認知の胡桃との戦闘が終わる少し前──。
認知の胡桃によってすみれと分断され、シャドウに襲われていた怪盗団は客室の通路という狭所であるものの、柔軟に立ち回り全てを迎撃していた。
「はぁ……これで全部か?」
シャドウとの激しい戦いを終えた怪盗団は、荒く息を整えながらも、油断なく周囲に目を配っていた。
「すみれは……?」
「まだ反応ある。でも動き回ってる。戦闘中かも」
「すぐに助けにいきましょう」
「ああ、ナビすぐに案内を」
蓮は一度だけ頷き、通路の先へ足を向ける。判断を促す声をだした瞬間だった。
──コツ、と。乾いた音が響いた。
全員の動きが止まる。革靴が床を叩く音。明らかにシャドウの足音ではない。荒々しくもなければ、焦ってもいない。むしろ、こちらが動けないことをわかっているよう落ち着き払った足取りだった。
蓮の視線が鋭くなる。
「……違うな」
蓮は通路の奥を見据えたまま、ナイフを握り直す。
照明の下。ゆっくりと、人影が近づいてくる。片手には拳銃。もう片方には、細身の剣。
見間違えるはずもない。
「……やっと、追いついたよ」
──明智吾郎は、薄く笑っていた。
かつて仮初めの仲間として、同じ作戦の中にいた男。共に戦い、共に笑い、そしてすべてを欺いていた男。
だが今、その笑みには取り繕った柔らかさすら残っていない。
あるのは、剥き出しの敵意。そして、ようやくこの時が来たとでも言うような、冷たい愉悦だけだった。
「ずいぶん派手にやったみたいだね。さすが怪盗団だ。狭い通路でも、見事な連携だよ」
褒めているような口調だった。だが、その目はまるで笑っていない。
「もっとも」
明智の視線が、怪盗団の面々をゆっくりとなぞる。
「何人か、足りないみたいだけど」
「てめぇ……!」
「怒るなよ。僕が直接殺したわけじゃないし、僕が分断したわけじゃない。でも、利用しない理由もないだろう?」
明智は肩を竦める。
「……まったく僕を騙すとは恐れ入った。甘くみていたよ」
そして先頭に立っている蓮へと視線を向ける。
「本当に面白いやつだよ君は。口数は少ないけど行動力も度胸もある。……こんな立場じゃなきゃ、いいライバルになれたのかもね」
蓮は、明智から目を逸らさなかった。握ったナイフの切っ先を、わずかに下げる。
「……今からでも」
その一言で、明智の笑みが止まった。
ほんの一瞬。通路に、異様な静けさが落ちる。誰も口を挟めなかった。蓮が何を言おうとしているのか、全員がわかってしまったからだ。
今からでも、戻れる。
今からでも、一緒に戦える。
今からでも──。
「……クッ」
喉の奥で、何かが震え、明智は堪えきれないように笑い出した。
──そんな言葉を、どうしてこの男は言えるのだろう。
「ク、クク……アハハ! 君、最高だよ。君は今までの自分とか人間関係とか……そういうものに囚われない」
そして急速に笑みは冷めていき、自身と彼の在り方を客観視していく。
──ああ、そうか。生き方が違ったんだ。
「いつだって心が自由だ。僕とは正反対。心底羨ましいよ」
自身の生き方に繋がれた者と、その鎖を引きちぎった者。
憎んでいるはずだった。出し抜かれたことも、騙されたことも、怪盗団という居場所を持っていることも、何もかもが癪に障る。
けれど、憎しみだけではなかった。
この男だけは、自分を見ていた。探偵王子でも、獅童の駒でも、作られた優等生でもない。剥き出しの醜さごと、明智吾郎を見た上で、なお「今からでも」と言った。
だからこそ、受け取れない。受け取ってしまえば、自分のこれまでが崩れる。復讐のために積み上げた屍も、嘘も、孤独も、全部がただの意地になってしまう。
「なんであと数年、早く出会わなかったんだろうね。……蓮」
けれど名前を呼ぶ声には、皮肉だけでは隠しきれない何かが滲んでいた。
「明智、アンタ……」
杏が明智に同情を寄せる。が、明智自身は蓮との会話に水を差されたのか、それとも本来の目的を思い出したのか。すぐに冷たい殺意を取り戻す。
「でもタラレバの話をしてもしょうがない。現実はそうはならなかったんだからさ」
「なんで獅童なんかに協力しているの? パレスの景色を見たでしょう? アイツの本性は」
「協力? 何言ってんだよ、国なんてどうでもいい。すべては獅童正義に……父に俺を認めさせ、復讐することだ」
取り繕った『僕』の仮面が剥がれ、その下から地の『俺』が顔を出す。本人すら気づいていないのかもしれない。それほど自然に、剥き出しの感情がせり上がっていた。
「獅童が……父親……!?」
「前に教えてやったろ。母は悪い男の愛人だったって。つまり隠し子さ」
淡々と、まるで他人の経歴でも読み上げるような口ぶり。だがその平坦さこそが、彼がこの事実とどれだけ長く向き合ってきたかを物語っていた。
「あの男にとって俺は存在自体が醜聞……母も俺を生んだせいで死んだ」
一拍。明智は薄く笑った。自分自身を嘲るように、あるいは突き放すように。
「『生まれたことを望まれなかった子供』ってわけさ」
明智の横顔には、もはや笑みの欠片もなかった。あるのは、長い年月をかけて煮詰められた、底のない昏さだけだ。
「恨み抜いたよ。けどヤツはもう与党の都議で子供じゃどうしようもなかった……」
声の底に、暗いものが沈んでいた。手の届かない場所にいる相手を、ただ睨み続けるしかなかった日々。その無力感を噛みしめるように、明智は一度言葉を切る。
「──けどそんな時だ。知っちまったんだよ!! 認知の異世界ってやつに!! 神様だか悪魔だかがチャンスをくれたんだ! 笑いが止まらなかったね!!」
その表情が一変した。
沈んでいた瞳に、ぎらりと火が灯る。堪えきれないとでも言うように、明智は天を仰いで哄笑した。それは勝者の笑いではなかった。ずっと地面に押しつけられていた子供が、初めて石を握った時の笑いだった。自分を踏みつけてきたものへ投げ返せる硬い何かを、ようやく手に入れた時の歪んだ歓喜。
「そして、獅童正義がその力を欲しがった」
明智の声が、ひどく歪む。
「笑えるだろ? 俺を捨てた男が、俺のことなんて知らないまま、俺の力を必要としたんだ。邪魔者を消すために。自分の道を開くために。俺がいなきゃ前にも進めないくせに、偉そうに国を動かす顔をしてさ」
必要とされた。
たとえ道具としてでも。
たとえ都合のいい駒としてでも。
たとえ、息子だと知られないままでも。
あの男が、自分の力を求めた。その事実に、胸の奥の飢えが一瞬だけ満たされた。
「だから俺は従順な駒のふりをした。あいつの望む通りに動いた。邪魔者を消し、事故を起こし、世論を動かし、あいつを上へ上へと押し上げてやった」
「……そのために、人を殺したのか」
「ああ、だが何が悪い。どうせヤツら自身だって薄汚い食うか食われるかをしてるんだ。そんな害悪を処理してやってんだ。……怪盗団と何が違う?」
「人殺しと一緒にするなっ!!」
「結果的に人を殺していないだけだろう! やっていることは同じだ。歪んだ欲望を、より大きなお前たちの正義という名の欲望で歪めているにすぎない!!」
人殺し、と言われたことが癪に障ったのか、明智はより強い言葉で叩き返す。お前たちはその程度の覚悟で、吐き気のするような綺麗事を抱えて、こんなところまで踏み込んできたのか──と。声には、抑えきれない苛立ちと侮蔑が滲んでいた。
だが、それも長くは続かなかった。
怪盗団の正義をいくら罵ったところで、自分の渇きが満たされるわけではない。明智自身、それを誰よりわかっていた。ふっ、と息を吐くように、彼は熱を手放す。
「……まぁ、そんな正義の水掛け論なんてする気はない。不毛でどうでもいい。……やっと獅童に手が届くところまで来たんだ。俺は獅童を総理大臣にしてやる。誰もがあいつを称えるところまで押し上げてやる。国民も、取り巻きも、マスコミも、全部があいつに跪くところまでな」
その光景を思い描いているのか、明智の口元が弧を描く。だがその目は、少しも笑っていない。むしろ、ぞっとするほど昏く凪いでいた。栄光を語っているはずなのに、声には祝福の欠片もない。
「その一番高い場所で、俺が教えてやるんだよ。お前が捨てた女が何を残したのか。お前が見向きもしなかった子供が、誰よりもお前を支えていたのか──」
剣を握る手が、震えていた。怒りでか、昂りでか、それとも別の何かでか。本人にも、もう分からないのかもしれない。
「──俺が何者だったのかをな!!」
叫びが、狭い通路に反響した。
「歪んでいるな哀れなほどに」
低く抑えた声だった。同情でも、嘲りでもない。ただ、目の前の男の在り方を、ありのまま言い当てた一言。
その言葉に、明智の眉がぴくりと跳ねた。剥き出しにした内面を、土足で値踏みされたとでも言うように。せっかく手放したはずの苛立ちが、再び目の奥で火を噴く。
「俺に意見するなよカス共が」
研ぎ澄まされた殺意だけが、その一語一語に乗っている。
「俺の邪魔はさせない。獅童正義は俺が責任もって生き地獄に送っといてやるよ。だからジョーカー。お前は安心して逝くといい」
「ああ、決着をつけよう」
「そうだな語り合う言葉はもう……必要ない」
「……行くぞ」
その一言を皮切りに、二つの影が同時に床を蹴った。
──これが終われば、何もかも終わる。
その先に何が残るのかも知らないまま、明智はただ、それだけを思っていた。