──特別尋問室は、他の部屋とは一線を画すほどの緊張感と静けさが漂っている。壁は暗いグレーで統一され、窓はなく、唯一の光源は天井から落ちる無機質な蛍光灯だ。その冷たい白い光が部屋全体に広がり、床にわずかに影を落とす。光の当たらない隅には薄い闇が潜んでいるが、それさえも逃げ場ではないことを強調しているかのようだ。
部屋の中央には、重々しい鉄製のテーブルが静かに存在感を放っている。テーブルは傷だらけで、年月を重ねてきた尋問の痕跡を感じさせる。両脇にはシンプルな椅子が二脚、冷たく硬い。背もたれは薄く、座った者が少しでも快適に感じることを許さない無骨なデザインをしている。
入った瞬間に感じるのは、圧倒的な静寂だ。ここには余計なものは一切なく、ただ事実を追い詰めるための場としての役割だけが明確に存在している。この空間に足を踏み入れた者は、逃げ場のない状況に追い込まれることを直感的に理解せざるを得ない。匂いは消毒薬のかすかな香りが漂い、どこか無菌的で、感情が削ぎ落とされた場所であることを思い出させる。ここでは嘘も誤魔化しも通じない、そんな雰囲気が部屋全体に重くのしかかっていた。
胡桃は、硬い鉄製の椅子に深く座らされていた。手錠で手首をテーブルの金具にしっかりと繋がれ、体を動かすことはほとんどできない。手首の皮膚に食い込む冷たい金属の感触が、彼の不自由さをさらに際立たせていた。少し動くたびに、手錠がかすかに鳴り、その音が無機質な部屋の中で妙に響く。
彼の顔は強い蛍光灯の光を浴び、汗がじわりと滲み始めている。額に浮かぶ小さな滴が一筋、ゆっくりと頬を伝って落ちていく。だが、彼はまばたき一つせず、視線をじっとテーブルの上に固定している。目の奥には疲れが見え隠れするものの、どこか強い意志を感じさせる。その目つきは、尋問者に対する無言の抵抗、あるいは真実を胸に秘めたまま口を閉ざす決意を示していた。
薄く開いた唇からは何の言葉も漏れてこない。何度も尋問を繰り返されたせいか、彼の表情はほとんど変わらない。だが、細かい息づかいと、時折テーブルの上で指先が微かに痙攣する様子が、緊張の中に潜む不安をわずかに垣間見せていた。尋問室の重苦しい静寂が彼の周りにまとわりつき、時間が歪んでいるような感覚に包まれていた。
尋問官は、テーブル越しに胡桃を鋭く見下ろしていた。苛立ちを隠すことなく、その目には冷たい怒りが宿っている。彼は大柄で、威圧感のある男だ。スーツの袖を乱暴にまくり上げると、テーブルに強く拳を叩きつけ、音が尋問室に響いた。
「いい加減にしろ!」
声は鋭く響き、部屋の壁に跳ね返る。彼の顔にはもう笑みはなく、ただ苛立ちと切迫感が混じっていた。
「お前が黙ってれば済む話じゃねえんだ。誰のために口を閉ざしてるつもりだ? 自分のためか? それとも誰かを守るためか? どちらにせよ、どれだけ黙っていようが、俺たちは全部知ってるんだ」
胡桃は依然として沈黙を守っていた。怪盗団の計画が実行されるまでは余計な事はしたくなかったのだ。
「ふざけるなよ!」
尋問官は椅子を蹴飛ばすように後ろに引き、胡桃に一歩近づく。その体格と態度が、圧倒的なプレッシャーとなって胡桃を包み込む。彼は胡桃の顔を見下ろし、手錠に繋がれた手を睨みつけた。
「お前は自分の立場が分かっていないようだな。ここで黙っていれば、状況はどんどん悪くなる。お前のせいで、取り返しのつかないことになるんだ」
尋問官はもう一度テーブルに拳を叩きつけた。今度はさらに強く、鉄製のテーブルが微かに揺れ、その音が耳障りなほど響いた。
「お前が何を守っているのか知らねぇが、そいつはお前を助けない」
胡桃は相変わらず動かない。彼の表情には固い決意が浮かび、手錠をかけられた手がわずかに震えているが、唇は固く閉じたままだ。汗が額に滲み、乾いた喉の奥で息を飲み込む音だけがかすかに聞こえる。
「いいだろう、好きなだけ黙っていろ」
尋問官は吐き捨てるように言い、冷酷な笑みを浮かべた。
「お前がそのつもりなら、もっと酷い目に遭わせることになるぞ。俺たちは時間も手段も持ってるんだ。話さないなら、こっちにもやり方がある」
その言葉には脅迫的な響きがあったが、胡桃はついに顔を上げ、短く尋問官を見返した。目には疲労が見え隠れするが、鋼のような意志が光っている。尋問官の言葉にも屈せず、彼は再び視線をテーブルに落とし、再び黙り込んだ。尋問官はその姿に歯ぎしりし、ため息をつくように大きく息を吐く。
──そんな中、部屋の扉が静かに開いた。
新たに入ってきた男は、先ほどの尋問官とは違う雰囲気をまとっていた。無駄のない動き、そして冷たい目。
彼は背広を着崩さず、落ち着いた足取りでテーブルに近づくと、無言のまま先の尋問官に目で合図を送る。先の尋問官は苛立ちを隠せないまま、鼻で息を吐いて立ち上がると、肩越しに胡桃を一瞥しながら部屋を出ていった。
新たな男は、無言のまま椅子を引き、静かに座る。テーブルの上に組んだ手を置き、その手が胡桃に向けられたまま、数秒の沈黙が流れる。彼の存在自体が、尋問室の空気をさらに重たく、冷たくする。
「さて──」
新たな尋問官は、冷静な声で静かに言葉を紡ぎ始めた。声には怒りや焦りは一切なく、むしろ穏やかでさえある。
「お前の名前は、知っている。お前が何をしたかも、何を隠しているかも、すでに分かっている」
彼は淡々と続けるが、その目は一瞬も胡桃から離れない。胡桃は相変わらず沈黙を守っているが、男の異様な落ち着きに不気味なものを感じ始めていた。何かが違う──それを本能的に察知していた。
「俺はな、怒鳴ったり、無駄な時間を使ったりするのが嫌いなんだ」
男は一度微笑んだが、その笑みには一片の温かさもなかった。
「だから、こうしよう。お前が今すぐ協力者のことを話すなら、この部屋から出るときにまだ歩ける状態で済ましてやる。だが、黙り続けるなら──他の方法に切り替えるしかない」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。胡桃はわずかに顔を上げ、新たな尋問官を見つめ返した。だが、その目は揺らぐことなく、強い決意を宿している。その様子に男は微かに肩をすくめると、再び淡々とした声で言葉を続けた。
「そうか。それならこちらも予定通りに事を進めることにしよう」
尋問官は、壁際に歩み寄るように見せかけていたが、突然無言のまま胡桃に向かって一気に距離を詰めた。
──次の瞬間、その拳が容赦なく胡桃の顔面を打ちつけた。衝撃とともに椅子が後ろにわずかに揺れ、胡桃は視界が白くはじけるのを感じた。
激しい痛みが頬を突き抜け、鼻からは生暖かい血が滴り落ちて唇の端を濡らした。口の中には鉄のような味が広がり、彼はかすかな吐き気を感じ、僅かに咳き込んだ。
「い……っぁ……」
「知ってるか? 日本は他の国に比べて被告人や被疑者が黙秘権を行使する割合が低いらしい。……何でも、取り調べする人の
尋問官は冷たい声で言い放ち、拳を一度振り払うように動かす。彼の顔には一切の感情が浮かんでいない。まるで仕事の一環であるかのように、無感情に暴力を振るうその様子に、異常さが際立っていた。
胡桃は椅子にもたれかかるようにして一瞬息を整えたが、手錠に繋がれた手は逃げ場を失っている。
彼は唇を噛みしめて再び黙り込んだ。痛みは耐えられる。しかし、何があっても言葉は出さない──その覚悟が彼の表情から見て取れた。
尋問官は胡桃の無言の抵抗に苛立ちを見せることなく、まるで反応を楽しむかのように、再び静かにその手を構えた。
「これが痛みの始まりだ。今度はもっと強くやるぞ。話せばすぐに終わるが、黙っていれば──その分、続けるまでだ。……さて、お前の良心はどこまで耐えられるんだろうな?」
再び拳が振り上げられ、今度は胡桃の腹部に鋭く突き刺さるように打ち込まれた。
***
アジトであるルブランの中は、まるで時間が止まったかのように重苦しい静寂に包まれていた。
作戦自体は成功した。だが、一人犠牲になった。その事実が余韻のように体に残り、全員が焦りと冷静さの狭間で揺れている。誰も胡桃の無事がわからず、目に見えない不安が心に忍び込んでいた。
「くっそ……なんでこんなことに!」
竜司が拳を強く握りしめ、床を睨みつけていた。
「あいつを置いて逃げるしかなかったなんて……!」
竜司の言葉に、全員の胸の奥に潜んでいた罪悪感が少しずつ表に出始める。彼の苛立ちと悔しさが、その場にいる全員の感情を代弁していた。
「竜司……でも今、胡桃のことに関して私たちにできることは少ないわ」
真が言葉を選びながら話す。彼女は冷静を装っていたが、その声にはかすかな震えが感じられる。
「もう少し、状況を整理する時間が必要よ」
「整理って……そんな悠長なこと言ってられるかよ!」
竜司は感情を抑えきれず、思わず声を荒げた。胡桃が今どこで何をされているか分からないという現実が、彼を焦燥へと駆り立てる。
「あいつがどこで何されてるかわかんねぇんだぞ!」
「少なくとも! ……少なくとも胡桃は殺されてはいないはず。パレスを脱出するギリギリまで双葉のペルソナで彼を捕捉したら、警察に連れてかれるところまでは観測できた」
真の言葉に、双葉も頷きながら無理に冷静さを保とうとする。彼女も胡桃の生体反応を最後まで追跡できたことが唯一の救いだったが、それでも仲間がどうなっているか分からない不安は、胸の奥で形を持たない影のように広がり続けていた。
「殺すつもりだったら囲まれた時点で生体反応は消失するはず。だから生かすメリットがあるんだと思う」
「……マコちゃんの言う通り、焦って行動すると全員さらに危険に晒されることになる」
春がすみれの肩に手を置きながら、優しい声で諭す。だがその瞳は不安に揺れていた。すみれはじっと自分の膝を見つめたまま、声を発することができなかった。
「今は、リーダーのトリックを成功させることを優先させないと」
「……それも、真のお姉さんの冴さんを説得させなきゃいけないんだよね。……もしその説得も失敗に終わったら、二人は──」
そう口にしたのは杏だったが、その言葉を口にした瞬間、自分が冷酷な現実を口にしてしまったことに一瞬だけ震えを覚えた。失敗すれば胡桃と蓮がどうなるか、それを想像するだけで恐怖が自分を飲み込もうとするのを感じた。
「──っ大丈夫です!!」
そんな中、突然すみれは勢いよく立ち上がって、胸をドンと叩いて全体を見渡す。全員が目に見えない重荷を背負っていて、焦りと不安に押しつぶされそうな彼らの表情を見て、すみれの心に決意が芽生えた。自分が崩れるわけにはいかない。ここで自分が弱音を吐けば、みんなもきっと同じ道を辿るだろう。そう思った瞬間、彼女は無理にでも前を向くことを選んだ。
「こういうのはマイナスなことを考えちゃいけないんですよ! ネガティブな思考はネガティブな結果を招く! 私はコーチからそう教わりました!」
悪い方へ流れゆく思考と雰囲気を断ち切るように、今出せる精一杯の明るい声と表情で元気づけるように宣言する。唇をぎゅっと引き上げ、笑おうとするその表情は、まるで壊れやすいガラス細工のように見えた。口元は確かに笑みの形を作っているのに、その目はどこか怯えた色を残していた。けれども、彼女はあえて顔を背けず、皆の視線を受け止めようと必死だった。
しかし、その前向きな言葉がネガティブな雰囲気を少し和らげる。すみれは、心の奥に押し込んだ不安を誤魔化すかのように、笑顔を浮かべて続けた。
「信じろって言われたので、私は信じ抜きます! 二人は、あの状況でもきっと冷静に行動されています! だから、私たちがこんなふうにうじうじしてたら、帰ってきたときに怒られちゃいますよ!」
心の中では、すみれ自身がその言葉を信じようとしていた。自分を励ますように、そして不安を覆い隠すために。彼らが無事であることを、彼ららが自分たちを信じていることを、そして作戦が成功することを──何度も何度も、心の中で繰り返すように言い聞かせた。
「すみれ……」
すみれの無理に明るい声が静かなアジトに響くと、その場の雰囲気が少しずつ変わり始めた。彼女のぎこちない笑顔がかえって不安定で、それでも無理に元気づけようとする姿は、どこか痛々しいものがあった。けれども、その姿にメンバーたちは互いの顔を見つめ、少しずつ頷き始めた。
「……確かに、弱気になってる場合じゃないな」
「彼らを信じて、私たちもできることをやるべきね」
すみれの無理に浮かべた笑顔が、不思議と全員に波及して、まるで影が少しずつ薄れていくように、場の空気が軽くなっていく。それぞれが不安を押し殺しながらも、今の自分にできる精一杯の前向きさを手探りで見つけていくかのようだった。
「だから、今は大丈夫です! 必ず良い結果が出ますから、絶対に諦めないでください!」
彼女の言葉は、何より自分自身に向けられていた。その心の中の不安を誤魔化し、二人が無事であると信じ続けるために。
***
数時間にわたる暴行は、胡桃の体と精神を徹底的に打ちのめしていた。殴打が繰り返され、顔は腫れ上がり、唇は裂け、口の中に溜まった血がじわじわと滲み出している。目の周りは紫に染まり、片方の目はほとんど開かないほど腫れていた。荒い呼吸が苦しげに漏れ、体中の筋肉が緊張と痛みに固く強張っている。
尋問官は感情の無い目で胡桃を見下ろしていた。床には倒れた椅子と、血の混じった唾が残っている。説得を試みるたびに椅子から崩れ落ち、再び無理やり座らされる。その繰り返しで、身体は疲弊しきっていた。
胡桃は椅子に無気力に座り込み、背中を曲げたまま、頭をだらりと垂れていた。汗と血が混じり合い、ボロボロの状態になっていたが、それでも彼の唇は閉ざされたままだ。手錠に繋がれた手はわずかに震え、意識が朦朧としながらも、まだ話すことを拒んでいる。痛みと疲労が体中を支配しているが、心の奥底ではまだ抵抗しようとする力が残っていた。
「強い精神ってのも考えものだな。それとも自分の命なんてどうなってもいいと思ってるのか?」
「…………」
「もう一度言う。お前の、協力者は誰だ?」
「…………」
「……そうか。……なら」
そう言って尋問官が懐から取り出したのはペンチだった。
「──地獄に底が無いのは知ってるか?」
胡桃の胸に冷たい不安が走った。鋭い金属の輝きが目に入ると、体の奥底で凍りつくような恐怖が広がっていく。それまで無表情を貫いていた彼だったが、その一瞬だけ心が揺らいだ。しかし、顔には一切その動揺を表さず、無意識のうちに拳を握りしめた。尋問官に心の弱さを見透かされるわけにはいかない。これまで何時間も耐えてきた痛みを無駄にしないためにも、彼は冷徹な表情を保つことに全神経を集中させた。
「もう十分だろう?」
尋問官はペンチを握りしめながら冷ややかに問いかけた。だが、胡桃は一言も発さず、虚ろな目を尋問官からそらさない。内心ではすでに恐怖が込み上げているものの、それを悟られるわけにはいかないと、呼吸をできるだけ静かに保った。
尋問官は胡桃の右手を無造作に掴み、テーブルの上に押しつけた。その瞬間、胡桃は小さく抵抗しようとした。手首をひねり、体を少しだけ動かして拘束された手を振り払おうとする。だが、尋問官の力は圧倒的で、わずかな抵抗はすぐに押し返され、テーブルに押さえつけられた手は逃れられないまま固定されてしまう。
「無駄だ。お前は何もできない」
尋問官は微かな笑みを浮かべ、ペンチを胡桃の指先にあてがった。その冷たい金属が指に触れた瞬間、再び恐怖が胡桃の体を駆け抜けたが、彼は必死に耐え、顔を歪めることなく唇を引き結んだ。
「見ろよ、これが次だ」
尋問官はゆっくりとペンチを閉じ始め、爪が持ち上がる感覚がじわじわと押し寄せる。胡桃は無意識に体を緊張させたが、それでも小さく抵抗を試みる。手を引こうとするが、押さえつけられた手首はびくともしない。ペンチがさらに力を加えられると、爪が無理やり持ち上がり、鋭い痛みが胡桃の神経を突き刺した。ペンチで引っ張られる感覚は鈍く、じわじわと続く苦痛が手全体に広がる。
「……っ……」
胡桃は息を呑み、わずかに顔をしかめたが、絶対に声を漏らさないと決めていた。尋問官の鋭い視線が、彼の苦悶を観察するかのようにじっと見つめている。それでも、胡桃は目を閉じ、痛みと恐怖を抑え込もうと耐え続けた。
──ミチリッ。
繊細な何かが断ち切られるような音と共に鋭い激痛が胡桃の体に電流のように走り抜けた。
痛みを脳が察知して痛覚に変換する数コンマのラグの後。
「〜〜〜〜っあ゛ああああ゛っ、!!」
胡桃は本能的に体を仰け反らせ、椅子の足が軋んだ。鋭い痛みが指先から脳天に突き刺さるように響き、喉から抑えきれない叫びが溢れた。
それでも唇を強く噛み締め、顔を歪めながらも、必死に声を抑えようとするが、痛みはあまりにも強烈だ。視界がにじみ、全身が緊張と恐怖で震える中、尋問官は冷ややかな視線で彼の様子を見ていた。
「やっと声が聞けたな。……協力者は何人で、どこにいる?」
「っ……ぐっ…………ハァ……うっ……」
「……何か……喋れ!!」
「っあ゛ああああああっ!!」
剥がれたばかりの胡桃の指に拳を振り下ろした。無慈悲な一撃が、既にむき出しになった肉を激しく打ち、胡桃は反射的に体を大きく震わせた。
歯を食いしばって耐えようとしたが、鋭い痛みと衝撃があまりにも激しく、喉から苦悶の声が漏れ出た。全身が痛みで痙攣し、汗が額から滴り落ちている。指先の焼けるような感覚が、意識を引き裂くかのように続いている。
「答えろ。それとももっと苦しみたいのか?」
尋問官は息を荒げ、怒りに任せて再び拳を叩きつけようとした。目には狂気が宿り、胡桃が答えるまで止める気はないようだった。
「…………………………」
だが、胡桃は再び苦痛に歪んだ顔を上げ、目を閉じたまま言葉を発しない。疲労と痛みで体は限界に近づいているが、彼の決意は崩れなかった。
「……チッ、……クソ」
尋問官は苛立ちを隠せず、再び胡桃の手を強く掴んで押さえつけた。その手は力強く震え、尋問官の怒りが伝わってくるが、胡桃の目はその怒りを見返すことなく閉じられたままだった。
「秘密は墓まで持ってくってやつだ。そうなって来るともう消化試合だつまらない。ただお前はどうも処理の仕方を間違えちゃいけないらしい」
「……ッ……、……ゥ……!」
尋問官は容赦なく次の指にペンチを移し、再び力を加えていく。
「……ぁい゛……あ゛っ……!」
「指の次は、足。その次は歯だ。どこまで耐えられるか試してやるよ」
胡桃は声を漏らしながらも、まだ口を割らない。爪が再び剥がれ始め、鋭い痛みが襲ってくるが、彼の決意は揺るがない。しかし、体は限界に近づいていた。痛みに耐えるたび、意識が薄れていく感覚が彼を包み始めていた。
***
──……数十分が経過した。
室内の空気は重く、異様な静けさに包まれていた。胡桃は椅子にだらりと座り込み、意識を手放しそうなほどに疲れ果てていた。暴力の繰り返しで、顔は青紫に染まり、鼻血と汗が混じり合って額から顎にかけて垂れ落ちている。瞼は重く、片方の目はほとんど開けられず、腫れた顔が苦痛を物語っていた。
特に右手は、惨めなほど痛々しい姿をしている。剥がされた爪の跡からは血が滲み、痛みは絶え間なく続いている。手首は手錠に擦れて皮が剥け、赤く腫れていた。尋問官に叩きつけられた拳の痕も残り、青黒く変色した指が不規則に震えている。
呼吸は浅く荒く、胡桃は一度に深く息を吸い込むことすらできなくなっていた。痛みと疲労が体を支配し、胸の中には重苦しい圧迫感が広がっている。彼の体力は限界を超え、筋肉は鉛のように重く感じられ、血流とともに痛みが全身に流れ込んでいた。
意識が時折ぼやけ、視界が暗転しそうになるが、それでも彼は何とか意識を保ち続け、ただ──見ていた。
もう胡桃は、獅童側にとって自分は価値が無いものと判断されたことを察した。あわよくば尋問で胡桃しか知らない情報を吐かせられば良いと思ってるだけで、無理ならば情報的価値ごと自身を殺す予定だと。
だからこそ目の前の状況をひっくり返す答えがどこかにあるはずだと、彼の脳は死に物狂いで考え続けていた。目の動き、手の位置、歩き方、一分間の呼吸の数、靴の汚れ、殴り方のクセ……視界に映るそのすべてを捉え、頭の中に送り込み続ける
しかし、呼吸が上手くできず酸素が足りない。血が流れすぎて脳を回す血液が足りない。心臓の音が耳の奥で大きく響き、死がじわじわと近づいてくる。
──そして、考え抜いた末に、彼が辿り着いた答えは無慈悲な「不可能」だった。
まず怪盗団の助けは望めない。頼みの綱であるジョーカーも、新島冴を説得しここを共に脱出しようとしても目の前の尋問官にそれを阻まれる。故に彼一人でこの場面を切り抜けるしかない。
そして胡桃を処分する役目が明智なら、タイムリミットは明智がここを訪れるまで。つまり怪盗団の作戦が実行される直前か直後のタイミング。しかし明智が胡桃のいる尋問室を訪れた時に部屋に胡桃がいないなんて異常事態が起こってしまえば、明智に本命の作戦がバレかねないため、胡桃は明智が訪れるまでこの部屋に存在しなくてはならない。
それに彼が観察すればするほど、目の前の尋問官は騙されないと気づいてしまう。場数の差が大きすぎて胡桃の嘘など即座に看破されてしまう。
詰みであった。ここからを生きて帰ることは諦めるしかない。
「は……げほッ! は、は……はは……はッ……」
胡桃は、咳き込みながらも笑っていた。血の混じった唾を吐き出し、掠れた声で笑い続けるその様子は、尋問官の目には精神と肉体の限界を超え、狂気に陥ったように映っていた。笑い声は途切れ途切れだが、その乾いた音は部屋の冷たい空気を震わせる。
尋問官は眉間にしわを寄せ、顔をしかめた。その笑いが、彼の癇に障ったのだ。手を振りかぶり、全力で胡桃の顔を殴りつけた。拳が彼の頬に直撃し、胡桃は椅子から転げ落ち、冷たい床に血と汗をまき散らしながら転がる。
「ふっ……はは……」
しかし胡桃は床に転がりながら、まだ笑っていた。尋問官は胡桃の髪を掴み、強引に顔を持ち上げて彼と目を合わせた。
「はははは」
「ついに壊れたかよ。案外耐えたほうだな」
「……い、たい……」
「……あ? くくっ、今更か。そうだな痛いよな?」
「……いった、い」
「あ?」
「いった、い。なにを、あせってる」
途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせて紡ぐ彼の口角は綺麗な弧を描いていた。
胡桃はこう考えていた。
助かる見込みはゼロに近く、ここで死ぬしかない。詰みの状況。
だったら。もう。
「獅童と、明智は、つながって、る」
道連れにしちまえ、と。