる人』と相対するノアは思わず、感嘆の色を心に滲ませた。
「『黄金創星』」
神体化を封じられたとはいえ、自身やアンナが手を組み示し合わせてまで織り成す魔術の応酬が、たった一言で積み木の如く蹴散らされる。
柄でもない、と頭の片隅で吐き捨てる。普段ならば尽きぬまでに湧いてくるはずの怒りや憤り、悔しさというものが一切生じない。
こんなことは今までのノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドにはあり得なかった。ありえないはずだった。それでもなお、彼にその感情を抱かせたのは───────
「私を縛る全ての法則は崩壊『する』」
────『真なる人』が、魔術の極致に在ることを見抜いたがため。
ユミルの天地が、粒子魔術による異法則が、砂絵を吹いて飛ばすように消え去る。
アンナ、シェムハザ、ヘカとの戦いは言わば自分ルールの押し付け合いだった。自らの法則をもって相手の法則を侵食し、圧倒する陣取り合戦。ノアはその闘争においては無双を誇ると言って良い。
『ありとあらゆる災禍を否定する』神域の強固さはたかが端役。バルドルの支配力は突き詰めれば、己が神域を展開するまでもなく、現代の地球におけるテクスチャを掌握する。ラグナロクを経た世界、つまり神代が終わった時代こそがバルドルの支配圏であるが故に。
だからこそ、ノアトゥール/バルドルは法則・領域の争奪戦では無敵。この世界が一枚の絵画だとして、それを自分の絵で塗り替える行為を法則の奪取に喩えるなら、ノアは絵に手を加える必要すらないのだ。
たとえあらかじめ他者の絵が塗り重ねられていたとしても、粒子魔術によって絵の具を落とすだけで事足りる。アンナたちが苦戦を強いられた要因は、バルドルの絶対防御以上にこの点にあった。
だが。
『真なる人』は、いとも容易くノアが施す法則を打ち破った。
「聞きなさいアホ白髪。ネオクソジジイの力は、」
「『変換』だろ。俺に講釈垂れようとすんな」
「そう。解っているようで何より。いくら真の人類、新しい時代などとほざこうが、ジジイの力はあたくしたちの時代で表現できる程度でしかねえっつうわけですわ」
「そこだけは同意してやるよ。あいつのは極まっただけの、ただの錬金術だ」
『真なる人』は心中に些かの揺らぎを起こすこともなく、ただ彼らの言を首肯する。
「新しい、と呼ばれるものはすべからく過去からの再生産だ。あらゆる研究や発明は過去の積み重ねなくして有り得ず、ヒトは常に与えられたものから何かを構築していく」
そこで、彼は初めて恍惚とした感情を露わにした。
「───素晴らしいことだとは思わないか。この世に無駄なことはひとつもない。全てが未来の礎足り得る可能性を秘めているのだから」
…………たとえ、戦いがどれほど高次元になろうとも、敵の能力を知るという行為は相変わらず重要な意味を持つ。
敵を知り己を知れば百戦危うからず。戦力が拮抗しているなら情報差が勝敗を分けるひとつの要因になる。劣っていたとしても、格上喰らいの芽も出てくるだろう。
だがしかし、『真なる人』が測っていたのは敵の能力ではなかった。
新たに生まれ変わった自分自身。己が可能性を模索し、何ができるかを掴むために、今まで力を振るっていたのだ。
理解が進む。
力を掌握する。
『真なる人』の戦いは、ここから始まった。
「私の質量とエネルギーは0に『なる』」
『変換』。錬金術の本質とは何かを別の何かに変化させること。卑金属を黄金に、水銀を賢者の石に、人間を神に───数多の魔術師たちはこの変換の業に取り憑かれていた。
『真なる人』の変換はもはや物質界に留まらず、概念に手を伸ばす。
『無い』という現実を『有る』という事実に変換する。
『できない』は『できる』に。
『ならない』は『なる』に。
『しない』は『する』に。
───『不可能』は『可能』に。
自身の質量とエネルギーを零に変換し、彼の速度は無限となる。この世にない、ということは時間の束縛も受けないということ。然るに、『真なる人』は0秒であらゆる行動を終えられる。
だから、
「私を中心に半径50kmの恒星が出現『する』。これはブラックホールに『ならず』、地球と太陽系に物理的な悪影響は与え『ない』」
ここまでで、0秒。そして、これからも。
この島に存在する生命体は何が起きたか理解する間もなく蒸発する。誰にも知覚できない速度の世界からの急襲によって。
魔術の極致。それが何を意味するのか、ノアには、アンナにさえも、理解することはできなかった。
「───『ことだまのつるぎ』」
0秒の世界に、剣閃が踊る。
清浄なる純白の光。『真なる人』の肉体の表面に煌めく亀裂が走る。神の御言葉たる刃を手に、天使は厳然と告げた。
「きみに、この世界を変えさせはしない」
天使の剣はバルドルの絶対防御をも欺く。言語を理解できるならば等しく通用する神の御言葉が、『真なる人』の魔術行使を阻害し、本来あるべき質量とエネルギーを与える。
真人類の唯一の誤算。それは異世界の魔術の祖たるシェムハザが、失ったはずの本領を発揮したこと。
彼は天使を見据え、呟いた。
「シモン・マグスの拘束術式はどうした?」
「精神は肉体を超越する。きみには言うまでもないことだと思うが?」
「流石は魔術の祖だ。しかし、お前に残された時間は少ない。肉の器がどこまでその精神に耐えられる」
「きみを倒すのは俺ではない。この世界の人間だ」
────0.00001秒。
『真なる人』の時間軸が常人のそれに回帰する。
その時、すでに攻撃は到達していた。
疾駆する騎士の幻影と、太陽の如き熱線。馬上槍の一撃が真人類の左腕を千切り飛ばし、灼熱の光が全身を焼き尽くす。
「我が左腕は復元『する』」
彼の負傷は捥がれた左腕のみ。その傷も時間を巻き戻したみたいに、衣服さえも伴って再生する。ノアが放った熱線は服の端すら焦がしてはいなかった。
シェムハザはノアの横に退くと、
「彼に魔術は効かない。魔術という旧時代の技術は新時代の前では陳腐化するからだ」
「あ? 目ぇ見えてねえのか? だったら、どうしてメルヘン女の魔術は効いたんだよ」
「いつの時代、どの地域の人類であっても、決して捨てなかったモノ。彼女の魔術はそのひとつである『物語』を下地にしている。それ故、あの真人類にも通用する」
「───つまりは、だ」
知恵の女神の声が響く。
直後、雷轟の戦車が『真なる人』を打ち抜いた。
真人類は鮮血を撒き散らしながら宙に巻き上げられる。征服王イスカンダル───英霊という旧時代の象徴が、新時代の真人類に一撃を通したのだ。
「
「社会性を有する知能体に対する特攻概念。『真なる人』が言語を用いてコミュニケーションを取っている以上、これは必ず通る」
「おまえら一旦黙れ。いつからここは説明したがりどもの集会所になったんだ? 次上から目線だったり意味深な台詞吐いたら殴るからな。その上で訊く。全裸女はともかく、天然天使が『真なる人』だかの解説をしてんのはどういうことだ?」
「…………────ああ、俺の世界にもいたんだ。彼のようなそんざっ」
ぼごん、とノアの拳骨がシェムハザのつむじに落ちる。天使は両手で頭を抱えてうずくまった。そこにヘカが現れ、天使の光輪をついついとなぞりながら言う。
「知恵の女神がサーヴァントに言霊の加護を与え、私の魔力支配で霊基の霧散を防ぐ。いたれりつくせりだね。これで負けたらアヌビスも天秤で殴るレベル」
「それは怖いな。こちらで言えば父上も洪水を起こすレベルといったところか?」
「それ一回やってるから説得力が違いすぎるんですけど!?」
「無駄口は慎んでくださいジャンヌさん。『真なる人』とやらをただのしかばねにする時間です! ぶおおぉぉおおおぉぉぉ〜〜!!!」
マシュはどこからともなく法螺貝を取り出し、豪快に開戦の号砲を吹き鳴らした。
瞬間、『真なる人』へと攻撃が殺到する。
如何に消滅を止め、刃が通るようになったとしても、魔術の極致たる業は健在だ。対処する手段などそれこそ無数に持ち合わせている───否、なかったとしても、あることにしてしまえばいいだけだ。
「『黄金──────」
が、それはまたしても阻まれた。
ウリエルやイスカンダルの速力よりも疾く、シェムハザは『真なる人』の背後を取り、剣を振るう。
「今は亡き主の名において、汝に永遠の安らぎを与える」
天なる父の言葉を形にした刃は、決して物理的に対象を切断することはない。が、真人類の魔術を制限し、死の概念を植え付ける。それで十分だった。
無防備の肉体が切り裂かれ焼き爆ぜる。首を断たれ、五体を潰され、天使と魔女の炎が肉の器を成す分子をも滅していく。
死の概念を付与されるまでもない。どれかひとつでも人の死には十分すぎるほどの致命傷。跡形もなく滅却され、『真なる人』は死亡した。
死んだ。
だからこそ、彼は死『なない』。
『死んでいる状態』を『生きている状態』に変換すれば良い。それだけのこと。
太古の海の奥深く物質が生命となったその日から、死は生物の終着としてあり続けた。絶対的な法則たる生死のあわいから抜け出し、『真なる人』は口を開く。
「『ベツレヘムの星』がある限り、わた」
「ふんっ!!」
マシュは法螺貝を振り上げ、勢い良く頭頂に叩き込んだ。貝の鋭い曲面の口がざくりとめり込み、光速の突貫が五体を宙に跳ね飛ばす。
ローマ皇帝の中でも五指が入る、ではなく、五指に入る変態ヘリオガバルス。彼は恍惚と表情を蕩けさせて、
「たまにゃあSの役割も悪くねえ! こういうやつを調教すんのは初めてだ! 真人類にも穴はあるんだよなァ!!?」
「その通りだ、彼にも穴はある。変換の力を自身の再生に回せば、必然俺たちを攻撃することはできない」
「できない、か。しかし彼はそれが『できる』のだろう? 天使シェムハザ」
「ええ、彼が言う『ベツレヘムの星』とは根源から流れ出した可能性の光───『
カバラの世界観において。この世界の流出源たる『
その名は『
そして同時に、無限光はある存在を生んだ。それこそがアダム・カドモン。世界の流出に先立つ、原初の人間である。
無限の光から生じた無限の体現者。『真なる人』は己が力を使う度、その無限への理解を進めていく。この瞬間にも、真人類は強さを増しているのだ。
「───ならば、術を封じるまでだ」
マクレガー・メイザースは笑った。
『
ノアやアンナ、ローゼンクロイツのように神域へと辿り着いた黄金の魔術師。ソロモン王の西洋魔術をまとめ上げ、完成させた男。彼は刻一刻と進化を遂げる真人類を目にしてなお、当たり前のように言い切った。
魔術神ヘカもまた微笑み、ノアへと囁く。
「見ておくといい。本当はソロモン王にぶつけるはずだった戦法だ。前回はマスターがウスノロのへっぽこだったせいで使えなかったけれど……」
───きっと、これなら負けなかった。
そう言うと、ヘカは瞬間移動でもしたかのように、その場から消える。
入れ替わるように、メイザースの手に王笏が握られる。握りの部分が弧を描き、金と青の縞模様で彩られた杖。エジプトの王権を示す象徴たる道具だ。
杖の名は『ヘカ』。それがかの魔術神と同名である事実は、決して偶然ではない。
古代エジプトにおける、超自然的なエネルギーの根源。すなわち魔力とは、それなくしては神でさえも魔法魔術を扱えないと言われていた。
翻せば、その力を行使することさえできれば、一介の人間であろうと神に並ぶ権能を発揮できる。エジプトの魔術師にとって超常の神秘とは、神や精霊に依って発動するものではなく、神や精霊と同じ力を使って引き起こすものであったのだ。
かつて現人神たるファラオが王笏・ヘカを手にした歴史。それは神王たる彼ら彼女らが、世界の力の源を支配するという権威付けに他ならない。
だとすれば、今や神域に足を踏み入れたマクレガー・メイザースには資格がある。
魔力の根源たるヘカを手中に収め、支配する権利。
彼は獰猛に口角を吊り上げ、エルメロイⅡ世へと言い放った。
「刮目しろ少年! アレイスター如きクソアホのボケナスタコ野郎にできたことならば、私にもできる!! 神秘の法則を覆す時だ!!」
神秘は、古ければ古いほど強い。
医学や数学、天文学。この世のあらゆる学問は時代とともに進歩してきたのにも関わらず、魔術だけは人間の努力を嘲笑うように衰退の一途を辿り続けている。
黄金の夜明け団に所属した者を含め、かの時代、表舞台に躍り出た魔術師のほとんどは魔術と何ら関わりのない家系の出身だった。
神秘が古いほど強く、これからも一層弱々しくなっていく現実。数多の魔術師が嘆く現状の最中、メイザースが薫陶を受けた二人の魔術師は同じ言葉を口走る。
〝〝えっ? それって自分たちと関係あるの?〟ありますの?〟
エレナ・ブラヴァツキー。
アンナ・キングスフォード。
すっとんきょうな顔をして、近代魔術史が誇る才媛たちは首をひねった。
危機感が足りない。現状を理解していない。そんな文句も出ないほど、彼女らの瞳は真っ直ぐ曇りがなかった。
〝───ふん。所詮は旧態にしがみつくしか能が無い愚か者どもの泣き言だ。魔術回路だの血統だの才能だのを魔術師の資質と思い込み、人間本来の素養から目を背けた怠惰と傲慢がどん詰まりに行き着いただけのこと。まあヤツらの価値観からしても私は最強だが。なにせ私はエリファス・レヴィの生まれ変わりで神の子の教えを破壊する黙示録の獣で人類史最大最高最善にして超絶怒涛の大天才で、〟
黄金の夜明け団にいた頃のクズも同じようなことを言っていた気がしたが、忘れた。コイツだけは危機感が欠落していたし、現状を理解する知性もない馬鹿の極みである。
ただ、このアホの言葉には真理が隠れている。人間の素養こそが魔術の真髄であると。
魔術とは神秘のためにあるのではなく、人間のためにある学問だ。
環境に適応した生物が生き残る。しかし、ヒトは違う。寒ければ暖房を、暑ければ冷房をつけるように、人類は環境を作り変え、自身に適応させる手段を手に入れた。
神秘が魔術師にとって不都合な性質をしているのなら、それを都合の良い形に再構築してしまえばいい。
「────『
メイザースが王笏を掲げた空。
超高密度の幾何学模様が天球を下地として広がっていく。それは絶えず変化を繰り返し、星の運行のように、大河の流れのように、流動的な不定形を呈していた。
マクレガー・メイザースは儀式魔術の天才である。儀式魔術がとりわけ重きを置くのは象徴の利用。道具や紋章を霊的存在、概念、あらゆる事象に見立て、術者の求める現象を実現する。
ヒトが操作するにはあまりにも大きすぎるものをスケールダウンさせることで、類感呪術の方式をもってそれを操る。日本の代表的な呪いである丑の刻参りが、特定の個人を藁人形に見立て、釘を打つことで災いを与えるように。
メイザースが描いた紋様はこの宇宙を矮小化した図像。それを組み替えたのならば、世界すらも変えることができる。
『真なる人』が思わず天を仰いだ刹那。彼の敵たちが放つ無数の攻撃を掻い潜り、雷光と陽炎が弾けた。
「余を前にしてよそ見とは、その意気やよし! 余裕を気取る暇も無くしてやろうぞ!!」
「神の子と同質の肉体と言えど、その耐久力は生物の範疇だろう。さあ、治すしかないな?」
ウリエルはついでとばかりに蹴りを入れた。砂山にスコップを突き入れたような音。炭化した『真なる人』の肉体は黒い霧状の粉になって砕け散る。
それでも彼は死『なない』。
死を生に変換し、再び舞い戻る。
骨格を組み立て、その上に肉を盛り付け、皮で覆う。いとも容易く人体を再構築してみせて、彼は眉間にしわを寄せた。
「む?」
───
今の変換は、果てしなく無駄な過程を通って実現した。
死んでいる状態を生きている状態にするのだから、いちいち体の部位を順序立てて再生する必要はない。
魔術の発動が遅くなった、というよりは。
「────…………
ジャンヌの旗の穂先が鼻頭に突き刺さる。そのまま黒炎を発し、灰も残さずに頭部を焼き切った。
「然り! これぞ我が魔術の到達点! 今や神秘の法則は塗り変わった!! 新しいほど強く、古いほど弱く───これぞヒトの学問のあるべき姿だ!!」
「モイナっちの葬式に殴り込んできた時のアレイスターのパクリじゃねえですか」
「違う! 全くもって違う! 元々は私の理論で私の思想だ! ヤツのはただまぐれ当たりの偶然にすぎん!!」
「学問の世界では何を言おうと先に成果を出した人間の勝ちだが?」
エルメロイⅡ世の刺々しい一言がメイザースの胸を貫く。
その言葉とは裏腹に、Ⅱ世は内心苦々しくもその業を賞賛せざるを得なかった。
新しいほどに強まる神秘。これは裏の世界の魔術師たちにはなかった発想だ。魔道を学ぶ者はまず最初に神秘の衰退を告げられ、〝おまえの代では根源に辿り着けない〟ことを教えられる。太陽が東から昇り西へ沈むように疑いようもない不変の真理として、固定観念を刷り込まれる。
だがしかし、表の世界に生まれ落ちた彼らにそれはない。己の業は世界さえも変革できるのだと、信じて疑わなかった。
王笏となったヘカは言う。
「さあ、過去の英雄たちに寄りかかるのは終わりだ。新時代の真人類には、君たちが引導を渡すべきだ」
錬金術の起源は紀元前一世紀。古代ギリシャ、古代エジプトの時代にまで遡る。『真なる人』の錬金術はここに、過去の遺産として朽ち果てた。
シェムハザは淡々と述べる。
「私が『無限光』を閉ざす。そのための術式を構築する間、彼に攻撃の暇を与えるな。……できるか?」
「それを私に言っているなら答えはひとつだが、私たちならば────」
「───それもまた答えはひとつですね! 行けますか、ノア!」
「……ああ」
立香の問いに、ノアはぶっきらぼうに答えた。
「…………そもそも、なんでおまえがここにいるんだ」
「いや、そりゃあだって、戦いの流れとか色々あるじゃないですか。むしろ来たのノアの方ですし」
「ごたごた言うんじゃねえ。分かってんだよ、んなことは」
「蹴っていいですか?」
ノアの声音にどこか違和感を覚えて、立香は彼の横顔を流し見る。
熱が失せ、凍てつくかのような氷のかんばせ。立香はそれを目撃して、密かに思った。
───あれ? なんだか怒ってない? この人?
ノアはガスで満たされた密室だ。その怒りは少しの火種で爆発する。触らぬ神に祟りなしを地で行く地雷原と言えよう。神というか悪魔だが。
だから、放っておくのが一番だ。彼の真価が発揮される瞬間とは満ち足りた時ではなく、飢え渇いた時なのだから。
どうせきっと、何かをやらかす。
呆れにも似た信頼を胸に、立香はコードキャストを解き放った。
「『shock(128)』!!」
最もシンプルな行動阻害の魔弾。
それは衝撃波の如き轟音を伴い、膨大な光の束となって放出された。
「「えっ」」
まさに『真なる人』へと躍りかかっていたマシュとジャンヌは咄嗟に踏み込みを中断し、顔面を蒼白にした。
空間そのものを削り取るかのような光の奔流が、『真なる人』の右半身を蒸発させる。
プラズマ化した大気がばちばちと鳴り響く。射撃というよりは砲撃、否、そんな表現も生温い火力の一撃。その威力は単純な破壊規模で言えば星の聖剣にも匹敵するほどであった。
立香はぱくぱくと口を開閉して、
「……私、何かやっちゃいました?」
「奇遇だ、レディ藤丸。私の目には貴女が亀仙流の必殺技を放ったように見えた」
「コードキャストにそんな魔術ありましたっけ。明らかにおかしいんですけど」
「ジャンヌさん。先輩の魔術がおかしいって強すぎって意味ですか?」
それ以外に何があると言うのか。マシュに抗議の視線が集まる最中、メイザースは高らかに笑いあげた。
「コードキャスト、だったか? 現時点で最新の魔術とはすなわち、最強の神秘ということ!! ただの魔弾がエクスカリバー並みの威力を叩き出したとしても、なんらおかしくはあるまい!!」
「待て、モイナよ。それならば過去の英霊たる余やウリエルは弱くなるのではないか?」
「当然、サーヴァント諸君は対象外にしているとも。ヘカの魔力支配の緻密さをもってすれば容易なことだ」
「ふ、貴様が余の時代に生きていれば無職の誹りは免れたであろうな!!」
メイザースの心に若干の傷をつけつつ、イスカンダルは走り出す。
新古強弱の逆転。立香のコードキャストをはじめ、たった三代の歴史しか持たぬⅡ世の浅い神秘も、この空間では至上のそれとなる。
対して、マシュや未来の英霊という例外を除いて、サーヴァントはこの空間では常人以下の能力となる。メイザースが彼らを術式の対象から省いたのは当然の帰結であった。
それはメイザースが数多有する魔術も同様。古い神秘はここでは意味をなさない。近代に創始した黄金の夜明け団の魔術以外の手札は自ら封じていた。
────しかし。
メイザースは、アンナ・キングスフォードを除いてはいなかった。
「
物語は常に再生産を繰り返す。
曰く、ほとんどの物語の原型は神話で出尽くしたという。それでも人は漫画や小説やアニメ、あらゆる創作物に対して〝これは新しい〟と言うことをやめない。
それは当たり前だ。たとえ全ての物語が神話の時代の原型を使い回しているとしても、それらは神話の時代に生まれたわけではないのだから。
その時々の世相や事件、個人の才能を反映して、物語は新しくなり続ける。
「『
───その最先端。新時代の怪異たちが、ここに真実を帯びた。
アンナの足元から伸びた影より、無数の異形が顕現する。
黒い背広を着た細身で長身、のっぺらぼうの男。丸い目と硬く膨れた白い肌の殺人鬼。ネス湖の首長竜。空中を高速飛行する棒状の生物。上半身だけで這いずるセーラー服の少女。口元を覆い隠すマスクを着用したコートの女性────そんな怪物たちが、一斉に『真なる人』へと襲い掛かった。
「怪談は怖──趣味じゃねえのですが……今は我慢いたしましょう。他人をビビらせようという人間の悪意の最先端に喰われるなら本望でしょう?」
「いやあオレのマスターは流石だぜ。上手く使ったら感度3000倍とかにできるんじゃね?」
「ライダー、テメェから死にます?」
圧倒的な物量を加味してもなお、『真なる人』に対抗策はない。
神秘の法則が反転したこの空間において、都市伝説の怪異たちは神話の怪物と同列の存在に昇華する。さらに、それぞれの怪異が内包する物語に由来する権能をも携えて。
現代の百鬼夜行がサーヴァントたちすらも差し置いて、真人類の肉体をバラバラに引き裂いていく。
ジャンヌは遠巻きからそれを眺めて、
「……アンタも行ってきたら? 喋って動く南極産なすびなんてUMA以外の何物でもないでしょ」
「いえ、人体発火現象の権化みたいなジャンヌさんの方が適任かと」
「まあ二人とも怪異みたいなものではあるけど?」
「立香、ホットケーキミックスを生で貪るお前も立派な怪異だ」
知恵の女神は立香のアホ毛を指先で弄びながら言った。
現代の怪異が織りなす百鬼夜行はまさしく虐殺。『真なる人』が再生を企図する度に肉体を微塵にされていく。地面にへばりついた下顎が浮かび上がり、如何な理屈か音を響かせる。
「アンナ・キングスフォード。貴様は言ったな。自分が救いたいのは今現在の人類であって、私が進化させた人類ではないと」
「あら唐突。命乞いならあの世でしてもらえます?」
「貴様が望む救済は目的ではなく手段だ。幸福であってほしい人間がみな死に、独り世界に残され、なおも生き続けたのはなぜだ」
「勿体ぶってんじゃねえクソジジイ。言いたいことがあるならさっさとゲロりやがれですわ」
『真なる人』は二の句を継ぐ。
「人は変わる。世界も時代も変遷する。変わる、変わったということを理由に救済を遠ざける。それは貴様が救いを最上に置いていない証左だ」
アンナは眉ひとつ動かさなかった。
───真人類は知っている。ローゼンクロイツは知っていた。なぜ彼女が薔薇十字団の理想に追従したのかを。
彼女は地獄を見た。
かつてのフランス、パリ。アンナは医学を学ぶため花の都に渡り、初めて医学学位を取得した最初のイギリス人女性のひとりとなる。
未だ女性が学問の道を進むことに偏見と侮蔑が絶えなかった時代。しかも当時のパリは生理学における人類の見地の躍進の中心地であり、その功績は数多の動物実験の結果の上に成り立っていた。
特に実験に用いられたのは犬。実験のほとんどは麻酔を用いず、生きたままに解剖を繰り返していた。
アンナが見たのは、そんな地獄だった。
建物の階段から、廊下から、扉の奥から、絶え間なく響く悲痛な叫び。それらひとつひとつが命の終わりを告げるものであり、そしてすぐに代わりが用意される。
医学の発展の名のもとに、他者の命を苦痛も顧みずに奪い、壊れれば打ち捨てる。その繰り返し。動物たちの目に人間は悪魔のように映っただろう。
きっと、自分も。
───怒りを覚えた。
───眼前に広がる死を止められぬ自分に、目眩がするほどの怒りを覚えた。
アンナ・キングスフォードは生まれついて病弱だった。
幼少期から文字に親しみ、初めて詩を綴ったのは九歳。十三歳の頃には自分で物語を書き上げるようになった。外で遊ぶのは好きで、特にキツネ狩りを楽しんでいたけれど、ある日自分がキツネになって追われる夢を見てから、二度とすることはなくなった。
それでも退屈とは思わなかった。
妖精眼。世界を切り替える視界はいつもと変わらぬ現実をめくるめく幻想で彩ってくれた。
部屋の隅やベッドの裏、本棚の隙間に窓辺のカーテン。そこかしこに漂う、人ならざる者たちの残滓。昔々は実在していたであろう御伽の住人の名残に触れ、本を紐解いて、物語に没頭すればすぐに時は過ぎた。
〝アンナ。妖精が見えることは、他の誰にも言ってはいけませんよ〟
従弟はいつも、そんな忠告をしてきた。女の子に間違えられそうなくらい線の細い少年。英国国教会の司祭の息子で、親に決められた結婚相手。名前はアルジャーノン・ゴッドフリー・キングスフォード。年下のくせにほんのり生意気で、見透かしたような目をする彼が苦手だった。
そんな訳なので、妖精眼の視界を言いふらしていたら、どこぞの魔術師に攫われた。まあモラルの欠如した一部の魔術師からすれば当然の結果だろう。くり抜いて保管するだけでも研究材料兼資産になるし、売れば高値は確実だ。
その時の心情は恐怖でも絶望でもなく、失望だった。どうやら現実の魔術師は思ったよりも低俗で、切羽詰まっていて、短絡的なのだと知り、絵物語に綴られた幻想が貶められた気がした。他にはどうにかしてそいつの股ぐらを蹴り上げて、鼻っ柱を潰してやろうという反骨心くらいか。
だとしても、後の出来事は絵物語にも引けを取らないくらい鮮烈だった。
〝だから言ったでしょう。無闇に言いふらすものではないと〟
月明かりに溶ける少年の輪郭。
月明かりが照らす黒鍵の白刃。
この目を抉り取ろうとした男の右手を切り飛ばし、跳ねた血を拭いながら、彼は柔らかく笑った。
運命というものが本当にあるのなら、この時のことを言うのだろう。
───だが、運命は彼との間にできた「クソジジイテメェ、誰の許可で回想ブチかましてやがりますの?」
首長竜が咆哮とともに放った熱線。莫大な熱波が『真なる人』の肉片をこの世から消し去る。アンナ・キングスフォードはただ、その光景を射殺すかのような目で睨みつけた。
自分の物語は自分だけのものだ。
他の誰にも立ち入ることは許さない。
それがたとえ旧時代を超越した真人類だろうが、この世界を読み解くみたいに真上から見下ろす神様だろうが、何人たりとも核心に触れさせはしない。
───それはアンナ・キングスフォードの哲学。この世のありとあらゆる物語を紡ぎ、現実と幻想のあわいを漂う語り部の魔女の信念。
『真なる人』は沁みるように思った。
(ふむ、だめか)
説得は通じない。ほんの少しでも迷いが生まれればその隙を狙って完全なる再生もできたが、アンナは一瞬たりとも殺意を緩めなかった。
否、生き返ったとしても所詮は死を寸秒先送りにするだけのこと。状況を覆すには至らない。
人類史の冠たる英霊と、今を生きる人間たち。彼らが繰り出す攻撃の密度は、到底隙を見出だせるものではなかった。
メイザースとヘカに大いなる『変換』の術法は封じられ、シェムハザが『無限光』を閉ざしてしまえば敗北は確定するのだ。
シェムハザは汎人類史の魔術を解析した。異なる世界の魔術の祖はとうに力を取り戻している。零秒の世界に立ち入り、今まさに無限光を封印しようとしているように。
『真なる人』の頭上に輝くベツレヘムの星は可能性の具現。変換の奇跡を行使する力の源であり、必然、その供給が途絶えれば奇跡は手を離れる。
八方塞がり、四面楚歌。
もはや逆転など望むべくもない窮地。
(だが、それにしてもなんだ)
彼の心を染め上げるのは、ただひたすらに歓喜と感動。
真人類たるこの肉体に刃を通すための言葉の加護。それを伝って想いが染みてくる。彼らの果てなき誠心の激情が。
敵同士が手を取り合い、旧人類を超絶した我が身を追い込む。これぞまさしくヒトの誉れ。
美しい。
素晴らしい。
億万の賛辞を並べても、よほど足りぬ光景を私は見ている。
(───この、安穏たる危機感は!!)
故に、私も言葉をもって応えよう。
我が悲願たる新世界は、彼らにも負けぬ希望で満ち溢れていると。
〝はじめに神は天と地とを創造された〟
聖書における最初の発話行動とは。
〝地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた〟
神による、被造物への要請。
この世界にかくあれかしと語りかける、清らかな願いであった。
〝神は「───光『あれ』」と言われた〟
閉ざす。シェムハザはそう言った。
無限光はこの世界を超えた先にあるエネルギーだ。現世に空いたベツレヘムの星という穴から流出しているために、それを埋めると無限光は出口を失う。
けれど、そうではない。
光とは。
可能性とは。
ある一所から溢れるものではなく、既に無上無辺に満ちているものだ。
だから、満たした。
この世界を可能性の光によって。
蒼き星の全生命体は等しく無限光に包まれた。
変換の業が機能不全に陥っているとしても、極大のリソースでそれを帳消しにする。
それはある意味で、ノアトゥールが掲げた目標を達成する行為に他ならない。
すなわち全人類の根源到達。『真なる人』のたった一言が、そんな荒唐無稽の無理難題を果たした。
「──────ッ」
ノアは周囲に満ちる光を目撃し、息を呑んだ。
全身を駆け巡る、岩をも融かす激情とは裏腹に脳髄は凍てつくほどに冷え込んでいた。
早すぎる。それが初めに浮かんだ想い。全人類の根源到達は目標であって、狙いはその過程における人類の進歩にある。
もし根源に行き着いたとしても、相応の準備がないままでは見知らぬ場所に放り出されたのと同じだ。然るべき段階を踏まなくては、如何に無限の可能性満ちる世界とて十全に利用することはできない。
しかし、ノアはその考えを即座に棄却した。
無限光を用いる存在はここにいる。しかも、全ての生命を進歩させる方法を持っている。
彼は悟る。
『真なる人』こそが己が理想を体現し、実現する者なのだと。
しかして思い知る。この身を焼く激情はまだ生温いことを。
「やめよう。効率が悪い。もっと善くできる」
辺りを包んでいた光が失せる。
ボツになった原稿を丸めて放るかのような気軽さで、彼は圧倒的なアドバンテージを捨てた。
つまり、『真なる人』は知らずしてノアの理想を切って捨て、
「太陽光は無限光で『ある』」
───ユメを超えた現実を、叶えてみせた。
約550兆km離れると太陽は視認できなくなる。性質上、光はどこまでも進み続けるが、『真なる人』が変換した太陽光は精々が太陽系の範囲。人理が影響を及ぼす限界に、変換の業は収められた。
天を覆う夜空すら、無限光に塗り替えられたその時。
シェムハザだけがただひとり視線を遠く、城の方角へと投げかけていた。
「貴様の世界が気掛かりか? 言ったはずだ。もはやシモン・マグスとの契約を待つ必要はないと」
『真なる人』とシェムハザのみにしか理解できぬ発言。
天使は痛感した。敵から意識をそらした刹那の甘えを。
「『極超新星』、『崩壊』。一連の事象はこの島にいる生命体以外に干渉『しない』」
「───
巨大。そんな表現を当てはめることさえ躊躇うほどの威容の星が空に現出し、即座に崩れていく。
恒星が発する光、熱、重力。ノアは粒子魔術をもってそれらを遮断するが、極超新星の崩壊がもたらす現象には抗し得ないことを悟っていた。
宇宙最大の爆発現象、ガンマ線バースト。超質量の恒星がブラックホールへと変わる時、銀河の輝きをも上回る光量のエネルギーを放出する現象である。
素粒子を支配する魔術でさえも、無限光という未知の力によって生じたこの現象に干渉することはできない。
───それならば無限光を解析し、粒子魔術の法則に書き加えるまで。
ノアが脳髄を焼き切るほどに魔術回路を稼働させようとした直前、シェムハザはその機先を手で制し、口を開いた。
「ソロモン王ならば、アレをどうにかできたか」
ノアは逡巡の間もなく応じる。
「当然だ」
…………いや、それは無理じゃないかな?
脳内でそんな声が再生される。しかも、あの気の抜けたマヌケ面もおまけに。
実際のところなんてどうでもいい。
求められたならば、あいつはやり遂げる。
不可能を可能にするのは『真なる人』の専売特許ではない。
きっと、あいつはいつもの顔で弱音を吐き散らかしながら、当然のように不可能を打開してみせる。
「そうか。その万分の一でいい。俺を信頼してくれ」
───この身を賭して、アレを防いでみせる。
魔術の祖たる天使はさらりと断言する。そして、返答を待たずに空高く飛翔した。
この言葉が報いられずとも良い。極超新星の爆発現象は必ず防ぐ。天使の中でそれは決定していて、だから、返答は聞くまでもなかったのだ。
『真なる人』は悠然と佇んでいた。
シェムハザが動くことは想定済み。既に万事は尽くし、天命を待つ必要もない。どちらの魔術が相手を凌駕するかでしかない。
他に唯一、彼が警戒したのは知恵の女神ソフィアの動向。全ての知識を取り込める彼女が水を差す懸念だけだった。
が、ソフィアは動かず。呆けたように立ち尽くしていた。それさえも『真なる人』には何らかの意味ある行為に見えたが────────
(無限光のせいで未来が見えん。可能性がありすぎるが故に世界線の取捨選択が効かん。駄目だ、足が竦んで目眩がしてきた。帰りたい。立香の影の中で泥のようにふて寝したい。いくら何でも知れると言っても実現できるかは別だ。常識的に考えて詰みだろう、これは。一応まだ死にたくないぞ。どうするんだ? 誰かどうにかしてくれ。『1/1ネロちゃまフィギュア』も作り終わってないのに。あ、過去の記憶が蘇ってくる。これってもしかして走馬灯か? 私の人生なんかよりジブリとか優しいものが見たい。いやまあ君たちはどう生きるかとか考えてる暇もなく死)
────あまりにも腰抜け腑抜け、弱者の思考。魂の芯まで弱気が染みついた生粋の敗者である彼女の心境は、それ故に『真なる人』にも読めなかった。
けれど。
彼女のような弱者のために、その天使は在る。
極超新星の崩壊は太陽が百億年で放出するエネルギーと同等以上の威力を、一瞬のうちに解き放つ。ガンマ線は凝縮・集束し、たったひとつの島を撃ち抜くべく放射された。
もはや人間の感覚器官を超越した現象。
それを前に、シェムハザは光よりも速く言霊を紡いだ。
「『
暗澹たる漆黒の影が広がる。
それは無限光とは真逆のエネルギー。
世界の上方でなく下方の極みに満ちる闇。
つまりは、不可能性の具現。あらゆる可能性を打ち消し否定する負の暗黒が、恒星の爆発と衝突し、世界を白と黒に染めていく。
ガンマ線の放出現象は精々が数秒で終わる。しかし、シェムハザが漆黒の星雲を維持できる時間はそれよりも短い刹那に過ぎなかった。
〝残る七大罪の魔王は傲慢と憤怒のみ。正直状況は芳しくはない。私たちもとうとう三人になってしまった。……いいや、サーヴァントを含めれば五人か〟
びきり、と天使の全身の皮膚がひび割れる。
魔術回路はとうに燃え尽きた。精神のみで保たせてきた写し身の肉体も限界が訪れた。シモン・マグスの術式は今にもこの魂を砕くだろう。
〝……ああ、負けるわけにはいかない。もし私たちがここで負ければ────〟
それでも、シェムハザは意識を手放しはしない。
意思だけが全てを超越する。
全身を苛む激痛。霊魂が欠ける感覚。一切合切の苦痛を正しく受け止め、あらゆる条理を想いで捻じ曲げる。
〝───人理焼却に抗うカルデアの仲間に、顔向けができなくなってしまう〟
全てはこの世界の人間に救われた恩義のために。
刹那を積み重ね。
一瞬を引き伸ばし。
無限に等しい一秒を繰り返し。
星の崩壊がもたらす極光は、ついに消滅した。
(ここまで、か)
天使は墜落する。
ぽっかりと穴の開いた城の屋根から、内部の床に叩きつけられる。
ローゼンクロイツが死に、そして新生した空間。周囲にはいくつかの人影が転がっていた。
シェムハザの目は空間の中央に引きつけられる。
生命の樹を模した大木。セフィロトのセフィラに対応するように配置された天体儀がほのかに輝く。天使はそれを縋るような眼差しで見つめた。
(きみたちの願いは必ず叶えてみせる。帰してみせる。きみがいた世界は確かに護られていたのだから)
そして、
(─────
シェムハザの仮初の肉体は、この世界から消え去った。
「一連の事象を再現『する』」
───再び、崩壊間近の極超新星が現れる。
「…………は?」
知恵の女神ソフィアは目を見開き、絶句した。肩をわなわなと震わせ、堰が切れたみたいに怒鳴りつける。
「ちょ、お前、それは……反則だろうが!!! ライダーキックにしろソードビッカーにしろ、必殺技はとどめの一度限りだからこそ尊いんだ! 燃えるんだ!! そういう情緒をわきまえろ!!!」
「アナタは情緒がおかしいじゃねぇですか」
「ノア、ソフィアさんが完全に戦意喪失してますけどどうします!? いっそソフィアさんに頼んで、プレーローマに逃げるとか────」
「いや、勝った」
立香は思わず耳を疑った。
「おまえは見てろ」
その真意を問う間もなく、彼は走り出す。
だけど、問うまでもなかった。
こういう時の彼は必ずやり遂げることを。
それで、気付いた。ノアがどうして怒っていたのか。
(あ、私のためか)
私が、ここにいるから。
────そう、おまえがここにいることが許せない。
せっかく、ようやく、人理焼却を乗り越えて、戦う必要のない世界に戻ってきたというのに、まだ立香は戦場にいる。
それが何よりも、許せない。
あの戦いは終わった。終わったのだから、後は俺のところにいればいい。それだけで俺は何を犠牲にしても、おまえを嫌になるくらい幸せにしてやる。
が、現実はそうもいかなかった。今こうして、『真なる人』に追い詰められているように。
奴は全人類の根源到達を果たし、人類を進歩させる術を持っている。それはいい。あいつを、立香を巻き込んだことに比べれば、そんなことは水に流せるくらいだ。むしろ自分の理想は成せるのだという実証になったことを感謝してやってもいい。
───だから、ノアトゥールは『真なる人』を否定する。
そのための理論は掴んでいた。
シェムハザが見せた、魔術によって。
問題は、極超新星の崩壊よりも早く『真なる人』を叩けるか。
瞬間、車輪の音が響く。剛腕がノアの後ろ襟を掴み、鋼鉄の鞭が胴体を巻いて吊り上げる。
「ローマ皇帝とマケドニア王の超豪華お届け便だ! たぶん人類史上初の栄誉だぜ、しっかり噛み締めろ!!」
「うむ、これほど豪勢な配達もあるまい! 勝つ───その言に偽りはないな!?」
「答えるまでもねえな。おまえはハッタリで何人も殺してインドまで行ったのか?」
「ふっ、ならばよし! 貴様の道理をこの現実に通してみせるが良い!!」
しかし、『真なる人』は見逃してはいなかった。
ノアの真価とはバルドルの権能でも、ドヴェルグに由来する無属性魔術でもない。
パラケルススとの戦いでブランクルーンの活用法を見出したように。
黒白の偽神サクラとの戦いで粒子魔術を編み出したように。
目の前に用意された壁を超えるため、既存の手法から新たな魔術を生み出す───再利用、再発見、ブレイクスルーの天才。それこそが彼の才能の根本であると、かつてのローゼンクロイツは分析していた。
油断はない。『真なる人』は意識を彼に傾ける。
ガンマ線バーストを引き起こす前に、ノアを葬っておくべきだと。
「この攻撃は必ず当た」
「────『
紅き炎が炸裂する。
まさしくウリエルの真名を示す宝具。唯一神の力の一端を振るう、焔の剣。その一撃は『真なる人』の眼前で、風に吹かれたみたいに押し流された。
宝具の真名解放はそのサーヴァントが持ち得る最大出力。それを防がれたにも関わらず、ウリエルは微笑み、真人類は表情に緊張を走らせる。
「さらばだ、救世主足り得た人類よ」
防いだ。
それこそが両者の余裕の差。
真人類に魔力を用いた攻撃は効かない。言葉の加護を纏った一撃も、今や太陽系規模のリソースを得た彼には掠り傷にも満たない。
だが、『真なる人』と同じ力、無限光を介したのならば、増やしたリソースはそのまま彼に牙を剥く。
堕天使なれど聖人たるウリエルに、天上の力を御せぬ道理はなかった。
「もう、終わりにしよう」
───ノアは『真なる人』へ迫る。
真人類を倒す理論はある。シェムハザが見せた、無限光とは対極に位置する力。それを再現し、今度は直接敵に叩き込む。
無限光とは『王冠』の先にある領域。魂の位階を神のそれに到達させてもなお届かぬ、別次元の理だ。
ならば、その対極にある力を得るにはどうするか。
───魂の位階を下げる。それが唯一の方法。
上限ではなく下限を目指す。数値が増えるにしろ減るにしろ、無限に近づくことに変わりはない。ただ、明るいか暗いかの違いがあるだけだ。
暗き淵の底の底。
マイナスの極点。
人知無能の暗黒。
ノアは暗澹たる無明を拳に込め、
「───いけすかねえ
「…………ああ、その通りだ」
───『真なる人』の心臓を突き刺した。
極超新星が像を失う。胸の中心を貫通した穴から血肉がこぼれ落ちる。全身全霊に満ちる全能の可能性が打ち消されていく。
我が内に在る光。これが全て消えた瞬間、『変換』の業もまた失われ、死を否定できなくなるのだろう。
「だが、まだだ!!」
追撃。顔面に振るわれた左拳の手首を、両手でもって食い止める。
無限光の対極。その力の関係は一方が一方を凌駕するものではなく、相互に干渉しあうものだ。故に、この身体と霊魂を侵食する深淵の無明は、無限光で打ち消せるはずだ。
そして、その総量は圧倒的にこちらが有利。
「ヒトは───人類は、こんなところで足踏みをしている場合ではない!! もっと善く、より善く、幸福な未来へと邁進する!! 今までのように犠牲を、罪過を積み重ねることなく、誰もが手を取り合って先へ進んでいける!!! もう原罪を抱えて生き」
「『
「『
蒼黒の毒炎が全身を包み、絶死の魔剣が胴を袈裟に断ち割る。
騎士と伯爵は吼えた。
「なんだかよく分からねえが、寝てるのにも飽きたんでな!! おいしいところは派手に持って行かせてもらうぜ!!」
「存在が変わろうと標的であることに変わりはない。この島が貴様の墓標だ!!」
「いいや、まだだ、まだ───私に、死の概念は『ない』!!」
「まだも何もねえよ、さっさと終わっとけ」
硬質の杭が『真なる人』の鳩尾を貫く。
杭の後端から伸びる鋼糸。それを手繰るのは、金髪碧眼の少年だった。
「『摂理解錠/転生批判』。ロア用に取っておいた、第七聖典のレプリカだ。メガネ野郎のおかげで使わずじまいだったがな。カレー臭くねえことに感謝して死ね」
聖堂教会の教えに転生の概念はない。死後の世界に送られた魂が戻ってくることはなく、最後の審判の時に選別された魂が肉体を得て復活する。生き返りは認めていても、生まれ変わりは認めていない。
本来はロアに対する特攻兵装。生まれ変わりを繰り返す蛇にとって、転生批判の理は致死の毒となる。
しかし、ひとりの少年が蛇を殺したことで、マーリオゥの切り札が日の目を見ることはなく。それ故、『真なる人』を穿つに至ったのだ。
真人類の変換は確かに起こっていた。彼から死の概念は失せ、戦闘の続行に支障はなかった。
マーリオゥは唇から垂れた血を拭い、
「死は否定できても、これは無理だ。テメェはローゼンクロイツありきの存在だからな。転生の否定はテメェの存在の否定に繋がる」
それは過去で自分の両親を殺すようなものだ。自身を生んだ存在が無くなれば、当然自分の存在も無くなる。
加えて、その杭は死徒ロアを殺すためのモノ。死徒の肉体に自然法則を書き込み、元の肉体に戻した上で浄化する。つまり、『真なる人』はローゼンクロイツへと回帰する────そう、既に死んだ状態のローゼンクロイツへと。
(それでも、まだ)
思ったのは『真なる人』か、ローゼンクロイツか。それさえも、もはや分からなかった。
眼球は像を結ぶことを止め、代わりに過去の残影を映し出す。
あるひとりの魔術師の始まりを。
この世に生を受けた時から、彼の中には理由なき善意が渦巻いていた。
人を助けるのに理由はいらない。ではなく、理由はないけれど人を助ける。義務感でも使命感でもなく、食べて寝て起きるように、根源的なシステムとして、それが組み込まれていたのだ。
彼が最初に得た名前はアポロニオス。
母はアポロニオスを体に宿している時、夢の中で盲目の吟遊詩人にこう告げられた。
〝お前は、私を産むだろう〟
その詩人は、とある神が変化した姿であった。
ギリシャ神話の海神プロテウス。ギリシャの海の支配者であったが、外宇宙よりオリュンポス艦隊が地球上に飛来したことで、その座をポセイドンに奪われた零落神である。
しかしプロテウスは保険を遺していた。機神たちによって数多の神が駆逐される最中、人間の娘と契り、己の血脈に術式を仕込んだのだ。
自己の意識と権能を子孫に発現させる───すなわち転生である。
プロテウスが設定した転生の条件は『オリュンポス十二神による支配の終焉』。
時はローマ皇帝ティベリウスの治世。かつてギリシャの人々が語った神話はローマのそれに取り込まれ、ゼウスはユピテルへ、ヘラはユノへ、その真名を変容させられた。
そも、生物の生存競争とは強者が生き残るのではない。かつて地上を跋扈した恐竜も、隕石の衝突とそれに伴う寒冷化でほとんどが絶滅した。極寒の地球を生き延びたのは被捕食者に過ぎなかった哺乳類だ。
機神たちは強者であるが故に、弱者の視点を持たず、適者生存の理に沿うことができなかった。
敵よりも長く自己を残す。それが生存競争における勝利と言うのならば、プロテウスは確かに勝利したと言えるだろう。
───これぞ、まさしく再生の時。
ここに至るまでに数多の恥を忍んだ。新参の海神ポセイドンの子として伝えられるような苦渋を舐め、ついに我が時代は到来する。
地球外の侵略者に奪われた民と、支配の座を取り戻す。血を受け継ぐ赤子の意識を染め上げ、プロテウスは目を覚ました。
「───…………いいや、この力にはもっと善い使い方があるはずだ」
海神の唯一の誤算は、その赤子が生まれながらにして感情を持ち合わせていたこと。
否、それは必然だった。プロテウスが自己を塗り潰すというのならば、その言語が、感情が、思考が流れ込む。赤子は余すことなくそれらを学び取り、本能ならぬ理性によって産声をあげた。
「支配する者は必ず滅びる。神であろうとする限り、いつか来たる神代の終わりには逆らえない」
より善く。
「力とは振るうものではなく、継ぐものである。個で完結する能力は一代のみの突然変異に過ぎない。他の誰とも共有できない。つまり、客観的視座に欠ける不完全さを抱えている」
より善く。
「そんなものでは善き世界は成らない。貴殿の望みは勝ち得なかった者に勝つ実感を求めただけの、虚ろな自慰行為だ」
より善く。
もっと善くなる。まだまだ善くできる。
赤子は海神の野望を問い殺し、その意識を魂の奥底に沈めた。
全ては強大な自我、嵐の如く渦を巻く理由なき善意によって───アポロニオスはかくして、母の腹の内から人の世へと這い出したのである。
そして、彼にとって常人が身を削る人生のあらゆる障壁は障壁足り得なかった。解答集を見ながらプリントに答えを書き写していくかのように、どんなことも難なく解決した。
当然の如く魔術を修め、極めた。多くの弟子を取り、魔術を仕込んだが、自分に並ぶほどの者は現れなかった。
「駄目だ。何かが足りない」
私も彼らも、もっともっと高みを目指せるはずだ。
人間の可能性はこんなところでは終わらない。眩いばかりの無限で満ち溢れている。
「そう、何かが────」
そして、彼は見た。
ふと訪れたガリラヤの会堂。とうに助からぬと見捨てられた亡者の如き病人の群れが、その男に群がっていた。
ぼろを着込んだみすぼらしい風体の男。彼の手が病人たちに触れる度、彼らを苦しめる病魔はそっくり取り除かれる。
魔力も魔術も使わずに、病を癒やすその現象はまさに奇跡と言う他なかった。
その時、アポロニオスは思った。
(────こ、これかァ!!!)
0.9999999……が1になった瞬間のように、頭のてっぺんから股ぐらにかけて、果てしない電流が突き抜ける。
魔力を使わずに奇跡を起こす。彼の力さえ再現できれば、たとえ地球の神秘が薄まり、魔力が枯渇したとしても問題はない。否、その前に宇宙の彼方にだって飛び立てるだろう。
それで、人の霊魂の位階を上昇させ、神の位地へと押し上げる術の研究を始めた。
工房に籠って理論を組み上げる。そのことに没頭し続け、しばらく経った後、弟子から衝撃的な事実を告げられた。
「そういえば神の子だか救世主だかが処刑されるらしいですよ。銀貨三十枚で売られたとかなんとか」
「…………なん……だと……!!?!?」
アポロニオスは走った。メロスのように走った。山越え谷越え、増水した川もひとっ飛び、金目当ての山賊たちは地面に逆さに突き刺した。その速さたるや、ヘルメス神も舌を巻くほどである。
あんなにも素晴らしい存在が死ぬなどあってはならない。死ぬとしても研究材料として指の一本で良いからいただきたい。
が、現実はそう甘くなかった。三日前に処刑は行われ、十字架から降ろされて埋葬されていた。
……せめて、墓から遺体を盗み出すか。そんなみっともない考えすら浮かんでくるほど、アポロニオスは落胆した。行きはよいよい帰りは怖い。山谷と川をとぼとぼと乗り越え、埋まっていた山賊たちをまた逆さに埋め直し、適当な酒場でくだを巻いていると、
「なんでも、三日前に処刑された男が生き返ったとか」
「なにィ!!?」
聞き流せない噂話を耳にし、とんぼ返りした。
けれど、エルサレムに戻った時既に遅く。
「そ、そこの貴殿!! 神の子が……救世主が復活したと聞いたのだが!!」
「えっ、その人ならさっき天に召されていきましたけど。というか耳元で叫ばないでくださ……」
「─────…………くっ、クソォォォォォォォォ!!!!!」
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!! 鼓膜ないなった!!」
と、アポロニオスと神の子はすれ違い続け、ついぞ言葉を交わすことも触れ合うこともなかった。その時は憤慨したものだが、今となってはこれでよかったのだろう。
彼に似せた霊魂、肉体を造り上げたとしても、それは彼を模倣したナニカでしかない。人それぞれが持つ資質を最大限に活かすことこそが、真人類に至る方法だったのだから。
とはいえ、それは未来から過去を見た上での話。時代が移り変わり、ネロ帝の治世下では救世主を信じる人間への弾圧が苛烈になっていた。
ネロは即位してから数年は善政をしいていたが、次第に叔父カリギュラ帝の血を露わにしたのか、凶行乱行尽くしとなった。おそらく、彼女の運命を分けたのはローマの大火だろう。
皇帝はローマを襲った大火災の原因を救世主の信徒に求め、さらに側近であり師でもあったセネカを殺害してしまう。各地で捕らえられ、殉死していく信徒たちの叫びは喝采となってネロの悪名を謳い上げた。
時代を暴力の嵐が包み込む最中、かつて救世主に付き従ったひとりの男の運命もまた、終わりが近づいていた。
シモン・ペテロ。十二使徒の筆頭にして、後の世では初代ローマ教皇とされる人物。彼は弾圧と迫害の中心地であるローマに赴き、シモン・マグスとの戦いを経て、逆さ十字の上で死んだ。
アポロニオスは二人の戦いの一部始終をその目で捉え、決着がつくと、興味を失ったかのように踵を返した。
「…………どこへ行かれるのですか? テュアナのアポロニオス」
つい先程、地面に墜落して死んだ男が、そこにいた。
「復活───いや、それにしては肉体の組成が違う。魔力で編んだ幻影か?」
「決戦魔術『降霊儀式・英霊召喚』。それをダウングレードした術式を、死後発動するように仕込んでいました。とはいえ、半ば賭けでしたが……ある意味では復活と言えるでしょう」
「過度な謙遜は嫌味になる。ネロ帝の宮廷魔術師。死人をも生き返らせたと言われる貴殿ならば、英霊の座に召し上げられたとしてもおかしくはない。まさか自分を召喚するとは驚きだが」
「これはどうも。ああ、早速本題に入りましょうか」
シモン・マグスは湿り粘ついた笑みを貼り付け、
「ともに世界を救いませんか?」
「いいぞ」
アポロニオスは即答した。シモンは一瞬きょとんとして、ばつが悪そうに咳払いする。
「西暦2016年、ソロモン王の眷属によって世界は滅びます」
「うむ。鍵となるのはレフ・ライノールという男だったな。しかし、わざわざ世界を救うと言うからには、彼を殺せば済む程度のことを言いに来たのではあるまい」
「ええ、ライノールは見逃してください。私が狙うのは人理が焼却されるその一瞬。特異点という楔を打ち込めるまでに不安定化した人類史に、私だけの特異点───いえ、異聞帯を発生させます」
「それは汎人類史を否定するものだろう? 如何にして救済をせんとする」
シモンは薄く微笑み、首を横に振った。
「いいえ、その世界は汎人類史を救うための世界です。決して否定し、滅ぼすためのものではない。その世界線への分岐となるターニングポイントは─────」
魔術師は言った。まさしく、人類史のターニングポイントとなる出来事を。
それは百年戦争でもなく、暴君の治世でもなく、大航海時代でもなく、産業革命でもなく、アメリカ独立戦争でもなく───ヒトが人間となる以前、原罪無き時代の出来事だった。
アポロニオスは虚を突かれたみたいに顔色を失い、すぐさま破顔する。
「は、はははっ!! なるほど、貴殿はイカれているな!? それを分岐とするということは、全ての人類を認めぬことと同義ではないか!!!」
「それくらいでないと、世界なんてものは救えませんよ。ただ、結果が同じであれば何も私の方法でなくとも良い」
なので、とシモンは告げた。
「私が負ければ貴方が、貴方が負ければ私が───各々、人類と世界を救うために進み、お互いに助け合いましょう」
「よろしい。それでは契約だ。人理焼却が終結してから一年を期限として、私の救済が果たされなければ貴殿に権利を渡す」
「良いのですか? こちらに大分有利な条件ですが」
「短すぎるくらいだ。私たちには約2000年の準備期間がある。無論、協力を惜しむつもりもない」
───そうして、アポロニオスとシモン・マグスは契約を結んだ。
最初にアポロニオスが取り組んだのは、ゲーティア以外の者による滅びを排除するための礼装の作成。並びに、自己へかける保険の用意だった。
アポロニオスという存在を人類史に刻む。奇しくもそれはフィロストラトスという男が、アポロニオスの伝記を遺すことで成された。
「貴殿が、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエかな?」
「───? ええ……」
アポロニオスだけでなく。
近代魔術の源流となるクリスチャン・ローゼンクロイツの伝説。それさえも、アンドレーエの力を借りて刻みつけた。
全てはより善い世界のため。
より善く、もっと善く、どこまでも善く。
それが、アポロニオス/ローゼンクロイツの唯一の本能。
だけど、善くして善くして善くしきった時、完成してしまったのならば、次は何をすれば良いのだろう?
ついぞ、答えが出ることはなかった。
「それでも、まだ、終わらない」
『真なる人』は負けた。
それは認めよう。しかし、この理由なき善意はまだ死んではいない。
シモンがそうしたように、死後、自らをサーヴァントとして召喚する。そのための術式を組むことなど造作もない。
アポロニオスとローゼンクロイツをこの世に喚び戻す。
(───待て、もっと善い方法があるんじゃないか?)
でも、思いついてしまったから。
それを止めることなんてもう、できなかった。
「『
正真正銘、最後の変換。
材料は城の最奥に鎮座する『
前者はシミュレーターだ。フランスの聖杯争奪戦において、メイザースが得た生命の樹の枝を空想樹として培養した、紛れもなく本物の世界。
「───この世界は、シモンの異聞帯で『ある』」
世界は反転する。
『真なる人』は敗北した。
そう、彼らが想定していた通りに。
2000年を超える宿痾。彼の根源たる理由なき善意はついに、終着を得た。
(さて、次は、何をしようか)
…………男は初めて渦巻く善意から解き放たれ、死の刹那をこれからの生き方を考えることに使った。
神樹聖杯第九階層イェソド。
無数のクレーターで覆われた灰色の大地。荒涼とした風が肌を撫ぜ、乾いた空気が全身を締め付ける。
頭上に広がるのは満天の星空。星々は手を伸ばせば届きそうなくらい近く、そこかしこにきらきらと流星が瞬いていた。
無人の荒野に、彼女はいた。
「まったく……ほんっっとうに、どうしようもない人たちですねぇ」
染め抜いたかのような真白の髪。それを一点彩る真紅のリボン。豊かな曲線を描く肢体は艶めかしい影に包まれている。
「ここまでは脚本通り。これからが全てに終止符を打つ戦いの始まり」
くすり、と彼女は笑う。
六分の一の重力の地面を月の兎のように跳躍して。
「……とまあ、カッコつけてみましたけど。そんなの全部壊しちゃうのが私っていうか? 運命に囚われないのが神様の特権ですし?」
黒白の偽神。
欺瞞の造物主。
───サクラは、天駆ける流星の軌跡を愛おしげになぞった。
「精々、私の役に立ってもらいますからね───立香さん♡」
・アンナについて
真名:アンナ・キングスフォード
性別:女性
誕生日:1846年9月16日
魔術系統:童話魔術『幻想綺譚』
魔術属性:空
魔術特性:昇華
魔術回路・質:A
魔術回路・量:A
魔術回路・編成:異常(彼女の魔術回路は血液のように常に流動している)
真っピンクのゴスロリを着こなした絶世の美女。彼女の弟子であるメイザースもそうだが、菜食主義者。ヘリオガバルスがそのことを知った時の第一声は〝その暴力的な体つきで野菜だけ食うとかウソだろ〟だった。一秒後にヘリオガバルスは塵と化した。
貿易商の裕福な家の生まれで、アンナ自身も当時の女性としては非常に珍しく、パリ大学の医学部を卒業した超エリートだった。というかイギリス人女性で最初に医学学位を取得した中のひとりだった。なぜこんな人の弟子にメイザースとかいう無職ヒモおじさんができてしまったのか。
しかも有り余るお金持ちパワーで出版社を買い取ったり、ベジタリアン協会の副会長を務めたり、自分自身も食品改革協会を設立したりと、菜食主義の方の活動にも力を入れている。なぜ彼女が菜食主義に傾倒していたかと言うと、その根底には動物愛護の思想があった。
というのも、アンナは当時の医学生で唯一動物実験を行わずに卒業した学生だったのである。当時の生理学における動物実験は多くの場合、麻酔を使わずに行われるものであり、アンナはその光景を端的に〝地獄〟と表現している。また、女性が医学を学ぶことへの風当たりも強く、周囲からも嫌がらせを受けていた。彼女を紹介する文言として、菜食主義者や反動物実験、女性の権利活動家などが使われる背景には、やはりパリでの生活が大きく影響していると思われる。
……こう書くと、どうして魔術やオカルトに関わったのか不思議に思われるかもしれないが、実は幼少期から妖精を見たり、夢枕にマリア様が出てきたりと彼女の人生には常に心霊体験が纏わりついていた。オカルト的なアレコレを無視して語るならアンナは病弱だったため、服用していた薬の副作用ではないかという見方がある。が、この世界は奇跡も魔法もあるので副作用+アンナの類稀な神秘の素養故とする。霊的現象に親しんできたアンナは魔術の方面でも才能を開花させ、1883年には神智学協会のロンドン支部会長にまで登り詰めている。けれど翌年、アンナはエレナおばあちゃまと対立し、神智学協会を脱退してヘルメス協会を立ち上げた。
アンナがエレナと不仲になり神智学協会を脱退したのが1884年の3月頃。ヘルメス協会の創立は同年の4月22日で、初回の講演が5月9日。かなりのスピード感であることがわかる。前々から準備はしていたのか、アンナのカリスマのなせる業か、はたまた後述する協力者たちのおかげか。記念すべき初回講演のお題は『聖ジョージと竜に関して』。著書でもこのテーマを語っているので、相当好きだったことがうかがえる。おそらくゲオルギウスと会った時は限界オタクになる。
アンナとエレナの対立の原因は両者のスタンスの違いにあったと言える。アンナはキリスト教神秘思想のカリスマであったのに対して、エレナは西洋の伝統的価値観に対立しインドなどの東洋思想に傾倒していたため、折り合いが悪かったのだろう。1884年前後はエレナが冷遇・白眼視されてきた頃でもあったので、それも影響していたのかもしれない。ちなみにアンナのヘルメス協会設立には、かねてより関わりのあったメイザースやウェストコットが力を貸しており、講演にも登壇している。メイザースの珍しい真っ当な善行と言えよう。一方、この二人はエレナの友人だったりする。アンナもエレナも、自分たちの対立を下の世代に持ち込むような人間ではなかったのかもしれない。
もうひとり、アンナの魔術師人生を語る上で欠かせない人物がいる。それはエドワード・メイトランドという作家で、結婚して一年で息子を遺して妻に先立たれてしまい、文学に専念していた。メイトランドはアンナと出会ってから彼女の支援に尽力することとなる。アンナのパリ生活からヘルメス協会設立まで、彼女を大いに支援し、アンナの没後は彼女の伝記を書いている。アンナより二十歳以上歳上ということで、精神的にも彼女が存分に頼れる数少ない人物であったのだろう。高飛車お嬢様とデキる老執事みたいなアトモスフィアを感じる。晩年のアンナは夫やメイトランドと一緒に旅行に出掛けたりしている。
アンナは信奉者からは女神と讃えられるほどのカリスマで、同時代の人間に多大な影響を与えている。その代表的な例はもちろんメイザースであり、アンナのおかげか、黄金の夜明け団はこれまた当時珍しく、男女平等を掲げる組織であった。そして、世界最大悪人ことアレイスターもアンナのことは認めざるを得なかったのか、〝神智学を可能にしたのは彼女だけ〟〝世界の半分の人々の考えを変容させるのに十分な創始力を持っていた〟などとべた褒めしている。……………………なのに、〝不道徳な女〟とこき下ろしてもいる。アヘンをキメすぎて情緒不安定になっていたのだろうか。ここではアンナの魔術に敬意を持つ一方で薔薇十字団に与したことへの落胆と解釈する。
アンナの魔術『幻想綺譚』はあらゆる物語を現実に変える。物語のキャラクターを引き出すこともできるし、現実に物語の筋道を当てはめることもできる。また、逸脱しすぎない範囲での拡大解釈も可能。これだけで大抵のことはできるが、アンナはこの魔術以外でもバリバリイケる。むしろ神体化は『幻想綺譚』に拠らない術式なので、基礎基本を極めたからこその超絶っぷりと言えよう。そんな訳なので、魔術の技量はローゼンクロイツにも並ぶ。実際に戦った場合は全能がある分、ローゼンクロイツがやや有利といったところ。
実はノアの大天敵。適当にヤドリギの枝を用意して、『幻想綺譚』で〝ヘズがバルドルを殺す話〟を再現すれば、神体化状態のノアを確殺できる。しかし、アンナは人殺しをしないので、時間稼ぎを目的に防戦するしかなかった。絶対防御で調子乗ってるアホに三話の間付き合わされたアンナとヘカとシェムハザに個人的なMVPを贈りたい。
個人的にメイザースとアレイスターが2トップだとしたら、アンナはその次に来るくらい好きな歴史上の魔術師。実のところ、一話からゲーティアとの決戦まで、彼女のポジションにはカリオストロかサンジェルマンを据え、メイザースの回想で触れるくらいにしようと考えていた。カリオストロとサンジェルマンは薔薇十字団の一員という伝承があるのでその繋がりだった。一応ここでも二人はローゼンクロイツと面識がある設定。
しかし、地獄界曼荼羅でカリオストロの名前が出ていることから登場の予感を察して見送り、strange fakeでサンジェルマンが登場して作っていた設定がボツになり、急遽アンナの登板が余儀なくされた。その際のサンジェルマンは自分の子供に自分の魂を転写して擬似的な不死を実現した変態で、ヘリオガバルスと変態コンビを組ませる予定だった。
ローゼンクロイツ→アンナ→メイザースという近代魔術史を追う意味では一本化できたので結果オーライと思いたい。
黄金の夜明け団の設立経緯として、ウィリアム・ウィン・ウェストコットという人物が書簡を受け取り、神殿建設の許可を受けた話がある。書簡の送り主はアンナ・シュプレンゲルという名の女性。…………今となっては書簡は捏造品であり、シュプレンゲルはウェストコットの創り出した架空の人物とされている。第86話でアンナが言った〝ウェストコットの脳内彼女〟はシュプレンゲルのこと。ここではウェストコットがアンナ・キングスフォードをもとに、アンナ・シュプレンゲルという架空の人物(タルパ)を作ったことにしている。これはアンナ・シュプレンゲルの存在がアンナ・キングスフォードに影響を受けているという話があるため。これには流石のメイザースもドン引きした。そしてキングスフォードの方のアンナはウェストコットを半殺しにした。
本編ではアンナが流れをぶった斬った、夫アルジャーノンとの馴れ初めだが、ここでは彼は聖堂教会の代行者だったという設定。ただし、異端は異端でも死徒ではなく魔術師狩りを専門にしていた。あの後Fateな出来事を経て結ばれるのだが、書き切るには一話必要&アンナにキレられるので割愛。
アンナとエレナ、メイザースとアレイスターは近代魔術史の潮流を語る上でひとつの対立軸を組むことができると思う。すなわち、アンナとメイザースが西洋神秘思想の総括者であり、エレナとアレイスターが東洋神秘思想を取り込んだ革命者である。この物語ではそれぞれのスタンスを後継する現代魔術師が二人いる。最終章後編で明確に描く予定。
・『真なる人』について
真名:如何様にでも定義せよ
性別:両性あるいは無性
魔術系統:その分類に意味はない
魔術属性:私の時代にはない
魔術特性:そんな概念は必要ない
魔術回路・質:EX(最高を意味する)
魔術回路・量:EX(最高を意味する)
魔術回路・編成:完成。────しかし、新時代の真人類が神秘を行使するのに魔術回路は無用。生命体として極々当然に備えているものであり、神秘の業は肉体の資質に依らない。
作中、死を経験し、死を超越する儀式の果てにローゼンクロイツが至った存在。唯一神を目指すのではなく、人たる資質の極限を突き詰めた結果、これに到達した。ぼくがかんがえたさいこうのまじゅつし。
『真なる人』が扱う魔術体系は現行人類史に存在しない。何かが別の何かに変わる万象流転の法則を支配する。旧時代の言葉を借りて名付けるなら、『大いなる業(アルス・マグナ)』と言ったところか。その変換の業は物質のみならず、概念や事象にまで影響する。〝ここにない〟という現実を〝ここにある〟と変換することで、あらゆる無法を実現する。
もはやできないことの方が少ないが、人間に直接変換の業を適用することはできない───しない。なぜなら人間を意のままに支配するのは神の領分であり、あくまで人間の極致を目指した『真なる人』は抵抗の余地なく他者を変容させることはしないからである。人は人と対等であるから、一方的に変換の業を押しつけない。それが自らの救済を押しつける『真なる人』のささやかな情けであった。
というわけで、アダム・カドモンと他の全生命体は生きる時代そのものが違う。そのため、扱う力の根源さえも異なる。魔力を消費して魔術を使うというのは我々の時代のシステムであって、アダム・カドモンにそれは当てはまらない。自分たちの神秘のフォーマットがバンダイ版遊戯王だとすると、アダム・カドモンはコナミ版遊戯王。ゲーム的に言えば、戦闘で参照するステータスも違う。ノアたちは『ちから』『すばやさ』『かしこさ』などで戦うが、アダム・カドモンは『ンゴェョッャ』『ぬゅもすぃょょび』『@d9"i6xl』のステータスで戦う。もはやゲームが違うレベル。何を言ってるか分からない? 時代が違うので仕方ない。たぶん愛しさと切なさと心強さとかだろう。
旧人類が彼を倒す方法はおおよそひとつ。アダム・カドモンをローゼンクロイツに戻す、それだけである。この現在とこれからの未来はこれまでの過去なくしては存在できない。タイムパラドックスの問題によくあるように、過去が変われば全てが変わる。アダム・カドモンが唯一変換できないものは〝自分がローゼンクロイツであった事実〟である。その過去を否定してしまえば最後、彼はこの世に存在できなくなる。故に、この過去に関わる攻撃は変換の余地なく通用する。マーリオゥが打ち込んだ転生批判の術式によって、アダム・カドモンはローゼンクロイツとなり、ノアに殺された状態で巻き戻るために死亡した。
本編ではとんでもない無茶苦茶をやらかしたが、天敵がいないわけではない。その種類は二つ。ひとつが外宇宙の生命体。そしてもうひとつが、外宇宙に存在を根ざすフォーリナークラスのサーヴァントである。「人理? 地球のローカルルールでしょ?」と一蹴できる奴らには、さしもの真人類も分が悪い。フォーリナーのサーヴァントはスペック差からして真っ向撃破はほぼ不可能だが、それでも作中のように言葉の加護を用いずとも攻撃を通し、上記の手段でなくとも殺し切ることができるだろう。
じゃあ脱法召喚されたグランドフォーリナーは? …………『真なる人』を相手取るのとどちらがマシか、手持ちのサーヴァントを確認して挑戦しよう。蒼輝銀河の連中なら、いつものドタバタの一幕で処理してくれるはずである。
アダム・カドモンとはカバラにおける最初の人間である。しかし、普通アダムと言って連想されるような、ゼウスと殴り合ったり、葉っぱ隊にいそうだったり、サングラスかけたマダオの手に埋め込まれてそうなあの人ではない。ここからの話はWikiなりでセフィロトの樹の画像を見ながら読んでもらうと分かりやすいかもしれない。
セフィロトの樹とはこの世界を表した図像だが、アダム・カドモンはこの世界よりも先に生まれている。『無(アイン)』から『無限(アイン・ソフ)』が生じ、その『無限』が『無限光(アイン・ソフ・オウル)』に満たされたことでアダム・カドモンは誕生したとされる。この『無限光』から『王冠(ケテル)』ができ、『王冠』から下位のセフィラが流れ出して、セフィロトの樹(=自分たちの世界)が生まれた。これがカバラの思想……だが、控えめに言って、何を言っているか分からないので、ここではアダム・カドモンは端的に『人間の究極かつ真実の姿』とする。『無限光』とはセフィロト=世界を生むほどの可能性であり、その可能性が具現化したのがアダム・カドモンである。つまり、全ての人間はアダム・カドモンになれる資質を秘めている。FGO本編でキリ様が成し遂げようとした理想とは似て非なるもの。
『真なる人』は全世界の人々に死を経験させ、本来の姿に造り直すことで救済を果たそうとした。アダム・カドモンとは世界をも生む可能性の塊である。───型月風に言い換えれば、ひとりひとりが『アーキタイプ︰俺』になる。今日からみんなもアルクェイドやククルカンの仲間入りだ!