「おいおい、どうした揃いも揃って死人に出会ったような顔して。俺だよ、仲間のために命張るのが大好きだった、乙守胡桃だよ」
声は軽い調子で続く。
「……ナビ」
蓮のその一言に、双葉が小さく頷き、即座に分析する。
「もちろん、偽物。認知存在の胡桃だよ」
その言葉が確証を与える。しかし目の前の人物が本物ではないと分かっていても、その姿、その声、その仕草に、胸が締め付けられるような思いが拭い去れない。
「まぁ、落ち着いて聞いてくれよ」
偽物の胡桃が片手を軽く振りながら、どこか楽しげに言葉を紡ぎ始めた。
「やっぱさー……お前らのやり方ってさ、結局のところ無意味なんだよな気付いたんよ俺」
偽の胡桃は少し顔をしかめ、まるで考えるように一瞬間を置いた後、続けた。
「例えばさ、綺麗に舗装された道路があるとするだろ? でも、もしその下に割れたコンクリートがあったら、いずれその上にひびが入るだろ。どんなに表面を整えても、根本がダメならすぐに崩れるんだよ」
偽の胡桃の言葉は冷徹で、世界の真理を語るかのようだった。言葉一つ一つに、感情を込めることなく淡々と、まるで予測した結果を述べるように続けられた。
「お前らがやってることってさ、結局はそのひび割れた道路を修復しないで、上に新しい舗装をするだけだろ。見た目は整ったように見えても、実際には何も変わっていない。無駄だって気づかないのか? お前らの正義だの、心を盗むだのも同じことだよ。結局、その心が変わっても、他の人々の腐った部分はそのままだ。根本を変えなきゃ意味がないんだ」
少しだけ唇を歪め、満足げに微笑んだ。
「俺はね、もっとシンプルに物事を壊すことが大事だと思ってるんだ。お前らみたいに一人一人の心を盗んでも、世の中はそのまま腐り続けるだけだ。そんなことしても世界は変わらない。変わらなきゃいけないものは、もっと大きなものなんだよ。一つ一つの心なんて、ちっぽけなものだ。全体を変えることこそが、俺の目指すべき道だ」
「……まるで獅童のような事を言うんだな」
あはは、と笑いながら彼は怪盗団から距離を取るように、一歩、下がった。
「まーね。でも理にかなってると思うだろ? 弱い奴らが好き勝手やって、社会がぐちゃぐちゃになるより、ずっと効率的。理解しちゃったんだよ。お前らが信じる“正義”なんて、ただの理想論だろ? 本当に世界を変えるには、力が必要なんだよ。獅童みたいな圧倒的な力がさ」
「──言いたいことはそれだけか? 偽物」
冷たい目が認知存在の胡桃に突き刺さる。
「お前は結局、獅童の認知存在の胡桃だ。お前は本物の胡桃を知らない、そんなことをアイツは言わない」
「そうだな。ここにいたら本物の意見が聞けたのに、なんでいないんだろうな?」
偽物の胡桃はわざとらしく顎に手を当て、思考を巡らせる素振りを見せた。その仕草には、挑発的なニュアンスが含まれており、わざと相手を煽るようなものだった。
「あ、そうか! お前らが見捨てたからだな!」
偽物の胡桃は大げさに手をポンと叩き、その笑顔を浮かべた。まるで何か重大な発見をしたかのような表情で、全てが明らかになったかのように振る舞った。
「それで正義のために、俺を犠牲にしてこの船に乗れたんだもんな!」
──たかが偽物、吐く言葉は紛い物。しかし看過できない。
「犠牲……だと? お前たちがっ……!」
「いやいや、そもそもお前らが身の程を知ってれば、コイツの身はもっと保障されたはずだろ?」
あっけらかんと、さも当然のように言う。
「このっ……!」
「待って、相手の言葉に乗らないで!」
真がすぐに割って入る。彼女の声はいつもより強く、制するように響いた。冷静さを取り戻させるための一言。
「……あなた、ここに姿を現しておいてすることは挑発だけなの? それとも私達にこのパレスが攻略されている様子を、指を加えて見てることしかできないのが悔しくて、ヤケクソで目の前に現れたのかしら?」
春が煽り返すと、図星を突かれたようでため息を吐く。
「……ま、それは仰る通り指を加えて見てたよ。てかさー……お前らの動き把握して紹介状を持ってるVIPを避難させようとして先回りしてんだけど。でも避難させるのこれで三回目なの。んで、脳みそ腐ってる連中は二回避難しても危険が無かったってことは、今回も大丈夫だろってことで、トラブル処理の人員がいなくなってるってのに居座り続けやがってまんまとお前らにボコられちまって。……ホントに救えねぇ」
呆れた様子でやれやれと言いながら、半歩下がる。
「だから俺がこうしてお前ら直々に潰しに来たって訳」
「随分自信あるみたいだが、雑魚を相手してる暇はないんでな」
「えーそんな事言っていいのかな? ──ほら、ここに最後の紹介状がありまーす」
懐から一枚の紙を取り出す。
「なんで、それは獅童の上客しか持ってないはずじゃ……」
「そりゃ俺、てか現実の乙守胡桃がそれぐらい獅童様から愛を注がれてるわけ。きゃー恥ずかしい」
紹介状を口元で隠し、癪に障るような不快で下品な演技で、怪盗団の神経を逆なでする。
「待って。……胡桃は獅童に切られたんだよ? そんな人間がこのパレスではVIPとして扱われるのはおかしくない?」
ふと口にした杏の疑問は至極当然のものだった。獅童正義から見放された人間がこの船に乗れるはずはなく、VIPなんて立場になれるはずがない。そもそも殺された人間がこのパレスにいること自体おかしい。
「おいおい、ここにいること自体が答えだろ」
偽物の胡桃は呆れるように答える。そう、ここは認知の世界、現実世界と異なり、ここにいる者たちは獅童の心の中で形作られた存在だ。
「……まさか」
「あ、じゃあこうしよう」
良いことを思いついたとばかりに認知存在の胡桃は笑う。
「紹介状を諦めたら、現実世界での乙守胡桃の居場所を教えてあげる。でも、俺を倒して紹介状を奪い取るんだったら、絶対に教えない。
あ、ちなみに俺を倒して尋問するのはやめといた方がいいよ」
胡桃の影のような存在は、意味深な笑みを浮かべながら続けた。
「だってさ、現実世界のあいつ、いくら拷問されても絶対に口を割らなかったし」
「拷……問……?」
その言葉に、怪盗団の面々は一瞬、息を呑んだ。すみれは目を瞬き、思わず口をつぐむ。空気が瞬間的に凍りついたようだった。その生々しい響きに、誰もが一瞬、現実の痛みを想像してしまう。
偽胡桃は、そんな空気を嘲笑うかのように肩を揺らして笑う。
「え、想像してなかったの? そこのリーダーが尋問されてる時間にだって、獅童はコイツに聞きたいことあったんだから、それを吐き出させるために色んな方法とるでしょ」
その言葉は、毒のように耳に残り、怪盗団の全員の心に小さな傷を刻みつける。その場を煽るように、彼は一歩後ろへ下がり、腕を広げて空間を支配するかのようなポーズを取った。
「まぁ、口は割らなくてもいいけど、今は獅童に逆らえないように調教中かもね。……今は好事家のベッドの上でひたすらに可愛がられてるんだろーね♡」
「──は?」
──すみれの中の何かが切れた音がした。
拷問。それだけでなく、尊厳の凌辱という言葉がすみれの脳内を駆け巡った。胡桃が、そのようなことをされているという事実に耐えられなかった。すみれはただの仲間以上に、胡桃を大切に思っていた。深いところで、彼の無事をただ願っていた。
でも今、目の前にいるのは、胡桃の痛みと屈辱をもてあそぶようなこの虚構の存在でしかない。まさに胡桃を辱しめる言葉を吐くその姿が、すみれの耐えられない怒りを引き起こした。
「……──けるな……!」
声が、絞り出すように漏れた。その声は、冷静を装おうとしていたが、すでに怒りで震えて、目は怒りと憎しみで染まっている。
目の前にいる認知の胡桃がその全てを楽しんでいるようにただ愉快に笑う。
「ふざけるな……!」
彼女の声は怒りに震えていた。だが、胡桃の目はすみれを挑発するように細められるだけだった。
「あ? 声が小さくて聞こえねぇーよ!!」
その軽薄な声が、すみれの最後の理性の糸を切り裂いた。
「お前ぇ、っ──!」
言葉がまだ終わらないうちに、刃の先が空気を切り裂き、すみれの体はまるで弾けるように動く。
認知の胡桃に近づき斬りつけるその瞬間、彼女の体から発せられる怒りの気配は、まるで狂った獣のようだった。だからこそ単純で太刀筋は読み易く、胡桃はその刃を受け止めることなく、冷静に一歩下がることで回避した。
『下ろせ』
「っ罠だ、戻れ! ヴァイオレッ──」
仲間の声など聞こえない、自分の周囲がどうなっているかなど、今の彼女には一切関係ない。目の前の胡桃を壊すことが、全てだ。
そして気づいた時には、すみれの背後のシャッターが轟音を立てて一気に降り始めていた。
音が響く中、シャッターがスライドしていく速度は予想以上に速く、怪盗団とすみれは瞬く間に分断された。
「釣れたの一匹か」
目の前の男は、まるですみれの怒りを全て計算していたかのように、冷静に立っていた。
「……いいですよ。別に。先輩たちが他のシャドウにやられる心配なんてありません」
すみれは低く押し殺した声で言った。その瞳には、怒りとともに、静かな殺意が燃えていた。
「余裕そうじゃん。……さて」
胡桃がそう言った瞬間、二人の視線が絡み合う。双眸が互いを映し合い、その間に漂う緊張感は、まるで空気そのものが凍りつくかのようだった。瞬き一つすら許されない静寂が場を支配する。
「──はい鬼ごっこスタート!」
突如として胡桃が手を叩いた。その軽快な音が、張り詰めた空気を一気に破壊する。そして、その直後、胡桃はくるりと体を反転させ、全速力で逃げ出した。
「……は? っ、待てっ!」
虚を突かれたすみれは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに我に返り追いかける。だが、その出遅れが致命的だった。胡桃はすでに距離を稼いでいた。
彼女の怒りを嘲るように、偽物の胡桃は軽快な足取りで廊下の奥へと駆けていく。その背中はまるで「追いつけるものなら追いついてみろ」とでも言わんばかりの挑発そのものだった。すみれの胸中で煮えたぎる激情が、冷静な判断を覆い尽くしていく。歯を食いしばり、力強く地を蹴ると、彼女もまた全速力で追いかけ始めた。
「逃げるな!」
「あっはっはっ鬼ごっこは得意かい? すみれちゃん!」
またも挑発するような声が響き、すみれの拳が震える。追いつきたい衝動が、体を一層前へと駆り立てる。だが、目の前で認知の胡桃が角を曲がった瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
「何……ここ……?」
目の前に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な廊下とは一転していた。社交場のように広々とした空間。赤い絨毯がまるで血の海のように床一面を覆い、天井から吊るされた重厚なシャンデリアは、いくつものクリスタルを揺らしながら仄かな光を放つ。その明かりは温かみとは程遠く、どこか冷ややかで、すみれの肌にぴたりとまとわりつくような感触を残した。
不意にその光の下で、影が揺れた。偽物──認知の胡桃が立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ここまで来るなんて、案外根性あるじゃん。でもさ、本当にいいの? 一人でこんなところまで踏み込んじゃって」
視線を巡らせると、彼の言葉が意味するものが見えた。柱の影、重厚なカーテンの裏、さらに階上へと続く通路の奥──無数のシャドウが、獲物を見定めるようにひそかに潜んでいる。息を潜めた気配が重なり合い、部屋全体が不気味な静寂に支配されていた。包囲されている、と理解しながらも、すみれは一歩も退くつもりはなかった。
「……あなたを倒せば、全部終わりなんですよね。なら、それでいいです」
彼女の声は低く、冷え切っていた。
すみれの目にはもはや恐れも迷いも残されていない。ただ、目の前の“偽物”を穿つことそれだけが彼女を突き動かしていた。
すみれのレイピアが、わずかな光を反射しながら音もなく構えられた。刃先がまるで獲物を貫く蛇のように、微かに揺れる。
「──はっ!」
すみれは迷いを振り切るように、地を蹴った。彼女の動きは一閃、空気を裂き、床に張り詰めた静寂を一瞬で砕く。赤い絨毯が風に揺らぎ、その先、認知の胡桃が微動だにせず立っていた。
彼はただ、余裕すら感じさせる笑みを浮かべたまま、すみれの猛進を迎え撃とうとしていた。