沈む夕陽が海を赤く染める中、豪華客船が白銀の船体を輝かせながら堂々と進む。その姿には沈んだ国や無数の犠牲者への追悼の影はない。むしろ、それらの悲劇さえ船の輝きを際立たせる舞台装置にすぎなかった。
船内は贅沢の極み。金の装飾、絢爛たる絨毯、漂うワインの香り。乗客たちはそれを当然とし、「自分たちの生存は正当な結果だ」と信じて疑わない。窓の外、かつて日本があった場所も忘れ去られ、犠牲すら「切り離し」として消化されている。
船の進行を妨げるものはない。犠牲と呼ばれるものさえ、この船の輝きの礎でしかない。乗る者たちはその正当性を信じ、振り返ることもない。ただ波間に映る船影が、静かに一つの言葉を語る。「傲慢」と。
──これこそが、シドウパレス。
沈む者たちの怨嗟を波間に消し去り、傲慢と欲望で海を支配する悪夢の船。
***
「状況を纏めるとこうね」
シドウパレスのセーフルームは、静かに緊張が満ちていた。広げられたテーブルの上には、真が細い指で船内MAPを指し示しながら、淡々と説明を進めていた。
「オタカラがある議場に入るには、五枚の紹介状が必要。それを持っているであろう人たちは、レストランにいる政治家・大江、屋外プールにいる旧華族、娯楽ホールにいるTV社長、自室に引きこもってるIT社長、そして謎のトラブル処理役よ」
「五枚もかよ、面倒だな……」
「それに相手はそれぞれ地位も権力もある連中よ。ただ渡してくれるとは思えない」
全員の顔に警戒の色が滲む。
「でもそのトラブル処理役? ってなんかVIPっぽくないよね」
「私もそういうお仕事は聞いたことないわ……」
「それに最近姿を見せてないって噂がある。ほとんどの奴が居場所すら知らないみたい」
「……まぁ、でも他の四人から一人ずつ潰していきましょうよ。……今の私達なら余裕ですよ」
すみれの声は平坦だったが、その奥には鋭い棘のような敵意が滲んでいた。握られた拳がわずかに震えており、その指先は血の気を失うほどに白くなっていた。
その様子に気付いたのは隣にいた蓮だけではなかった。祐介は一瞬視線をそらし、竜司は何か言いかけて口を閉じた。誰もその棘に触れることをためらっているようだったが、真はそれを振り払うように首を振った。
「……そうね、すみれの言う通りそのトラブル処理役は後回し。他の四人から当たりましょう。今は動ける範囲を先に攻めて、手がかりがつかめそうならそっちに切り替えた方がいいわ」
「近いのはレストランにいる大江、まずはそこから行くか」
蓮が全員の意見が纏まったところで結論を出す。
……本来ならば、ここで一度撤退してまた後日に準備を整えてシドウパレスにトライするという流れだった。しかし、乙守胡桃が敵によって殺された今、彼らの弔いの炎は敵を火にくべるまで収まることはない。ここで一度引くという燻ぶっている闘志をそのまましておくことなんてできなかった。
「敵は強大だ。気を付けていこう」
蓮が締めくくりの言葉を告げると、作戦会議は終わりを迎える。怪盗団はそれぞれ準備を整え、次々とセーフルームを後にした。廊下に出た彼らの足音が遠ざかる中、蓮は少し立ち止まった。最後にすみれがまだその場に留まっているのを確認すると、静かに声を掛けた。
「すみれ……無理してないか?」
蓮が声を掛けると、すみれは一瞬だけ肩を震わせた。その顔を上げると、冷静を装った表情を浮かべていたが、瞳の奥には微かに揺れるものが見えた。
「無理なんてしてません。……ただ、やるべきことを考えているだけです」
「背負いすぎるなよ。誰もすみれに全部を託したわけじゃない。……全員で生きて勝つんだ」
「……ごめんなさい。でも、私は大丈夫です」
彼女の言葉には、どこか覚悟が滲んでいた。その覚悟が危ういものでないと信じたい気持ちで、蓮は短くうなずいた。
「わかった。けど、何かあればすぐに言え」
「ありがとうございます」
蓮は軽くうなずくと、先に歩き出す。すみれも深呼吸を一つし、彼の後を追った。閉まりかけたセーフルームの扉が静かに音を立て、二人が廊下へと消えると、その空間は完全に静寂に包まれた。
***
(……なんで無くなってるんだ?)
明智は証拠保管室の薄暗い空間で立ち尽くしていた。壁際に設置された金属製の棚には、番号が振られた袋やケースが整然と並んでいる。しかし、目当てのものはどこにも見当たらない。眉間に皺を寄せながら、彼は棚の隅々に目を走らせたが、乙守胡桃のスマホと財布はどこにも見つからなかった。
──乙守胡桃の処分。
その命令が下されたとき、明智は乙守胡桃を殺すことにためらいはなく、その役目を引き受けた。胡桃を
(特殊な力……あいつのあれは、一体どうやって──)
胡桃が知っていた事実。明智と獅童のつながりに対する確信。奥村邦和の事件で彼が何をしたのか。そして。
『──俺はお前と似て非なる力を持ってる。その力でお前と獅童の関係を知ってる』
乙守胡桃の謎の力。その全てが、明智の中で解明されぬ謎として燻っていた。しかし、その鍵を握るスマホがこの場にないという事実が、明智を苛立たせていた。
彼はもう一度、棚の番号を順番に指でなぞるように見て回る。だが、結論は変わらない。スマホと財布は最初からここには存在しなかったか、何者かが持ち去ったのだ。彼は周囲を見渡し、部屋全体に目を走らせる。ずらりと並んだ保管棚のどこにも異常は見当たらない。
(……誰だ? 誰が、何のために?)
彼は棚の奥深くを覗き込みながらも、内心では別の可能性を検証していた。この証拠保管室へのアクセス権を持つのは誰なのか。その中で、胡桃の持ち物に興味を示す理由を持つ人物がいるのか。あるいは、獅童自身が何らかの意図でそれを処理した可能性も──。
(あの男が先手を打ったということか?)
認知の研究を僅かに齧っている獅童正義ならば、先にスマホを回収し、乙守胡桃、並びに怪盗団がやっていることを手下に把握させていてもおかしくはない。
その考えが脳裏をよぎると同時に、明智の眉間が深く寄った。もしそうなら、獅童の指示に従いながらも、知らぬ間に重要な情報を隠蔽されている可能性がある。それは明智にとって容認できない状況だった。協力関係とは名ばかりの利用関係──それを彼は十分に承知している。しかし、このような抜け駆けを許すつもりはなかった。
(だが……もし獅童ではないとしたら?)
明智は棚の前に立ち尽くし、部屋全体に目を走らせた。証拠品を勝手に持ち出すことができる立場の人間は限られている。だが、それを実行する理由を持つ者となれば、さらに絞られるはずだ。
「……新島冴か」
明智は小さく呟いた。思い当たる節がいくつかある。怪盗団に執着し、彼らの行動を徹底的に追跡していた女性検事。最後に彼女が怪盗団のリーダーと取り調べを行ったことも記憶に新しい。彼女なら、胡桃のスマホに記録された情報がどれほどの価値を持つか理解しているだろう。
彼は新島冴の連絡先をスクロールして、指先でその名前をタップした。コール音が鳴り始め、静かな室内に響く音が彼の神経をさらに研ぎ澄ませる。
新島冴は直接的な交渉を好むタイプではないだろう。しかし、必要と判断すれば、彼女も話に乗るはずだ。数回のコールの後、相手が応答した。
「……明智君ね。何の用かしら?」
冷静で端的な声が耳に届く。その声には、少しの警戒心と探るような響きが混じっていた。明智は少しも表情を変えずに、淡々と口を開く。
「お忙しいところ申し訳ありません、新島さん。ただ、どうしても確認したいことがあって連絡しました」
「確認したいこと?」
「ええ。先ほど、証拠保管室に立ち寄ったのですが、乙守胡桃の持ち物──具体的にはスマートフォンと財布が見当たらなかったのです」
一瞬の沈黙。続けて、新島の声が微かに低くなった。
「それが私に何の関係があると?」
「可能性を考えただけです。胡桃のスマートフォンに保存されている情報は、あなたが追っている事件とも関係が深いと思いまして。それに、あなたならば、法的手続きなしに動くこともあり得るかと」
「……なるほど。だいぶ推測で話しているようね」
明智は口元に薄い笑みを浮かべた。その反応は予想通りだった。
「推測で話しているとすれば、そうでないことを示していただければ助かります。単に保管室の手違いであれば、それで済む話です。しかし、もし誰かが意図的に持ち出しているとしたら……それは、あなたにも不都合な状況を生むかもしれません」
新島の応答が止まり、再び短い沈黙が訪れる。明智はその間も微動だにせず、スマートフォン越しに相手の反応を待つ。
「……話をする価値はあるかもしれないわね」
「ありがとうございます。すぐに伺いますので、都合のいい場所を教えてください」
新島が指定した場所を聞くと、明智は手短に礼を言い、通話を終えた。明智は電話を切ると、手早くスマートフォンをポケットにしまい、証拠保管室の扉を開けた。背後の暗がりから出ると、静かな廊下に足音だけが響く。目的地は決まった。新島冴と会うための準備を整えるため、さっさとその場所に向かうつもりだった。
しかし、彼が数歩進みかけた瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。震えるままに画面が光り、表示された名前は獅童正義だった。
(……タイミングが悪い)
明智は一瞬、ため息をつき、舌打ちを漏らす。今、ここで獅童に何を言われるのか、その内容は容易に予測がつく。今の明智の獅童の電話は無駄な干渉でしかない。だが、出なければ後々面倒なことになる。彼は再度、ため息をつきながら、スマートフォンを取り出し、通話ボタンを押した。
『明智か。お前、今どこにいる?』
「証拠保管室ですが、少し確認したいことがありまして」
『証拠保管室か……そうか。まあ、いい。だが、今はそれよりも……一つ頼みがあるんだが』
明智は一瞬、眉をひそめた。獅童が彼の行動にほとんど関心を示さないことは想定内だったが、そこに漂う露骨な無関心さが妙に癪に障る。
『廃人化ビジネスの上客たちだが……。お前が不審だと思うヤツを、まとめて始末してくれないか?』
「今、このタイミングでですか?」
『そうだ。早ければ早いほど良い』
「何か怪しい動きでも?」
『いや、何も無い。だが、事が起こってからでは遅いだろう。総理就任前にゴミは綺麗に片付けておきたいのだよ』
(……まただ)
明智の頭に浮かぶのは、乙守胡桃を切った時のことだ。彼もしばらくは利用し、事実を捻じ曲げる曲解の方法を詳しく知るまでは始末する予定ではなかったのに、突然彼を始末しろと命令を下した。
「……
『完全な勝利のために不安の芽は摘んでおきたいのだよ』
やはりおかしい、と。明智は目を細める。普段なら電話口で名前を出されるのを避けさせるほど危機感が強いはずなのに、今はそれ以上に排他的でひたすら自身の身を守ろうとしたいという欲望が見え見えだった。そして、普段の彼の口から出ないであろう『不安』というワード。
「少し落ち着いてください。何もしていない人間を必要以上に警戒するのは、あなたらしくもないです。まして不安だなんて……」
あくまで落ち着いた口調で答える明智の声には、微かに反論の色が含まれていた。彼は意図的に挑発を避けつつ、必要最低限の情報のみを与えるよう心掛けていた。
『いいか、明智』
獅童の声が低く鋭くなる。
『俺の指示に従えないのなら、お前の立場を再考する必要がある』
「……」
『お前は私の言う通り動けばいい。頼んだぞ』
電話が切れると、明智は一瞬の静けさの中で口元を歪めた。獅童の命令を無視することはできないと分かっていたが、彼の言葉に感じる不自然さがますます明智を警戒させていた。
(……妙だ。無視できない違和感がある)
スリープ状態に入ったスマートフォンの画面には、口元に手を置いて思考に耽る自身の姿が映る。
(あの男の突然の心変わり、乙守胡桃のスマホが持ち出されていること……)
謎は解けかけているはずだった。しかし、そこには決定的な何かが足りない。明智の脳内でそのピースが組み合わさるたびに、穴があいた空白が強調される。まるで完成しつつある絵の中にひとつだけ抜け落ちたピースを埋めるように、必死にそれを求めている自分がいる。
「……、っ……」
考え込みすぎたせいか、脳の摩耗から立ち眩みが明智を襲い、思わず足元がふらついた。しかし、倒れることはなかった。必死に踏みとどまり、顔を上げる。目の前の景色が一瞬ぼやけ、集中力が途切れそうになるのを必死に抑え込む。
(最近、十分に寝ていなかったからな。そういえば頭痛も………………)
その時、ふと過去の出来事が蘇る──雨宮蓮を始末した後の記憶。
あの瞬間、新島冴に見せられた雨宮蓮のスマホを見た時の、あの激しい頭痛。そして記憶の中で、それに似た感覚が呼び起こされる。
「…………認知世界」
その言葉が彼の口から無意識に漏れた。まるでそれが鍵となる何かであるかのように。その瞬間、明智はついに最後のピースを見つけた。
(
皮肉にも探偵らしく、推理は真実に辿り着く。点と点が線となって繋がり始める。
(……最初から、獅童との関係を知っているのならば、乙守胡桃は獅童のパレスの存在を知っているはず。もし彼が単独でニイジマパレスを攻略していると同時に、獅童のパレスを攻略して警戒度を上げてしまったのだとしたら、奴の突然の心変わり、それも乙守胡桃の処分を指定した筋は通る。
そして乙守胡桃のスマホにはシドウパレスに入るキーワードが残されていて、それを持ち出したということは……!)
「あいつら……っ!」
大きく舌打ちをして、明智は国会議事堂へと向かう。
(クソッ……! 新島冴がやけに素直に交渉に乗ってきたのは、怪盗団への注意を逸らすためのスケープゴートか……!)
明智は、自分がどれほど怪盗団の掌の上で踊らされていたのかを、今さらながら痛感していた。
最初はすべてが計画通りに進んでいると信じて疑わなかった。獅童の命令に従い、警察の動きをうまく操り、怪盗団を追い詰めていると自負していた。しかし、今やその自信は完全に崩れ去り、ただの錯覚に過ぎなかったことが明らかになった。
(これじゃあ、怪盗団に足元を見られてるようなものじゃないか)
その事実が頭をよぎるたび、内心でさらにその憤りは強くなる。明智の目は険しく、殺気を帯びた光を放ち始めた。明智は足元を強く踏み締める。無駄な思考を振り払い、国会議事堂へ向かう決意を固める。
(どうしても……あの男、獅童の前に、あいつらを始末する)
怒りと共に湧き上がる冷徹な決意が、明智を国会議事堂へと駆り立てた。
(怪盗団の残党なんて敵じゃない。……だけどもし)
頭の中に浮かぶのは、雨宮蓮の顔だった。
最初はただの敵、立ち塞がる障害に過ぎなかった。だが、今となってはその感情は単なる敵意や憎しみでは片付けられない。
彼を倒したい。いや、それ以上の感情が湧き上がる。雨宮蓮に対する憎しみ、怒り、そして、重く沈み込む感情。それはただの競争心にとどまらず、何かもっと根深いものがあった。あの男は明智にとって、挑戦するべき相手であり、同時に、何度もその心を掻き乱された相手でもあった。
そして、少しずつ湧いてくるのは、ある意味での羨望のような感情だった。明智にはどうしても手に入らなかったものを掴み取ったような雨宮蓮が、ますます明智の心を掻き立てるのだ。
「あいつが、もし生きていたら……」
明智はその言葉を呟くと、再び深く息を吐き出した。彼に勝つためには、冷静に、そして徹底的に──その思いだけが頭の中で渦巻く。だが同時に、雨宮蓮という存在が明智に与えたものは、計り知れないものだった。
明智は再び歩を速めた。すべてを確かめるために。すべてを終わらせるために。