自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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第99話 生命の相場、暴食の化身〜婚約破棄された生贄寵姫は夜も眠れない〜

 

 

 

 ───その男は、凍えていた。

 

〝時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った〟

 

 それがいつからかは覚えていない。

 ただ、諦めた。

 ヒトがヒトの上に立ち、支配し、搾取する構造。深遠にして広大、醜悪で悪辣な仕組みの存在を知っていくうちに、いつしか熱は消えていた。

 

〝「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った〟

 

 仕方がない。

 仕方がない。

 仕方がない。

 持たざる者の不幸が利益になることが明らかになったその時、人類から尊さは失われた。人命は価値に変換できる俗物に成り果てた。

 だって、そうだろう?

 ヒトの命はカネになるが、カネはヒトの命にならない。誰もが大事だ大切だと叫ぶ生命というモノは、所詮消費していくだけの消耗品なのだから。

 

 …………〝■■■を裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた〟

 

 命の価値は平等か?

 否。不平等であることが自然だ。

 不平等は無くせるか?

 否。なぜなら、誰も気にしていないから。

 ならば、この世に正義はないのか?

 否。正義はある。それが万人のためにあるとは限らないけれど。

 結局のところ、正義とは価値があるとされるモノを多く持つ人間のためにあり、富める者がさらに多くを得るシステムを形成・維持していく方便なのだ。

 

 

 

 ────ああ、寒い。

 

 

 

 故に、男は凍え、思考を放棄した。

 血も涙もある人間たちが仕組む構造には血も涙もなく。

 その冷たさが、彼の心から熱を奪った。

 しかし。

 それでも。

 だからこそ。

 凍えた我が身を動かすに足る熱を知った時、彼の歩みは始まった。

 あるいは。

 彼の生は、その瞬間から始まったのかもしれない。

 男に熱を与えたのは───────

 

〝彼はすぐ■■■に近寄り、「先生、いかがですか」と言って、■■■に接吻した〟

 

 ────地獄の果てまでも忘れ得ぬ、口づけの温もり。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『この世全ての罰(アケルダマ)』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 使徒言行録第1章18節から19節。

 

〝彼は不義の報酬で、ある土地を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この土地が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の土地」との意である〟

 

 イスカリオテのユダ。彼は自らの師を裏切った代価である銀貨三十枚を用いて、ある土地を買った。

 しかして、彼はその土地で死んだ。腹が真っ二つに裂け、臓物を飛び散らせ、裏切り者の血が土に染み込んだ。

 それこそは対人理宝具。

 ヒトのヒトたる尊厳を地に堕とす、冒涜と腐敗と汚濁の呪界。

 固有結界とは似て非なる業。人道に悖り、邪道を正道とする術が魔術だとするのらば、それはまさしく悪魔の術法であった。

 

「…………この世にはたくさんの言葉遊びがあるよな?」

 

 例えば、好きの反対は嫌いでなく無関心、とか。

 例えば、全能者は自分が持ち上げられないほど重い石を創れるか、とか。

 いや、そもそも、全能者はできないことができないのだから存在として矛盾している……だとか。

 

「しかし、だ。この世の大抵の人間は好きを語れるほど誰かを本気で愛したことはないし、自分が持ち上げられないほど重い石を抱えたこともないし、だいたい全能なくらい完全なモノは想像すらしたことがない」

 

 男は虚空へ言葉を投げかける。

 監獄星最下層。一面の闇が広がる空間は寒々しく空々しい音を反響させていた。

 

「だからお前たちは考えたこともなかっただろう? 仲間との友情を胸に人類の滅亡と立ち向かい、たゆまぬ努力で強敵を倒し、誇らしい勝利を手にした自分たちがこんな!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───十把一絡げのモブキャラみたいに、瞬殺されるなんて!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の掌中で、十枚の銀貨が擦れ合う。

 イスカリオテのユダ。彼が有するたったひとつの宝具『この世全ての罰』。

 そのただひとつの力は第三魔法『魂の物質化』。

 しかしそれは言うなれば最悪かつ最低な────結界に取り込んだ生命体を銀貨というカタチに変換するという────これ以上なく害悪な改悪版であった。

 極めつけに、この宝具は問答無用。たとえペレアスやダンテが一般人よりも強大な魂を持っているとしても、マルタやゲオルギウスが聖人故にあらゆる呪いを退けるとしても、だからといって物質化を免れることはない。

 なぜなら、ユダという自他ともに認める最高で最大の裏切り者は、誰もが信じ崇める最強で無敵の救世主を死に追いやったのだから。

 結局のところ、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』にしろ『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』にしろ、それらは相手を倒し勝つための武装だ。付け加えれば、武器は使い手によって性能が左右される。鬼に金棒とは言うが、騎士王や英雄王は言わずもがな、鬼なら極論素手で殴っても強いのだ。

 けれど、ユダのそれは使った時点で勝利が決定する反則技。もはや殴り合うだとか斬り合うだとかの次元にない。屈強な鬼でも貧弱な人間でも、地球破壊爆弾を与えれば、使い手が誰であろうと結果に違いはない。

 つまりはそういうこと。

 イスカリオテのユダに真っ当な戦いができるはずがなく。ましてや、する必要もない。バトル漫画チックな手に汗握る激戦を期待するだけ無駄だ。

 否、これは戦いですらない。身を削る血生臭さはおろか、技を交わすなどもってのほか。ただただ一方的に障害を排除するための手続きだった。

 というわけで。哀れ世界を救うEチームの健闘は、虚しくもここで幕を閉────

 

「いや、他人の本気を嗤うなよ」

 

 ────じるなんてことは当然なく。

 当たり前のように、ソレは立っていた。

 闇の中で燦然と輝く白き影。果てなき呪いと罪過が結集するこの領域において、彼は凄然たる光を纏う。発する言の葉は琴を奏でるように清らかで、その眼差しは凪いだ水面の如く澄んでいる。

 

「別に良いんだよ。ワンピース全巻持ってるだけでオタクを名乗っていいし、トロッコ問題を大喜利にして知った風な口を利いてもいい。みんな面白おかしく適当に、それなりに真面目に生きてるだけだ」

 

 それを我が物顔で見下すなんて。

 

「そんなことは無礼不躾不届き千万! 君は反省すべきだと僕が決めた!!」

 

 びしりと人差し指が向けられる。

 それを見て、ユダは思った。

 

(…………誰だ、こいつは?)

 

 己が必殺の宝具の誤謬を突き詰めるよりも先に、眼前の男に対する違和感が募る。

 カルデアレイシフトEチームリーダー、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。彼の情報は既にシモン・マグスから得ている。───得ているが故に、違和感が甚だしい。

 一人称、二人称の差異。

 何もかもを見下す悪辣な美貌は包み込むような柔らかさと暖かさをたたえ。

 鋭く傷口を抉る氷柱みたいな声もまた同様に、優しい熱を帯びた光の如く沁み入っていく。

 傲岸不遜な魔王が、ページをめくったら温厚篤実な勇者の振る舞いをしているみたいな心の引っかかり。だが、ユダの頭脳は疑問を覚えた次の瞬間に、答えを導き出していた。

 

「バルドルか。ヒトとしてではない、カミとしての霊魂。神殺しのヤドリギの他に誰も何も害せぬ絶対防御───成程、私の呪いなど効かぬはずだ」

 

 だがしかし。

 ユダは見せつけるように右手をあげる。それが示すのは、バルドルを除く全員の魂を人質に取っている事実。言うまでもなく脅迫と恫喝を意味していた。

 

「……だから?」

 

 枯れた大木が倒壊するが如き音色。ユダの右腕はぐしゃぐしゃにひしゃげ、人間の腕とは似つかぬ肉と骨の断片に成り果てている。

 それは瞬きの間に、などという次元ではない。バルドルは優にユダの視覚の限界を超越し、瞬きさえ許さずに敵の腕を圧搾し、圧壊せしめたのだ。

 常人ならば即座に気を失う激痛。ユダは眉ひとつ動かさず、汗ひとつ流さずに冷徹な調子の言の葉を継ぐ。

 

「ああ、知っていたよ」

 

 ───この時点で、ユダの敗北は決定していた。……否、宝具を発動した時からそれは決まっていた。

 使った時点で勝利が確定するという大前提が破れ、真っ当な戦いになったのなら、彼にもはや勝ち目はない。真っ当な戦いをする必要がないからこそ、ユダの宝具は必殺足り得るのだから。

 ましてや、相手は光輝の美神バルドル。オーディンの王座を継ぎ、数多の戦士の頂点たる存在となるはずだった不死身の神だ。その戦力差は筆舌に尽くしがたい。

 結局のところ、ユダの命運はバルドルの手に委ねられている。腕を潰すのみで命を奪わなかったのは、彼を殺害した場合、宝具の影響を受けた仲間がどうなるか予想がつかなかったからにすぎない。畢竟、それは真っ当な戦いとも言い難く、ユダは判決を待つ罪人の立場に等しかった。

 

「〝全ての生物・無生物がバルドルを傷つけられぬよう忠誠を誓う〟…………何度聞いてもふざけた理論武装だが、それでもお前は死んだのだろう」

「そうだね。もっとも、それを成し遂げた武器はこの体内にあるわけだが。車の鍵を車内に閉じ込めたようなものだよ」

「───だからこそ、私はお前を殺せる」

「ん?」

 

 ユダの残った左手がバルドルの胸に触れる。

 それは、宝具ではなくスキル。

 かつて彼は銀貨三十枚と引き換えに、救世主を磔刑へと至らしめた。

 しかして、その逸話はある意味で矛盾している。ヒトを超えた神たるニンゲンを、低俗な人間が殺したのだから。救世主が磔の結末を望んだにせよ望まなかったにせよ、ヒトが神を殺すという絶対的な不可能だけは揺るぎない。

 故に、ユダはその矛盾を再現する。

 不可能を可能にする。

 不可能が不可能なまま実現する。

 ヒトはそんな事象に、ある名前を与えた。

 

「〝今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように〟」

 

 マルコによる福音書11章。ベタニヤという村を出発した救世主はその時、空腹を覚え、道端にイチジクの木を見つける。

 しかし、イチジクの木は実をつけておらず、救世主はその木に呪いをかけ、立ち枯れにしてしまった。

 当然、言葉だけで植物を枯らすなど彼の他にできるはずもなく。それはまさしく、不可能を可能にしていたと言えよう。

 …………ヒトはそんな事象に、ある名前を与える。

 それ即ち、奇跡。

 ユダのスキル『裏切りの銀貨』───貨幣と化した生命を支払うことであらゆる奇跡を再現する、冒涜の御業。

 不可能を可能にする逆説の法。全ての生物・無生物が忠誠を誓っているからこそ、バルドルを傷つけ得る邪悪なる聖蹟。

 過たずイチジクの木の呪いは光輝の神を蝕み、生命を枯らす。

 

 

 

「君は大きな勘違いをしている」

 

 

 

 なれど、その奇跡はバルドルの漲るような光をまったく陰らせることはなく。

 白き神は瞬く間もなくユダの左手を千切り飛ばし、鳩尾に前蹴りを叩き込んだ。

 

「〝全ての生物・無生物がバルドルを傷つけられぬよう忠誠を誓う〟───これがどういうことか、全くもって理解していない」

 

 バルドルの足は鳩尾を貫通していた。

 血に濡れた右足を引き抜きながら、彼は告げる。

 

「真に重要なのは忠誠を誓うという部分だ。僕は全ての生物と無生物を従える立場にある。具象や抽象、概念を含めてね」

 

 つまり。

 

 

 

 

 

「───『奇跡』さえも僕の味方だ。君に微笑むはずがないだろう?」

 

 

 

 

 

 彼は相も変わらず、陽射しのような微笑で言い切った。

 

「何よりも、他者を害する奇跡を僕は奇跡なんて呼ばない」

 

 遍く生物と無生物を従える王。

 万物万象の支配者たる貴神において、不可能も可能も等しく己が下僕にすぎない。

 故に。

 

「奇跡とは、こう使うんだ」

 

 一切の詠唱も動作も挟まずに、彼は手中の銀貨を元に戻してみせた。

 どうやって?

 そんなことは論ずるに値しない。

 不可能という概念を排し、可能性にかくあれかしと命ずる。

 それだけで、万事は成る。奇跡は王に頭を垂れる。光の皇子はいっそ傲慢なまでに万象を隷属せしめ、ユダの呪詛を否定した。

 バルドルは朗らかに微笑み、

 

「お別れだ、イスカリオテのユダ。君を成敗するのは僕ではないと、運命が言っている」

 

 言うが早いか、聖女マルタは駆け出していた。

 繰り返すが、ユダに真っ当な戦いはできない。武の心得など毛頭なく、サーヴァントとしてのステータスもダンテと伍する程度でしかない。

 しかし、そうでなかったとしても、その拳は命中していただろう。

 

「ッしゃおらぁぁぁぁっ!!!」

 

 渾身の右ストレートがユダの顔面に突き刺さる。

 まさしく裂帛の怒声とともに繰り出された鉄拳は男の身体を優に吹き飛ばし、地面を何度もバウンドしてようやく止まった。

 血濡れた黄衣の影はぴくりとも動かない。マルタは激情の原色を塗りたくったような形相で叫んだ。

 

「あなたには腐るほど言いたいことがあるけれど────今の一発でチャラにしてやるわ!! さあ、立ち上がりなさい!!」

「女性の怒り顔って……なんかこう、ゾクゾク来るよな兄者」

「弟者よ、お前この状況でそれ言う?」

「この二人だけはコインのままで良かったのに……」

 

 マティアは遠い目になる。その一方、赤と黄の影は揺らめく陽炎のように身を起こした。

 バルドルとマルタが与えた傷は跡すら残さずに修復されている。聖書でも数多く登場する治癒の奇跡。だが、それは聖性を貶める外道の法。聖女の緊張が張り詰め、激情に薪が焚べられていく。

 その傍らでゲオルギウスは静かに言った。

 

「貨幣で奇跡を買うとは、まるでシモン・マグスですね」

「ヤツなどと一緒にするなよ。私が支払っているのは罪人の命で、実際に奇跡を再現している」

「いや、なおさら質が悪いですわ」

「つうかそれってアレだろ。聖職売買(シモニア)だったか?」

 

 ペレアスは苦々しげに言う。

 シモニア。その名の通り、魔術師シモン・マグスを由来とする言葉・行為である。中世のローマカトリック教会は厳格な階級制度が定められており、上位の役職となれば自らの土地を所有し、数多の財を握ることができた。シモニアとはその地位を金銭で買う行いであり、11世紀には聖職者でありながら妻帯し、清貧を旨とするはずが富の奪い合いに走るほどの堕落と汚職の横行を招いた。

 使徒言行録第8章9節から24節には、シモン・マグスが後の初代ローマ教皇シモン・ペテロから聖霊を授ける力を買収しようとした話が記されている。

 なればこそ、ユダはマルタたちの怒りを買うに十分すぎた。

 裏切ったとはいえ、救世主に最も近しい人物のひとりだった男が、生命を糧に奇跡を偽行しているのだから。

 しかして、ユダは彼らを嘲るように鼻を鳴らした。

 

「田舎娘。お前には失望した」

「……はあ?」

「〝聖女マルタは悪竜を聖水と十字架によって鎮めた〟……そう聞いたのだがな。その実、お前は拳という暴力をもってリヴァイアサンの仔を屈服させたのだろう。なんたる欺瞞か。聖女の伝説は虚飾に彩られた偶像だったというわけだ」

「くっ! ネチネチと他人の急所を……偏屈な物言いは死んでも治らなかったみたいですね!!?」

 

 彼の言葉に圧はない。

 だが、その代わりに致命的なまでの誘引力があった。

 それは蠱毒の壺に指先を漬けたみたいな悍ましさを伴い、身体の端から壊死の毒で侵していく。ユダの眼前に立ち、言葉を交わすということは精神的な凌遅刑を受けるに等しい。

 それは単純なこと。

 病んだ人間の心に触れることは痛い。

 たったそれだけの、明快な理屈だった。

 

「所詮はそんなものだ。この世に聖たる者はあのお方ただひとり。他は有象無象にも劣る塵芥。聖人なぞかの威光に集る屑の蛆虫に過ぎぬ。私が裏切ったのはお前たちが情けないからだ。恥ずかしくないのか? 誰もがその奇跡に与るのみで、あのお方と対等であることを諦めた。故に、私は殺したのだ」

 

 ───そして、結果は知っての通り。

 救世主は死の間際、神と契約を交わして人類の原罪を拭い去り。

 三日後の日曜日に復活し、肉体を持ちながら昇天してみせることで、死後の希望を世界に示した。

 

「必然、私がいなければそれらの現象は起こり得なかった。彼を崇め、祈るだけのお前たちには到底成し得ぬ奇跡!! 天の父は私の存在こそを必要としていたのだ!!!」

 

 ユダは初めて表情に色を滲ませ、恍惚に浸っていた。ノアは死んだ魚のような目で、鼻の穴に小指を突っ込みながら、

 

「オイ俺の下僕ども。率直な感想を述べろ」

「誰が下僕だ。……アグラヴェインより陰湿なやつを初めて見た」

「ATフィールドを侵食されてる時ってこんな気分なのかもしれませんわ」

「そ、そうですねえ。磔刑の際に交わされた契約にユダさんが欠かせなかったというのは説として一考の余地がありますが……そもそも裏切りと殺人の罪を棚上げしてマウントを取っているのが受け入れ難いと言いますか……」

 

 ダンテの言に同意するように、マルタは拳を強く握りしめる。

 

「その通り! 神がどうこう以前に人が見逃すはずないでしょ! 捻れ曲がったその性根を叩き直してやるわ!!」

 

 ユダはけろりと能面のように表情を固めて、

 

「そうか、殊勝なことだ。ところで、私が柄にもなくくだらぬ言い争いに付き合ってやっていた意味には気付いていたか?」

 

 その時、ぶんと羽音が響いた。

 初めはたったひとつの音が多重奏を奏で、混ざり合い、腹の奥底を掻き乱すかのような旋律が空間を埋め尽くす。

 ほとんどの人間が耳にしたであろう音。ふとした瞬間に、あるいは眠りにつく前に、耳孔を掠める蚊の羽音。響き渡る音はそれを一層凶悪に悍ましく仕上げた不快極まる調べであった。

 戦慄をもたらす音響に最も当てられたのは、マティアらこの世界の住人たる三人と一頭。とりわけ亜種霊長類の三者は心拍さえ止める勢いで硬直している。

 

「ヒトはなぜ虫の羽音を不快に感じるのか。それは本能だ。時に致死の毒を打ち込み、時に病を媒介する小さな旋律の恐怖は遺伝子に刻まれている。……亜霊もまた同様に」

 

 ───それは、かつて地球上の全生命の三分の二を喰らい尽くした厄災。

 

「『滅びの種子』脅威等級Ⅱ『万死の虫皇(アポリオン)』。慰神戦争において最も多くの命を奪った、『七大罪の魔王』ベルゼブルが眷属にして遺児!!」

 

 そして、無数の害虫が席巻した。

 一匹一匹が大型の車両に等しいサイズを誇る巨躯。真っ赤な複眼と鋼鉄の外骨格、体躯を彩るのは鋭利な鎌に巨大な角に猛毒の針───それはありとあらゆる武装をふんだんに備え、ありったけの殺意と害意をその形状に表している。

 その群れに見境はない。ノアたちのみならず、監獄星の獄長でありこの状況を見据えていたユダにも当然区別はない。

 害虫の群れは身体に溢れる殺意と害意のままに襲い掛かった。

 

「ゴリラ───は怯えてやがるな。次点でペレアスと聖人ども! 行け!!」

「うるせえ!! お前もいつもみたいにビーム撃ってろ!!」

「状況は彼の目論見通りですが、悪くはありません。この機に乗じて制圧しましょう」

「じゃあこいつも連れていけ」

 

 ノアはダンテの首根っこを押さえ、ゲオルギウスが騎乗する戦馬の尻に放った。ダンテは一瞬間を置いて、くしゃりと顔を歪ませる。

 

「え?」

「しっかり掴まってください。行きますよ!!」

「イヤアアアアアア!! 最終章でまでこんな扱いは嫌ですゥゥゥ!!!」

 

 ゲオルギウスが愛馬、ベイヤードは清浄なる光の一条となって駆ける。目標はユダ。辺り一面を飛び交う害虫の嵐はまさしく壁の如くはだかっていた。

 だが、竜殺しの聖人は一直線に一切合切を貫き通す。

 唯一神の加護を宿す彼には、魔王の眷属といえど薄氷ほどの障壁になりはしない。単純な戦力以上に、聖性と邪性の相剋がその突撃を鎧袖一触足らしめているのだ。

 ゲオルギウスが視界の果てにユダを捉えた時、ダンテは勢い良く腕を振り上げる。

 宙に舞う詩の薄片────対象を強制的に天国へと送り込む結界宝具。ダンテからのその発動条件を満たしたと同時に、ユダは己が結界の呪詛を強めた。

 先刻聖人たちをも銀貨に変えたように、白薔薇の天界を呪いで塗り替える。

 

 

 

 

 

「『至高天に輝け(ディヴァーナ)   〝汝この門をくぐる者、一切の望みを棄てよ〟   永劫凍結する第九魔圏(デル・ルチーフェロ)』」

 

 

 

 

 

 けれど、そこには、三つの誤算が重なっていた。

 ひとつはダンテの宝具が天国と地獄の鏡合わせであったこと。

 ひとつは地獄の宝具においては悪魔の王を喚び出す結界であること。

 ひとつは魔王の眷属で分け身たる『万死の虫皇』が存在していたこと。

 

「素晴らしい世界だ。地球なぞ比べ物にならぬ生命の繁茂を感じる。我が晩餐を饗するに有り余る繁栄ぶりだ」

 

 …………時に、ダンテの神曲において。地獄の底に幽閉されている『悪魔大王』は作中、三種類の名前で呼ばれている。

 その内のひとつは、暴食の大罪に据えられた悪魔の名であった。

 すなわち、ベルゼブ──────

 

 

 

「────ベルゼビュート。この名を魂魄に刻め、知的生命体。家畜どもは己が誰に喰われるのかも知らずに殺されるが、貴様らはそれを知ることができる。故に教えてやった。これは貴様らの特権だぞ。俺が与える無上の栄誉に歓喜するが良い」

 

 

 

 血の園と地獄の底が混濁と融け合う異界の中心に、ソレはいた。

 強烈な死の気配を漂わせる、絶世の貴公子。足元にまで伸びた長髪は血で染めたかのように毛先まで赤黒く、肌色は蝋の如くに白亜なれど、物理的な圧力すらも伴う生命力と凶気が渦巻いている。

 

〝でも、やっぱり心配かな。もしかしたら、本当に世界を滅ぼすのはあなたなのかもしれない〟

 

 ダンテはジャック・ザ・リッパーの言葉を想起する。第七特異点。ティアマトとの戦いでも、地獄の宝具は意志と反して発動された。

 

(彼女が言ったのは、このことだったのか)

 

 貴公子は黒と銀を基調とした荘重なる装衣を纏い、雅やかに歩を進めた。

 その、第一歩。右足が地に着いたと同時、大地が太鼓の打面みたいに激しく歪み、跳ねた。

 それはベルゼビュートが有する魂の規模、存在の質量が起こした現象だった。星が自らの重力によって周囲の時空を歪めるように、ベルゼビュートの一挙一動は世界を歪曲させるのだ。

 震撼と戦慄。余人の意識がそれらに支配される最中、ノアとユダだけは他所に意識を割いていた。

 

((───どうしてこいつが現れた?))

 

 しかし、即座に、両者はその思考に意味がないことに気付く。

 神が全知全能だとするならば、悪魔は人知無能の存在。理屈や理論を超越したモノであり、それを測ろうとすること自体が間違いだ。

 だが、あえて言うなら、この場には要素があった。

 悪魔大王が囚われる地獄。暴食の眷属たる『万死の虫皇』。ユダの呪い。まるで深海の熱水噴出孔から原初の単細胞生物が誕生したように、あたかも無から宇宙が生まれたように、ベルゼビュートを出現させるに足る要素がここに揺蕩っていたのだ。

 刹那の逡巡を経て、両者の意識はかたや逃走へと、かたや攻撃へと傾く。

 

「遅い」

 

 その迷いは、致命的だった。

 ベルゼビュートは悪意をもって地面を踏み抜く。

 そして、その衝撃は監獄星の核を貫き、一個の惑星の終焉をもたらした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針を逆に回して。

 一方、第四惑星ケセドでは総督トゥリシュナによる惑星規模のギャンブル大会の開催宣言がされていた。

 優勝賞品は『十二使徒』────カルデアレイシフトAチーム七人の肉体。賭けるのは魔人トゥリシュナが与える花弁。立香は今、十枚の花弁が連なる鮮やかな桃色の花を手のひらに収めている。

 初期資金は等しく十枚から。空には花弁の枚数と所有者を並べたスクリーンが映されている。星を見下ろすほどに巨大化した魔人も、今はどこかへ消えてしまっていた。

 サクラは自身に与えられた花を握り潰し、

 

「始めましょうか。第四惑星大虐殺ショーを。花弁を集めたら勝ちなら、全員から奪ってしまえば良い話です」

「オイオイ、キレたアンナよりやべーぞこいつ。せっかくのゲームなら楽しまなきゃ損だろ。どんなことにもルールはあるんだぜ?」

「は? ブタ臭い口で喋りかけてこないでくれます? 私は神様なので、誰かのルールに従うわけないじゃないですか」

「あの総督が出てからなにやらイラついてるご様子ですが、あの人を知っているんですか?」

 

 マシュがそう訊くと、サクラはそっぽを向いて答える。

 

「ええ、私にサクラという名前をつけたヒトです。それだけですが?」

「の割には瞳孔かっぴらいてますけど。本当に暴れるつもり?」

「総督が対策を考えていないとは思えませんが…………」

「いや、というか、普通にさせませんよ?」

 

 立香は単調な物言いで流れを遮る。サクラは彼女の前に立ちはだかると、不敵な笑みを浮かべた。

 

「へえ、あなたにできるとでも? マスターがサーヴァントを好き放題できると思ったら大間違いですよ?」

「いいえ、契約書にはこうあります。〝サクラは藤丸立香の命令に絶対服従〟と」

「…………はぃ?」

「ほら、ここに」

 

 立香は腰のポーチからスクロールを開いて見せる。

 確かにサクラの筆跡で名前が綴られており、契約の条件として提示された第一文にはデカデカと例の文言が記載されていた。

 サクラはあんぐりと口を開け、契約の一部始終を思い出す。

 

〝それじゃあ、これにサインしてください〟

〝はぁ〜い♡ 立香さんが言うなら太ももに正の字でも何でも書いちゃいます♡〟

 

 ……と、ロクに文章を読まずにペンを走らせたのだった。

 サクラはめしゃりとスクロールの両端を掴みつつ、その場に居合わせたマシュとジャンヌを睨みつける。

 

「どうして教えてくれなかったんですか!!?」

「「教える義理があるとでも?」」

「分かるぜその気持ち。オレもソシャゲの利用規約とか読んだことねえからな。むしろ読んでるやつの方が珍しいだろ」

「そこのヒトはただ色ボケてただけでは?」

 

 狐の亜霊、サフィラはぼそりと呟いた。この世には読ませる気のない文章が存在する。アプリの利用規約などはその最たる例で、読破したら石が貰えるとなっても手をつけない人は多いだろう。

 とはいえ、サクラのようなアホをやらかすことは少ないだろうが。

 かつてウルクを相手に大立ち回りをしてみせた恐ろしさはどこへやら。抜き身の刃のようであった気配は鳴りを潜めていた。

 サクラはなけなしのプライドで腕を組んだ余裕な風を取り繕う。

 

「っふ、ふぅ〜ん? だからどうしたって言うんですかぁ? それじゃあ好きなままに命令したらいいじゃないですか。嫌がる私の意思を捻じ曲げて! エロ同人みたいに! エロ同人みたいに!!」

「……なぜわたしたちは第七特異点で、こんなのに良い様にされていたんでしょう?」

「アレでしょ、敵が仲間になったら弱くなるやつ。こいつの場合は頭ですけど」

「でも、無理やり従わせるのは私もしません。……一位にしてくれたら、私が一回だけなんでもしてあげる」

 

 その瞬間、サクラは冷凍されたマグロみたいに固まる。

 立香の言葉が脳内をビリヤード球のように乱反射し、口内で幾度か反芻する。サクラは呆然と独り言じみた声を漏らした。

 

「………………じゃあ、もしかして、セッ」

「私はノアのものなんでそれは無理です。まあ、おねだりの内容は要相談ってことで」

「くっ! 仕方ないですねぇ! デンジャラスでビーストな衣装を着た立香さんに私の○○○を○○○○してもらうことで手を打ってあげます!!」

「だから要相談だけど!!?!?」

「先輩、それよりもわたしの脳を壊すような発言をしたことを謝罪してください」

「アンタそのネタ最終回まで引っ張るつもり? 一発屋芸人じゃないんだから」

 

 で。

 サクラの第四惑星大虐殺ショー計画が立ち消えになったところで、ジャンヌが切り出す。

 

「奪うなんかしなくても、サクラならこの花弁を複製するなりして増やせばいいんじゃないの」

 

 その提案を受け、サクラは数度右手の五指を開閉する。が、偽神の権能が創造するはずの花弁は影も形もなかった。

 

「……あの人の仕業ですね。どうやら『賭ける』以外の手段で花弁を増やしたりはできないみたいです」

「マジかよ。ちょっくらオレが立ち○ぼで稼いできてやろうと思ったのに」

「燃やすぞブタ」

「結局大虐殺ショーはできなかったということですか。サクラさんの行動まで縛るとは、あの総督は何者なんですか?」

「トゥリシュナは監獄星の総督と並んで謎が多い人物です。分かっていることは、自由自在に姿形を変えられる変態ということと……後は、他者への干渉ができることくらいです」

「とりあえず、ちゃんとギャンブルで稼ぐしかないみたいですね」

 

 立香が一旦の結論を出すと、サクラはどんと胸を張って告げる。

 

「この私に任せておいてください。創造の権能が封じられようと、私は依然チートオブチートのラスボス級ゴッデスですから! ささっとその他モブどもを地下帝国送りにしてあげます!」

「なんだろう、この微妙に信頼できない感じは」

「先輩、微妙というか派手に信頼できません」

「……まあ、とにかく一戦交えてみるのが良いでしょう」

 

 第四惑星。歓楽星の何たるかを知り尽くすサフィラだけが、先を予見していた。

 サクラの自己改変はありとあらゆる能力を自身に付随することができる。彼女が思いつく限り、どんなイカサマでも実現させられるため、賭博という分野においてもラスボス級ゴッデスの謂れは伊達ではない。

 数十分後、立香たちはカジノから一時撤退する。倍ほどに増えた花弁を見て、むむむと唸った。

 

「……増えてるけど、思ったより勝ててない?」

「全員初期資金が一律ですからね。どうしても薄い張りばかりになるので、勝てても実入りが少なくなってしまいます」

「大きく張るやつがいないから、そもそもデカい勝ちがないのよね。このままチマチマやってたら、順位が団子状態で終わりそうだわ」

「どいつもこいつも小賢しいイカサマばっかりしてくるんですよ。私なら大体は勝てますけど、勝ちきれないっていうか」

 

 サクラは苛立たしげに親指の爪を噛む。

 通常、賭博は参加者の掛け金に差があるのが当然だ。だからこそ大穴を引いた時は大きく勝ち、安定択を取ればそれなりの見返りしか入らない。

 ただし、今回の賭場は全員が十枚という少ない予算で参加している。リタイアを防ぐために安定択ばかりが採用され、勝てたとしても小さな配当だけに留まっているのだ。

 それでも、場が煮詰まれば多くの勝利を重ねた者に資金は集中し、最後は彼らの間での奪い合いになる。そうなると一転、大きな張りが多くなり、一発逆転の機会も増えるだろう。

 それは立香たちにとっては好ましくない展開だ。一度の負けが順位に影響し、目的を果たせない確率が上がってしまうのだから。望むべくは圧勝の他にないのだ。

 そこで、サフィラは言った。

 

「この世界の住人はほとんどが肉体に埋め込んだ機械で魔術を扱えます。おまけに第四惑星のギャンブラーはすべからく百戦錬磨、勝つためならどんなものも犠牲にするクズ揃いです。経験値の差は如何ともし難いかと」

「たしかに、花弁だけじゃ燃えないから勝手に血液とか目玉とか賭け始めたヒトもいたよね」

「異常なのはそういうのがひとりやふたりじゃないことです。おかげで肝臓だの腎臓だのがちょっとしたビジネスができそうなくらい揃っちゃいました」

「サクラ、それ返してきて。今すぐ!!」

 

 立香はサクラをけしかけ、臓器の返却に赴かせる。

 文句を垂れながら飛んでいく偽神。変態マゾブタ皇帝はそれを流し見つつ、軽薄に笑った。

 

「みんな魔術使えるとか最高じゃねえか。誰もがアンナみたいなレベルじゃないだろうが、どうやって管理してんだ?」

「仕組みを作ったのはシェムハザとアザゼルです。前者は術式のクラウド化を、後者はデバイスの製作を担当しました。当時はこの二羽が全ての魔術行使を検閲していましたが、銀河皇帝が覇権を握ってから規制が緩くなり、マナの消費量に応じた従量課金制に移行しました」

「課金!!? 少し詳しく!!」

「立香、落ち着きなさい」

 

 サフィラはこほんと咳払いして、

 

「さらに宮廷魔術師シモン・マグスは独自に定額課金制のサービス『manazon_prime magick』を────」

「なにそのシモニアの極致!?」

「ジャンヌさん、買ってるのは奇跡ではなく魔術です」

「推定ラスボスがやることかな……!?」

 

 立香は絶句した。彼女とて現代を生きる女子高生、この世はあらゆることが商売になることはなんとなく理解していたが、あまりにもあんまりな仕業だった。主にネーミングセンスが。

 ともかく、賭博で勝ち切れないのは相手が魔術を使うことも一因だ。イカサマとは一方的にやるから強いのであり、全員がイカサマ合戦をするともはやそれぞれの優位はなくなる。

 ヘリオガバルスはハッと閃くと、街行く通行人たちに向けて叫ぶ。

 

「オイお前ら!! manazonよりオレのアナ」

「ハイアングルトランスファー!!!」

 

 マシュの空中降下突撃がヘリオガバルスに引導を渡す。

 ちょうどサクラが臓器の返却を終えて戻ってくると、さっきまで皇帝だったものが辺り一面に転がっていた。

 

「ブタの屠殺にしてはオーバーキルすぎません?」

「いいえ、ただの変態を滅したまでです」

「ふうん。食用には適さなそうだったんでもったいないとも思いませんが。時にみなさん、メンタルの強さに自信あります?」

「……若干一名、時折脳が崩壊する奇病を抱えてるけど、まあ大丈夫でしょ」

「どうせ数行したら復活するしね」

 

 ジャンヌと立香の発言に首を傾げるマシュ。Eチームマスターと同様に、彼女から自身を省みる能力は失われていた。そんななすびを他所に、サクラは告げる。

 

「じゃあ、ついてきてください」

 

 ……目下、問題は大きく張れる資金がないこと。掛け金が抑えられるということは必然、賭場の盛り上がりも低くなる。

 それはトゥリシュナにとっても望ましくない傾向だ。故に、魔人は歓楽星の各地に『試練の間』を設置した。

 試練の突破により、一挙千枚の花弁を獲得できる施設。広間の中心には透明な壁のドームで囲まれた、一本の樹木が根を張っていた。その周囲では、幾人もの亜霊が地べたに寝そべっている。

 だが、かの魔人が一律の資金による賭場の盛り下がりに思い至らなかったのか。

 あるいは、この試練こそがトゥリシュナの本命だったのかもしれない─────

 

「この木は監獄星から密輸入した『滅びの種子』。脅威等級Ⅲ『覚りの木(ガジュマル)』。これが撒く花粉は生物を夢の世界に堕とし、めくるめく逸楽の幻想を堪能させる。一定時間内に目覚めることができれば試練突破だぞ」

 

 ────その、魔人の面影がある女性が、逆バニーガールの衣装を着て呼び込みを行っていた。

 曰く、第四惑星総督は変幻自在。性別こそ違えど、それがトゥリシュナであることは立香たちにも見て取れた。なにしろ纏い持つ甘やかな空気だけは、隠し切れていなかったから。

 魔人は一行の到来に気付くと、冷ややかな美貌をじっとりと歪める。

 

「おや、オマエたちも来たか。早かったな。受ける試練はこれで良いのか? 他にも『〇〇しないと出られない部屋』や『感覚遮断落とし穴』等々もあるぞ」

「何ほざいてんですか? そんなえっちなの立香さんに受けさせるわけにはいかないんですけど?」

「どの口が言ってるんですか」

「そうか。まあ良いぞ。参加するならこの腕輪を装着しろ。時間内に覚醒できなかった場合、電気刺激で強制的に起こす仕組みだ」

 

 立香、サクラ、サフィラと腕輪を受け取っていき、トゥリシュナはわざとらしく喫驚する声をあげた。

 

「おっと、この試練は大盛況でな。腕輪が足りなくなってしまった。オマエたちはここで待つか他の試練に参加するといい」

「分かりました。では、ジャンヌさんは感覚遮断落とし穴に行ってきてください。わたしはここで待機します」

「焼かれたいの? ボケなすび。アンタが行きなさい。それともビビってんの?」

「わたしがその安い挑発に乗るとでも? 上等です。出られない部屋で決着をつけましょう」

「煽り耐性クソザコじゃないですか」

 

 というサクラのツッコミも届かず、マシュとジャンヌはメンチを切り合いながら去っていく。立香はその後ろ姿に呆れにも似た不安を抱きつつ、トゥリシュナに導かれてドームへ足を踏み入れる。

 最初に感じたのは、蜂蜜を煮詰めたかのような甘い香り。次に彼女の感覚を揺さぶったのは、

 

「『不変(あい)』を持つ少女よ。オマエが如何な夢を見るのか、おれは楽しみで仕方ない」

 

 陶酔する、魔人の声音だった。

 全身麻酔を経験した人間が口にする体験談。手術室に入って、気付いたら病室にいた───しかし、『覚りの木』は異なる。

 目覚めるのは現実ではなく、夢想の世界。

 気付いた瞬間には、夢幻に囚われるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ────時は中世。剣と魔法の世界。

 少女は大陸の覇権を握る帝国の子爵家に生まれた。

 貴族の家に生まれし子女はその性別に関わらず、家に奉仕する存在となる。ただその関わり方が違うだけで、当主でさえも例外ではない。

 貴族に自由恋愛の権利は───不倫や浮気以外に───ない。相手を決めるのは自分の意思ではなく、親の意向に左右される。より強く大きく、家を発展させるために。何においても先に立つのは家という概念なのだ。

 そんな世界で生きる少女リツカ・フジマルは婚約者ソ・コラヘ・ンノモブ伯爵とのお茶会で、突如告げられた。

 

「───ミス・フジマル。貴女との婚約を破棄させてもらう」

「えっ……────?」

 

 伯爵はカップを取る手をぷるぷるとわななかせながら続ける。

 

「……なぜか分かるかね? そう、貴女が我が家のワイン蔵を」

「そ、そんなっ……!! ただワイン蔵をホットケーキミックス貯蔵庫に改造したり、伯爵の贈り物を質に入れて競馬したり、娼館で変な病気もらってきたのを社交界で言いふらしたりしただけなのに───っ!!!」

「えっ、ちょっと待って? 色々と初耳なんだけど? そんなことまでしてたの? もう婚約破棄どころじゃないじゃん。賭博黙示録じゃん。地下送りどころか即刻処刑モノじゃん」

「それでは、私は帰らせていただきます……っ!!」

「おい逃げんなァァァ!! セバスチャンあいつをひっとらえてェェェ!!!」

 

 …………そんなわけで、哀れ子爵令嬢は一方的な婚約破棄という憂き目にあったのだった。

 貴族社会の評判は絶大な影響力がある。スキャンダルはその人間の価値を貶め、ひいては家を傾けることも珍しくはない。

 今回の醜聞はリツカの価値を大いに低からしめた。お家からの放逐もあり得る出来事だったが、彼女を救ったのはある男の一言だった。

 

「おもしれー女だ。そいつを連れてこい」

 

 帝国皇位継承権第一位、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。サド王子の異名で国内外に畏怖される悪魔である。

 その武名が轟いたのは十年前。弱冠十四歳の少年だった彼は、西方諸国の覇を唱えたネトラーセ王国の首都を陥落させ、滅亡に追い込んだのだ。

 王国の致命傷となったのは、首都圏に蓋をする国門カイラ・クオチ要塞の突破。〝侵略者なんかに絶対負けたりしない〟と謳われた難攻不落の拠点だった。

 が、要塞は一夜にして陥落。初陣のノアトゥールは自ら先陣を切り、不抜の要塞を落とした。その際、敵勢が門を開く一部始終を見た守将ミサク・ラナンコ・ツの最後の言葉は、

 

〝らめぇぇぇぇぇ要塞堕ちちゃうのぉぉぉぉぉぉぉ!!!〟

 

 ……だったとか。

 王国は信じて送り出した将軍がまさかの敗死を迎え、士気が大幅に低下。ノアトゥールは神速の勢いで攻め上り、降伏派と継戦派の内乱で機能停止した首都を制圧したのだった。

 ノアトゥールは王位継承者に相応しい力を見せつけた後、破竹の勢いで周辺諸国を併呑。十年で帝国を大陸国家に仕立て上げ、現在の栄華を築いたのだ。

 王子の領地に向かう馬車の中で、リツカお付きのメイドであるマシュは主人に言った。

 

「……ですが、王子の苛烈な気性は誰もが知るところ。噂では、降伏した敵将の穴という穴にロウソクを突き刺して点火したこともあるとか。何卒、粗相のなきようお願いいたします」

「うん。お土産にウチの名産品のホットケーキミックス持ってきたから大丈夫」

「お嬢様。今までお仕えできたこと、大変嬉しく存じます。死ぬ時は一緒ですよ」

「早くない!? 諦める要素あったっけ!!?」

 

 …………けれど、そんな心配は杞憂だったと言える。

 暖かな陽射しのもとで邂逅した時、互いが互いに目と心を奪われた。一目惚れと言ってしまうのは簡単だけれど、そんな言葉も思い浮かばないくらい、思考が真っ白に漂白されて。

 ノアトゥールは遥かに劣る地位の少女に傅き、手の甲に口づけをする。

 

「───ようやく見つけた。俺だけの、ナンナ」

 

 そんな二人が心を重ね、繋げるのにそう時間はかからなかった。

 王子と子爵令嬢の婚姻には文句が紛糾し、皇帝オーディンに直談判する者も現れた。が、オーディンは決まってこう返したのだとか。

 

〝あっ……ワシ、理想のワルキューレ造るので忙しいから……〟

 

 その一点張りで、取り付く島もなかった。一部の貴族は憤慨したものの、王子のロマンスのために自らが愚者となることで婚姻を叶えようとしているとの言説が流行し、名誉は保たれることになった。

 となれば、もはや障壁は無いも同然で。

 ノアトゥールの寝室。凍てつく月明かりが射し込み、向かい合う二つの影を浮かび上がらせる。

 ひとつは寝台に腰掛け、ひとつはもじもじと一方から向けられる視線を躱すように身をくねらせていた。

 南方から取り寄せたという踊り子の衣装。コインやチェーンのフリンジがついたヒップスカーフを腰に巻き、頭には宝石を散りばめたヘッドドレス、チューブトップとストリングで最低限の場所を隠した出で立ちだ。

 

「それで」

 

 奥底に熱情を宿した冷たい声。

 びくりと体が震え、熱された飴のような劣情が臓腑から湧き出す。

 彼に見られて、声をかけられた。それだけで相手を求める情欲がとめどなく溢れて止まらなかった。

 

「今日は、どうされたい」

 

 とろりと何かが流れ出して。

 貪られるための肢体を、恥ずかしげもなくさらけ出した。

 

「はい……っ♡ 今宵も私の欲しがりなここに、貴方様のご慈悲を賜りとうございます……♡♡」

 

 

 

 

 

 

 

「─────あばばばばばばばばばはばばば!!!!!」

 

 そこで、立香は跳ね起きる。

 あまりにも現実味に溢れた夢。こうして覚醒した今だからこそ、アレは夢だったと断言できる。裏を返せばら今の今までアレを夢だと認識できていなかった。

 しかしながら、夢とはもとよりそういうものだ。どんな矛盾を孕んでいても、その最中では違和感を抱けず、起きてようやく歪さが分かるものだ。

 見たものは幻想なれど、与えられた感覚と感情は本物。心臓が何倍にも膨らんだみたいに大きな鼓動を立て、全身を汗が伝っている。

 とうに目覚め、立香の顔を覗き込んでいたサクラとサフィラ。前者はニタニタと意地の悪い表情になり、後者は気遣うような視線を投げかけた。

 

「やっと起きましたね立香さん♡ で、どんな夢を見たんですか? もしかして私のことだったり?」

「いえ、それはないでしょう。立香さんのバイタルサインを確認する限り、発情しているご様子で、」

「いやいやいやしてないしてない!! まったくもってこれっぽっちもしてない!! してるとしたら、いよいよR-18にする必要があるけどどうする……!!?」

「立香さん、そこを人質に取るのはやめませんか」

 

 サフィラは突き刺すように言った。

 そこで、トゥリシュナは柏手を打ちながら近づいてくる。

 

「実に甘美な夢を見せてもらった。ギリギリだったが見事試練を突破してみせたな。報酬を受け取るが良い」

 

 一千枚もの花弁を擁する花。魔人はその花を三人それぞれに渡した。彼女らが試練の間を退出すると、ちょうど別の場所に向かっていたマシュとジャンヌが戻っていた。

 二人は真っ赤な顔でそっぽを向き合い、震える五指を絡ませていた。それぞれ他方の手には試練を超えた証である花を握っている。

 どこかじめついた雰囲気。立香たちを認識すると、マシュとジャンヌは取り繕うように饒舌に喋り出す。

 

「あ、あー! 奇遇ですね! まさか同時に試練を終えるとは! こちらは一切、何ら問題なく完了しました!! ね、ジャンヌさん!?」

「そ、そうね!! 楽勝すぎてあくびがだだ漏れだったわ! むしろほぼ寝てたくらいだったし! これで軍資金は十分ね!!」

「なんで初めてデートした時のカップルみたいになってるの?」

「もっと言えばいかがわしい休憩所から出てきた感じですね」

 

 立香とサクラは挙動不審な様子を怪しんだ。

 何があったのか定かではないが、おそらくは過酷な試練を乗り越えてきたのだろう。きっとそうに違いない。

 サフィラはよからぬ想像をしつつ、立香たちに告げた。

 

「早速賭場に戻りましょう。『十二使徒』の方々を取り戻す時です」

「おっと、それは少し待った! ボクも仲間に入れてくれたまえよ!」

 

 彼女らを制したのは、白と青のドレスを纏った少女だった。彼女は蒼き光芒の魔法陣を背に負い、かつかつとステッキの先でリズムを奏でている。

 もう片方の手は白目を剥いて痙攣するヘリオガバルスの右足首を掴んでいる。ステッキの動きが止まり、少女はばちんとウィンクをキメた。

 

「───ボクはダイアン・フォーチュン! キミたちを導く勝利の使者さ!」

「えっと、そっちの変態皇帝はどうしたんですか?」

「ああ、彼は感覚遮断落とし穴の試練に挑んだみたいでね。無様に大敗北を喫したみたいだから、ついでに運んできたんだ」

「マジでクソの役にも立ってないですね、そのマゾブタ」

 

 サクラは辛辣な言葉を吐き捨てた。売られていたヘリオガバルスを買った立香も、いよいよ彼の存在意義に疑問を抱き始めていた。

 ダイアン・フォーチュン。彼女のことは立香も知っている。あの時代の魔術師───メイザースやアレイスターの例に漏れず滅茶苦茶な、魔術史に多大な功罪を刻んだ麒麟児だ。

 フォーチュンの顔を見て、サフィラは尻尾を振りながら目を輝かせる。

 

「フォーチュン様、来てくれたのですね。あなたがいれば勝利したも同然です」

「うん。時間もないようだし、早いところ稼いでしまおう。魔人トゥリシュナ。何が起ころうとも報酬は渡すと約束するかい?」

「問われるまでもないな。約束する必要もない。努力には応えるのがおれの性でね。それを否定すればおれはおれでなくなる」

「信頼しよう。……さあ、行こうか紳士淑女の皆々様」

 

 立香は言い表しようのない感覚を味わった。

 何かが変わった。

 あるべき流れが曲げられた。

 まるで、物語のあらすじが消去されたみたいに。

 ダイアン・フォーチュン───サクラやジャンヌでさえも彼女に反発せず、その後を追った。それがあるべき流れであると言うかのように。

 辿り着いたのは、カジノのルーレット。回転する円盤に玉を投げ入れ、落ちる場所を当てるゲームだ。普通に楽しめば、運に身を任せるに過ぎないが─────

 

「七番に全財産をベット!! やっぱり生死の間じゃないと燃えないよね☆」

「何やってるんですかこの人!?」

 

 ────ことフォーチュンに限って、ルーレットは運頼りのゲームにはならない。

 

「〝運命ではなく神によって(Deo,non-fortuna)〟……端的に言えば、ボクの魔術は確率を操るモノでね」

「何を言うかと思えば、そんなことですか。確率を操る程度なら私も試しましたし、他のギャンブラーもやってます。それくらいでイキって恥ずかしくないんですか?」

「火を扱う猿と人間の違いだよ。火を道具として扱う者と、火の根源を探る者。どちらが深い理解を得ているか、分からぬキミではないはずだ」

「ケケケ……いいのかい嬢ちゃん。吐いた唾は飲み込めないぜ?」

 

 ルーレットに相席する蛇人の亜霊が、しゅるしゅると舌を巻きながら割り込んでくる。

 彼と同様に、犬と狐の中年亜霊もまたゲスな表情を浮かべた。

 

「どちらが深い理解を得ているか? 当然俺たちに決まってる。ギャンブルの経験が違うんだよ。俺はお前みたいな調子乗ってるやつを叩きのめしてやるのが生き甲斐でなァ……!!」

「せっかく優勝した暁には七つも願いが叶えられるんだ。その権利でお前らを買うってのも悪くねぇなあグェェヘヘヘヘヘヘ!!!」

「す、すごい……!! こんなやられ役っぽい言動するヒトが本当にいるなんて……!!」

「なんかもう確率どうこう以前に負けるビジョンが見えなくなってきたわね」

 

 転がる玉がからんと一所に落ちる。

 亜霊たちが丹念に建築したフラグの通り、玉は七番のポケットに入っていた。

 ギャンブラー三人衆は鼻水を垂れながら、顎が外れる勢いで口を開け、固まった。フォーチュンは得意げに微笑み、

 

「ま、こんなものさ。同じ力でも知識の深度が異なれば、結果は大きく変わる。ボクに言わせれば、まだまだ研鑽が足りないぜ☆」

「……みたいですけど、まだやります?」

「「「いや、全財産賭けちゃってたから」」」

「こいつらめっちゃアホじゃないですか」

 

 サクラが鋭い目つきをする横で、立香はスクリーンの順位表を覗く。

 ダイアン・フォーチュンの名前が圧倒的な首位───二位以下の数字は四つも桁が違っていた。

 単にこの大勝だけではここまでの差はつかない。順位の近いライバルたちが、一斉に脱落するようなことでもなければ。

 

「…………フォーチュンさん、まさか」

「そう。彼らは上位三人のギャンブラーだ。ボクたちが足を運んだ賭場で、彼ら三人が同じテーブルにつき、こうしてむしり取られるなんて─────」

 

 ───とっても珍しい偶然だと思わないかい?

 立香は思わず冷や汗をかいた。唇の端はひくひくと痙攣し、フォーチュンの笑みに瞳が釘付けにされる。

 全ての偶然、確率は彼女に仕組まれていた。一体何をどこまで把握し、意のままにしているのか。立香は恐怖にも似た畏敬を覚え、フォーチュンは口を開く。

 

「さて、ここからはみんなの出番だ」

 

 ───その時、ぶんと羽音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六惑星ティファレト。

 全惑星にエネルギーを供給する心臓部であり、太陽を包むダイソン球。総督を任された宮廷楽長『六本指』は微笑をたたえ、軽やかにピアノを爪弾いていた。

 ピアノは一日練習しなければ、三日技術が後退すると言われる。

 が、彼はサーヴァント。英霊の座より召喚された写し身にそのような変化はない。それでも六本指と称される男が日夜演奏を欠かさないのには、二つの理由があった。

 ひとつは、自らが奏でる旋律を愛しているから。

 もうひとつは、初めて師と仰いだ人物が口酸っぱく練習の重要性を説いていたから。

 

「我が師アントニオ・サリエリよ。たとえ死したりとも、あなたの言いつけを破ることはしない」

 

 ───その記憶は、もはや遥か彼方。

 彼に師事したのは幼い子どもの時分。記憶は霞み、朧げに揺蕩っている。けれど、師から得た技術はこの指に根付き、その教えは、

 

「お邪魔するよ、六本指」

 

 ───ばりばりばり、と床とピアノを突き破って、『赤き竜』が現れる。

 宮廷楽長は微笑みのまま表情筋を固定し、

 

「…………何をしている? 太陽の中で昼寝とかいうイカれた所業をしていたはずだが」

「うん、寝すぎて体がこってきたからやめたよ」

「そうか、ではさっさと代えのピアノを持ってこい」

「それは後でやるさ。それよりも今は、寝起きで小腹が空いててね」

 

 六本指はぱっと鍵盤から指を離し、両手を挙げて降参のポーズを取る。竜はもしゃもしゃとピアノを喰らいながら言った。

 

「久しぶりに噛みごたえのありそうな匂いがするんだ。きみにも付き合ってもらおう」

「噛みごたえだと? 蛇の口からそんな言葉が出てくるとはな。また彗星でも喰らうつもりか」

 

 竜は何かを確かめるように視線を泳がせる。

 

「ううん。これは───蝿、かな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────以下、十二使徒言行録より抜粋。

 『七大罪の魔王』ベルゼブルは己が分身にして眷属である『万死の虫皇』を地球上に放った。

 それら魔王の眷属は無限に自己複製を繰り返す特性を有していた。結果、たった一週間で星の動植物は三分の一に減少し、亜霊の総人口に至っては十分の一にまで落ち込んだ。

 楽園奪還軍もまた多大な被害を受け、大半の拠点を放棄。数少ない防衛地に戦力を集中させ、先のない守城戦に明け暮れていた。

 事態を打開したのは『十二使徒』───美姫と武人の主従。彼女らは単身包囲を突破し、自らの命と引き換えにベルゼブルを討伐した。

 不退転の特攻に赴く直前、武人は微笑んでこう言ったとされる。

 

虞兮虞兮奈若何(虞や虞や汝を如何せん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五惑星ゲブラー。

 監獄星は悪魔大王ベルゼビュートの一撃により、崩壊の一途を辿っていた。

 グレイ・グーという語彙がある。自己複製するナノマシンが何らかのエラーを起こし、際限なく増殖した場合、全ての動植物を滅ぼして、星はナノマシンに覆われる……といった仮説である。

 未だ自己増殖性のナノマシンを造れていない人類には早すぎる心配だが、その仮説は今や現実に。

 魔王の眷属『万死の虫皇』の能力は無限の自己複製。質より量を地で行く、有象無象の集合。総数は数百億にまで膨れ上がり、監獄星を覆い尽くした。

 

「逃げるぞ」

 

 監獄星を覆う虫の群れ。その一点から光が溢れ出し、微塵も残さずに焼き尽くす。

 そして、その空隙には宇宙からも視認できるほどの巨大な船が出現していた。

 それこそはフリングホルニ。北欧神話世界における最大の巨船。小惑星に匹敵する船体から無数の砲門が開き、迫り来る眷属を撃墜していく。

 ペレアスは船を仰ぎ見て、目を細めた。

 

「……本当に神代の船か? SFの超兵器だろ、アレ」

「北欧神話産のシロモノですから。神々と妖精の技術なら驚きはありませんわ」

「そんなこと言ってる場合ですかねえ!? この星が滅亡する瀬戸際なんですよ!?」

「落ち着け。ナメック星最後の五分間だって、なんだかんだ二ヶ月くらい引き伸ばしされてただろ」

「アンタの頭を二倍に引き伸ばしてあげましょうか!?」

 

 マルタはノアに掴みかかるが、無駄に洗練された動きで躱される。

 ベルゼビュートが監獄星の寿命に終わりを告げてから、ユダは隙を突いて逃亡。一行は眷属を撃退し、監獄星の囚人と職員たちを救出しながら逃げ回っていた。

 ゲオルギウスは襲い来る虫を斬り伏せつつ、ノアに訊く。

 

「あの船を使って逃げるそうですが、どうやって乗るのですか!?」

「スリリングだけど楽しいやつと安全だけどつまらないやつ、どっちがいい?」

「後者でお願いします!!」

「この真面目野郎が。……『虹の橋(ビフレスト)』」

 

 天地を繋ぐ虹の道が監獄星の各地から立ち昇り、巨船と接続する。これこそが逃げ惑う亜霊たちに垂らされた蜘蛛の糸だった。

 彼らは一も二もなくビフレストに滑り込む。

 地平線をも描く広大な甲板。そこには三名の先客がいた。体も頭脳も大人な名探偵ホームズと、性癖倒錯剣豪の宮本武蔵。そして、

 

「私はアー」

「エミヤじゃねえか」

「クソッ!!!!!」

「なぜそこまでアーチャーと呼ばれることに執着を……?」

 

 ホームズは首を傾げた。元祖アーチャーとして、真名予想の文化を守る使命が彼にはあるのだ。もっとも、彼に真名の予想はほとんど意味がないが。

 再会を喜ぶ暇もなく、武蔵はノアたちを捕まえて問う。

 

「それで、今の状況は?」

「総督はユダでベルゼビュートとかいうのが出てきて害虫が大量発生ですわ」

「毎度思うが、何がどうなったらこんな事態になるのかね?」

「まったくだ。俺の苦労が水の泡じゃねえか」

 

 嘯くノアに、鋭い視線が集まる。

 マルタは目の前のアホを無視して切り出した。

 

「元々、私たちの目的は囚人の解放よ。一応こんなんでも成果はあるけれど……」

「その結果が監獄星の崩壊とはね。『滅びの種子』が解き放たれたことも問題だが、それよりも星剣の担い手だ。彼の救出も諦めなければならないだろう」

「安心しろ名探偵。そいつは魂の物質化をしてるって話だ。星が爆発しても生き残ってんだろ。ここは退いて体勢を立て直す」

「……そういえば、マティアたちはどこ行った?」

 

 ペレアスは辺りを見回す。マティアとゴリラはともかく、あのやかましい変態兄弟がこの状況で一言も発さないなどありえない。

 そう思った時、ゴリラが人混みを跳ね飛ばしながら爆走してきた。

 その背にはマティアと兄弟、見知らぬ鋼鉄の甲冑を載せていた。甲冑はぐってりと項垂れ、手足も力無く垂れ下がっている。

 マティアは犬特有の口呼吸をしながら、親指を立てた。

 

「ギリギリセーフ! アド・エデムさんを連れてきたよ!!」

「やっぱり俺たちって流石だよな兄者」

「俺は漏らしたけどな弟者」

「大手柄じゃないですか! お疲れの様子ですが喋れますか!?」

 

 と、ダンテが詰め寄ると、アド・エデムはおもむろに兜のバイザーを開く。

 

「お、おぉ……」

 

 端的に言えば、彼の顔面は元の形が想像できないほどに破壊されていた。『滅びの種子』たるアド・エデムを始末するため、監獄星が行った実験の結果だろう。

 甲冑に覆われた全身もまた同様だった。口舌も喉も壊されているなら、発話行動はできない。

 かつての星剣の担い手はもたつく動きで兜を閉じる。が、ノアはその手を遮り、まじまじと顔面を観察した。

 

「第三魔法持ちをここまで痛めつけるとはな。後でもっとよく見せろ。研究のついでに治してやる」

「嫌だったらぶん殴ってもいいんだからな?」

「…………」

「たぶん喋れてても沈黙してそうですわ」

 

 アーチャーは相変わらず緊張感のないやり取りに割って入る。

 

「船を動かして退避させろ。この宙域は、今からグランドセイバーの攻撃が降り注ぐ手筈になっている」

「言われるまでもねえよ。ペレア……セイバー、騒いでる囚人どもを黙らせとけ」

「オイなんでクラス名で呼んだ? 別にそのままでよかったよな。当てつけか? 当てつけなのか?」

「深呼吸しましょうペレアスさん。あ、私のことはプリテンダーと呼んでくれても良いんですよ?」

 

 ペレアスはダンテを混乱する人混みに投げ込んだ。

 フリングホルニの魔力炉心が稼働し、巨船を音速を遥かに超える速度で推し進める。それは追撃の手を一瞬で振り切り、害虫の制圧圏から離脱した。

 

 

 

「───よし。じゃあやるか!!」

 

 

 

 ───第十惑星マルクト。地球の南極にて、バトラズは剣を抜く。

 かつて父を殺した戦士から奪い取った神剣。

 その剣はグランドセイバーの巨躯をしてなお身に余る尺を誇る。柄を飾る装飾や目を引く色はなく、ただ鈍色の輝きを放つ無骨な拵えであった。

 だがしかし、刃に宿る神気は絶大。

 鋼の刃体が太陽の如く赤熱し、風と紫電を纏う。しかして周囲には一切の影響を及ぼさず、極大のエネルギーを刀身に圧縮し、押し込めていく。

 ゴルドルフ新所長は岩陰から声をかける。

 

「ここから第五惑星って───届くのかね!?」

「距離は問題じゃねえ」

 

 バトラズは短く答えた。

 

「俺はただ、力の限りこいつをぶん回すだけだ!!」

 

 そう、彼にはそんなこと考慮にも値しない。

 巨人を殺し、竜蛇を殺し、悪魔を殺し、天使を殺した。

 その体は神に鍛えられた神鉄。言わば肉体そのものが神造兵装であり、神剣もまた然り。

 だとしても、あえて言おう。

 英雄バトラズの真価とは。

 数多の敵を殺戮した逸話でも、無敵の肉体でも、簒奪した神剣でもなく────どこまでも我を貫き通す意志であると。

 

「あるいはそれが、英雄の資質」

 

 地母神アト・エンナは独りごちた。

 

「彼のような戦士がいれば、私もゼウスのアホに土下座することもなかったでしょうね─────」

「なんか良い感じの雰囲気で言ってるけど普通にめちゃくちゃ小物なのだが!?」

 

 瞬間、バトラズは剣を振り抜いた。

 火山の噴火を思わせる轟音。

 黄金樹が繋ぐ星系に灼熱の光が灯り──────

 

 

 

 

 

 

 

「ほう?」

 

 悪魔大王は薄く笑った。

 背後を振り返れば、赫灼の嵐に包まれる監獄星。眷属が成す術もなく焼かれ、裂かれ、灰も残らない。

 ───どうやら、この世界にも見所のある餌はいるようだ。

 彼方の地球から第五惑星を射程に入れてみせる力量。ベルゼビュートの意識にそれは脅威に値すると刻まれ、さらにその両眼は障壁になり得る存在を走査する。

 まず王が敵と認めたのは第四惑星の偽神。

 

「立香さ〜ん♡ 見てください、でっけぇゴキブリみたいなのぶっ殺しました〜♡」

「う〜ん、これはチャバネゴキブリっぽいかな?」

「先輩、死骸とはいえよく平気で近づけますね!?」

「私ゴキブリ大丈夫な人だから」

「トラック並みに大きいやつでもですか!!?」

 

 ……次に、第五惑星周辺中域の魔術師。

 

「……つまりだな、僧侶と賢者然り、剣士とソードマスター然り、上位互換のジョブが許されんのは下位職からクラスアップできるからなんだよ。だってそれがなかったら悪夢だろ。いつまで経ってもセイ……剣士とか僧侶のままだったら不憫でいたたまれねえだろ。一生出撃させられねえだろ」

「口を慎め。全セイバーに喧嘩売ってること理解してるか?」

「オイオイオイ、何キレてんだ。別におまえのこととは言ってねえよ。自意識過剰野郎が。突っかかる暇があんならさとりのしょかマスタープルフ持ってこい」

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』!!」

 

 …………なるほど、少し見ぬ間に人間のレベルは大分下がったらしい。

 ベルゼビュートの心中に落胆はなかった。

 彼は飽食家であって美食家ではない。質の良い食事も無論好ましいが、それだけでは満ち足りぬ。食材の質が如何に低かろうと、王は貴賎なく頬張り、腹に収めるのだ。

 本来ならば自ら赴き、収穫するもやぶさかでなかったが、ベルゼビュートの食指は眼前に広がる暗黒へと向けられていた。

 そこは第二・第三惑星と第四・第五惑星を隔てる暗礁宙域。可能性を否定することであらゆる侵入・脱出手段を封じる『深淵』結界の目前だった。

 

「奴らの如き阿呆ばかりならば、思い至らぬのも頷ける」

 

 監獄星が収容する滅びの種子はⅥ〜Ⅰ段階の等級によって管理されている。

 ノアたちは星の表層から監獄星の最深部にまで到達した。ならば、そこには脅威等級Ⅰを与えられた滅びの種子が眠っていなくてはおかしい。

 しかしながら、最深部にはユダのみがいた。

 これはどういうことなのか。

 その等級を割り当てられたモノは存在しない?

 もしくはユダこそが脅威等級Ⅰの滅びの種子なのか?

 ───そのどちらでもない、とベルゼビュートは断言する。

 

「其処に在るな? 分かっているぞ。抑止力の赤い影よ」

 

 絶対封印措置を課された種子は暗澹の中。監獄星へ移送するまでもなく、天使シェムハザが創り上げた『深淵』結界こそが最強最高の檻。ベルゼビュートは確かに、その結界の内に滅びの気配を感じ取っていた。

 悪魔大王ベルゼビュートは獰猛に笑う。

 どこまでも食欲を掻き立てる、至高の獲物。

 同時に劣情の如く立ち込める、支配欲。

 この『深淵』を超えた先に神の玉座がある。食事をより良いものにするのは、決して食材だけではない。食器のデザインや環境もまたひとつのスパイスだ。

 総てを睥睨する神の玉座にて、至高の獲物を喰らう。

 これに勝る愉悦は他に無し。

 下位の惑星など些事に過ぎない。

 が、虫どもに任せるには荷が重い。先の三人も重要な添え物、眷属程度に穢されては敵わない。

 

「ニスロク」

 

 配下たる悪魔の名を呼ぶ。

 まるで最初からそこにいたかのように、それは傅いていた。

 コックコートを身に着けた料理人姿の鳥人。背には鷲の羽が生え、研ぎ澄まされた眼差しが主君を捉えている。

 

「俺は今から流出界に侵攻する。貴様は下天のめぼしい獲物を狩り尽くせ」

「仰せのままに。このニスロク、腕によりをかけて貴方を愉しませてみせましょ」

 

 

 

 ───グシャグシャグシャグシャッ!! と頭上から降ってきた赤い影に押し潰され、ニスロクは原子レベルまでバラバラになった。

 

 

 

「……………………………………ん?????」

 

 ベルゼビュートは思わず硬直する。

 赤い影は呑気に、右手でぶら下げる男に言った。

 

「うん、着いたね。…………アレ? 何か踏んだ?」

「ああ、踏んだな。確かに踏んだが、踏んでいないことにしてやろう。それがあの鳥人間へのせめてもの餞だ」

「トリ? いいよね、鶏肉。シモンに頼んで召喚してもらおうかな、カー○ル・サン○ース」

「…………くっ。ふ、はははは。ははははははは!!!」

 

 ベルゼビュートは大笑した。

 配下を踏み殺された驚愕も、くだらぬ話に後回しにされた憤怒も忘れて、目の前の嘘みたいな現実を祝福してみせる。

 『深淵』に棲まうモノが至高の獲物?

 馬鹿め、我が目は狂っていたのか。

 今、此処にいる、この怪物こそが至高と断ずるに他ない馳走だと言うのに!!!

 

「気に入った。貴様に我が聖餐の主役となる名誉をくれてやる」

 

 赤き竜は値踏みするように眺めて、

 

「ん。まあ腹ごなしの運動にはなるかな」

「ほざけ─────!!!」

 

 一足飛びに距離を詰め、全霊の一撃を放つ。

 悪魔大王ベルゼビュートの最強の一撃。それは己が拳足を用いた殴打。真の強者に特殊な能力だとか、屁理屈を捏ねるだけの概念による言葉遊びは要らない。

 星を圧縮せしめる握力をもって拳を固め、光速でそれを振るう。

 それで万事は事足りるのだ────!!

 

「────いったぁ〜〜っ……!!?」

 

 竜は素っ頓狂な声をあげて、宙を飛び跳ねた。

 涙ぐんだ表情は幼児そのもの。竜は頭部を覆うパーカーを下げ、男に頭頂を突きつける。

 

「ちょっとこれたんこぶできたかも。見てくれないかい?」

「おお、これは酷いな。真っ赤に膨れ上がっているぞ」

「あっやめてやめて、あんまり触らないで。痛いのは苦手なんだ。もっと優しく蝶と花を愛でるように撫でてほしい」

「私の指だぞ、何の文句がある。これで幾人ものファンを鳴かせてきたのだぞ」

「ごめん、ぼく下ネタ分からないから」

 

 ビキビキ、とベルゼビュートのこめかみに青筋が浮かぶ。

 渾身の攻撃で堪えてはいても、命を絶やすには至っていない。むしろそれでいい、と王は自身を納得させた。

 痛痒を与えていることは間違いない。ならば、それが命に届くまで繰り返してやればいい。

 そうして、ベルゼビュートは拳を握り締め────ようとして、右腕に激痛を感じる。

 

「なっ……!?」

 

 悪魔大王の右腕は朽ちた枝のように細く潰れていた。

 例えば、金属の塊に銃弾を撃ったとして。それは表面に傷を残すだろうが、銃弾も自身の威力によって潰れてしまうだろう。

 赤き竜とベルゼビュートの関係はそれだった。竜という金属塊に放った拳は、銃弾の如くに砕け散ったのだ。

 けれど、依然問題はない。腕を再生し、攻撃を繰り返せばやがて竜は砕ける。

 

「次は、ぼくの番」

 

 それは、影としか形容の余地がなかった。

 前面から照らす光源もないのに、竜の足元から背後へと広大な赤色が伸びる。ただし、その影は人型のそれではなく、ヒトならざる竜の威容を示している。

 左手で男を吊るしたまま、握り拳を掲げる。その動作に応じて、赤き竜の像も三本指の右前足で拳を作った。

 影故に、それは物質ではない。

 影故に、それは物理的影響をもたらさない。

 そんな理屈は埒外に。

 圧倒的な存在感を発する竜の拳が、蝿を潰すように悪魔大王を叩いた。

 

 

 

「       」

 

 

 

 ベルゼビュートは叫んだ────叫んだ、のかもしれない。

 王を構成する血肉。世界を構成する素粒子。それら一切合切の結びつきを破壊し、無に帰す一撃だった。

 

「   あ あああ ああああああ   あッッッ!!!!!」

 

 王はいっそ無様なまでに地面なき地面を転がる。

 再生。再生。再生再生再生再生再生。

 魂魄を振り絞って権能を行使しようとするも、一向に快方へ向かうことはなく。

 闇に沈んだ五感の底で、宮廷楽長『六本指』の哀れみに満ちた声が響いた。

 

「…………竜の攻撃は()()()()()()()()()()()()()。絵画に強酸をかけるようなものだ。焼けて溶けた絵は決して元には戻らない。如何に再生の力を持っていようとな」

 

 ベルゼビュートだったモノを、小さな十指が鷲掴みにする。

 

(ああ、これは、アレか)

 

 この世界を滅ぼし得た災害は諦観を抱く。

 幾度となく喰らってきた獲物。腹を満たすための食い物。自分がそれに成り下がったのだと知り───────

 

 

 

 

 

「ひ、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは「きみの命に感謝して、いただきます」ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」

 

 

 

 

 

 ────狂人の如き哄笑を轟かせて、悪魔大王は竜の腹に呑まれた。

 後日、監獄星崩壊の報と騒乱の一部始終が帝国全土を駆け巡り、レジスタンスに対する皇帝勅命の追討令が発布。

 ……銀河皇帝ベイバロン率いる勢力との決戦は、間近に迫ることとなった。




・『覚りの木(ガジュマル)』
 脅威等級Ⅲ。この木が撒き散らす花粉を吸い込むと、その者の深層心理を掬い上げた夢の世界に誘われる。それは時に理想の世界の理想の自分の理想の人生を上映したり、過去のトラウマを元にした内容になったりする。要はどれだけ寝ていても飽きが来ないようになっており、やがて罹患者は微睡みの内に死を迎える。
 獲物が死んだ後、『覚りの木』は自身の根を死体に接続、寄生する。そうして死体は新たな木になり、次第に生息域を広げていく。覚醒するには外からの刺激か、夢より現実を肯定する意思が必要だが、仮に前者の方法を用いた場合、罹患者からは〝なぜ目覚めさせた〟と逆ギレされることが大半である。
 最初に確認されたのは慰神戦争の時代、魔王ベルゼブルの『万死の虫皇』が猛威を奮った年。無数の死が吹き荒れる中で、亜霊たちは希望を失い、自ら進んで木がもたらす幻影に命を委ねた。
 後にアザゼルらの調査により、『覚りの木』を創り出したのは明けの明星であることが判明した。

・『万死の虫皇(アポリオン)』
 脅威等級Ⅱ。無限に増殖する害虫の群れ。……と言ってしまえばそれまでなのだが、特筆すべきはその増殖速度と、たとえ真空に放り込んでも勝手に増える自己複製能力である。個体の戦闘能力は見た目以上ではないものの、増殖能力の一点のみで、かつて慰神戦争では最多の死者数を叩き出した。その恐怖は亜霊たちの遺伝子にまで刻まれ、監獄星にて行われた実験では八割の実験体が姿を目にした瞬間に気絶し捕食された。
 『万死の虫皇』は群体にして個体。それぞれに外見の個体差があるのは、単為生殖過程で生じた自己複製エラーのためである。とにかく増殖速度が凄まじいため、無数のエラー個体が生じ、エラー個体がさらに自己複製を行い、その過程でエラー個体が……と無限ループを引き起こしている。

・ベルゼビュートについて
 様々な偶然が重なって、ダンテの地獄から出てきた悪魔大王の一側面。サーヴァントではない上に人知無能の存在であるため、ステータス表記もスキル表記もない。異聞天球界の歴史上の『七大罪の魔王』ベルゼブルとは全くの別物。戦闘能力で言えば、十分に章のボスを務められるほどだが、流石に相手が悪かった。
 ここからはベルゼブルと神曲についてのよもやま話。興味のある方のみ読んでいただきたい。
 ベルゼブルは割とどこでも地獄のNo.2だったり、サタンに次ぐ位の悪魔に数えられている。おそらくミルトンの影響が強い。ダンテの神曲では悪魔大王を指す三つの名前のひとつ。三つはそれぞれ『ディーテ (Dite)』『ルチフェロ (Lucifero)』『ベルゼブ (Belzebù)』である。
 三つの呼び名が同じ存在を指しているだけで、ダンテが明けの明星とベルゼブルを同一視していたかは決めつけられないが、悪魔大王は三つの顔を持っているとの描写がある。つまり、三つの名前と三つの顔で対応しており、ダンテは悪魔大王の強大さを表すために、わざと三体の悪魔を合体させ、三つの名前で呼んでいたのかもしれない。
 ちなみに。サタンという語句も神曲の中では登場するが、この悪魔大王を指しているかは定かではない(たぶん違う)。では、なぜ本編のダンテは悪魔大王をサタンと呼んでいるのか。それはサタン=地獄の魔王というイメージが染みついているため、妙に三つの名前で呼ばせるより伝わりやすいと考えたため。夢の欠片もない大人の事情である。
 Q.なんでフランス語読みのベルゼビュートを名乗ったのか?
 A.なんか……そっちの方がかっこいいから……
 というのは冗談(本気)にして、ほんの数日前までこの最終章のプロット上には影も形もなかったキャラクター。この物語における最強の存在『赤き竜』の引き立て役として急遽誕生させられた。

・現在判明している異聞天球界の歴史

 ■■の世紀

 5000年 天使『明けの明星』、神を弑逆。堕天使の軍勢を率い、天界にいた天使たちを皆殺しにする。また、楽園の住民は明星の手によって住処を追われる。これを天界戦争と呼称する。

 大罪の世紀
 
 5000年 明けの明星含め五羽の堕天使と二匹の獣がそれぞれの支配域を地球上に創り出す。その後、彼らは自らを『七大罪の魔王』と僭称する。

 5001年 『七大罪の魔王』が『亜霊百種』を創造。現在の異聞天球界に住まう全ての亜霊たちの祖先となる。

 5116年 楽園の住民が魔王征伐の戦を開始。後に慰神戦争と呼ばれる。

 5663年 十二使徒降臨。これにより、次第に戦局は楽園の民へと傾いていくこととなる。

 5665年 魔王ベルゼブルが眷属『万死の虫皇』を展開。結果、総人口が十分の一にまで落ち込み、楽園の民含め対『七大罪の魔王』勢力は各地の拠点に追いやられる。状況を打開すべく、十二使徒の主従『美姫』と『武人』が単身特攻。ベルゼブルと相討ちになる。

 5666年 慰神戦争終結。

 ■■の世紀

 5667年 グリゴリの天使シェムハザが魔術を学問として創始する。

 5792年 グリゴリの天使アザゼルがマナの操作や術式の構築・詠唱を機械に代行させる技術を開発。自らの才覚と精神感応が肝要となる抽象的な魔術よりも、具体的で即物的なこちらが民衆に広まった。言わば工業革命である。

 5793年 シェムハザが現存の全魔術を文章の式に変え、集合的無意識に落とし込む(クラウド化)ことに成功。また、アザゼルは前年の技術をさらに発展させ、生体との融合を実現する。これにより、全ての亜霊が魔術を使えるようになった。術式がデータやシステムだとするなら、集合的無意識をインターネットに見立てた方式である。

 5800年 機械文明の訪れによって急速な発展を遂げる最中、突如七体の獣が誕生。自らを人類悪、黙示録の獣と名乗る七体は各惑星への攻撃を開始。

 5801年 天使シェムハザを頭目として、熾天の玉座防衛戦開始。これが贖罪戦争の開戦となる。

 5822年 騎士アド・エデム、星剣によって残存する三体の人類悪の獣を斬滅。贖罪戦争終結。

 5904年 最後の人間が逝去。

 ■■の世紀

 6686年 魔術のクラウドサービスが従量課金制に。また、宮廷魔術師シモン・マグスが定額課金制のサービス『manazon_prime magick』を開始。
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