自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録   作:なまゆっけ

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誰か風の型を救ってあげてください。


番外編その二 ウェルギリウスの地獄ウルルン滞在記 〜ダンテを添えて〜

 ダンテ・アリギエーリ『神曲』第一歌より。

 

〝人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさました時は暗い森の中にいた。その苛烈で荒涼とした峻厳な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。その苦しさにもう死なんばかりであった。しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃した二、三の事をまず話そうと思う〟

 

 ───そこは、黒々とした木々が無数に立ち並ぶ常闇の森。一寸先も不確かな暗闇の中を、いくつもの影が続々と駆け抜けていく。

 それは夜闇を縦横無尽に征く獣の群れ。あるいは豹、あるいは獅子、あるいは牝狼。いずれも人を喰らい、肉を貪る猛き獣であった。

 彼らが狙うは、ひとつの赤い影。地を這うが如き四足獣とは異なり、人間の頼りない二本の脚で蔦に根に歩を絡め取られながらも、暗中を進む。

 彼はある一点を目指して走っていた。深い森にあっても煌めく曙光の輝きを、まるで火に飛び込む羽虫のように追いかける。その光に希望があると信じて。

 人間は惨めったらしく息を切らして、肺の空気を絞り出すかのように絶叫する。

 

「ヒッ、ヒッ、ヒィィィエエエエエエ!!! だっ、誰か、おっお助けくださいィィィィィ!!! ンギャアアアアアアア!!!!」

 

 彼に背を追う獣たちと戦う力はない。追いつかれれば、成す術もなく奴らの胃袋に直送されるだろう。

 これは悪夢のような現実。

 口にするのも辛く、思い返しただけでもぞっとする恐怖の具現。

 もはや酸素の尽きかけた脳みそで、彼はふと思った───どうしてこんなことになっているのか、と。

 そう、思えば、この不幸はもっとずっと前から始まっていたのだ。

 我が故郷、麗しきフィレンツェ。世界に名だたる芸術の都。彼は、この現実から逃げ惑うように、記憶の糸をずるりと引き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 14世紀初頭、フィレンツェ共和国。当時のフィレンツェの実権を握っていたのは、富裕市民層からなる白党という組織である。先年、白党は封建貴族たちによる黒党を退け、白党の最高行政機関に三人の統領を選出し、市政を牛耳っていた。

 たった三人の統領。その中には、後の世に多大なる影響を及ぼす詩人にして、それよりも遠くの未来で数々の見るに堪えない醜態を晒すことになるダンテ・アリギエーリも含まれていた。

 この年、ダンテは黒党の暗躍を阻止するために教皇庁への特使としてローマに派遣されていた。そして、彼が教皇庁での仕事を終え、愛する家族が待つ家へと帰った時のことである。

 

「ジェンマ。ただいま戻りました」

「おう、土産は?」

「チーズとお菓子とワインと……こちら、薔薇の香りがする髪油だそうです。どうぞ」

「お前にしては良いチョイスじゃねえか。褒めて遣わす」

 

 と、いきなりお土産の催促をしたのは、ダンテ・アリギエーリの妻ジェンマ。明るい茶髪と冷たい蒼の瞳が印象的な女性だった。背丈はダンテの胸に頭が届かないくらいだが、ひとたび怒れば夫をさながらヌンチャクのように振り回す烈女だ。

 

「あ、そうだ」

 

 彼女は生まれたばかりの長女アントニアを抱きながら、何やら一枚の手紙をダンテに突きつける。

 彼は訳の分からぬままそれを受け取る。手紙の封蝋は役人が扱う公的なものだった。ジェンマはお土産のお菓子の封を乱暴に開けて、何の気無しに言った。

 

「追放だってよ」

「へっ? 誰がです?」

「お前」

「私が!!?!?」

 

 一瞬、アリギエーリ邸が跳ねたかと錯覚するような雄叫び。夫のそんな反応には慣れているのか、ジェンマはばりぼりとお菓子を貪りつつ、気の抜けた声を返す。

 

「ああ、違った違った。追放と罰金だったわ。ちなみに罰金の方はアタシがお前に二十五回嫁いだ持参金でようやく払えるくらいなんだけど、笑えるよな」

「まったく笑えないんですが!? むしろ罰則が増えてるじゃないですか!!」

「いや、笑えるのはアタシの持参金の少なさだけど。ウチのオヤジのケチくささつったら……金持ちのクセによォ〜〜〜」

「十年以上前のことをまだ根に持ってるんですか!? いや、そもそもこんな命令をされる覚えなんてないですよ! 詳しく説明してください!!」

 

 ジェンマが言うにはこういうことだった。

 ダンテが教皇庁に出張していた間、黒党は政変を起こして政権を奪取。さらにはダンテを勝手に欠席裁判にかけ、フィレンツェからの二年間の追放と罰金、おまけに市民権剥奪を命じたという。

 罰金の額は5000フローリン。フローリンとは当時フィレンツェが発行していた金貨のことであり、比較の参考としてジェンマの持参金は200フローリンであった。

 フィレンツェに渦巻く政情を理解し、ダンテはがっくりと床に崩れ落ちた。下級貴族の地位から死に物狂いで政界を這い登り、得た全てが己の知らぬ間に無に帰したのだから当然と言えよう。

 ダンテの三人の愛息子、ピエトロとジョバンニとヤコポは真っ白に燃え尽きて灰になった父を指先でつつく。

 

「かーちゃん、とーちゃんがまた死んでる」

「いつものことじゃね?」

「そうだぞー、どうせ放っといたら復活するから無視しようなー」

「き、鬼畜ですかあなたは……」

 

 ちなみに、この時末弟のヤコポはおよそ一歳ほどであろうとされている。彼は兄たちの見様見真似で父をつついていたのだった。

 ダンテはヤコポを抱き上げ、猛獣のような顔面で宣言する。

 

「───こんな不当な要求には屈しません!! 奪われたのなら奪い返すまでです! 私の政治手腕できっとこの状況を挽回してみせましょう……!!」

「…………どうやってだよ?」

「決まっているでしょう。ジェンマ、塩と蜂蜜を用意してください。これから有力者たちを訪れて協力を募ります」

「おいしく靴舐めようとしてんじゃねえよばぁーか!!」

 

 政権の奪回に燃えるダンテ。この時、1302年1月27日のことであった。

 で、1302年3月10日。

 フィレンツェの政情はさらなる動きを見せた────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「永久追放だってよ」

「イヤアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 この日、黒党は罰金の支払いのために裁判所へ出頭しなかったことを理由に、ダンテを永久追放処分とした。ついでにフィレンツェ市当局に捕縛された場合、火あぶりの刑に処すという脅しまでつけて。

 ただし、その脅しが本気であることは明白だった。以前はフィレンツェの統領であり、教皇庁とも繋がりを持つ彼の存在は、黒党にとって邪魔でしかない。

 ジェンマはとびきり大きくため息をついて、ダンテの顔面に自らの背丈はある大きさの背嚢を投げつける。

 

「逃げろ。アタシも後でガキども連れて出るからよ。黒党のクソになんざ捕まんじゃねえぞ」

「で、ですが」

「口ごたえすんじゃねえ。こんなところで死んだら地獄の果てまで追いかけて殺すからな」

「ちょっと、地獄行きにするのやめてくれません!? 私は絶対に地獄になんて行きませんから!!」

 

 しかし、ダンテとてここで殺されるつもりはなかった。

 彼はヘタレだが、妙な粘り強さがある。フィレンツェ内部から政局を動かせなかったのなら、外部から干渉するまでだ。その点においては、追放は有利に働くだろう。

 ダンテは四人の子どもたちを引き寄せ、強く抱き締めた。

 

「最愛の我が子らよ、しばらく父とはお別れです。お母さんの言うことをしっかり聞いて、絶対に再会しましょう」

 

 未だ幼いヤコポとアントニアに、父の言っていることは理解できなかっただろう。が、子どもの感受力は底知れない。並々ならぬ空気を感じ取り、首を傾げる。

 二人とは逆に、ピエトロとジョバンニはこの状況を理解し、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

「そ、そんな……っ! とーちゃんがいなくなったらおれたち─────」

「────かーちゃんのドブ底みたいな料理を食わないといけないのかよ……!!」

「ええ、そうです。あなたたちには大変な苦労をかけてしまいます。しかし想像を絶する苦難の道を往くは父も同じ。必ずや生き延びるのですよ……!!」

「おい、お前ら全員表出ろ」

 

 ジェンマはパキパキと指を鳴らす。一見小さな手ではあるが、そこに秘められた力がクマにも劣らぬものであることは一家全員が知るところだ。未曾有の恐怖に直面し、息子らの涙はぴたりと止まる。

 ダンテは背嚢を引っ掴み、じりじりと後退した。

 

「そ、それでは行ってきます! ジェンマ、あなたも気をつけてください」

「…………ぎゅってしろ」

「はい?」

 

 ジェンマはダンテの赤い外套をつまむ。それをぐいと寄せると、万力のような指力によってダンテが前のめりになる。

 小さな彼女の背に、恐る恐る腕を回す。

 その体は僅かに震えていた。傍目には気付かぬほどに小さく、しかし気丈な彼女がこんな弱みを見せるのは初めてだった。

 初めて───そう、ジェンマとは幼い頃からの仲だ。

 自分の方が二年早く生を受けたというのに、許嫁として紹介された頃から彼女にはどんなことでも敵わなかった。主に暴力の方面で。複数人の女性にその気もないのにラブレターを送っていたのが発覚した時は、全身の関節を三回転ひねりされた上に物干し竿で吊るされた。

 そんなサムソンをも想起させる烈女のジェンマが、こうして震えている。

 ダンテは腕に強く力を込めて、囁くように言った。

 

「……私の書斎に秘伝のレシピがあります。決して無用なアレンジをしたりせずにそのまま使うのですよ」

「オイテメーこんな時に言うことがそれかゴルァ」

 

 そんなこんなで、ダンテの逃亡生活は幕を開けた。

 彼の放浪生活については、多分に推測を含むところが多い。彼が残した家族は弟フランチェスコの庇護に入り、ダンテは同じく白党の亡命者たちと行動を共にしていた可能性が高い。

 1302年から1303年の半ば頃まで、彼は黒党打倒のためにかつて敵対していた皇帝派と手を組むも、それは立ち消えに終わった。

 そして1303年の10月2日、当時のローマ教皇ボニファティウス8世が死去する。ボニファティウスはフィレンツェに圧力をかけ、ダンテ追放の一因ともなった人物であった。その後任、ベネディクトゥス11世はフィレンツェ共和国の内乱を鎮めようと、枢機卿のひとりを送り、ダンテも書簡を認めるものの、結局交渉は決裂することとなる。

 この決裂が、白党の人間たちを暴走させてしまう。

 彼らは武力闘争を始め、穏健派と強硬派に分裂。党内から多くの脱落者を出してしまう。その中には、ダンテの姿もあった。

 

「…………ふ、ふふふ」

 

 どこまでも続くような荒野。地平線の彼方に沈みゆく太陽が、この天の下を遍く朱に染め上げる。ダンテは大きな荷を背負いながら、とぼとぼと頼りない足取りを進めていた。

 肩に食い込む荷の重さが、一段と己の惨めさを引き立てる。ようやく捻り出した乾いた笑いは、無聊の慰めにもならない。

 ボサついた髪の毛を手櫛で直し、そのまま右手を下ろすとぞりぞりとした感触が伝わる。何度目になるかも分からぬため息を吐き出し、もう片方の手で握る酒瓶の中身を一気に煽る。

 疲労による倦怠感と深い酩酊。脳みそに手を突っ込まれているかのように意識が掻き乱され、

 

「おげええええええッッ!!!」

 

 吐瀉物を吐き散らかしながら、ダンテは地面に横たわる。

 潤む視界、混濁する思考。ぼやぼやと形を失っていく意思の最中、浮かび上がるのは数日前の出来事。仲間と袂を分かつことになった一件であった。

 

〝もはや我らに残された道は武力による黒党勢力の排除、これしかない!!〟

〝教皇庁に頼ることはできない。だが、正統性はこちらにある。故郷を追われ、地位を奪われたままで黙っていられるか!!〟

〝ま、待ってください! 今や共和国を掌握した奴らに、私たちのみが立ち上がっても勝てません!! それに、武力の行使は勝敗がどうあれ民に被害をもたらします!!〟

 

 それでは、たとえ黒党打倒を成し遂げたとしても、民衆の支持は得られない。そう言いかけて、ダンテは眼前に立ちはだかる現実を直視する。

 全身に突き刺さる、いくつもの視線。ぷつぷつと肌が粟立ち、背筋を冷たいものが伝う。敵意とも憎悪とも取れぬ、暗く黒く冷たい感情の矛先の一切が、自身に差し向けられていた。

 理想を共にしたはずの仲間のその瞳を見て、ダンテは思い知ったのだ。

 自分が目指した政の道は、これで終わりなのだと。

 その結論が妙にすとんと腑に落ちて、納得がいってしまったから、彼は今こうして流離っている。今まで築き上げたものは戻しようもないくらいに崩れてしまった。

 

(私には、土台無理な夢だった)

 

 幼少の砌、心を奪われたとある皇帝の記録。

 異教の皇帝、異なる時代の人間が綴った戦いの物語は暗唱できるまでに読み倒した。鮮烈にして軽妙なる語りは誇張が多く含まれていると知っていてもなお、目を離すことができなかった。

 武才、文才、知才、あらゆる才能を兼ね備えた男は誰よりも野心に溢れ、当然のように王の座に君臨した。ローマの歴史は名君も暴君も取り揃えているが、彼に肩を並べど超える者はひとりとしていないだろう。

 彼のような偉大な政治家になりたい───そんな夢は、儚くも砕け散った。

 喪失の重さは遅れてやってくる。失ったその時は悲哀が心を麻痺させてしまうから。

 真に喪失を実感するのは、その悲哀から立ち直った時。ふとした瞬間に、喪失の重さは心にのしかかる。

 ダンテはそれを知っていた。

 かつて恋い焦がれた彼女の姿が、街中の喧噪からぽつりと消えてしまったことに気付いた時のように───いつもあるはずの、そこにいたはずのものがない。その時にこそ、人は喪失を実感する。

 じゃりじゃりとした口内に残る、酒精の味。瞳に射し込む日暮れの陽光。故郷にいた時ならば、家族とともに食事を取っていた時間帯だ。

 それがもう、失われたのだと実感して。

 

 

 

「───ん゙もォォォォ!!! どいつもこいつもほんっっとに争いが大好きですよねェ!! 聖書百万回読み直してこいってんですよこのバカ!! アホ!! ダボハゼ!! ○○○○!! 少しはみんなで手を取り合おうって気はないんですか!? あ〜っ、ないかぁー! だってあいつら全員欲で目が曇った俗物ですもんね!! ほんとはなんにも考えてないですもんね!! はぁ〜、頭が弱いと人生楽そうで羨ましい〜〜!!! 私もあいつらみたいな能無しだったらよかったんですけどねえぇ〜!!」

 

 

 

 結果、ダンテは脳みそから流れてくる悪口をそのまま吐き出す怪物と化した。四つん這いで大地を駆けずり回り、罵詈雑言を放出するその姿に、人の尊厳はない。

 元よりここは誰もいない荒野。聞かれる心配もなければ、見られて失う恥もない。太陽が地平線の裏側に隠れるまでそれは続き、終わりを迎えたのはすっかり肌寒くなってきた頃だった。

 息を荒げながら寝転がるダンテの近くを、大きな荷を載せた馬車が通りがかる。

 荷馬車に乗る男は陽気に微笑みかけた。

 

「こんなにも長い間罵詈雑言を吐き続けるとは、素晴らしい語彙だ。次々と言葉が溢れ出てくる様……貴殿の頭には知恵の泉があるのかな」

「…………み、見てたんですか?」

「途中からだがね。何か辛いことがあったのだろう? まずは着替えるといい。全身がゲロまみれだ」

「あ、はい」

 

 手頃な水場で体を清め、服を着替える。

 ダンテがしずしずと戻ってくると、男はいつの間にか地面に布を敷き、一面に料理を用意していた。

 この短時間でどうやって用意したのか、どれも作りたてのような湯気を帯びていた。男は手を招き、ダンテを向かいに座らせる。

 

「ここで会ったのも何かの縁だ。夕餉を共にしようではないか。いや、その前に自己紹介か?」

「え、ええ。私はダンテ・アリギエーリと申します。訳あって流浪の身ですが、前はフィレンツェにいました」

「ほう。その名前、知っているぞ。黒党に追放されたフィレンツェの元統領だろう。まさか貴殿がそうなのか?」

「そうですね。正直、今でも受け止めきれてない事実ですが」

 

 ダンテはさあっと涙を流した。日頃から運動をして汗をかいていると汗がサラサラになるように、その涙は驚くほど淀みなく溢れた。

 男はハンカチを手渡しつつ、

 

「なるほど、貴殿の事情が見えてきたぞ。故郷を追われ、政権を取り戻そうとするも日々過激さを増していく仲間と袂を分かち、失意の中にある。そんなところか」

「……これが小説なら地の文を読んできたかのような正確さですね!?」

「年の功というやつだよ。いや、自らの事情を暴かれることは不快だったろう。すまなかったな」

「いえ、全てあなたの仰る通りです。もはや私には何をどうしたらよいのか……」

 

 そこで、彼はくすりと笑った。

 微笑む顔に、耽美な色を滲ませて。

 

「───夢が、理想が叶わぬのは、やり方を間違えているか、願いの形を理解していないか。この二つに尽きる」

 

 唐突な語り口。けれど、ダンテは自身でも不思議なほどに、彼の次の言葉に五感を傾けていた。

 

「白党の残党が前者であるのなら、貴殿は両者に当てはまる。政が最善の道なのか? そもそも何を志していたのか? それらを理解していない。惜しいことだ、貴殿にはこの世界を変革する才があるというのに」

 

 ずぐりと、皮膚の下で冷ややかな怖気が蠢く。

 彼は見抜いている。ダンテ・アリギエーリという人間を、本人ですら自覚しない何かを、気味が悪いくらいに把握している。

 

「だから、けして諦めぬことだ。残酷で、圧倒的な、クソったれた現実に打ちのめされてもなお、夢想の世界を生きる者だけが願いを叶える権利を持つのだから」

 

 曖昧な悩みや苦しみが形を得て、整理されていく感覚。ダンテは引きつった唇から隙間風のような声を捻り出した。

 

「あ、あなたは一体何者なんです?」

「しがない旅の商人さ。名は……ローザと呼んでくれ。こちらでは薔薇のことをそう呼ぶのだろう?」

 

 む、とダンテは目を細める。

 男はその名の通り、衣服の各所に薔薇の意匠を刻んでいる。薄い紫色を帯びた白い長髪は頭の後ろでまとめられ、薔薇の花をそのまま摘み取ったかのような眼帯で右眼を覆っていた。

 名は体を表すが、彼の場合は体になぞらえて名をつけたのだろう。男は明らかな偽名をさらりと当然の如く告げてみせた。

 

「あなたは、もしや魔術師と呼ばれる人なのでは?」

 

 ローザは目を見開いて、

 

「おや、これは驚いた。なぜそうだと?」

「魔術師の方は男性でも髪を切らないと聞きますし、それに……あなたからは、なんというか計り知れない生命力のようなものを感じます」

 

 彼が纏い持つ不可視の力。ダンテの感覚はそれを察していた。さらには、衣服に覆われた肉体───ギリシャ彫刻のように磨き抜かれた五体さえも。

 五感全てが、目の前の男が只者ではないことを物語っている。彼は観念したようにはにかんだ。

 

「凄まじい眼力だ。魔術師の存在まで知っているとは。我らは魔術を隠匿するのだがな」

「政の世界では割と有名ですねえ。なんでも、卑金属を黄金に変えられるとかで、資金と引き換えに特権を求めてくるような人たちがいるようで」

「ふむ、俗な錬金術師(まじゅつし)もいたものだ。黄金錬成如きで人を釣ろうとは。まあいい、今日は善い日だ。俗世のことなど忘れて楽しもうではないか」

「そうですねえ! 私の脳みそをあんな奴らに割くだけ無駄ですし!!」

 

 ということで、ダンテとローザは大いに飲み食いした。

 ローザはいくつもの話を披露してくれた。

 

「これはとある死徒に半殺しにされた時の話なのだが────」

 

 人の血を糧にする吸血鬼との戦い。

 

「北海にて世界を流離う黒妖精の末裔と出会ってな。彼らと一時、路を共にした際は────」

 

 遥か昔、流浪の一族をブリテン島に導いた旅路。

 

「かの暴君ネロが女性だったと言ったら笑うかね?」

「そんなこともありますよねえ!! おぼろろろろろろ!!」

「おお。かなり酔いが回ってきているな」

 

 余人が知る由もない、歴史の裏側。

 彼はいったいどの時代から生きていて、どれほど世界を旅したのか。そんなことがどうでもよくなるくらい、彼の語りは新鮮だった。

 夜が更け、酒も底を尽いてきた頃。ローザは夢も現も曖昧になったダンテに、右手を差し出す。

 その人差し指と中指の間には、淡い桃色に輝く貴石。スピネルと呼ばれる宝石だった。

 

「ダンテ・アリギエーリ。貴殿が今道に迷っているのなら、これを飲むと良い。あるいは答えを見つけられるやもしれん」

「それって宝石ですよねえ〜〜、むしろ飲むより持っていたいモノというか……お腹壊しません?」

「嫌かね?」

「───まあお腹壊したところでどうでもいいですか!! 今より辛い状況になるなんてありえませんからねえ!!!」

 

 ダンテはニヤリと笑い、宝石を受け取って口に放り投げた。

 それは口内で飴細工のように溶け、喉の奥に滑り込んでいく。やはりと言うべきか味は一切の無味であり、食感にも乏しい。

 思わず首を傾げた直後、後頭部から脳みそを丸ごと取り出されたかのような錯覚を覚え、ダンテは背中から地面に倒れた。

 

「その石に込めた魔術は『肉体と星幽(アストラル)体の分離』。要は幽体離脱を促すものだ。ただ、それだけでは単なる夢遊病と変わらん。霊体はいずれ精神によって肉体に引き戻されるからな」

 

 ローザは眼帯を取り外し、右眼を露わにする。

 蒼い左眼とは対照的な、真紅の瞳。虹彩の中には輪を描いた茨の紋様が刻み込まれている。ダンテはそれを肉体と星幽体、両方の目で直視した。

 美しい、なんて言葉では計り知れない。

 だというのに、これは醜いと精神が叫んでいる。

 死体の腐肉に湧く蛆みたいに美しく。

 夜空に栄える孤月のように醜い眼差し。

 男は魔性の眼光を湛え、つらつらと述べる。

 

「故に、この魔眼にて貴殿の肉体と星幽体の繋がりを破壊した。肉体との縁を絶たれた魂は、一時的に根源への回帰を果たすだろう」

「つ、つまり……精神を壊したということでは───!?」

「その通り。貴殿はこれから向かう先で己の根源を知り、自己を再構成するのだ。ああ、少し私情も入っているがな?」

「そ、それは……」

「この会話を覚えていられるか微妙だが……教えよう。私は貴殿に輝くものを感じた」

 

 どろどろと溶けていく思考。泥濘の底に沈んでいく意識の中に、彼の声だけが響く。

 

「魔術師には根源を目指すための研究テーマがある。私の場合は()()()()()だ」

 

 創世記第1章27節。〝神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された〟。

 

「人は神に似せて造られた。ならば、人体をそっくりそのまま神の形に整えてしまえば、神と同じ位地に到達できるのではないか? 無論、ここでの人体とは人が持つ霊魂も含む。人の資質全てを神と同質にする、と言った方が易しいかな」

 

 無謀な話だと、多くの者は言うだろう。だが、サンプルは存在する。正典の記述ではないものの、エノクは天に召し上げられ、メタトロンという天使に変容した。ヒトが上位存在へと昇華できることはとうに証明されている。

 

「マハーバーラタではカルナは死後太陽神と同化しているし、ヘラクレスもまた神の座に列せられている。そこはさしたる障壁ではない。ただひとつ、問題は神がどのような姿をしているのかが分からないことだ。だから、貴殿には神の姿を見て、それを記述してもらいたい」

「どうして、わ、私なんです?」

「いや、本当は自分でやろうと思っていたのだが……一目見て思ったのだ、貴殿しかいないと。まあ、つまりはノリだ」

「ノリでこんなことを───!!?」

 

 それが、ダンテにできる最後の抵抗だった。

 意識は堪えようもないほどに埋没する。ぷつんと意思の糸が途切れる直前、ローザは言った。

 

「また会おう。我が友よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───そして、彼の物語は現在に至る。

 暗夜をひた走る只人。それを追う獣の群れ。

 ダンテはひたすらに足を動かした。鉛のように重たい両脚を根性で操り、太陽の黙する方角へと退いた。

 けれど、意思の力は肉体の限界に縛られた。足がもつれ、ごろごろと地面を転がる。

 血に飢えた獣たちは、鋭い眼光をぎらつかせてにじり寄る。自身の命が風前の灯であることを理解し、ダンテは必殺の土下座を炸裂させた。

 

「ヒッ、ヒィィィィギャアアアアア!! 食べるならいっそ頭からひと思いにやってくださいィィィ!!!」

 

 足音が近づき、唸り声が耳元に迫る。

 ぎゅっと目を閉じたその時、

 

「去れ」

 

 凛とした声が、頭上に響いた。

 いくつもの足音が遠ざかっていく。場に満ちていた殺気が残らず失せる。吐き気を催す恐ろしい気配はもう、跡形もなくなっていた。

 ダンテはゆっくりと面を上げ、目を開く。

 そこにいたのは、時代錯誤な格好をした男だった。古代ローマ人を絵に描いてそのまま出したかのような服装。やや中性的な風貌の男は優しい目つきでダンテを眺める。

 

「ふむ、然るに」

 

 それは、決してありえぬ邂逅。

 過去の時代を生きた、偉大なる詩聖。

 未来にて、新たな言語の礎を築いた無二の詩人。

 

 

 

「────おまえが、迷い人か」

 

 

 

 二つの詩才が、落日の光の最中にて、運命を繋いだ。

 

「い、命を助けてくださり誠にありがとうございます!! あなたは私の命の恩人です!! ぜひお名前をお聞かせください!!」

「俺はウェルギリウス。ローマの詩人だ」

 

 その瞬間、ダンテは目を丸くして固まる。

 ウェルギリウス。古代ローマの詩人。ラテン文学の黄金期を創り上げた偉人。そして、ダンテにとってはこの世で最も尊敬する人間だ。

 政界に足を踏み入れる以前、熱中していた詩作。地位を得てからは詩を綴ることも少なくなっていったが、詩は間違いなくあの頃の自分の半身であった。

 その詩の根源。彼が創る言葉の伽藍に魅了され、手本にし続けた憧れの人物が目の前にいる。

 

「…………ウェル、ギリウス───?」

 

 普通の人間ならばまず、眼前の男が〝自分をウェルギリウスと思い込む一般ローマ人〟ではないかと疑うだろう。しかし、ダンテは生憎普通の人間ではなかった。

 彼はしゃがみながら十字を切り、両手の指を深く組んだ。

 

「おお、神よ……!!!」

「おまえの信教的にその発言は大分まずいのでは?」

「大丈夫です! 神はすべてをお赦しになられるので!!」

「神以前に人が許さないと思うが。まあ元気なのは良いことだ。これからおまえは長い旅路を往かねばならぬのだからな」

 

 こてん、とダンテは首を傾げる。ウェルギリウスはその反応が予定調和であるかのように、淡々と続けて言った。

 

「ここは地獄だ。今からおまえは地獄の九つの圏域を抜け、煉獄の山を登り、天の国に至らねばならん。これが現世へ帰るための唯一の脱出経路だ」

「先生、ひとつ言っていいですか」

「いいぞ」

「ありがとうございます。では」

 

 ダンテは大きく深く息を吸い込み、

 

「───絶対に!! 無理です!!!」

 

 周囲の木の葉を揺らすほどの大音声を繰り出した。

 地獄、煉獄、天国。どれかひとつでも踏破すれば英雄と語り継がれるであろう偉業。しかもその全てを、ヘラクレスのような武勇もなければ、オルフェウスのような魅力もない、ただのおっさんにやれと言う。

 ウェルギリウスはあらかじめ両耳を塞いでいた手を退かすと、ダンテの肩に軟着陸させる。

 

「案ずるな。そのために俺が遣わされたのだ。必ずや煉獄の山頂までおまえを届けると誓おう」

「ウェルギリウス先生……!! 煉獄までと言わず天国まで私を導いてください!」

「それこそ無理だ。俺は救世主が原罪を持ち去るより過去の人間。天界は罪ある者が踏み入ることを許さない」

「そ、そんな! だったら私は誰に助けてもらえばいいんですか!?」

「自分の力でどうにかしようという気はないのか……!?」

 

 どこまでも他力本願な男だった。どうやら、彼の頭には自らの力で苦難を切り拓くという考えはないらしい。悪鬼悪魔が跳梁跋扈する地獄では、おっさんひとりの力などたかが知れているが。

 ウェルギリウスは落日の光に背を向け、迷いなく歩いていく。ダンテは飼い主に追従する犬みたいにぴったりとくっついていった。

 

「俺は淑女ベアトリーチェの頼みで、おまえを導くことになった。もし煉獄を抜けたのならば、そこから先は彼女の出番だ」

「ベアトリーチェ───私の初恋のベアトリーチェですか?」

「ああ、そのせいで飯が喉を通らなくなって死にかけたベアトリーチェだ。聖母マリアも関わっているがな」

「なんと……そんなのもはや不倫じゃないですか!!?」

「ダンテ、キモいぞ」

 

 ウェルギリウスはダンテの発言を一刀のもとに斬り伏せた。その切れ味たるや、聖ジョージの聖剣に匹敵するレベルである。

 

「……分かりました。ウェルギリウス先生とベアトリーチェがついているなら、悪魔の大王も恐れるに足りません!! いざ地獄巡りと参りましょう!!」

「よし、その意気だ。まずは川を渡り、辺獄へ向かうぞ。冥界の渡し守は気難しいから、覚悟することだ」

「ふふふ、ウェルギリウス先生。私はこれでもフィレンツェの元統領ですよ? 気難しい人物との接し方は心得ています」

「そうか、頼もしい限りだ」

 

 で。

 ダンテとウェルギリウスが向かったのは、無数の亡者が連行されるアケロン川。川の渡し守はカロンと言い、枯れ木を繋ぎ合わせたみたいな老人だった。決して亀のガイコツのことではない。

 カロンはダンテに向けて櫂を大きく振り回しながら、

 

「ワシの舟は死人専門なんじゃ!! 生者が土足で踏み入るでないわァァァ!!」

「ギャアアアアアア!! なんですかこの人! なんでギリシャ神話の人がここにいるんですか! ウェルギリウス先生助けてください!!」

「前言撤回が早すぎないか!?」

 

 そんなこんなで、ダンテは地獄に吹く風と真紅の稲妻が奏でる雷鳴を間近で喰らい、気絶した。彼の旅路において、栄えある一度目の気絶である。

 カロンは死者しか通さない───が、気を失った者は死んだも同然なので通れる、という謎理論だった。

 ダンテが目を覚ました時、既に場所は辺獄の手前だった。急いで両目を擦り、見下げた谷の中は果てしのない深淵。遠雷の如く亡者の叫喚が響き、どれほど目を凝らしても暗闇の他に見て取れるものはない。

 思わず怖気づくダンテとは逆に、ウェルギリウスは悠々と斜面を下っていく。

 

「私が先導する。おまえは後ろをついてくるだけでよい」

 

 振り向き、言った彼の顔を見て、ダンテは後退った。

 ウェルギリウスの顔貌は僅かに曇っていた。短い付き合いとはいえ、彼が後ろ向きな感情を露わにすることはなかった。ダンテは谷の縁に留まりながら、声を投げかける。

 

「ウェルギリウス先生でさえ恐れる場所に、どうして私みたいなヘタレが飛び込めるというんです!?」

「違うぞ、ダンテ。私は恐れてはいない。ただこの先にいる人間の苦悶を思うと、憐憫の情を禁じ得んのだ。道は長い、立ち止まっている暇などないぞ」

「でしたら手を繋いでもいいですか! 滝のように手汗が滲んでるのでアレですが!」

「うむ、それは断る」

 

 そうして、ダンテは恐る恐る彼の後を追いかけた。

 暗闇の中、視覚が用をなしていないせいか、聴覚が鋭く研ぎ澄まされる。

 どこからか伝う振動が空気を震わせる。それは責め苦を受ける亡者の叫び声ではなく、深い嘆息のように聞こえた。

 すると、燭台の灯の如く発光する魂の列が現れる。

 地獄の罪人というからには凶悪な外見を予想していたものの、彼らは一般的な人間であった。老若男女いずれも嘆いていることを除いて。

 

「先生、辺獄とはどのような場所なのですか。彼らも地獄に落とされるような罪を犯した罪人なのですよね?」

「彼らが特筆してなにか罪を犯したということはない。ただ、洗礼を受けなかった。機会のあるなしに関わらず、洗礼を受けなかった者は辺獄に落とされる」

「り、理不尽すぎませんか。神の子が磔刑に処される以前に亡くなった人が、洗礼を受けられるはずがありませんのに……旧約聖書の人たちもここに?」

 

 ウェルギリウスは首を横に振った。

 曰く、彼が辺獄に来て間もない頃、救世主がこの地獄を訪れ、アダムやアベル、ノアにモーセにダビデ───大勢の人の魂に祝福を与え、連れ出したと言う。

 それが最初にして無二の、辺獄の脱出者たちだった。ウェルギリウスも本来は辺獄の住人であり、未来永劫囚われることが定められている。

 ウェルギリウスが話し終えると、ダンテは苦虫を噛み潰したみたいな顔をした。

 

「それは、おかしいと思います。救世主様なら、全ての辺獄の人に洗礼の機会を与えられるでしょう。一部の人間だけを連れ出すなんて、まるで当てつけです」

「……そうかもしれないな。だが、それがこの世界だ。洗礼を受けた自分たちは救われ、そうでない者は地獄に落ちる。民衆が好みそうな、単純な二元論だ」

「民の意思がこの世界に反映されていると?」

「ああ。ここはそういう土地だ。人もな。人々が思い描く『地獄』というイメージが具現化した場所だ」

 

 要するに、この世界の形と住人は人々の想像が影響を及ぼしている。救世主の振る舞いも、落とされる罪人と受ける罰も、何もかもが。

 ダンテは難しい顔をして、むむむと唸った。

 

「一口に地獄と言っても、想像するものは人それぞれですよね。そんな曖昧なものがこうして形を得られるとは思えないのですが……」

「妥当な疑問だ。ここは現世とは時間も空間も異なる。過去が現在を形作る他、未来が現在に干渉することもあるだろう」

 

 つまり、とウェルギリウスはダンテを見据えた。

 

「───いつかの未来、何者かの手によって、大衆の思い描く地獄の姿がこのように固定された。そういうことも有り得る」

 

 真剣のような切れ味を帯びた言葉。ダンテはだくだくと涙を流して歯噛みする。

 

「それなら私はその人を許せませんよ!! こんな地獄を創り上げるなんて、名を出すことも憚られる大罪人です!! 私をこんな目に遭わせた張本人でもありますし!!」

「そ、そうだな。大分本末転倒というかブーメランというか───いや、俺は何も言うまい」

 

 ウェルギリウスは怒りを紛々とさせるダンテに憐れみを注ぎつつ、さらに奥へと向かう。

 永劫続くと思われた暗闇の底に、光が射す。それこそが辺獄。七つの城壁に囲まれた街。外壁の縁を小川がなぞり、地面を踏みしめるようにして水面を通り抜ける。

 そこでダンテは、数々の偉人を目撃した。

 アリストテレスやソクラテス、プラトンにプトレマイオスにエウクレイデス。ヘクトールとアエネイス───などなど、これだけでも一部でしかないが、とりわけ目を惹かれたのは、甲冑に身を包み、鷹のような眼光を煌めかせる男だった。

 その名もカエサル。来て見て勝ったり、ルビコン川を渡ったり、賽が投げられたりで有名な皇帝の中の皇帝である。

 ダンテはカエサルの勇壮にして颯爽たる立ち姿を、テレビの中のスーパーヒーローを応援する子どものような目つきで見上げた。

 

「私の詩の根源が先生であるなら、政の根源はまさしくあのお方です。私はくだらない政争のせいで今こうなってるんですけど」

「おまえにその道は向いていなかったということだ。かの皇帝ならば、おまえと同じ立場に置かれたとしても瞬く間に政敵を排除してみせただろう」

「そうでしょうねえ。先生はそちらの道に興味はなかったのですか?」

「俺はその内気さから乙女(パルテノス)にちなんでパルテニアスとあだ名された男だぞ。ちなみにおまえと話している今も膝の震えが止まらん」

「そのザマでよくここまで人見知りを隠し通せてましたね!!?」

 

 兎にも角にも、彼らの地獄巡りはこうして始まった。

 ダンテの神曲は全14233行に及ぶ韻文で構成された叙事詩であり、三分の一とはいえそれをいちいち描写していたら尺がいくらあっても足りなくなる。

 なので、二人の旅路をかいつまんで話すと、

 

 

 

「───ランスロット卿がどうして愛に溺れたのか、その物語を読んでいる内に私たちの視線は絡み合い……恋に落ちたのです。たとえそれが不義であると知っていても」

「そうして私の夫……ジョヴァンニは私たちを剣で突き刺しました。私は地獄に落ちたことを罰とは思いません。愛した人と共にいられるのですから」

「不憫とは思うが、正道に悖る行いであることは変わらぬ。ダンテ、過度の同情はいらな」

「…………」

「失神している───だと……!?」

 

 

 

 地獄の第二圏。パオロとフランチェスカという二人の男女の悲恋話を聞いて、ダンテがあまりの悲しさに気絶したり、

 

 

 

「パペサタン。パペ、サタン、アレッペ!!」

「何やら怪物が変な呪文を唱えていますが、アレは一体?」

「わからん。邪魔立てはしてこないようだし、私が罵倒している内に行こう」

「先生にも分からないことはあるんですねえ。…………罵倒する意味はどこに?」

 

 

 

 何やら妙な呪文(一説にはダンテ独自の言葉)を発するプルートンを何気なく退けたり、

 

 

 

「■■■■■■■─────!!!!」

「おんぎゃああああああ!!! アレは私も知ってます! ミノタウロスです! なぜか人頭牛身ですが!!」

「おまえを殺したテセウスがここへ来るとでも思っているのか? さっさと退散しろ、ケダモノめ! この男はおまえたちの罰を見に来ただけだ!! ───私が罵倒している間に逃げろ!!」

「ですから罵倒する意味はどこにあるんです!!?」

 

 

 

 オウィディウスにおいて〝半ば牛、半ば人〟と言われるミノタウロスの猛威を命からがら逃げ切ったりしていた。ちなみにダンテは〝致命の傷をおうた牡牛は もう進みもならぬままに脚をあちこちへばたつかせる〟と、ミノタウロスがもがく様を表現している。そのため、オウィディウスの句の一風変わった解釈として、ミノタウロスを牛面人ではなく人面牛としていた可能性が高い。

 ……等々の冒険を乗り越え、二人が辿り着いたのは地獄の第八圏。欺瞞者が落とされるこの圏域は、さらに十個の『悪の嚢(マーレボルジェ)』に分かれている。

 その内の第八の嚢。権謀術数を用いて他人を陥れた人間が落ちる地獄。ダンテはそこで、業火に焼かれる二人の罪人を見た。

 ウェルギリウスはそれぞれ指を差して言う。

 

「アレがディオメデスで、アレがオデュッセウスだ。話を聞いてみるか?」

「是非! 実は私、ギリシャ神話の英雄の中ではオデュッセウスを推しておりまして、アキレウス派のジェンマとは幾度となく口論したものです」

「そうだったのか。アキレウスは第二圏に落とされていたが、この地獄ではオデュッセウスの罪の方が重いということだ。心してかかれ」

 

 ダンテは力強く頷いた。

 ここまで地獄を巡り、理解したことがある。

 欲望や感情から罪を犯した者よりも、その知恵や理性から罪を犯した者の方がより深い場所に陥れられるのだ、と。すなわち、この地獄は衝動的な悪ではなく計画的な悪こそを重く裁く。

 理屈としては間違っていない、とダンテは独り納得する。させられてしまう。まるで自著の論文を読んで、自賛するように。

 だからこそ、知りたかった。オデュッセウスが如何にして永劫の苦難が待ち受ける場所に辿り着いたのかを。

 

(まあ、オデュッセウスと言えば木馬の計略に違いないでしょうねえ)

 

 ダンテは心中で結論を出す。ここが権謀術数を用いたことで落ちる地獄というのならば、まさしくオデュッセウスは好例だ。

 世に名高きトロイアの木馬。かの一手は膠着した戦況を打破し、一気にトロイアを滅亡にまで追い込んだ。策士、軍師の類は多けれど、彼を超える者はいないだろう。

 ウェルギリウスは業火の前に立つ。

 

「この迷い人におまえたちの話を聞かせてやってくれないか。何故にこの場所に来たのかを」

 

 オデュッセウスは灼熱の炎に身を焼かれながらも、しんしんと降る雪のような声音で喋り出した。

 

「───俺は()()()()()()地獄へと辿り着いた」

「……ん?」

 

 魔女キルケーの束縛を抜け出し、ペーネロペーが待つ島への帰路につく───それが、詩人ホメロスの綴りし詩集にある物語。多くの人が知る、オデュッセウスの冒険譚だ。

 しかし。

 

「キルケーの束縛を免れた時、俺に芽生えたのは未知への好奇心と世界への探究心だった。故郷の家族を想う気持ちは、この世界を知り尽くす欲求の前には無力だった」

 

 そうして、彼は仲間とともに大海原を冒険した。

 ヘラクレスの柱を越え、地球の南半球をひたすら下り、オデュッセウス一行は〝かつて見たこともないほど高い山〟を目撃する。

 それなるは煉獄の山。天の国へと屹立する無上の山岳。オデュッセウス一行が歓喜するのも束の間、突如発生した竜巻に巻き込まれ、船ごと海中に没してしまう。

 海中と地中を落ちて落ちて、ついに留まったのがこの第八圏の第八嚢であった。

 ダンテはぽかんと虚空を眺め、背景に宇宙を背負う。

 

「…………か、」

「か?」

「解釈違い────ッッ!!!」

 

 頭を抱え、脂汗を垂らすダンテ。ウェルギリウスはぎょっとした。

 

「良いですか、オデュッセウスがわざわざ何年も海原を冒険したのは神の怒りを買ったからです!! 好奇心や冒険心故ではありません!! 神の試練に晒されてなお、彼を突き進めたのは故郷の家族への愛でしょう!!? というか大体生きながらにして地獄に来たなんて記述はどこにもありませんよねえ!? 未来の民衆はオデュッセイアエアプなんですか!!?!?」

「…………ど、どう思う? オデュッセウス」

「キレたオタクは怖い、ということだな」

「流石はアカイアイチの軍師、適切な物言いだ」

「ちょっと! 茶化さないでください!」

 

 結局、地獄巡り二人組は一応、寂しそうな目をするディオメデスの話を聞いて、先に進んだ。放っておけば業火に飛び込みかねないダンテを気遣った、ウェルギリウスのファインプレーである。

 そして、第九圏。裏切り者の地獄。嘆きの川───コキュートスを目前にして、ダンテは未だにオデュッセウスのことをぐちぐちと言っていた。

 

「あのオデュッセウスは偽者だったのでは? トロイアの木馬が人型に変形してビーム撃つとかふざけたこと言ってましたし、絶対に別人ですよ。木馬で出るってそういう意味じゃないですよ。解釈一致だったのは声音だけですよ」

 

 ウェルギリウスはふうと息をついた。コキュートスから流れ込む冷気のせいで、その息は白く色付く。

 

「ダンテよ、それはおまえが決められることではない」

「え? 木馬が変形することですか?」

「違う。あのオデュッセウスが偽者であることをだ」

 

 真摯な眼差しが肌を打つ。

 

「艱難辛苦の道のりを踏破して故国へ帰る。確かに彼には家族への愛情があったのだろう。再会への想いがあったのだろう。でなくば、戻ろうなどとは思いはしない。キルケーに囚われることも良しとしたはずだ」

 

 だが。

 

「果たして、その途上で彼に未知を舐る悦楽が、障壁を超える高揚がなかったと、本当に言い切れるのか」

「それは……」

「言い切れはしまい。彼がどう思い、どう感じたのかは結局のところ、俺たちには分かりはしない。人と人はどこまで行っても他人なのだから」

 

 地獄の最果てを前にして、詩聖は槍の穂先のように言葉を突きつけた。

 

「───おまえが、いま最も会いたい人間はどこにいる?」

 

 その問いに、答えを返すことはできなかった。

 日々政争に明け暮れ、荒野を流浪する身の上では、彼女の、彼らの居場所など知りようもない。否、知ろうとすらしていなかった。

 ああ、そうか。ダンテは達観する。

 日々政争に明け暮れたのも、荒野を流浪したのも、目的は政敵に勝つためではなかった。それは手段に過ぎなかった。

 だって、本当は。

 あの英雄のように、家族のもとへ帰るために戦っていたんだから。

 

「それを忘れるな。願いの形を手放してしまわぬ内は、おまえは必ず現世に戻れる」

 

 …………地獄の最果て、第九圏は四つの円で構成されている。その最終円、ジュデッカは裏切り者の中でも最も重い罪───主に対する裏切り者が氷漬けにされる場所だ。

 地球の重力の全てが集まる地獄の中心点。そこには、世の誰もがその名を恐れる悪魔がいた。

 ダンテは、悪魔との邂逅を以下のように書き記す。

 

〝私はその時身も心も凍り、声もかすれたが、 読者よ、それについては聞くな、書こうにも筆舌に尽くしがたいのだ。

 私は死にはしなかった、だが生きた心地はしなかった。

 読者よ、少し分別があるなら、自分で考えてくれ、 死にもせず生きもせず私がどうなっていたかを。〟

 

 名状し難き威容、異形。悪魔には三つの顔があった。その顎はそれぞれ三人の罪人を絶えず噛み砕いている。

 彼らはみな、史に名を刻みつけた裏切り者。

 皇帝カエサルを暗殺したブルータスとカシウス、そして───────

 

「────ユダ。救世主を銀貨三十枚で売った裏切り者」

 

 その時、ダンテは堕天使の牙の隙間に輝く眼光を目の当たりにする。

 己が血潮で赤く染まった髪の毛。肉を切り刻まれ、骨を砕き潰される苦痛にあって、その眼だけは赫々と鋭い光を宿していた。

 ウェルギリウスは目を奪われるダンテの肩に手を置く。

 

「今からサタンの体を登るぞ。俺に掴まれ」

「……正気ですか!? 殺される未来しか見えないんですが!!」

「正気だ。ヤツが俺たちを殺したければ、地獄に入った時点でそうなっていただろう。大丈夫なはずだ。多分」

「多分!? 先生だけはポジティブでいると私と約束しましたよねえ!?」

「ネガティブ担当であることを盾にするな」

 

 実のところ、心配は杞憂だった。ダンテはウェルギリウスにしがみつく形で、悠々とサタンの体の真ん中を『下へ登った』。奇跡的に、何の危害を加えられることもなく。

 サタンは地獄の支配者ではない。

 かつて唯一、主の右に並ぶことを許された熾天使の成れの果て。神へ叛旗を翻し、敗北した光の堕天使。彼もまた、主に対する裏切り者のひとりであった。

 つまるところ、地獄とは彼を幽閉するためにある。神をも脅かす力を氷河によって封印され、永遠に地球の重力を受け止め続ける、最も罪深き咎人として。

 そして、彼に全ての重力が集まるということは、その体の中心点は地球の中心部となる。よって、中心点を境として重力は逆転するのだ。

 

「せ、先生! サタンの足が上にあります! 今まで下にあったはずなのに!!」

「これが重力の逆転だ。たった今、世界は反転した。下に登るという矛盾はこれで終わる。後は真っ当に上へ登れば、地獄を抜けられる」

「り、理解が及びません……頭が壊れてしまいそうです」

「今更か?」

「先生? どういうことです?」

 

 というわけで、ダンテとウェルギリウスは煉獄に歩を進めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煉獄の山を登り、七つの罪を清め。

 天の国を永遠の淑女とともに駆け上がる。

 その途上にて案内役は聖ベルナールに代わり、ついに神の姿を垣間見る。

 ただ、それは言葉にすることもできず、また記憶にも留めておけないものだった。まるで夢を見た時のように、その実体は輪郭を持たず、感動だけが心に残っていた。

 けれど。

 それでも。

 彼は確かに理解した。

 天の果て、この世の根源で、神の本質を知った。

 

「───〝L'amor che move il sole e l'altre stelle(神とは太陽やその他の星を動かす愛である)〟」

 

 とある地下の納骨堂。

 薔薇の花弁舞い散る死の床で。

 目を覚ました男は、ぱたりと本を閉じた。

 

「これはやらかしたな。人間の感覚では神の姿を認知できようはずもない。うむ、大失態だ」

 

 蒼い左眼と、薔薇の眼帯に覆われた右眼から、同時に透明な涙がこぼれ落ちる。

 

「神とは全ての原動力たる愛である、か。美しいな。美しすぎる。それに、何よりの救いだ」

 

 詩人は最後、確信していた。

 神とは全ての原動力、愛であり、自分はそれによって生かされ生きているのだと。

 ───ならば、やることはひとつだ。

 全ての根源に神はいる。愛はある。

 だとしたら、自身が突き詰める人体の究極。それがどんなカタチになろうと、その先に必ず神はいる。

 男はくすりと口角を上げた。

 

「ダンテ・アリギエーリ。我が友よ。貴殿を選んだことは失敗であっても、間違いではなかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢のような、現のような。

 そんな旅路を経て、気付けば、ダンテは荒野のど真ん中に転がっていた。

 この記憶が偽物であろうと、どうでもいい。あの旅路が本当の願いを教えてくれたから。

 独り進む荒野は今までとは違って見えた。あんなにも暗く、殺伐とした光景が今では何もかもが輝いて見える。なぜなら、これら全ての先が神に繋がっていると知っているから。

 ひとつひとつ、大切な思い出を噛み締めるように歩んでいく。

 日が昇り、沈んで、また昇って。

 それを何度か繰り返すうちに、懐かしい記憶に辿り着いた。

 

〝───なぜ、私なんかと一緒になる決意をしたのです?〟

 

 ジェンマが第一子を身籠っていた時の会話。寝台の上で暇そうに寝そべる彼女に、なんとなしに訊いたことがある。

 ドナーティ家はフィレンツェでも特筆して語られる名門の家系。彼女とは幼い頃から許嫁の仲であったが、家格としては比べ物にならない差があった。

 縁談は親の代から決められたことではあるが、その気になれば向こうから断ることもできた。ただでさえ名門の令嬢なのだから、より良い相手も見つかったのではないか。

 そう言うと、ジェンマは寸前まで目を通していた本の角をダンテの脳天に直撃させた。

 

〝ナメてんのか? 好きだから以外にありえんのかよそんなこと〟

〝え、そうだったんですか。てっきり殺意を抱かれてるとばかり思ってました。何度体を折り畳まれたか分かりませんし〟

〝それはテメーがラブレター量産したり他の女に目ェ向けたりしてたからだろうが!! 畳むぞ!!〟

〝ヒィィィィ!! ごめんなさいぃぃぃ!!!〟

 

 ダンテは床を這いつくばって部屋を逃げ回った。身重の女性相手に。

 

〝───ま、これで理解したろ〟

 

 ジェンマは彼を押さえつけ、ぐいと二本の指でその顎を持ち上げる。

 

〝お前も幸せも手に入れたアタシが、あの女に勝ったってことだ〟

 

 得意げに笑うその顔に。

 思わず、するりと本心が抜け出した。

 

〝ジェンマ。あなたを愛しています〟

 

 どこまで行っても、彼女には勝てない。

 そんな、輝かしき敗北の記憶を噛み締めて。

 ふと、彼は決意する。

 

「───もう一度、詩でも綴ってみましょうかねえ……」

 

 ダンテの神曲は1304年から、没年である1321年に及ぶ歳月を費やし、生涯をかけて執筆された。

 当時、知識層が文章に用いるのはラテン語だった。論文などは専らラテン語で記述され、それ以外の言語で書かれた場合見向きもされないことが多かったという。

 そのため、情報を得られる人間はラテン語を読める者に限られた。相応の知識と教養がない人間は、知ることすら許されなかった。

 

 ───故に、私がそれを変えてみせる。

 

 ダンテは自身の作品を、多くの人間が読めるトスカーナ方言を用いて完成させた。高度な教育を受けることが認められなかった女性でも、文字を学び始めた子どもでも読めるように。

 言語の違いのために人々が知ることすら許されないのなら、彼らを隔てる言葉の壁は取り去ってしまおう。

 かくして、彼はイタリア語の父となった。

 限られた地域ながらも、永らく人々を分断し続けたバベルの塔の試練を乗り越えた。

 その根底にあった願いは、きっと。

 

 

 

 

「───家族に、逢いに行きましょうか」

 

 

 

 

 自分たちには、分かりはしないだろう。

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