時は遡り、胡桃とすみれが怪盗団と合流する少し前。
「ほ、本当にこの道で合ってるんですか!?」
「多分大丈夫だ、多分」
そう言った自分で、胡桃はほんの少しだけ視線を泳がせた。
足元は金属の床。天井は低く、むき出しの配管が頭上を走っている。──地下区画。表の通路とは明らかに違う、船の“内臓”のような場所だった。
「た、多分って……!」
「ほら、迷って立ち止まるより走った方がいい。音、聞こえただろ」
胡桃が顎を上げ、耳を澄ませる。遠くから響く鈍い爆発音。床を震わせる衝撃。ペルソナのスキル同士がぶつかる時特有の、空気そのものが軋むような感覚。
「……戦闘音、ですよね」
「でも、もう下火だな。すぐ終わる」
「すぐに合流しましょう!」
「その前に──」
胡桃は足を止め、前方を見据えた。通路はそこで二手に分かれていた。どちらにも同じように赤い灯りが続き、同じように暗い。
「分かれる」
「え?」
「俺はこっちに行く。ヴァイオレットはそっちだ」
「ま、待ってください! 一緒に行った方が絶対いいですって!」
「……挟み撃ちの形にする。怪盗団からの援軍が来たと思わせて、俺が背後から敵を叩く」
「…………」
「……何だよ」
「必要ないです」
「は?」
すみれはきっぱりと言い切った。
「今、怪盗団にいるのは八人です。私も途中まではこのパレスのシャドウと戦ってましたけど、よっぽどの状況でもない限り、今の先輩たちは負けません。私たちがわざわざ挟み撃ちに回る必要、ないです」
「……万が一があるだろ」
実際、その通りだった。胡桃は言葉に詰まり、それでも無理やり反論を絞り出す。だが、すみれは少しも引かなかった。
「万が一って何ですか」
「何でもいいだろ」
「何でもよくないです! 今ここで別れて、一人でシャドウに遭遇する方がよっぽど危険です」
「それでも──」
「そんな万が一、起きません!」
「〜〜〜〜っ、面倒くせぇ……」
「今、面倒くさいって言いました!?」
すみれの声が一段高くなる。
「勝手に行動して、勝手に死んで、勝手に生き返って、心配かけたのはどこの誰ですか!?」
「お、落ち着けって」
「というか今さらながら、心配してた分、ものすごく怒りが湧いてきたんですけど!」
強い言葉を選ばないよう抑え込んでいる反動か、行き場のない怒りに指先がわなわなと震えている。
「先輩って、いつもそうですよね! 自己判断、単独行動、事後報告! 何が正しいかなんて一人で決めて、自分が危ない場所に行くくせに、周りの人のことは後回しで! それで“大丈夫だった”みたいな顔して戻ってきて……!」
握りしめた拳に力がこもる。白い指先が、非常灯の赤に照らされてかすかに浮かんだ。
「大丈夫じゃなかったら、どうするんですか!」
「……」
「先輩がいなくなったら、残された人はどうなるんですか!」
その言葉は責めというより、怖れに近かった。胡桃は一度、深く息を吐いた。逃げるための溜め息ではない。言葉を選ぶための、短い間だった。
「……正しいことを言ってるよ」
低く、乾いた声だった。
「今の怪盗団は強い。八人いれば、よっぽどのことがない限り崩れない。挟み撃ちなんて、戦術としては過剰だ」
「じゃあ──」
「だから、“万が一”は理由じゃない」
すみれが息を呑む。
「今、怪盗団が戦ってるのは明智だ。認知存在じゃない。本物の明智」
「……本物の、明智先輩……? まさか、もう動きがバレたんですか!?」
「いや」
胡桃は小さく首を振った。
「でも怪盗団は勝つ。ボロボロになって、それでも明智を倒す。……ただ、それで終わりじゃない」
胡桃の口ぶりは、まるでそれが憶測ではなく、すでに決まっている未来であるかのようだった。
「そこで認知の明智が現れる。本物の明智は、その場で“処理”される。直前に、怪盗団と明智の間を切り離す隔壁が降りる。それを助けなきゃならない」
「……どうして、そこまで分かるんですか」
「知ってるから」
「知ってるからって……未来を、ですか? 何で知ってるんですか。どうやって」
「その話は後だ。どうせここを出たら全員に詰められるんだし、今は急ぎたい」
その物言いに顔をしかめつつ、すみれはこめかみに手を当て、うんうんと唸る。
「……分かりました。つまり、『隔壁が下がるかもしれないから二手に分かれる。先輩は明智先輩の方へ、私は怪盗団の方へ。先輩は瀕死の明智先輩を連れ、私は怪盗団に事情を説明しながら脱出する』──そういうことですね」
「理解が早いな」
「先輩の右腕なので」
そこで一度、すみれは視線を落とした。
「……でも、いや。何でもないです」
喉元までせり上がってきた言葉を、そのまま飲み込む。
──どうして、明智先輩を助けるんですか。
聞きたかった。聞けば、きっと答えは返ってくる。彼はそういう人だ。理屈でも、直感でも、何かしら自分なりの理由を持っている。
けれどその問いは、言い換えれば「助けなくてもいい」「見捨てるべきだ」と言っているのと同じにもなる。言葉にした瞬間、胡桃にそう受け取られるかもしれない。それが怖かった。
いや、それ以上に──その問いを口にした瞬間、自分自身が“そういう人間”になってしまう気がして、ぞっとしたのだ。
「……明智自身のことは、怪盗団から聞いた方がいい」
「……!」
察したように、胡桃が言い添える。
そこでようやく、胡桃は思い至った。すみれは明智と直接刃を交えていない。彼女が知っているのは、あくまで「裏切った存在」としての情報だけだ。怪盗団と明智の間にあったものも、そこで交わされた言葉も、過去も選択も──すみれはまだ何も知らない。
「まぁ、それを聞いたところで許せるとか、やってきたことが軽くなるとか、そういう話じゃないけど。でも……見殺しにするのは後味悪いだろ」
「……分かりましたよ。でも脱出の途中で、合流するようなルートを通ります。それぐらいは許してください」
すみれは小さく息を吐き、顔を上げた。完全に納得したわけではない。胸の奥には、まだ言葉にならない引っかかりが残っている。それでも今は、それを抱えたまま進むしかないのだと理解していた。
「でも、約束してください」
「ん?」
「ちゃんと生きて戻ってきてください。明智先輩も……先輩自身も」
「……努力はする」
胡桃は軽く肩をすくめた。その仕草はいつも通りで、妙に気負いがない。だからこそ、すみれはそれ以上責める言葉を失った。
遠くで、また一度、低い振動が走った。時間がない。
「行けるな」
「はい」
それだけで十分だった。胡桃は踵を返し、暗い通路の奥へと駆け出す。すみれもまた、怪盗団のいる方向へ向き直り、ほんの一瞬だけ振り返った。
赤い光の向こうで、胡桃の背中が闇に溶けていく。
「……先輩の右腕、ですから」
呟いて、すみれは走り出す。
***
「……って感じ」
胡桃は、明智と蓮に向けてシャドウを蹴散らしながら状況を説明し終えた。かなり雑にはなったが、伝えるべきことはどうにかひと通り伝わったはずだ。ちょうど最後の一体が倒れ、戦闘の気配もそこでようやく途切れる。
蓮は短く息を吐いた。
「……つまり」
確認するように、低く言う。
「ここまで来た理由は、明智を連れて脱出するため」
「そういうこと」
胡桃は壁にもたれたまま頷いた。戦闘の疲労を隠す気もないのか、肩で息をしている。明智は余計なお世話だという風に鼻で笑う。
「怪盗団は?」
「すみれが説明して、この先のルートで合流できるようにしてくれてるはずだ」
「……そうか」
蓮は小さく頷く。流れは理解した。だが、それでも確認しておくべきことが一つある。視線を横へ向けた。
「明智。動けるか」
「誰に聞いてる」
明智はそう言って、わずかに口元を歪める。だが歩きだした瞬間、ほんのわずかに体がぶれた。蓮も胡桃も、それを見逃さない。
「おい無理すんなよ」
「うるさいな。しつこいぞ」
「じゃあもう二度と心配せんわ」
短く舌打ちして、体の芯を完全に取り戻す。
「それより、ここで立ち止まってる時間はないんだろう」
それは事実だった。シドウ・パレスの警戒度はすでに最大だ。いつ新しいシャドウが流れ込んできてもおかしくない。
「オタカラのルートは?」
「後回し。というか、紹介状の手がかりもまだ──」
「四枚なら手元にあるぞ」
「嘘だろ!?」
胡桃が素っ頓狂な声を上げる。
「俺が潜った時には、それっぽい奴ひとりも姿見せなかったんだけど!?」
「……思うに」
続けて明智は淡々と言った。
「お前は最初から獅童に完全には信用されていなかった。懐に潜り込まれて情報を抜かれても痛くない程度のものだけが、認知に反映されていた。そういうことじゃないか?」
「……ありうる。だから紹介状を持つ面々が姿を現さなかったってことか」
獅童はただの権力者ではない。
認知世界というオカルトじみた領域に踏み込み、その仕組みを政治と謀略の道具として利用している男だ。認知上の明智を用意し、本物の明智を始末しようとしていたことからも分かる。
それに、前世で知っている筋書きの中でも、あの男は『自身のシャドウが倒されること』さえ考慮していた。慢心していないわけではない。自分が選ばれた人間だと信じて疑わない傲慢さはある。だがその一方で、自分が敗北した後の保険まで用意しておく程度には抜け目がない。
ならば、胡桃のことも最初から“信用していない協力者”として扱っていたとして、何もおかしくない。
「じゃあ俺の認知存在はなに? あいつ俺が死んでることにはなってるよな? 亡くなってる人間が認知存在として現れるのには初めてじゃないけども」
そう言って思い出すのは双葉のパレスにいた認知存在の一色若葉。死者であっても、誰かの認知の中に強く刻まれていれば姿を持つ。それ自体はあり得る。
「そんな奴がいたのか。……ならこれも憶測でしかないが。本来、お前は情報を抜き取られた後に処分され、お前の死体を何らかに利用する手筈だった。それ故に死んでも利用価値のある存在という認知。というのは?」
「なるほど、だから開口一番に『なんで生きてやがる』なんて死を認識した発言してたのか」
胡桃は納得しつつも、胸の奥に重いものが沈むのを感じた。
獅童の悪意を甘く見ていたつもりはない。人を踏み台にする男だということも、不要になれば切り捨てる男だとも分かっていた。
それでもなお、理解が一段足りていなかった。生きている間だけではない。死んだ後でさえ、利用できるものは利用する。そこまで含めて、あの男にとって人間は道具なのだ。
吐き気より先に、辟易した。
「なぁブル。道は分かるのか」
「何回来たと思ってる。この先の整備通路を抜けると、上層の中央回廊に出る。そこが怪盗団の脱出ルートと合流するはずだ」
「ナビがちゃんと“ナビ”してるなら、向こうもそこを目指してるわけね」
「ああ」
蓮は短く頷き、前へ視線を戻した。
「なら行くぞ」
三人は頷き駆け出した。靴底が金属床を強く叩き、狭い通路に鋭く反響する。
胡桃は歯を食いしばって走った。全身が重い。包帯を巻いた右手は、走るたびに脈打つように痛んだ。さっきまで、すみれの前では意地でそれを押し隠していたぶん、今になって余計に痛みが鮮明になる。それでも足は止めない。
隣では明智が、自分の足で走っていた。傷のせいで動きは鈍い。けれど、少しでも遅れまいとするみたいに、意地だけで脚を前に出している。二人に肩を借りるくらいなら舌を噛む、くらいの顔だ。
先行する蓮が、角を曲がる寸前で片手を上げた。その合図に、胡桃は即座に足を緩める。次の瞬間、曲がり角の先からシャドウが一体、無機質な動きで姿を現した。
「邪魔だ」
蓮が低く呟き、踏み込む。閃くナイフ。シャドウが反応するより早く、その懐へ潜り込む。だが一撃で絶命しきるより先に、横合いから青白い光が走った。明智の剣だ。細身の柄から伸びた光刃が、首元を横一文字に薙ぐ。
霧散。
三人は一言も交わさないまま、その残滓を突っ切るように走る。
「……連携いいな」
「嬉しくない感想だ」
「こっちも別に褒められたくてやってるわけじゃない」
言いながらも、蓮と明智の呼吸は噛み合っていた。前を走る蓮が相手の軸を崩し、明智が光刃で急所を断つ。あるいは逆。どちらが先でも成立する、妙に完成度の高い連携だった。ちぎっては投げ、ちぎっては投げるような荒っぽいやり方で、とにかく足だけは止めずに進み続ける。
やがて通路の空気が変わり始めた。
油と鉄の匂いが薄れ、代わりにどこか甘ったるい芳香剤の残り香みたいなものが混じる。むき出しだった配管は壁の内側へ消え、床材も無骨な金属から、絨毯敷きの廊下へと変わっていく。
「……客間エリアか」
蓮が短く呟く。
左右に並ぶ扉。磨かれた真鍮の取っ手。壁には豪華な装飾灯が取り付けられ、非常灯の赤に混じって鈍い金色を返していた。少しずつ“表”へと近づいている。
「地下よりはマシな景色だな」
「趣味が悪い豪華さだ」
「獅童らしいだろ」
客間を抜けると、視界はさらに開けた。広めの廊下。吹き抜けを囲う回廊。壁面には絵画や金装飾が並び、天井からはシャンデリアまで吊るされている。豪華客船として客をもてなすためのフロアなのだろう。歪みきった認知の中でも、その虚飾だけはやけに丁寧だった。
「この先の中央フロアを抜ければ、ダンスホールがある。そこには誰もいないはずで、その先、皆と合流できる」
「“はず”」
「そこ拾うなよ」
「信用の問題だ」
「実績の問題でもあるな」
「お前ら今じゃなくてもよくない?」
荒い息の合間にもそんなやり取りが挟まるくらいには、まだ全員の意識は切れていない。
やがて前方に、大きな両開き扉が見えてきた。装飾過多なくらい装飾された白金の扉。楽団席でもありそうな高い天井を予感させる、ひときわ大きな入口。
三人は力を振り絞るように加速し、この状況で取っ手を掴む動作は不作法とでも言うように体当たりをする。鈍い音を立てて、扉が開き、視界が一気に開けた。
そこは豪奢なダンスホール。磨き上げられた床。天井から吊るされた巨大なシャンデリア。左右へ伸びる階段。舞踏会でも始まりそうな空間は、けれど本来の華やかさよりも、人気のなさが不気味だった。
「ここを抜ければ」
怪盗団と合流できる。そう口にしかけた、その瞬間だった。
ゴウン──と、重い振動が空間全体を揺らす。
三人の視線が、同時に正面へ向く。ダンスホールの巨大な正面扉が、ゆっくりと、だが確実に開き始めていた。分厚い扉同士が擦れ合う不快な音が響き、暗い隙間が左右へ広がっていく。
「……おい」
扉の向こうは暗い。だが、暗闇の奥でいくつもの赤い光点が揺れた。あるいは照準のように。
そしてぞろり、と。まるで堰を切ったように、シャドウが現れた。一体や二体ではない。列をなし、床すれすれを駆け、行く手を阻むように、シャドウの群れがダンスホールへ進軍してくる。
「まったく、これも君の計画通り?」
「……思えば俺の計画なんて一度も上手く行ったことない気がしてきた」
「いやここに誘導して僕らごと潰そうっていう計画」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ杜撰なだけだ」
「うるせぇよ見てろ、間違っても通せば正解だ」
悪態吐きながら仮面に手をかける胡桃を、蓮が制す。
「“それ”を使ってそのあと動けるのか?」
「……」
図星だった。胡桃の体力はもう限界に近い。そんな半端な体力を使っても、あの数を一撃で全て消し飛ばせる保証もなく、その後に動けなくなるのは確実だった。胡桃のその様子をみて蓮は明智に視線を投げる。
「クロウ。ペルソナは?」
「認めたくないけど、君らのおかげで、限界が近い。全力を出せるのは後一度だ」
「……よしわかった。──ペルソナで総攻撃だ」
胡桃と明智の「は?」という声が重なる。
「高火力で薙ぎ払うにしても、敵がその攻撃の耐性を持っていたら目も当てられない。だがこの数を一体一体相手できない。
──それなら耐性無視できる全体攻撃を同時に放つ」
蓮の作戦に二人は一瞬、虚を突かれた後にした反応は正反対だった。一人は楽しそうに笑い、一人は呆れてため息を吐く。
「いいね。ゴリ押し最高。そろそろ小難しく考えるのやめたかったんだよ」
「まったく。それは作戦とは言えないだろ」
だが二人の動作は同じだった。蓮を真ん中に、その両隣に並び、仮面に手をかける。それを見て、蓮は薄く笑う。
「……なに笑ってるんだいキミ」
「俺か?」
「そこのイカレイキリ野郎以外には君しかいないだろう」
「だーれがイカレイキリ野郎だ。ピエロ探偵」
「神経を逆撫でするのが上手いね。君のいないところでの会話ってすごく盛り上がってそう」
「伝わりにくい悪口だな。ホームズリスペクト?」
「おっと、もっと伝わるようにレベルを下げた方がよかったねマヌケ」
「ほら言われてるぞ屋根ゴミ」
「悲しいな」
「お前らっ……」
「──来るぞ、ブル、クロウ」
その一言で、全部が止んだ。
軽口も。呼吸も。迷いも。残ったのは、目の前の敵と、ここで叩き潰すという意志だけだった。
「──ロキ!」「──サタン!」「──アステリオス!」
乾いた仮面の破砕音が、同時に三つ。噴き上がった力の奔流がぶつかり合い、空気が悲鳴を上げる。三体のペルソナが、主たちと呼吸を重ねるように同時に構えた。
三人は並んだまま、一歩も引かない。
呼吸が重なる。
殺気が重なる。
膨れ上がったペルソナの力が、三人の前にひとつの破壊として収束していく。
そして──。
「「「──メギドラオン!!」」」
黒白の破壊の奔流が目の前を埋め尽くす。