強い風が吹くとさっきまでうるさかった一羽の黒いカラスが、前にある森から姿を現して飛んでいった。息を止めていた私は、そのカラスを見送ってしばらくしてから息を吐く。
決まって強い風の吹いた後の森は、邪魔者を追い出す。威嚇するように葉を時には枝を揺らし木にできる精一杯の動作がそれだから。今もそうやってカラスを追い払っていた。いや、もしかしたらあのカラスじゃなくて私を追い払おうとしていたのかもしれないけど。
腕に通していたバスケットの中から、葉っぱを出して、前に進む。身につけている赤い頭巾の土で汚れてしまった端を見つつ、ため息をついた。
目の前で強風を吹かれた、私は森に嫌われているのかもしれない。だけど森を通らなければ遠回りになってしまう。
それに、日が落ちると人間を食べる狼も出るらしい。
土を叩く、大体の汚れは落ちたが薄く汚れが残っているのが、何処となく不安を感じる。
そんな事を考えつつ前に進むとザクリ、ザクリと靴が草を踏む音が不愉快に良く聞こえる。鳴いていたカラスがいなくなったせいで余計に大きく音を感じた。
気がついたら太陽が隠れ、暗い影を落としていた。
こんな弱気でで私は無事にたどり着けるのだろうか?
ううん。
首を横に強く振って不安な気持ちを押し込む。ジリジリとした緊張を感じながらも森に一歩進む。
大丈夫。大丈夫。弱気になっちゃダメ。早くバスケットをおばあさんに届ければ良いだけなんだから。
――
家の扉を開ける。天井には自信がなく、右へ左へ点滅している照明があった。
いつの間にか日が落ちたかけた背後の空を見つつ、私は扉を急いでと閉めた。
「おばあさんいますかっー!」
返事はない。
もしかしたら後ろから、閉めた扉の向こうに狼が来るのかもしれない。ガチャリと鍵も閉める。
「赤ずきんです」
返事はまだない。
心臓が強く高鳴っていく。狼が扉の後ろにいるなら、私は食べられてしまう。
「孫の赤ずきんです……」
不審者と間違えられて返事をしないのだろうか? 段々と私の言葉も弱気になっていく。押し込めていた不安が心の隅から絵の具を水に垂らしたようにジワリジワリと広がっていく。
「……」
だめだ。ここで声を出してもおばあさんは返事をしてくれない。このまま立っていたら、おばあさんが気づかずに狼が私を襲う事の方が高そうだ。ここにいるよりもおばあさんの部屋に直接行くしかない。
玄関から少し歩き、階段を上る。一段づつ丁寧に音を出さないように。それが何の意味をなさないことを自分自身が知りつつも上る。
おばあさんの部屋は二階だ。前にお母さんと一緒に来たときに訪れた事がある。
階段を上りきり、背後を見る。勿論そこには誰もいない。
安心をして、今日何度目か分からないため息をついた。いけない、不安になりすぎだ。
一歩ごとに廊下が軋む音がする。もう恐怖心はない。
端にある部屋の扉。
古い木のボロボロの扉。水分を吸ったのか、一部が赤黒く染みになっていた。それに中を覗く穴は一つもない。
その染みは赤ワインだろう。今日持ってきたバスケットの中にも赤ワインが入っている。
……コン、コ……ン、コン。
扉を三回ノックする。音はバラバラだ、一度目は不安、二度目は疲れが。三度目は安心している。それぞれの全く違う音。
「……おばあさん、いますか。赤ずきんです」
ノックに返事をしないことに疑問を持ちつつ、声をかける。
「おお、赤ずきん。部屋に入っておいで」
低音の声が聞こえた。こもっているような声。布団に包まっているのだろう、おばあさんは体が弱いから。
「はい、失礼します」
おそるおそる、ドアノブに手をかける。不安な気持ちはもうないはずなのに、どうしても、何でも疑ってしまう。
ガチャリと音がなって扉は簡単に開いた。
「おばあさん、お薬持ってきました。あと、赤ワインも」
部屋の中は生活感がなかった。部屋の隅まで行き届いていない明かりに、大きなベッドとその横にちょこんとある小さなテーブル、ベッドは窓際にあるが、暗い中でもはっきりと分かる真っ黒いカーテンで太陽の光を遮断しているように見えた。
「ありがとう赤ずきん。ベッドの横のテーブルに置いてくれ」
おばあさんはベッドの上にいた。掛け布団で覆われていて体全体が隠されていて見えない。
「……分かりました」
私が近づく度に、おばあさんは嬉しいのか喉を鳴らしながら笑っている。それに気づかないふりをして、ベッドの横のテーブルにバスケットをゆっくりと置く。
「そう言えば、赤ずきん」
「は、はいっ」
声をかけられた。いきなりのことで声が裏返りつつもおばあさんに視線を向ける。
「私に何か聞きたいことがあるんじゃないか?」
「い、いえ特には」
低い声は探るように私に言葉をなげた。
「例えば、どうして耳がそんなに大きいの?」
「……」
目を左にやり、誰かの言葉を思い出しながら私に向けて話す。
「どうして、そんなに目が大きいの?」
問いかけの言葉を続ける。
「どうしてそんなに手が大きいの?」
私はただ聞くことしかできない。そして、最悪な想像をする。
「口もどうしてそんなに大きいの?」
私がベッドを見ながら後ろに下がるのを見てから、一息をついてから口を思いっきりニヤリと笑わせていた。
「まあ、そんな質問はもう意味はないけどね」
それはおばあさんの形をした何かだった。
――
「いや、やめて」
ドンドン。
扉を強く叩く。私の手にも強い衝撃を感じつつも、それを無視して叩き続けた。
「開いてよ、お願いだから。開いてよ……」
扉を叩いてから何分経ったのかは分からない。手に血がにじみ、皮が少しめくれている。
両肩が捕まれる。力強い毛むくじゃらな手で。振り払おうと腕に、手に全身の力をこめてもびくともしない。
恐怖で涙がにじむ。心臓の音が強く強く握られるように痛くなった。
考え込んでいる私の顔に、狼の口が開かれる度に生臭い匂いの息が吹き込まれる。
恐怖で体を震わせて。これ以上声を出そうとしても、口の中に狼の生暖かい柔らかい物で塞がれて息は上手くできない。「むがぁ、むが」と上手く呼吸ができずとにかく気持ち悪い。
「あぁ、たまらない。本当にたまらない。楽で本当に良い」
もがいても、逃げられないように体の上に乗られて腕も足も動かすことは一切できない。体と体が擦れあうたびにベッドが軋む。水分と肌がぶつかる音が段々と強く気分と体を揺らす。
「はあ……はあ」
ギチギチと狼が独りで行為を進める。体を弄られ、触られた箇所の体の自由が段々と無くなる。四肢も、胸もお腹も顔も。全部狼の物に上書きされ、狼の不愉快な行為の一つ一つのせいで私の意思ではもう満足に体を動かすことはできない。
軋む音が鳴るベッドの隅に赤い液体が染みついる。それが何かなんてすぐに分かってしまった、下半身の方から力が体の中を巡っていた液体が抜けて、頭の中がグラグラと自分が自分じゃなくなっていく感覚がする。
「はぁはぁ……やめ……やめて」
ぼやけた視界にニヤニヤと笑った狼が顔を近づけてきた。「うがっ」耳元に口を近づけ耳たぶを強くかまれた。
「ああ、良い味だ」
満足した顔を耳元から外して、下半身の方に移動していく。
「ウぐっ」
全身に痛みが、その痛みから逃れようとしても狼が私の上に乗っなているせいで動くことができない。
「ははっ。まだ、元気じゃないか」
「……っっ」
言葉が形になって上手く出てこない。代わりにただの空気が口から抜けていく。
「あ、そうそう」
何かを思いついたように、狼の目が余計にニヤけた。
不意にカーテンが揺らぐ。目線を窓際に向ける。少しずつ、視線を狼に気づかれないように動かす。
狼の息がより強く鮮明に聞こえる。
――そこには、誰もいない。
「誰かに助けてもらおうと思ってるかもしれないけど、無理だよ」
嫌だ。
「だっーて、ここの家の人は」
嫌だ。それ以上は聞きたくない。これ以上聞いたら私はどうかなってしまいそうだ。
耳を手で塞ごうとしても今の私の手は不自由で動かない。その様子を満足げに見ている。
私はお構いなしに狼が言葉を続ける。狼の一つ一つの言葉が私の体が意識が散漫に、理性が今まで鈍感にしていた気持ちを敏感に変えていっている。
「この家の婆を食べちゃったよ。ああ、美味しくはなかったけど本当に良かったよ。美味しい若い娘を食べられるんだから」
パキリ。
心の中の何かが壊れる音がした。恐怖が心全体を覆って、分厚くあった心の壁を破壊する。
「あああぁぁ」
もう言葉は理性ある形で声を出すことができない。獣に似た必死な叫び。そんな叫びをしたところで、何にもならないことは知っている。それでも叫ばなければいけない。これ以上に壊れたくない自分のために。
「その反応だよ。良い、やっぱり良い」
狼は私に被さって動く。
ただ食べるためなのに、私に必要以上に恐怖を植え付けながら。
激しく。
激しく。
激しく。
「ぐがぁ、……あああぁぁ」
声は届かない。誰にも、ここには誰もいないのから。
私の虚ろになった目の縁から見えた月は、私をあざけ笑うような三日月だった。