幸せなバッドエンドを目指して   作:ぽんしゅー

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#74 俺たちは1+1で200だ10倍だぞ10倍

 

「はっ……現実の俺は、戦わずして満身創痍って感じだな……」

 

 認知の胡桃は、胡桃とすみれを見比べるように睨みつけた。口元には笑みが浮かんでいる。だがそれは余裕というより、相手を見下していなければ自分を保てない人間の、薄く引き攣った笑みだった。

 

 彼は芝居がかった仕草で片手を持ち上げると、背後へ向かって指を突きつけた。

 

「いけ! 叩き潰せ!」

 

 その命令は、社交場に高く響いた。

 

「……ん?」

 

 しかし、反応がない。

 

 足音も、咆哮も、床を踏み鳴らす気配もない。静けさだけが戻ってきて、豪奢な社交場に珍妙な間が生まれる。

 

「お前の手駒なら、ここに来るまでに全部片付けといたぞ」

「なっ……!?」

 

 認知の胡桃の顔が、驚愕に強張る。胡桃はそれを見ても、特に勝ち誇る様子はなかった。ただ淡々と、事後報告でもするように続ける。

 

「もう隠れる必要ないぐらいに警戒度は上がってたから、目についたシャドウをシバきながらここに来たけど、さっきので全部だったか」

 

 その言葉に、すみれは周囲を見渡し、息を呑んだ。床に残る黒い残滓。壁に刻まれた戦闘の跡。通路から続く破壊の痕跡。それは胡桃がすべて片付けてきた証だったのだ。

 

「くっ……」

 

 認知の胡桃が奥歯を噛み締める。胡桃の余裕ある態度に、予定外の事態へ対応しきれていない焦りが滲んでいた。

 

「さあ、シャドウがいないなら、お前自身が戦うしかないんだろ?」

「……はっ。別に増援を呼べばいい話なんだよ」

 

 認知の胡桃は、襟に付いたインカムを口元へ寄せた。

 

「こちら乙守胡桃。侵入者と交戦中、一階社交場フロアに応援頼む」

『…………』

 

 返答はない。認知の胡桃の指に、じわりと力が入った。

 

「……繰り返す。こちら乙守胡桃」

『はい、こちら。隊長です。ご用件をどうぞ?』

 

 沈黙していた無線機を握る手に力が入る。だが、今度は聞こえてきた声に違和感を覚えた。その声は低く力強いものであるはずだったが、どこか妙に不自然で、抑揚や語尾がやけに柔らかい印象を受ける。

 

「……お前、誰だ?」

『侵入者に遭遇中とのことだが、状況報告が遅いな。部下としての自覚は──』

「ふざけるな、俺が命令を出しているんだ! ……お前は誰だ!」

 

 認知の胡桃が声を荒げると、無線越しの声が一瞬だけ途切れる。次に返ってきた声には、もう隠す気のない笑いが混じっていた。

 

『あー、さすがにバレちゃうかぁ』

 

 その瞬間、声が変わる。低く抑えた響きが消え、明るく軽いトーンに切り替わる。

 

『──芳澤かすみでーす!』

「……本当に誰だお前!!」

『え⁉ いやいやいや顔合わせてますよね⁉ ちょっとショックなんですけど⁉』

「……これを持ってるであろう男はどうした?」

『あーそれはですねぇ──……』

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 遡ること少し前。芳澤かすみは、このパレスにいるはずの怪盗団と合流するため、ひとまず高いところを目指していた。

 

 高い場所へ行けば、船内の構造も見えやすい。騒ぎの中心も、怪盗団らしき姿も探しやすい。判断としては、決して間違っていない。

 

「ふむ……」

「おい嬢ちゃん。ここまで来たんだったら痛い目に遭うだけじゃ済まねぇぞ?」

 

 かすみが立っていたのは、華やかな社交場でも、上階へ続く階段でもなかった。鉄と油と蒸気の匂いがこもる、エンジンルームだった。

 

 周囲を囲むのは、体格のいい黒スーツの男たち。その中でも一際大柄で、サングラスをかけた男が、腕を組んで口を開く。

 

「うちのを片っ端からぶっ飛ばしやがって……仕事の人手が足らんくなるやろが」

「いや、そっちから絡んできたから返り討ちにしただけなんですけど。倒しちゃったその人、……人? に聞いたら私に似た風貌の集団がここに来たって言ってたんですけど……いないですよね?」

「そりゃオメェ、騙されたんだよ罠だよ罠」

 

 ははは! と疑わずに単純に信じてしまったかすみを笑う男たち。その場のノリにあわせるように、かすみも「あはは……」と控えめに笑いつつ、横目で周囲を確認し、つま先で地面をトントンと鳴らす。

 

(一……二、三……足場もそんな悪くないな)

「オメェら怪盗団の目的は分かっとる。ワシの持ってる紹介状だろ?」

「え、いや私は怪盗団じゃ……」

 

 言いかけてから、彼女は一瞬の逡巡を経て言葉を変える。

 

「…………です! そうです怪盗団です! 紹介状とやらも欲しいです!」

「だからそれは今ワシが言ったやろがい。まぁ書いてやってもいいが……その代わりお前さんの他の仲間をここに呼べ。交換条件や」

「え、無理です。連絡先知らないですし」

「……庇ったらどうなるか分かっとるやろ」

「本当です。ああでも紹介状は欲しいのでそうですね……」

 

 言いながらかすみは自身の得物を構える。

 

「……何の真似や」

「“私が勝ったら紹介状をもらう”……で、どうです? 分かりやすくないですか?」

「何が“どう”なのかわかりゃせんし、ワシらが勝ったら何の得がある?」

「あ、負けた時のこと考えてませんでした」

「……オメェがワシらのことを舐めてんのは分かったよ」

 

 サングラスの男の声が低くなる。周囲の男たちの輪郭が歪み始めた。人間の形を保っていた影が崩れ、顔が割れ、身体が膨れ上がっていく。

 

「……おう! お前ら! 血祭りじゃあ!! 目の前の嬢ちゃん、詰めて沈めたれ!!」

 

 黒スーツたちが、シャドウ本来の姿を取り戻す。目の前のサングラスの男も例外ではなかった。肉体が影に呑まれ、異形へと変わっていく。

 

「──その過ぎた口を、二度と開かんようにしてまえ!」

 

 かすみは一歩、前へ出た。恐怖はなかった。むしろ、ようやくこの世界の勝手が分かってきた、という納得の方が大きかった。

 

「……この世界の勝手が分かってきました」

 

 仮面の奥で、瞳が強く光る。

 

「……分かりやすくて、いいですねっ!」

 

 

 ***

 

 

『──……てな感じで。とりあえずここにいる人、……人? 全員倒して、紹介状ももらって、ボスらしき人間はどこか行っちゃいましたけど』

「……」

『あれ? なんか私マズいことやっちゃいました?』

「……っ! クソッ!!」

 

 ガシャン! と鋭い音が響き、無線機が無惨に床で砕け散った。壊れた無線機を見下ろす認知の胡桃の顔には、余裕の笑みは消え去り、歯ぎしりが起こるほどに顔を歪めている。

 

「……話は聞こえなかったですけど、上手くいってないって感じですか……ね?」

「援軍が来ないとこを見るにな。想定外の事態に弱いのと、詰めの甘いとこまで俺に似なくてもいいのに」

 

 皮肉を交えた胡桃の一言に反応して、認知の胡桃が二人を睨む。

 

「仲間なんざいなくても、たかが二人……! 問題無い……!」

「逃げないってことは、もう策は無いってことですよね」

「それかただ焦ってるだけだな。それでアイツどういう攻撃してくる?」

「こっちを洗脳してくる攻撃をしてきます。それと光の攻撃が効きません」

「ほぉ、ふぅん。……じゃあ元の素体はディオニュソスか? まぁ、大体分かった。そりゃ仲間率いてダウン取りたくなるわ。逆にボコボコにしてやろうぜ」

「はい、やったります!」

 

 すぐに動けるように、すみれと胡桃の姿勢が前傾になる。迎え撃つように認知の胡桃も構えをとる。

 

「「「────」」」

 

 その短い沈黙の中で、三人の視線だけが交錯した。

 

 先に動いたのは、すみれと胡桃だった。すみれが先頭に立ち、胡桃がその半歩後ろを追う。二人は小細工もなく真正面から認知の胡桃へ駆けた。あまりにも素直な直線。だからこそ、その中に折り畳まれた狙いは見えにくい。

 

 認知の胡桃まであと数歩という距離で──バサッ! と、すみれが上に羽織っていたコートを目くらましになるように脱ぎ捨てる。一瞬、認知の胡桃の視界が塞がれた。

 

 同時に、すみれは床を蹴る。鍛え上げられた脚が社交場の床を弾き、彼女の身体は重力を置き去りにするように高く舞い上がった。コートの影を抜け、認知の胡桃の頭上を越え、その背後へ回り込む軌道を描く。

 

 前から胡桃、後ろからすみれの挟撃。

 

 そして、黒い布の死角から、レイピアの切っ先が飛び出した。

 

 先ほどすみれがシャドウの一撃で落としたレイピア。それを胡桃が左手で拾い、コートに隠して突き出した一撃だった。

 

 だが。

 

「読めてんだよ!!」

 

 認知の胡桃はあえて距離を詰める。レイピアを掌で受け止め、手が貫通する。血ではないどす黒い液体が零れ落ちるのも構わず、もう片方の手のひらでコート越しに胡桃の首元を捕らえる。

 

「それが本命の攻撃じゃないことも──……」

 

 首元を掴まれながらも、胡桃は敵の背後へ着地しようとするすみれを見る。

 

「挟み撃ちしようとしてることもなぁ!!」

 

 その瞬間、すみれの目の前に黒い塊が飛び込んだ。

 

 落下ではない。横合いから叩きつけるような軌道で、重力に逆らうように彼女の着地点へ滑り込んでくる。

 

 呪怨属性のダメージを与えるアイテム──ノロイボム。怪盗団全員を倒すため、各属性を一つずつ用意していた彼の秘策の一つ。

 

 認知の胡桃は、二人の狙いを最初から読んでいた。

 

 胡桃が正面から仕掛けることも。すみれが背後を取ることも。レイピアの一撃が、本命ではないことも。

 

 だからこそ、距離を詰める動きの裏で、後ろ手にそれを投げ置いていた。

 

(これであの女はダウンし、そしてこれで──)

 

 首元を掴んだ手から【ブレインジャック】を繰り出す。まともにくらった胡桃は目の焦点が合わなくなる。

 

(入った! 動けないこいつは後回し、ダウンしてるまずあの女を攻撃してからチェックメイト──……)

 

 認知の胡桃はニヤリと笑い、胡桃の首元を掴みながら顔だけ動かして背後を見る。だがその顔はすぐに動揺で固まる。

 

「なっ──!?」

 

 ノロイボムは、すみれの背後で転がっていた。

 

 直撃していない。

 

 すみれ自身にも、完全に見えていたわけではない。ただ、黒い塊が放つ呪いの気配に、彼女の内側で何かが鋭く反応した。

 

『極・呪怨見切り』

 

 呪怨の攻撃だけを異様な精度で見切るその感覚が、すみれの身体を半ば強引に動かしていた。

 

 足首を捻る寸前の角度で床を蹴り、肩から落ちるように身を逃がす。結果として、ノロイボムは彼女の身体ではなく、その背後の床を転がった。無理な体勢で回避したすみれは、片膝と片手を床につけていた。着地と呼ぶにはあまりに強引で、普通ならそのまま姿勢を崩してもおかしくない。

 

(タイミングは完璧だったはずだ! どういう体の動かし方したら回避出来んだよ!?)

 

 認知の胡桃の動揺を置き去りにして、すみれの手が仮面へ添えられる。仮面の奥のすみれの瞳が黄色く光る。

 

「──ヴァナディース」

 

 その名を呼べば、仮面は蒼く燃えすみれの背にサンドリヨンが現れる。青白い光がその輪郭を包み込み、やがて発光する球体へと変わっていく。

 

 光の繭が脈打つ。

 

 内側から殻を破るように、まず雄々しい黒の双翼が現れた。大きく広がった羽が、社交場の空気を震わせる。

 

 光は人の形を象り、翼はスカートのように優美に折り畳まれていく。赤と黒を基調とした華麗な装甲。気高さと苛烈さを併せ持つ、女神の威容。

 

 芳澤すみれの超覚醒したペルソナ。──ヴァナディース。

 

 その双眸が、認知の胡桃を捉えた。攻撃の矛先は、すでに決まっている。

 

(マズいっ……!)

 

 そう直感した認知の胡桃はレイピアから手を引き抜き、胡桃の首を掴んだ手も放して攻撃を回避しようとしたが。

 

「……⁉」

 

 胡桃の首を掴んでいた方の手首を掴まれる。そして胡桃の目の焦点は目の前の敵をしっかりと見据えていた。

 

「お前っ、なんでかかってないっ……!?」

「対策くらい、仕込んである」

 

 胡桃は掴んだ手首にさらに力を込めた。右腕は使えない。だが、左手だけで逃げ道を潰すことはできる。

 

「俺もメンタルコーチを受けてたからな」

 

 認知の胡桃には分かるはずもない。胡桃が、獅童には死んでも悟らせまいと隠し通していた丸喜との接点。その丸喜から教わった、状態異常を即座に回復する【デトックス・X】を使えることを。

 

「なんだよそれはっ……!?」

 

 叫びは、最後まで意味を持たなかった。

 

 すみれと共に空中へ舞い上がったヴァナディースは、夜空を裂く朱い鷹のようだった。

 

 空中に、幾本もの剣が現れる。切っ先が、一斉に認知の胡桃へ向き、そのすべてが弾丸のような速度で殺到する。

 

「ぐううあああああああ!!」

 

 逃げられず、まともにくらってしまった認知の胡桃は、身体を大きく仰け反らせダウンする。認知の胡桃は、崩れかけた姿勢のまま二人を睨みつけたが、その目には既に余裕も怒りも残っていなかった。代わりに、追い詰められた獣のような焦燥感が微かに漂っていた。だが、それが行動に移る間すら与えられない。

 

「ボッコボコターイム」

 

 その一言を合図に、すみれと胡桃の動きが一層鋭さを増す。

 

 二人の総攻撃は、まさに嵐のようだった。すみれのレイピアが閃き、胡桃の一撃が隙間を縫う。片方が崩した体勢に、もう片方が容赦なく追撃を叩き込む。息を合わせるというより、互いの動きを信じ切っているからこそ成立する連携だった。

 

 認知の胡桃は防御しようと腕を上げる。だが、その腕ごと弾かれる。身を捻ろうとしても、逃げ道にはすでに刃が置かれている。反撃のために視線を動かす頃には、次の衝撃が横合いから叩き込まれていた。

 

 怒声も、罵倒も、もはや形にならない。

 

 次第に防御は崩れ、足取りは乱れ、虚ろな動きだけが残っていく。そして最後の一撃が、容赦なく叩き込まれる。

 

「ぐ、あっ……!」

 

 断末魔とも言える呻き声を漏らし、認知の胡桃は力なくその場に崩れ落ちた。

 

 怒りも、屈辱も、憎しみも、全てが削ぎ落とされていた。残ったのは、瓦礫の山のように無残で、無力な姿だけだった。

 

 胡桃は一瞬だけその相手を見下ろす。倒れているのは敵だが、姿形は自分と同じ。胸の奥に、ほんの僅かな不快感が沈む。勝利の快感とは違う。自分の嫌な部分を無理やり可視化され、それを他人の手を借りて叩き潰したような、後味の悪さ。

 

 それでも、胡桃は静かに息を吐いた。

 

「戦闘終了、だな」

 

 認知の胡桃の息遣いは途切れ、その輪郭が黒い泥のように崩れ始めた。皮膚も、服も、髪も、全てが溶けて混ざり合い、やがて床へと吸い込まれるように消えていく。

 

 残されたのは、戦闘の熱だけだった。荒くなった呼吸。焦げたような空気。足元に残る黒い染み。

 そして、二人が確かに勝ったという事実。胡桃はレイピアを下ろし、肩の力を抜いた。

 

「力を温存できて良かった。……とりあえずアイツらと合流しよう。ヴァイオレット、どこで別れたん──とぉっとおぉ!?」

 

 言い終える前に、衝撃が来た。

 

 敵の追撃ではなかった。すみれが、何の前触れもなく胡桃の胸元に飛び込んできたのだ。

 

 受け止めきれず、胡桃の身体が半歩後ろへ揺れる。反射的に右腕を動かしかけて、鋭い痛みに顔をしかめる。慌てて左手だけでバランスを取り、どうにか倒れずに踏みとどまった。

 

 すみれは顔を上げない。

 

 額を胡桃の胸に押しつけたまま、両手で彼の服を掴んでいた。指先に力が入り、布地が小さく皺になる。

 

「っ……うぅ……」

 

 くぐもった声が聞こえた。

 

 最初は、痛みを堪えているのかと思った。超覚醒の反動か、戦闘でどこかを負傷したのか。胡桃は咄嗟に確認しようとしたが、すぐに違うと分かった。

 

 泣いていた。さっきまで武器を構え、ペルソナを従え、敵を切り裂いていた少女が、今はただ胡桃の胸に顔を埋めて泣いていた。

 

 その落差に、胡桃の思考が一瞬だけ止まる。

 

 そして次の瞬間、彼は反射的に左手を上げていた。右腕もつられて動きかけたが、痛みに引き戻される。結果として、片手だけを中途半端に上げた、痴漢冤罪を全力で否定しきれない一般市民のような姿勢になった。

 

「あーっと……気持ちは分かるけど、今は……」

 

 今はこんなことをしている場合ではない。胡桃の頭の中では、冷静な部分がそう告げていた。怪盗団と合流しなければならない。敵が完全に消えた保証もない。ここが安全地帯であるはずもない。

 

 けれど。

 

「……うっ……グスっ……よかった……!」

 

 すみれの指が、さらに強く胡桃の服を掴んだ。

 

「生きてて……! また、会えて……よかっ、た……!」

 

 死んだと思っていた人間が、生きて目の前にいる。

 

 その事実を、彼女は今ようやく実感しているのだろう。戦闘中は動くしかなかった。考える暇などなかった。けれど敵が倒れ、危機が一度途切れた瞬間、押し込めていた感情が堰を切って溢れ出した。

 

 胡桃はそれを、無理に引き剥がせなかった。

 

 すみれの肩は小さく震えている。泣き声を押し殺そうとしているのに、押し殺しきれない。息を吸うたびに喉が詰まり、言葉が涙に滲んで崩れていく。その震えが、服越しに胡桃へ伝わってきた。

 

 空中で所在なく彷徨っていた手が、少しだけ迷う。

 

 触れていいのか。慰めていいのか。自分にそんな資格があるのか。胡桃には分からなかった。けれど、泣いている相手を前にして、何もしないでいるほど器用でもなかった。

 

 数秒の葛藤の後、胡桃はゆっくりと左手を下ろす。そして、壊れ物に触れるように、すみれの背中へ手を回した。

 

「まぁ、その……悪かった」

 

 口から出てきたのは、ひどく短い言葉だった。気の利いた慰めでも、綺麗な謝罪でもない。それでも今の胡桃が差し出せるものは、その程度しかなかった。

 

「ホント……ですよぉ……!」

 

 すみれの声が、さらに涙で歪む。

 

「先輩、死んじゃったって……もう会えないって……私、私……!」

「死んでない。ほら、ちゃんと生きてる。右腕以外はだいたい無事」

「そういう問題じゃないです……!」

「はい」

「もっとちゃんと反省してください……!」

「はい……」

 

 ──数分後、すみれの震えはようやく収まった。

 

 泣き声はもう聞こえない。けれど、胡桃の服を掴んでいた指には、まだ名残のように力が残っていた。離れるべきだと分かっていても、あと一瞬だけ確かめていたい。そんな未練が、指先に滲んでいるようだった。

 

 やがて、すみれはゆっくりと胡桃から離れた。

 

「……すみません」

 

 小さく呟き、レイピアを握り直す。その仕草は怪盗のものに戻っていたが、顔はまだ上げきれない。

 

 仮面で表情は隠れている。けれど、勢いのまま抱きついてしまったことを今さら自覚したのだろう。頬から耳にかけて、じわじわと赤みが広がっていた。

 

 胡桃は、それに気づかないふりをした。今ここで触れれば、すみれは余計に俯いてしまう。そう思ったのか、あるいは単に胡桃自身もどう反応していいか分からなかったのか。彼はわざとらしく前を向いた。

 

「……合流するぞ」

「はい……!」

 

 すみれは一度だけ深く息を吸う。そして、胡桃の後ろに続いた。

 

 まだ頬の熱は引いていない。けれど、それ以上に胸の奥には、確かな安堵が残っていた。前を歩く胡桃が、生きている。その背中を見失わないように、すみれは少しだけ歩幅を早めた。

 

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