………………死んだかもしれない。そう認識している自分の冷静さに驚く。
まるで霧の中に立っているように現実感が薄れていって、体の感覚はなく、浮いているような感じで音もなく、ただ静寂が広がっている。
気がつけば、目の前に長いトンネルのようなものが見えてきた。黒くて深い、それでいてその先に眩しい光が見える。懐かしさと心を落ち着かせるような優しい光。
足は自然とそのトンネルの方へ向かっていった。歩いているのか、それともただ引き寄せられているだけなのかも分からない。ただ、その光の方へ、ゆっくりと近づいていく。何かを考えようとしても、頭の中はぼんやりとしていて、意識が遠くなっていくだけだった。
「……俺、なにしてたんだっけ」
その問いが、ふと頭に浮かんだ。自分が今どこにいるのか、何をしていたのかが急に思い出せなくなってきている。
「なんで頑張ってたんだっけ」
無理をしたことだけは覚えている。頭でも体にでもない、魂に刻み込まれているような気がする。
「…………本当に頑張ってたんだっけ?」
ただその魂の記憶にすら、引っかかりを覚えていた。胸を張って頑張ったと言えない後ろめたさがあった。
「本当に俺だったんだっけ。それとも、逃げていたんだっけ」
脳を通さず適当に発した言葉はうまく頭で理解出来なかった。
「…………まぁ、いいか」
答えを出せない脳みそは思考を放棄した。こんな場所に来る前の自分は、多分、適当な人間だったんだろう。
そう考えてる内にトンネルの光がどんどん近づいてくる。その光はとても温かく、全てを包み込むような優しさがある。もし、このまま進んでいけば、すべてが楽になるんだろう。何も考えなくていい。何も恐れることはない。
だけど──何かがまだ、胸の奥で引っかかっている。
トンネルの向こう側からは強く引き寄せられているが、反対に背中からは何かに引き戻されるような感覚がある。目の前に広がる光の方へ進もうとする自分に、何かが「まだ行くな」と言っているようだ。
振り返ると、光とは対照的に黒い影のようなものが遠くに見えた。
その瞬間、耳の奥で不意に低い音が聞こえた。まるで何かが崩れ落ちるような音だ。胸の中がズキリと痛み、意識がぐらつく。光が引き込もうとする力が弱まり、代わりに後ろの闇が俺を引き戻す力を強めてきた。
あっちが正しい道か。ああ、でも。
「………………もう、いいんじゃない? 頑張ったよ」
光の方へ足を向けて進む。
だって、なんか、くらいほうは、つらいし、いたいし、こわいし、くらいし、つかれるし、むずかしいし、いそがしいし、うるさいし、かなしい。
だから、いきたくない。…………いきたくない。
でもこっちは…………なんか、楽そう。しらんけど。
……………………歌おう。
「……~~♪」
口から漏れる鼻歌が心地よく、サビが頭の中で繰り返される。足元のリズムに合わせて、左右にゆっくりと体を揺らして歩く。何も考えず、ただそのメロディに身を任せて、光の方へ進む。永遠に続く優しい光がすぐそこに広がっている。
ただ、それでも。
「…………いたい」
ナイフで滅多刺しにされたかのように胸が痛い。この痛みには覚えがある。罪悪感だ。
「なんだ、そっか…………はは……」
今、理解した。どこへ逃げようと罪悪感からは逃げられず、一生解放されない。解放されるとしたら、目の前の光の中にある永遠だけだ。
──こっちだよ
手に柔らかな感触があった。振り返ってみると女の子がこれ以上光の方へ向かわないよう自分の手を繋いでくれていた。
──君は、こっちだよ
そう言って、自分は手を引かれるまま光から遠ざかる。
「……鈴井、さん……だよね?」
朧気な記憶の答え合わせはしてくれなかった。きっと前にもこんな事があったと聞いてもその答えは返ってくる気はしなかった。
気づけば闇は目の前だった。光へ歩いていた距離より、ずっと短く感じた。
鈴井さんに手を引かれて、足元が闇へと一歩踏み入れた瞬間、世界がぐらりと揺れた。まるで底のない沼に足を取られたような感覚に襲われ、ズルズルと闇の中に沈んでいく。
──君はまだ、生きなきゃダメだよ
彼女の囁きが耳元で響く。声は優しいが、その響きには逃れられない強制力があった。手を引かれるまま、次第に深い闇の中へと引きずり込まれていく。
周囲は真っ暗で、目を凝らしても何も見えない。ただ、鈴井さんの小さな手が自分をしっかりと握り、どこかへ連れて行こうとしている。後ろを振り返っても、もう光は見えない。
自分の体が──感覚が、少しずつ蘇っていく。
目の前の光が消え、闇が俺を覆って……──現実の痛みが全身を貫いた。胸の奥で、何かが激しく鼓動を打つ感覚が戻ってきた。
そして目の前の景色が消えゆく前に、目の前の鈴井さんの口が動く。
──まだ生きていてもらわないと困るからな。
最後に、邪悪な笑みを浮かべた鈴井さんから、ヤツの声が聞こえた気がした。
胡桃はゆっくりと意識を取り戻した。背中に冷たい感触を感じ、硬い床に横たわっていることに気づいた。瞼の裏にぼんやりとした光が滲み、目を閉じているにも関わらず強烈に目を刺激し、反射的に目を細める。視界がぼやけ、天井の白い光がそのまま目に刺さった。頭が重く、体が思うように動かない。だが、何とかして自分の体を確認しようと試みる。
「起きたか」
胡桃はその声に反応してかろうじて顔を向けたが、視界はまだぼやけており、声の主がはっきりと見えない。男の姿がぼんやりとした影のように立っているのがわかるだけだが、状況的に尋問官であることは確定していた。
「……なんで……生きてる?」
「心停止した場合、大体5~6分以内に応急処置したら蘇生すんだよ。……昔、高級デリでそういうプレイしたらうっかりして一線超えちまって、焦って処置したら息吹き返して『このイカレクソチ〇コ野郎が!!』って息切らしながら言ってきてな。纏まった金を払ったらすぐに黙り込んで帰っていったがな」
「……明智」
「お前が死んでるの確認したら出ていったよ。運が良かったな。普通は心臓止まってもすぐに血が止まるわけじゃないから、死後数分は瞳孔は僅かに動くんだが、尋問で血流しすぎて、瞳孔が元気よく動かなかったみたいだな。おかげでアイツを誤魔化せた」
「……取引……」
その一言を呟いた直後、胡桃の視界が再び揺らぎ、闇がゆっくりと彼を包み込んでいった。意識が落ち、再び深い闇の中へと引きずり込まれる。
***
『速報です。容疑者の少年二名が拘置所内で自殺を図り、死亡が確認されたとの情報が入ってきました。繰り返します。新たな情報が入り次第、詳しくお伝えしますが──』
その声が耳に入ったとき、胡桃は深い眠りから目を覚ました。目の前に広がる眩しい白い天井が、目を細める彼を驚かせる。肌に触れるシーツは、ふわりと柔らかく、冷たく硬い床に押しつけられていた時の感覚が嘘のようだ。
「……知らない天井だ……」
「起きたか」
「……デジャヴ? ここどこ?」
「病院。警察病院じゃなくて普通のな」
「……二度寝していい?」
「ふざけてんのか。おい、目瞑るな、起きろクソガキ」
少しだけ瞼を開けたまま、今の状況を考えようとする。
胡桃がベッドの上で体を起こそうとした瞬間、右手の鋭い痛みが体に走った。思わず顔をしかめ、右手を持ち上げてみると、包帯が指先までしっかりと巻かれているのが見えた。指の先端にはズキズキとした鈍い痛みが響き、まるでまだ爪が引き剥がされる瞬間を体が覚えているかのように苦痛が蘇る。
胡桃はゆっくりと包帯の隙間を指で探りながら、その感覚を確かめた。指先にはまだ何も触れていないはずなのに、冷や汗がじわりとにじみ出るような錯覚を覚える。治療されたとはいえ、傷の表面には痛々しい圧迫感が残り、細かな振動すらも鋭く感じ取れる状態だった。
「テメェらが抜けだしたことがバレるのは時間の問題だろうが。本当にこの状況どうにかできんだろうな?」
その言葉に、ようやく胡桃は現実に引き戻された。少し眉を寄せて問いかける。
「テメェらってことはうちのリーダーも解放されたのか」
「お前らのリーダーを車に乗せてる後ろ姿を見た。あちらさんはこっちに気づいていなかったがな」
「……」
「どうした」
「……俺を助けた理由」
「……俺も今回の尋問は普段より雑に扱われてるとは何となく勘付いてた。とりあえずリスト化されてないメンバーを吐き出させろって高圧的な上の命令とプレッシャーだけ与えられて。……今思えば使い捨てる予定だったんだろうなクソが」
言葉の端々に、不満と不信が滲んでいる。彼の口調に、これまで蓄積された怒りのようなものが感じ取れた。
「こんな事してクビじゃ済まないだろ」
「バレる前に辞めるに決まってんだろ」
「……今のタイミングで退職届って受理されるのか?」
「むしろ今しかないな。このあと怪盗団に獅童の大スキャンダルが暴かれるんなら、俺の処遇に対処する余裕は警察組織にねぇだろ。……そもそも精神暴走事件の実行犯と首謀者が逃げ出してんのに一切それが漏れ出してない時点で終わってんだよ。死体を処分する担当がお前らの死体が無いことに気付いて、焦ってるけど誰にも報告できずに隠蔽してる。それに報告したら自分の責任になるしな」
「……ああ、納得した」
胡桃は一つ疑問に思っていたことがあった。ゲーム中での今まさにこのトリックを成功した後の展開。『なぜ警察は自殺と処理された主人公の死体を確認しないのか?』
実際転生して、それを経験してみれば簡単なことだった。
「怖い先生に怒られたくないもんな~~……」
行き過ぎた隠蔽体質を皮肉るように笑う胡桃。尋問官はため息をつき、さっと扉に手を掛けると、最後の忠告を口にする。
「一応、お前は入院せずに治療を受けた後、目覚め次第ここを出ていくってこの病院の上と話付けたから、後は自分でどうにかしろ。医者が言うには命に別状は無いらしいからな」
「ちょ、待ったどこ行くんだ」
思わず引き止めようとする胡桃の声に、彼はほんのわずかだけ振り返り、眉一つ動かさずに応える。
「あ? 警察署だよ。とりあえず獅童と繋がってる奴らを探して話して、俺が関わっていた証拠を消して……後は警察辞めて地元で適当に過ごすだけだな」
「……それだけ?」
「何か不満か?」
言い返しながらも、胡桃の中で疑問が湧いてくる。ここまで自分のために動いてくれているのに、その理由や動機がまったく見えてこない。
「いや、なんか、もっとこう、警察っていう立場に固執してるとか、使い捨てにした上司を復讐しにいくとか」
自分の問いが滑稽にも思えたが、言わずにはいられなかった。胡桃はふと男の顔を伺う。だが、男は眉一つ動かさず、ただ微かに唇を歪めた。
「くだらない。あの組織で働いてたのも、向いてたってだけだしな。向いてなくてもなんかしらの仕事は出来るだろ」
彼の声は淡々としていて、どこか不気味にさえ感じられるほどだった。胡桃は自分の中に湧き上がる感情をうまく整理できず、苦々しい思いで男を見つめた。
目の前にいるのは自分を痛めつけた張本人だというのに、その人間からは悪意も復讐心も、何かに執着する気配もない。ただ状況を踏まえ、次の行動を決め、迷いなくそれに従う機械のような冷たさしか感じられなかった。
「……もし俺たちの改心が失敗したら、お前は獅童や明智に口封じで殺されることになるんだぞ? それに俺がお前を廃人化や精神暴走から守る保証はないだろ? ……怖くないのか?」
胡桃自身、なぜこの男を追及したのか、自分でもよく分からなかった。ただ、目の前にいるこの冷徹な人間に、何かしらの感情があるのか確かめたくなったのだ。
しかし、彼は胡桃の問いに対してほんの少しも揺らぐことなく、表情を変えずに答えた。
「それは俺がどうこうできる問題なのか? 違うだろ。死んだらそこまで、死ななかったら運が良かった」
その言葉を聞いた胡桃は、思わず息を呑んだ。死ぬことさえも「運が良ければ避けられる」程度にしか考えていない彼の態度に、体がわずかに震えた。
普通の人間ならば、死の恐怖に晒されれば何かしらの反応があるはずだ。それが、怒りや悲しみであれ、せめて恐怖を隠すための強がりであれ……。だが彼には、それすらなかった。彼にとって、命も地位もすべてが「どうでもいいもの」だったのかもしれない。目的を果たすために、その場に必要とされるだけの行動を取る、それ以上でもそれ以下でもない。ただの「手段の人間」なのだと、胡桃は悟った。
彼が去り、冷たい病室に独り残されると、胡桃はようやく深いため息を吐いた。どうすればいいのか、どうすべきなのか。
「──山田太郎さん、入りますよー……」
扉が開いて、状況を把握しきれていない看護師が入ってくる。胡桃自身もポカンとしながら看護師を見る。
「……俺、山田太郎?」
「……? あ、多分……? えっと、治療が済んで意識が戻ったら退院させるようにと……あの実は私もそんなに詳しくは「あーはいはいはい大丈夫です、山田太郎はすごく元気なのでこのまま退院します。いやー申し訳ないこんな傷で治療を受けてしまって」……いやでも右手の爪を剥がされ、あ、お着換え手伝います」
胡桃は全てを察し、ばつの悪いようにそそくさと着替えていると場に流されやすい看護師が着替えを手伝う。尋問の時に来ていた服なので、多少服に血液が付いているが上着のボタンを閉めたら隠せそうだった。
「えっと治療費……」
「あ、結構とのことです。とりあえず早めに帰ってもらえとのことで……あれこれ言っちゃいけないやつか。まぁ、そんな感じでお支払いせず、帰ってもらって結構ですよ。なんなら正面入り口からじゃなくて、非常口から帰っていただいてもおっけーって言ってました」
「結構ぶっちゃけるな……」
こういう看護師の図太く場に流されやすい性格だからこそ、胡桃の……いや山田太郎を見送る役目を、上から任されたのかもしれない。
「はい、じゃあお大事になさってください」
そう言われ胡桃も流されるままに非常口から外に出ると、夕方の冷たい風が頬に当たる。
非常口の薄暗い階段を下りると、病院の裏手に出た。ほんの数時間前までは尋問室で苦痛と絶望に晒されていたというのに、今は病院を抜け出して自由になっている。
傷だらけの体を引きずるようにして一歩、また一歩と歩き出す。夕暮れにまばらに照らされる道を進みながら、頭の中にはいくつもの思いが渦巻いていた。
追い詰められた状況から奇跡的に救われたことへの安堵と、その裏で蠢く不安が入り交じり、胸が締め付けられ──。
「……いやスマホと財布ねぇんだけど!?」
……現代日本ではやや不安なこの状況に、思わず嘆かずにはいられなかった。