ここは喧騒郷の最果て。荒れた大地に、グギュゥゥ…という地鳴りがこだまする。しかしよく聞けばそれは地鳴りではなく、荒野をトボトボと歩く魔理沙の腹の音であった。
(腹減ったなぁ…)
長年に渡り狭い結界内で暮らしてきた魔理沙にとって、喧騒郷は全く未知の場所。そこでの食糧探しがうまくいくはずもない。あてもなく彷徨っていると、一種の悔恨の念すら湧いてくる。
(魅魔様に食い物の在処くらいは聞いておくべきだった)
しかし負けず嫌いの魔理沙の頭に、魅魔の結界に出戻るという選択は存在しない。何も考えずとにかく前へ、前へ、前へ。それが魔理沙の信条であり、今なすべきことである。
(ホウキで飛んで空から見てみるか?いや、魔力の浪費は避けたいな)
もう何里歩いたであろうか、魔理沙はほとほと疲れ切ってしまった。そんな中、どこからともなく香ばしい匂いが漂う。
(…!これは食い物の匂いだ!この森の中か…!?)
魅魔のおやつの隠し場所も嗅ぎ当てた魔理沙は、鼻には若干の自信がある。匂いの源を探し、魔理沙は森に入っていった。
(しかし喧騒郷は聞きしに勝る凄いところだ。魅魔様の結界には数本の木しかなかったが…)
何しろ魅魔の結界は1ヘクタール程度である。魅魔が喧騒郷から持ち込んだ低木と、水たまりくらいの広さしかないため池、あとは修行中の弟子たちが住む小屋くらいしかなかった。それが喧騒郷ではどうだろう。空はどこまでも広がり、草本から高木まで大小さまざまな植物が咲き誇る。きっと池もとんでもない広さのものがあるのだろう。魔理沙は茂みをかき分けながら、そう思った。
(おっ…!あれか)
茂みや樹木がない開けた場所があった。いわゆるギャップである。真ん中にパチパチと音を立てる薪があって、その上には蒸気を吹く鍋がどっしりと置かれている。
(匂いから察するに、あれはシチューの類だな)
魅魔はグルメで、結界内で営む菜園から野菜を収穫したり、喧騒郷から人さらいのついでに食材を失敬してきたりしては、バラエティに富む料理を作って弟子たちに振舞っていた。その知識が魔理沙にも受け継がれていたのだ。
(腹が減ってるのはお互い様だ。少しばかり頂いても構わないだろう)
目の前でコトコト…と煮込まれるシチューに、魔理沙はどうも辛抱ができなくなった。思わず鍋に駆け寄り、手を伸ばす。
その刹那、魔理沙の視界にキラリと光る線のようなものがちらついた。次の瞬間、その線を伝い小さい何かが突進してくる!
「うわっ!?」
修行の成果だろうか、魔理沙は反射的に後ろへと飛び、その物体をかわした。物体がそのまま木へ激突すると、ドスッ!という音が響く。よく見てみれば、物体は人形であった。その手には、鋭利な槍のようなものが握られている。魔理沙の背に冷や汗が垂れた。
(ありゃ一体何なんだ…?)
「それは私の昼食なの。触らないでもらえる?」
魔理沙が声の聞こえた方を向くと、魔理沙と同じ金髪、それでいてショートヘアの少女が立っていた。それ以外の出で立ちは全然違うが、何となく同じ雰囲気のようなものを魔理沙は感じ取った。
「運が良かったわね。それ、シチューを守るための罠だったんだけど」
どうも先ほどの殺人人形を仕掛けたのはこの少女らしい。魔理沙はさっそく、喧騒郷の洗礼を受けたのだ。
「あー…あのよ、私、腹減ってんだけど。そのシチュー分けてくれないか?」
先ほど命を落としかけたというのに、魔理沙は無謀な提案を試みる。少女はあきれ顔で答えた。
「そのシチューは私が食べるんだからダメよ。シチューを食べたいなら、人里の店で''お金''払って食べることね」
魔理沙にとって、少女の言葉には突っかかるものがあった。魔理沙は魅魔から教わった言葉は全て記憶していると自負しているが、''お金''というのは聞いたことがない。思わず、こう質問した。
「…''お金''って何だよ」
少女は一瞬キョトンとした顔をした後、先ほどよりもさらにあきれた声を出した。
「はぁ…?貴方まさかお金を知らないの?情報弱者にも程があるでしょう…今までどうやって生きてきたのよ?」
魔理沙は自分の境遇を説明した。少女は魔理沙が喧騒郷の常識を知らないことを理解したようだ。
「…いい?お金というのは、この喧騒郷で生きるために絶対に必要なものよ。これがなければ、毎日の食事もままならない」
魔理沙にとって食事とは、魅魔が毎日朝・昼・晩と弟子たちに出してくれるものである。話がいまいち理解できない魔理沙の前で、少女は一枚の紙を出した。
「これがお金。『100円』って書いてあるでしょう。『500円』『1000円』『1万円』なんてのもある。それぞれの紙が、書いてあるだけの価値を持つのよ」
魔理沙は首を傾げる。このままでは一向に理解されないと感じたのか、少女は魔理沙を森の外へと連れ出した。茂みを抜けると、そこは先ほど魔理沙がいた荒野とはまた違った場所である。ちょうど魅魔の結界にあるような小屋が何軒か並び立ち、その中の一つがのぼり旗を立てている。「パン」という二文字が、たどたどしい字で書かれていた。
「これが店。お金を使ってモノを''買う''場所よ。ここをよく見なさい、買える品目が値段と一緒に書いてある」
あんパン50円、焼きそばパン100円、コロッケパン150円…どれも魔理沙が一度は食べたことがある料理の名前だが、その後ろの数字と「円」の意味が分からない。
「焼きそばパン1個ちょうだい」
「はいよ!100円ね」
少女の言葉に店の主人が答え、焼きそばパンを一つ差し出す。そしてそれと交換するように、少女は先ほどの「100円」の紙を差し出した。
「これで売買成立。要するに、この世界で食べ物が欲しかったら店に行って、店側が提示する額と同じだけのお金を渡しなさいってことよ」
言葉にして表すと、これは中々に難しいシステムである。ましてや今までお金という概念に触れてこなかった魔理沙にとっては。だが幸いなことに、魔理沙は修行の一環として数桁の算数計算は習得していた。少女は焼きそばパン片手に、さらに''お釣り''の話などを持ち出してきたが、魔理沙は何とか理解した。
「ふーむ…なんとなく分かった。じゃあそのお金ってやつは、どこに落ちてるんだ?」
「落ちてるんならどれだけ楽な事か。お金は労働、すなわち誰かのために働いて、その対価として受け取るものよ。」
「働く」という言葉についてまた魔理沙が聞き、アリスが答えた。要は誰かの指示通りに動いて成立する、苦しい営みなのだと。
「ここは町の郊外。あっちの方角に一里ほど歩けば人里があるわ。そこなら求職のポスターやらがあるはず。それを見て、指定の場所に行きなさい。あとは雇い主の命令通り動いていれば、なるようになる」
とにかく、お金を手に入れるのは非常に面倒くさいことらしい。魔理沙はある程度、喧騒郷の理を知った。
「あと、この焼きそばパンは貴方にあげるわ」
「え?私、交換する100円を持ってないぞ?」
少女はぷっと笑い、面白いものを見るような眼をして言った。
「ただの物の受け渡しなら、お金なんていらないのよ。そう、本当はお金なんて…」
少し言葉に詰まった少女は、すぐに話題を焼きそばパンに戻した。
「ま、とにかくこれを腹の足しにして行きなさい。貴方なら、この喧騒郷で生きていける気がするわ」
「お…おう、色々ありがとうな。そういや、まだ名前を聞いてなかったが…」
「私はアリス。ただの人形遣いよ」
少女はそう答えると、そのまま森の中へと消えていった。魔理沙は焼きそばパンを握りしめ、こう思った。
「働かなきゃ、な…」
魔理沙の喧騒郷ライフ、スタート。