自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録 作:なまゆっけ
ダンテがローマ帝国に降った後、ネロが真っ先に行ったことは彼が自白した情報の裏取りであった。
数日の内にネオローマ連合が超神聖ローマ帝国に仕掛けるという情報。その信頼性を確かめるために、ネロは幾度か間諜を送り込んだが、成果が上がる前に真偽は確定することとなる。
なぜなら、ネオローマ連合が軍を興して動き出したからだ。
しかも、その軍を率いるのは神祖ロムルス。配下にはアレキサンダーと孔明。掛け値なしの全力を注いだ陣容であり、期せずしてダンテの発言は裏付けられた。
これによって、底を突き抜けていたダンテへの信頼度は大幅に改善された。マイナスがゼロに戻ったようなものだが、改善されたことには違いない。
彼は浮足立っていた。
超神聖ローマ帝国に仕えていた頃からの苦節も、ようやく終わる。これからは偉人ダンテの成り上がりサクセスストーリーが開幕するのだ──!!
「だからここから出してくださいィィィ!!」
ダンテの叫び声がむなしく響く。
彼はいま、猛獣用の檻に閉じ込められていた。両手は後ろ手に縛られ、右足首には囚人おなじみの鉄球がくくりつけられている。
眼前を往来する兵士たちは彼に奇異の目を向け、失笑混じりに立ち去っていく。
そんな調子で何度か喚いていると、ノアと
対になるようにレンガを置き、その上に鉄板を橋渡しする。下の空洞に薪を入れ、火を点ける。
「ちょっと火力が足りないですね。ジャンヌ呼んできます?」
「あいつに任せたら鉄板ごと炭になるぞ。ルーン使っとけ」
「それもそうですね。リーダーがいたらジャンヌ、オルレアンの切れたナイフになりますから。えーと、
宙空にルーンの刻印が走り、火は勢い良く燃え上がる。
淡々と準備を進める二人を見て、ダンテは戦慄した。
「……えっ、なんですかそれ。新手の拷問器具ですか? 焼き土下座でもさせられるんですか?」
「何言ってんだ、昼飯の仕度に決まってんだろ」
「こんなところで!?」
鉄板の上に油を引き、野菜と肉を炒めて麺を投入する。当てつけるように調理を進める光景を見て、ダンテは空腹感が増加するのを感じた。
ノアは麺にソースを加えると、団扇を持ち出して煙を扇いだ。香りのついた空気がダンテの顔面に直撃し、鼻腔を刺激する。
生前には一度たりとも嗅いだことのない匂い。それが絶え間なく送られ続け、彼の空腹はさらに加速するばかりだった。
そして、ダンテは気付く。
(こ、これは拷問っ……! 私の食欲を掻き立てながらも……! それを解消する術を与えないっ……! 悪魔……! まさに悪魔的な策……!)
思わず視界がぐにゃあと歪むが、Eチームのマスターたちにそれを知る由はなかった。立香は焼きそばの山から数本を引き抜いて、口に運ぶ。
「あの、なんかこの焼きそばもっさりしてますよ! 口の中から水分が失われていきます!」
「焼きそばなんてもっさりしてるもんだろ。ソースで肌黒くしてチャラ男ぶってるけど素顔はドカベンだからな。わんぱく野球少年やってるくらいがちょうど良いんだよ」
二人はダンテに見せつけるように、もさもさと焼きそばを貪り食らう。
「でも、アレですよね。海の家とかお祭りの屋台で買って食べる焼きそばって、普段の三倍おいしくないですか?」
「それは焼きそばじゃなくて、その場の雰囲気を食ってるんだよ。つまり触媒だな。野球しかしてこなかったドカベンが祭りのド真ん中に放り出されてみろ、何もできないだろ。焼きそば貪るくらいしかできないだろ。所詮その程度の男だからな」
「リーダー、それ途中から焼きそばじゃなくてドカベンの話になってます。山田太郎になってます」
見る見るうちに減っていく焼きそばの山に危機感を覚えたダンテは、空っぽの腹に空気を吸い込んで抗議する。
「ちょっとォォ!! 私の分もあるんですよねえ!!?」
「おまえが入ってるのは何の檻だ? ちゃんと動物らしい言葉で話せ」
「ワン! ワンワン! ワン!」
「す、すごい……! ここまで尊厳を捨てられるなんて!!」
一瞬で人間の尊厳を投げ捨てたイタリア最大の詩人の姿に、立香は恐れおののく。人はどこまでも惨めになれる生き物なのだ。
ノアは満悦の笑みを浮かべると、焼きそばを皿に盛る。彼は犬と化したダンテの檻を開いて、床に皿を置いた。
それに手を伸ばそうとして、後ろ手に拘束されていることを思い出す。
「……あの、手が使えないんですが」
「は? おまえは犬だろ? 這いつくばって食え」
「ペレアスさああああん!! 貴方のマスター頭がおかしいですよおおおおお!!」
その叫びを聞き届けたのか、呆れた表情のペレアスが飛んでくる。勢いのままにノアの脳天に鉄拳を落とすと、潰れたカエルみたいに地面に倒れた。
ペレアスは檻の中に入り、ダンテの両手を縛る縄を解きながら、
「この馬鹿は気にすんな。もう釈放してやることになったから、おまえも軍議に参加してもらう」
「なんで私は捕らえられてたんですかねえ?」
「実はおまえ抜きで話し合いをしたんだが……」
ペレアスはダンテが投獄されるまでの経緯を語った。
ダンテがネオローマ連合の動向を言い当てた直後、ネロは諸将を集めて臨時の会議を開いた。議題はもちろん、ダンテのことについてである。
超神聖ローマ帝国は裏切った彼を始末するため、『神の鞭』を放った。その追手はロムルスと激突し、ダンテは難を逃れた訳だがあまりにも都合が良すぎた。
さらに、彼がネロに語った回想も問題である。一言一句間違いなく追放の過程を伝えたことで、カエサルがアレキサンダーとの戦いを望んでいること、その手助けをしたであろうことも判明していた。
ダンテはネオローマ連合と繋がっているのではないか。そんな疑問が噴出するのは半ば当然であったといえる。
ダンテはペレアスに手を引かれて檻から解放される。悠長に背伸びをする彼に、立香は単刀直入に訊いた。
「実際のところどうなんですか? 私は裏切ってはないと思いますけど」
「おや、貴女のようなお嬢さんに信頼されるとは嬉しいですねえ。ダンタリオンを倒した手際、見事でしたよ」
「私はジャンヌに令呪渡しただけですけどね!」
「年頃の乙女が殺し合いの場で正気を保っていられるだけ凄いと思いますが? ねえ、ペレアスさん」
ペレアスは焼きそばの載った皿をダンテに手渡しながら、当然のことのように頷く。
「そりゃそうだろ、苦手な奴はどうしたって苦手だしな。立香ちゃんもマシュちゃんもよくやってると思うぞ?」
「や、やけに褒めますね。話題を逸らされてる感が半端ないですよ」
「いえいえ、これは正当な評価です。素直に受け取っておくと良いでしょう」
そう言って、ダンテは焼きそばを口に運んだ。味を確かめるように何度も咀嚼し、嚥下する。
「……本当にもっさりしてますね。私からすれば大変美味ですが、未来では大量消費されるもののひとつに過ぎないのでしょう。いやはや、人類の美食への探究心には恐れ入ります」
彼は地面に倒れ込んでいるノアに向き直る。その顔貌には微笑を貼り付けていた。
「──さて、ノアさん。私を解放するということは開戦間近なのでしょう?」
示し合わせたように、ノアは起き上がる。
「ああ。超神聖ローマ帝国とネオローマ連合、そして俺たちの総決算の戦いだ。今から敵に寝返ってもできることはなにひとつねえぞ」
「万が一逃げてもオレが斬るけどな」
「ふふ、でしょうねえ。でなくば私を解き放ちません。二国の潰し合いを静観する方向に動かなかったのは、あの皇帝らしいことで」
「まあ様子見して挟み撃ちされたら最悪ですからね。私たちが参戦しないなら自分もって風に退却されるかもしれませんし」
彼らは、何の気負いもなく笑った。
然れども、そこにあるのは清純な戦意。義務でも責任でもなく、戦いに向かう意思だけが満ちる。
不意にマシュがやってきて、張り詰めた風船のような緊張感を萎ませた。
「もうすぐ開戦前最後の軍議なのですが……皆さん、頭をシリアスモードに切り替えてください。特に先輩とリーダー」
「シリアスと言ったら私たちの十八番じゃないの? ですよね、リーダー?」
「その通りだ、
「それはどう考えても過言です! むしろ虚言です!」
憤慨するマシュに引きずられるようにして、立香とノアは軍議が行われる幕屋へと連行される。サーヴァントの筋力を最大限に使いこなした所業である。
ペレアスとダンテは少し離れた距離を保ちながら着いていく。若人の仲に立ち入るべきではないと知っていたからだ。
ノアは神妙に切り出す。
「敵にレフの野郎がいる。使い魔の目を通して確認したから間違いない」
「……やっと、所長とみんなの仇を討てるんですね」
立香の言葉に、ノアとマシュは首肯する。
レフ・ライノールはカルデアにとって不倶戴天の敵であり、その全てを踏み躙った男だ。
禍根。
遺恨。
果たされぬ想いを遂げるために。
「───あいつは俺たちの手で殺す」
彼は、言葉の端々に殺意を込めて言った。
見渡す限りの平原に、三軍が出揃う。
皇帝ネロは自ら前線に立ち、その光景を睥睨した。
これは兵を削る戦いに非ず。
自軍以外の敵将を殺し尽くす。
そうしなくては、勝敗が決することはない。
サーヴァントの力はまさしく一騎当千。精強なローマ軍の兵士であっても、彼らの前では等しく雑兵と化す。
そのような怪物たちの中で、さらに突き抜けた化け物がこの戦場にいた。
神祖ロムルス。かつて七つの丘にローマの都を造らしめた大英雄。かの建国王は己が得物、紅き樹槍の切っ先を前方に差し向ける。
「───『
瞬間、天地を埋め尽くすほどの大樹が顕現する。
過去現在未来、全てのローマを束ねて放つ超絶の宝具。幾星霜の永き時を重ね、醸成された膨大な質量が大地を席巻する。
人間ひとりが持ち得る時間は精々が100年程度。しかして、ロムルスが振るうのはローマ全ての歴史だ。
矮小な個人には、その歴史に爪を立てることすら叶わない。彼の宝具を前にしては、あらゆる敵対者が抵抗する間もなく圧殺されるだろう。
万物を押し流す
それを切り拓く一条の閃光があった。
「『
積み上げた時間。
紡いだ歴史。
なるほど、確かにそれは脅威だろう。
人類の華々しき栄光の歴史は、人理焼却という異常事態に至るまで途絶えることはなかった。
星を喰らい、なおも発展を続ける創造の御業。
ロムルスの宝具はその具現だ。
自らが打ち立てた国が積み重ねた全存在を解き放つ。こと質量という点においては、あらゆる宝具を上回るに違いない。
けれど。
どれだけ輝かしい光を発するモノであろうと。
気の遠くなるほどの年月を過ごしたモノだとしても。
人類は、何の感慨もなく打ち砕く。そして、その残骸の上に新たな概念を築くのだ。
『神の鞭』──彼女が振るうのは一切を蹂躙する破壊の力。
その様はさながら彗星だった。
虹色の破壊光を撒き散らしながら、触れた物全てを裁断する魔星。
広域の殲滅力で言えば、ロムルスの宝具には遠く及ばない。しかし、一点の貫通力では大きく凌駕している。
ぶつかり合う破壊の余波だけでも、兵の命を奪うに足る。この両者の激突は読めていた。マシュは前方に躍り出て、宝具を展開した。
「『
中空に描かれた白き盾の紋様。
即座に編まれた要塞は、殺到し、炸裂する暴虐の波濤を悠々と受け止める。
ローマ軍はロムルスと『神の鞭』ほどの攻撃手段を持たない。だが、裏を返せば、両者の宝具に耐えるマシュの盾を抜く手段もまた、この戦場には存在しなかった。
永遠に続くかと思われた宝具の衝突は、どちらに軍配が上がるわけでもなく中断される。
ロムルスの首目掛けて振るわれる白刃。
『神の鞭』を呑まんと迫る火炎の波。
彼らは瞬間的に沸き起こった殺気を察知し、宝具を解除して回避した。
──神祖の前に立つは、騎士と反逆者。
「ペレアス! この男は圧制者か? 圧制者だろう? 圧制者だな!?」
スパルタクスに問われ、ペレアスは考える。
ローマの神祖たるロムルスを圧制者呼ばわりすれば、どんな目を向けられるか分からない。だが、下手に否定してスパルタクスに暴走されるのも困り物だ。
そんな訳で、ペレアスの返答はこうだった。
「ああそうだよ、多分な! しっかり連携とって──」
「うおおおおおお突撃ぃぃ!!!」
「くっそ! これだからバーサーカーは!!」
ペレアスはスパルタクスに合わせ、なし崩し的に斬り掛かる。
左右からの挟み撃ち。ロムルスは槍を両手で握り直すと、一振りの内に五撃を繰り出した。
(───頭と胴と足!!)
一瞬をさらに分割した刹那。ペレアスは自らに向けられた全ての刺突を見切る。
頭を横に振って躱し、斬撃を修正して胴への一撃を叩き落とす。足を狙った突き。それを逆に踏みつけながら、彼は距離を詰めた。
目にも留まらぬ回避の妙技。手数が増殖するという奇怪な技を見せつけられながらも、ペレアスは動揺することはない。
──カラクリは見抜いた。
突きの瞬間、樹槍の穂先が五つに分裂した。蛇のようにうねる樹木の杭。それがロムルスの攻撃の正体だ。
であれば、この勝負には人数差による手数の優位は無い。ペレアスはそのことを頭に叩き込むと、ロムルスへと肉薄する。
あの宝具は言うまでもなく脅威だ。
広範囲を一瞬で押し流す質量の波。もう一度発動されれば、ペレアスはともかくスパルタクスは確実に仕留められるだろう。
故に、宝具を使う隙は与えない。
攻め続けることで、敵の余裕を奪う。
ロムルスは接近するペレアスに振り返り、槍撃を打ち出した。
樹木の分裂などという小細工は弄さない。
スパルタクスに背を向ける危険は承知の上。襲い来る剛撃は直線的だが、その鋭さは一線を画す。まともに受ければ、防御したとしても体勢を崩されるだろう。
ペレアスは剣を片手に持ち替え、半身になってそれを避ける。
槍を突く際、人間の腕は前に伸び切る。その隙を突くため、彼は素早く刃を振るった。
だが、ロムルスは槍手だ。そんな弱点は槍を握った時から知っていたし、弱みを潰すために技を磨き上げた。
突くと同時に引く。
何千回何万回と繰り返したその動作に、もはや隙はない。
ペレアスの斬撃はロムルスの二の腕を狙う。
危ういがその切っ先が届くことはない。腕が伸び切った隙。それは剣を扱う者にとっても例外ではなく、間合いに勝る槍使いの前では愚行に等しかった。
──斬撃の軌道が、曲がる。
反撃に傾いたロムルスの意識の天秤を戻したのは、右腕に走る微痛。
決して深い傷ではない。
薄皮を切り裂いただけの掠り傷だ。が、神祖の体に傷をつけたという事実に変わりはない。
ロムルスの頭上に影がかかる。
スパルタクスが振り下ろした小剣の一撃。すんでのところで躱したロムルスは、唇を弧に歪めた。
「──見事。
ペレアスは剣を振り抜く最中、小指と薬指以外の指を柄から外していた。その分刃は下を向き、軌道は揺らぐ。
タネが割れればなんてことはない小細工だ。彼の器用さは当然、軽傷に留めてみせたロムルスこそを賞賛すべきだろう。
ペレアスは取り繕うように笑った。
「……小指くらいは持っていけたと思ったんだがな。というか、え? ローマ?」
「如何にも、
「いや、そのりくつはおかしい」
「照れるな、
樹槍がうねりをあげ、小さな波となる。
絶え間ない攻撃を捌きながら、ペレアスは悪態をついた。
「残念だが、オレが背負ってやれる愛は嫁のだけで精一杯なんだよ!!」
…………ブーディカと共に『神の鞭』と相対していたジャンヌは、肩をすくめてため息をつく。
その原因は、惚気けたようなペレアスの叫び声だった。
「マスターがアレならサーヴァントも、ってことですか。こんな時に惚気けるとか、恥ずかしくないの?」
「あたしはノーコメントで……」
ブーディカは紅潮した顔を伏せて言った。彼女とて枕に顔を埋めたくなるような記憶はある。ペレアスの発言でそれが揺り起こされたのだった。
とはいえ、ここは戦場。命のやり取りをする場所だ。
短く息を吐いて、思考を戦闘用に切り替える。
「じゃあ、始めようか」
「ええ、立香たちが来る前にケリをつけるわ」
直後、虹色の剣閃と漆黒の炎が激突した。
兵士の恐慌と憤慨が、手に取るように分かった。
その男の姿を見て。
ある者は唇を噛み。
ある者は視線を尖らせる。
そこに滾るのは苦々しい憎悪だ。
誰もが彼の治世に苦しめられ、放蕩に耽る所業に怒りを募らせた。
ずきりとした胸中の痛みを抑えるように、ネロは愛剣を持つ手に力を込める。
違う。この人はそんな人間ではないのだと、今すぐにでも叫びたかった。
第3代ローマ皇帝・カリギュラ。
月に魅入られた狂気の皇帝。自身を神と称し、忠実な側近をも残虐な手法で殺した暴君。きっと、彼の悪行は千年を超えた未来でも語り継がれているのだろう。
ネロの記憶にある彼は、他者への愛に溢れた名君そのものだった。
幼きあの日、小さな自分を膝に乗せて、様々な英雄譚を聞かせてくれた彼を。
この手で殺さなくてはならない。
ローマ帝国に叛く悪逆の徒として。
彼の罪状に、反逆罪をも加えなければならないのだ。
剣の柄を砕けんばかりに握りしめるネロを横目に、エリザベートは意気揚々と声を張り上げた。
「子ブタ共は下がってなさい! 一発でも殴られたら、普通の人間はミンチより酷いことになるわよ──っと!」
彼女は側頭部へ振り抜かれた拳を屈んで回避し、槍の穂先を叩きつける。後ろに跳んだカリギュラを追い、ネロは剣を横に薙いだ。
悔恨にほぞを噛もうと。
慚愧に目を伏せようと。
彼女の剣に一切の狂いはない。
体から心を切り離す。陰謀と策略渦巻く政治の世界にあって、彼女が真っ先に身に着けた技術のひとつであった。
あるいはそれは、防御反応だったのかもしれない。元老院の議員たちとの権力闘争の最中、自らも非道に手を染めなくてはならない事実から心を護るための。
剣撃と槍撃が織り重なる。
膂力で上を行くカリギュラであろうと、ネロとエリザベートの攻撃全てを捌き切れるはずもない。
珠の鮮血が散る。刻一刻と彼の体には傷が刻まれ、動きは精彩を欠いていく。
それでも、致命傷だけは与えられない。
彼の宝具は月が出ていなくては使えない。軍勢に対してあれほど強力なものはないが、この場を打開する手段は皆無に等しかった。
どうあがこうと敗北が待ち受けているというのに、カリギュラが止まる気配は微塵も見当たらない。それどころか、反撃の激しさは増す一方だ。
(……よい)
より強く。
より速く。
(もう、よい)
一合、また一合と、剣に心が乗る。
(早く、倒れよ────!!)
背負うような構えから、真一文字に振り抜く。
それを振るった途端、理解した。
剣筋が揺らぎ、腕に余計な力が入った不格好な斬撃。思わず恥じ入るような、そんな剣。
だというのに、その刃は。
伯父の右腕を、斬り飛ばしていた。
肉を裂き、骨を断つ手応え。
手にまとわりつくようなそれを振り払う暇もなく、彼女は聞いた。
「───なぜ泣く、我が愛しき妹の子よ」
月の光は、彼の何を照らしたのだろう。
月は狂気の象徴であり、古来より人を狂わせると信じられてきた。切り裂きジャックの犯行が、常に満月と新月の日に行われたなどという俗説が存在するほどに。
狼男という伝承がある。満月の夜、人間が狼に変わるという話であるが、最初から月との関連性を持っている訳ではなかった。
それではなぜ、狼男と満月のイメージは結び付けられたのか。
人間が理性なき獣に変化するという現象。それを理由付けるために、古代の人々が狂気の月という信仰を当てはめたのだ。
人の内に眠る獣性。月の光は人間性を奪い、残虐性を呼び覚ます。
であるのならば、月明かりが照らすのは人間の本性だ。理性の皮を一枚剥げば、知恵無き獣と同質であるという月女神からの宣告。
───そう、これは。
人を殺すのではない。
伯父を殺すのではない。
人の世に迷い込んだ一匹の獣を狩る。
これはそういう戦い。野を駆る獣を手に掛けて、泣く狩人などいようものか。
胸に吸い込まれる刃。
防御に動く戦闘本能を抑えつけ、彼はその一撃を受け入れた。
「───」
ずぶり、と剣が肉を掻き分ける。
引き抜こうとしたその手を、残った左手が掴んで止めた。
「余は」
彼女の言葉は、しかして遮られる。
「胸を張れ、おまえは皇帝だろう」
穏やかな微笑み。
彼は割れ物に触れるように、ネロの頬を撫でた。
無骨で、けれど暖かな手のひら。それは、幼少の砌と変わらぬ感触だった。
「進め。この戦場には我らが神祖が、ガイウス帝が、征服王がおられる。かの方々に、おまえの王道を突きつけてこい」
獣はここで果てる。
覇業。偉業。それらを成し遂げた王たちの面前に、合わせる顔はない。
しかし、そんな男にひとつだけでも贈れるものがあるとしたら───
「───ネロ。我が愛しき妹の子。余は、たとえどんな結末を辿ろうと、おまえの道を祝福する。決して独りにはさせない」
体を構成する魔力がほどけ、空気に溶けていく。
彼が完全に消えてなくなるまで、ネロは伯父の言葉を何度も反芻した。そして、彼女はエリザベートに向けて一言、
「往くぞ」
王としての在り方を問うために。
滾る想いと溢れる言の葉を、胸に仕舞い込んだ。