自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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有珠の声が有珠すぎてびっくりしました。マイ天使と草の字の関係が発展することを祈って続編を待機したいと思います。


第70話 獣性へと誘う聖娼

 ゴルゴーンの侵攻を防いだ三日後。

 Eチームは北壁からウルクに戻り、しばしの休息を取っていた。立て続けに任務を背負わせたことに対する、ギルガメッシュの補償である。カルデアの休みは単発で最高レアを引く確率でしか発生しないため、またしても両者の差が露呈した結果となった。

 しかし、ゴルゴーンの再侵攻は明白。いつか必ず来る脅威を前に、惰眠を貪ることはできない。いつもは野性的な生活を送っているフォウくんですら、マーリンを働かせるために……もとい、嫌がらせとして彼の尻をしばき続けている。

 何しろ最後の特異点、魔術王の本命と考えれば準備はいくらしてもし足りない。バックアップを担当するカルデアの職員たちも気合いが入るというものだ。ノアの霊薬によって精神崩壊状態にあるムニエルも、パンツと靴下に加えて手袋を装着する意気込みだ。

 早朝。Eチームはギルガメッシュから呼び出しを受け、王殿に謁見することとなっていた。

 ウルクの朝は早い。というよりも、古代人の朝は早い。空が薄暗がりの今も、市民たちによる雑踏が奏でられている。

 だが、今朝の音色はいささか変わっていた。

 ウルクの正門。都市の流通を支える大動脈。Eチームの仮宿はいつでも追い出せるように、とギルガメッシュの計らいによって門のほど近くに割り当てられている。

 身なりを整えたEチーム一行が家から出ると、正門は人でごった返していた。

 その様はまさに渋滞。本来、円滑な交通を旨とするこの場所が栓をされていることは、完璧なウルクにおいては異様とさえ言えよう。

 ノアは不機嫌そうに目元を歪める。

 

「こんな朝っぱらから騒がしくしてんじゃねえ!! ケツからヤドリギ突っ込んで顔面の穴という穴から飛び出させてやろうか!? ああん!!?」

「いや、お前の方がうるせえ」

「それに表現がグリム童話くらい残酷ですわ」

「地獄では自殺者が樹木となってハーピーに啄まれてましたが……思い出して今朝のパンが逆流しそうです」

 

 うぷ、とダンテは胸元と口元に手を置いた。

 朝からアホどものやり取りを見せつけられたマシュとジャンヌ。もはや慣れに慣れすぎた光景。二人は感慨もなく人混みに目を向ける。

 ちなみに、低血圧の極み乙女と化した立香は目を半開きにした状態で立ち尽くしていた。〝泳ぎが速くて体も大きい上に食べても美味しいマグロって最強なのでは〟などと食い意地の張ったことを呟いている。

 マシュは眉を曇らせて背伸びした。

 

「何やらただごとではないようです。今日はネンバトの新弾発売日でもないはずですが」

「すぐ思考を商売に繋げるのやめてくれます? ここで野次馬しててもどうにもならないし、さっさと金ピカ王のとこ行くわよ」

 

 ジャンヌは気だるげにあくびをした。釈然としない疑問を抱えつつ、Eチームが踵を返そうとしたその時。

 

「ノア殿! ちょうど良いところに!」

 

 少女の快活な声。色々ときわどい格好をした平安武者娘が人混みを掻き分けてくる。

 彼女はひとりの女性を背負っていた。傷だらけながらも、どことなく人間離れした空気を感じさせる姿。エキゾチックな衣装を纏うその人は、若干名に見覚えがある者だった。

 眠たげな眼をしていたジャンヌは少し後退り、ぎょっと顔色を変える。

 

「ケツァル・コアトル!? なんてやつ連れてきてんのよアンタは!?」

 

 アステカ神話第二の太陽、ケツァル・コアトル。

 牛若丸の背で眠りこけているそれはまさしく、ウル市で怪獣大決戦を繰り広げた神霊である。そんなトンデモサーヴァントを連れてきた牛若丸はからりと笑った。

 

「いやあ、ギルガメッシュ王の指令でエリドゥの偵察をしていたら、クレーターの中心で倒れる彼女を発見しまして。首を落とそうとも思ったのですが、それよりは魔術契約で雁字搦めにした方が都合が良いと判断致しました!」

 

 可愛らしい顔で殺伐としたことを言う源氏武士。Eチーム一同は彼女の背後に平氏の怨霊たちを見た気がした。怨嗟の声を幻聴したノアは意地汚い笑みを浮かべる。

 

「良い判断だ牛若丸。そいつを改造してゴルゴーン撃滅の尖兵にするぞ」

「『うん、古の悪役ムーブやめよっかノアくん』」

「正義の名のもとには全てが許されんだよ。獅子王だってそうだっただろうが」

「正義は麻酔のようなものですからねえ。どんなに残虐な行為も無痛無感で成し遂げさせる魔力を秘めているのです」

「リーダーは誰がどう見ても邪悪ですけどね」

 

 マシュの辛辣な一言はノアに僅かな影響も与えなかった。どうして人の心を持たぬ者に人の言葉が通じるというのか。

 これまで後ろで控えていたリースはむむむと唸る。

 

「これは一大事ですわね。お姉様が来るそうなので、ケツァル・コアトルさんの治療にかかりましょう」

「……それは良いけど、なんでエレインが来るって分かるのよ」

「湖の乙女テレパシーですわ」

「湖の乙女って付けとけば全ての理屈を吹っ飛ばせるとでも思ってるんですかァ!?」

 

 湖の乙女姉妹は同一存在であるが故に思考や感覚、果ては経験をも共有できる。その機能を用いてエレインに連絡を行ったのだろう。それを言わないのがリースのリースたる所以ではあるが。

 一行はケツァル・コアトルを家の寝台に運び込むと、即座に治療に入った。執刀医はノア、助手兼ブレーキ役はロマンである。

 少しでもノアから目を離せば魔術で悪辣な縛りを掛けかねない状況。ロマンがキリキリと胃を痛ませる現場を、他の人間は眺めることしかできなかった。

 その間、立香はようやく意識を覚醒させきった。目の前で繰り広げられる医療現場。彼女は数学のテスト問題に直面した時のように目頭を寄せる。

 

「……なにこの状況?」

「お目覚めですか、先輩。いまはリーダーがケツァル・コアトルさんの治療をしています」

「それ大丈夫? 気付いたらサイボーグになってたりしない?」

「デウス・エクス・マキナというやつね。……かっこいいネーミングだわ」

 

 ふふふ、と中二心を滾らせるジャンヌ。機械仕掛けの神とはサイボーグを表す意味ではないのだが、ダンテは水を差すことはしなかった。彼は理解ある大人なのだ。

 なんやかんやでルチャ神霊の治療は無事に幕を閉じた。途中、ノアが心臓に鎖を仕込もうとしたり、内臓に刻印を刻もうとしたりなどの波乱はあったが事無きを得たのだった。

 布団に埋もれるケツァル・コアトル。ウル市で見せた快活さはどこへやら、太陽神は落陽を思わせる静けさで、寝息も立てずに眠っている。

 すると、ぱたぱたと足音を響かせながらエレインが駆けつけてくる。杖から伸びる氷のロープの先に、首を縛り付けられたマーリンが引きずられていた。

 

「処置が早くて助かるわ。ノアトゥールは本当に魔術の腕だけはあるのね」

「『あの、エレインさんの下に急患がいるんですが。白目剥いて肌が土気色になってるんですが。急患っていうか遅患なんですが』」

「こいつに必要なのは治療じゃなくて葬式だな。エレシュキガルのところに送ってやれ」

「か……勝手に殺さないでくれ……」

 

 マーリンは息も絶え絶えに言い返した。そも、エレシュキガルもさすがにマーリンは断るだろう。冥界はゴミ箱ではないのだ。

 エレインは牛若丸に向き直る。

 

「それで、エリドゥで彼女を見つけたという話だったけれど」

「はい! 私が着いた頃には既に都市も崩壊していました。行き場を失くしたエリドゥの住民も連れて参りましたが、ウル市民同様我々の力になってもらおうと!」

「……ケツァル・コアトルが負けた、ということかしら。三女神同盟が潰しあったとは考えられないし────」

「犯人はサクラですよ! 間違いないです!!」

 

 立香はずばりと言い切った。

 彼女にしては妥当な推理。ゴルゴーンは神殿に、エレシュキガルは冥界に鎮座する引きこもりである。イシュタルもわざわざ仕留めた獲物を見逃す甘さは持ち合わせていないだろう。

 となれば、余計なことしかしない性格で名を馳せるあの悪魔しかいない訳で。高笑いするサクラを思い浮かべ、一同はしみじみと同意した。

 ノアは立香の頭にぷらぷらと踊るアホ毛を鷲掴みにする。

 

「おい、どうなってんだこの特異点は。ろくな女がいねえぞ」

「リーダー、その手はもしかして私もですか。私もろくでもない女判定ですか」

「画面タップするだけで男になるやつに性別の意識なんてあったのか?」

「どこの世界線の話ですかそれ!? 意味が分からないんですけど!!」

 

 マシュはそれを無表情で眺め、ジャンヌの頭頂に揺れる髪の房を握り込んだ。

 

「……丸焼きにしてほしいの? アホなすび」

「いえ。ただ、わたしにもあんな未来があったかもしれないと思うと。ジャンヌさんこそ恥ずかしがらなくとも良いのですよ?」

「ジャンヌは照れてるのかしら」

「都合の良い女の性ですわ」

「マジでろくな女がいないんですがァ!! この特異点!!」

 

 ジャンヌの全身から炎が生じる。マシュの手に火が燃え移り、彼女はそばの水壺に秒でダイブした。

 辺りに水滴が飛び散る。ペレアスはそれを華麗に躱しつつ、

 

「つうか、エリドゥってオレたちが次行く場所だったよな。サクラはそこまで先読みしてたのか?」

「あの少女のことですし、ケツァル・コアトルさんに報復をしたのでは?」

 

 ただし、とダンテは切り替える。

 

「そう悪いことばかりではないでしょう。彼女もエリドゥ市民も無事で、私たちはマルドゥークの手斧を取りに行くだけなのですから。久々に血を見なくて済むので私としては助かりますねえ」

「ありませんでしたよ、マルドゥークの手斧」

「はい?」

 

 牛若丸のインターセプト。困惑するダンテに彼女は続けて言う。

 

「エリドゥの民にも訊いたのですが、その手斧とやらは忽然と姿を消したみたいで。どこに行っちゃったんでしょうかね?」

 

 手斧の捜索も任務の内だったのに、と牛若丸は肩を落とした。

 マルドゥークの手斧。神殿がある限り不死を誇るゴルゴーンを倒すため、ギルガメッシュが必要としていたモノ。次なる目的でもあるはずのそれが無いとなると、計画の変更は避けられない。

 ダンテは頭を抱えてうずくまる。

 

「おのれサクラ……!! 前言撤回です、アレは私たちにとって不利益しかもたらさない邪悪の化身じゃないですか!!」

「最初からそうだったけどな。ノアとサクラで邪悪vs邪悪の頂上決戦でもやらせるか?」

「寝惚けたこと言ってんじゃねえ、ペレアス。それを言うなら光と闇、正義と悪だろ。もちろんどっちが俺かは決まりきってるがな。言ってみろ下僕(サーヴァント)ども」

「闇だろ」

「悪ですねえ」

 

 生憎とサーヴァント二体の忠誠心はストップ安だった。二元論とは受け取る者によって容易に答えを変える。かくも曖昧な概念なのだ。

 令呪で自害を命じようとするノアとペレアス、ダンテの戦いが勃発する裏で、立香はキツツキ大の脳みそを回転させて喉を唸らせる。

 

「……で、ゴルゴーンはどうやって倒すんですか?」

 

 そんな疑問を漏らした直後。

 彼らの直上より轟音が鳴り響き、宿の二階ごと天井が崩壊する。

 

「それを今から話し合おうというのだ、雑種め!!」

 

 若干の苛立ちを含んだ傲慢な声。

 風通しの良くなった天井から舞い降りたのは案の定ギルガメッシュだった。見るも輝かしき黄金とエメラルドの船の玉座に腰を落ち着けている。その後ろにはいたたまれない面持ちのシドゥリが佇んでいた。

 相変わらず上から目線のギルガメッシュ。血を結晶化したような赤い瞳がじろりとマーリンを睨みつける。

 

「此度の事態、我は全て把握している。サクラとやらの血統書付き雑種がマルドゥークの手斧を消し去ったこともな」

「王よ、雑種に血統書は無いことも無いですが稀です」

「出しゃばるなシドゥリ。───して、マーリンよ。貴様には視えていたはずであろう。なぜ黙っていた」

 

 事と次第によっては処刑すると言わんばかりの眼力。それはこの場の大多数の人間には及びのつかない話題だった。

 頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れになったマシュはタオルでわしゃわしゃと髪を掻きながら問う。

 

「視えていた、とは思わせぶりな言い様ですね。マーリンさんはこの未来が見えていたくせに報告しなかったと?」

 

 それに答えたのはエレインだった。

 

「マーリンの未来視は厳密には未来測定の類よ。現在のあらゆる要素を観測することで未来に起こる事象を予測する……千里眼のひとつの到達点と言えるわ」

「だったら姉さんに封印される時もそれ使えばよかったんじゃないか? ベイリンもあんなことにならなかっただろ」

「ペレアス。マーリンの眼はあくまで未来測定よ。未来そのものを視る力ではないの。たとえ現在の全てを観測したとしても、完璧な予測なんてできない」

 

 リースはこくこくと同意する。

 

「要はラプラスの悪魔ですわ。量子力学にも問題はありますが、完全な未来予測は現代では否定されていますから」

「『おお……リースさんの頭が良さそうに見える……』」

フォウフォフォウ(実際はドアホなのに)……」

 

 説明が進む度にマーリンの冷や汗の量が増していく。

 千里眼とはその名の通り、遠くを見る力だ。これが極まると遠方のみならず未来や過去にまで力が及ぶ。マーリンほどの千里眼となれば、その時々の現在を遺漏無く把握できるだろう。

 現在が分かるなら、高精度で未来を測ることもできる。世界中の投資家が欲して止まないだろう能力だ。花の魔術師の眼にはエリドゥで起きた事象が映っていたはずだ。

 

「そ、それは言ってもどうにもならなかったというか。干渉できないなら何をしても未来は同じだろう? 時には諦めも重要だよね!!」

 

 瞬間、ギルガメッシュの側方より三条の鎖が放たれる。マーリンが逃れる間もなく首と両腕が縛られ、宗教的に意味深すぎる格好で宙吊りになった。

 

「ヒィーッ!! マーリンさんが磔刑に処されました!!」

「本物と違って何も得る感情がないわ」

フォウフォウ(これは不敬罪)

「このまま火刑コースでファイナルアンサーね」

 

 などと辛辣な言葉が投げかけられる。見るからに危うい構図から目を逸らしつつ、シドゥリはギルガメッシュに進言する。

 

「……そろそろ本題に入るべきと愚考いたしますが」

「うむ。サクラには必ず地獄を見せるとして───意見を出せ、貴様ら。天より見下ろす我が慧眼よりも、地を這う貴様らの私見が今は役に立つであろう」

 

 一同は目を合わせる。遠回りな言葉だが、要は手を貸してほしいということである。下々の考えを取り入れてこその賢王なのだ。

 マルドゥークの武器が失われた以上、どうやってゴルゴーンを倒すか。意外にも最初に口を開いたのはジャンヌだった。

 

「ダンテの宝具は? 魂を別次元に飛ばせば神殿から復活なんてできないでしょ」

「それはキツいかと。ヘラクレスさんはしっかり再生しましたから。虹蛇(にじへび)の例もあります」

「へ、蛇……なんでダンテさんの宝具は効かなかったんでしたっけ」

「救いを拒む精神が極度に強すぎると私の宝具は破られるようです。ゴルゴーンからは強い憎悪を感じました。異教の神ということもありますし、そもそも無駄に終わる可能性が高いですねえ」

「アヴェンジャーが天敵ってことですか。ジャンヌに勝てない理由がよく分かりました」

フォウフォウフォフォウ(誰にも勝てないだろコイツ)

 

 神による救済をカタチとした宝具はあらゆる存在に絶大な力を持つ。救いを求める精神は普遍のものだが、ただ復讐にのみ全存在を懸けるアヴェンジャーは数少ない天敵だ。

 人類廃滅を望むゴルゴーンが人の手による救いを許容するとは思えない。限られた切り札を虹蛇の二の舞に費やすことはできない。

 虹蛇を思い出して青褪める立香。その横で、タオルを被ったマシュが手を挙げる。

 

「それでは、エレインさんのれいとうビームで神殿を壊すのはどうでしょう。その後にヤドリギなり何なりで本体を仕留める作戦です」

「最大出力なら可能性はあるけれど……北壁で迎え撃つとなると射程の方が問題よ。攻撃が届くのは異界の端までだから、何とかして神殿を収められる距離に接近しないと」

「そこはお任せを。カルデア最強シールダーことマシュ・キリエライトがお守りします!」

 

 と、マシュは意気込んだ。そのやる気を打ち払うように、ノアは鼻を鳴らす。

 

「現実的じゃねえな。神殿ってのも一種の異界だ。それなりの防御機能は備えてあんだろ。ゴルゴーンとエレインで馬力の出し合いになったら負けるのは決まりきってる」

「『神霊と英霊じゃあ出力差が大きいからね。両者の攻防での勝利に期待するのは難しいだろう』」

「……そうね。ゴルゴーン本体と神殿が無防備にならないと勝てないわ」

 

 行き止まりの気配が近づく。一同が頭を悩ませる中、ノアはダンテに咎めるような視線を送る。

 

「ダンテ、おまえの宝具の地獄バージョンで瞬間冷凍して機能停止させろ」

「あ、無理です。今回書いた詩は神への賛美歌なので天国しか喚び出せません。地獄の方は陰鬱な題材を取り扱わないといけないので、筆が乗らないんですよねえ」

「はあ? 何だその新設定。おまえの書いた詩なんてただのコストだろ。根性で地獄再現しろ。それか新しく書け」

「嫌です! 宝具を使うたびに苦労して書いた作品が塵になっていく私の悲しみも考えてください!! 諸行無常かつ色即是空ですから!!」

「それは仏教徒なんじゃ……?」

 

 牛若丸は訝しんだ。

 毎回、一度の特異点に一作品を用意しているダンテだが、ノアたちのあずかり知らない場所で創作に苦しんでいた。宝具を発動するためとはいえ、詩が無に帰す事実は彼の心に重くのしかかっていたらしい。

 なお、これは本人すらも知らない話だが。ダンテはジャック・ザ・リッパーの呪いで地獄を展開する宝具を得たが、どちらを使うかは実のところ気分の問題である。

 そんなこんなで議論はとうとう行き詰まる。立香は思考回路をぷすぷすとショートさせながら、ぼんやりと呟いた。

 

「そういえば、リーダーの昔話で言ってましたよね」

 

 ノアの碧色の瞳が立香に向く。それは判然としない疑問の意を宿している。

 

「ヤドリギは幼いから契約を逃れた。それならまだ成長の余地がある……そう、育ったヤドリギならゴルゴーンも倒せそうじゃないですか!?」

「『立香ちゃんらしいユニークな考えだね。どうかな、ノアくん』」

「さあな、子どもの思いつきだろ。興味はあるがそれに賭けるほどの価値はない」

 

 立香の提案は一刀で斬り伏せられた。

 唯一、バルドルへの弑逆を果たしたヤドリギ。幼いが故に世界との契約から外れたというのなら、その若枝にはまだ育つ余地がある───それは妥当な判断かもしれない。

 ただ、ヤドリギを成長させる方法と育ち切った後の姿は、現状最後の継承者であるノアにすら分からない。曖昧なものを計算に入れた作戦など愚の骨頂だ。

 しかし。

 ギルガメッシュは紅き瞳を仄かに拡げ。

 しんとした部屋の中に大笑を響かせた。

 王の異様な振る舞いに、ノアたちは言葉を失う。

 それに如何な意味があるのか、知る者はただひとりだった。けれど、その者は語る口を持たず。王は声をくぐもらせながら、口角を上げる。

 

「ク───稚児の発想とは時に賢者をも驚かせるものよな。面白い。我が蔵にも無き神殺しのヤドリギ……その真なる形に興味が湧いた」

「ハッ、国のトップがガキに踊らされてどうする。人類最古のエナドリキメすぎて思考回路ぶっ飛んでんのか?」

「む? できぬのか? あれほど天才と宣った男は口先だけだったと? ああよい、逃げるならそれでも構わぬ。道化ならば道化らしく嗤われた挙句に逃げ帰るのが仕事であろうからな。天才(笑)」

「オイオイオイ、誰ができねえなんて言った!? おまえは精々ふんぞり返ってろ、俺の才能を見せてやる!!」

 

 そう啖呵を切ると、ノアはギルガメッシュの王殿の方向へ走り去っていく。どうやら王のお膝元にある研究室を使うらしい。

 その背中を見送ると、立香は言いづらそうに切り出した。

 

「……あ、あともう一個案があったんですけど」

「発言を許す。申してみよ」

 

 ギルガメッシュに促され、腰のポーチから大粒の宝石を取り出す。

 深い青を秘めた瑠璃。それはイシュタルから貰い受けたラピスラズリだった。立香は手のひらの上の石を見つめながら、

 

「これに念じれば、一回だけイシュタルさんが助けてくれるって言ってました。あの金星パワーならゴルゴーンの神殿だって、きっとイチコロ───」

 

 そこでギルガメッシュに視線を移したと同時、立香は後悔する。

 黄金の船でふんぞり返るギルガメッシュ。その表情が見たことのないモノに変わっていた。

 喩えるなら、この世の苦味という苦味を味わったかのような破滅的な相貌。顔面の各所に彫り込まれたシワが王の美貌を数十年は老けさせている。

 数秒を経て、ギルガメッシュはぷいと顔を背ける。その様子はまるで拗ねた子どものようだった。

 

「……………………我は知らぬ」

「え?」

「我は知らぬと言ったのだ。貴様がイシュタルに頼る分には見逃そう。貴様が! イシュタルに! 頼る分にはな!! つまりそれは我の預かり知らぬ処で起きたことに過ぎぬ!!」

 

 意味不明なうわ言を繰り返すギルガメッシュ。生温かい目がそこかしこから向けられる中、王宮のギルガメッシュ係であるシドゥリが翻訳を行う。

 

「王はこう仰られています。イシュタルの力を借りるのは腸が煮えくり返るほど気に入らないが、やるなら自分の見てないところで勝手にしろ……と」

 

 どうやらかなり捻くれたことを言っていた。

 ゴルゴーン討伐にイシュタルの助力を乞う。ギルガメッシュの王たるプライドがジェンガの如く大崩壊する事件に他ならない。

 しかし、立香たちが勝手に加勢を取り付けたとなれば、それはギルガメッシュの手から離れたこと。頼ったのはあくまで立香たちである。

 つまりは、王にあるまじき責任の押し付けであった。

 立香は半笑いで提案する。

 

「え、えーと。じゃあ、ウルクの外でイシュタルさんを呼んでみますね」

「おおっと、急に耳が遠くなった。寄る年波は高く冷たいな。何を言っているか分からぬが、我は寛大である。そうしたいなら止めはせぬ。何をするつもりかは知らぬがな」

「シドゥリさん! 翻訳お願いします!」

「さっさと行け、だと思われます」

 

 ちらり、と王に視界を戻す。鋭く切り開かれた眼光が、立香に向かって退去の命令を下していた。しかも老人が少女に対して。目は口ほどに物を言うとは言うが、もはやテレパシーの域に達する念の強さだ。

 立香はいつの間にか室内に現れる黒いアレのように、カサカサと後ろ歩きで宿から出ていく。背を見せることを恐れた生物的な本能である。

 睨みで幻の地震を引き起こす眼力。恐れをなしたマシュたちも立香に続いて退出していく。

 残されたのは天に召されたマーリンと無表情のエレインのみ。しかし昇天を果たしていなかったマーリンは、枯れた声で王へ問うた。

 

「……ご、ゴルゴーンはいつ再侵攻するのかな?」

「七日後だ。貴様には視えなかったのか? 脳みそ花びら半淫魔」

「え? なに? 前回から私の蔑称増やそうとしてないかい? 世界の意思か、これは!!?」

「御託はよい。───なぜ予測がつかなかった。答えよ、マーリン」

 

 花の魔術師はかすかに眦を上げる。

 

「三日前からゴルゴーン周辺の現在が視えなくなった。視線避けの魔術で未来視を防がれている。相手は相当の魔術師だね」

「解呪はできないのですか? エレイン様の魔術の師匠と聞きましたが」

「魔術は魔術でも、教わったのは幻術だけよ。噛み噛みの詠唱なんて参考にもならなかったわ」

「滑舌ばっかりはどうにもね。ところで、王よ。私からもひとつ訊かせていただきたい」

 

 ギルガメッシュは眉をひそめる。マーリンはそれを許可の合図と受け取り、王を質す。

 

「───先程視られた未来は、どのような光景だったのです?」

 

 王は僅かに唇の端を吊り上げ、

 

「……女神との戦いの、終着だ」

 

 確信めいた声音で、言い切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク市の外に広がる平原。

 空は雲ひとつない快晴で、風も優しい。三女神同盟との戦争中でなければ、絶好のピクニック日和である。

 が、平原の中心に集いし五人の少女たちはそんな気楽な考えを持ち合わせてはいなかった。

 その錚々たるメンバーは人類史有数。Eチーム三人娘と、道端にいたところを強制連行された謎の少女アナ、なんか面白そうだから着いてきた牛若丸。以上がイシュタルに相対する勇士だ。

 かの金星の女神によると、ラピスラズリに念じれば飛んでくるとのことだったのだが。

 

「…………来ないわね」

 

 ジャンヌはうんざりと肩を竦める。

 彼女たちが待つこと二十分、イシュタルは未だに現れなかった。アナは死んだ魚めいた目でため息をつき、くるりと踵を返す。

 

「帰ります」

「おっと、そうはさせませんよアナさん。もし帰るなら、『絶海のアルゴノーツ 〜ギリシャのイカれたメンバーを紹介するぜ〜』パックの発売を前倒しすることになりますが……?」

「くっ……!! はっきり言ってクソみたいなネーミングなのに、本当にイカれたメンバー揃いだから否定できない……!!」

「発売前倒しよりそっちの方が気になるんですか!?」

 

 立香は思わずツッコんだ。

 ギリシャ神話界のアベンジャーズことアルゴー船の面子だが、ひとりひとりが主人公になれる器を持っているため、当然船員たちは個性の極みが揃い踏む。

 既にウルク市民に告知された新弾は〝ヘラクレスのバージョン違い多すぎだろ〟、〝イアソンって誰?〟、〝ポルクスちゃんかわいい〟などという意見が見受けられるようになっていた。

 そんなネンバト事情はさて置いて。

 ここに集いし五人の少女たちはみな、程度の差こそあれど我慢強い性格ではなかった。牛若丸は戦となれば風雨の中で何時間でも待ち続けられるだろうが。

 兄上を盲信する源氏少女は腕を組んで首を傾ける。

 

「ここまで遅いとなると、呼び方が間違っているかもしれませんね」

「確かに。かくなる上はみんなで輪になって名前を呼んでみるしか……」

「先輩、それはUFO召喚の儀式です。真夏のオカルト特番です」

「なんだかんだで見ちゃうよね、アレ」

「話が逸れまくってるのですが?」

 

 言いながら、アナは鎌の柄を使って地面に落書きをしていた。このまま放置すれば平原一面に巨大アートが刻まれてしまうだろう。

 牛若丸はどこからともなく極彩色の鞠を取り出した。サッカー選手顔負けのリフティングを披露すると、ふわりとした軌道のパスを立香に与える。

 

「わっ!?」

 

 咄嗟に足を伸ばして鞠を受け止める。

 

「やりますね、立香殿! 未来の日の本でも蹴鞠は廃れていないと見ました!」

「あ、あはは……」

 

 微妙に答えづらい言葉だった。現代で球を蹴るスポーツといえばサッカーである。絶滅危惧種レベルにまで下がった蹴鞠の現状を伝えるのは気が引けた。

 足の甲で揺れるボールをキープする。ふと面を上げると、まるで仁王像の如き出で立ちで佇むマシュが視界に飛び込んでくる。

 

「こちらです、先輩。気合の入った熱いサーブをわたしにください。さあ!」

「私のポジションはセッターだったんで……」

「それではわたしが打ちます。ジャンヌさんに」

「おい」

 

 こつん、と旗の穂先がマシュの頭をつつく。しかしそこはシールダー。その頑丈さを活かしたガッツで耐え切り、牛若丸と立香の蹴鞠に飛び込んだ。

 ジャンヌは日に日に増していくマシュの図太さに内心冷え冷えとしながら、アナの隣にしゃがみこむ。

 とりとめなく走る線。アナという少女の迷いをそのまま出力したかのような紋様。ジャンヌは旗の先を用いて、その横に思い思いの綾を重ねていく。

 言葉もなく、線を刻むだけのやり取り。

 ジャンヌは地面だけを見つめ、呟くように言う。

 

「アンタ。朝どこ行ってたわけ?」

 

 アナはがりがりと柄を走らせながら、

 

「普通に寝てました」

「……ああそう。羨ましいご身分ね」

「そう褒められると困ります。それで、いきなり何ですか。私の体が目当てですか。ケダモノですか」

「焼くぞ。───アンタの真名、知ってるって言ったら驚く?」

 

 がっ、と土を削っていた柄が止まる。

 二人の間に沈黙が流れる。蹴鞠に興じる立香たちの声がどこか遠く聞こえた。

 アナはジャンヌの何食わぬ横顔を凝視する。

 

「…………そ、そそそんそそそんそそそそそそそん」

「何で三三七拍子!!?」

 

 顔面を変な汗まみれにするアナ。がくがくと全身を振動させつつ、半ば独り言のように訊く。

 

「い、いつですか。一体いつバレ……」

「いや、ウルで戦った時に宝具使ってたし。なんちゃらメドゥーサとかいう」

「聞こえてたんですか!?」

「そりゃあそうでしょ。サクラの羽根斬った時は近くにいたんだから」

 

 まあ、とジャンヌは翻す。

 

「私はアホ白髪とかなすびとは違って言い降らしたりしないわ。ゴルゴーンと因縁があるんでしょう」

「……ありがとうございます」

「まあね。これは貸しよ。今までのナメた態度も改めなさい」

「努力はします。いちおう。……それにしても」

 

 すると、アナは鎌を放り捨てて頭を抱えた。

 

「ぐ、ぐぎぎ…っ! そんな雑な真名バレがあるなんて……!! 小説とはあくまで書いてあることが全てで、描写していない出来事を根拠にしてはいけな────」

「やめなさい!! この世界の根幹に触れすぎてるわ!!!」

 

 ジャンヌはこの世界の真理が漏洩することを止めるため、アナの首に腕を回して絞め落とした。一瞬で意識だけを奪う華麗な荒業である。

 その間にも蹴鞠は白熱しており。

 時に、蹴鞠には色々と複雑なルールが存在する。貴族のスポーツ故に作法にも厳しい。右足のみで蹴ることから始まり、膝を曲げてはいけない、上半身は動かさない、果ては難しいボールが来ても顔に出してはいけない等々、貴族たちはややこしいルールに縛られていたのだ。

 鞠を蹴る高さにも制限があり、目印となる木よりも上に蹴らなければならない。マシュは地面に盾を突き立てて、代わりの目安としていた。

 

「おらぁーっ!!」

 

 人型なすびによる渾身の一撃が鞠に突き刺さる。

 それは目にも留まらぬ速さでぐんぐんと高度を上げていった。さながら宇宙へと打ち上がるロケットだ。立香はそれを目で追おうと首をそらす。

 すると、

 

「ンギャーッ!!」

 

 上空で汚らしい叫び声があがった。

 どさりと墜落する人影。それは今までに二度遭遇した金星の女神だった。彼女の顔面の中心にはちょうど赤い円形の跡が浮かんでいる。

 立香は目を丸くして、

 

「イシュタルさん! やっと来てくれたんですね!」

「その前に言うことがあるでしょうが!!」

 

 涙目で鼻頭を押さえながら、イシュタルは叫ぶ。マシュはそそくさと頭を下げた。

 

「す、すみません! まさか上空にイシュタルさんがいるとは思わず……」

「まったくだわ! 私を呼んだのだから、それなりの供物と劇団を用意して待つってものでしょうが!! なに呑気に鞠蹴ってるのよ!?」

「いやあ、遅いのでつい。まさか空の上で見てたのですか?」

 

 牛若丸が何気なく訊くと、イシュタルは即座に面を伏せる。

 

「た……楽しんでるとこに入るのは気が引けたのよ……!!」

 

 かあっと顔を赤くするイシュタル。傲慢なこの女神にそんな感情があったとは驚きだった。

 その意外な姿に立香は背筋が粟立つ気分になる。

 

「……マシュ。リーダーのドS趣味がちょっと理解できたかもしれない」

「ふふふ、わたしは既に到達していましたよ。ジャンヌさんと同じ感じです」

「おお、倒錯した趣味ですね。源氏にも平氏にもたくさんいましたよ」

「倒錯具合で言ったら牛若丸さんも大概な気が……」

「いえ、私は至ってノーマルです。立香殿。兄上のためなら自分で自分の心臓を食べる芸くらいしかできないので」

「素晴らしいですね。わたしも先輩のためにその境地に達したいです」

「絶対にやめて!!?」

 

 イシュタルはこの間に平常心を取り戻す。

 この人間たちとまともに話していたら、自分の方が持っていかれる。排水口に指を突っ込むようなものだ。

 気を取り直して、肩に掛かった髪の毛を手で払う。

 

「それで、呼び出したってことは私の力が必要なんでしょう? 大体、見当はつくけれど」

 

 立香は強く頷く。

 

「イシュタルさんの力で、ゴルゴーンの神殿を爆破してもらおうかなって。あの宝具なら一撃ですよね!」

「うん。それ、やめておいた方がいいかも」

「どうしてですか?」

「その説明をする前に今の私の状況を理解する必要があるのだわ。少し長くなるわよ」

「できるだけ手短にお願いします!」

 

 イシュタルは苦い顔で語り出す。

 サクラのE=mc²ビームで神殿から焼き出されたイシュタルはウル市での一戦の後、各地を転々とする放浪生活を送っていた。

 その時点でサクラを殺すことは決定しているようなものだが、あろうことかあの偽神はイシュタルが行く先々に現れたのである。

 

〝あら、奇遇ですね。こんなところで寝てたら風邪ひいちゃいますよ?〟

〝今日の夕飯は……うわっ。ひもじいですねぇ……こっちの駄猫の方が良いもの食べてるとか、割と引きます〟

〝んん〜、いい音、いい匂い♡……は? なに見てきてるんですか。このお肉は私のものです。土下座したら骨くらいは分けてもいいですけど〟

 

 などと、マウントを取り煽り散らかすついでに命を狙いに来ていたのだった。

 サクラにはどれほど攻撃しても意味がない。黒白の少女は弱りきった獲物を弄ぶ猫のように、イシュタルを追いかけ回している。

 今日、ここに来るのが遅れたことも、朝食のマウント合戦から逃げるのに戸惑ったからとのこと。イシュタルは血涙を流す勢いで、ぎぎぎと歯を食いしばった。

 

「昨夜なんて、私の目の前で焼肉始めて香りのついた煙を煽ってきたのよ!? あの調子乗ったツラを原形がなくなるまでへこませてやりたいわ……!!!」

 

 握り締めた拳はわなわなと震えている。

 思ったよりも深刻な事情。立香たちはイシュタルにかけるべき言葉が見つからなかった。

 立香はいつの間にか気絶していたアナを除いた三人に呼びかける。

 

「とりあえずみんな、隠し持ってるお菓子をイシュタルさんに恵んであげて」

「私は酢昆布しか……」

「のど飴しかないわ」

「わたしは…………盾の中を見てみても何もないですね。くっ、後輩としたことが不甲斐ないです」

「その間は隠した間だよね。わざとらしすぎるよね。卑しさが溢れ出してるよね」

 

 立香は盾の中をまさぐるマシュをじとりと見つめる。自分の卑しさを棚上げした発言だった。

 イシュタルは酢昆布とのど飴、立香がポケットに忍ばせていたチョコレートを供物として受け取る。

 ころころと飴を口の中で転がしながら、

 

「そういう訳だから、私が行ったらサクラも呼ぶことになるわ。本当は今こうしてるのも危ないんだから」

「結局、無駄足だったってこと。また考え直しじゃない」

「そう急がない。要は、ゴルゴーンの神殿をぶっ壊したいんでしょう。これあげるから頑張りなさい」

 

 と言って、イシュタルは右手を後ろに回す。引き抜くように手を前に出すと、その五指は鈍く輝く鉄の剣を握っていた。

 立香たちは息を呑む。

 そこに在る。ただそれだけで空間を割く、鋭き神気。一個の鉄塊を削り、剣の形に成型したかのような無骨な一振り。反面、溢れる魔力は山林の清流の如くに澄んでいる。

 この剣を知っている。

 星の怒りたる八つ首の竜が宿せし神剣。

 その真名は──────

 

「───天叢雲剣!? どうしてこんなものが!!?」

 

 その言葉を発したのは牛若丸だった。

 イシュタルはさらりと述べる。

 

「ああ、なんかサクラの脇腹に刺さってたから引っこ抜いたわ」

「普通気付きません!?」

「普通じゃないのよ、アレは。こんなのが刺さってても生きていられるどころか、剣が刺さってる事実すら忘れるんだから」

「ただ単にアホという可能性もありますね」

 

 マシュは辛辣に言った。たとえ死なず、痛みがないとしても異物感くらいはあったはず。サクラはそんなものを得る感覚さえも切り捨てているのだろう。

 つるりとした鉄の刃。牛若丸はケースに展示された宝石を眺める子どものように、瞳を輝かせてその剣に視界を食い入らせていた。

 ジャンヌは牛若丸に生温かい視線を注ぐ。

 

「……その剣の名前、知ってたの。見たことでもあるのかしら」

「はい、壇ノ浦で一瞬だけ! まああれは形代だったので、これほど強い魔力も気配も感じませんでした」

「形代?」

「神霊の力が依り憑いたモノ───つまりは依り代です。この剣の場合は、本物の力を依り代に転写した模造品ということになります」

 

 なるほど、とジャンヌは頷いた。

 壇ノ浦の戦いで沈んだ三種の神器。勾玉と鏡は牛若丸───源義経の軍と協力者たちによる必死の捜索で回収されたが、宝剣だけは発見されることはなかった。

 だが、それは真の宝剣ではなく、そのコピーである形代だったのだ。ちなみに、現代では熱田神宮に本体が安置されている。信長が桶狭間出陣の際に祈願をしたことでも知られた場所でもある。

 牛若丸とは対称的にイシュタルは興味のない風を装っていた。

 

「ふうん。確かにとんでもない神力が篭ってるわ。それならゴルゴーンの神殿もぶった斬れるんじゃない?」

 

 立香たちは首肯する。イシュタルは続けて、

 

「問題は誰が振るうかだけど……ま、貴女で良いでしょ」

 

 剣を軽く投げ渡す。それを掬ったのは牛若丸だった。彼女は笑っているような泣いているような顔で、Eチーム三人娘に振り向いた。

 

「私でよろしいのでしょうか!? 壇ノ浦で沈めた時は兄上に熱烈な説教をくらったのですが!!」

「本物が無事なら大丈夫だと思います! それとも他に何か気になることでも?」

「ええ、三種の神器を見た人間は祟りに触れて死んでしまうとか……」

「…………私たちは死んでないのでセーフです! ほら、水を飲んだ人は絶対に死ぬとかそういう屁理屈ですよきっと!!」

 

 その時、彼女たちは聞いた。

 

 

 

〝───別にいんじゃね? 儂の若い頃のやらかしに比べたらかわいいもんじゃろ〟

〝ああ、彼女ほどの武士なら扱うには十分だろう。君と比べること自体彼女に失礼だと思うが。高天原でやった『馬生皮剥ぎうんこぶちまけ事件』は伝説だからな〟

〝え、なにその名前!? 初耳なんじゃが! 人の黒歴史に名前つけて何千年も語るとか酷くね!!?〟

〝柄をしっかりと握って真名を唱えれば神剣を使える。草薙剣でも天叢雲剣でも構わないぞ〟

〝無視? 無視とかやめてくんない?〟

 

 

 

 …………余りにも覚えがありすぎる、神々の戯言を。

 場が静まり返る。神託というには低俗な、うんざりするような言葉の羅列。それで、彼らを知るEチーム三人娘は確信した。

 ───間違いなく本人だ。

 フレーメン反応を起こした猫みたいな表情をする牛若丸とイシュタル。金星の女神は口角をひくつかせて一言。

 

「貴女の国の神って、大分アレなのね」

 

 立香は後頭部を手で掻きながら、あのアホ神たちに代わって答える。

 

「お恥ずかしい限りで……」

 

 なぜあんなのの代わりに謝らなくてはいけないのか。

 ゴルゴーン討伐の希望と引き換えに、彼女の胸中は釈然としない気持ちに包まれていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな訳で。

 人間には必ず気分の浮き沈みというものがある。

 そういった時には憂さ晴らしが必要だ。沈んだままの心はいつか溺れるのだから。理想に溺れずとも人は誰でも溺死するのだ。

 憂さ晴らしの方法は人それぞれだ。ガチャでお金を溶かすことだったり、人目を憚らぬ暴飲暴食に励むことだったりと千差万別十人十色である。

 では、藤丸立香の場合はと言うと。

 ───人類最後のマスターはギルガメッシュの王殿を忍び足で歩いていた。

 イシュタルに天叢雲剣を賜り、牛若丸が振るうこととなった。その報告をしたついでに───というよりはこちらが本命───研究に勤しむノアにちょっかいを出してやろうと考えたのだ。

 そう、これはいつもの悪行への仕返しであって、別に乙女心が先走った結果とかアンダーハートに突き動かされた訳でもない。

 何かと念話で身にならないアドバイスをしてくるドスケベ精霊リースも、フォウくんに見張らせることで封殺する完璧な計画。立香に隙という隙は断じて存在しなかった。

 王宮の敷地内に設けられた学術研究所。そこは詩文から天文までありとあらゆる学問を取り扱う、ウルクの全知が集合する場所だ。

 その分だけあって広大な施設だが、そこは人の心にも敏感な古代のキャリアウーマン・シドゥリの口添えによって、ノアの場所は知らされていた。

 これはサプライズ。襲来を知られては効果はいまいち。決して気取られぬように、立香はノアに与えられた研究室ににじり寄る。

 次第に部屋の音が廊下に漏れ聞こえる。ノアとロマンが何か話しているようだ。

 そろりそろりと抜き足差し足で近づく。不明瞭だった声が鮮明になり、立香の耳は音を捉えた。

 

「『それじゃあ……ノアくん、脱いでくれ』」

「───は?」

 

 少女の瞳孔が拡大する。

 そして、思考は宇宙へ翔んだ。

 

「『いつも見てるけど、良い体してるよね』」

(いつも見てる……!?)

「まあな。ヒョロガリの魔術師なんて時代遅れだろ。俺の肉体美に酔い痴れろ」

(それは興味がな……くはない!!)

 

 鼻の奥からどろりとしたものが流れる感覚。

 音を聞くことに先鋭化した立香はそれにさえ気付いていなかった。

 ノアはからかうような口調で告げる。

 

「じゃあ、下も脱」

「それ以上はいけない───!!!」

 

 藤丸立香決死の阻止。ビーチフラッグを思わせるダイビングで研究室に滑り込む。

 視界を埋め尽くす肉体。柔らかな新雪の肌。それを下から盛り上げる筋肉は豊かながらも、しっかりと引き締まり凝縮されている。さらに、これら全ての土台となる骨格の強靭さをも感じさせた。

 それを見たのは初めてではない。蘆屋道満のなんちゃって聖杯くん事件の際に水着姿を目撃している。

 だが、シチュエーションは月とスッポンほど差があって。

 

「おわァァーーッ!!」

 

 宇宙へと翔んだ脳みそが地球に帰還し、立香は絶叫したのだった。

 数分後。上着を纏ったノアと鼻にちり紙を詰めた立香は、椅子に腰を落ち着けて向かい合っていた。

 ノアの背後は段差で部屋が区切られており、天井を抜いて大木が伸びている。

 ノアは禍々しさすら感じさせる威圧感を醸し出す。

 

「で、何しに来た」

「リーダーにちょっかい出しに来ました」

「なるほど。ところで、最近開発した『五感で得た情報を全部苦痛に入れ換える薬』があるんだが」

「生き地獄───!!」

 

 拷問以外に使いようのない薬だった。物を見て、音を聴くだけで激痛に苛まれるなど冗談ではない。

 

「それより!! いつも見てるってどういうことですか!!?」

「『ほら、マスターは健診の義務があるじゃないか。ノアくんは男性だからボクが担当だろう?』」

「逆に何だと思ってたんだおまえは」

「───さ、さあ。それは私のみぞ知る話です……!!」

 

 まあいい、とノアは呟く。

 

「今は実験の経過観察中だ。時間はある。俺の考えをまとめるために話に付き合え」

「それじゃあ訊きますけど、なんでさっき脱いでたんですか。事と次第によってはカルデアが炎上します」

「『それは困るな。ノアくん、立香ちゃんの誤解を解いてあげてくれ』」

 

 ノアは小さくため息をついて、足を組む。

 

「おまえが来る少し前、俺たちは無属性魔術の実験をしてた。テーマは『絶対に壊れず、インクが尽きないボールペンを創ることができるか』」

「絶対に、って……」

 

 立香は顔をしかめる。

 ノアが無属性魔術を解禁した、パラケルススとの戦闘。ただでさえ膨大な魔力を消費するその力。ノアは考えられる反動が計り知れないため、『絶対に』や『何でも』のような特性をつけた事象を創造することは避けていた。

 絶対に壊れず、インクが尽きないボールペン、なんてその最たる例だ。この世のものはすべて存在する限り、消滅や停止といった違いはあれど、各々に定められた死のカタチが決定付けられている。

 その大原則を覆すというのなら、払う代償は想像もつかない。

 

「───実験を今から再現する。俺の右手を見てろ」

「えっ」

 

 立香が止める間もなく、魔術式が組まれる。

 ノアが見せつけるように開いた右手。その上にエーテル塊が生まれ、徐々に見慣れたボールペンの形に整っていく。

 しかし。

 それは完成する直前で、目の前から忽然と消えた。

 頭に疑問符を浮かべる立香。ノアは降参するように両の手のひらを開いた。

 

「結果は見ての通りだ。ボールペンは出来上がる前に消える。これがどういうことか分かるな?」

「も、もちろん分かりますよ! ね、ドクター!」

「『……うん、そういうことにしておこうか。つまりはね、あのボールペンの存在は世界から否定されたんだ。魔法ではなく、魔術であるが故の限界だよ』」

 

 ノアとロマンの視線が立香に向けられる。

 彼女が抱いた感情を一文で表すなら。

 なるほど、分からん───そんな言葉がお似合いだろう。

 

「いいか、魔術と魔法の違いは結果が奇跡であるか否かだ。これは魔術講座で教えたぞ」

「知ってます。魔術ができることはあくまで人間が頑張ればできることで、魔法はどうやっても無理なことができる、ですよね」

 

 ノアは首を振って肯定した。

 例えば。魔術師の中には呪文を唱えて手を向けるだけでビル一棟を倒壊させられる者もいるだろう。しかし、それは魔術師でなくとも、手間暇をかければ同じ結果を生み出せる。

 その手間暇を省略する点において、魔術は他の学問の追随を許さない。魔術が過程に奇跡を起こすものだとすれば、魔法は結果自体が奇跡なのだ。

 

「『だからボールペンは消えた。絶対に壊れないモノなんて、今の人類がどれほど時間と労力を費やしても作れないだろう? そういうのは魔術じゃなくて魔法の領分なのさ』」

「確かに……でも、それは魔術の限界ですよね。世界に否定されたって意味が分からないです」

「そこに大した意味はない。世界にとっての異物は弾かれる。当然のことだ」

 

 唯一得たものがあるとすれば、結果が否定されたことで、危惧していた反動を受けなかったこと。ボールペンを創る過程で消費した魔力は無駄に終わったため、不幸中の幸いに留まるが。

 服を脱いでいたのも、身体の異常を把握するため。体の把握は魔術師の基本中の基本だが、念には念を入れねばならなかった。

 ノアがそう説明すると、立香はむっとして、

 

「世界ってケチですね」

「ハッ、そこは同意してやるよ。おまえみたいなのがルールを作ってたら、もう少し人類は発展してたかもな」

「ええ、どんと任せてください! まずはガチャの最高レア排出率を100%にします!!」

「『それはそれでつまらなくないかな?』」

 

 当たりしかないギャンブルはハズレしかないのとほとんど同じだ。何度やっても結果が同じなら、寄り付く人間は少ないだろう。

 ロマンは優雅にコーヒーを嗜み、生温い息を吐いた。

 

「『それにしても、無属性魔術は魔術の域から半歩外れている。神代の闇妖精(ドヴェルグ)の力を下敷きにしているから当然と言えば当然なんだが……完全には逸脱しきれないことが障害になるとは』」

 

 ノアは誰にも聞こえないほどの音量で、唇から言葉をこぼす。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 霞のような呟きは立香にさえ届くことなく、空気に溶けていった。

 ふと、右手を包む暖かな感触。自身のそれよりも小さく細い両手。立香はノアの目を見据える。

 

「でも、どうなるか分からないなんてこと、二度としないでください」

 

 咎める、強い眼差し。

 右手を包む指が、ぐっと食い込む。

 

「一緒にいられなくなるのは、嫌ですから」

 

 空気が密やかな冷たさと湿り気を帯びる。

 ノアは数瞬、何かに詰まって。

 

「それは許可を出したこいつに言え。元はと言えば呑気にコーヒー飲んでるそこのアホが悪い!」

「『清々しいほどの責任転嫁───!! 確かに許可を出したのはボクだが、練りに練った仮説に基づいてだからね!? そう、これはボクとノアくんの責任だ!!』」

「それでも最終的な判断を下したのはおまえだろ。仮にも指揮官が責任逃れすんのかァ!?」

「『ぐうっ、口喧嘩じゃ分が悪い───そうだ、ヤドリギの話をしよう! ギルガメッシュ王から仰せつかった本題はそっちなんだから!!』」

 

 自身の不利を悟ったロマンは強引に話の流れを分断した。荒業にも程があるが、どうやらそれはノアの知識マウント欲を刺激したらしい。

 彼は後方の樹木に視線を投げかける。

 

「とりあえず今は真っ当な手段での成長を試してるところだ。あの木にヤドリギを寄生させて、経過を見計らってる」

「リーダーにしては、失敗が前提なように聞こえますけど」

「ああ。俺の魔力を半分注ぎ込んで、ようやくデカくなる程度だからな。あんなんで栄養が足りるとは思えない」

 

 ノアは右手をそのままに、左手を懐に入れて、金色の鏃を指に挟む。神殺しのヤドリギは淡い光を放っていた。

 

「これが成長しきったらどうなるか。それは俺も知らない。ただ大きくなるだけか、別の形に変わるか。あの金ピカ王は全部丸投げしやがった」

「リーダーがいつもやってることじゃないですか。……ずっと気になってたんですけど、リーダーの魔力量ってどれくらいなんです?」

 

 ノアは心底興味なさげに述べる。

 

「ヤドリギでどれだけ増やすかにもよるが。おまえが琵琶湖だとすると俺はカスピ海だな。多分」

「『大雑把すぎない!?』」

「微妙に分かりづらい……琵琶湖も中々すごくないですか。滋賀県の六分の一ですよ!」

「調子乗るんじゃねえ、ギリギリ比較になるスケールにしてやっただけだ。大体、魔力なんて感覚で掴むもんを数値化して比較することすらアホらしいんだよ。そういうのはサーヴァント連中でやってろ」

 

 身も蓋もないことを吐き散らかす男がそこにいた。

 ただ、ノアの言うことがすべて的外れな訳ではないだろう。魔力の量とはひとつの目安であって、その魔術師の優秀さを表してはいないのだ。

 魔術回路の本数が少なくても質や工夫で補えるのが、魔術という学問だ。にしてもノアの見積もりは雑だったとしか言えない。

 右手と両手の繋がりが緩く解かれる。

 それを名残り惜しむのも束の間、彼の手は立香のつむじに着陸する。

 

「そんなことを気にする暇があるなら俺が鍛えてやる。まだまだ一人前の魔術師には程遠いからな」

 

 う、と立香は喉元を詰まらせた。

 ───さっきの質問はほんの好奇心で、別に負い目を感じてはいなかったのに。

 これは勘違いだ。ノアの訓練は真面目に受けているが、何も一人前の魔術師になりたいのではない。

 ただ、どこかで胡座をかいている魔術王を倒して、日常に還りたいだけ。だから、彼は勘違いをしている。

 でも。

 たぶん、顔は赤くなってしまっている。

 それにつられて体は強張っている。

 頭に置かれた手が慰めるためのものだとしたら。

 これは、この人なりの優しさなのかもしれない。

 ───彼が初めて誰かに褒められた時も、こうされただろうから。

 回らない頭で、必死に選んだ言葉は、

 

「が、がんばりますっ」

 

 ある意味、負けを認めるようなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───痛い。

 体が裂けている。

 魂が割れている。

 心が砕けている。

 とにかく、何もかもがバラバラで、とりとめなく命が拡散していく。

 死とは自己の消滅。自我の消失。

 初めて味わうその感覚を、カレはただこう思った。

 怖い、と。

 その恐怖から逃げるために、何度も何度も傷を繋ごうとして失敗して。大地からマナを汲み上げても、その傷みと恐れだけは消えなくて。

 ただただ、血を撒き散らしながら地面をのたうち回った。

 あれは、負けるはずのない敵だった。

 人間と精霊。能力の差を数値にしたのなら、奴ら二匹を足してもまだ自分が上回る。

 だというのに、負けた。敗北した。

 非の打ち所など無い。魔術師の横槍を差し引いたとしても、自分には油断があった。

 それは自己が拠り所としていた理論の崩壊。

 強大な力をそのまま振るう、という強さの儚さ。

 そう、そんな理屈はちっとも強くない。

 理屈に収まっている時点でその外にある力には勝てないし、その理屈を行使している時点で、自分より強い敵には手も足も出ないと認めているようなものだ。

 だから、これは。

 キングゥという個体が初めて呑んだ、敗北の苦汁であった。

 

「────ァ」

 

 無事なはずの喉から出たのは、隙間風のような声だった。

 上体に刻まれた血の轍。それは決して治らぬ傷。半神半人の英雄に血を流させ、三日後に冥界へ落とした不可逆の一刀。

 この傷は治らない。

 如何なる魔術を用いようとも。

 どれほどの魔力を吸い上げようとも。

 まるで、この体に元々定められていたキリトリ線をそのままなぞられたみたいに、どうしようもなく傷ついている。

 そして、今日は英雄が死を迎えた三日目だった。

 赤く染まる視界で天上の月を望む。

 憎たらしいほどに輝く銀盤。あれが沈めば、おそらくもう二度とキングゥという自己は蘇らない。

 いっそ、こんなに苦しいのなら。

 命を手放してしまおう。

 ふと、そう思った。

 

「かわいそうに」

 

 憐れみに満ちた声。

 頬を細い指が撫ぜる。

 頭の後ろをふわりとした感触が覆う。

 

「お前は負けた。これ以上の言い訳もなく。敗北を知らぬ者が負けたのなら、お前はもはや人間と同じ。完璧ではない生命体に成り下がった」

 

 ───ああ、かわいそうだ。人間と同じになるなんて。

 その女は、そう言った。

 怒りに震える気力もない。

 母に新人類たれと生み出された誇りは薄らいでいた。

 

「ならばいっそ、堕ちてしまえ。深く深く、獣の位置にまで」

 

 ぞぶり、と肉体が大きく削がれる。

 痛みはなかった。とうにそれ以上の苦痛を味わっていたから。そして、苦痛の源となる傷ごと骨肉が取り払われていたから。

 まるで魚の開きみたいに空虚な体を、黒々とした泥が埋め立てていく。

 混沌たる生命の素。ごぼごぼと沸き立つそれは、新たなるカタチの誕生に歓喜していた。

 

「───かつて、聖娼シャムハトは六日七晩をかけてエルキドゥに人間性を教えた」

 

 曇った視界がかすかに晴れる。

 美しいカタチをしたその人は、心からの笑みをたたえていた。

 

「私は六日七晩をかけてお前に獣の性を教えよう。何よりヒトを嫌う、お前のために」

 

 ふわふわと脳みそが蕩けていく。

 時間の感覚が曖昧になっていく。

 もう、光しか見えない。

 光が点いては消えてを繰り返し。

 それが六回ほど続いて、意識は闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

「後は、貴女の努力次第だ。ゴルゴーン……いや、ティアマト」

 

 真白の装束を纏う女。蛇神は僅かに目を伏せる。

 

「知恵の女神。貴女の目には如何な未来が視えている」

 

 決まっているだろう、と。錯雑とした感情に塗れた声が返る。

 

「……人類との戦いの、終着だ」

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