自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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第0話 disillusion

 北欧神話にはドヴェルグという妖精が登場する。

 アースガルズの神々が所有する宝具。人智を超えた機能を持つ武具・生物の多くが彼らの手によって創り出された。

 彼らはこの世ならざるモノを生み出す。それはアースガルズの神々ですら不可能な事象であり、しかし彼らは太陽の光を浴びると石になるという特性故に地下での生活を強いられたのだ。

 だから、数々の神具を造る力がありながらも───しばしば対立することはあるが───神に搾取される対象で在り続けるしかなかった。

 ……事の始まりは、神代の終わり際だった。

 北欧世界の神代の終わり、ラグナロク。

 全ての神が、巨人が、互いに互いを殺し合う終末戦争。ラグナロクとは神々の運命を意味する言葉だ。神々が辿る運命の結末は既に、巫女の予言によって決められていたのである。

 ラグナロクを経て滅び。

 そして、新生する世界に。

 光の神バルドルは戻り来たるのだ、と。

 

〝我が子はロキの奸計によって命を落とした。ラグナロクが始まる。全ての神々が死に、世界が絶える終焉の黄昏が〟

 

 それは、神話には記されぬ指令であった。

 とあるドヴェルグの一族の前に、その神は現れた。

 

〝ドヴェルグよ。お前たちは人の子と交わり、子を成すが良い。お前たちの子孫は太陽への耐性を得るだろう〟

 

 オーディンの妻にしてバルドルの母、フリッグ。北欧神話世界における最高位の女神は矮小なるドヴェルグへ、密かに告げたのだ。

 

〝───お前たちにふたつの命令を下す〟

 

 なぜなら、これを知られる訳にはいかなかった。

 狡猾なる神、ロキ。バルドルの殺害を計画し、連鎖的にラグナロクをも引き起こしたトリックスターがこれを知れば、如何な妨害をしてくるか想像もつかない。

 ラグナロクが始まればロキは洞穴より解き放たれる。ヘイムダルと相討ちになるまでに、この計画を悟られれば終わり。

 故に、このタイミングしかなかったのだ。

 

〝ひとつ。新たなる世に現れるヤドリギを見つけ出し、誰にも渡すな〟

 

 結局、彼女が動いた理由はひとつなのだろう。

 

〝ふたつ。遥かな時を超え、お前たちの子らより生まれる我が子バルドルの到来を待つがいい〟

 

 どこまでもフリッグは母であり神だった。

 夫たるオーディンは死ぬ。終末の魔狼フェンリルの顎に呑まれて二度と戻らぬ運命にある。

 だが、これは取り返しのつかぬ問題ではない。

 神々にとって何よりの痛手は、オーディンの王位の後継者であるバルドルを失ったことに尽きる。王の死が決定しているとしても、後継者さえいれば世界は続く。

 その存続の可能性を絶たれた時点で、北欧世界に先はなかった。

 フリッグは母であったから、いずれ復活する息子の安寧を望んだ。

 フリッグは神であったから、新生した世界で神の治世が戻ることを望んだ。

 そして、フリッグは母であり神であるから、矮小なる妖精や人間のことを理解していなかった。

 ───そうして、北欧の神代は終わった。

 母神の使命を授かった一族はヤドリギの探索を始めたが、それは難航を極めた。

 神殺しのヤドリギとは元よりこの世界に存在しなかった異物。ソラの外より来たりしモノであるが故に、それは世界から弾かれ、行方を晦ましたのである。

 それでも、その一族はヤドリギを探した。

 フリッグの使命とはすなわち運命の強制であり、預言であり、呪縛のようなものであったからだ。

 彼らは世界を巡った。

 ドヴェルグが持つ力を駆使して。

 茫漠と広がった砂漠を。

 神魔が闊歩する樹海を。

 幽玄なる極東の秘境を。

 閉ざされし北の絶海を。

 そして、海の果てに待つ氷の大地を。

 各地で人間の血を取り込み、子孫に望みを託していく。その過程で妖精の血は次第に薄れていき、超常を創り出す力も失われていった。

 長き旅路の果てに、彼らが神殺しのヤドリギを見い出したのはブリテン島。西洋において、最後まで神秘が残った島に、ヤドリギはあった。

 その理由は分からない。

 単なる偶然か、島に住まう妖精たちが先に発見していたのか、神秘の残り香に惹かれたのか、はたまた、定められた運命の導きか。

 

 

 

 

 ──だから、何としてでも伝えなくてはならない。何としてでも残さなくてはならない。 

 其は神代の秘蹟、奇跡の具現。 

 いつか神秘が消え失せるその時まで。

 未だ見ぬ子孫の人生をも犠牲に、この聖枝を護り抜こう。

 

 

 

 ともかく、それがきっかけだった。

 ドヴェルグの血を引く一族は生まれ変わったのだ。

 魔術師の家系、ナーストレンド家として。

 彼らの目的はヤドリギの保存。血統の維持。そのためにドヴェルグたちが住んでいた地下の村に戻り、外部との交流を遮断した。

 それだけでは足りない。この場所とて誰かに見つかる可能性がある。そこで、彼らはヤドリギを肉体に埋め込んだ。一時期は一族のほぼ全員が死に絶えながらも、血脈を繋いだ。

 ヤドリギとの融合はナーストレンドの魔術師たちにひとつの可能性を与えることとなる。

 架空元素・無という魔術属性。

 そして、この世ならざる物質・事象を創る無属性魔術。

 ヤドリギという神代の神秘を取り込むことで、擬似的な先祖返りを起こしたのであろう。それが、何人もの先代たちによる考察だった。

 数百年を掛けてヤドリギとの適合を果たし、およそ1000年が経った頃。

 暗く冷たい地の底で、ひとつの産声があがった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────最初の記憶は、自分の体にまたがる母の顔だった。

 

「…………バルデルス。バルデルス、バルデルス」

 

 唇の端から息が漏れる。

 体が跳ねる。

 意識が沈み、感覚が凍る。

 ぎしりと首に突き立つ十本の指。爪が皮膚を破り、血を滲ませる。それでも痛くはなかった。苦しくはなかった。そんなことを伝える感覚は途絶えていたから。

 肺に残ったなけなしの酸素を絞り出す。吐息めいた言葉が冷たい空気に溶ける。

 

「ありがとう、ございます」

 

 母は狂っていた。

 彼女は外の世界の人間だった。

 ヤドリギに適合する体質を、一族だけで継承させるには無理がある。近親間による血の繋がりは妖精の血を濃くする反面、遺伝的に重大な障害を子孫にもたらす。

 後者のデメリットは前者のメリットを遥かに上回る。それを解決する苦肉の策が、外部からの血を取り込むことだった。

 魔術師が求めるのは見目の美しさでも人格の清らかさでもなく、母体として如何に優秀であるか。一族は定期的に外の世界から母体として耐え得る人間を攫い、子を成してきた。

 元よりヤドリギを移植することで300年以上の寿命を得ている。頻繁に外に出る必要もなく、外部の目がつく可能性も低い。ヤドリギの保存を旨とするのなら、悪い手段ではないだろう。

 ただし、それは外道の理屈であって、外の世界に生きる者の理屈ではない。

 ある日突如連れ去られ、地の底に幽閉される。その苦痛と恐怖は余人の想像の及ぶところにはない。

 ましてや、他人の子を孕まされるなど。

 だから、これは仕方がない。

 そんな人に母としての役割を求める資格なんて、自分にはない。

 でも、嬉しかった。

 首元に残る指の跡。それだけが、母がくれたぬくもりだったから。

 

「明日は、雨が降るわ」

 

 母の部屋からはいつもそんな声が聞こえてきた。

 彼女の精神の構造はとっくに壊れていた。

 無理やり産まされた我が子を憎むと同時に、かの母神の役割にすがりついて生きていたのだ。

 すなわち、予言の力を持つフリッグとして、当たらぬ予言を繰り返し続けていた。この地の底では、空の色も見えないというのに。

 ドヴェルグは闇の妖精。故に太陽の光を浴びれば石となり、光の届かぬ場所をこそ好む。そんな連中が造り出した場所だ。隠蔽性、防御力は現代の魔術工房とは比べ物にならない。

 けれど───だからこそ、澱が溜まる。

 一族の住処には常にどろどろと重い空気が漂っていた。最低限の明かり。岩肌が露出する湿った地面。およそ1500年もの間、冥府の如きこの場所で昨日と同じような今日を、今日と同じような明日を繰り返し続けていた。

 そこは陰鬱で。

 鬱屈としていて。

 それでいて、不幸に満ちている。

 

「お前のせいだ、バルデルス」

 

 だから、これも仕方がない。

 

「お前さえいなければ、お前さえ先に産まれなければ、その名を与えられていたのは俺だったのに!!」

 

 自分には双子の弟がいた。

 皆が寝静まる頃になると部屋にやってきて、固く閉ざされた扉の向こうで喚きを散らす。

 

「どうしてオレの目は見えない!? どうしてオレにはヤドリギがない!?どうしてオレには名前がないんだ! お前の弟というだけで才能を奪われ、外の下等な人間程度の寿命で死ななければならないオレの不幸がお前に分かるか!?」

 

 弟は生まれつき目が見えなかった。

 新世界に再来すると予言されたのは必ずしもバルドルだけではない。その弟にして殺害者である盲目の神、ヘズ。惨劇を招いた神もまた、バルドルとともに復活を果たすのだ。

 故に、彼にヤドリギと名前は与えられなかった。かつての神話の再現を恐れて。魔道に接する機会もなく、狂った母と牢に押し込められていた。

 しかし、ここまで来れたのは、自分が毎日牢の鍵を開けていたからだ。

 かり、かり、と、枯れ木のような指から突き出た爪が鉄の戸を掻く。最低限の食事しか口にしていない彼の力はあまりにも弱々しい。

 

「死ね。死ね。死ねよバルデルス」

「……ごめんなさい」

「その名もその力も、全部全部ぜんぶ!」

「…ごめんなさい」

「オレから取り上げたものだろうが───!!」

「ごめんなさい」

 

 仕方がない。仕方がない。仕方がない。

 彼と自分を分かつ鉄の板にすがりつき、謝罪を述べ続ける。その度に、脳みそと心臓の奥が軋んで歪んでひび割れるような気がした。

 生まれたことが罪なのだから、それを償う手段は自分で自分の命を絶つか、この苦しみを抱えて生き続けるか。そのどちらをも選んでいない自分に嫌気が差す。

 扉の向こう側で、物音が立つ。

 荒々しい足音とともに弟の怒号が遠ざかっていく。

 きぃ、と扉が開き、橙色の光が射した。魔力による寂れた灯火を提げた老人は、へたり込んだ少年に微笑みかける。

 

「気にするな、バルデルス。アレの戯言など忘れろ」

 

 老いたその男こそが、父親だった。

 根源への到達ではなく、ヤドリギの保存を第一義とした家において、この男は魔術の才を有していた。己が子が生まれた直後に、副作用も拒絶反応もなく魔術刻印を移植できる程度には、肉体を弄る術に精通していた。

 元よりこの家の魔術刻印はヤドリギの移植と同義だ。適合に耐え得る体とそれを改良する術式は1000年前に完成している。男はその術式を限りなく高い精度で行えるというだけだ。

 

「お前は神代より待ち望まれた光輝の神の生まれ変わりだ。現に、これまで誰ひとりとして考えつきもしなかった、ヤドリギを擬似的な魔術回路として利用する方法を考え出してみせた」

 

 その言葉は、どこか他人事のように聞こえた。

 自分はただこの世に生み落とされただけだ。母と弟を苦しめてまで、この才能を得たいと思ったことなんて一度足りともありえない。

 

「お前は唯一の弱点であるヤドリギを取り込んだ。もはや何者にも侵されることのない絶対の存在、原典を超えている。お前は孤高であれば良い。母の腹を利用しただけで繋がりはない。弟なぞ才能を吸い尽くされた出来損ないだ」

 

 この男に、名前を贈られた。人の子より産まれしバルドル。オティヌスの息子である半神半人の英雄になぞらえて、バルデルスと名付けられた。

 もうひとつの名前は、使ったことがない。外の人間には真名を名乗るなと言われていたが、そんな機会なんて一度もなかった。

 まるで自分のことのように舌を回す男の目は、こちらを見てはいない。熱に浮かされたみたいに悦に浸り、そこにはない何かを眺め続けている。 

 

「だが、私にはお前が理解できる。お前がバルドルだとすれば、私はオーディンだ。我らならば、一族の悲願へと辿り着ける」

 

 だから、こんなことが言える。

 自分だけはお前のことを分かってやれると、その相手を見もしないで男は言い切った。

 

「───不老不死。それこそが、私たちが目指すただひとつの願いだ」

 

 なまじ数百年の寿命を持ってしまったが故に、一族には死への強烈な忌避感と恐怖が蔓延していた。死とはどうあがこうが人間である限り避けられぬ宿命。死の恐怖から逃れるため、不老不死を手に入れようとしていたのだ。

 そして、神代よりの予言が達成された今、その渇望は臨界を迎えていた。

 老人たちは口々に言う。

 自分たちが死ぬ前に、何としてでも不老不死の法を完成させろ、と。

 

(…………こんな地の底で、永遠に生きたいのか)

 

 そのことに、何の意味があるのか。

 何度も疑問に思ったけれど、これだけが自分にできることなのだとしたら。

 口は、勝手に動いていた。

 

「はい、お父様」

「良い子だ。愛しているぞ、バルデルス」

「……はい」

 

 そうとなれば、寝ている暇なんてない。

 これだけが生きて良い理由。自分の生を許せる目的だったから。他者ではなく自己を犠牲にするなら辛くはない。そう言い聞かせる。

 男が去った後、冷たい石の机に紙を広げる。途絶えた部屋の灯りに魔力を注ぎ込み、光をつける。羽根の先に古臭いインクを漬けて、いざ理論を書き進めようとしたその時、指の間から羽根のペンがこぼれ落ちた。

 手先の感覚がない。小刻みに揺れる振動は体の末端から広がり、すぐに全身を支配する。

 

 

 

「…………()()

 

 

 

 心臓さえも止まってしまいそうなほどに寒い。骨が氷柱と入れ替わったみたいだ。こんなに寒くてはらちが明かなくて、ペンすら拾えない。

 何度も何度も力が抜けそうになりながら、手袋をはめて上着を重ねて、帽子を被ってマフラーを巻く。これで少しはマシになった。

 どうして皆は寒くないのだろう。そんな余計なことを頭の片隅に置いて、ようやく研究に取り掛かる。

 まずは手付かずの資料の整理から始めた。魔術の家としては1500年程度でしかないが、伊達に神代から続いてはいない。何かヒントがあるかもしれなかった。

 ミミングスの剣の製法───これは現代では再現できないだろう。材料は揃えられても、それを鍛えるルーンがない。原初のルーンが失われているなら、これはただの紙くずだ。

 それに、不死身のバルデルスを斬ったホテルスの剣を造ろうとしても、周りが許さない。戦いの少ない現代では造ったとしても高く売れる程度だろう。

 集中すれば一読で内容は覚えられる。紙束と化した資料を適当な箱に放り込んだ。

 本命の不老不死────ヤドリギを利用する方針でこれ以上の長命は見込めない。肉体と紐付けされた魂が時間の経過によって腐敗するため、これからは肉体ではなく魂にアプローチする必要がある。

 もっとも望ましいのは第三魔法。本来不滅である魂を物質化させることで、正真正銘の不老不死を実現できる。ヒトに無限の未来を約する魔法だ。

 

(…………だけど、第三魔法には懸念がある。後塵を拝するおれたちにとっては、根源への遠回りに──────)

 

 そこで、頭を振って思考を止める。

 第三魔法の懸念点など今はどうでもいい。不老不死の法が最優先なのだから、第三魔法の再現を求めれば目的は達成できる。この思考は余計だ。

 だが、研究において思い込みは最大の敵だ。第三魔法以外にも可能性を考えておくべきかもしれない。

 

「……無属性魔術か、ヤドリギ」

 

 小さく呟いた内容に、自分で驚く。

 この世ならざる事象・物体を創る無属性魔術に可能性があるのは分かる。だが、ヤドリギの利用はこれ以上できないと結論付けたはずだ。

 否、それこそが思い込みだ。肉体とヤドリギの共生ができるなら、その先、魂とヤドリギの共生に望みはないのか。

 

(そもそも、ヤドリギは〝幼いが故〟に世界との契約を逃れた。幼いってことは、成長する余地があるんじゃないか?)

 

 遍く神と、あらゆる不死を殺すヤドリギ。

 それが成長したなら、一体、これは()()()()()()()()()()のだろう────?

 途中で思考は打ち切られた。見えない手に導かれるように、目が扉の方を向く。いつの間にガタが来ていたのか、錠前の部分が壊れて落ちていた。

 ぎしり、と椅子が軋みを立てる。この程度なら、魔術で治すのは造作もない。たとえ鉄扉が粉々になっていても元通りにできる。

 魔術回路のスイッチを入れる。首が細い指で締められる感覚。唯一、母と触れ合えた記憶。それが魔術を使うための儀式だった。

 魔力を通し、ほぼ無意識的な感覚で最適な魔術を行使する。それで錠前は復元された。懐の鍵で閉め直そうとした瞬間、脳裏にひとつの考えがよぎる。

 

(今なら、外に出られるかもしれない)

 

 どくり。心臓が跳ね上がり、額から冷や汗が噴き出す。

 この時間は誰もが寝静まる。そうでなくとも、自分の部屋を訪れる人間は少ない。日によってはひとりも来ないことも多い。

 なぜなら、あの男は言っていた。〝聖なるものは邪なるものと同じか、それ以上に遠ざけられる〟と。後者が穢れに染められるから遠ざけられるものなのだとしたら、前者は穢れを移さないためのものだ。

 言うなれば、聖なるタブー。神の居所にみだりに近づく者は必ず代償を払う羽目になる。畏れ多くも天に到達しようとしたバベルの塔の教訓のように。

 しかし、聖なるものが穢れ多き地へ移動するということは──────

 

「違う。おれは、人間だ。……人間でありたい」

 

 たとえ、この願望が間違いだったとしても。

 毛糸に包まれた手でゆっくりと扉を押す。暗く堅い岩の道を一歩進む度に、心臓の鼓動が加速していく。走っている訳でもないのに息が上がる。

 禁忌を破る。禁断を踏み躙る。足元が崩れていくみたいな不安感の裏腹には確かな高揚があった。

 地上と地下を隔てる壁に辿り着く。

 この場所には出口も入口も存在しない。壁に埋め込まれた魔術式を解き明かすことによってのみ、地上への道は開かれる。さらに、これが解かれた場合は全域に警報が鳴るおまけ付きだ。

 解き明かす、という前提すら煩わしい。自らの手で魔術式の全てを瞬時に解析・掌握し、自分だけを無条件で通すように書き換える。

 壁に小さな光が灯る。神の時代から用意されたそのセキュリティはものの数秒で突破された。警報も鳴らない。見直すまでもなく、早々と歩き出す。

 ずぶり、と全身が岩壁に呑まれる。一瞬の潜行を終え、足の裏が冷たく柔らかいものを踏んだ。

 目の奥に飛び込む光。反射的にまぶたを閉じて耐えていると、徐々に光量が収まっていく。そうして、ようやく外の世界を目にすることができた。

 

「…………しろい」

 

 そこは雪化粧に彩られた森林。ほう、と吐く息でさえ白く、太陽の光を反射する銀雪がきらきら優しく輝く。

 目に映るもの全てが新しい。樹木の一本一本が塔みたいだ。さくり、さくり。踏まれる雪の音も小気味よい。肺を満たす空気は冷たいけれど澄んでいて心地が良い。

 分厚い雲の間から覗く太陽と青空を見て、初めて空の色を知った。

 雪が木の葉っぱから落ちる。鳥が囀る。森そのものが歌っているかのようで、その音に合わせて自分も雪上でステップを踏む。

 さくさく。さくさく。さくさくさく。───どさっ。さくさくさく。

 自然と口角が吊り上がる。この時、生まれて初めて心の底から笑えた気がした。

 だって、ここは。

 広くて、明るくて、澄んでいて、新しい。

 木の間を縫って走り回る。

 ───疲れているのに、苦しくない。

 雪面に飛び込む。

 ───冷たいのに、つらくない。

 自然の呼吸に応えて遊び回っていると、森の境界に達する。どうやらここは山の中で、折り重なった木々の向こうにはまだまだ世界が広がっているようだ。

 そこから見えたのは。

 

「……あ、はっ」

 

 乾いた笑いが、口をついて出る。

 数えきれないほどの人の群れ。石で覆われた道を、いくつもの鉄の箱が行き交う。大地に敷き詰められた建造物は、塔のようだと思った木々よりも巨大だった。

 暗い影に染められた地下とは何もかもが異質。雑然とした色彩に目が眩みそうになる。

 雪の中に膝をつく。この情報を処理するには時間と知識が足りなすぎる。全く知らない言語で書かれた文章を読まされているかのようだ。

 ……魔術も、根源も知らない人間があんなにたくさんいるなんて。一族の住処だって、地の底なんかではなく山の中身をくり抜いただけなんだ。

 ああ、もう、すべてが、くだらない。

 一族が神と崇める自分も、不老不死に至るための研究も、こんなにも広い世界の前では陳腐で矮小でちっぽけだ。

 漠然と雑踏を眺めていると、枝葉が擦れ合う小さな音が聞こえた。

 咄嗟に音の方向を向く。

 真っ白な体毛の子犬。よたよたと頼りない足取り。よく見ると、その左後脚が血で赤く染まり、雪上に点々と赤い雫を垂れ流している。

 

「くだらない魔術でも、おまえくらいは助けられるかな」

 

 腹から手を回して自分の胸元に寄せる。怪我のせいか、抵抗も警戒もできないほどに弱りきっていた。

 自分の手首を魔術の斬撃で裂く。魔術の触媒のために体内に残していた血液を絞り出し、拒絶反応が出ないように構造を組み換えて傷口に注いだ。

 犬が流した血はこれで補填された。傷口をそっと撫で、裂けた皮膚を元通りに修復する。

 

「よし。……ほら、もう治ったぞ」

 

 人間の言語が伝わるはずもないけれど。

 そう言って、白い体毛から手を離す。どこかに行くような素振りはない。犬はくるりと振り返って、先程裂いた手首の辺りを舌で舐めてきた。

 別にこの程度痛くもない。

 血がなくても生きていける。

 けど。

 誰かに労られたのは、これが初めてだった。

 自分と同じ、真っ白なその犬を抱き寄せる。じくじくと伝わってくるその熱は、とても小さくて。でも、あの世界の何処よりも、何よりも─────

 

 

 

「────()()()()()

 

 

 

 その日から、外に出て子犬に会いに行く生活が続いた。

 その白い犬はいつも出口で待っていた。律儀に雪の中で座って、自分が来るとぱたぱたと尻尾を振りながら近付いてくる。その姿に胸の内をまさぐられるような庇護欲を覚えて、枝葉を組んで小屋を作ってやった。

 彼とともに山中を探索して回る。言葉を介さないやり取りは気が楽で、何も押し付けてこないその在り方が心を軽くしてくれた。

 この子がどうして独りでいたのかは分からない。群れからはぐれたのか、親に捨てられたのか、その親が先に死んでいたのか。孤独な者どうし、傷を埋め合っていた。

 でも、彼は日に日に弱っていった。その理由は単純で、食料がないから。

 ヤドリギとの共生は魔力を与える代わりに概念的な生命力のエネルギーを受け取る。極論、酸素を運ぶ血液も必要なく、食事さえ不要。

 いつしか、先祖たちは食事すら切り捨てた。しかし完全に失ったわけではなく、たまの娯楽として、村の一角に作物を育てる区画が設けられている程度だ。

 自分は神への供物として捧げられる食料の全てを犬に与えていたが、それも限界がある。

 他の動物を殺す…………それも、できなかった。既に母の未来を、弟の可能性を奪っている自分が他者の命を害するなんてどうしてもできなかった。

 日々疲弊していくその様子が見ていられなくて。頼れるのは、あの男しかいなかった。

 

「お、お父様」

 

 男はぜんまい仕掛けの人形のように振り向く。

 

「掟を破ったことは謝ります。だから……だから、この子をっ」

 

 腕の中から弱った子犬が取り出される。男は首の皮をつまみ上げながら、暫時その顔を眺める。

 

「……バルデルス。白き神の名を冠するお前が、穢れ多き人間のようなことをするな」

 

 ばぢん、と魔力が迸った。

 悪意に満ちた閃光が小さな体を駆け巡り、破裂した血管から鮮血が辺りに飛び散る。

 男は冷たい声音で命じた。

 

「部屋に戻って身を清めよ。話はそれからだ」

 

 そこから先は、あまり覚えていない。

 声を荒げて反論する気力もなかった。

 部屋の中で男の戯言を聞いた後、冷たくなった体をずっと抱いていた。血の巡らぬ体ではぬくもりも分けてやれなかった。

 頬を伝う涙でマフラーがぐしゃぐしゃになって、胸元を暗い色に染め上げた頃、鉄扉をか掻き毟る音と怨嗟の声が響いてくる。

 ごめん、と返す余裕もない。

 涙の重みでマフラーが床に落ちても声は止まなかった。

 両腕で抱える白く赤い体もぐしゃぐしゃになって、ようやく音と声が止んだ。

 そこからまた泣き続けて、ふらふらと外を目指す。弟は体力を使い果たして気を失っていた。

 その道中で、幾人かの取り巻きを連れたあの男と擦れ違う。自分が何をしようとしているのか分かりきっている表情で、奴は呟く。

 

「やはり、我らの計画を進めておくべきか」

 

 地下から地上に出ても、世界は相変わらず白くて。

 ただ、この子が待っていないだけだった。

 小屋を崩して、代わりに墓標を立てる。

 穴を掘って亡骸を埋めようとして、土を被せようとしたところでもう一回抱き戻してしまう。

 ───ここに眠らせてしまったら、こいつはまたひとりぼっちだ。

 

「う、あああああぁぁぁ……!!」

 

 母に首を絞められた時。

 弟に罪を糾される度。

 本当はつらかった。苦しかった。痛かった。自分を騙してただけだった。

 おれだってあんな場所に生まれたかったわけじゃない。神代から続く命令なんて知るもんか。それなのに、なんで、こんな苦しみを押し付けられなきゃいけないんだ。

 こいつのおかげで、おれはあたたかさを知れたのに、何も返すことができなかったじゃないか────!!!!

 

「───もう、埋めてやらないと。この子は何処にも還れない」

 

 そっと、後ろから手が重なった。

 同じ年頃の少年。真っ黒な髪の毛の、サファイアのように蒼い瞳をした彼は優しく言った。

 名前も知らない、初めて見た少年の提案に小さく頷く。

 命は地面に還る。そうして自然の一部になる。その理から外れているのは、世界の外から生まれたヤドリギしかない。

 この子が生命の輪廻から外れて、永劫に彷徨い続けるほど残酷なことはないだろう。

 穴の中に小さな体を寝かせて、少年と一緒に土を被せる。白い世界にひとつ、土の色が混ざった。

 会話を交わすことなく立ち上がる。

 外の人間と何を話せばいいのか。そんな迷いを抱く前に、彼は空に輝く太陽みたいに笑った。

 

「じゃあ、おれの家でも行くか!」

「は……?」

 

 反論する間もなく、少年はこちらの手首を掴んで走り出した。

 白亜の斜面を、駆けて下る。

 透明な風が肌を撫でる。

 太陽の光が眩しい。

 なにがなんだか分からない。

 それなのに、この手を振り払うことができなかった。

 視界を流れる風景が移り変わる。

 色彩に満ちた街並み。名も知らぬ人々が闊歩する雑踏の一部になる。異物だと思っていた自分の存在は、誰も咎めることなくすんなりと受け容れられていた。

 それは突き詰めれば無関心。たとえ見知らぬ子どもが走り回っていたとしても、見知らぬ人間がいるのは彼らにとって当たり前のことなのだ。

 そうして、コテージのような木造りの家に辿り着く。少年に手を引かれ、訳の分からぬまま玄関に上がらされた。

 ドヴェルグなんかじゃなくて、地上の妖精はこんな家に住んでいたのかもしれない。そう思わせるほど、そこは綺麗だった。

 暖色で統一された室内を歩く。居間の戸が開くと、嗅いだこともない匂いが鼻先をくすぐる。部屋自体のそれではなく、居間の奥の台所から、忘れていたはずの食欲を誘発する香りが漂っている。

 そこからひとりの女性が顔を出す。少年と同じ、黒い髪に青い瞳。丸い眼鏡をかけた彼女は目を細めて、

 

「……おかえりの前に、えーと、その子は?」

「この前言った、雪の妖精! 捕獲に成功した!」

「ジブリ映画の始まりかな?」

 

 まあいいか、と彼女は気を持ち直して、気楽に告げた。

 

「とりあえず手洗っておいで。すぐご飯できるから。服はそこら辺にかけておいて」

 

 果てしなく奇妙な感覚に襲われる。

 いきなり連行されたのはもう諦めるとして、子が子なら母も母らしい。こんな異物をなんとなしに許容して、さっさと台所に消えてしまった。

 現実味に欠けたまま、洗面所まで導かれる。

 レバーを上げると水が流れて、見たこともない材質のボトルの上を押すと泡が出て、それを手につけて擦り、また水で流す。

 頭がパンクしそうだったが、見様見真似でやり遂げる。泡をつける意味はないように思われたが、なるほど、これは神話的要素を取り込んだ儀式なのかもしれない。

 例えば、水をせき止める邪竜ヴリトラは泡によって殺害されているし、美と愛の神ヴィーナスは泡から生まれている。邪なるものを打ち倒す、美しいものを生むという側面を切り取って儀式化しているのだ。

 

「いや、雑菌を退治するためだぞ?」

 

 無意識のうちに思考を口から垂れ流していたのを、横から指摘される。

 

「ザッキン?」

「うん。菌っていう目に見えない生き物がそこらじゅうにウジャウジャいて、そいつらの中に悪さをするやつがいるんだって」

「……種類の数は?」

「それが、今の科学者でも全部は見つけられてないとか……」

 

 科学。その言葉は知っている。曰く、魔術とは対極に位置する学問だ。あの男は科学のことを〝凡俗の学問〟と罵っていたが、現にこうして、魔術師が思いもしなかった生物の存在を発見している。

 魔術がマクロな世界に作用する技術だとすれば、科学はミクロの世界にも干渉できる技術だ。この性質において、科学は魔術と隔絶した差を有していた。

 

(神秘が衰退するのも当然か。目に見えなかったから分からない現象も、科学は解き明かしてしまう。過去にしがみつくしかない魔術はいずれ無くなる)

 

 そう考えると、自分たちがますます馬鹿らしく思えてきた。何が凡俗の学問、滅びが決定した魔術よりは遥かにマシだ。

 密かな落胆。それももう慣れた。魔術の限界なんて、毎日の研究の度に思い知っていたから。

 居間に戻ると、三人分の食事が食卓に並べられていた。

 真っ先に目についたのは、先程と同じ香りの料理。白いスープの中にごろごろと野菜が転がっている。

 椅子の前で立ち竦んでいると、丸眼鏡の女性は柔和に微笑みかける。

 

「食べていいのよ。おなか、すいたでしょう?」

「…………そ、外のものは食べてはいけないって言われてる」

「変な決まり事だなぁ。そりゃ拾い食いとかしたら腹壊すだろうけど」

 

 少年の率直な感想とは裏腹に、その女性は興味深そうに瞳を輝かせた。

 

「イザナミの黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)、ペルセポネのザクロ───もしくは千と千尋ね! むむむ、これは妖精疑惑が高まってきた……!!」

「だから言っただろ? 写真撮って新聞社に送りつけよう。うまく行けば一大センセーションが巻き起こるぞ!」

「コティングリー妖精事件も目じゃないわね! きっとコナン・ドイル先生もまた騙されるわ!」

(こいつら、アホなのか?)

 

 とはいえ、彼女の考察は的中していた。ペルセポネが少量のザクロを食べさせられただけで一年の三分の一を冥界で過ごさねばならなくなったように、その世界の食べ物を食すと元の場所に戻れなくなってしまう。

 だが、勝手に盛り上がっている二人の様子からして、そういう訳にはいきそうもなかった。渋々席について、スプーンを手に取る。

 ───どうせ時代遅れの掟だ。既に禁忌を破っているなら、ひとつもふたつも変わらない。

 とろみのあるスープを掬って、口に運ぶ。

 

「……あたたかい」

 

 じわり。喉を、胸元を通って熱が全身に広がっていく。

 そのぬくもりは、小さくて、白いあいつを抱き寄せた時のそれと同じだった。目頭に力を込めて、溢れ出そうな涙を必死にこらえる。

 二人はぎょっとした顔でこっちを見て、ひそひそと話し出す。

 

「うそ、私の料理うますぎ……!? 副業始めようかしら」

「不味すぎて泣いてる可能性もある」

「息子よ、母の愛が詰まった味を信じられぬのか」

「母よ、あなたが信じているのは化学調味料でしょう」

 

 会話の内容はともかく、このあたたかさの正体が理解できた。

 月並みで、平凡な言葉だけど、それは多分愛というやつだ。親子の間に繋がれたそれを、自分は食事を介して感じ取ったのだ。

 

「これは、なんて言う食べ物なんだ」

「シチューよ。正確にはクリームシチュー。フランスから伝わって、日本ではこういう白いのが一般的なの」

「じゃあ白飯にぶっかけていいのか? パンしかないけど」

「いけません、そこから先は戦争です。とある山と里のような血濡れた歴史を繰り返してはいけぬのです。ちなみに私はシチューにはパン派なので今日はご飯は炊いていません」

「小麦原理主義者め、一体どの口で不戦を……!?」

 

 フランス、日本。それすらも知らなかったが、会話から推理するにおそらくは国や地域を指しているのだろう。日本で一般的なシチューを作っているのだから、この二人はそこの人間なのかもしれない。

 右の袖で目を擦って、二人に問う。

 

「ふたりの、名前は?」

 

 親子は顔を見合わせて、屈託なく笑う。

 

「私は百合」

「おれは立夏」

「…………ユリ、リッカ」

 

 聞き馴染みのない響きを舌に馴染ませる。

 少年は顔を覗き込んできて、問い返した。

 

「おまえの名前は?」

 

 口をするりと抜け出したのは。

 誰にも呼んでもらえなかった、もうひとつの名前だった。

 

「───ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

 

 きっと、この時から。

 おまえたちに教えたこの名前が、俺の本当の名前になったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、出された料理は綺麗さっぱり完食した。

 ユリとリッカの姓は橘と言うらしい。白い花をつける柑橘類の植物。小さな実をつけた橘の鉢植えが居間の隅に置かれていた。寒さに弱い種なので冬の間は室内に移さなければいけないのだとか。

 食事を終えて帰ろうとするのをやんわりと引き止められ、なぜか家の中の案内をされた。地の底で暮らしている自分にとっては物珍しいことこの上ないが、明るい世界との差異が明確になるようで、好奇心の裏の憂鬱が拭えない。

 最後に見せられたのは、二階の奥まった部屋。そこはユリの仕事部屋だった。

 地下の図書館を思い出す。書棚が整然と並べられた空間のさらに奥に、作業机と勉強机が寄り添うみたいに隣り合っている。

 さっぱりと片付けられた勉強机とは逆に、作業机の方はいくつもの画材が雑然と散乱しており、資料用の図鑑や聖書が開きっぱなしになっていた。

 リッカは作業机に訝しむような視線を送る。

 

「……やっぱり、いつ見てもきたな」

「いいえ、これが私にとってのベストポジションだから! 一見無秩序な様にこそ実は秩序がある───ふふ、これぞ哲学!」

 

 このアホな会話にももう慣れた。勉強机の方はリッカのものなのだろう。机の上に並べられた本の背表紙を見るに、大人が勉強する内容ではなさそうだ。

 この部屋で二人は仕事を、勉強を共にしているのだと思い至る。憧憬を覚えつつ、画材に紛れた一枚の絵に目がいった。

 五指のそれぞれにきらびやかな指輪を嵌めた右手が、犬の頭を撫でている。写実的とは言い難いが、柔らかく温かみのあるタッチでそれは描かれていた。

 その隣、聖書の開かれたページを見て、この絵が何を描いているのかを確信する。

 

「動物と話せたっていうソロモン王の話か」

「ええ、そうよ。私は絵本作家だから、やっぱり動物の話は鉄板よね!」

「動物の言葉が分かるソロモン王を主人公にすれば、動物を擬人化する必要がない。親子が一緒に読むことを想定して、大人にも違和感を抱かせないようにしてるんだな」

「そ、その発想はなかった……」

「それでいいのか絵本作家」

 

 続けて、リッカは首を傾げた。

 

「で、ソロモン王って誰だ?」

「七百人の妻と三百人の妾を持ったロクデナシ」

「マジか。そこまで行くと羨ましくもないな。下半身の強度どうなってんだ」

「うん、君たちにその話はまだ早いかな。誰にも負けない知恵と知識を得た王様って言いましょう?」

 

 神はソロモン王に知恵と知識、そして彼が求めなかった富と名誉までをも与えた。赤子を巡って争う二人の女性に対して機知に富む裁きを下したことで、イスラエルの民は王の中に神の知恵を見出し、彼を畏れたのである。

 

「それでも、老いた時には異教の神々を拝んで神の怒りを買った。その理由は〝その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせた〟とある」

「つまり?」

「女に唆されて神の掟を破った」

「なんか俗物にしか見えなくなってきたぞ……!?」

 

 ユリはくすりと微笑む。

 

「ノアトゥールは物知りなのね。でも、こうは考えられない? ソロモン王は心変わりさせられるほど、奥さんたちを愛してたって」

 

 その時代、神への信仰心は何よりも優先されるべきものだったはずだ。これを他の神に向けることは到底許されず、ましてや、ソロモン王が娶った妻たちは外国の者も多かったという。

 それほどの障害を越えた理由が愛と言われても、自分には実感が湧かなかった。

 

「それに、旧約聖書の神様は『嫉妬する神』。きっと、自分以外に心を向けちゃったソロモン王にやきもちを焼いたのよ」

「自分で野放しにしておいて、言うことを聞かなかったら縛り付けるのか。どいつもこいつも、碌でもない」

 

 もしそうなら、ソロモン王は自分と同じだ。縛り付けてくる相手がオーディンを気取る人間か、唯一神を気取る神かの違いしかない。

 自己嫌悪。同族嫌悪。自分が彼に向けていた感情の答えは、それだった。

 自嘲的に笑うと、リッカの手が伸びてきて頬を挟んでくる。

 

「でも、ノアがどうしたいかは自分で決められるだろ。ソロモン王とは違う」

 

 答えることは、できなかった。

 けれど、そうだったら良いと望むことだけは、許されるだろうか。

 掟を破っている手前、あまり長居することはできない。帰ろうとした時、ユリはいくつかの白い花をつけた橘の枝を渡してきた。

 

「供えてあげて。あなたみたいに白い花だから、きっと寂しくないわ」

「…………あ、ありがとう」

「また来いよ。今度は本格的に遊ぼう」

 

 その提案に、小さく頷き返す。

 日が沈み始め、燃えるような朱で照らされた街の中を走る。

 もう、いなくなってしまったけれど。早く、この花をあいつに見せてやりたいから。

 ヤドリギの操作の延長上。肉体のリミッターを外して、街路を走る鉄の箱をも追い抜く。浮き足立つ心のままに駆け抜ければ、すぐに墓前に来ることができた。

 花に強化と、状態維持の魔術を施す。寒さに弱いこの白さが、決して枯れぬように。

 

「おれは、人生を懸けておまえの命の償いをするよ」

 

 地の底へと帰還する。

 自室に戻る前に、図書館に向かった。この家には先祖たちが世界を旅する道程で集めた資料が蔵されている。母胎を探す過程においても資料の収集は怠っていなかったらしく、聖書の知識もこの場所が由来だ。

 雑多に並んだ本棚を見て回り、目的の一冊を探し当てる。

 古寂びた装丁。古書特有の匂いが鼻を突く。こびりついた埃を手のひらで丁寧に落とす。

 その題はこうあった。

 

「『ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)』……これだ」

 

 二十世紀最大のオカルト組織、黄金の夜明け団。その創設者のひとりであるマクレガー・メイザースは、大英博物館に収蔵されていたソロモン王に関する文書を纏めて、二冊の本を出版した。

 それが『ソロモンの大いなる鍵』と『ソロモンの小さな鍵』。大鍵と小鍵とも言われる。後者を選んだ理由は、前者が魔術書として基本的な内容しか書かれていないためである。裏を返せば、大鍵の知識が基本となったということでもあるのだが。

 部屋に戻って本を開く。

 この書は全五部で構成されていた。

 第一部、ゲーティア。かのソロモン王が使役したと言われる、七十二柱の悪魔とその召喚に必要な魔法円や呪文が記されている。

 だが、神秘が薄れた現代ではこれを利用できないだろう。自分たちがこの召喚術を扱うにはおそらく、世界の裏側への回廊を開かなくてはならない。

 それよりも、気を引かれたのはソロモン王と七十二柱の悪魔の最後についてだ。

 曰く、ソロモン王は支配下に置いていた全ての悪魔を真鍮の壺に封印し、湖の底に沈めた。後世、この壺がバビロニア人の手によって開かれたことで、悪魔たちは封印を解かれたのである。

 

「じゃあ、悪魔は何処に行った? 地獄に戻ったか、あるいは……」

 

 脳内に浮かびかけた考えを、小さく笑い飛ばす。

 そんなことはありえない。この世界に留まったにせよ、悪魔たちは神代の終わりとともに世界の裏側に隠れたはずだ。

 書を読み進めていく。悪魔から身を守る術、三十一の天空の精霊についての知識、そしてそれを使役する術。さらには、黄道十二宮の天使たちの力を借りる術───その途中で、自分が笑っていることに気がついた。

 ぐに、と頬を指で押さえる。

 笑っていた。この自分が。地の底で。

 たかが写本。情報が真実とは限らない。なのに、ソロモン王の知識に触れる度にくすぐったいような心の疼きが止まらない。

 手が紙を捲る。目が文字を追い、脳がそれを吸い込む。最終部に差し掛かり、ある文言を目にしたところで、全てがかちりと当てはまる感覚がした。

 

「───アルス・ノヴァ。古きを捨て、新しきを得る術」

 

 それ以上の情報は記されていなかった。

 だけど、理解できる。理解した気にはなれる。

 西洋魔術を創始したかの王は、王だけは、魔術の先を考えていたのだ。

 生み出した当人だからこそ、魔術の限界は知っていた。魔術が古きものとなることは予想していた。現に、科学が世の主流となったように。

 古きを捨て、新しきを得るとは魔術を捨て、その先にあるものを掴むということ。

 しかし、創始者は古きものを捨てようとしていたのに、自分たちは魔術にしがみついている。それは矛盾と言うべきではないのか。

 これは所詮、子どもの考察にすぎない。神算鬼謀に長けたソロモン王の胸中を、誰が見抜けると言うのだろう。

 だが、魔術を超えた術法というのは。

 この地の底に射した、一筋の希望だった。

 

「おれが、おまえを継ぐ」

 

 おまえが神に自由意志を与えられなかったが故にアルス・ノヴァを成せなかったのだとしたら、おれがそれを叶えてやる。

 魔術を捨てても良い。それは全ての魔術師にとっての絶望であり、新たな可能性を与える希望だ。

 他の神を拝んだおまえの気持ちが分かる。神に縛られ、運命を握られ、王となるべくして生まれたおまえだからこそ、唯一神の法下から脱却しようとしたんだ。

 こんなおれが自分をおまえに重ねるなんておこがましいかもしれないけど、アルス・ノヴァはやり遂げてみせたい。

 ───そうすれば、背負う罪が雪がれて、外で生きることを許してもらえるかもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから数週間後、定期的にユリとリッカの家を訪れていた。もちろん、外出が露呈しないように偽装処理は完璧に施した上で。

 やることと言えば、その日の気分で決めることが多かった。ゲームをしたり、テレビを見たり、公園に行ったり、本を読んだり。外の世界の娯楽はどれもが新鮮だった。

 ユリは絵本作家という職業柄家にいることが多かったが、出版社や編集者とのやり取りでどうしても外出しなければならない時がある。

 この日はちょうどそうだった。

 居間のテーブル。教材とノートを広げ、リッカに日本語を教わる。古今東西の魔術書を読むために複数の言語を修めているが、表音文字と表意文字が組み合わさった言語は新鮮だった。

 外から鉄の箱───車と言うらしい───の重厚な排気音が響き、どたどたと足音がこちらに近付いてくる。

 

「ふう〜、今日の打ち合わせはいつにも増して難しかった……」

 

 防寒具を慣れた手つきで脱ぎながら、ユリは机の上に広げられた教材を覗いた。

 

「ほほう、勉強とはなかなか殊勝なようで。若くしてこの心意気、将来は総理大臣かしら?」

「そんなことより、やっぱりノアはすごいぞ。夏場外に放置したスポンジより飲み込みが早い!」

「天才じゃったか……どんな言葉を覚えたの?」

「うんこ、糞、便、ばば」

「ちょっと???」

 

 脳内に殺到する汚言に、彼女の頭はパンクした。数秒して情報を処理しきると、泡を食って、

 

「まあ確かに子どもの青春にうんこは欠かせないけど……私もそうだったけど……せっかく学ぶならもう少し素敵な言葉を、ね?」

「言葉狩りか? うんこをうんこ以外の言葉でどうやって表わせばいいんだ?」

「そうだそうだ! うんこ無くして今の人類はありえない! うんこだって生きてる!」

「くっ、これは分が悪い! だったら二人に綺麗な言葉、綺麗な物語というものを教えてあげましょう!」

 

 そう言って、彼女が仕事用の鞄から取り出したのは一冊の絵本だった。

 

「我が心の師、アンデルセン大先生の超傑作・人魚姫! 学生の頃、朗読会で鍛えた迫真の演技で読み聞かせてあげる!」

 

 ずい、と波打ち際の人魚姫が描かれた表紙を押し付けてくる。しかも、ちゃっかりと自分が絵を担当した本だった。そこはかとなく商売っ気がうかがえる。

 この国、デンマーク出身の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン。彼が自身の失恋を題材にしたとも言われる人魚姫は、ユリの評価に違わぬ傑作だ。

 そこに疑いようはないのだが、ひとつ問題点があった。リッカはそれを指摘する。

 

「もううんざりするほど聞いたからいいや。ノアが来るようになってからだって何回も読んだし」

「それよりド○ゴンボールの朗読してくれ。今ナメック星最後の五分間のところだから」

「流石にそこまでの演技力はない! というか、え? 漫画読めるくらい言葉覚えちゃったの!?」

「だから言っただろ? こいつは飲み込みが早いって。公園行った時なんて三回転宙返りしてたからな!」

「それは飲み込みが早いとかの次元じゃなくない!?」

 

 リッカの言に、ユリは納得するしかなかった。

 でも、これは誇ることじゃない。神代からの預言を抜きにしても、弟の可能性と母の未来を喰い潰して与えられた才能だ。

 

「うん、えらい子ね。ノアトゥール」

 

 なのに。

 こうして頭を撫でられると。

 気恥ずかしくて、申し訳なくて、嬉しくて、あたたかくて。少しだけ、自分を許してしまいそうな気分になる。

 これ以上の幸福はいらない。頭をぶんぶんと振って、手を跳ね除けた。

 

「別に、えらくなんてない」

「おおっと、せっかくの褒め言葉を受け取らぬとは、謙虚も度を越すとイヤミになるというもの! 立夏さん、やっておしまいなさい!」

「了解!その陰気臭さ、吹き飛ばしてやる!」

 

 四方八方から手が伸びてきて、髪と頭と体をまさぐられる。

 跳ね除けようにも手も意思も足りなくて、ヤドリギで得たはずの強靭な肉体はユリとリッカを成すがままに受け入れてしまう。

 たとえ仮初めだとしても、この暖かい場所の一員になれたような気がした。

 ……また、ある時は。

 その日は、珍しく会いに行く時間を事前に決めていた。家の前まで行くと、何やらただならぬ様子で二人が待っていた。車庫のシャッターが上がっており、ゴテゴテとした真っ赤な車体が煌めいている。

 虚ろな目で震えるリッカを尻目に、静かに興奮した様子のユリは言い放つ。

 

「今日はコペンハーゲンまで行って、かの有名な人魚姫の像を観光します!!」

「……また人魚姫か。この車で行くのか?」

「然り!こうしてる時間も惜しいわ、早く乗って!」

 

 ユリが車の鍵を押すと、がちゃりという音とともに施錠が解除される。

 内部は高級感のあるレザーシートと木目調の装飾で構成されていた。外の世界の相場は分からないが、相当の金額を費やしたのだろう。

 ユリの指示に従い、後部座席でシートベルトなるものを着用する。隣のリッカはその間も無言を貫いていた。それどころか、顔面蒼白になっている。

 

「どうした? 様子がおかしいぞ」

「ノアもすぐにわかる」

「……は?」

「母さんの運転は───この世の終わりだ」

 

 鳴り響くエンジン音。腹の底に来る重低音にリッカの評が合わさり、とてつもなく嫌な予感が背筋を走った。

 見れば、ユリの目が見たこともない色に変わっていた。夜行性の獣みたいに瞳孔が開き、口元は狂気的な笑みを形作っている。

 

「お、おい! 本当に大丈夫なのかこれ!? こんなところにいられるか、おれは帰るぞ!」

「安心して、ノアトゥール。私はハマのロケットガールと呼ばれた女……!! 安全運転でぶっ飛ばすから、喋ったら舌を噛むわよ!!」

「どこが安全運転!?」

 

 しかし、その叫びが功を奏すことはなく。

 

「ユリ、いっきまぁーす!!」

「「ギャアアアアアアアア!!!」」

 

 一条の赤い閃光と化して、真紅の車体は街を横切った。

 暴走に等しい運転の甲斐あってか、一行は驚異的な速さでコペンハーゲンに到着した。これもまた驚くことに違反をくらいもしなかった。走り屋の習性故に、警察の気配には異常なほどに敏感なのが質が悪いところである。

 適当な場所に車を停め、人魚姫の像を目指す。リッカはホットドッグを貪りながら、不動の地面への感謝の念を抱いていた。

 

「やっぱ移動手段は徒歩が最強だな。健康的だし、金もかからないし、揺れないし」

「ふっ、まだまだ甘いわね若人よ。移動において最も重要視すべきは速さ! 速ければ速いほど時間に余裕ができる! ノアはどっちが良いと思う?」

「どこでもドア」

「禁止カード出すのやめろ」

 

 海岸線近くを練り歩く。

 周囲の人通りは増えてきていた。コペンハーゲンの観光スポットは数あれど、国葬まで行われたアンデルセンの著作にあやかった像はさぞ豪華なのだろう。

 

「……まあ。なんだかんだここまで来ると楽しみだよな、人魚姫。多分自由の女神くらいデカいんじゃね?」

「人魚は不吉の象徴だ。セイレーンやローレライなんて歌声で船を沈める。恐ろしい見た目をしてるに違いない」

「いや、元ネタはそうでも───」

 

 そこで、リッカは先程まで隣を歩いていた母親が忽然と消えたことに気付く。視線を迷わせるのも束の間、遠くから声が響く。

 

「お二人さん! 目的地はとっくに通り過ぎてますよ!?」

 

 慌ててユリのいる場所まで戻る。

 海岸のほど近く。積み上がった岩の上。そこに人魚姫がぽつんと腰掛けている。潮が引けば直接触れそうな距離にそれはあった。

 銅像をカメラで激写するユリの横で、平坦な声が上がった。

 

「「……しょっぼ」」

「しょぼくない! 全くもってしょぼくない!!」

「なんでもっとお金使わなかったんだ?」

「もはや人魚姫への冒涜」

「やめて! 私の心が痛いから! 多分アンデルセン大先生はもっと痛いだろうけど!!」

 

 リッカは懐から携帯電話を取り出すと、検索エンジンを開いて人魚姫の像の成り立ちについて調べる。

 

「彫刻家エドワード・エリクセンは劇場のプリマドンナを顔のモデルに、体の部分は妻を参考にしてこれを作製した……なるほど」

「羞恥プレイか?」

「だとしたら性癖が高度すぎる」

「あの、もっと子どもらしい会話をしてくれます?」

 

 今更なツッコミだった。

 結局、人魚姫の像に大した見どころはなかったので、適当なレストランに入って食事をして時間を潰すことになった。誰が悪いというわけではない。ただ、人魚姫のイメージに対して像がシンプルすぎただけなのだ。

 だが、像の出来はどうでもいい。

 二人とこうして一緒にいられるというだけで十分だった。

 ───暖かな光が降り注ぐ、家の縁側。

 日向を浴びて寝ながら、二人とともにのどやかな時間を過ごす。全身にかかる木漏れ日が複雑な影を編み上げている。

 前髪を撫ぜる手を振り払う意思は生まれる前に消えていた。

 こんな時間がずっと続けば良い。

 他には何もいらないとさえ思えた。

 

「……ノアトゥール。あなたは、ひとりでなんでもできる子だから。私でも立夏でも、誰かを頼らなきゃね」

「……なんでだ?」

「だってひとりは───寂しいでしょう」

 

 そうだ。こんなあたたかさを知ってしまっては、もうひとりになんて戻れない。

 小さく頷き返す。その事実を認めてしまうとなけなしの強がりが剥がれたみたいで、体温が上がって、きっと顔は赤くなっている。

 

「実は、初めて声をかける前からおまえのことは知ってた。その時は妖精が実在するんだって思ってたけど……」

 

 ……犬を抱えて泣くお前を見て、おれと同じ、ただの人間なんだと知った。

 ぽつりぽつりと降る言葉が心に溶け込んでいく。

 

「何だったらおれより弱いかもな。常識ないし、どっかズレてるし、危なっかしくて見てられないからな」

「ぶっとばすぞ」

「うん。だから、おまえは絶対に死ぬなよ」

「……縁起でもない」

 

 寝返りを打って、二人に背を向ける。ユリはくすりと笑い、

 

「それじゃあ、縁起が良い話でもしましょうか。一週間後はクリスマスでしょう? その日、ノアは来れる?」

 

 まどろんだ頭を動かして、今まで忘れていたことに思い至る。

 

「二十五日……おれの、誕生日だ」

 

 母と、弟の全てを奪った日。

 それでも二人は、

 

「じゃあ、お祝いね! 腕によりをかけておもてなしするわ!」

「ああ、プレゼントも用意してやるから絶対に来いよ!」

 

 そう言ってくれたから、

 

「楽しみに待ってるよ」

 

 自分を、肯定できそうな予感がした。

 

「……でも」

 

 ああ、だから、これは余計なことだと知っているのに。

 

「おれは、本物の家族じゃないのに、二人に祝ってもらってもいいのか……」

 

 言った途端、二人は覆い被さってきた。

 溢れんばかりのあたたかさに包まれて、欲しい言葉を何の打算もなく言ってくれた。

 

「そんなことを気にしちゃ駄目よ。それに────」

「────おれたちは、もう家族だろ?」

 

 泣きそうになるのを必死に我慢して、震えた声で応える。

 

「…………うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 待ちに待ったクリスマス。

 街にはしんしんと雪が降り積もる。

 空が灰色なのは残念だけど、その分気持ちは晴れやかだ。

 だって、今日は生まれて初めて誰かに誕生を祝ってもらえる日だから。

 すっかり慣れきった道を辿る。いつにも増して足は軽やかで、気を抜けば空に浮いてしまいそうだった。

 二人に贈るクリスマスプレゼントが入った箱を、落としてしまわないようにしっかり抱える。

 ヤドリギで作ったブローチ。魔術的な要素は加えていないけど、だからこそ本気で作った贈り物だ。

 喜んでくれるかは分からない。不安と期待が入り混じり、歩みを急かせる。

 見慣れた街もクリスマスに色づいていて、そこらじゅうが特別な装いに変化していた。人混みの声も、車が走る音も、今日この日を祝福しているかのようだ。

 この一週間、ずっと落ち着かなかった。

 視界が希望の色で彩られて、心臓の鼓動は穏やかで、何をしていても楽しかった。

 なぜなら、自分は独りじゃない。

 寒さから守ってくれるマフラーも手袋も今は要らない。二人にあたたかさを貰えたから。

 本当の家に戻る。見れば、昼間だというのにきらきらとしたイルミネーションが点灯していた。あまりの気の早さにはにかんでしまう。

 貰った合鍵で玄関の施錠を解く。

 きぃ、と軋む扉。靴を脱いで、居間までの廊下を足早に急いだ。

 居間の戸を開いたその時。

 

「…………──────っ、は」

 

 鼻腔を突く濃厚な血の香り。

 全身の力が一気に抜ける。

 呼吸さえも忘れて目を開く。

 箱がからりと落ちる。床に広がる血溜まりにふたつのブローチがこぼれる。

 天井にまで飛んだ血が頬に滴る。この日のために用意したであろう飾り付けは赤く染まっていた。

 揺れる視界。

 止まる思考。

 どこからか発生した震えが頭の先から爪先まで浸透していく。

 凍りついた脳みそはしかし。

 その、血の海に横たわる、ふたつの肉の塊を見て。

 

「──────魔力の、残滓」

 

 一瞬にして、全細胞が沸騰した。

 一も二もなく踵を返す。

 神秘の秘匿───知ったことか。五体に魔力を行き渡らせ、建物を飛び越えて、最短距離で目的地まで疾駆する。

 まるで右脳と左脳が切り分けられたみたいだ。

 濁流のような感情はそのままに、肉体は冷徹に駆動している。

 悲しみを感じる余裕はない。殺意と、憤怒と、疑念とがぐちゃぐちゃに入り組んで、それがかえって脳を冷やす。

 冷たく、冷たく、どこまでも冷たくなっていく。

 体内に張り巡らされた骨が全部氷の柱に入れ替わったと錯覚するほどに。

 あいつの墓も素通りして、地の底に飛び込む。黒く染められた景色はすぐに正常な色を取り戻す。

 そこに、奴らはいた。

 自分の帰りを待っていたかのように。

 母と弟を除いた一族の全員が、マネキンみたいにこちらを見ている。

 その先頭に立つのは、あの男だった。

 

「戻ったか、バルデルス」

 

 その一言で、視界が赤く染まった。

 感情の津波が体に流れる。

 殺意にわななく手をすんでのところで止めて、声を捻り出した。

 

「あれは、どういうことだ」

「それは私の台詞だ。外の世界に足を踏み入れ、外の世界のモノと関わりを持ち、あろうことか食物を口にした。神秘を穢す真似をしたのは貴様だ。すべて貴様に累がある」

「だから、殺したのか」

「そうだが? まさか、情をかけていたわけではあるまい。いや、そんなことよりも、だ。外界に穢れきった貴様はもはやこの聖地の住人ではない」

 

 そうか、理解した。

 こいつは、人の心が分からない。

 屈折し、ねじれ曲がった精神。他人が自分と違うということすら知らず、知ろうともしない怪物。

 あえて外道を往く魔術師としてなら、満点をくれてやっても良いくらいの俗物だ。

 男は受け容れるように、許すように、両腕を広げた。

 

「だが、私はお前を許そう。子の不出来は許すのが親だ。我らと同じように禊を行い、もう一度こちらへ帰還することを認めよう」

「……禊、だと」

「ああ、お前は知らんのだったな。協力者を招き入れるのは不服だったが……ついに、私は不老不死に到達する光明を得た!!」

 

 男は、自らの有能さに酔いしれるように、笑った。

 唇から垣間見える犬歯が、鋭く磨かれた錐のように突き立っている。それで、この男の不老不死への道筋に勘付いた。

 

「───死徒か……!!」

「やはり優秀だなバルデルス。私の子だけはある。そう、そうだよ、死徒ならば血液を補充さえすれば不老不死となれる!! そうして得た膨大な時間を使い、何にも頼らぬ完全な不老不死を完成させるのだ!!」

「それじゃあ、後ろにいる奴らも全員」

 

 死徒と化したのか。そう言う前に、彼らは手を組んで祈りを捧げ始めた。

 

「我らが神子、バルデルス」

「どうか愚劣なる人間の穢れを祓い、」

「私たちの光明となってください」

 

 ぶつり、と頭の奥底で大事な何かが途切れる。

 男は懐から注射器を取り出す。その中身は赤黒くどろどろした液体で満たされていた。

 

「さあ、私に寄れ。私がもう一度お前に生を与えてやる。これからも生きることを許可────」

 

 その、クソに塗れた言葉は最後まで紡がれることはなかった。

 この人間擬きの目に突き刺した二本の指を引き抜く。ずりゅりと白い半固形の物体がこぼれ落ち、その奥からピンク色の肉片が流れ出す。

 

「…………が、かっ───?」

 

 崩れ落ちた体を容赦なく踏み潰す。

 顔を、手を、足を、胴体を、丹念に丁寧に踏み躙る。

 それでもこいつは人間擬きだ。死徒特有の再生力にヤドリギが合わさり、見る見る間に肉体を復元していく。

 なので、首を蹴り抜いて頭を切り離し、火のルーンで体の部分を跡形もなく蒸発させる。最後に床に転がした頭を踏みつけて終わりだ。

 

「え」

 

 どこからかそんな声が上がった。

 馬鹿が、おまえらも同罪だ。

 人間であることを捨て、ヤツの殺人を見逃したおまえらも当然死ぬべきだ。

 

「───全員殺す。逃げたいなら逃げろ。どこまでも追って殺す」

 

 瞬間、絶叫が闇の中に轟いた。

 これは戦闘でも虐殺でもない。

 ヒトならぬモノを作業的に殺す、屠殺だ。

 逃げ遅れた奴がいた。

 全身をバラバラに切り刻んで燃やした。

 歯向かってくる奴がいた。

 内臓をひとつずつ引きちぎって脳を潰した。

 出口の鍵を解こうとした奴らがいた。

 多すぎて面倒だったのでまとめて炭にした。

 体が返り血で真っ赤に染まった頃、母と弟が閉じ込められていた牢に向かった。目に映ったのはぴくりとも動かない弟の首を執拗に絞め続ける母の姿だった。

 

「…………あなたも、私が産んだのよ」

「誰が、産んでくれなんて頼んだ?」

「ねえ、バルデルス。私、ずっとあなたに─────」

 

 母は微笑んで、

 

「────死んでほしいって、思ってた」

 

 それを遺言に、喉に短剣を突き刺して死んだ。

 視線を切り、牢を出る。元の場所に戻ると、殺したと思っていた男は首だけで声にならない声を漏らしていた。

 その頭を掴んで、脳内で魔力を暴れさせる。あの日、こいつが子犬にそうしたように。

 破壊と復元を数十回繰り返すと、外界への通路が物理的に破壊され、警報が鳴り響いた。

 古風な外套を纏った銀髪の男。瞳は血のように赤く、体内に満ちる力は人間のそれを遥かに超えている。

 吸血鬼は高らかに手を打ち鳴らした。

 

「素晴らしい。その齢で、これほどの力を誇るとは。その真名に疑いようはないらしい」

「……おまえが、協力者の死徒だな」

「その通り。神殺しのヤドリギ、その可能性は限りない。研究素材としては最上だ」

「不老不死の、か」

 

 銀色の吸血鬼は首肯する。

 首だけになった同盟相手の絶叫を意にも介さず、ヤツは提案した。

 

「私と手を組み、研究を行わないか? そこの首と違い、死徒になることを強制するつもりもない。無論、根源を目指すならそれもよかろう」

「寝言は死んでから言え、欠陥生物」

「……ほう、三百年を生きたこの身を欠陥と評すか」

 

 掴んだ首を吸血鬼の足元に放り投げる。

 

「死徒の生態は効率が悪い。人を超えたと宣う癖に、人の血を吸わないと生きていけない矛盾を抱えてる。極論、人が滅びればおまえらも道連れだろうが。そんなものを不老不死と呼べるか、馬鹿が。東洋の仙人にでもなった方がまだマシだ」

 

 死徒は常に吸血衝動に苛まれる。人の社会が未熟だった頃はそれでも良かったのだろう。しかし、こと現代においては聖堂教会が存在する。

 人を超えた存在が、人の目を避けながら血を吸わねばならぬ宿業。この世に何人といない上級死徒ならばともかく、多くの死徒は生存に向いていない───そう語ると、吸血鬼は笑い出した。

 

「確かに、こと不老不死に限れば君の話は誤りではない。だが、知っているか? 死徒とは英霊の真逆に立つ者。人類史を否定する者だ」

「……だから?」

 

 外套の裡より、赤色の武装が群生する。

 槍や剣、果ては銃。己が血液を呪いによって固めた武器の数々は、ひとつ余さず少年を狙っていた。

 

「相剋だよ。ヒトは死徒には勝てぬ」

 

 人類史の流れの中に生きる人間と、人類史そのものを否定する死徒。単なる強さの話ではない。相性として、死徒は人間の上にいるのだ。

 

「今から君の血を吸う。安心しろ、私は眷属を作るのが得意でな。その才能の輝きは一片足りとも失わせない」

「御託だけは一丁前だな、死徒」

「殺すつもりでやる。あっさりと死んでくれるなよ、人間」

 

 吸血鬼は一足飛びに襲い掛かった。

 死徒の社会は人間の貴族社会のそれに近い。

 すなわち、階級階梯こそが全て。ヒトと異なるのは個体の戦闘能力までもがそれによって決まることだ。

 彼の階梯はⅥ。英霊召喚を可能とするこの世界においては、最高位に次ぐ位を有する死徒であった。

 だが、完全なる不老不死を手に入れたならば、その概念は崩れ去る。

 自分だけが、自分こそが最高位に腰を落ち着け、並み居る上級死徒たちの上に立てる。

 そう。

 かのアカシャの蛇、転生無限者でさえ届かなかった一個体による永遠の命。

 これを掴み、死徒の頂点を掌握する────!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「『神体化・断罪の光明(アルス・テウルギア・バルドル)』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あ、あれ?」

 

 戦いは、ものの三秒で終わりを迎えた。

 吸血鬼は千を超える武装と超常の膂力を余すことなく叩き込んだ。

 しかし、その結果は。

 一歩も動かず、無傷で立つ人間と。

 四肢を消し飛ばされ、顔面を潰された死徒。

 誰の目にも、勝敗は明らかだった。

 路傍のゴミみたいに転がされた死徒の目に映る、白き影。

 背後に日輪を顕し、体表を彩る真紅の紋様。それで、吸血鬼は直感した。

 

「神代回帰……!? ありえない、なんだそれは! なぜ現代の環境でそんな────ッ!!」

 

 その事実を肯定できない。

 遅れて、自分がどのように負けたのか思い出す。

 彼は全力の攻撃をことごとくその五体で受け止め、光によって四肢を焼き切り、最後にその拳を突き刺した。

 人間など一撃で肉塊に変える攻撃の応酬は、彼の皮膚に傷を残すどころか纏う服さえ裂いてはいない。

 だが、死徒の横に転がる首は理解していた。

 吸血鬼は最初から間違えていた。

 相手取っていたのは人間ではない。

 神話に語られた白き光の神。遍く罪に調停をもたらす裁きの光に、立ち向かっていたのだ。

 なればこそ、勝ち目はなかった。

 公平に罪を裁く神には人間も死徒も同じこと。

 男は、絶望と諦観を込めて呟く。

 

「バルドル……─────」

 

 白き神は、ただ、告げる。

 

「死ね」

 

 この要塞の外。

 天上より、一本の光条が飛ぶ。

 それは山の頂点を刳り貫き、地の底の何もかもを塵へと還した。

 後に残るのはたったひとり。世界との契約によって無敵の体を得たバルドルのみ。

 日の光輪が消え、真紅の紋様もどこかへ溶ける。

 全ての光を失くした地下。彼はふらりと歩き出した。

 他人の目も気にせず、血塗れの体であの家から遺体を運び出した。

 犬の墓の横に、新たな墓標をふたつ。

 だけど、遺体は寄り添うようにして埋めた。

 土で見えなくなって、雪の中にひとり。

 日が傾くまで立ち尽くしていると、ようやく感情が思考に追いついてきた。

 唇からか細い息が漏れる。

 脳髄が凍りつき、指先が感覚を失う。

 

「…………()()

 

 あまりに寒いから、雪の地面に膝をつく。

 黄昏の光の中で、改めてその墓標を見た時。ぽつりと、致命的な言葉を吐き出した。

 

「───おれが、殺した」

 

 他の何者でもなく、おれが殺した。

 この、ふたりを。

 

「おれ、が、殺したっ…………!!」

 

 自分を突き刺す言葉を繰り返す。

 ユリとリッカが死んだのはおれのせいだ。

 あの時、外にさえ出なければ。

 あの日、あの場所を求めてしまったから。

 掟を破った。

 禁忌を破った。

 それでも、あの場所から離れたくなかった。

 だって、あそこは、あたたかかったから。

 ───おれはただ、あのあたたかい場所にいたかっただけなんだ。

 自分の存在さえ無ければ、あのふたりは今も幸せに暮らしていたはずだ。

 自分の存在さえ無ければ、あのふたりが殺されることなんてなかったはずだ。

 自分の存在さえ無ければ、他の誰もが死なずに済んでいられたはずだった。

 全て、この不幸の根源はおれだ。おれでしかありえない。

 だから、どうか。ユリとリッカは関係がなかったんだ。だから。

 

「神様、神様、お願いします! おれはどうなってもいいから、このふたりを生き返らせてください!!」

 

 墓標に縋りついて、喉が張り裂けるほどに泣き叫ぶ。

 けれど、返ってくるのは無音。雪は無情に降りしきり、街はクリスマスの明かりに満ちていた。

 吐く息は白くなかった。体の芯まで、魂の芯まで凍りついて、白くなるまでの温度を持っていなかった。

 かつて、オーディンは言った。

 

〝不毛の地に立つ樅の木は枯れる。樹皮も針葉もそれを保護しない。誰にも愛されない人間もこれと同じだ。どうして長生きしなければならぬのか〟

 

 それは、たぶん、その通りだ。

 もう、生きてなんていられない。

 このまま雪に埋もれて、夜の闇の中で、誰にも見つからずに死んでいく。

 それで良い。

 本当に地獄があるのなら、そこで裁かれるはずだから。

 そんなことで許されるとは思っていないけど、もしかしたら、ふたりの気も少しは晴れるだろう。

 魂まで凍りついて、意識を手放そうとすると、あのあたたかい声が聞こえた。

 

〝うん。だから、おまえは絶対に死ぬなよ〟

 

 止まりかけていた呼吸が、元に戻ろうとする。

 体に積もる雪を握り締め、腹の底から感情を捻り出す。

 

「…………っ、く、そっ────」

 

 死ぬことで楽になると言うのなら。

 おれは、生き続けなきゃならない。

 生きることは苦しみで、つらいことだから。

 だから。

 きっと。

 おれはこの先ずっとずっと苦しみ続けて、どこかの路傍でゴミのように死のう。

 そう思って、死にかけの体で歩き出した。あたたかさをくれた三つの印を置き去りにして。

 空はとっくに夜だというのに。

 二羽の烏が、おれの上を回るみたいに飛んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから二週間くらい休まずに歩き続けた。

 動いていないと、足を止めてしまうと、死んでしまいそうだった。

 行く宛がないから、とにかく進めなくなるまで歩き続けた。気付けば街の様相も変わり出して、看板や店先に書かれている文字もデンマークのそれとは違っている。

 ユリとリッカに教わった地理をぼんやりと反芻し、ここがドイツの国であることに考え至る。だからどうしたというわけでもないが。

 すると、空は分厚い雲に覆われて、雨を滴り落とす。

 別に濡れてもよかったけど、寒くて冷たいのは嫌だったから、路地裏に逃げ込んだ。

 しとしと降る雨が水溜まりを作っていく。水面に広がる波紋を目で追いかけていると、ふと、打ち捨てられた四角い箱に目がいった。

 大きくはない。手のひらより少し小さい程度のサイズ。手に取って上部を開けてみると、何本かの白い棒が詰まっている。

 濡れていない無事な一本を抜き出し、観察する。茶色い葉っぱを紙の筒に包んだモノ。要はたばこだ。街中で吸っている人をよく見かけるから知っている。ユリに教えられた。

 

「……そんなにうまいのか?」

 

 多分、吸い方も分かる。フィルターが詰まった方とは逆にルーンで火をつける。

 白い煙が昇るのを見て、ゆっくりと吸ってみた。

 

「…………まずい」

 

 思わず咳き込んでしまう。口の中が苦い。これを吸っている大人たちの気持ちはまだ理解できなかった。

 水溜まりの中に火元を近付ける。

 

「それ、吸わないならあたしにちょーだい」

 

 不意の声に、手が止まった。

 路地裏の先、降りしきる雨の中に彼女はいた。

 腰まで伸びた、燃えるみたいに真っ赤な髪。キャミソールと上着を着崩し、下半身はジーンズにハイヒールを履いている。指輪やネックレスで着飾り、耳のピアスは軟骨にまで装着されている。

 しかし、何よりも指摘すべきは。

 

「───なんで傘差してないんだ」

「あたし、傘差さない派だから」

「そんな派閥があってたまるか……」

「それがあるんだな、困ったことに」

 

 彼女はつかつかと歩いてきて、たばこをかっぱらった。

 鮮やかな口紅をさした唇が吸い口に触れ、白い煙が抜け出す。雨中のその姿はどこか映画のワンシーンめいている。

 

「あ゙〜……やっぱ酸素よりニコチン吸った方が美味いわ。クラクラしてきた」

 

 ───アホだ、この女。

 たぶん、ユリとリッカよりも飛び抜けて頭がおかしい。しかもその方向は斜め上だ。そんな雰囲気を感じ取った。

 しばらく女がたばこを吸う光景を見せつけられていると、雨が引いていく。どうやら通り雨だったようだ。

 

「お、晴れた」

 

 雲間の光を浴びながら、女は微笑む。

 吸い殻を爪先で踏み潰して、こっちの顔を覗いてくる。

 

「あたし、アンナ・フォーゲル。あんたは?」

「ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

「じゃあノアね。ご飯食べに行こーぜ」

 

 嫌だ、と言う前に両脇から手を差し込んで、体を持ち上げられる。長身の彼女にそうされると、足が地面から離れて空を掻いた。

 振り払おうとするが、意外にもその力は強かった。……というか、肉体のリミッターを外しても拘束から抜け出せない。

 

「どんな馬鹿力してんだ……!?」

「ふ、これでも元バレリーナでね。モスクワの鬼コーチに鍛えられまくったのさ! 今は無職だけど!! 今は無職だけど!!!」

「いや、鍛えただけでこんな力出るはずないだろ!」

「はいはい、問答無用! 今日はピザの気分だからピザ屋行くぞ〜! やっぱ牛肉とたまねぎにマヨネーズかけてコーン載せたギットギトのピザが最高だよねえ〜!!」

「豚の餌でも食ってろ……!!」

 

 ずだだだだ、と水しぶきを撒き散らしながらアンナは疾走した。

 そのままピザ屋になだれこみ、席に座らされた。逃げられないように隣でがっちりと肩を組まれる。

 ピザ屋の店員は顔見知りなのか、怒りの表情でタオルを投げつけてきた。誰だってずぶ濡れで店に入ってきたら同じことをしたいと思うだろう。

 もう観念した。魔術をこの場で使うわけにはいかない。

 

「……逃げないから、手ぇ離せ」

「あ、寒くて無理。湯たんぽ代わりになって。注文はいつものやつにマルゲリータとパスタでよろしく! 三十秒で支度して!」

 

 ピザをナメた発言。ふざけろボケ、と厨房から罵声が飛んでくる。完全に同意だった。

 アンナはぐいぐいと腕で引き寄せてきながら、

 

「つーか、体冷たくね? 温まんないんだけど」

「……これがデフォだ。文句言うなら離れろ」

「へえ〜、面白い体。後で見せて?」

「ふざけんなアホ」

 

 せめぎ合いを続けていると、注文した料理が運ばれてくる。

 ユリのシチューと同じように食欲を掻き立てられはしなかったが、惰性で料理を口に運んでいく。

 肘をつきながらピザをかじっていると、サラダの皿が目の前に移動してくる。元の位置にそれを戻すと、すぐさま逆戻りしてきた。

 不毛なやり取りを繰り返すこと数度。

 

「おい」

「拙者、火の通ってないものは食えないでござる。サラダなどいらぬ。ドレッシングなど愚の骨頂でござる」

「……今まで会った人間の中でおまえが一番アホだ」

「マジで? 世界狭すぎない? いや、あたしがヤバすぎるのか?」

 

 とりあえずヤバいことには違いないだろう。もちろん良い意味ではないが。

 

「そもそもさ、なんであんなとこにいたのよ」

「答えたくない」

「ん、まあ、そういうこともあるか。込み入った事情があるなら、あたしも無理に聞こうと思わないさ」

 

 言って、アンナは水を呷った。

 こん、とコップの底が机を叩く。彼女は一息つくと、真っ直ぐな視線を差し向けてくる。

 

「……やっぱ聞かせて! めちゃくちゃ気になってきた!!」

「本当にアホだな、おまえ」

 

 だが、このまま黙々と食べ続けるのも飽きてきたところだ。

 隠しておく話でもない。誰かに自分が犯した罪を聞いて、なじって貰えればそれでもう十分だろう。

 それで、話した。今までのすべてを。魔術の存在をも明かすことになるが、それはどうでもいい。研究が露呈した場合でなければ神秘は薄れない。そもそも、この世界のどこかには一般人でもオカルトを信じている人間がいるはずだ。UFOが本気で実在すると主張する連中もいる。……ただ、個人的にUFOは実在してほしい。

 アンナは黙ってその話を聞いていた。黙って、というにはいささか豪快に食事を摂っていたが。

 一通り喋り終えると、アンナはたばこに火をつけて一吸いする。

 

「色々とややこしい問題は置いといて」

 

 ───あたしも、同じことをするかな。

 彼女は何の気無しに、そう言った。

 

「ま。運が悪かったね、運が。あんま気にしない方がいいよ、今までのことは」

「運で片付けるのか?」

「うん。生まれる場所も、産んだ両親も、生まれ持った才能も、全部運でしかないじゃん? 現に、この世界じゃ生まれてすぐ死ぬ人もいるんだし」

「……随分と能天気な考え方だ」

 

 けれど、それ以上否定することはできなかった。どれもこれも運に左右されるという考えは身も蓋もないが、強く跳ね除けることもできない。

 自分だって、生まれる場所を選べるならあんなところを選んではいなかっただろうから。

 

「だからさ、自分に都合良く生きていこうぜ〜? 生まれた場所も親もクソだったけど、自分の才能は自分のモノって具合にさ」

 

 たばこを灰皿に押し付ける。

 空気に溶け込んでいく煙を眺めて、思った。

 そんな生き方もあるのか、と。

 財布から紙幣を数枚取り出し、テーブルに置くと、アンナは立ち上がった。

 

「よし、帰るべ。ほら行くぞ」

「は、な、せ!!」

 

 襟を掴まれて引きずられていく。

 その力は未だ健在で、店を出て街路を歩いている途中でようやく抜け出せた。

 しばしの無言。街の環境音だけがアンナとの間に満ちていく。彼女は立ち止まって、告げる。

 

「あたし、もうすぐ死ぬんだよね。末期がんってやつ」

 

 その告白はあまりに唐突で。

 凡庸な表現だけど、驚いてしまった。

 

「ひとりは寂しいからさ、付き合ってよ。一ヶ月くらい」

 

 断るとか断らないとか、それ以前に。

 

「どうして、そんな平然としていられるんだ」

「自分で決めたことだから。それにほら、自分のことならいくらでもコントロールできるでしょ」

「痛く、ないのか」

「全然。痛覚なんて閉じれば終わりだよ」

 

 この世界には、本当に色んなやつがいる。

 魔術世界で言う超能力。先天的に生まれ持った才能であり、呼吸をするように超常現象を引き起こすことができる。彼女のそれは外界ではなく内界に向けてのモノだ。

 そうでなければ、末期の病巣に侵されてこうしていられるはずがない。それなら、自分を押さえつけられるほどの力にも説明がつく。どこぞの魔術師には研究対象にもなるだろうが、内界に向く力故に勘付かれることはなかったのだろう。

 これを指摘することはしなかった。伝えたところで彼女はどうにもならないし、どうもしない。

 ただ、その事実を隠すという罪を償うために。

 

「仕方ない。おまえが死ぬまで、付き合ってやる」

 

 アンナは気恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「よっし! それなら明日からみっちりオトナの遊びってのを教えてあげよっかな! 子どもにはちょっと刺激が強すぎるかもしれないけど!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、翌日。

 会場に満ちる熱気、熱狂。鮮やかな芝の上を、強靭な肉体が駆け抜けていく。人ならぬ彼らのレースはしかし、その大きさも合さって張り詰めんほどの気迫を巻き起こしていた。

 第四コーナーを曲がり、最後の直線。群体にバラつきが見え始め、辺りを包む狂乱は臨界点を飛び越えて氾濫する───!!

 

「うおおおおおお差せェェェェ!!!」

「なんで競馬!!?」

 

 漆黒の馬体が馬群から抜け出し、ゴールを切る。それとほぼ同時に、アンナは握り締めていた数枚の馬券を地面に叩きつけた。

 

「クッソォォォ!! そんなの当てられるかァァァ!!!」

 

 この世で最も醜いもののひとつがそこにあった。

 くしゃくしゃになった馬券を一枚拾う。

 単勝、10番。ゴールを切ったのは3番の馬だった。ものの見事に外れている。他にも馬券は落ちているが、軸にした馬からして外れているのだから当たっている訳がない。

 見れば、周囲でも同じような反応が起きていた。歓喜と絶望が入り混じった空間はまさしくカオスだ。

 アンナはしれっと振り返る。

 

「どうだ、ノア。これがギャンブルだ……!!」

「うるせーアホ。金溶かしただけだろ」

「おっと、こうしてる場合じゃない。次の勝負のためにパドックに行かないと」

「話聞けよ」

 

 パドックに移動する。次レース発走予定の各馬が狭い円周を何度も回っていた。

 当然、馬が持って生まれた気性やコンディションによって粗相をするやつもいる。アンナは落ち着かない芦毛の馬を眺めて、

 

「次はアイツだな。間違いない」

「どこがだ。暴れまくってるぞ」

「分かってないなあ、戦意の裏返しだって。勝つ気概もない馬がどうして勝てようか。いわんや……ってことだよ、反語だよ」

「おまえはまずその目を裏返せ」

「えっ? どういうこと? もしかしてあたしがずっと白目剥いてるとでも思ってた?」

 

 肩を掴んでがしがしと揺らしてくる。非常にうっとうしい。それを無視して、観察した結果を述べる。

 

「1番、2番、5番。三連複で突っ込んどけ。あと三連単で5番アタマの2パターン」

「えぇ〜? そう上手くいかないでしょ。そもそも未成年禁止だし。あたしはアイツに賭けるから」

 

 で。

 

「んがああああああ!! 外れたァァ!!」

 

 着順は目論見通り、5番1番2番の順だった。未だにざわつく会場。鉄柵に寄りかかって、七転八倒するアホ女の額を小突く。

 

「ほら見ろ、おれの言う通りにしてれば当たってた」

「い、いやいやいや、ビギナーズラックでしょ。よくあるじゃん。そうやってみんなギャンブルにハマっていくんだから」

「一発も当ててないおまえがギャンブルにハマるなよ」

「それを言ったら戦争だろ!! まだ二回しかやってないのにイキられても困りますなあ〜!!?」

 

 鬼の形相で詰め寄ってくるアンナ。掴みかかってくる腕と悪戦苦闘していると、カン、と甲高い音が鳴った。

 音の方向には、ビールの缶を握り締めた中年男性もとい小汚いおっさん。ヤツはニヒルな笑みを浮かべて、鼻を鳴らす。

 

「いいや。そこの小僧が正しいぜ、嬢ちゃん。勝負ってのは最初の流れがキモなのさ」

「誰だよ」

「毎日ここに来てるおっさん。嫁と娘に逃げられた悲しき過去を持つ男……」

「ねえ、やめて??」

 

 おっさんは一筋の涙を流した。嫁と娘に逃げられた十字架は今もなお背中に重くのしかかっているのだ。

 今日全敗中のアンナはなぜか上から目線で言う。

 

「まあ、社会的ステータスではあたしの圧勝だけど、どっちが上かは馬が決めてくれる! 勝負と行こうぜおっさん!」

「無職だろおまえ」

「ふっ、調子に乗りやがって若造が。俺は絶対に狙いを逃さない男だぜ?」

「嫁と娘には逃げられたけどな」

 

 おっさんとアンナの視線が向く。それは獲物を捉えた獣の目だった。子ども相手に。

 

「何か言いたいことでもあるのかなノアくぅん? ここは稼いだ者しか発言を許されない鉄火場だよ?」

「それなら金貸せ。おまえみたいなアホと、嫁と娘に逃げられたおっさんにも分かるように格の違いを見せつけてやる」

「男に二言はないぜ? あたしはともかく、嫁と娘に逃げられたおっさんにすら勝てるかどうか……」

「ねえ? もう四回も逃げられてるんだけど? 分かってて言ってるよね。俺のキャラ像がそれしかなくなってるよね」

 

 そんなこんなで、仁義なき戦いが幕を開けた。

 ちなみに、子どもでは受付で断られたのでアンナに馬券を買ってもらった。受付の人が養豚場のブタを見るみたいな目になったことは言うまでもない。

 その成り行きもまた言うまでもなく。

 

「あたしが馬乗った方が速いわ。ちょっと行ってくる」

「「おい馬鹿やめろ!!」」

 

 アンナが鉄柵を乗り越えようとしたり、

 

「ねえ、パドックって何見ればいいの?」

「筋肉の動かし方、目線、呼吸の頻度、毛並み───色々だな。逆に何見てるんだ」

「ごめん、四本足の札束が歩いてるようにしか見えない」

「嬢ちゃん頭イカれてんのか?」

 

 嫁と娘に逃げられたおっさんよりも悲しい生き物を見たり。

 それで、最終レースの後。

 勝負の明暗ははっきり分かれていた。ゾンビじみた血色で項垂れるアンナとおっさん。血走った白目が赤くなっている。札束を抱えるおれを恨めしい目つきで睨んでいた。

 

「何か言うことは?」

「「私が雑魚でしたごめんなさい」」

 

 ということで、仁義なき戦いはお開きになった。帰りの交通費もなくなったおっさんは徒歩で家に帰る運びになった。

 アンナの住処はアパートの一室。内装は簡素で、生活用品も最低限。服や下着も床に投げ捨ててある。

 単にものぐさというだけではない。

 どうせ死ぬから、掃除の必要がないのだ。

 それでも、大事に取ってある物品はあった。部屋の隅に積み上げられた数十本のビデオテープ。バレリーナ時代の映像が詰まっている。

 遊び疲れて帰った夜、それを見るのが定番の流れだった。

 演劇にも舞踊にも詳しくはないが、それでもアンナの演技の異様さは際立つ。同業者の目にはより明らかだったのか、彼女が主役を演じていないテープは三本ほどしかなかった。

 役そのものになりきるとはよく言うが、アンナのそれは度を越している。壇上の演技は本物を演じれば良いわけではない。遠くの観客にも伝わるように、誇張を挟む必要もある。

 要は、現実と虚構の使い分けが上手いのだ。役そのものに成る時もあれば、役を飛び越えて感情に訴えかけてくる時もある。故に、その演技は役そのものではない。その役の本人よりも本人らしく、理想的なイメージを脳に叩き込んでくる。

 バレエに台詞はない。自らの肉体のみによって、感情を表現する。小さい画面の中で躍動する彼女の姿は、とても────

 

「ぐあー! やっぱこれっすわ! 結局ビールと焼いたソーセージがベスト・オブ・ベスト!!」

 

 ───……同一人物には思えなかった。

 テレビの中で演じているのはサロメ。かの救世主に洗礼を行ったヨハネの首を所望した女だ。

 バレエ『サロメの悲劇』はほとんどがサロメの一人芝居で構成されている。それ故に劇が作られた当時の評価は芳しくなかったが、アンナが演じるサロメは透明感のある妖艶さで、そこにいないヨハネやヘロディアを作り出しているかのようだった。

 

「今まで見た中だと、これが一番かもしれない」

「ふふん、どうも。サロメなんて映画とかオペラでやりつくされてるから、新しさはないけどね。好きな人の首を求めるとかすごくない?」

「聖書では母のヘロディアがヨハネの首を望んだから、サロメが王に頼み込んだ。好きでもなかったんじゃないか」

「純粋すぎたんだよ、サロメは。母ちゃんに言われただけで誰かの首が欲しいなんてさ。純粋かつマザコンだったんじゃない?」

 

 幕が閉じ、ビデオの映像が移り変わる。

 

「まあ、その気持ちは分かるよ。あたしもそうだったし」

「おまえのどこが純粋?」

「マザコンの方な!? ……女手ひとつであたしを育ててくれたの。お母さんが褒めてくれるから頑張って、大体の賞は総ナメにしたんだけど。あたし天才だから」

「自分で言うな」

「けど、死んじゃった。ブノワ賞の授賞式の前に、交通事故で」

 

 淡々と、アンナは言った。

 アルコールが回りに回り、顔を真っ赤にした彼女はぐでんとテーブルに突っ伏してしまう。

 卓に置いたソーセージを唇だけで口内に送り込みながら、その時のことを話す。

 失意のままに授賞式を終え、アンナは貰った賞状も、バレエダンサーを象った彫像も、ゴミ箱に捨てて帰ろうとしたという。

 

「で、今の映像の隅に映ってる子……あたしの友達が話しかけてきて」

 

 彼女はひしゃげた賞状を突きつけて、怒気とともに言い放った。

 

〝これ、どういうこと。これを貰うために、どれだけの人間が努力してるか知らないの〟

〝…………欲しいんだったらあげるよ。そんな紙切れケツ拭く紙にもならないし、何ならあのダサい像も拾ってくれば。そもそも、あたしのモノをどうしようが勝手じゃん〟

〝───っ。あんた、辞めるの〟

〝うん。マスコミとかパパラッチとかめんどくさいから、ウガンダでも行ってくるわ。じゃあね〟

 

 そうして、携帯電話もパソコンも全部捨てて、逃げるように業界を引退したのだとか。

 ソーセージをかじりつつ、話の感想を述べる。

 

「……それは、流石におまえが悪い」

「だよなぁ〜!! ガキ過ぎたなぁー、あの頃のあたし! 今でも思い返すと鳥肌が立つ黒歴史だわ……!! なんかパパラッチもアフリカの奥地まで追ってきたし!」

「でも、おれも同じ状況ならおまえと同じことをしてたかもしれない。親が死ぬ辛さは、おれでも分かる……と思う」

 

 すると、アンナはがばりと起き上がって抱きついてくる。

 

「もしかして慰めようとしてくれてんすかぁ〜!? 少しは可愛げがあるじゃん! もっと言って!」

「寄るな! 酒くさいし、たばこくさい!」

 

 しかし、その攻防も長くは続かなかった。アンナは酒が進みすぎたせいで見事にノックダウンされ、泥のように眠りについた。

 この家にベッドはひとつしかない。いつもは湯たんぽ代わりだとか言って引きずり込んでくるが、今日に限ってそれはなさそうだ。

 考えるのは、アンナとその友達のこと。友達の名前はアリサと言うらしい。寝言で呟いていた。

 アンナがもうすぐ死ぬとしても、友達との喧嘩別れは未だ心に残っている。どうせ死ぬなら、もっと穏やかで、悔いがないものにしたいはずだ。

 体の病気を放置していたのだって、母が亡くなった影響なのだろう。誰かのために頑張っていたのに、その誰かがいなくなったのだ。その絶望は、分かると思う。

 いま、自分にできることは。

 

「……やるか」

 

 ───その日は雲ひとつない晴れ模様だった。

 カジノを行脚するというアホの極みのような遊びに付き合った夕方、アンナと並んで帰途に就く。

 

「あー、負けた負けた! 負けまくった! 金が溶けてく絶望ってクセになるよね!」

「よく毎日溶かせるだけの金があるな?」

「現役時代に稼ぎまくったからね! 金ならある! むしろ金しかない!!」

「───ケツ拭く紙にもならない金はあるのね」

 

 大股歩きで街を闊歩するアンナの前に立ちはだかった、ひとつの影。奇しくも、彼女はアンナと同じ格好をしていた。違いは髪型くらいで、黒髪のボブカットにしている。

 アンナの動きががちりと固まる。おそらくメデューサとにらめっこした人間もこんな感じになるだろう。

 

「アリサさん? ナンデ!?」

「そこの男の子に呼ばれたのよ。若いツバメ囲ってるみたいね」

 

 アンナは強張った顔で振り向き、

 

「ノア、説明して!」

「インターネットって便利だよな」

「どこでそんなものを!? あたしの家なんてパソコンはおろか携帯電話すらないのに!!」

「近所のネットカフェ」

「要領良すぎない!?」

 

 そこで、アリサは口を差し挟む。

 

「ねえ、あなたたちのコント見に来たんじゃないんだけど」

「そこの喫茶店にでも入って話してきたらどうだ」

「そうね。さっさと行くわよ」

「ち、ちょっと待って! ノアも来て!」

 

 気まずい雰囲気のまま、喫茶店の席につく。じろりと怜悧な眼差しのアリサとは対照的に、アンナは挙動不審極まっていた。

 どろどろと渦巻く空気の中、店員がやって来る。

 

「ご注文はお決まりですか?」

「私はコーヒー」

「オレンジジュース」

「こ、この店で一番強いお酒を」

「お客様? ここ喫茶店ですよ?」

 

 アリサと二人がかりで困惑する店員をやんわりと帰らせる。いくら接客経験があろうと、喫茶店で酒を頼むような人間の処理は荷が重いだろう。

 品物自体はすぐに運ばれてきた。アリサがコーヒーを一口味わい、口を開きかけた瞬間にアンナは頭をテーブルに打ち付ける。

 

「す、すみませんでした! あの時のことは何卒お許しを!!」

「いいわよ。私も悪かったから。振り付け師の車蹴っ飛ばすくらいにはムカついたけど」

「そ、そうですか。フヘへ……では、拙者はこれにてドロンいたすでござ」

「逃げるなよ」

 

 立ち上がろうとするアンナの腕を引っ張って座らせる。初めて会った頃とは逆の立場。まさか許す許さない程度の話で、積もり積もった負債を支払えるはずがない。

 鮮やかな橙色の甘い水を口につけながら、二人の会話をただ聞いた。

 最初はぎこちないやり取りも、太陽が地平線にかかる時刻にはすんなりと滑り出して。日が沈んだ時には、店員が虚ろな顔をするほど饒舌になっていた。

 それは取り留めのない話で、理解できない部分もあったけど。

 不思議と、疎外感はなかった。

 別れ際、アリサは言った。

 

「アンナ。あんたは自分のことだけ考えなさい。あんたが残した功績も名誉も、いつか、私の演技でみんなの記憶から消し去ってあげる。───じゃあね」

 

 その言葉に、アンナがどんな感情を得たかは分からない。

 帰り道。煌々と存在感を現す月の下を共に歩く。彼女の足取りは映像で見た時よりも流麗で、ひとつの音楽みたいに足音が重なっていった。

 満面に笑みを広げて、小踊りするアンナはどこか子どもじみていながら、ぞっとするほどに艶やかだ。

 

「むふふっ……ありがとね、ノア。こんなに良い日、初めてかも!」

「ああ、精々感謝しろ」

「うん。こりゃあお返ししないと。ねえ、何かあたしにしてほしいことある?」

 

 その返答は、自分でも驚くくらい速く出た。

 

「───おまえの踊りが見たい」

 

 アンナは不意を突かれた表情で、

 

「……ここで?」

「ここで」

「衣装とか、ないけど」

「衣装なんて、なくてもいい」

 

 分かった、と彼女は頷く。酒を飲んでいない彼女の赤面は珍しかった。

 おれは地面に腰を置いて、自分ひとりのための劇が始まるのを待つ。

 

「やっぱり、サロメが良い?」

「おまえの好きなやつがいい」

「…………それじゃあ、白鳥の湖」

「うん。踊ってくれ」

 

 そして、彼女は翔んだ。

 石畳の湖面を、白き鳥のように。

 月明かりに照らされ、思うがままの振り付けで舞い踊る姿の前に言葉は無力だった。

 悪魔ロットバルトに呪いをかけられ、白鳥に変えられたオデット。白鳥の湖はオデットと王子ジークフリートの悲恋の物語だ。

 だが、ここには呪いをかけたロットバルトも、ジークフリートもいない。

 ひとり、白鳥と化したオデットだけが舞い続ける。

 現世のあらゆるしがらみから解き放たれたオデットの───アンナの舞に目を奪われ、心を釘付けにされ、魂を昂ぶらせる。

 月に届かんと跳躍する白鳥。

 まばたきすら煩わしいと思わせる光景。

 バレエに台詞はない。自らの肉体のみによって、感情を表現する。だけど、彼女は一度だけ、目を輝かせて、言葉を口にした。

 

「あたし、いま死んでも良い───!!」

 

 死に向かって飛び立つ。

 この光景を網膜に焼き付ける。

 それで、気付かなかった。

 この心臓が、甘く震えていたことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝。カーテンの隙間からまばゆい光が射し込む。ひとつの布団の中で抱き合うみたいに眠っていた自分たちは、全く同時に微睡みから覚醒した。

 もぞりと気怠さが見える緩慢な動きで、腕と脚が絡みついてくる。

 それで、直感した。

 ───ああ、終わりなんだ。

 

「なんだかんだ、一ヶ月半も生きちゃった」

「悔いはないか」

「……、あるといえばあるかも」

 

 ほっそりとした左手が頬に触れる。

 

「ノアの、これからのこと」

「それは、おまえが心配することじゃない」

「優しいね。でも、聞かせて。ノアがこれからどうやって生きるのか」

「……わからない」

「なら、今決めて」

 

 言われて、考えた。

 一寸先も見えない、未来のことを。

 どうやってこの世界を生きるのか。その方法はきっと、自分の中にしか答えがない。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとは言うが、経験から学ばない在り方もそれはそれで歪だ。どちらも、自分が得たものであることに違いはないのだし。

 自分が得た経験───母に首を絞められた最初の記憶、弟の悲痛な叫び、初めてあたたかさに触れたあの日、誰かの家族になれたこと、一族の皆殺し、雪の中の涙。

 自分が学んだ歴史───唯一神の束縛を受け、無窮の知恵と知識を授かってなお、愛する者のために叛逆を成そうとした王。

 そして、決めた。

 この先の、未来の進み方を。

 

「俺は───もう、ひとりは嫌だ。誰も置いていきたくない、誰にも置いていかれたくない。そのために、自分を取り繕いたくもない」

 

 だから。

 

「ただ、ありのままで。俺は生きていく」

 

 この想いは、誰にも穢させやしない。

 視界が潤んで歪んで。

 それでも、こぼれないように堪えた。

 

「ああ、よかった……!!」

 

 それは彼女も同じだった。

 絡みつく腕がきつく締まる。

 額に、柔らかい感触が生まれる。

 長く、短く続いたその感触が離れると、白い指が俺の唇をなぞった。

 

「こっちは、いつかノアを好きになった子のために、残しといてあげる」

 

 ゆっくりと。

 ゆっくりと、彼女の目が閉じていく。

 

「あたしの体は……ユリさんとリッカくんの隣に埋めといてよ。話、してみたい」

 

「うん」

 

「ノアと会ってから、ずっと楽しかった」

 

「うん…」

 

「本当に、ありがとう。───好きだよ、ノア」

 

「うん……!!」

 

 目を閉じて。

 温度が消えて。

 ひとり、取り残されて。

 俺の初恋は、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き方は、決まった。

 後はこの力で、何を目指すか。

 ソロモン王が提唱した、俺なりのアルス・ノヴァ。その形を、見定める時だ。

 魔術を超えた術法。

 もしそれができたとして、何を成す。

 デンマークの街の一角。寂れた図書館の隅で、世界地図を開く。六つの大陸、それを取り囲む蒼い海。世界は、こんなにも広い。

 アンナが言ったように、人生を生きる要因は運で決まる。生まれた場所、産んだ両親、生まれ持った才能。この仕組みこそが上下を作り、その不平等こそが人に歪みをもたらす。

 ならば、それを解消することはできないか。

 魔術の先の学問を考え出し、世界に広めたとしても、これが学問である以上、知識層との分断は起こる。誰もが使えるというのは絶対的な条件だが、例えばパソコンは多くの人が使えるが、その内部がどんな素材でどんな仕組みで動いているのか理解している人間は少ないだろう。

 だとすれば、手を加えるべきはアルス・ノヴァではない。それを用いて目指すべき目的だ。

 人類が未だ到達していない場所は多い。この地球の外の宇宙など一例で、人間はまだ地球の深海最奥まで辿り着くことすらできていない。

 …………いや、そうか。

 目標は高く持つべきだ。低い目標は幼稚な満足感と不遜な全能感を与える。

 ───根源だ。すべての魔術師が目指すモノ。魔術を超えた学問ならば、根源に辿り着く目標は踏襲しよう。宇宙や深海を研究する学問は誰もが知っているが、根源は裏の世界の者しか知り得ぬことだ。

 だが、ただ根源を目指すだけならそれは魔術と変わらない。

 そう、どうせならいっそ、誰もが思ってはみてもやろうとしないことを。

 

「───全人類を、根源に連れていく」

 

 これはあくまでも目標だ。

 ひとりの人間が持てる視座は少ない。魔術を除いた学問の強みとは、常に他人の目に晒され、修正を受けて精度を収斂させることにある。

 この世にはきっと、俺が思いつきもしない考えをするやつだっているだろう。俺の才能には流石に及ばないだろうが。

 全人類の根源への到達。これを表の目標とする。

 裏の目標は人類のあらゆる格差の浄化。表の目標を叶える過程で、人類は進化を余儀なくされる。それによって、少しは不平等が埋まるかもしれない。

 そのためにはまず、何をするべきか。

 世界地図を一望して、決めた。

 まだ、俺は何も知らない。この世界を変えるなら、この世界のことを知っていなければならない。

 

「さて、最初はどこに行くか」

 

 ブリテン島……イギリスは時計塔の本拠地がある。表の歴史のオカルト神秘主義においても大きな役割を担った。

 アメリカ……この世で最も力を持つ国家。魔術の歴史は浅いが、表の学問の粋を知るには良い場所かもしれない。

 と、そこで思考を打ち切った。

 俺は、ありのままに生きる。

 だったら感情で、最初に行きたい場所を決める。

 

「エルサレム。ソロモン王のロマンには抗えねえな……!!」

 

 世界地図を畳み、元の書棚に返す。

 図書館を出る、その前に。

 枷を、自分にかける。

 ───魔術回路を作り変える。

 自分が根源に到達するだけなら、無属性魔術と固有結界があれば叶う。だが、それは自分だけが使える手段だ。誰も置いていかないと誓ったのだから、できる限り万人に近い視座を持たねばならない。

 そして、あの死徒を殺すために編んだ術式。これは自分の体を召喚式としたモノだ。魔術回路も同様。故に魔術を作り変え、発動できなくする。

 神の力は、いらない。

 結果、自らを繋ぐ枷はふたつ。

 無属性魔術と、神体化術式の封印。

 いつかこれを使わねばならない日が来るまで、発動すらできないように意識にロックを掛けた。

 新しい魔術回路のスイッチはあの夜、雪の中の寒さにした。あの出来事を一生、魂が腐り果てても忘れないように。

 

「じゃあ、行くか」

 

 そして、カルデアに来る三年前、ロンドンに行くまで俺は世界を旅し続けた。

 三大宗教の巡礼者が集まるエルサレムでは、真っ先に嘆きの壁へ足を運んだ。ソロモン王が建設した第一神殿はとっくの昔に破壊されているが、嘆きの壁はその後ヘロデ王が建設した第二神殿の遺構だ。

 嘆きの壁の入り口にはキッパーという帽子が配られていた。ユダヤ教の習わしで、男子は聖所に入る前はこれを被らないといけない。そこら辺で作った十字架をかけて、キリスト教徒のフリをして入ることにした。

 嘆きの壁は言ってしまえば古い壁だが、悪くはない。少なくとも人魚姫の像よりは。

 

「ここにソロモン王が立ってたのかもしれねえのか……テンション上がってきた」

「ソロモン王が好きなのかい、ぼくぅ?」

「誰だよおっさん」

「ソロモン王なんて王としては下の下さ。父のダビデ王に比べたら、偉大さも何もかもガタ落ちだよ。罪を悔い改めてないんだから地獄に落ちただろうしね。ダンテの神曲では天国にいたけど、あんなのカトリックのプロパガンダだよ。煉獄なんてカトリック教会が金儲けのために作ったもので、プロテスタントにはそんな概念ないしね。ダビデ王にしときなさいダビデ王に」

 

 ぶちん、と頭の血管が切れ、全力のアッパーを繰り出す。

 

「ソロモンパンチ!!!」

「ぐっはあああああっ!!?」

 

 その後、騒ぎを聞きつけた警備員が駆けつけた。流れで裏の世界で最もめんどくさい組織のひとつ、聖堂教会の代行者まで姿を現し、エルサレムは騒乱に包まれた。

 

「いたぞ、あのガキが標的だ!」

「えぐるようにして射つべし、射つべし!」

「おまえらの武器なんざ当たるか! 術式を付与できるようになってから出直してこい! ヒャハハハハハハ!!」

 

 代行者の追撃を躱しながらエルサレム旧市街を走り回っていると、魔術協会の構成員にも情報が伝わったようで、聖地は一気に緊張に包まれる。

 幸いだったのは、聖堂教会と魔術協会が犬と猿より仲が悪かったことだろう。得られた情報に差異があり、俺ひとりを狙う展開にはならなかった。

 灯台下暗しという日本のことわざがある。

 教会と協会の追っ手から逃れて、事前に釣ってきていた魚を焼くために聖墳墓教会の裏で焚き火を行っていた。聖墳墓教会とはジョニデ似の救世主の墓とされている場所だ。

 焼き上がった魚をかじりながら悪態をつく。

 

「くっそ、あいつらしつこすぎるだろ……ソロモン王のために正義の拳を振るっただけだぞ。代行者が死徒殺してるのと変わらないだろうが」

「ふ、ふふふ……わ、私だってアイツに頼らなくたってやれるのよ……ここで手柄を上げて木っ端代行者から抜け出してやるんだから……!!」

「……ん?」

「……え?」

 

 何やら陰険なことを呟く代行者と目が合う。

 ヤツは鉄のハルバードを抱くようにして持っていた。外見から評するなら、年上で包容力はないけど経済力もなくて、才能はとくにないうえ努力家でもなさそうな女だった。

 

「み、見つけたあああああ!! 待ちなさいこのクソガキ! 私の出世の贄となりなさい!!」

「ふざけんな年増! 誰がおまえなんかに捕まるか!!」

 

 横薙ぎに振るわれた鉄槍を跳んで躱す。

 すると、焚き火を辺りにぶちまけて、

 

「「───あっ」」

 

 …………逃亡後。新聞を確認したところ、〝聖墳墓教会で出火事件〟との見出しが大々的に打ち出されていた。

 自分はともかく、あの女がどんな処分を受けたかは想像に難くない。あれでいてふてぶてしそうな見た目だったから、上手くやっているかもしれないが。

 とりあえず逃げる先はアンナに倣ってアフリカ大陸にした。エジプトのピラミッドを見て回ったり、ボツワナでダイヤを掘り出したり、モロッコで股間の突貫工事を受けそうになりながら、次はアメリカに飛んだ。

 アメリカほどそれぞれの地域で色が変わる国はないかもしれない。都会から出たと思えば一面の荒野が待ち受けていたり、荒野の中にきらびやかな摩天楼がそびえていたり、これが一種の豊かさの象徴なのだと思い知らされた。

 アメリカ大陸西部、ネバダ州のラスベガスから北、スノーフィールド。ラスベガスのカジノを荒らして出禁になった末に向かったのが、その土地だった。

 スノーフィールドにもカジノはある。そこで荒稼ぎをしていると、麻薬を売りつけてきたアホがいたのでとりあえず懲らしめたら、

 

「……お前がヤクの売人をのした男か」

 

 無機質な機械のような男が、数人の手下を連れて宿に押しかけてきた。

 見るからに表の人間ではない。推察するにマフィア組織に属しているようだが、魔術の心得があることは見て取れた。

 

「何の用だ? ウチのモンに手ぇ出したからケジメ付けに来たってか」

「いいや、礼だ。お前のお陰で手間が省けた。あいつらはシマを荒らすチンピラだったからな」

「礼か。じゃあ美味い飯でも奢れよ。部下を動かす金に比べたら雀の涙だろ」

「……ついてこい」

 

 聞くところによると、男はスクラディオ・ファミリーというマフィアの構成員のようだった。マフィアの源流と言うとシチリアだが、この組織はアメリカに手を伸ばした挙句裏の魔術師とも関わりがある強大な力を持つに至ったのだとか。

 連れられた場所は食肉工場。パンにソーセージを挟み、ケチャップをかけただけの簡素なホットドッグを出してきた。

 

「……マジで言ってんのか?」

「本気だ。このホットドッグが、一番美味い」

 

 渋々口に運ぶと、確かに悪くなかった。肉の塩っ気にパンと甘さとケチャップの酸味が釣り合いの取れたバランスで主張しあっている。素材で勝負しているということだろう。

 背後では男の部下たちがダンボールを運んでいた。上部が包装されていないせいか、ぺらぺらとめくれて中身が見えている。

 その中身とは白い粉が詰まった透明なパックだった。

 

「おい、アレ」

「小麦粉だ」

「嘘つけ絶た」

「特別製の小麦粉だ」

「いやどう見てもヤ」

「キメたら火星まで吹っ飛ぶ小麦粉だ」

 

 それ以上追及することはしなかった。一度は聖堂教会と魔術協会に睨まれた身だ。その上、魔術に通じたマフィアに目をつけられるなど、面倒どころの話ではない。

 ヤクの出荷先に思いを馳せながら、アメリカの次はカナダとメキシコを回ってから中国に飛んだ。東洋魔術・呪術の多くはこの国の影響を受けている。大昔の冊封体制の賜物だろう。

 中国もアメリカのように都会と田舎の差が激しい。だが、アメリカの田舎が横に広いのだとしたら、中国は峻厳な山脈を擁するが故に縦の大きさを意識させられた。

 地平線の奥まで続く険しい山々。霧がかった大地に太陽の光がかかると、月並みな言葉だが、幻想的な風情が演出される。

 山から降りると、枯れ木を繋ぎ合わせたみたいな老爺が話しかけてきた。

 

「兄ちゃん、才能ありそうだから拳法やんね?」

「断る」

「ウチに来たら金稼げるけど。あとブ○ース・リーとジャ○キー・チェンのサインあるよ。アルアルヨ」

「マジかよ行くに決まってんだろ」

 

 で、拳法の修業をすることになった。ちなみに二大カンフースターのサインは明らかにこの老人が書いたものだった。なので、俺がもっと精巧なサインを偽造して道場に掛けておいた。念の為数枚造ったが、適当にネットで売れば高値がついたかもしれない。

 修業開始二日後、老人と一緒に金を稼ぐ方法を実行した。とある道場の壁を蹴り破って、

 

「オラァ! 道場破りだ、看板と金寄越せ!!」

「普通に入り口から入ってきてくんない!?」

「ふ、汝の底が見えたぞい。道とは己で創るモノ。それも知らぬ時点でお主らの負けじゃ。ほら、アレが足りんよアレが。……なんだっけ」

「ほら、アレだろ。…………功夫」

「そうそう、功夫が足りんよ功夫が」

「お前らは功夫より前に頭が足りてねーだろ!!」

 

 道場主は顔の血管を浮かび上がらせながら吼えた。負けじとジジイも言い返して、

 

「この弟子とお主で勝負じゃ! 負けたら壁代の弁償、勝ったらお主の敗北を言いふらさない代わりに有り金を貰う!」

「俺に得がなくない!? エロい催眠術でもかけられてないとそんな条件受けないよ!?」

「うっせえ早くしろ。なんでもいいぞ。素手か? 三節棍か? それとも棒か?」

「ぼ、棒! 棒で滅多打ちにしてやんよ!」

 

 棒術の歴史は長い。誰もが手軽に入手できる武器であるため、汎用性があり金もかからなかったのが要因だろう。

 棒を携え、向かい合う。動き出したのはこっちが先だった。

 

「棒の重量を投げ捨て身軽になった体から繰り出される必殺の前蹴り───!!」

「武器を使えェェェ!!!」

 

 受けた棒を蹴り砕いて鳩尾に足裏が突き刺さる。道場の端まで吹き飛ばすと、這う這うの体で金を献上し、それを受け取る。

 暖かくなった懐で酒を飲んでいると、

 

「お客さん、これ偽札だけど」

「……え?」

「警察呼ぶから大人しく待って───」

「やりやがったあの野郎ォォォ!!!」

 

 ということで、中国にいられなくなったのでインドに逃げた。フォローしておくと、自分が会った連中の民度が低かっただけでこれが中国のスタンダードではない。インドではインド映画のバックダンサーに抜擢されたり、マレーシアではマーライオンを見て人魚姫の像のショボさと比べたりした。どちらが下かは言わないでおく。

 赤道近くの国をうろついて、中東に移動すると獅子劫界離というおっさんとともにシモン・マグスの末裔を殺し、ようやく魔術協会の総本山があるイギリスのロンドンに辿り着いた。

 当然ではあるが、赤道周辺の国に比べるとイギリスは圧倒的に寒冷だ。半袖短パンの虫取り少年スタイルで空港から降りた瞬間に後悔した。長らくワインの原料となるブドウも栽培できなかった国の気候は厳しいのだ。

 震えながらバスを待っていると、フードを被った白髪の少女を伴った長髪の男が話しかけてきた。

 

「お前がノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドだな」

「誰だおまえ?」

「極めて不本意だが、今はロード・エルメロイⅡ世と呼ばれている。獅子劫界離を通じて、この時期にお前がイギリスに上陸すると聞いて来た」

「……なるほどな。シモン・マグスの人造天使は元気してるか」

 

 ロード・エルメロイⅡ世はたばこを取り出し、寒空に紫煙をくゆらせる。

 

「ああ、こちらの教室で預かっている。彼の」

「彼女、ですよ」

「───彼女の魔術、浄化術式は驚異的だ。エルメロイの源流刻印をも単独で復活させる可能性がある」

「……それで、本題はなんだ?」

 

 不機嫌な顔つきをした彼は肺にたっぷりと煙を溜めると、一息に吐き出した。

 

「私なりの恩返しということだよ、ナーストレンド。お前に住処を用意してやる。だからこの土地で騒ぎを起こすな」

「おいおい、人のことを爆弾みたく言いやがって。俺がいつどこで騒ぎを起こしたんだよ」

「フ○ック! 聞けば聖墳墓教会出火事件の発端もお前だそうだな!? あの事件がどれほど後を引いているか知るまい!!」

「はあ!? アレに関しちゃ俺が被害者なんだよ! おまえらがいくら困ろうが俺の知ったこっちゃねえなァ! こちとら中国で贋札偽造犯の烙印押されてんだぞ!!」

「どんな旅をしてきたんだお前は!?」

「あの、周囲の目が痛いです」

 

 フードの少女は居心地が悪そうに体を縮ませる。

 確かに人々の哀れみと蔑みを込めた視線が集まっている。エルメロイⅡ世は懐から折り畳まれた紙と携帯端末をこちらに押し付けてきた。

 

「お前の住居を用意してくれた人の住所と、連絡用の端末だ。定期的にやらかしをしていないか確認するから絶対に無くすな」

「機械に頼る魔術師か。珍しいな」

「形振り構っていられんのだよ。私は、才能がないからな」

 

 薄い影を落としたその言葉を笑い飛ばす。

 

「ハッ。魔術はそうでも他の分野なら分からねえぞ。俺が創る術法ではな」

 

 紙と端末を受け取り、停車したバスに乗り込む。その直後、ロード・エルメロイⅡ世とフードの少女も後についてくる。

 

「……なんで着いてきてんだ」

「私たちも乗るからに決まっているだろう」

「せっかくいま俺が良い感じに締めくくってやっただろうが! 風情を考えろ風情を! 次のバスに乗れ!!」

「ふざけるな! お前と違って私は忙しい! 片付けねばならぬ仕事が山ほど残っているからな、お前と違って!!」

「仕事の多さをダシにするなんてのは無能の証明だなァ! 時計塔のロードってのはそんなんでも務まんのか!?」

「あの、普通に迷惑です」

 

 とはいえ、二人との相乗りは長くは続かなかった。街中で下車したロード・エルメロイⅡ世とメンチを切り合い、バスはそのまま突き進んでいく。

 バスが終点に着く。空は既に黒く染まりかけていた。そこからさらに数十分歩くと、紙に書かれていた住所に到着した。眼前には三階建ての古風な喫茶店。扉には『CLOSED』の札が下がっていたが、無視して開ける。

 ちゃりんと軽快な鈴の音が響く。鼻腔をくすぐる茶葉の香り。年季が入った店内で待ち受けていたのは、アンティークな服装の老婆だった。

 

「貴方が、ノアトゥールさん?」

「ああ。おまえはねるねるねるねの魔女か?」

「いえ、一般的なババアです。アリス・テイラーと申します。古臭い名前でしょう?」

「自分で言うな」

 

 アリスと名乗った老婆、自称ババアはティーポットを傾けて紅茶を注ぐ。差し出されたそれを手に取り、唇を湿らせる。

 

「悪くねえな。合格点をくれてやる」

「老人を労らぬ不遜な態度ですが、合格点はいただきましょう」

 

 アリスは自分の分の紅茶を注ぐと、一口だけ嚥下する。その動作は堂に入っていた。英国淑女のテンプレートとして提出しても、誰もが認めるであろうマナーの高度さだ。

 

「亡きマイダーリンは魔術師の家系でして、その縁でこういう頼みごとを請け負うこともあります。私自身は元一般人で、ちょっとしたおまじないしか使えないのですが」

「没落した家系にはよくあることだ。少しでも魔術との繋がりを残しておくのはな」

「ええ。今まで色々とちょっかいを出されましたが、大抵そういった雑魚の場合、社会的地位はこちらが圧倒的に上なのでダーリンへの愛で乗り越えてきました。魔術師の方は陰気な学者肌が多いですが、貴方はちゃらんぽらんで考えなしのアホな気がします」

「ふざけろ」

 

 彼女は余裕な笑みを浮かべた。

 憎らしいことに、そんな仕草まで妙齢の淑女らしかった。アンナをサロメだとすると、こちらは楊貴妃のような悪女性を備えている。

 

「ということで、明日からよろしくお願いします。貴方の部屋は三階の奥です。お腹は空いていますか?」

「ああ。紅茶の腕は合格だが、料理の方はどうか試してやる」

「貧相な食事しか摂っていない若造の舌をあっと驚かせてみせましょう。好物はありますか?」

「シチュー」

 

 と言うと、彼女は頷いて調理に取り掛かった。

 それで出てきたのは、

 

「……なんだこの茶色いの」

「ビーフシチューですが。イギリスでシチューと言ったらビーフシチューです。異論は認めません」

「シチューつったら白いやつだろ! なんだこの色!? まるでうん」

「ぶっ飛ばしますよ?」

 

 という食事を経て、イギリスでの初日は終了した。ビーフシチューは完食した。何ならおかわりもした。

 二日目、朝早くからアリスに叩き起こされ、二階のクローゼットルームに引きずり込まれる。

 言われるがままに用意された服を着る。それは黒を基調とした礼服だった。燕尾服ほどかしこまってはいないが、それでも普段着にするにはハードルが高い。彼女はてきぱきと手直しをしながら語った。

 

「一室を貸す以上、貴方には働いてもらいます。借りは返す、分かりますね?」

「当たり前だ。天才の俺が借りたままでいられるか。つうかこんな服着せてどうするつもりだ? 執事でもやれってのか」

「はい。今日はそういう設定でお願いします。貴方は言動と行動さえ何とかすれば、残るのは品の良い顔立ちだけなので」

「老眼か? 俺は普段から品の良さに満ち満ちてるだろ、品の権化だろ。老眼鏡でも買ってこい」

「そうですね。品には満ちています。下の方に」

 

 などと言葉のドッジボールを繰り広げながら、一階へ向かっていく。階下からは喫茶店らしからぬ賑やかな声が響き渡り、多数の人の気配が蠢いている。

 階段を降り、目にした光景は極彩色。決して危ないクスリをやっているのではなく、昨日の落ち着いた風情を消し飛ばす色鮮やかさに包まれていた。

 それぞれの色を担うのは従業員と思しき人間。彼らは喫茶店にそぐわぬコスプレをしていた。ひとつの席にひとり以上が帯同し、客を楽しませている。

 

「……なんだこれ」

「日本のメイド喫茶から着想を得まして。お客さんの要望に応えたキャラクターをお出しして、理想のひとときを過ごしていただこうと」

「手間のかかることしやがって。俺にケチャップでオムライスの上にハートでも描けなんて言うんじゃねえだろうな」

「もちろんお金は出します。実のところ、この商売でかなり儲けているので」

「いくらだ?」

 

 ちょいちょい、と手招く動作。体を屈めて、耳打ちされた金額に計らずも目を見開いた。

 

「…………嘘つけ」

「残念ながらマジのガチです。システムの都合上予約制ですが、宣伝の甲斐あって収入は今も増え続けています。すごいですね、Y○uTubeとTw○tter」

「ハイテクババアが。……ケチャップとオムライスはどこにある? ハートどころかベラスケスくらい精巧な絵を描いてやるよ」

「まずは注文を受けてください。貴方の担当はあそこです」

 

 アリスが指差したテーブルへ足早に移動する。

 その席にはコピペで生成したかのような三人の老婆が座っていた。予約制というくらいだから料金も割高なのだろう。なんとなく客層が予想できる面子だ。

 

「……注文は」

「アナタの靴下で」

「棺桶に叩き込むぞボケ」

 

 すると、三人組の老婆は目を輝かせて黄色い声をあげた。

 

「キャアアアア!! ほんとに要望通りのキャラが来たわ! 性根が腐り切ってる俺様系執事だわ!!」

「この子、見るからにクズよ! 本物じゃないと出せないオーラを放ってるわ! レアモノだわ、レアクズだわ!」

「好き勝手言ってんじゃねえゲテモノ集団が!! 棺桶すっ飛ばして火の中に放り込まれてえのか!?」

「あら、そんなこと言ってカワイイじゃない。私たち、これでも若い頃は黒い三連星って、オトコたちに持て囃されてたのよ?」

「黙れグロい三連星!!!」

 

 店主が店主なら客も客だ。湿った石の裏に虫がたかるように、この店という石に名状しがたき虫たちが寄り集まってきているのだ。

 黒い三連星が店をあとにするまで三時間ほど彼女たちに翻弄された。ジェットストリームアタックならぬジェットストリーム老婆である。それら怪物を御すことは如何な人間でも難しいだろう。

 喫茶店の形態としては、この催しが終了した後に通常の業務を開始する。借りを返す側としてはその仕事も手伝わなければならないのだが、

 

「───見事に撃沈してますね」

「…………一年分のババア成分を摂取した気分だ。少し休ませろ」

「ええ、どうぞ。昨今、従業員に休みを与えないブラック体制では、SNSで告発されて炎上しますから」

「どんだけネット使いこなしてんだこいつ」

 

 そんな仕事をこなしつつ、夜は研究を行い、たまにエルメロイⅡ世に口出ししたり口出しされたりといった生活を送ること二年。

 二階の応接間に呼び出されると、アリスは唐突に提案した。

 

「ノア、自分の仕事を持ってみませんか」

「……どういう風の吹き回しだ?」

「人の下で職務を果たすことを覚えたのなら、次は自分の手で仕事を進めるステップです。そうですね、何でも屋とかどうでしょう。私の動画のネタにもなります」

「勝手に話を進めてんじゃねえ。どうせおまえのことだ、根回しはもう済ませてんだろ」

 

 彼女は薄く口角を持ち上げる。その表情は意地の悪さと小悪魔的な色があった。

 

「はい。記念すべきファーストミッションはずばり、呪われたホテルの事態収束です。依頼主の方にもお越しいただきました」

 

 がちゃりとドアを開けて入ってくる、冴えない見た目をした男性。年の頃は三十ほどだろうが、纏う雰囲気のせいで十歳は上乗せされているように見える。

 

「私は親の代から不動産屋を営んでおりまして、事業の一環でホテル経営にも手を出したのですが、近頃幽霊が出るという噂が……」

「例えば?」

「洗面台の前で歯を磨いてると鏡に変な女が映ってるとか、寝ていたら何かに足を掴まれたりだとかですね。調べてみたら、大昔にそこで殺人事件があったみたいで」

「よし、分かった。車出しとけ婆さん。俺は部屋で必要なものを取ってくる」

 

 限りなく迅速な流れ。冴えない男性は歓喜の色をあらわにした。

 免許を持っていないので車を運転することはできない。アリスによるドライブが十分ほど続き、件の呪われたホテルの前に停車する。

 そのホテルは異様な輝きを放っていた。

 毒々しいまでのピンクの光を発する照明。シンメトリーで構成された城塞のような外観。町外れにぽつんと立つそのホテルに周囲の人影は見られず、偶然通りかかった親子は子どもの目を隠して立ち去っていく。

 

「……これ、呪われたホテルじゃなくて呪われたラブ───」

「まあ、そうとも言いますね。大方昔殺された人の霊が集まってきてるんじゃないかと」

「オイオイオイ、死んでまでこんな場所に来る幽霊なんてロクなやつじゃねえだろ。色情霊以外の何物でもないだろ。エロ本でも供えときゃ勝手に成仏するだろ」

「どんな除霊の仕方!? この世に悔いしかないじゃないですか! 性欲という名の執着に塗れた悪霊になっちゃいますよ!」

「下品な会話はそこまでにして、とっとと始めてくれませんか?」

 

 アリスは手に持った杖でぺしぺしと足を叩いて急かしてくる。

 車のトランクから荷物を引き出し、

 

「十分くらいここで待ってろ。準備してくる。一応訊くが客はいないんだよな」

「は、はい。今は営業停止中なので」

 

 で、用意したものを設置し、ホテルをぐるりと取り囲むように結界を刻んで戻る。

 アリスはじっとりとこちらを見据えてきた。

 

「……何をしたんです?」

「ただでさえ死に急いでる老人がそう急かすな。見てりゃ分かる。あと五秒だ」

「五秒? とてつもなく嫌な予感が───」

 

 瞬間、ロンドンの曇り空にくぐもった轟音が鳴り響いた。ホテルの基礎の部分から爆発が巻き起こり、だるま落としのように建物が崩壊した。

 当然、周囲に影響が出ない配慮はしている。ホテルを囲む結界によって突風や瓦礫を押し留める完璧な計画である。

 さっきまでホテルだったものが辺り一面に転がる。冴えない男性はがっくりと膝をつき、頭を抱えて叫んだ。

 

「ちょっ……何やってんですかァァ!! 普通除霊って言ったら〝破ァ!〟とかじゃないの!? 十字架突きつけたりするんじゃないんですか!?」

「いちいち部屋回って昇天させてられるか面倒くせえ。このホテルで昇天するのなんて人間だけで十分なんだよ。根本から更地にして新しいの造れば万事解決だろうが。伊勢神宮の式年遷宮って知ってるか?」

「いや、ホテルが昇天しちゃってるよね!? メイドインヘヴンだよね!? とんでもない損害なんですが!!」

 

 そんな呪われたホテルの爆破解体が、何でも屋としての初仕事だった。その評判は後を引き、しばらくは壊し屋としての仕事が絶えなかった。業者より遥かに安価で解体を請け負ってもらえるという理由だった。

 爆薬として使用したのは、アメリカ滞在中になんかできそうだったから造った魔力爆弾だった。持ち運びに難はあるが、威力はお墨付き。ケーブルもスイッチも必要なしに遠隔操作できる優れ物だ。

 が、ある日エルメロイⅡ世から協会に目をつけられたという旨の激怒のメールが送られてきた。その長さは下手な小説を超えていた。

 

「ということで、俺はしばらくアフリカに逃げる。金くれ婆さん」

「ファ○クと言っておきましょう。ドーヴァー海峡を泳いでいきなさい」

 

 アフリカは今でも呪術師が信仰されている土地だ。逃げた先では現地のマフィアも介入した呪術戦争に巻き込まれたりしたが、それが返って協会の目を撹乱し、短期でロンドンに戻ることができた。

 解体事業を一旦打ち切ると、比較的穏当な依頼が来るようになった。無論、何でも屋の仕事は毎日あるわけではない。そういった日は喫茶店を手伝わされていた。

 定期的にホワイトベー……店に襲来してくる黒い三連星を相手取っている時だった。

 

「アナタが来てから、アリスさんが元気になって嬉しいわ」

「アフリカに高飛びしたって聞いた時はどうなることかと思ったけどねえ」

「最近はアイスランドまで行って仕事してきたらしいわね。お土産とかないのかしら。靴下でもいいわよ?」

「老いぼれの分際で尖りきった嗜好を押し付けてくんじゃねえ」

 

 脳裏によぎる、ひとつの写真立て。アリスの部屋に置かれた白黒の写真には、若かりし頃の彼女と亡き夫が並んで写っている。

 老いた現在も感じる気品というものが、その当時からあったように思われる。くだらないルッキズムや年齢で判断するわけではないが、紙に閉じ込められた彼女は若々しさから来る美を宿していた。

 年頃からして、戦争も経験しているのだろう。夫がいつ亡くなったかは定かではないが、戦中も戦後も女ひとりで生きていくには厳しい世の中だったに違いない。

 

「あの歳でネット使いこなすような女だぞ、俺がいなくても景気良くやってただろ」

「経済的にはそうだと思うけど。心の方はどうかしら」

「きっと、息子さんにアナタを重ねてるのよ」

 

 彼女に息子がいたというのは初耳だった。黒い三連星の言い草からして、今どうなっているかは大体想像がつく。

 この家のどこにもそんな痕跡はなかった。むしろ徹底的に痕跡を消したのだろう。写真の一枚もないということは、忘れたい過去があるから。

 おそらくは、子が流れたのか。

 だからといって、何ができるわけでもない。既に亡くなった者を蘇らせる術はない。アスクレピオスはいないのだ。

 そもそもそんな術があったとして、彼女がそれを望むとは限らない。死者の蘇生は人類にとってのタブーだ。エウリュディケも、イザナミも、バルドルも、冥界から帰ることはできなかった。

 店じまいの後、夕食の最中にアリスは訊いてくる。

 

「そういえば。貴方がどうしてここに来たのか、聞いていませんでしたね」

「まあな。大した話でもない。聞きたいなら聞かせてやる」

「はい。興味があります」

 

 話すことはアンナの時とあまり変わらない。三人と一匹があたたかさをくれた、ただそれだけの代わり映えのない物語だ。

 長すぎてあくびが出るような話を、アリスは無言で聞いていた。語り終えると、彼女は微笑んだ。

 

「今の貴方はともかく。過去の貴方には、よく頑張ったと褒めてあげましょう」

「過去に贈る言葉ほど無意味なものはねえな。現代人が古代人にマウント取るみたいなもんだ」

「逆もあるかもしれませんよ。ほら、魔術は古い方が強いのでしょう」

「魔術ではな。所詮は数ある学問のひとつだ」

 

 くすり、と小さな笑い声。

 

「ダーリンのプロポーズを思い出しました。〝魔術以外にも真理を知るための学問はある。君とともに生きていきたい〟と」

「やめろ、歯が浮く」

「それではお返しに、私とダーリンの超長編ラブストーリーを……」

「途中で寝ていいか?」

 

 彼女が語る超長編ラブストーリーは本当に超長編だった。具体的には十八時から二時まで話し続けていた。

 それから数ヶ月が経ち、カルデアに来る三週間前。

 いつもは起こしに来る彼女が、その日は静かだった。

 朝焼けに包まれた廊下。光の中を歩いて、アリスの部屋の扉を開ける。彼女は寝台の中でゆったりと寝ていた。手頃な椅子を取り、寝台の横に座る。

 

「もう休むのか、婆さん」

「……はい。少し、疲れました」

「そうか。天寿を全うしたってやつだ、誇れ。式は盛大に挙げてやる」

「そうですね……生放送でスーパーチャットでも投げてもらいましょうか」

「じゃあ、その稼ぎは俺のもんだな。安心しろ、有意義に使ってやるよ」

 

 目がうっすらと開き、唇が弧を描いた。

 

「せっかく安心して眠ろうとしていたのに、貴方の金遣いが心配で少し目が覚めました」

「ハッ、99年も生きたくせにとんだ生命力だ。金の使い道については心配すんな、何倍にも増やす方法を知ってる」

「どうせギャンブルでしょう? 増やすなら投資にしておきなさい。FXは人間がやるものではないので手を出してはいけません」

「最近開発した俺のネット魔術ならどうにでもなるがな」

「犯罪ですよ?」

 

 それはいつもと変わらぬ会話だった。

 死は万人に定められた終着だ。特別なことではない。ただ、あるべきところに還るだけだ。

 だから、このやり取りもいつも通り。

 

「手を、握ってくれますか」

 

 手袋を外し、アリスのしわついた左手を自分のそれで握り込む。

 

「……あたたかい、ですね」

「血の巡りを良くしてやったからな。今は、体温も常人と一緒だ」

「そういうことではありませんが、まあ、良いでしょう」

 

 弱々しい指が手を握り返してくる。

 

「ごめんなさい。貴方を、ひとりにしてしまいます」

「もう慣れた。余計なこと考えてないで笑って寝ろ。───俺が見てきた死の中で、おまえは一番美しいから」

 

 殺されるでもなく。

 自分から死を望むでもなく。

 ただ、それを平然と受け容れている姿こそが。

 彼女は笑って、

 

「貴方は、誰かにあたたかさを与えられるようになったのね」

 

 息を、引き取った。

 その二日後、宣言通りに盛大な葬式を挙げてやった。リオのカーニバルにも負けないくらい盛大なやつを。

 その様子を配信していると、相変わらず険しい顔つきのエルメロイⅡ世がやってくる。ラブホテルの解体を頼んできた冴えない男にカメラを押し付け、離れた場所で話した。

 

「良い式だ。品性には欠けるかもしれんが、少なくとも死の寂しさは吹き飛ぶ」

「衣装から何まで俺が考えた。当然だろ」

「ふ、戯言だ。……さて、ノアトゥール。少し世界を救ってみる気はないか?」

 

 それで、何を言わんとしているかが分かった。

 

「カルデア、だったか? 名前は悪くないが、胡散臭さしかねえぞ」

「ああ、そうだろう。だが、最高峰の才能が集まる場所だ。お前に必要なのは知識ではなく刺激だ。高みを目指すなら常識外の経験こそが役に立つ」

「おまえ、自分の生徒にもそんなこと言ってんのか。煙たがられてるだろ」

「黙れ。お前はホテルを爆破解体するアホで、ミストルティンの所有者で、私の見立てだといくつか最悪の奥の手を隠し持っている……以上の理由から、お前をウチで引き取ることはできない。流石に庇い切れる自信がないからな。代わりにカルデアに紹介状を書いた」

 

 封筒を差し出してくる。それを取り、中身を覗いた。例の紹介状の他にはコイン一枚すら入っていなかった。ケチくささがうかがえる。

 

「おい、交通費はどうした?」

「誰が払うか! つべこべ言わず行け! そして二度と戻ってくるな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 婆さんの葬式を終え、デンマークの墓標に花を添えて、俺は南極に飛んだ。

 そこからは、知っての通りだ。

 

〝あのー、辛いことでもあったんですか?〟

 

 ただ、南極という地の果てにもこんなアホがいるのは驚きだった。過去何人ものアホを目撃した俺だからこそ分かるが、所長の手形がついたそいつのアホ面は初対面から天元突破していた。

 まあこいつがアホなのは自分でも知るところなのでどうでもいいだろう。

 あともうひとり、アホといえばあいつだ。

 

〝君は例の新人か。こんな夜中にパンツ一枚でどうした。追い剥ぎにでも遭ったか?〟

 

 キリシュタリア・ヴォーダイム。

 レフ秘蔵の酒を飲み明かして極寒の廊下で震えていたところを助けられたのがこいつだった。

 俺とキリシュタリアは部屋で魔術談義したが、話について来れるやつがいたのはこいつが初めてだった。

 

〝なるほど、アルス・ノヴァ。全人類の根源への到達を掲げた、人類の不平等の解消。それが君の理想か〟

〝ああ、方法は違えどやりたいことはおまえと同じだ。仲良くできそうじゃねえか〟

〝ふ、そうだな。……実は私からひとつ提案があるのだが〟

〝なんだ?〟

 

 キリシュタリアはブラウン管テレビと古臭いゲーム機をどこからともなく用意して、興奮した顔で言った。

 

〝マ○カーをしよう……!! 友誼を深めるにはこれが一番だと聞いた。カドックを誘ってもゲテモノを見る目で断られてしまってな〟

〝オイオイ、俺とマリ○ーで勝負だと? バナナで永遠に滑り続けて泣かれても俺は慰めねえぞ?〟

〝君こそ飲酒運転でいつものハンドル捌きができるとは思わないことだ。さあ、行くぞ!!〟

〝〝ヒアウィゴォォォォォ!!!〟〟

 

 夜が明けるまでマリカ○で勝負した。どちらが多く一位を取れるかの勝負だったが、途中で寝落ちしたので決着は未だついていない。

 だが、その時はキリシュタリアにはあって俺にはないモノがあった。それは人を率いた経験だ。ひとりで熟してきたからこそ、それしかしなかったからこそ、俺はヤツに訊く必要があった。

 

〝……どうすればおまえみたいに部下を護れる?〟

〝……驚いたな、そんな言葉が飛び出すとは〟

 

 その話を最後にレフの爆弾が起動し、人理修復の旅が始まった。

 キリシュタリアは言った。

 その才能は誰かのために使え、と。

 ならばやることは単純だ。

 俺の人類史最強最大の才覚をもって。

 ユリとリッカと同じ国に住んでいた、ただの人間で、アホで、バカで、マヌケで、巻き込まれただけの一般人なのに、それでも逃げることを選ばなかった────

 

「────おまえのために、力を使うことにした。話は、終わりだ」

 

 そうして、長い長い話は終わった。

 色々とツッコミたいところはあったけど、私は黙ってその話を聞いていた。

 慰めの言葉は要らない。もう、この人は全部を乗り越えてから私に出会っているから。

 ずきずき、と胸が焼けるみたいに痛む。

 心臓を矢に刺されたせいじゃない。

 ずっと隠してた気持ちが外に出たがっている。

 ───おまえのために、なんて。そんなこと、もっと前から言ってくれればよかったのに。本当に、性格が悪い。

 私だけがこんなに焦がれていることが悔しくて、癪だったから、少しは思い知らせてやることにした。

 彼の背中に腕を回して、抱き着いた。きっと、この距離なら胸の鼓動も伝わるはずだから。

 

「……今は、寒くないんですか」

「さあな。とりあえず今、おまえのせいで暑苦しいのは確かだが」

「ひとりは、寂しいですよね」

「……」

 

 彼は答えなかったけど、それは返事をする必要がないからだ。分かりきった質問なのだから、答えを返す必要なんてない。

 この人にとって、私はまだ部下で弟子でしかないのかもしれない。

 

「私は、絶対にいなくなりません」

 

 だから、もっと。

 

「これから寒い時なんてありません」

 

 もっともっと、特別にならないと。

 

「───ずっと、私があたためてあげます」

 

 その、碧い瞳を真っ直ぐ見据えて、言い切った。

 

「なに言ってんだアホ。冗談はやめろ」

「冗談じゃないです。私が本気だってこと、その、分かってください」

「……とりあえず離せ、藤丸」

「…………藤丸、じゃ分かりません。私のお父さんもお母さんもお兄ちゃんも藤丸ですから」

 

 彼は顔をしかめて、小さく舌打ちする。

 二十秒くらい悩み苦しんで、忌々しげに言った。

 

「───チッ。立香、離せ」

「嫌です」

「ふざけんな! そこは離す流れだろ!!」

「じゃあリーダーから離れたらいいじゃないですか。私は引きずられてでもしがみつきますけど」

 

 そう言うと、彼は黙り込んだ。

 …………うん。この手は、これからも使える。

 そう目論んだ瞬間、部屋を仕切っていた障子が音を立てて崩れた。そこからなだれ込んでくるのはEチームのみんなだった。

 

「そ、そそそこまでの接触はもう一押しでR-18です! 禁止です! 青少年健全育成条例に従って離れてください!!」

「え、なに? もしかして脳破壊されてます? このなすび」

「盗み聞きは騎士らしくねえが、まあノアの普段の悪行からしてノーカンだろ」

「ええ、こうして良い光景も見れたことですし。いやまあ視界が潤んで何も見えないんですけど」

フォフォウ(涙拭けよ)

 

 良いところだったのに、邪魔されてしまった。

 私は渋々離れようとして、

 

「きゃっ……!?」

 

 肩を掴まれて、引き戻された。

 耳元で低い声が囁かれる。

 

「今日のところは、俺の負けだ。だから」

 

 ───こいつの言葉に偽りがないのだとしたら。嘘がないと思ったから。

 

「もう、手放さない」

 

 その一言だけを、こいつに告げた。

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