寒い。ただひたすらに寒い。それでも足は止められない。雨の中、僕はただひたすら走っていた。頭蓋骨に反響するのは地面に落ちる雨の音と、水が重なる地面を走る音、そして、喘ぎにも近い自分の呼吸音だけ。
あの家から走って、今どれ程の時間が経っただろうか。逃げ出そうと決意してからどれ程走ってきただろうか。既に体力は限界を迎えている。自分の体力の無さに涙が出そうだ。
でもこればかりは仕方ないんじゃないのかと、頭の隅っこで思う。ブルーに手錠やら足枷やらつけられて閉じ込められていたんだ。さらには部屋から出ることも許されなかった。体力が皆無に等しくても仕方ない。
ブルーは今ごろ何をしているのだろうか。僕が逃げたことに気づいて、追いかけて来ているのかもしれない。そう思うと、容赦なく降る雨の音が彼の笑い声に聞こえてきて、僕は怖くなった。
もし見つかってしまったら? 僕はまたあの家に戻ることになる。きっと、手錠や足枷をつけるだけじゃ終わらないはずだ。きっと彼は僕を__。脳裏に広がる恐ろしい想像、僕は頭を大きく振ってその想像をはね飛ばした。
『大好きだよ、エラー』
そう言いながら首を絞めてきたブルーの表情は、とても黒かった。妖しい笑みを浮かべながら、ギリギリと絞め上げていくあの姿は、嫌でも脳にこびりついてしまっている。
怖い、怖い。早く逃げなきゃ。行く宛なんてない。とりあえず逃げれればそれでいい。そんな考えだった。
ふと__。
「あっ__」
どすん。
僕は地面に倒れていた。冷たい。寒い。水が服を浸していく。足が縺れたのだろう。一瞬、宙に浮いたようなあの感覚は、ほぼ間違いない。雨が容赦なく僕の体に降り続ける。
こんなことしている場合じゃないのに。ブルーが追いかけて来ているかもしれないのに。休憩を欲しがる僕の体は起き上がろうとしない。雨音が強くなっていく。どこか遠くで、ゴロゴロという不吉な音まで聞こえてきた。
ああ、このまま死ぬのかな、僕。周囲には誰もいないし、家という家もない場所だ。誰にも知られずに死んでいくのにはちょうどいい。だけど……生きたい。死にたくないよぉ……。誰か、誰か気づいて__。
凍えるほど寒い。体温が無くなっていくのが嫌でも分かる。さらに強まる雨は、止む気配を見せない。限界を迎えた僕の足は動くことをやめた。ぐうぅと、お腹が鳴る。そういえば食べてこないで走ってきたんだっけ、僕……。ああ、お腹空いた……寒い……。何か食べたいなあ……。こんな淡い願い事が受け入れられるものなのかも知らず、僕はただただ願いながら目を閉じた。
「大丈夫?」
大雨の中、誰かの声が聞こえた気がした。何故か、雨が当たる気がしない。僕はゆっくりと目を開く。そこには、誰かが立っていた。不思議そうな顔で僕を見ている。その目は鮮やかな藤色で、黒と紫のコートを羽織っていた。
「……さむ、い……」
「全然大丈夫じゃないね!? ほら、俺が送るから立てる?」
その人が伸ばしてきた手。僕も手を伸ばしたところで、引っ込めてしまった。その人は首をかしげる。
「……どうしたの?」
「あ、いや……その……」
心に巣食う恐怖が囁く。
「ごめん……ちょっといろいろあって……」
「……そっかあ。でも、風邪ひくよ?」
その人は、コートを脱いで僕に差し出してきた。古そうなケープがあらわになる。その下には黒い七分丈ぐらいのシャツがのぞいていた。
「……いいの?」
「放置する趣味なんかないからね。それに、困ってる人は見過ごせないから」
僕はゆっくりと身を起こして立ち上がる。……身長、僕より低いな、この人。そんなことを軽く思いながら僕はそっとコートをもらって羽織る。驚くほど温かい。これが人の温かさなのか。じわりと涙がこぼれる。
「わわっ!? ごめん、泣かせちゃった!」
「あっ、いや……そうじゃなくって……その、温かいなって……」
凍えるように冷たかった体温がじわりと温かくなっていくのを感じた。
「そっ、そっか! そういえば……君、家どこなの?」
「家……?」
周りの音が、いきなり消えた気がした。家? ブルーと過ごしたあの場所? あれは違う。だってあの場所は……家なんて呼ばない。
「……ね、ねえ? 大丈夫?」
ふっと我に返る。音が急に戻ってきた気がした。
「……家なんてないよ」
「……え? どういうこと?」
「僕にとっての家はないの。だから、帰る場所なんてない」
「……そう、なんだ。…………分かった」
しばらくの沈黙のあと、その人は胸の前で両手を合わせる。パンッという小気味よい音が響いた。
「よかったら僕の家に来ない? 酒好きな奴がいるけど、いい奴だし君にとっては楽しいと思うんだ。別に嫌なら嫌って言ってもいいよ」
「……地味につけこんでない? 確かに帰る場所なんてないって言ったけど……」
「あははっ、そんなわけないよ! で、どうする?」
選択が迫る。今ここで行くと言えば、僕はこの人の言う『家』に入ることになる。この人の言う家がどういうものか分からないが、会話を交わすなかで、彼はいい人だなと感じている。
今ここで行かないと言うのなら、僕はきっと__。考えるのはやめよう。あの場所に帰るぐらいならこの人についていったほうがマシかもしれない。少なくとも、ブルーのようにひどい扱いはされないだろう。……多分。
「……分かった、君について行くよ」
「おっ、待ってたよ! それじゃあ、行こっか」
明るい笑顔を浮かべたその人に、僕はついて行くことになった。いつの間にか、雨は止んでいた。
ちなみに、その人の名前はナイトメアと言うらしい。 Errorの日記より抜粋