『下ろせ』
「っ罠だ、戻れ! ヴァイオレット!」
鋼鉄のシャッターが降りる轟音が空間に響き渡った。重く、冷たい音が耳を突き刺し、怪盗団とすみれの間に分厚い壁が無情にも立ちはだかる。
「クソッ! これ、どうなってんだ!」
竜司が怒りにまかせてシャッターに拳を叩きつける。鈍い衝撃音が手に返り、冷たく硬い鋼鉄の感触が指先に残るだけだ。
「ナビ、何とかならないの?」
「ダメだ……このシャッター、制御系を探して直接触らないと解除できない」
「なら、まずはそっちを探しに──」
蓮が指示を出しかけたその時、突如として背後から低い機械音と重々しいエンジン音が響いた。音の大きさに一瞬、皆の動きが止まる。
「後ろ!」
春の声が鋭く響く。その声が、全員の体を一気に戦闘モードへと引き戻した。振り返った先に見えたのは、通路奥のエレベーターがゆっくりと開く光景。黒い霧のような影の中から、次々と現れる無数のシャドウたち。
「来やがったな……っ!」
さらに、遠くの廊下からも敵の足音が次第に近づいてくるのが分かる。まるで包囲されるように、四方から増援が押し寄せてきた。
「……相手の狙いは私たちの分断。認知の胡桃がベラベラ喋ってたのは時間稼ぎってことね」
「怪盗団を一人ずつ分断して各個撃破ってか?」
竜司が吐き捨てるように言いながら、シャドウの群れを睨みつける。その表情には焦りと怒りが入り混じっていた。
「最悪……あの認知の胡桃、完全に仕組んでたってこと?」
「これ以上時間をかけるわけにはいかない。ヴァイオレットが一人でいる時間が増えれば危険だ」
「けど、こいつら……結構な数だぞ?」
「ナビ、早く制御装置の位置を」
「場所はわかってる! でも遠い! それに敵の配置もいやらしいくらい計算されてる……くっそぉ、どんだけ時間稼ぎしたいわけ!?」
「そう言ってる暇もないぞ!」
ついに先頭のシャドウが襲いかかってきた。巨大な腕を振り下ろす影に対し、祐介は瞬時に身を引いて刀で反撃する。
「──ここを突破する!」
蓮の言葉に呼応するように、怪盗団は一斉に武器を構えた。
(……俺の計算上では、あっちはそろそろシャドウの包囲網に掛かってるだろ)
認知存在の胡桃は、すみれを周りのシャドウと戦わせながら、その動きを冷静に観察していた。彼女の動きは無駄なく洗練されており、鋭い軌跡を描く刃は闇を切り裂く光のようでもあった。
だが、胡桃の視線には一切の感情が浮かばない。彼の眼差しは冷え切っていて、まるで盤上の駒を観察する棋士そのもの。目の前の戦いは単なる手順に過ぎず、彼の思考はもっと先へ、分断された怪盗団全体の動向へと向けられている。
(この女一人しか分断できなかったのは、勿体ないが想定外ではない。むしろ確実に一人を倒せると考えれば、そう悪くもない)
微かなため息のような息遣いが漏れる。認知存在の胡桃は、あくまで指揮官として徹底しており、前に出ることはない。指先をゆっくりと動かすと、シャドウたちが一斉に動き出した。
(仲間想いな奴らのことだ。分断したコイツを殺したら、戦意を削がれる)
静かに、冷徹に計算された作戦。すみれを倒すことで怪盗団の士気を崩す──そのために、今ここにいる彼女はただの「駒」でしかない。シャドウたちの包囲網が狭まり、徐々に逃げ場を奪っていく。
だが──。
(……思っていたよりしぶといな)
シャドウたちが繰り出す攻撃を、すみれは軽やかなステップでかわし続け、周囲のシャドウたちを次々に切り裂いていく。闇に溶けていたシャドウたちは、無惨に崩れ、霧散しながら消えていった。
(的が小さいから攻撃は外れるし、身軽ですばしっこいから本人もよく躱す……面倒くせぇ)
想定外。目の前の戦況が彼のシナリオから逸脱し始めている。それが彼の苛立ちの種となる。シャドウたちに目配せするように指を弾き、シャドウが四方八方から崩れるように押し寄せる。
「……サンドリヨン」
すみれは足裏で地面を軽く蹴り、重力を感じさせないほどの素早さで、すみれは空中に跳び上がる。新体操仕込みの柔軟な動きが、あり得ない軌道で彼女を包囲から逃れさせた。宙で身体をひねり、シャドウたちの頭上を超える。その一瞬、彼女のペルソナが鋭く閃き、まるでリボンが描く弧のように優美な軌道でシャドウたちを切り裂いていく。
「0点」
彼女の一撃を受けたシャドウたちは一斉に崩れ去り、霧散していく。
わずかな隙間を突き、反撃を決めたすみれは、着地と同時に次の動作に移る。攻撃と回避を途切れさせることなく、再び戦場を駆け抜ける彼女の動きに、もはや迷いの影はなかった。
「……バケモン? ったく」
認知の胡桃は、わずかに眉を寄せた。だが、その表情はすぐに冷徹さへと戻り、視線がすみれに集中する。
(この船にアイツの弱点つけるやつ、いねぇんだよな。俺が持ってるもん使ってもいいが……)
認知の胡桃は懐に手を入れながら、すみれを観察していた。彼女の刃は一度、また一度とシャドウたちを切り裂き、周囲を一掃していく。
「……」
対し、認知の胡桃は何も言わず、ただ指先を動かす。シャドウたちが無音でその指示に従う。敵意を向けるはずのシャドウが、まるですみれを怖れるかのようにゆっくりと距離を取り、包囲を緩めていく。
「──そこ」
すみれは攻撃の手が緩んだ瞬間を見逃さず、包囲の隙間に飛び込むように動き出した。その動きはまるで疾風のようで、視界の中の全てが一瞬で置き去りにされるほど速い。そしてその先には、認知の胡桃が立っていた。
胡桃は逃げない。彼はただそこに立ち続けていた。まるですみれが近づくのを待っているかのように。
──あと一歩。
目の前の偽物の心臓を穿てる距離まで接近し、すみれは息を詰めた。目の前の胡桃──否、認知の胡桃に対する怒りと憎悪が、その一突きに全てを込める力となった。
認知の胡桃はそれを真正面から見据えながらも動じない。すみれの動きだけが研ぎ澄まされた空間の中を切り裂いて進む。
──互いの目が合う。
一瞬、静寂が降りる。すみれの視界に焼き付いている胡桃の笑顔、言葉、記憶。それが、目の前の認知の存在と重なっていく。
(違う。胡桃先輩じゃない)
何度も自分に言い聞かせる。だが、呼吸の合間に入り込む沈黙が、どうしようもなく心を揺らす。
(胡桃先輩は、こんなところで立ち止まる人じゃない。胡桃先輩は、絶対に最後まで諦めなかった)
その信念は強いはずだった。すみれがその姿を否定し、真実を見据えようとしても、目の前の認知の胡桃は、まるで本物のように静かに佇んでいる。その目の細め方、息遣い、わずかに揺れる髪。
そして彼は、すみれを見つめながら、ゆっくりと唇を動かした。
「すみれ」
その声は淡く、遠く、ひどく優しかった。
すみれの目が見開かれる。鼓膜に響くその声音、吐息の震え、息の微妙な切れ間──すべてが胡桃その人のものだった。心臓が痛いほどに高鳴り、指先がかすかに震える。偽物だと理解しながらも、頭が瞬時に拒絶することを忘れる。胸の奥に、記憶と痛みが混ざり合う。すみれの中の胡桃が、目の前の偽物と重なり、認識の境界を曖昧にしていく。
「──どこで間違えちゃったんだろうな」
その声音は淡く、遠く、ひどく優しく響いた。ほんの少しの悲哀と、自嘲にも似た笑みが彼の口元に浮かぶ。
「──」
声が出ない。喉がひゅっと詰まる。その顔、仕草、表情。すみれの記憶の中にある胡桃そのものだった。だからこそ、目の前の偽物が、本物に見えてしまう。
──違う。違う、胡桃先輩じゃない。それは偽物だ。認知存在だ。
そう脳が理解しているはずなのに──その一瞬だけは、目の前の存在が現実の胡桃にしか見えなかった。たった一言、その声、その表情が、現実と認知の境界を曖昧にしてしまう。まるで胸の奥に隙間風が吹き込んだような、迷いの影が心に忍び込む。
レイピアを握る手が、無意識に緩んだ。その刹那。認知の胡桃は確信したように、薄く笑う。
「【ブレインジャック】」
すみれの視界が一瞬で歪み、脳を突き刺すような鋭い痛みが走った。まるで頭の中で何かが引き裂かれるような感覚。冷たい何かが無理やり流し込まれるかのように、思考がねじ曲げられていく。耳鳴りの音がだんだんと大きくなり、頭の中がぐしゃりと潰されそうになる。
「~~~ぁっ……!」
【洗脳状態】となったすみれは立ちすくむ。脳内を割るような痛みが強く、強く突き刺さり、彼女の意識をゆっくりと引き裂いていく。
(……目の前にいるのは……本、物……? ……違う、違う、胡桃先輩は……!)
心の中で必死に叫んでもその声を押し潰し、認知の胡桃の笑顔がその中に浮かび上がる。次第に、その笑顔が本物だと錯覚しそうになる自分を、強く否定しようとするが、その度に頭がさらに痛み、視界がさらに歪む。意識が引きずり込まれ、すみれはただただ脳内の激痛に耐えながら、その中で自分を取り戻そうと必死に抵抗していた。
──が、その隙を敵が見逃すわけがない。
「やれ」
認知の胡桃がそう呟いた瞬間──シャドウの一体が、彼女の体を狙って容赦なく攻撃を放った。重い一撃がすみれの体を直撃し、鈍い衝撃音が部屋に響く。
「──ぁ……は、ッ……!」
衝撃が全身を貫き、すみれの体が硬直する。息が詰まり、喉を絞めつけられたように声が出せない。体は一瞬、浮き上がり、無力に空中を彷徨う。視界がぐらつき、床と天井が入り乱れて見え、吹き飛ぶすみれの体は壁に激突し、そのまま勢い余って隣の部屋まで投げ出された。
ドゴォン──!
木材で出来た壁が衝撃音とともに砕け、すみれは床に転がるようにして飛び込む。視界がぼやける中、すみれは荒い息を吐きながら周囲を見渡す。そこは先ほどの煌びやかな広間とは打って変わり、装飾の少ない静かな空間だった。目の前には豪奢なベッドがあり、真っ白なシーツが乱れることなく敷かれている。
「……寝室……?」
すみれは掠れた声で呟く。どうやらここは誰かの私室、あるいは寝室のようだ。
「っ、く……ぅ」
痛みが全身を襲い、すみれは呻き声を堪えながら、床に手をついて上体を起こそうとする。だが力が入らず、視界の端に映るベッドの足元まで這いつくばるのが精一杯だった。 壊れた壁の向こうから、ゆっくりと認知の胡桃の足音が近づいてくる。すみれがベッドを手すりにして立ち上がり、最後の力を振り絞る。痛みが全身を貫く中、息が荒くなり、意識が遠のきそうになる。
「サンドリヨンッ!!」
すみれの叫びが響き渡ると同時に、サンドリヨンの存在が瞬く間に具現化した。サンドリヨンは敵を捉えると、力強く腕を振り上げた。その手のひらから、暗闇を引き裂くような閃光が放たれる。光の柱が伸び、空気を焦がしながら認知の胡桃に迫る。
だが、──彼は動かない。
光が直撃する直前、認知の胡桃はまるでそれを楽しむかのように薄く笑った。閃光が衝撃と共に彼を貫いたはずなのに、爆風の後、立っていた彼の姿は少しの乱れすらない。
(耐性がある……っ⁉)
「……まだ余裕そうじゃね? ホンッ……トに面倒だ、な!」
「っ……!」
認知の胡桃がすみれに近づき、無言で足を上げる。すみれは目の前に迫る気配を感じ取り、反射的に体を引こうとするが、その動きはわずかに遅く、脇腹に一撃をもらい、床に倒れる。
「よっ、と」
痛みに呻きながら、すみれの体はあっという間に仰向けに転がされ、胡桃はその上に馬乗りになった。
「うっ、……ぐっ」
胸の奥から漏れる喘ぎ声。すみれの胸が上下し、苦しげな呼吸が漏れる。すみれの体は床に縫い付けられたように動かすことができず、胡桃の重さがじわじわと彼女を圧迫していく。腰から胸にかけて、無慈悲にその体重がのしかかり、すみれはその圧力に喘ぐ。息を吐こうとするたびに、胸が重く沈み込むような感覚に捉えられ、思うように呼吸ができない。
「耐性持ちなんだよ、悪りぃな」
そうして、認知の胡桃は無言のまま手を伸ばしてきた。五指の指先が、すみれの顔にひた、と触れる。その冷たい感触が、すみれの皮膚を直に感じさせ、体全体に一瞬の震えをもたらした。視線を遮るように置かれた手の指先から、すみれはほんのわずかに、余裕そうに見下ろす顔が見える。
すかさず空いてる手でその手を振り払おうとするが。
「【ブレインジャック】」
「あ、がっ──!」
またも頭の中を直接掻き乱されるような、鋭い痛みが脳髄を貫く。すみれの目が大きく見開かれ、抵抗しようと振り払おうとした手は力なく宙を切り、床に落ちる。
「……っ! う……あ……」
声にならない呻きが喉の奥から漏れ、すみれの体は硬直する。まるで無理やり意識ごと掴まれ、ねじ伏せられたかのような感覚が彼女を襲う。
「……意識はあるっぽいけど。お前さ、いつまでそうやって無駄に粘るつもり?」
胡桃の声は冷たく、余裕に満ちている。すみれは歯を食いしばりながらも、何か反撃の手を探ろうと必死に頭を回転させるが──その余裕すら奪われるように、胡桃が手を軽く振った。
「ま、いいや。少しでも頭が回るうちに、いい提案をしてやるよ」
胡桃は姿勢を低くし、すみれの顔すれすれまで近づいた。その瞳にはどこか挑発するような光が宿り、次の言葉を放つ瞬間を楽しんでいるかのようだった。
「分かってんだろ? このままお前が抵抗しても、どうにもならねぇんだよ。だけどな、お前が"仲間の情報"を差し出せば少なくとも、あいつらを守る時間は稼げる。俺も無駄な手間をかけたくないんでな」
その言葉はまさに"取引"の形を取っていたが、その実、すみれの精神を揺さぶり、追い詰めるためのものだった。
「どうだ? お前一人が道化になれば、あいつらは無事だ。悪くない話だと思わねぇか?」
すみれは息も絶え絶えながらも、胡桃の言葉に反応した。床に縫い付けられたような重さと、全身を蝕む痛みに耐えながら、微かに顔を上げる。
「……誰が……従う……もん、ですか……っ」
声はかすれていたが、その言葉には明確な拒絶と、まだ消えていない闘志が宿っていた。胡桃の目がわずかに細まる。気に入らない、とでも言うように。
「……仲間を売るぐらいなら……ここで……っ、倒れた方がマシ……!」
絞り出すような声。それでもその一言は、胡桃の耳に届いた。胡桃は一瞬だけ黙り込むが、すぐに鼻で笑う。
「ははっ、いい根性してるじゃねぇか。でもな──そういう甘い考えが、全部ぶっ壊れる時が一番面白ぇんだよ」
揺れる視界の中でその顔を見据えた。痛みと疲労で震える体は言うことを聞かない。だが。
「……やっぱり……偽物」
「あ?」
それでも彼女の唇がわずかに動き、不敵に笑う。
「──本物の胡桃先輩の方が百倍カッコイイ」
こんなピンチの状況でも、彼女の心を折るにはまだ足りない。
「……はぁ……」
認知の胡桃は大きくため息を吐いた。駄々を捏ねている子供を厄介そうに眺めている親のように。
「現実の胡桃は死んでる。もういない」
「な……。だって、さっき……!」
「尋問中に、尋問官が力加減をミスった──それで
懐から一枚の紙を取り出す。それは先ほどすみれに見せた"紹介状"だった。
「お前らが希望を抱いてた"紹介状"だが──」
紹介状の端を指先でひらりとめくり、胡桃はわざとらしく裏表を見せつける。照明の下で見れば、そこに施された署名の文字や印影には微妙なズレが見え、作り物であることが露わになる。
「距離があったから気づかなかったか? よく見りゃ、粗が目立つだろ」
胡桃は興味を失ったかのようにそれを床に放り投げた。ひらりと舞い、すみれの足元に落ちる。
「つまり、これまでのことは全部茶番だったってわけだ。……お前は乙守胡桃ってのを何も分かっちゃいない。あいつは平気でこういう最悪な嘘を吐く」
「っ……!」
「あいつは自分の計画のためなら平気で他人を犠牲にするタイプだ。お前もその例外じゃねぇ」
すみれは悔しさで唇を噛む。
「まぁ結局は凡人だ。凡人は凡人なりの身の程で満足してればよかったのにな。欲張ったからああなった。勘違い野郎の結末としては最高だ」
「ふざけな──っ……ぁ!」
すみれの反論は、認知の胡桃が繰り出した【ブレインジャック】で遮られた。言葉を発する間もなく、頭の奥底に鋭く冷たい力が突き刺さり、意識を激しく揺さぶられる。
「ぐっ、うぅ……っ! ……あぁっ……くっ……!」
必死に震える手を伸ばすが、胡桃はすかさずその両手首を掴み取り、片手だけで彼女の頭上に押さえつける。胡桃の力はまるで鉄の枷のようで、両手首をまとめて抑え込まれたすみれは、力任せに腕を振りほどこうとするが、胡桃の手は微動だにしない。
そして抵抗を諦めさせるように、絶え間なく追撃が放たれる。
「うぁっ……あぐっ、くっ……!」
混濁するような感覚が襲いかかる。思考が霧のようにぼやけ、過去と現在、現実と非現実の境界が曖昧になっていく。脳が混乱し、認識が歪んでいく──ここがどこなのか、何をされているのか、わからなくなりそうになる。
「ぁ……や……め……っ! あぐっ、うぁぁ……!」
すみれの体が跳ねるように大きく反り返り、背中が床から浮いた。足先が硬直し、つま先がピンと張ったまま震える。胡桃に押さえつけられた手首は微かな力で震え続け、爪が床を掻くように動く。しかし、その動きは力なく、次第に鈍くなっていった。
「くっ……うっ、あ、あぁっ……!」
すみれは頭を左右に振り、必死に胡桃の手から逃れようとするが、そのたびに胡桃の手が鋭く脳を圧迫する。次第に身体の震えが大きくなり、全身が痙攣し意思とは無関係に体が勝手に跳ねてしまう。
呼吸は浅く、荒く、喉から絞り出されるような声が漏れる。
──ダメだ、逃げなきゃ……。
その微かな意識の抵抗も、次々に浴びせられる【ブレインジャック】にかき消されていく。
やがて、すみれの身体から力が抜け始めた。床に押さえつけられた腕は小刻みに震えるだけになり、足はだらりと伸びきったまま痙攣し、虚ろな瞳が天井を見つめる。そこには、先ほどまでの反抗の意思はほとんど残っていない。
「………………………………」
胡桃は無言のまま、すみれの顔を見下ろし続ける。押さえつける手をわずかに緩めても、すみれはもう抵抗する力すら残っていないようだった。ただ、弱々しく息を切らし、震える体を横たえている。
「ようやくか」
認知の胡桃は脱力しきったすみれの体から離れて、一仕事終えたと大きく息を吐く。
「さて、と。コイツをさっさと殺して死体を仲間に晒し上げたいところだけど……正直、殺人って抵抗感あんだよなー。……確か金持ちの変態部屋にドギツイ道具あったな。それ付けてあいつらの前に出す……いや人質の方がいいか。後はまぁ、髪でも全部剃らせちまえば精神的なダメージが…………あぁ?」
認知の胡桃の言葉は、計画を練るように思案を重ねていった。その口調に含まれる冷徹な意図と、どこか楽しげな響きが交錯している。しかしその声が不機嫌そうに途切れた。
──すみれの指先が、微かに動いたからだ。
すみれの意識は朦朧とし、その目は虚ろで表情はほとんど無い。だがすみれは重力に逆らうように、ふらつく上体を押し上げようとする。泥の中から這い上がるような緩慢な動き。それはもはや抵抗というよりも、生きることへのただの執念に見えた。
「……お前、いい加減にしろよ。そこまでしつこいと本当に殺すしかなくなるだろうが」
だが、やはりすみれは、意識が霞むように遠のいていく感覚に抗えず、床に突っ伏した。
認知の胡桃の足音がゆっくりと近づく。その音が耳に届くたび、すみれの体がわずかに反応する。けれど、瞼は重く、視界はぼやけたままだった。何か言葉を返したくても、息が詰まって声にならない。目の前で、その言葉が揺らめくように流れていく。何かを言われている、けれど──その意味が、うまく掴めない。怒りも悲しみも湧かない。ただ、声が耳を通り過ぎていく。
「そいじゃあ、まぁお望み通り」
認知の胡桃の手が、すみれの喉元へと伸びる。その冷たく無慈悲な動きすら、すみれには認識できていない。抵抗できない。何かが自分に覆い被さろうとする感覚だけがあった。
「信じた仲間に殺されるんだ。光栄だろ?」
冷たい声が耳に届く。その言葉に反応するはずなのに、すみれの意識は霞んでいて、まともに考えることができなかった。何を言われているのか、どうしてそんな言葉が向けられているのか──答えが出ない。けれど、確かなことがひとつだけあった。
──胡桃先輩。
目の前の彼──いや、そう“見えてしまう”存在を、すみれは胡桃だと思い込んでしまっていた。もう頭は混乱しきっていて、目の前の顔が誰なのか、真実を見分ける余力もない。ただ、胡桃先輩だと信じ込んでしまうことで、楽になれる気がしていた。
認知の胡桃の手が喉元にかかり、その指がゆっくりと締め付ける。
(……ああ、でも)
息が詰まる。視界が歪んで、世界が暗く閉じていく。それなのに──。
(……好きな人に殺されるなんて、ある意味……ロマンチックかな……)
喉を締め付ける痛みが少しずつ増していく。それでも、すみれは抵抗しようとしなかった。ただ、これが“胡桃先輩”の手ならばこのままでもいい、と、ぼんやりと考えてしまう。こんな状況なのに、どこか甘美な気持ちさえ湧いてくる。
「……先輩……」
かすれた声が漏れる。混乱した意識が、目の前の顔に胡桃の面影を重ねる。彼の手で終わりを迎えるのなら、それはきっと幸せなことだ。そう思い込もうとするほどに、体の力が抜けていく。
──次の瞬間、ゴォォォン!! と、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。
世界が一瞬にしてその音に塗り潰される。意識が混濁し、頭の中がぐらりと揺れる。認知の胡桃が何事かと驚いたように顔を上げた。
「あ? なん──」
その不満げな声が言葉になる前に、それは突然、起こった。
壊れた壁の向こう側から、轟く風のうなりと共に、何か巨大な存在が影のように伸び上がる。その「何か」は圧倒的な速度と質量を持って、認知の胡桃の背後から現れた。その正体が視認できる前に、無慈悲な掌が彼の体を掴む。抵抗する暇もなく、彼はまるで力の抜けた人形のように宙へ持ち上げられた。
直後、認知の胡桃の体が凄まじい勢いで部屋の外に投げ飛ばされた。風を切る唸りが耳に残り、その光景を、すみれはただ呆然と見つめるしかなかった。
彼の体は空中を舞い、先ほど二人が戦っていた豪奢な社交場へと叩きつけられる。
「……げほっ」
喉を焼くような痛みと共に、すみれは呼吸を取り戻す。さっきまで喉元に感じていた圧迫感が消え、急に流れ込んだ酸素が肺を満たす。苦しくて咳き込んだが、それでも生を繋ぎ止められたことに、どこかぼんやりとした安堵が湧く。
投げ飛ばされた認知の胡桃がゆらりと上体を起こし、睨みつけるようにすみれの背後を見た。
「はぁ……クソッ! ……お前、なんで、生きてやがる……っ!」
「──ん? あ~~なるほど……言われてみればそんな感じするな。複雑だけど」
返ってきたのは、呑気な声だった。瓦礫を踏みしめる音と共に、声の主がゆっくりと姿を現す。闇の中から堂々と歩み出るその姿は、どこか挑発的な気配が漂う。
「なんだっけ、獅童が言ってた言葉……あ、そうそう」
わざとらしく間を置き、そして、──乙守胡桃は自身の偽物に向かって指を差した。
「『想像していたよりも間抜けな顔してる』」
【ブレインジャック】によって洗脳状態となったすみれの視界は、まるで濃い霧に包まれたようにぼやけていた。脳が霞んでいるのか、目の前の存在を正しく認識できない。突然現れた人影は、輪郭だけが朧げに浮かび上がるだけで、その細部は影に隠れていた。
「だ……れ……?」
認識できるのは「人影」というシルエットのみ。それが敵か味方かすら分からず、無意識に身体が硬直する。
「お い……聞── てん──か?」
その声は途切れ途切れで、どこか遠くから響いているようだった。けれども、今度は少しだけ近づいてくる。そして──。
「俺だ! 起きろ! バカ!」
「──ぇあ? ……っっ痛っった!!!!!! ……え、あれ?」
突然、すみれの目の前で影が一気に動いたかと思うと、次の瞬間、強烈な衝撃が額に走った。すみれの意識の底に眠る感情を揺さぶり、絶えずまとわりついている洗脳の膜を裂いた。
「カネシロの時の頭突きのお返しだ」
「…………胡桃、先輩……?」
信じられない光景に、すみれの瞳が大きく見開かれる。目の前に立っているのは、間違いなく彼だった。死んだはずの胡桃がそこにいる。心の中で押し殺していた感情が一気に溢れ、喉の奥が熱くなる。目尻には涙が滲みそうだった。
「う、そ……せ、先輩、どうして……え、本当に、え? 嘘、先、輩なんですか……?」
声が震えた。胸の奥からせり上がってくるものを、すみれは必死に喉の奥で押し留める。泣き出してしまえば、もう立てなくなる気がした。縋りついてしまえば、もう戦えなくなる気がした。
胡桃は肩をしっかりとつかんで、感情よりもその場の状況を優先させる。
「いいか? 今怪盗団がどうなってるか分かんねぇし、なんで一人で戦ってるのかも知らんけど、あいつは倒さなきゃいけない。でも俺の右腕は見ての通り使い物にならない。武器も急いできたから用意してない。戦えるのは俺のペルソナだけだ」
胡桃は少しだけ息を整えると、すみれの目をしっかりと見つめた。
「──だから、今だけ俺の右腕になってくれ」
状況をうまく飲み込めずとも、その言葉だけは理解できた。
「……私、で。いいんですか? ジョーカー先輩みたいに強くないですよ?」
「お前しかいないだろ」
それだけだった。
慰めでも、励ましでもない。大丈夫だとも、強いとも言わない。ただ、今ここで必要なのはお前だと、当然のように告げた。
その瞬間、すみれの胸の奥で何かが弾けた。
折れかけていた心に、火が入る。焼けつくような痛みも、身体の重さも、頭の奥に残る洗脳の名残も消えはしない。それでも、それらを押し退けるだけの熱が生まれた。
震えていた指先に力が戻る。俯きかけていた顔が上がる。零れそうだった涙を、すみれは乱暴に拭った。泣くのは後でいい。確かめるのも、問い詰めるのも、抱きしめたいと思うのも、全部あとでいい。
今は、胡桃の右腕になる。
「……わかりました。先輩。……やります」
すみれはふらつきながらも立ち上がった。
足元は頼りない。身体の芯にはまだ痺れが残っている。それでも、レイピアを握る手だけはもう震えていなかった。
胡桃が隣に立つ。片腕は使えない。武器もない。余裕など欠片もないはずなのに、その横顔には妙なふてぶてしさがあった。まるで、こんな状況でも負けるつもりだけは最初からない、とでも言うように。
並び立つには少し不格好だった。片腕の使えない胡桃と、満身創痍のすみれ。万全には程遠い。
それでも、二人は同じ敵を見据えた。
偽物の胡桃が、忌々しそうにこちらを睨んでいる。その顔を見ても、もうすみれの心は揺れなかった。
「こうやって一緒に戦うの……久しぶり、ですね」
「カモシダパレス以来かもな……やるぞ」
「……はい」
今度は迷わない。
目の前にいるのは胡桃ではない。姿を借りて、声を汚し、記憶を踏みにじっただけの偽物だ。
ならば倒す。隣に立つ本物と共に。