自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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なかなか時間が取れず遅れてしまいました。申し訳ございません。100カノのアニメが始まるまでには終局特異点まで終わらせたいです。


第77話 魔女の祖

 西暦───が使われるのは500年ほど先のことだが───とにかく現代から見て西暦15年9月8日。私はその日に産まれた。

 家は羊飼いを生業にしていて。生活はとても貧しかったけれど、両親は貧しさを補って余りある愛情を注いでくれた。

 お母さんは寝坊がちな私を毎朝優しく起こしてくれて、夜は眠りにつくまで子守唄を歌ってくれる。

 お父さんはぶっきらぼうで無口だけど、誰よりも家族を想ってくれていて、仕事を手伝った時はたくさん褒めてくれる。

 だから、物質的な貧しさなんて苦にならないくらい私は幸せだった。

 走ることが好きだった。

 どこまでも続く大地を己の足だけで駆け抜けていくのが、どんな遊びよりも心地よくて楽しかった。周りの子と比べて速くはなかったけれど、そんなことはちっとも───ほんの少ししか気にならない。

 でも。

 こんなにも暖かくて優しい幸福も、他人にとっては容易く踏み躙る塵でしかなかった。

 

「終わる。終わってしまう。はじまりの一つが全てを変え、間もなくあの男が原罪を持ち去ってしまう。真性悪魔の存在は否定される。ならば、その前に遺すしかない。新たな聖母の器に大いなる七罪を着床させ、母と娘と悪霊の名において、いずれ世を支配する物理法則テクスチャの貼り替えを図る」

 

 男は一瞥で父と母をぐちゃぐちゃの肉塊に変え、濁り血走った瞳で私を見下ろしながら、意味の分からない言葉を吐く。

 息が詰まる。

 体が震える。

 涙が溢れる。

 肉親を殺された怒りも悲しみも置き去りにして。

 ただ、恐怖と本能のままに走り出そうとしたその時。

 

「…………えっ」

 

 ぷらり、と足首の先で何かが揺れる。

 どくどくと流れ出す鮮血。露出した肉と骨。皮一枚でかろうじて繋がった足があっけなく千切れ、そこら辺の石みたいに床に横たわった。

 剥き出しになった神経が炙られているかのように痛む。血が流れていくのと一緒に、自分の中にあった大切なものまで消えていく喪失感に襲われる。

 それでも体を引きずって、背後から近付く足音から逃れる。しかしその逃走は壁に阻まれてあえなく終わりを迎えた。

 男の手が迫る。

 ───目がおかしい。

 馴染んだ家の光景が無色無形の何かに埋め尽くされている。

 それを例えるなら、平原に吹く風。川を流れる水。もしくは、夜空の星々の隙間を仲立ちする暗黒。

 無色無形、だというのに何故目で見て認識できるのか。

 そんな疑問や理屈を飛び越えて、縋るように右手を伸ばす。

 無色無形の中に輝く、いちばんきれいな光点。それに触れて、ひたすらに願う。

 

「────かみさま」

 

 詩篇第138篇7節〝たとえわたしが悩みの中を歩いていても、あなたはわたしを生かし、御手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしをお救いになる〟

 

「わたしを、おすくいください」

 

 私が触れたのは、ヤツの命の核心。

 未来視の極致。

 いずれすべての存在が辿り着く終焉。

 すなわち、死を視るという最悪の御業。

 小娘の指先ひとつで、その男は言い訳のしようもなくあっさりと、死に絶えた。

 

「ああ────………………」

 

 ───これが、モノを殺すということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その娘を買うわ」

 

 何もかも失い、転げ落ちた先は奴隷商人のもとだった。

 奴隷とは財産の一種だ。それを買う人間の目的は様々だが、商品を買って財産にするというのだから、不良品は避けられる運命にある。

 まずは第一に健康であること。これは大前提だ。病気になった馬を取り扱う馬喰なんてどこにもいない。

 次に強みがあること。体格が良い、力が強い、算術を心得ている、容姿が優れている……客はそういった奴隷たちを吟味して、需要に合った者を買っていく。

 その女は並んだ奴隷の中から、即座に私を選び出した。

 右足を失い、物も知らぬ、痩せこけた体の小娘を。

 

「その足、私が治してあげる。みすぼらしい見た目も水を浴びて、たくさんご飯を食べれば大丈夫。アナタは骨格が良いから、きっと美しく育つわ」

 

 女の手に引かれ、訳も分からぬまま、私は連れて行かれた。

 そこは山の中腹を切り拓いて造られた古風な神殿だった。森の奥に聳える石の館は甘く蕩ける香気を放っている。羽虫を誘う食虫植物のように。

 女に導かれるまま、神殿へと入る。

 目に沁みるほど濃くなる香気。甘ったるく色付いた空間を、下品なくらいに絢爛華美な調度品が彩っていた。

 周囲の人間もまた同じ。恥ずかしげもなく肌を曝け出し、黄金と宝石を散りばめた装飾を纏っている。かろうじて貼り付いている布きれも薄く透けた意味のなさだ。

 客の情欲を駆り立てるためだけの衣装。問題は客であろう人間も似たりよったりな服装をしていることだ。そこかしこで女と男、はたまた女と女が肌を寄せ合いつつ、薄暗い部屋の中に消えていく。

 その頃の私にはその格好が、赤らんだ男女の表情が、何を意味するのか分からなくて。

 

「ここは、神様を祀る場所じゃなかったんですか」

「ええ、そうよ。ただし、あなたが知る神とは違う方を祀っているの」

「……神様はたったひとりしかいないはずじゃ」

「それは孤高ではなく、孤独と言うのよ」

 

 ───この世にたったひとりなんて、寂しすぎるでしょう?

 女はそう言って、扉に手をかけた。

 は、と感嘆の息が唇をすり抜ける。

 彼女に導かれたのは、大きな広間だった。今までの景観とは打って変わって、まさしく神殿と呼ぶに相応しい光景。石造りの部屋は光を取り込むための仕掛けがなされており、室内は淡い月光によって密やかに色付いていた。

 部屋の中央には大人ひとりがすっぽりと収まってしまう大きさの祭壇が設けられている。それには真紅の絹が掛けられており、くすんだ灰色の空間の中で一層鮮やかや月明かりに照らし出されている。

 女は呆けるみたいに固まった私の横を通り過ぎ、祭壇に腰掛ける。丈の長いドレスから剥き出しになった両足を組むその仕草は息を呑むほどに妖艶だった。

 

「教えてあげる。私たちが、そしてアナタがこれから手を組み祈りを捧げる神のことを」

 

 こいつの長ったらしい話をいちいちセリフにしてやるつもりはない。

 要はこういうことだ。

 第二代ローマ帝国皇帝ティベリウス治世下のイスラエル・パレスチナ。かの荒野の地はローマ帝国のユダヤ属州として支配を受けていた。

 ユダヤ属州は皇帝属州と銘打ってはいるものの、直轄地とはならず、シリア総督が統治するという間接的な属州であった。その統治体制はユダヤ属州とローマ帝国の宗教的・文化的差異が一因となっていたことは否定できないだろう。

 当時、ローマ人の神話とはユピテルを主神に戴く多神教のローマ神話であった。多神教であるが故に異教の神が現れたとしても共存が叶う。だが、イスラエルの人々は一神教を信仰していた。加えて、彼らは元々中東の多神教における一柱の神を唯一絶対の神として再解釈……つまり、他の神を否定した。そのため、ローマの世界は相性が悪かったのだ。

 唯一神は多神教の神だった。そして、その神には配偶神がいたことが示唆される碑文が残されている。

 本来一神教にあってはならぬはずの女神。

 その名はアシェラ。もしくはアシュタルテ。古代メソポタミアのイナンナ───イシュタルを起源とする、豊穣の女神である。

 

「ここは『アシェラ神殿』。唯一神の伴侶たる女神を崇める、巫女の聖堂。まあ、身も蓋もないことを言ってしまえば娼館ね。役人や議員の方々と、その奥様たちを相手にしているの。女神信仰だから男娼はいないけれど」

「…………娼婦?」

「それはおいおい分かるはずよ。何もかも、ね」

 

 ああそうだ、と女は言った。

 

「アナタ、名前は?」

 

 両親からもらった、ただひとつの名前。

 私が私であることを示す、自己同一性。

 考えもなしに、私はそれを告げた。

 

「……ヘレン、です」

 

 女は何やら難しい顔をして、紅を差した瑞々しい唇の中で私の名前を幾度か転がす。

 すると、彼女はぱあっと顔色を晴らして、優しく私の頭を撫ぜた。

 

「では、これからアナタはヘレネーと名乗りなさい。あらゆる英雄の死を招いた戦争を起こしたオンナ───その名前に見合うくらい、美しくなるのよ」

 

 そうして、私はヘレネーとなった。

 女は今までのすべてを容易く踏み躙って、私をヘレネーとしたのだ。だが、彼女にはそんな感覚は微塵もなかったことだろう。

 強者は弱者のことなど考えない。

 人間が地面の虫を踏み潰しても気が付かないように、強者は弱者のあらゆる都合や事情を無視して事を成す。たとえそれが、善事であろうと悪事であろうと、そこに弱者の介する余地はないのだ。

 それを、初めて知った。

 だからといって、その頃の私に何ができた訳でもないのだが。

 

「へえ、ヘレネー。それはまた仰々しい名前をつけられたね。どうでもいいけど。とっとと仕事憶えて私に迷惑かけないようにしてくれる?」

 

 その時の私よりも10歳は年上の女性。

 彼女は水瓶の中身を直に飲み干し、手渡してくる。

 

「じゃあこれ、汲んどいて。それが最初の仕事。溜めてあるやつじゃなくて裏の川からね。じゃ、頼んだから」

「あの、あなたの名前は?」

「クロリス。巫女長につけられたから本名じゃないけど。アンタみたいにどっかの女神サマの名前なんじゃない?」

「それじゃあ……どう呼べば?」

「お姉様でいいわ。前から欲しかったのよね、面倒事を押しつけられる妹」

 

 最初に与えられた仕事はそんなお姉様の雑事の代行だった。

 身を清め、食事を用意し、客の好みに合わせて服───と言っても服の体をなしていないモノが多かったが───を選び、姉たちを見送る。

 男に千切られた右足は私を買った女、巫女長によって、見た目だけは元通りになっていた。多少ぎこちないが問題なく動く。仕事に支障はなかった。

 どうやら私には社畜の才能があったらしい。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る生活を二ヶ月ほど続けていると、クロリスは徐々に多くを語るようになっていった。

 山奥の神殿から去っていく壮年の男。壮観な出で立ちで豊かな髭をたくわえた姿はそこはかとない威厳を醸し出している。前夜の客であった彼をお姉様とともに見送ると、彼女は唐突に、

 

「いや、昨日はびっくりしたわ。部屋に行ったらアイツ、女装して猫撫で声で誘ってきたのよ? あれで元老院議員とか世も末だわ」

「げんろういん?」

「国の統治を行う、ローマの最高意思決定機関よ。アイツはそこの議員ってわけ」

「と、とーち? いしけって……?」

「…………要するに、めちゃくちゃ偉い人ってこと」

「え、えら…?」

「ここまで簡単に言っても分かんないの!!?」

 

 この時代、娼婦というのはその種類にも寄るが、とりわけ高級娼婦の類は閨の上の技以外にもある程度の教養を備えていた。有力者を相手することが多いため、客と話を合わせるだけでも知識が求められるのだ。

 なので、私がアホということではない。決してない。断じてありえない。

 ただ、無知な子どもに色々と教えるのもクロリスの役割だったようで。

 ───例えば、食事の時。

 

「食べ方が汚い。口の横についてるし、そこら辺に溢れてるじゃない」

「お姉様も昨日、客の前でお酒を飲む時はいつも胸元に溢して……」

「アレはわざとよ。お偉い人のお堅い話聞くよりも、さっさとその気にしてやることやった方が早いでしょ。で、終わった後はテキトーに褒めとけばいいの」

「昨日の方はすごかったんですか」

「ぜんぜん? アルテミスの矢以上の速射キメさせてやったわ」

「それを言うならオリオンでは?」

「かもね。世界最高の狩人がアッチの方も強いかなんて知らないけど」

 

 といった、アルテミスしか知り得ないであろう情報は横に置いて。アシェラ神殿を訪れる客は男にしろ女にしろ、一定の地位を持った有力者ばかりだった。

 政の世界で力を持つということは、敵を増やすことに等しい。さらにこの時代は通信技術が発達していない。謀略と陰謀が飛び交う戦場を離れれば、それだけ遅れを取ってしまう。

 しかし、彼らは性懲りもなく人里離れたこの場所を訪れていた。欲求の不満を満たすためだけならば、街の娼館なりに足を運ぶか、自身で囲えば良いものを。

 ある日、そんな私の疑問を見抜いたのか、クロリスはつまらなそうに語った。巫女長が言うには、と前置きして、

 

「私たちはひとりひとりが魔術の歯車なのよ」

 

 儀式魔術『聖なる婚姻(ヒエロス・ガモス)』。神と神、神と人の契りは得てして聖なる御力を生じる。聖娼シャムハトがエルキドゥを獣から人にしたように、男女の交合は神秘を纏う。

 アシェラ神殿の娼婦たちはみな、女神の名をつけられていた。娼婦を神に見立てることで、それとまぐわう客たちに超常の力を与える。

 老いた者には若さを、目を病んだ者には視力を、子を産めぬ者には健全な精力を。それ故に、有力者たちは自らの領地を離れてまでも此処に来ていたのだ。

 ───例えば、見送りを終えて体を清めている時。

 

「魔術師を名乗るヤツが来たら、すぐに巫女長を呼びなさい。男のクセに髪伸ばしてるのとか怪しいわ。アイツら血とか皮とか取ろうとするから。神秘の秘匿がどうとかで、口数少なくて陰気でつまらないし」

「馬鹿ですね。魔術師なんて言わなければ良いのに」

「閨の上ではみんな口が軽くなるのよ。アンタも二、三年続ければ、元老院の面子を総入れ替えできるくらいの情報は集まるわよ」

「お姉様は元老院の恥部を握るオンナということですね」

「物理的にもね」

 

 魔術という力が存在していることに、今更違和感はなかった。むしろ合点がいったくらいだった。家を襲った男の力も、私の足を治した巫女長の技術も、つまりはそういうことなのだろう。

 それなら、あの男を殺した時に見えたモノは。

 何度か目を凝らしてみたものの、あの時と同じ景色は見えなかった。

 だから、きっと、あれは神様が与えてくださった奇跡に違いない。

 天にまします父は哀れな子羊を見かねて手を差し伸べてくれたのだと、そう信じてやまなかった。

 ───例えば、夜、燭台と月の光を頼りにお姉様の爪の手入れをしている時。

 

「ねえ、どうしてこんなところに来たの」

 

 ほっそりと、しなやかな手指の先。それを丁寧に磨く私の顔を覗き込み、クロリスは言った。

 彼女に隠し事をする気はない。だから、私は端的に経緯を語った。家族を奪われて奴隷に身をやつし、巫女長に買い取られた、短い話を。

 クロリスは私の手元から指を引き抜く。彼女は何も言わず、そのまま私を両の腕で抱きしめた。

 その力は強く。息が詰まって思わず逃れようとしても、すぐさま引き戻されてしまう。

 

「お姉様、苦しいです」

「うるさい。そんなことがあったなら、早く言いなさいよ。ばか」

「……訊かれなかったので」

「訊かなかった私も悪いけど、どうしてアンタは普通でいられるのよ。何もかも失ってここにいるのに」

 

 その返答に、考える間は要らない。

 

「───神様が、救ってくれたからです」

 

 神様はいつも私を見てくれている。

 神様はどんな不幸に苛まれても救けてくれる。

 故に、どれほどの艱難辛苦が訪れようとも、私は私のままでいればいい。

 そう言うと、クロリスは腕を解いて真っ直ぐと見つめてくる。お姉様は、とても悲しい顔をしていた。

 

「私は親に切り捨てられてここにいる。神様は助けてくれなかった。世の中なんてそんなものよね」

 

 でも。

 

「アンタがその信念で生きていけるなら、一生それを貫き通しなさい」

 

 お姉様の真意は分からなかったけれど。

 ひとつだけ、確かなことはある。

 その声はとても優しくて、暖かかった。

 だが。

 次の日、彼女は死んだ。

 朝、いつも通りに起こしに行って、何度も声をかけたけれど一度も目を覚まさなくて。

 気付けば、周りにはたくさんの人が駆けつけていた。巫女長はひとり人混みから進み出て、私の肩に手を置く。

 

「悲しいわね。とても良い子だったのに」

 

 女は私に微笑みかけて、

 

「それじゃあ、別の娘の世話をお願いね」

 

 お姉様は天の国に召された。

 あの人の魂は神の御胸に抱かれ、永久の幸福に包まれる。

 心配する必要なんて、どこにもない。

 滴る涙を拭うこともしないで、ただ頷いた。

 

「…………はい」

 

 初めにその死を見届けて、私は何人もの『お姉様』の最期を目の当たりにした。

 彼女たちはみな、例外なく二十歳を迎える前に息を引き取った。病気を抱えている訳でもないのに、全員が示し合わせたようにその年齢を迎えて死んでいく。

 何故。全ての疑問が解けたのは、やがて私も客を取れる年頃になった時だった。

 巫女長に祭壇の間に呼び出される。女は初めて会った頃と全く変わらぬ若々しさを保っていた。妙齢の手が、祭壇の前で跪く私の頬に添えられる。

 

「ヘレネー、アナタも一人前になる年頃よ。必要な知識を授けておきましょう」

 

 女は腰にまで伸びた髪を一房だけ切り取り、掌中に握り込む。次の瞬間、開いた手のひらの上から無数の光球が散っていく。

 

「この世界には数え切れないほどの悲しみがある。その原因はあらゆるモノの消費の加速にあるわ。作物の収穫量が増えれば人が増え、人は自然を食い物にして発展する。無数の悲劇と不幸を生み出しながら」

 

 ───故に、消費型社会から古代の循環型社会にこの世界を戻す。

 自然とともに生き、そして死ぬ。ヒトは小集団で暮らし、国家同士の大規模な戦争は起きる余地がない。その日その日を必死に生きる古代の社会は、確かに複雑化した今のしがらみなんてないだろう。

 ただ、それが幸福であったなら、ヒトはなぜこれほどの発展を遂げねばならなかったのか。古代の暮らしで満足していたのなら、進歩する必要などなかったはずだ。

 女は端的に結論付けた。

 

「あくまで、このテクスチャ上における話だけれど」

 

 ───全てを変えたのは、宇宙より飛来した機械の神々よ。

 

「元より、人間の社会は母権制だった。崇める神は女神。かつて多くの地母神たちがヒトの集団に信仰されていた。けれど、彼方のソラよりこの星に来訪した機神────ゼウスという男神がこの世を今のカタチにした」

 

 オリュンポス十二神における最高神、ゼウス。彼は雷霆を司り、数々の女性と契った神だった。

 ゼウスの出現によって、ヒトは母なる大地ではなく父なる天上を崇めるようになった。狩猟・採集に頼っていた生活からより大規模で組織的な農耕社会に移行するために。

 農耕がもたらした影響は甚だ大きい。人間は比較的安定した食料源を獲得し、食物が増えることで人口も増加した。しかし、農耕は天候に左右される。干ばつが生じれば作物は全滅し、その集団もまた死に追いやられる。

 だからこそ、ヒトは天を信じるようになった。作物に必要な雨を降らせるのは紛れもなく空なのだから。

 ゼウスはあらゆる女神を手篭めにした。それは侵略だ。地母神を信じていた集団を支配下に置くことを、女神とのまぐわいという描写によって表現しているにすぎない。

 

「そうして、多数の人間を組織的に束ねることで国家が誕生した。唯一神もゼウスと同じよ。異なる神を排斥して、自らを絶対不変としたの。そう、オトコたちは切り捨てた。アシェラ、イナンナ、アナト、アト・エンナ、あらゆる女神を…………ッッ!!!」

 

 女は端正な顔を憎しみで歪め、噴き出さんばかりの怒りを全身で体現していた。

 その様を見て、私は思った。

 ───なんだそれは、くだらない。

 黙って聞いていれば、世界の悲しみを無くすなどと言っておいて、その根底にあるのは男神への憎悪だけじゃないか。

 確かに、天候神によって世界は変わったのだろう。だが、果たして、人類が永遠に自然に左右されながら生きることは幸福なのか?

 

「だから私は、この世をもう一度女神の世界に戻す。アナタを一目見て気付いた。私さえ足元に及ばない魔術の才能。女神になるべきはアナタしかいないと」

 

 カラダが、私の意思に反して動く。

 服を脱ぎ捨て、祭壇の上に横たわる。

 巫女長はぞくりとするような笑みをたたえて、私を見下ろしていた。

 いつの間にか、その手には鋭く尖った木剣が握られていた。何本もの枝が絡み合い、刃を形成している。

 怖気立つほどの凶気を纏い、ささくれだった木の刃は月の光を吸い込んで黒く染まっていた。

 

「『聖なる婚姻』は神との交わり。女神の名を背負うことはヒトには荷が重すぎる。今まで二十歳までも生きられない失敗作を造ってきたけれど、きっと、アナタなら」

 

 木剣の切っ先が私を向く。

 

「これはヤドリギの剣。ヤドリギが神の生殖器にも喩えられたように───男が剣なら、女は杯。剣と杯の交合を介した完全性の再現によって、私はアナタを女神に……聖なる杯に仕立て上げる!!!」

 

 女は躊躇うことなく、剣の先を私の体に突き刺す。

 その瞬間、湧き上がるのは絶叫と激痛。それが自分の声で、自分の体を貫いている痛みだと理解するのに数秒を要した。

 遅れて気付いた時には、また次の刃が振り落とされる。

 何度も何度も何度も何度も。

 粗い刃がごりごりと肉と骨を裂き、引き抜く側から傷が治る。

 右足を千切られた時なんて比べ物にならないほどに、体じゅうに張り巡らされた神経が焼き切れるほどの痛みが絶え間なく脳を揺るがす。

 激流のような苦痛の最中、はち切れる脳内回路のほんの一部は、どこまでも冷え込んでいた。

 ───所詮、どこも地獄か。

 視覚が冴える。

 あの時の光景が戻る。

 今なら理解できる。視界を埋める無色無形の何か……これは魔力。世界に満ちるマナだ。それがこうして瞳に映っている。

 ざくり、と剣が土手っ腹をブチ抜く。

 私は視た。

 今までの人類の歴史と、これからの人類史のすべてを。

 永遠にも思える一瞬の後、私は無様にも這いつくばりながら逃げていた。無論、それは現実ではなく。

 迫る赤い影。

 根源に辿り着かんとする者を殺す赤ずきん。

 赤色の死が抑止の力をもって、底冷えする視線を投げかけている。

 

「……今日はここまでにしておきましょうか」

 

 赤ずきんとの鬼ごっこは唐突に終わりを告げた。

 ぴしゃり、と刀身を払い、灰色の床に赤色の点が散る。

 巫女長の肢体は返り血に濡れていた。彼女は私をゆっくりと立ち上がらせると、肩を支えたままに扉を開く。

 外には、年端もいかぬ童女が待ち構えていた。少女は手に持った布をおずおずと差し出してくる。

 

「その娘が、これからアナタの世話をしてくれるわ。名前は────」

 

 お前がつけた名前になど興味はない。

 童女を伴って自室に戻る。布を受け取り、涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭く。

 

「お前の名前は」

「アシュトレト、です」

「違う。本当の名前だ。聞かせてくれ」

 

 彼女は少し逡巡して、

 

「マリア。私はマリアと申します」

「ならば、私はお前をマリアと呼ぼう。私たち以外には内緒だ」

「はいっ! あの、あなたのことはなんとお呼びすれば良いのですか?」

 

 手の震えを無理やり鎮めて、マリアの頭を撫ぜる。

 

「───お姉様で良い。私も……昔から妹が欲しかったからな」

 

 そこからの半年間は同じことの繰り返し。

 夜は祭壇の部屋で体を斬り刻まれ、マリアに体を清めてもらい、寝床の上でまた次の日を待つ。その繰り返し。明るい昼も、夜が待ち受けているせいでどこか色褪せていた。

 夜な夜な私は必死に逃げ回る。

 無機質な殺意をたたえる赤ずきんから。

 きっと死ぬ。いつか死ぬ。絶対に追いつかれる。

 私は乞い続けた。

 魔法なんかいらない。根源なんか目指していない。だからどうか許してください、と。

 色濃い恐怖と絶望で目の前が塞がる。

 それでも私が生きていられたのは。

 

「見てください、お姉様!! 鳥の雛が孵りました、しかも五羽も!!」

「それは良いな。次が楽しみだ」

「次?」

「食べないのか?」

「「…………え?」」

 

 マリアという、他人がいたからだろう。

 だから私は毎夜明日に震えながらも眠ることができた。

 

 ───夢は見せてくる。

 過去の、現在の、未来の、あらゆる人々が生きた記録を。

 殺し、殺され、犯し、犯される人の業。それらが丁寧に丹念に、実感として伝わってくる。

 

 ある夜。血まみれになった私の体を優しく拭き取りながら、マリアは切り出した。

 

「お姉様ばかりが傷ついて、こんなの、間違ってます」

 

 彼女は泣いていた。

 出会って間もない、私を想って。

 その少女が流した涙は今まで見た何よりも、美しかった。

 

「いいや、間違ってたのは私だ」

 

 私はその涙を指で拭う。

 マリアは戸惑いつつもこちらを見上げた。

 

「お前は逃げろ。他の女たちと一緒に。お前たちはここにいるべき人間じゃない」

「……何を、するつもりなんですか」

「勘がいいな。だが、それはお前が気にすることじゃない」

「私は、逃げません。お姉様を放っておけない」

「───駄目だ、()()()()

 

 魔力を乗せた言霊を囁く。相手が魔術師ならばともかく、普通の人間であるなら暗示はこの程度で事足りる。

 目の色が変わり、マリアはこくりと頷いて部屋を後にする。この神殿で暗示をかけたのは彼女が最後。これで後顧の憂いはない。

 私は、忌々しき祭壇へと向かった。

 いつも通り、女はそこにいた。

 数年前と全く変わらぬ笑みをたたえて。

 

「社会のカタチが変われば人類は救われると思うか」

「少なくとも、今よりはずっとマシになるわ。物質への執着は人間のあらゆる欲求の中でも最底辺のものだから」

「……私は見たよ。これまでと、これからの人類史を」

「───繋がったのね、根源と」

 

 根源接続者。万物万象が収束する極天の座と繋がりし者。それはこの世の全ての原因が渦巻く根源と接続したことで、ある分野においては全能にも近しい能力を発揮できる。

 私が得たのはこの宇宙の記録へのアクセス権。言い換えれば、アカシックレコードを自由に閲覧し、情報をインストールできる権限。

 女は湧き上がる高揚を表情に滲ませた。

 

「素晴らしいわ。アナタはこの世の誰をも凌駕する知恵を手に入れた。あのソロモン王のように!!」

「人類が辿る歴史を見て私は思ったよ。この世界には不幸が多すぎる。流れ込んできた情報は、見るに堪えない悲劇がほとんどだった」

「ええ、そうでしょう。だからこそ、私たちはヒトを救わないといけないの!! この汚濁に塗れたヒトのセカイを浄化して、美しかったあの頃に戻すのよ!!」

 

 

 

 

 

 

「───どうして私がこんな人類(クズ)、救わないといけないんだ?」

 

 

 

 

 

 

「…………え、っ?」

 

 女は息を呑む。

 初めて、その顔を恐怖に染めながら。

 

「塩漬けにされた人肉が公然と売られた市場があった。人を人とも思わぬ虐殺はいつの時代も数え切れなかった。隣人愛を説いておきながらその隣人を殺し尽くす連中がいた。数千万もの死を生んだ戦争が未来では起きていた」

 

 ───こんな人類(私たち)に、救われる資格なんてない。

 今の私たちが救われるとはそういうことだ。

 数多の悲劇を〝そんなこともあった〟と教科書に語られる戦争みたいに素っ気無くして、ただ幸福を得るなんて厚顔無恥が許されて良いはずがない。

 だって、本当に救われるべきなのは、これまでに不幸になった人とこれから不幸になる人たちなのだから。

 あげつらった不幸は、私が見た悲劇惨劇のほんの一部にすぎない。なぜなら、根源から情報を引き出すということはそれを体験するに等しい。私はあげつらうことさえ面倒になる不幸を、その被害者と加害者の両面から体感した。

 

「故に、私は間違っていた。あんな光景を見ておきながら何もしない神が、無数の切り捨てられた人々に救いの手を差し伸べない神が、私なんかを救うはずがなかったんだ」

 

 唯一の絶望は。

 あの男を殺したのは神の救いでも何でもなくて、ただ私の力がそうさせたこと。結局、神様は私を見てなんかいなかった。

 この目に映る魔力というエネルギー。

 無色無形のそれを、無色無形のまま眼前の女に押しつける。

 

「ごめんなさい、お姉様。私はあの信念を貫けない」

 

 それだけで女は骨の一片、血の一滴すら残さずに圧搾され尽くした。

 事を終えて祭壇の部屋を後にした頃には、神殿の中には誰も残っていなかった。どうやらここから逃げろという暗示は成功していたようだ。

 それもまた、根源から引き出した知識によるものにすぎないが。

 火のルーンを神殿に刻む。すると、石造りのそれは瞬く間に燃え上がった。赤き炎の向こう側に消えていく神の祭殿。私は逃げるように、夜の闇へ駆け出した。

 まるで子どもの頃みたいに、一心不乱に走る。

 どこまでも続くような地平を自分の肌で触れて感じて、夜の冷えた空気で肺を満たす。

 夢中で山の麓まで下り、一歩二歩三歩と足がもつれていく。自分から見ても頼りない足取りはついに止まり、寂寞と広がる荒野の真ん中で月を見上げた。

 白い息が闇に馴染んでいく。さながら少量の絵の具を水に溶かしたみたいに。

 ぽつりと、私は呟いた。

 

「少し……疲れたな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は西暦30年初頭。皇帝ティベリウス治世下のローマ帝国、サマリア。ユダヤとガリラヤ地域に南北を挟まれたこの土地は豊かな丘陵を有する地方であった。

 これから先の二千年間、常に騒乱と失態を撒き散らし、不幸を蔓延させた宗教。神の子などと嘯き、救い主を騙る偽善者を一目見るため、私はサマリアを訪れていた。

 小高い丘の狭間にある小さな村。ただ生きる、それだけのことにも多大な労力を費やさねばならない場所。見れば、誰も彼もが痩せこけており、体を病んでいる。

 なるほど、よく考えたものだ。教えを広めるのは強者よりも弱者の方が与し易く、数も多い。救世主と十二使徒のやっていることは信仰の貧困ビジネスといったところか。

 そこに、奴らは来た。

 あたかも聖者を装って、二千年続く腐敗をもたらすのだとも知らずに、使命と義務感とやらに瞳を燃やす十二人の罪人が。

 男はその中央にいた。ぞろぞろと集まる村人たちへと、誰よりも早く手を差し伸べる。

 曰く、奴は触れただけで病気を治す。

 この時代の魔術師ならば全員がやってのけることをあたかも奇跡のように振る舞い、民の信心を獲得する。なんとも恥知らずな所業だ。

 右眼を布で隠した老人が近付く。救世主を名乗る男は枯れ枝を繋ぎ合わせたみたいなその手を、自身の両手で包む。

 

「───は?」

 

 ひとりでに布がするりと解ける。病んでいたであろうその右眼はそれこそ誰の目にも明らかなほど、確かな光を取り戻していた。

 私が震撼したのは眼の快癒という結果ではなく、その過程。

 ───あの男は魔力を使っていなかった。

 この目が捉えるマナの流れは平常そのもの。奴の体内を流れるオドさえも。つまり、あの男はその行為に何ら神秘的な要素を介在させることなく、ただ触れるだけで病気を治したのだ。

 それはまさしく、奇跡としか言いようがない。

 理解を拒む脳を置き去りに、瞳は男が成す奇跡を眺めていた。しばらくして思考が追いつくと、途端に業火の如き激情が骨を焦がす。

 ───あの男は神に愛されている。

 ───誰しもに降り注いで然るべき奇跡を安売りしている。

 ───だというのなら、私たちは神に切り捨てられたのか。

 どうして、神様は。

 あの時の私に奇跡を与えずに。

 彼にのみ、その御慈悲を授けているのか。

 そんなことができるなら、みんなに、平等に、公平に、数限りなくお与えになってくれてもよかったじゃないか────!!!!

 

「…………くそっ。くそ、くそっ……!!!」

 

 唇を犬歯で食い破り、潤む目元を必死に擦って、乱暴に踵を返す。

 村を出ようとしたその時、寂れた小屋が家々の外れに建っていた。その戸口にはひとりの少年。彼は布にくるまれた赤子をかき抱き、呆然と座り込んでいた。

 朽ちかけたボロ切れを衣服に纏い、金色の髪と褐色の肌は生気を失い、体は骨に皮を被せたような矮躯。ひび割れた唇が何かを呟き続けている。

 彼が抱く赤子はぴくりとも動かない。目を凝らして見れば、小さな命はとうにその灯火を絶やしていた。

 思えば、これが始まりだった。

 私の足は勝手に動き、口はひとりでに喋り出す。

 

「お前は、行かないのか」

 

 虚空を見つめていた少年の瞳がこちらを向く。

 

「……行きません。自分ひとり、この世で生きながらえても意味がありません」

「その子は、お前の家族か」

「妹です。両親と妹は病で神の御許に旅立ちました」

「神を信ずるならばあの男のもとに行け。少なくとも、お前は助かる。妹だって蘇るかもしれない」

 

 少年は首を横に振る。

 

「この世は苦しみに溢れています。こんなところに妹を呼び戻したくない。偽物の神様とその代行者に頼るくらいなら、自分は死を選びます」

 

 ───きっと、その先に真の神がいるはずだから。

 

「真の神、だと?」

「はい。こんな、罪と悪に塗れた世界を神様がお創りになるはずがありません。だったら、この世界を創った神は偽物で、不完全で、それ故不幸に満ちている」

 

 少年は一筋の涙を流した。

 とっくに尽きかけているはずの、生きながらえるために必要な水分を、彼はそれに変えた。

 

「ただ……悔しい。そんな神を否めることさえできない自分が」

 

 その光景は。

 いっそ、救世主の振り撒く奇跡なんか比べ物にならないくらい、慈悲と悲哀でいっぱいになっていて。

 その美しさに、目を奪われた。

 

「ならば、私と来い。お前に偽の神を否定するしるべをくれてやる。───お前の名前は?」

 

 少年はかすかに告げる。

 

「シモン。ただのシモン」

「お前は神の道ならぬ魔道を修めることになる。故にこう名乗れ。シモン・マグスと」

「では、あなたのことは何と?」

「ヘレネーでも何でも、好きなように呼べ。名に執着はない」

 

 そうして、私はシモンに魔術を教え込んだ。

 こいつには私ほどではないにせよ魔術の才能があったが、特に才を発揮したのは空間に作用する術。素人がたったの三ヶ月で空を飛んでみせたのだから、それは天稟と呼ぶ他ないだろう。

 みすぼらしい体が少しはマシになってきた頃、シモンは唐突に切り出した。

 

「ヘレネー。貴女にソフィアという名を贈らせていただきます」

「いらん。センスがイカれてるのかお前は」

「そうですか? 貴女が有する無上の知恵には相応しいと思ったのですが。では、これからは私が好きな時に好きなように呼ぶことにします。名に執着はないのでしょう?」

「勝手にしろ、クソ弟子。変な名で呼ぼうものならお前のケツの穴をもうひとつ増やして用も足せなくしてやる」

「口が悪いですよ、ソフィア」

 

 シモンはりんごを手に取り、小刀を差し込む。刃は赤い表面を傷つけることなくすり抜け、りんごの皮を裏側から剥いていく。

 三次元上では完全に密閉されている物体も、四次元上ではそうとは限らない。何かの間違いで生身の人間が四次元に迷い込んだなら、普通に歩くだけでも体の至るところから内臓がまろびでるだろう。

 それを応用すれば、りんごの皮を裏側から剥くなんて芸当もできる。手遊びには違いないが、修行としては適している。

 

「ああ、執着と言えば。あの男のことはもう良いのですか」

「救世主か。私の未来視では奴は死ぬ。根源から得た情報でもそれは変わらない。元より殺すつもりもなかったがな」

「では、動くならその後ですね。ただ、死者をも生き返らせた彼のことですし、蘇ることも有り得ると思いますが」

「それはない。擬似的なモノならばともかく、完全な死者の蘇生ははじまりの魔法使いにすら不可能な代物だ」

 

 何しろ、根源には番人がいる。

 物語に語られる不明の怪物(ジャバウォック)のような、抑止の赤い影が。

 ソレは間違いなく、死者の蘇生という事象を拒むだろう。そこにおそらく例外はない。誰であろうとアレに追いつかれた者は死ぬのだから。

 しゃく、とシモンは切り分けたりんごを口に運ぶ。青褪めた私の顔を慈しむみたいに、ヤツは微笑った。

 

「おや、先日教わったアスクレピオスの話は嘘だったと?」

「……いちいち癪に障るな、お前のニヤケ面は。その可能性は私も考えた。必死に未来を視たし、知識を抽出したさ。その上で結論はあり得ない、だ。あの男が復活したなどという事実はどの世界のどんな未来にも存在しなかった」

 

 それに。

 神を信じられず、自分の力さえ不確かなら、私は何を支えに生きていけば良いのか。

 ……およそ一ヶ月後、神の子は死んだ。

 弟子のひとり、ユダの裏切りによって。

 救世主は多くの人間に蔑まれ、石を投げられながら、十字架の上で命を使い果たした。

 その挙句、男は聞くに堪えない泣き言を叫んでいた。

 

「神よ、なぜ私を見捨てたのですか」

 

 それこそは奴が死を恐れていた証拠。

 我が物顔で奇跡を振るった男はその最期に神に切り捨てられて生を終えた。

 だというのに。

 

「神よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」

 

 お前はなぜ、微笑っている。

 神に愛された者が神に切り捨てられたというのに。

 それではまるで、お前が普通の人間みたいじゃないか。

 

「だが、お前は死んだ。これ以上なく完璧に。もう、お前は戻ってこないでくれ……!!!」

 

 

 

 ───ルカによる福音書第24章45節から53節。

 〝そこで神の子は、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた〟

 〝「こう、しるしてある。救世主は苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」〟

 〝それから、神の子は彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手を挙げて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、神の子は彼らを離れて、天にあげられた〟

 〝彼らは非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神を褒め称えていた〟

 

 

 

 救世主は生き返り。

 肉体を持ったまま天へ昇った。

 私が見た未来は否められた。

 確定していたはずの世界線はあっさりと歪められた。

 私が信じていたものは何もかも崩れた。

 未来を視るこの眼も、宇宙の知識を総覧する力も、神の慈悲を否定する矜持も。

 間違い続けて、誤り続けて、私は独りで見たいモノしか見ずに踊っていただけだったんだ。

 そんな、泣き伏せる私の背に、

 

「───()()()

 

 聞き覚えのある声が、降り落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プレーローマ。ソフィアを追う立香たちはヒトが肉体を持ったまま立ち入ることできぬ霊魂の領域に足を踏み入れる。

 不思議と、そこにいることに違和感はなかった。サーヴァントであるマシュやジャンヌのみならず、立香でさえもバイタルになんら影響は認められない。

 考えればそれは当然だ。この世界は物質界を離れた魂が還る希望の園。誰かを害する悪意は微塵も存在しない。つまるところ、ここは、

 

「───やさしいせかい、ということですね」

「やさいせいかつじゃなくて?」

「どうやらソフィアより前になんとかしなきゃならないのが二人いるみたいね」

 

 ジャンヌはじとりとなすび頭と赤いアホ毛を睨んだ。素早く脳天をガードする立香に対して、マシュは妙に余裕のあるしたり顔で手を打ち鳴らした。

 

「落ち着いてください、ジャンヌさん。こんな時だからこそ平常心で臨まなくては。先輩を見習ってください」

「豆腐と納豆って字面的に逆じゃない?」

「……このように、先輩は常にデフォの状態でおられます。これぞ全てのマスターが模範にすべき境地です」

「アンタらの平常は異常なのよ!! というかデフォでアホなのを晒してるだけでしょうが!!」

 

 その異常な平常の中に自分自身も含まれていることに関して、ジャンヌは毛頭気付いていなかった。マシュは怒鳴り声を微動だにせずに受け止める。シールダーの貫禄だ。

 

「それはそれとして」

「それはそれとするな」

 

 マシュは顔に深い影を落として、

 

「…………ソフィアに攻撃をしないという作戦、本当にやるつもりなんですね」

「いきなりシリアスにしようとしても遅いんですけど!?」

 

 すぱん、とジャンヌの平手打ちがマシュの後頭部を捉える。

 音は可愛らしくとも、彼女の膂力から繰り出されるその威力には可愛らしさなど微塵もない。マシュは頭を抱えてしゃがみ込み、口をとがらせて文句を言う。

 

「一体何なんですかジャンヌさん。そうまでしてわたしの邪魔をしたいんですか。カルデア歴で言うとわたしは先輩ですよ?」

「いや、それで言ったらそもそもマシュは私より先輩……」

「いえ、先輩はわたしの心の先輩、人生の先輩です。何より後輩属性という強カードを捨てるわけにはいきません」

「アンタに後輩属性があったのとか今思い出したわ。私の目には長らくでっぷり実った邪悪なすびしか見えてなかったから」

「奇遇ですね。わたしもジャンヌさんのことはポンコツ暴力魔女にしか見えていませんので」

「……それ以上不毛なやり取りを続けるようなら帰ってもらってもいいか?」

 

 やや控えめな声が立香たちの耳に届く。三人が咄嗟に顔を向けた方向にソフィアはいた。彼女の傷は綺麗さっぱり修復されており、体のラインが見える程度にほんのり透けた白いローブを肩にかけている。

 

「この世界は物質界と流れる時間が異なる。いつまでもアホを繰り広げても、あちらでは数秒程度だが、居座られる私の身にもなってみろ」

 

 立香はどっしりと構えて言い返す。

 

「そういう訳にはいきません!! 『暗黒の人類史』なんて送り込んできたあなたには色々と恨みがあるんです! どれだけ大変だったか知ってますか!!?」

「もちろん知っているとも。蘆屋道満のアホさ加減は私のお気に入りだったのだが、あいつは良い敵になってくれたか?」

「敵と言えば敵でしたけど、なんかひとりで空回ってる印象しかありませんでした!!」

「なるほど。道化としては満点だが敵対者としては落第点だったか。やはり股間に魔弾を喰らってるような奴は駄目だな。貴重な意見参考になったよ。次は安倍晴明を喚ぶとしよう」

 

 この期に及んで余裕に満ちた反応。ジャンヌは額に青筋を立て、ガチャガチャと剣の鯉口を鳴らす。

 

「次なんてあると思ってるのかしら? どうせ私たちが魔術王をブチのめして世界は元通りになるっていうのに」

「あるさ。私は全てを知ることができる。魔術王が人理焼却を引き起こした手法も、特異点を創り出す方法も。二度目だから改善策も用意してある」

 

 そうだな、とソフィアは口元に手をやり、暫し考え込む。

 

「精々必死に準備させてもらうとするよ。1000年ほど費やしてな。80年そこらで生を終えるお前たちには関係のない話だ。別に構わんだろう?」

 

 あっさりと、知恵の女神は言い切った。

 たとえカルデアが勝利しようと、1000年後の人類もまた焼却してみせると。

 これまでの全てを無に帰すような宣言。立香は怯むことなく、真っ向から言葉を叩き返す。

 

「どうして、人類を滅ぼそうとするんですか」

「良い質問だ。正直に言えばな、私は魔術王が人を救おうが滅ぼそうがどうでもよかった。どちらも人類の終着には違いない」

「ハッ、救うことが終着とか何言ってるんですか?」

「いいや、救済は滅亡と同じ終焉だよ。〝めでたしめでたし〟で終わる本のように、勇者が魔王を倒した後にエンディングテーマが流れるように、完成した世界は剪定される」

 

 ソフィアは語る。

 あの時、あの王が、全く別の選択肢を取っていたら。そんな『もしも』は人の数に星の数を掛けたほど存在し、その選択の差異の積み重ねはやがて新たな世界線を創り出す。

 そうして生まれた世界はまた新たな可能性を増殖させながら、発展あるいは衰退を遂げていく。

 その中には確かにあったはずだ。非の打ち所がないほどに完成された世界が、目を覆うほど悲惨な結果に終わった世界が。

 どちらにせよ、袋小路に至った世界はある時を境に宇宙から切り捨てられる。残されるのは発展性のある未来を持つ世界だけだ。

 

「この世界にクリア後のやりこみ要素なんて無いんだよ。人類を救うという尊い理想は、叶った時既に剪定が決定されている。全ては無駄だ。それに、私はもう疲れた。こんな世界はさっさとエンディングを迎えるべきなんだ」

 

 そして、クリア条件は救済よりも滅亡の方が遥かに容易い。故にソフィアは後者を選ぶ。ただ単純に、簡単だからという理由で。

 ならばお前自身を終わりにしてしまえばいい───脳内の片隅でノアがそう言うのを、立香は頭を振って消し飛ばした。

 代わりに。少女は彼の夢を借り受けて。

 

「それだったら、みんなが根源に辿り着けばいいんじゃないですか」

 

 ソフィアはその意図を察する。知恵の女神は僅かに、しかしくっきりと目を見開いた。

 

「根源は無限の可能性が集まる場所なんですよね。じゃあ、そこに行けば無限の発展性が手に入る。それなら剪定されることはない……はず!! この理屈って合ってる!?」

「詭弁にも聞こえますが、たとえどんなにガバガバでも一定の筋さえ通っていれば、この世界は受け入れてくれるはずです。今まで見てきたサーヴァントが良い例です!!」

「久しぶりに良いこと言ったじゃない。立香の理屈が間違ってようが私は構わないわ。どうせこの身は泡沫のものなんですし」

 

 立香は力強く頷き、ソフィアに手を差し伸べる。

 

「だから、世界を滅ぼすなんてことはやめて、私たちと一緒に行きましょう」

 

 それはまるで。

 悪逆の化身たる竜の魔女に手を伸ばした時のように。

 目指すのは救済でも滅亡でもなく、ただ前に進むということ。

 ソフィアはその手を取りかけて、

 

「……お前たちは見落としをしている」

 

 伸ばした自身の手で、立香のそれを払い除ける。

 

「進むという行為が生み出す汚濁。発展を望み、邁進した果てに人類は一体いくつの不幸を生み出してきたんだ!!」

 

 ───お前たちも見るといい、人類の罪悪を。

 瞬間、立香たちの意識は彼方へ吹き飛んだ。

 それはあたかも現実のように、五感を揺さぶる。

 

〝殺せ。成虫も幼虫も頭の皮を剥いでしまえ。シラミの子はシラミになるからな〟

 

 例えば。既に白旗を掲げた先住民の部族をことごとく皆殺しにした男がいた。彼とその部隊は殺した人間を解体し、記念品のように持ち帰った。

 

〝ユダヤ人こそ我らの敵であり、不幸の原因だ〟

 

 例えば。戦乱と死が世界中に吹き荒んだ時代、殺戮の嵐が人々を襲った。いくつもの罪なき命が慈悲もなく奪われ、その禍根は現代にも深く根を張っている。

 

〝この世全ての悪は魔女によってもたらされている。魔女の増加はいずれ破滅を招く〟

 

 例えば。ヨーロッパ全土に隣人への迫害と暴虐が蔓延した時代があった。一度目をつけられれば、男も女も関係なく不当な拷問にかけられ、反駁の余地もなく殺される。

 呆れるほどに積み重なり、性懲りもなく増えていくヒトの愚かしさ。立香たちはそのほんの一端を、しかし余すことなく体感した。

 その時間は現実にして一秒にも満たない。

 けれど、目の当たりにした悲劇はそれこそ比べ物にならず。

 

「「────っ、ぅ…………!!」」

 

 立香とマシュは膝を折り、こみ上げる嘔吐感を押さえるように口元を覆う。

 唯一、立っていられたのはジャンヌのみ。彼女は真っ白な肌をさらに虚ろな白に染めながら、忌々しげに言った。

 

「……随分と出来のいい悲劇を見せてくれるじゃない。アンタの言いたいことはよく分かったわ。こんなことをする人間が救われていいはずがない……そういうことでしょう」

 

 ソフィアは首を横に振る。

 

「救いを説く者たちはこう言う。〝いつの日か天の国が来たり、信じる者は救われる〟、〝56億7000万年後、弥勒菩薩が衆生を救済する〟……なるほど、いつか人類は救われるんだろう。私たちの想像の余地も及ばないほど遠い未来で」

 

 だが。

 

「その過程で虐げられた人間の悲哀は、不幸は、何も変わりはしない!! なぜなら救いとはいつかの誰かのためではなく、今を苦しむ人々のためにあるものだからだ!!! いつか来る救いのために切り捨てられた現在と過去の不幸な人間は不幸なままに人生を終えろと言うのか!!? そんな残酷な願いがあってたまるか!! それならいっそ、ここで終わった方がまだマシだ! 少なくとも苦しむ人間の数は減るのだからな!! お前たちの言う無限の発展性とやらの裏にあるのは無限の苦痛────永遠に痛み続けることを望む邪悪な願いだろうが!!!」

 

 駄々をこねる稚児のように。

 熱弁を振るう独裁者のように。

 あるいは、祈りを捧げる聖職者のように。

 ソフィアは自らの思いの丈を吐き出した。

 

(ああ、そうか。この人は誰も切り捨てたくなかったんだ)

 

 潤む視界。

 焼ける心臓。

 立香は潰れかけた脳で思う。

 ───きっと、私たちの意見は交わらない。

 前に進もうとする者とここで終わりにしようとする者。たとえどんなに長い時間言葉を交わし合っても、落とし所が最初から失われている以上、理屈での決着はつかない。

 なぜなら、どちらもが間違っていなくて、どちらもが悪くない。

 それならば、ここで諦めて帰って1000年後の誰かにソフィアの相手を任せるか。もしくは、彼女を殴り倒して力で主張を捻じ曲げるか。

 

(そんなこと、したくない)

 

 だって、私は見てしまった。

 体をずたずたに裂かれた、ソフィアの涙を。

 私に、英雄みたいな力はないけれど───ないからこそ、できる限りの精一杯をやり遂げたい。

 生気の抜けた体を強引に起こす。

 絶えたいと切望する意識を揺さぶる。

 

「みんな」

 

 継ぎ接ぎだらけの覚悟で、少女は走り出した。

 

「───力を貸して!!」

 

 その手の甲に令呪の刻印はない。

 なれど、彼女の願いにサーヴァントは何よりも強く応えた。

 

「「もちろんです、マスター!!」」

 

 彼女らはとうに意味のない道を駆け抜ける。

 ソフィアは己の歯を砕かんばかりに、顎を食いしばった。

 

「もういい。もうやめろ。そんなことに意味はない。その足を止めろ────!!!」

 

 知恵の女神は手をかざす。

 永遠の領域を流れる真エーテルに拒絶の意が混ざり、暴風の鉄槌が下される。

 対城宝具にも匹敵する一撃。

 それを受け止めたのは、黒き装束を纏う少女。

 べきり、と骨が折れ肉が潰れる。ジャンヌはその傷など意に介さず、ただ口角を吊り上げた。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 プレーローマを包む、漆黒の炎嵐。

 世界さえも焼き尽くすと見紛う火炎の噴流はしかし、知恵の女神に向けられることはなかった。

 炎がソフィアの周囲を覆う。

 目くらまし。だがそれは愚策の中の愚策だ。否、策と呼ぶにすら値しない。

 彼女の眼は未来を視る。

 それをもってすれば、誰がいつどこから向かってくるかなんて息をするように読める。知恵の女神は未来の自分に追いつくように振り返り、人差し指を突き出した。

 

「『いまは遥か(ロード)────」

 

 ───実数時間から虚数時間に移行。ダークエネルギーを魔力に置換。

 

「『逆行起源/天地収斂(ネガ・インフレーション)』」

「『─────理想の城(キャメロット)』!!!」

 

 宇宙の寿命を削り取り、放たれた光の奔流。その光のひとかけらも逃すことなく、白亜の聖壁は屹立する。

 絢爛なるキャメロットは使い手の心が折れず穢れぬ限り、無上の加護を与える。余波だけで魂すら焼き尽くされるかのようなその熱量を前にしても、マシュはただ盾を構えた。

 その心に恐れはあった。

 だが、その心に迷いはなかった。

 なぜか、なんて今更答える必要もないけれど。

 自分の背中に護るべき人がいる。それだけで、少女はこの瞬間を無敵足り得た。

 閃光と城壁が同時に消える。攻防の代償───マシュは宝具の反動によって膝をつく。その影から飛び出す立香と知恵の女神は初めて視線を合わせた。

 両者の戦力は蟻と象の喩えすら陳腐と化すほどに差がついている。天地が覆っても変動する余地のない、強者と弱者の立場。

 未来を覗こうとした瞬間、ソフィアは思い至る。

 

(───彼女こそが、救われるべき弱者じゃないのか?)

 

 強者は弱者を踏み潰す。歩道を歩くヒトが、足元の蟻を潰したことにさえ気付くことがないように。あるいは、その悪意をもって微塵に砕き散らす。

 今しがた彼女らに見せた人の業。それを体現しているのは自分だ。

 自覚したその時、知恵の女神は立香を排除する数千億の手段を捨てた。腕を払い、真エーテルの突風を叩きつける。

 

「『魔女の祖(アラディア)』!!」

 

 立香は杖を展開する。しかし、それはコードキャストを行使するためではなく、杖の機能そのものを利用するためだった。

 『魔女の祖』は周囲のマナを動力にコードキャストを発動する。立香は杖に搭載された外界の魔力に干渉する機能を最大限に起動した。

 杖は不可視の風を捻じ曲げ、エーテルの影響を遠ざける。

 しかし、それはあくまで遠ざけるのみ。乱れる風が立香の肌にいくつもの傷をつけていく。

 

「───()()()()()?」

 

 知恵の女神は目を見開いた。

 全ての魔女たちの救世主。その名に、どこかへ仕舞い込んでいた忘れ物を思い出しそうな気がして。

 それは致命的な隙。気を取られた数秒間のうちに、立香は眼前に迫っていた。

 回避も防御も間に合わない。圧倒的な弱者の歩みを目前にして、知恵の女神が取った行動は、

 

「ひ……っ」

 

 人生が変わったあの時みたいに、恐れをなして怯えることだけだった。

 対魔力を貫通するコードキャストは確かに、ソフィアに対しても効果を発揮する。が、聖なる杯たる彼女の肉体から命を奪うまでには至らない。

 『聖なる婚姻』によって調律された彼女の体は女神としての完全性を獲得している。たとえコードキャストが直撃したとしても、蚊に刺される程度だ。

 それなのに。

 足を失った時の、全身を貫かれた時の痛みと苦しみが、知恵の女神を童女のように弱々しくさせていた。

 痛いのも、辛いのも、苦しいのも、もう嫌だ。

 目を閉じて、腕を前に出して、これから来るであろう苦痛に備える。でも、そんな瞬間はいつまで経っても訪れはしなかった。

 代わりに、ふわりと暖かく柔らかな感触が身を包む。

 恐る恐る目を開けると、そこには自信を抱きしめる少女という現実。恐れていた苦痛は、ついぞ現れない。

 

「何を───している」

 

 心の奥底から言葉が抜け出す。

 少女は芯のある声で返した。

 

「私はあなたを傷つけません」

 

 ───だって、痛いのは苦手そうだったから。

 涙を流して踵を返す姿を見て、そう思った。

 

「あなたが人類の酷いところをたくさん見てきたのは分かります。でも、それってひとつの側面でしかなくて……なんて、アレを見せられた後で言うつもりはありません」

 

 それでも。

 

「本当に、あなたの人生は不幸だけに塗り潰されていたんですか。何かを憎むあまりに自分の幸せも忘れていたなら───そんなに、悲しいことはないと思います」

 

 その言葉、沁みるみたいに溶け込んで。

 ヘレネーでもなく。

 ソフィアでもなく。

 ただ、ヘレンは思い出す。

 自らの生を輝かしく、または暖かく彩った二人の人間の記憶を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───その声から、私は逃げた。

 逃げて逃げて、遂には外界をも厭んで、焼け落ちた神殿に潜んでいた。

 30年以上が経ち、隠遁していた私を連れ出したのは以前のみすぼらしい風貌など面影にも残さない男に成長した、シモン・マグスだった。

 

「会わせたい人がいる。引き籠もってないでそろそろ陽の光を浴びても良い頃だろう? ヘレネー。ニートの世話をするのも飽きたところだしな」

「…………一体誰に会えと言うんだ」

「第五代ローマ皇帝ネロ・クラウディウス。私がいま、宮廷魔術師として仕えている人だよ」

「お前は何を言っているんだ」

 

 反駁する手番も与えられずに、私はシモンに引きずられていった。

 曰く、第五代ローマ皇帝はその二つ前の皇帝カリギュラと負けず劣らずのトンデモ皇帝だと言う。ローマ大火の後に贅を尽くした劇場を建築し、そこで自身が主演の舞台を開いているのだとか。ちなみに民は強制的にそれを見なければいけないらしい。

 そこまで聞いて、私は率直な感想を述べた。

 

「聞けば聞くほど馬鹿な男だ。海に宣戦布告したカリギュラもなかなかだったが、ネロもまた月に魅入られたクチか」

「いいや、皇帝は女性だよ」

「……女がどうして、政の頂点にいる?」

「そこは男装をしてごまかしている。それに、我が皇帝は母の策謀によって帝位を授かった。帝位さえ継げれば性別など大した問題ではなかったのさ」

 

 権力欲。人間が持つ欲の中でも、最も低俗で醜い欲求のひとつだ。言わば、ネロ・クラウディウスは母の欲によって生まれた傀儡と言ったところか。

 多少の同情はある。強者の地位についていようと、彼女もまた他人の都合で切り捨てられた人間。その顔を見てみたいと、ほんの少し興味が湧いた。

 首都ローマ。顔パスで歩いていくシモンの後に続いて宮殿を進む。その玉座には、

 

「おお、そなたがシモンが言っていた美女か!! 是非余の後宮に入らぬか!?」

 

 男装の麗人、と言うにはあまりにも露出の多い格好をした変人皇帝がいた。

 胸元を大きくさらけ出し、股の部分が透けた赤いドレス。正直、センスで言うならアシェラ神殿の娼婦が仕事時に着る衣装と全く変わらない。

 私はシモンの腰に拳をねじ込んだ。

 

「……おい、何だアレは。後宮の情婦が気が狂って皇帝のフリをしていると言われた方がまだ納得できる」

「破天荒なお方だろう? 我が皇帝に普通の価値観は通用しない」

「シモン、余はその者の顔をもっと近くで見たい! 皇帝と同じ目線に立つことを許すぞ!!」

「だそうだ。行ってその顔を味わわせて差し上げろ」

「私に命令するな、クソ弟子」

 

 呆れつつ、玉座の皇帝へと歩み寄る。すると、ネロは腰を浮かせてずいと顔を寄せてきた。

 金糸を束ねたような麗しい髪。透き通る緑色の瞳。シミひとつない白い肌。無言でそれを眺めていると、同じく無言を保っていた皇帝は勢い良く喋り出す。

 

「……ハッ!! 余としたことが、思わず目を奪われていた! よもやそなた、ウェヌスの写し身ではあるまいな!?」

 

 彼女は無邪気に目を輝かせる。

 走ることが好きだった、あの日の私みたいに。

 私は皇帝の輪郭に手を添え、囁いた。

 

「いいえ。真にウェヌスの加護を授かっておられるのは貴女の方にございます。とても……可愛らしいお顔ですよ」

 

 ネロはほのかに頬を染め、口をとがらせる。

 

「む、むう。美しいと評されるのは慣れておるが、可愛らしいなどと言われたのは敬愛する我が叔父以来だ。なんというか、むず痒いぞ」

「二人きりの閨の上でなら何度でも囁きましょう。ですが、貴女にそれを言うのは貴女にとっての善き奏者(ひと)のみ。私には荷が勝ちすぎます」

「くっ、そのような涼しげな風貌で熱い言葉を……!! ますます欲しくなってきた! 名を何と呼べばよい!?」

「ヘレネーでもソフィアでも、お好きなように。貴女は私の名を恣にすればよいのです」

 

 すると、皇帝は何らかのボルテージが限界に達したのか、全身で興奮を表現しながら宣言した。

 

「ヘレネー。今宵、余の劇場にとびっきりの特等席を用意する! 我が舞台をかぶりつきで鑑賞するがよいぞ!!」

「ええ、そうさせていただきます」

「そうとなったら早速準備だ! 今日の公務は全面的に打ち切りとし、官民総出で劇を仕上げるぞ! シモン、そなたも手伝ってくれ!!」

「御身の意のままに。いつも通り、空間を拡張して全ローマ市民が劇を観覧できるよう手配いたします」

 

 皇帝はステップでも踏むかのような足取りでどこかへ飛んでいった。シモンは相変わらず癪に障る笑みを浮かべて、

 

「まさか、君があんなことを言ってみせるとは。お姉様がたに教わったのか?」

「少しからかっただけだ。お前こそ、どうして彼女に仕えている」

「最初は取り入ろうとしたのだが、逆にこちらが魅了されてしまった。あの奔放さこそが十字架の祈りに対抗する最大の嚆矢だ」

「……彼女にあの名を背負わせるつもりか」

 

 シモンは首肯する。

 

「────バビロンの大淫婦。それに相応しいのは人類史においてただひとり、ネロ・クラウディウスのみだ」

 

 …………そして、夜。月明かりの下で、劇は幕を開けた。

 ローマじゅうの市民がすし詰めになった劇場の観覧席。彼らは虚ろな目で席に寄りかかっていた。中にはうつらうつらと微睡んでいる者もいる。

 私はというと。舞台全体を見渡すことができる最上階ど真ん中で、皇帝のひとり芝居を眺めていた。

 

「女神アフロディーテよ。貴女こそが最も美しい」

 

 演目は王子パリスとヘレネーの物語。

 数々の英雄がしのぎを削り合い、散っていったトロイア戦争の原因。皇帝は自らパリスの役を演じ、破滅へと転がり落ちていく物語を紡ぐ。

 舞台の上で躍る皇帝は完全にその役に埋没していた。余計なものを忘れて熱中するその姿はやはり、あの頃の私のようで。

 それが、羨ましかった。

 …………いや、まあ、舞台に上がるのがパリスひとりで、ヘクトールもアキレウスもセリフでしか存在を確認できないのはどうかと思うが。技量があるならまだしも、彼女のそれはひとり芝居の自己満足である。確かにこれは人によっては拷問だ。

 

「どうだ、ソフィア。いいやヘレネー。我が王の芝居は?」

「出来に文句はあるが、面白い。腹がよじれそうだ」

「……ならば顔に出してやれ。その方が王も喜ぶ」

「心の中では抱腹絶倒しているんだがな」

「引きこもりすぎて表情筋が言うことを聞かないだけだろう?」

 

 シモンの向こう脛を蹴りつける。

 アキレウスの踵を射止める佳境を終え、劇は終幕へ向かっていた。

 英雄パリスの最期。それはギリシャ神話最強最大の英雄ヘラクレスの弓矢を持つ弓手、ピロクテテスの一射によって命を落とすというものだった。

 

「数多の兵を殺し、兄の死を招き、故郷を滅ぼした。私の生は拭い難い罪業に塗れている」

 

 ヒュドラの猛毒を受け、もつれる足取り。

 

「ああ、だが、それでも」

 

 パリスは───皇帝は目を細め、一筋の涙を頬に伝わせて、私を見据えていた。

 

「最期に想うのは君のことだ……ヘレネー」

 

 差し伸べる手は私に捧げられる。

 それで、不覚にも思ってしまった。

 美しい。彼女の鮮烈な魂の輝きが、その裏で暗く灯る悲哀の嘆きが。

 それ以来、私は彼女の劇に毎回足を運ぶようになった。皇帝として失脚し、自らの喉に刃を突き立てるその日まで。

 助けることはできたかもしれない。向かう敵を焼き払い、どこか遠くの地へと逃げされば。

 だけど、皇帝はその末路を自身の手で決したのだ。

 ネロ・クラウディウスは必ずしも自由奔放な皇帝ではなかった。権力欲に取り憑かれた母親と老獪な元老院に雁字搦めにされた挙句、死の尊厳までをも奪うことはできなかった。

 三度、落陽を迎えても。

 彼女の輝きは、私が覚えている。

 

 

 

「───貴様の祈りでヒトが救えるのと言うのならば、今すぐ此処に証明してみせろ!! 偽神の徒め!!!」

「───神を試してはならない。故におまえを滅ぼすのは我が神の手ではなく、我が信仰の結実だ……!!!」

 

 

 

 皇帝が滅び、あいつもこの世を去った。

 第一の使徒シモン・ペテロと魔術師シモン・マグス。

 二人のシモンの戦いは書物に記されている通りに終結した。ペテロの祈りが起こした奇跡が涜神の徒である魔術師を墜落せしめて。

 ただひとつ、異なる点は…………いや、あんなクソ弟子のことなどどうでも良いだろう。敵に勝利するためならばどんな手も使うべきだ。私に頼る選択肢を選ばなかったあいつに言うことなんてひとつもない。クソ弟子は最期の最期までクソ弟子だったのだ。

 それからというもの。十字架の信徒への迫害がローマ帝国の手で行われた。

 草の根を分けてでも殺す───そこまでローマ市民の感情が激化した時期は少ないが、それでも殉教の精神を示す信徒たちの処刑は長らくローマの都市風景を彩る娯楽と成り果てていた。

 ───醜い。醜い。醜い。

 人の死をせせら笑うその顔が、他人の不幸で自らを慰める性根が。

 最初は迫害される側だった十字架の信徒たちが未来で、他者を切り捨てる人間の集団へ変わってしまうことが、何よりも醜かった。

 それを見るのももう飽きた。いっそ、誰の手も届かない場所へ逃げてしまおうか。そんなことを考えながら、当て所なく放浪していると、荒れ果てた山奥で、瓦礫の山と悪戦苦闘する少女を見つけた。

 積み重なった残骸。その中からかろうじて、それが十字架を掲げる教会であった面影を読み取れる。

 少女は小さな手で一際大きい瓦礫をひっくり返そうとしていた。

 

「ふんんぎぎぎぎぎぎ…………!!!」

 

 無論、普通の人間の、しかも子どもがそれを動かすことはできず。私は周囲の魔力に手を加え、瓦礫を宙に浮かせて退けてやった。

 がばりと少女はこちらへ振り返る。

 

「もしや、あなたは魔法使いですか……!!?」

「まあ、そんなようなものだ。こんなところで何をしていた」

「家が壊されてしまったので、建て直そうかと!!」

「なるほど、お前はアホだな?」

 

 少女はむっと眉をひそめた。

 

「アホとは失礼な言い草ですね。魔法使いならこんな家くらいささっと直してくれるんじゃないんですか?」

「厚かましいやつめ。私が魔法使いでなく悪い狼だったらどうするつもりだ?」

「……はっ! まさか私を取って食おうと!?」

「残念だったな、私は悪い狼ではなく悪い魔法使いだ。後ろを見てみろ」

 

 私は少女の背後を指差す。彼女が振り向いた先には、在りし日の姿を取り戻した教会が建っていた。少女はそのアホ面をさらに間抜けにして、

 

「……そ、その。とびっきりおいしいごはん作るんで勘弁してくれませんか」

「そうか。私は魚醤(ガルム)に漬けた海老が好みでな。床下から取ってくると良い」

「なんで我が家の台所事情まで知ってるんですか!?」

「何でも知ることができるからな、私は。もちろん、お前の事情も」

 

 そう言うと、少女は固まった。

 彼女の両親は病を患い、しかしあの男の手によって治療を受け、唯一神を戴く信徒となった。

 この時代は唯一神を崇める者への迫害が吹き荒れた。少女の家族も例外ではなく、隠れ棲む仲間のために営んでいた教会はローマの手によってその命とともに打ち崩された。両親が心血を注いで逃がした彼女を除いて。

 この少女もまた、強者が切り捨てた弱者のひとり。私はその眼を覗き込み、囁くように問う。

 

「私はお前に力を与えることができる。望みを言え、叶える術を教えてやる」

 

 私は知恵の女神として振る舞った。

 あのクソ弟子を拾ってやった時のように。

 少女はむむむと唸り、笑顔を輝かせて答える。

 

「それじゃあ、料理の仕方を教えてください! あなたに恩返しがしたいので!!」

「お前は、本当にアホだな」

 

 適当な知識を引き出して、料理の仕方というものを教えてやる。私自身、台所に立ったことがあるのはお姉様がたに軽食を振る舞うのと、仕方なくクソ弟子に作ってやった程度だが、何とか取り繕うことができた。

 料理人たちがひた隠しにする秘伝のレシピ、卓越した技術も全て筒抜け。どんな味音痴も料理の鉄人に早変わりだ。

 日が傾きかけた頃。私たちは豪華な食卓を挟んで向かい合っていた。

 

「あなたの名前を聞いても良いですか」

「ソフィア。ヘレネー。どちらでも構わない」

「二つも名前があるんですね。そんな人初めてです」

「二つとは限らないがな」

 

 そろそろこのやり取りも面倒になってきた。名が多いというのも不便なものだ。

 

「ええと、私の名前は」

「知っている。名乗る必要はない。どうせ明日には別れる関係だ」

「え……こんな私ひとりを置いて他のところに行くとか鬼ですか……!?」

「…………お前が独り立ちできるまでだ。それまでは見守ってやる」

 

 そこから先は、目まぐるしく時間が経っていった。

 

「……ということで、イアソンはアルゴー船の下敷きになって死んだ。めでたしめでたし」

「全然めでたくないんですけど!!? もっと救いのある話をしてください!!」

「注文の多いやつだな。ならば超大作を語ってやる。遠い昔、遥か彼方の銀河系で───」

「未来の物語を持ち出すのは反則じゃありません!?」

 

 眠れないというから寝物語を語ってやったり。流石に映画六本分の内容を語るのはくたびれた。

 

「いいか、周りの人間は全員化けの皮を被った悪魔だと思え。一瞬で食い物にされるぞ」

「そう言いながら買い食いしまくってるのは誰ですか。食い物で食い物にされてるじゃないですか」

「錬金術を使えば貨幣なんていくらでも量産できる。食い物にしているのは私だ」

「ちょっと兵隊さん呼んできます」

 

 街で遊びたいと言うから付き合ってやったり。

 

「恋ってしたことあります?」

「ない。どのようなものか知識で知ってはいるし、商売のそれならお姉様がたに教わったがな」

「なるほど、つまりむっつりなんですね」

「ぶっ飛ばすぞ」

 

 知らぬ間に色付き始めたり。明日にはここを発つと思いつつ、彼女と暮らす生活は陽だまりの下にいるみたいに暖かで、いつの間にか長い時が経過していた。

 昼食の最中。私は信じられない言葉を聞いた。

 

「あ、私結婚します」

「そうか。相手の男を連れて来い。お前に相応しいかどうか殴り飛ばしてから決めてやる」

「前提がおかしいんですけど」

 

 彼女は私が羨望を抱くとことすら諦めるくらいに普通の人間だった。

 家族を失い、三日三晩蹲って泣き続けて、けれど前に踏み出す一歩を怯えながらも積み重ねることができる人間だった。

 だから、彼女が選んだ伴侶も呆れるくらいに普通の人間で。

 子を成し、くだらない喧嘩もあったけれど、確かに幸福な人生を歩んでいた。

 

「……お前の人生は幸せだったか?」

 

 寝台に横たわる彼女に話しかける。

 かつての少女はしわくちゃの顔をゆったりと微笑ませた。

 

「ええ、とても。あなたと出会ってからずっと、毎日が楽しかった」

「本当に、最期を看取るのが私で良いのか」

「もちろん。あなたの方こそ、私といて幸せだった?」

「……ああ。痛くも苦しくもないのは初めてだったよ」

「良かった。……ねえ、最期にお願い。あなたの名前を、教えてくれる?」

 

 私は細く枯れた指を絡めて、耳元に唇を寄せる。

 

「ヘレン。それが、私の名前だ」

 

 とっくのとうに力なんてないはずの体を起こして、私の体を抱く。

 人は醜い。どうしようもないくらい。でも、それはあくまで人類の性質の一部だ。これまでに積み上げ、これから積み上げる業の前では、一部でしかないと切り捨てることなんてできはしないが───この優しさと暖かさは、人が持つ輝きだ。

 もう、私には人間が分からない。目を覆う残酷さを持つ人類が、こんな感情を抱かせるのだから。

 

「この世はどうにもならないことばかりだけれど」

 

 確かなことはふたつある。

 ひとつ、彼女は美しくて。

 

「私たちを、見捨てないでね。ヘレン」

 

 私は、ずっと、誰かにこうされたかった。

 名前を呼ばれたかった。

 優しく抱き締められたかった。

 それを遠ざけてきたのは他でもない自分自身だ。他者を切り捨ててきたのは他でもない私だ。

 みんながハッピーエンドを迎える結末なんてありはしない。世界を救う勇者に殺される魔物にもそれぞれの事情があって、全を救うためには一を切り捨てるしかない。

 故に、私はあの時決めた。

 決めたはずだったのだ。

 全を救うために取りこぼされた一の人々をこそ、私は抱きしめてみせると。

 私にできたのは、先の未来で見捨てられるであろう人々へ向けた福音を残すこと。

 魔女宗(ウィッカ)という拠り所と、その信仰の根源。それを魔術基盤として刻みつけることだった。

 ───それなるは全ての魔女たちの救世主。男も女も老人も子どもも、切り捨てられたあらゆる人間に寄り添う女神。

 魔女たる私に幸福を与えてくれた少女にちなんで、その救世主をこう名付けた。

 

「私は、ずっと見ているよ。───アラディア」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───どうして、こんな大切なことを忘れていたのか。

 私を抱き締める少女は告げる。

 

「あなたがもし、人の醜さに押し潰されて、疲れて歩けないのなら」

 

 私が、背負って歩いていきます。

 アラディアに似た声音で、そう言った。

 

「私なんかに、そこまでする価値はない」

「その価値は私が決めます。世界を救うEチームのマスターなんですから、女の子ひとり背負うくらい全く辛くありません」

 

 思えば、彼女もまた誰もが笑い合える光景を目指していた。

 

〝……さようなら。私が夢見た理想の世界には────〟

 

 私のように、一をも切り捨てられずに。

 

〝───あなたの姿もありました〟

 

 カルデアの大半の人間を殺してみせた男に対しても、この少女は甘すぎる理想を語っていたのだ。

 彼女は、彼女たちは普通の人間だ。ひとりで怪物を倒す力はなく、英雄たちのような特異性もありはしない。

 でも、今のこの世界は。

 そんな普通の人間たちが苦しい現状にも面を伏せずに前に進んできたからこそ、あるものなんだ。全ての人を救う英雄なんて、どこにもありはしないから。

 そして、きっとそれが彼女たちの美しさ。

 私はそれから目を背け続けてきた。

 

「私のそばにいてください。これからたくさん、私が幸せな景色を見せてあげます。前に進むための力をいっぱい与えてあげます」

 

 私は彼女を抱き返して、

 

「……まず、訂正するなら。私は女の子なんて歳じゃないし、それほどの大口を叩くというのなら」

 

 肉体を昇華し、少女の影に溶け込む。

 

「───好いた男のひとりくらい、射止めてから言ってみせろ」

 

 沸騰したみたいに真っ赤になる顔を見て、私は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 物質界。自爆を果たしたウルク・フリングホルニは無数の残骸と化して、母なる獣とともに冥界へ堕ちていく。

 太陽神ケツァル・コアトルは地下へ飛び込みながら、己が眷属を呼び出した。

 

「『翼ある蛇(ケツァル・コアトル)』!!」

 

 白亜期末の翼竜ケツァルコアトルス。太古の生物は自由落下するノアたちを掬い上げ、その背に乗せる。

 

「───ここでティアマトを仕留める! おまえらは死んでも俺を護り抜け!!」

「ええ、任せてくださいノアさん。このダンテ・アリギエーリめが必ずティアマトのもとへ送り届けて差し上げましょう」

「……なんか、お前いつもと違くねえか? ここは涙と鼻水撒き散らしながら怯えるところだろ」

「ふふふ……甘いですねペレアスさん。私は全てを諦めたのですよ!! というか、ぶっちゃけて言うとこれ絶対死にません!?」

「ペレアス、そいつ蹴り落とせ。ティアマトのエサくらいにはなんだろ」

「よし任せろ」

 

 翼竜の背で不毛なやり取りを繰り広げるアホたち。ティアマトは容赦なく大口を開けて、魔力を込めた咆哮を解き放つ。

 サクラがかつて見せた反物質の対消滅をゆうにふた回りは上回る威力。その砲撃は真っ直ぐに突き進み─────

 

「「『魔女の祖(アラディア)』────!!!」」

 

 ─────寸前で急激に方向を変じ、天空を貫いた。

 ぐにゃりと開いた空間。プレーローマの風景が覗く穴から、立香たちが飛び出してくる。

 知恵の女神は立香とともに杖に手を添えていた。が、その姿は指先から金色の粒子となって消えていく。

 

「ティアマトの一撃を防ぐだけで物質界での肉体を維持する魔力さえ解けたか。まあ、お前の魔力量ではこの程度だろうな。後はお前たちがやれ」

「十分です!! 」

「……あの、Eチームのメイン盾である役割が消える予感がしてならないのですが」

「アンタの出番が消えるくらいで世界が消えるのを防げるなら上出来じゃない!!」

 

 立香は空より落ちながら、ノアへ叫んだ。

 

「リーダー、受け止めてください!!」

 

 ノアはすかさず両腕で少女の体をキャッチする。彼は立香の無事を確認すると、雑に襟を掴んで隣に立たせる。

 

「色々と聞きたいことはあるが、今はそんな場合じゃねえ。やることは分かってるな?」

「はい! 倒しましょう───Eチームのみんなで!!」

 

 事此処に至り、構図は単純明快。

 ヒトは、母たる獣を切り捨てる。

 神と英雄と人間は、終末の獣を臨んだ。




・ソフィアのステータス
真名︰ヘレン
性別︰女性
誕生年︰西暦15年9月8日
魔術系統︰なし。根源から術式を抽出することであらゆる魔術を使用できる。
魔術属性︰水、地、空(元々の属性は空単体。水と地の属性は『聖なる婚姻』によって女神、とりわけ地母神の性質を付け足されたために増えた)
魔術特性︰これもなし。強いて言うなら根源との『接続』、知識の『抽出』、魔術の『転写』という特性。
魔術回路・質︰EX
魔術回路・量︰EX
魔術回路・編成︰異常(他に類する事例なし。しかし、聖母マリアの身体構造と『一部』が類似している)

 普通の羊飼いの夫婦から産まれた、ただのヘレン。イシュタル・アシェラ神殿の神聖娼婦が行っていた儀式魔術『聖なる婚姻』の最高傑作。完全な根源接続者となることもできたが、根源から知識だけを引き出す能力に留まっている(完成するつもりもない)。
 魔術回路の質がEXなのはただ単純に最良や至高という枠を飛び越えた質を有しているという意味。量に関しては臓器が超一級の魔力炉心でもある聖杯の性質を得ているため。後者は手が加わった結果でもあるが、前者と未来視に関しては完全なる才能。シエル先輩と同じような突然変異である。
 未来視の精度を極限まで上げることで直死の魔眼と酷似した現象を引き起こすことができるが、本人によると〝あんな眼と脳を持たされるとか拷問か?〟とのことなので、使ったのはたった一度きりである。
 娼館の一番娘ヘレネー、知恵の女神ソフィアなどの名前があり、本名を加えて古き女神の三相一体を表す。本人的に気に入っているのは本名のヘレンだけ。本編でソフィアと名乗る時は知恵の女神として演技をしている時になる。
 基本的にできないことはほとんどない。しないことはあるが。ただし、全ての弱者・敗者に寄り添う性から、自分も誰かに完全に勝ち切ることができない性質を抱えている。そして、彼女は意識せずとも『全員が負ける結果』を望む。この世界には常に勝者と敗者が存在するが、人類が『全員が勝者になれる未来』に蟻の歩幅でにじり寄っているのに対して、ソフィアは『みんな敗者になって傷を舐め合おう』という精神。神ですら切り捨てた人間は存在するが、彼女はそんな人たちをこそ救いたいと願った。
 アラディアは魔女の救世主であるが、魔女狩りの時代に処刑された人の中には男性もいた。故にアラディアが救うのは老若男女すべての切り捨てられた人間であり、彼女にとって魔女とはその人たちを指す。原初の魔女とはアラディアに救われた最初の魔女ということ。
 神秘が衰退する時代にあってもなお、女神として君臨できる可能性を与えられていたが、ヘレンはそこまで精神が強くもなければ普通の人間でいられるほど弱くもなかった。その結果として、名も無き少女の一生を看取った記憶を自ら消してプレーローマに雲隠れした。ちなみに9月8日は伝統的に聖母マリアの誕生日とされている。
 本気で戦闘する場合は自らの知識を魔導書のカタチにして、詠唱を代行させる。普段使いするのは『天の理』、『地の理』、『人の理』。敵の強さに合わせて禁書指定『神の理』を解放する。また、これらの魔導書は莫大な情報でソフィアの脳がパンクすることを防ぐための外付けハードディスクでもある。使用する魔術に応じて一時的にテクスチャを貼り替える儀式場を展開するが、これは魔術の効果を高めたり、自身を強化したり、有利な戦場を造り出すためのモノであって必須ではない。儀式場の数は全部で44。タロットカードの大アルカナ0〜21の22枚とそれぞれの逆位置を含んだ数である。さらに、それぞれに四つの小アルカナの要素を加えて性質を調整できる。
 儀式場の中でも特別なのが、第1儀式場『魔女の饗宴』とその逆位置である第23儀式場。タロットカードでは魔術師のアルカナ。これらはソフィアの魔女としての能力が最も強化される場所となる。
 以下、ソフィアの『暗黒の人類史』への評価。
 ロベスピエール→己の理想のために数多の人間を排した殺戮者であり、最期には自身もギロチンにかけられた敗者。時代が生み出した怪物。自ら悪逆を背負う姿勢に共感を得ていた。
 ダンテ→詩だけを書いていればよかったものを、人の悪意によって居場所を追放された可哀想なやつ。イタリアの言語統一の礎となったことは、神秘を用いず神に与えられたバベルの塔の試練を打ち破ったとして羨望と劣等感を抱いている。お気に入り枠その一。
 コロンブス→こいつだけ敗北者じゃなくね? ……というのは別として、彼の功業は欧州に絶大な恩恵をもたらしたが、反面深すぎる影を落とした。晩年、その栄光から見放されたことは敗者と表現できるかもしれないが、本人は全くその気はなかっただろう。最も『暗黒の人類史』に相応しい英霊。己が利益のために他の全てを踏み躙る在り方こそが人類の歴史の縮図と考えている。
(第三特異点のここの枠はノアとの北欧繋がりかつ、船旅も得意そうなラグナル・ロズブロークも考えていた。公式で出てきたので登場させなくて良かった。危なかった)
 オティヌス→ワイルドハントの恐怖の象徴に歪められたオーディン。異教の神を悪に貶めるキリスト教の罪業。アルトリアの人生については同情しかない。第四特異点のまさしく台風の目となった。
 虹蛇→非道な扱いを受け、虐殺された新大陸の人々の怨嗟と怒りの象徴。ソフィアのお気に入り枠その二。あまり詳細に書くと暗くなりすぎるので端的に書くと、やっぱり人間ってクソだなと思わされた大きい要因のひとつ。
 ラモラック→なにこの……なに? 組織にありながら好き勝手生きるのは人間の理想であり悪いところでもあるが、こいつの場合は突き抜けすぎている。そして我を通せるくらい強いのが余計にたちが悪い。が、その生き様はとても羨ましかった。
(当初のこの枠はベイリンだった。が、好きな円卓の騎士スリートップのペレアス、ベイリン、ラモラックがどうしても書きたかったのでベイリンがはぐれサーヴァントにスライドした)
 蘆屋道満→彼が何の敗者であるかは語るに及ばず。お気に入り枠その三。性格が終わっているのも、晴明へのねちっこい感情
も全てが見ていて愉悦。自分のどうしようもなさと救世主への感情を重ねている。平行世界の道満も視聴済みなくらいには鬱屈したファン。
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