「ふぅ……」
帰りのHRが終わり、椅子に深く座り直して、長く息を吐いた。
疲れた。
寒い日のくせに、教室の中は暖房のせいで妙に暑い。しかもこの腕のせいで制服の上着が脱ぎづらいから、そのまま一日授業を受ける羽目になった。
「……帰る前になんか飲も」
廊下に出ると、教室よりは少しだけ空気が冷えていた。冬の放課後らしい、薄く乾いた空気。けれど体の内側にこもった熱はまだ抜けきらない。喉の奥がぺたついている感じがして、俺は昇降口とは逆方向に足を向けた。
放課後だから人通りは多いが、自販機の前に立っている生徒はいなかった。助かった。片手で財布を出して、小銭を入れて、ボタンを押すだけでも今の俺には軽いミッションだ。誰かに後ろで待たれたら、たぶん無駄に焦る。
財布を左手だけで開けて、百円玉を落としそうになる。
「……はいはい」
誰に対してか分からない悪態を飲み込んで、どうにか硬貨を入れる。がこん、とペットボトルが落ちる音がした。今日はなんとなく甘いものが欲しくてスポドリにした。
取り出し口からペットボトルを引っ張り出して、左手で持つ。問題はここからだった。
「…………」
蓋が固い。仕方なく、ペットボトルを右腕と脇腹の間に挟んだ。左手でキャップを掴んで、慎重に回す。
「……っ」
もう一度、さらに力を込める。今度は思ったよりあっさり回った。
「あ」
反射的に押さえようとして、当然のように右腕は動かない。左手はキャップを持ったまま。落ちる寸前のボトルを捕まえようとして、体ごと妙な角度に傾いた。
結果。
「…………最悪」
ぼたぼた、と。開いたばかりのスポーツドリンクが、包帯の上に盛大にこぼれた。
白い包帯に、透明に近い液体がじわじわ染み込んでいく。水ならまだよかったけど、よりによってスポーツドリンクである。乾いたら絶対にべたつく。包帯の下の皮膚まで、ぬるく湿った感触が伝わってきて、背筋がぞわっとした。
……そういえばこの自販機、いつかの俺が八つ当たりで蹴った自販機だ。俺への復讐ってこと?
「……なんかもう全部面倒くさいな」
「な、なんでそんな絶望してるんですか!?」
振り返ると、すみれが驚いた表情で立っていた。
「ごめん気づかなかった。自販機どうぞ」
「いや。胡桃先輩を見かけたから声かけただけで……あー、なるほどです」
すみれは今の状況を見て、なんとなく察したらしい。
「包帯、濡れちゃってますよね」
「見ての通り。スポドリ味の右腕になった。──いや
「保健室行きましょうか」
「いや、いい。帰ってから替える」
「だめです。乾いたらべたべたになりますし、衛生的にもよくないです」
「それはそうなんだけど」
「それはそうなら行きましょう」
すみれは迷う様子もなく、俺の左手からペットボトルを受け取った。いや、奪ったと言ってもいい。俺が抗議する前にキャップを閉め、ボトルの表面についた水滴をハンカチで軽く拭う。
「飲みます?」
「飲む」
「はい」
差し出されたボトルを、左手だけで受け取る。普通に飲めるはずだった。だが、片手で持ったペットボトルは微妙に安定しない。口元に持っていくだけなのに、なぜか少し緊張する。こぼした直後だから余計に。
俺が一瞬固まっていると、すみれがこちらを覗き込んだ。
「……もしかして、飲みにくいですか?」
「飲みにくくはない」
「では?」
「飲みにくい寄りの飲める」
「ほぼ飲みにくいじゃないですか」
すみれは困ったように笑って、ボトルの真ん中あたりに手を添えた。
「支えますから、ゆっくりで」
「いや、そこまでしなくても」
「こぼしたばっかりですよ?」
「……はい」
何も言い返せなかった。情けないと思いながら、ペットボトルに口をつける。スポーツドリンクの甘さが喉に落ちていく。普段なら気にも留めない味が、今だけやけに染みた。
「うめぇ…… 生き返る」
「よかったです。もっと軽率に私を頼っていいんですよ? 私は先輩の右腕なので!」
「うん? うん、そうするわ」
妙に私という言葉が強調された気がするが、気のせいにしよう。
「じゃあ保健室に向かいますよ。肩かしましょうか?」
「そこまでじゃねぇって」
***
保健室の引き戸を開けると、白いカーテンがかすかに揺れていた。暖房の効いた教室とは違って、そこは少しだけひんやりしている。消毒液の匂いと、洗濯されたシーツの匂い。放課後の校舎のざわめきが、扉一枚を挟んだだけで遠くなったように感じた。
「失礼します」
すみれが先に声をかける。けれど、返事はなかった。机の上には開きっぱなしの記録簿と、湯気の消えたマグカップ。奥の椅子は空いていて、養護教諭の姿はどこにもない。
「……いないな」
「先生、職員室でしょうか」
「じゃあ帰るか」
「帰りません」
「だって先生いないし」
「どうしてすぐ帰りたがるんですか」
すみれは呆れたように言いながら、保健室の中へ入った。俺も仕方なく後に続く。椅子に座ると、歩いている間は気を紛らわせていたが、座った瞬間に不快感が戻ってくる。ぬるくて、湿っていて、ほんのり甘い匂いがする。
「胡桃先輩」
「なに」
「外側の包帯だけなら、私、替えられると思います」
すみれは真面目な顔で、保健室の棚の方を見ていた。そこにはガーゼや包帯、テープ類がきちんと並べられている。いかにも使ってくださいと言わんばかりの配置だが、だからといって生徒が勝手に使っていいものなのかは微妙である。
「傷口に触るわけじゃなくて、濡れた包帯だけ替えるなら大丈夫だと思います。前に部活で怪我した子の応急処置を手伝ったこともありますし」
「部活で?」
「はい。あと、私も怪我した時にやってもらったことあります。勝手にやるのはよくないので、先輩が嫌ならしません」
「……嫌っていうか」
「はい」
「いやなんか、普通に恥ずかしい」
すみれが一瞬だけ目を丸くする。けれどすぐに、口元を小さく緩めた。
「ふふ。大丈夫です。見慣れてます」
「何を?」
「……怪我人を」
「絶対違う意味だ」
「気のせいです」
すみれは笑いを堪えるようにしてから、棚から新しい包帯と医療用テープを取り出した。ついでに使い捨ての手袋も手に取る。その動作が思ったより手慣れていて、逆にこっちが落ち着かない。
「本当に、外側だけです。痛かったらすぐ言ってください」
「……了解」
「あと、動かさないでくださいね」
すみれは俺の右側に立ち、椅子を少し引き寄せた。
距離が近い。
別に変な意味ではない。包帯を替えるなら近くに来るのは当然だ。当然なのだが、普段の会話の距離より、体が明らかに近い。
「じゃあ、失礼します」
小さく言って、すみれの指が包帯に触れた。濡れた部分を探るように、慎重に。スポーツドリンクを吸った白い布が、ぺたりと肌に張りついている。すみれは眉を少し寄せて、テープの端をゆっくり剥がした。
「痛くないですか?」
「痛くはない……が。めちゃくちゃ気持ち悪い」
「ですよね」
ぴり、とテープが剥がれる音がする。そのたびに右腕の皮膚が少し引っ張られて、変な緊張が走った。すみれの手つきは丁寧で、それが余計に落ち着かない。
「……そういえばさっきから言ってる『先輩の右腕』ってやつ」
「言ってくれたじゃないですか。……パレスで」
怪盗団のワ―ドなのでほんのちょっと声を潜めて言う。
「あの時は発破かけるために言ったもので、こう……ホームズでいうワトソン的な意味合いではなくて」
「分かってます、分かってますよ。でも嬉しかったんですよ。憧れるじゃないですか、相棒とかバディって」
濡れた包帯が少しずつ外れていく。露出した下のガーゼまでは濡れていないらしく、すみれはそこでほっと息をついた。
「よかった。中までは染みてないみたいです。こっちには触らないで、上から巻き直しますね」
「……お願いします」
さっきから頼るのがどうにも居心地悪い。飲み物を支えられるだけでも、妙に情けない気分になる。
「話を続けますけど、先輩って全然人に頼らないじゃないですか」
「全然そんなことないわ。イセカイでの普段の戦闘は任せて、おいしいところだけ掻っ攫ってるし。今までうまくやれたのだって運がよかったのと、ガバガバなミスをカバーしてくれる奴がいてくれたからだし……」
言ってて思う。俺じゃなくて“主人公”だったらもっとうまくやれてたんだろうなと。もっとスマートに、もっとカッコよく、もっとありのままで、もっと……って。
「振り返るとあれだな。だいぶ無茶してるかもな」
「そうです。最初から頼ればよかったんですよ」
「ああ。そうだな……」
「……今日、ナーバスですね。改心されちゃいました?」
「普段の俺がもっとおちゃらけてるみたいやないかい」
「それですそれです」
「……疲れてるだけかも? 肉体的もそうだし、精神的にも……。改心は任せるけど、もうすぐ一段落するって思うと肩の力が抜ける……わけじゃないな。なんだろうな……こう言語化しにくい」
「ふふ、私それなんていうか知ってますよ」
したり顔してすみれは言った。
「『予期ノスタルジア』って言うんです」
「おっと、想定してたより専門的な用語出てきたな」
寂しいやら心配やら、広義的で抽象的な曖昧な言葉が出るかと思った。
「過去に思いを馳せて懐かしく感じてしまうことを『ノスタルジア』と言うんですけど、『予期ノスタルジア』は現在の出来事や経験を対象に、未来に思いを馳せて懐かしく思うこと。と、丸喜先生が教えてくださいました」
「……あの政治家の改心が成功した未来を想像して、今までしてきたことを懐かしんでるってことか?」
「まぁ先生が話してくださったタイミングが、私が大会前の緊張を打ち明けた時だったので、大会前とパレス攻略前だと状況はだいぶ違う気がしますけどね!」
そうあっけらかんと言いながら、すみれは新しい包帯を手にして巻き始める。乾いた布の感触が、思ったより気持ちよかった。さっきまでの湿った不快感が薄れていくだけで、身体の奥に入っていた余計な力が少し抜ける。
「でも過去の郷愁が後悔や反省を引きおこすのに対して、未来の郷愁は『いずれ終わりが訪れる』から、現在やその先を懐かしんでしまうそうです」
「メメント・モリみたいなもんか」
「はいそうです」
「意味分からずに、適当に返事したろ」
「……はい」
「『自分はいつか死ぬことを忘れるな』……。限られた時間を意識して今を必死に生きろって意味」
「おお、まさに私が言いたかったことです」
「これも受け売りだけどな」
「受け売りでも、ちゃんと覚えてるなら十分です」
「そういうもん?」
「そういうものです。いい言葉って、必要な時に思い出せるだけで役に立つので」
すみれはそう言って、包帯を一巻きずつ丁寧に重ねていく。白い布が右腕を覆っていくたびに、さっきまでのべたついた不快感が遠ざかっていく。代わりに、妙なこそばゆさだけが残った。怪我の痛みとは別の、逃げ場のない感覚。
「……でも、先輩がそういうふうに感じるの、少し分かる気がします。私も大会の前とか、思いますから。まだ終わってもいないのに、今の練習とか、この緊張とか、いつか懐かしくなるんだろうなって」
包帯を巻く手は止まらない。
「そう考えると、怖いのに、少しだけ大事にしたくなるんです。今この瞬間のこと。だから、先輩が今、少しナーバスなのは、悪いことじゃないと思います」
「そう?」
「はい。ちゃんと今までを大事に思ってるってことですから」
不意に、返事に詰まった。
そんな綺麗な話にしていいのか、とも思う。俺はただ、終わりが見えてきた途端に足元がふわついているだけだ。今まで積み重ねてきたものが、本当にすべて、余すことなく正しかったのか、分からなくなっているだけだ。
いや、たぶん正しいとか間違ってるとかではない。
──ここまで来てしまった。それだけなのだと思う。
「……俺、そんな立派な感じじゃないけど」
「知ってます」
「おい」
「でも、立派じゃないから頼っていいんですよ」
すみれは最後の一巻きを巻き終えて、医療用テープを切った。
「立派な人しか頼れないなら、誰も誰かを頼れません」
「……」
「私は、頼られたいです。先輩に」
ぴたり、とテープが貼られる。
「好きな人の力になれたら嬉しいんですよ」
「そ」
「──はい、今。好きって言いました」
──言いかけた言葉を、すみれが綺麗に攫っていった。
言ったすみれは、ほんの少しだけ照れたように目元を和らげた。頬にはうっすらと熱が差しているのに、視線は逸らさない。いたずらが成功したみたいな気恥ずかしさと、それでもちゃんと受け止めてほしいという静かなまっすぐさが、その表情には同居していた。
「……好きな人って、あれだろ。人類愛的な」
「いえ、胡桃先輩です」
「範囲狭まったな」
「狭めました」
「じゃあ、仲間として」
「それもあります」
「それも?」
「はい」
すみれは医療用テープの端を指で押さえながら、こちらを見た。まっすぐだった。
……さっきまでは、包帯の話をしてたはずなのにな。
「私は、先輩の力になりたいです」
「……」
「頼られたいです。困った時に、最初じゃなくてもいいので、最後の方でもいいので、思い出してほしいです」
「最後の方でいいんだ」
「本当は最初がいいです」
「欲が出た」
「出ますよ。好きなので」
「追撃……」
口ではそう言ったけれど、声に力は入らなかった。どう返せばいいのか分からない。
ありがとう。では軽すぎる。
嬉しい。では認めすぎる。
困る……………………………………では、嘘になる。
「……変なタイミングで言うなよ」
「変なタイミングでしたか?」
「だいぶ」
「でも、今じゃないと言えない気がしたんです。……居なくなってからじゃ遅いんですよ」
すみれは少しだけ視線を落とした。
「それに先輩、元気な時はすぐ茶化して逃げるじゃないですか」
言い返すと、すみれは小さく笑った。けれど、その笑い方はいつもより少しだけ弱い。明るく振る舞っているのに、指先だけが緊張している。巻き終わった包帯の端を、もう一度無意味に押さえている。
………………ああ、そうだよな。言った側も、平気なわけじゃないよな。
「すみれ」
「はい」
「俺は……前に話したよな、班目を改心した後の鍋パで好きな人がいたって話」
「はい。からっぽと言われて引きずっている、って」
「よく覚えてんな」
けれど、それだけじゃない。
あの人のことを、俺はまだ好きだ。
過去形にできるほど、綺麗に終わっていない。終わらせることもできない。もう会えないとか、もう届かないとか、そういう現実だけが勝手に線を引いて、気持ちの方はその場所に置き去りになったままだ。
「俺さ。たぶん、まだ好きなんだと思う。その人のこと」
すみれの指が、ぴたりと止まった。巻き終えた包帯の端を押さえたまま、彼女は小さく息を呑む。けれど、すぐに何かを言おうとはしなかった。
「だから、誰かと付き合うとか、そういうのは考えないようにしてた。というか、考えちゃいけない気がしてた」
「……」
「誰かを好きになるって、前の気持ちを捨てることみたいでさ。そんな器用なこと、俺にはできないし。できたらできたで、自分が嫌になる気がした」
言葉にすると、ひどく身勝手だった。
声を忘れた人を好きなままでいたいのか。顔も朧げになってきた人を忘れたくないのか。そんな忘れられない自分を、許してほしいだけなのか。
「だから、すみれのことも」
そこで、一度言葉が止まった。すみれがこちらを見る。少しだけ不安そうで、それでも逃げない目だった。
「そういう相手として見るつもりはない」
「……はい」
「後輩で、仲間で、怪盗団の一員で。俺よりずっと真っ直ぐで、頑張り屋で、危なっかしくて。だから助けたいとか、力になりたいとかは思ってた。でも、付き合うとか、そういう方向には行かないようにしてた」
「……してた、んですか」
その言い方に、胸の奥を掴まれる。
「今は?」
小さな声だった。
「……期待させるような言い方したかもしれないけど、付き合う気はない……から。今の俺じゃ、たぶん、無理だから」
無理、という言葉を口に出してから、それが一番正直だと気づいた。
理由を説明しようとしたけど、結局、俺の気持ちは自己愛の延長戦だからとか、いい加減な過去の清算をしてすみれの気持ちに向き合いたくないだとか、そういう言葉はどれも正しいようで、どこか取り繕っている感じがした。
無理、の方がずっと本当だった。
「でも……好きって言われて」
「はい」
「揺れた。それは、あった」
「……」
「でもちゃんと……整理できてないまま、前に進むふりをしたくない」
少しの間、沈黙があった。
すみれは包帯の端を押さえたまま、目を伏せていた。俺は何か言葉を継ごうとして、何も出てこなかった。ここまで話して、これ以上言えることが俺にはない。言い訳でも、慰めでも、否定でもない言葉を探したまま、黙っていた。
「……じゃあ」
すみれが顔を上げた。
「全部終わったら、考えられるってことですね」
返事に詰まった。
「そう……言われたら、そういうとられ方するかもしれないけど」
「合ってますよね」
「合ってるか間違ってるかで言ったら、間違ってはないけど」
「なら合ってます」
断言だった。交渉の余地を与えない顔をしていた。さっきまでの、緊張を隠しながら明るく振る舞っている感じとは少し違う。もっと静かな、芯のある表情だった。
「待ちます」
言い切った。
「先輩が整理できるまで待ちます。急かしません。答えも求めません。今まで通り、後輩として怪盗団の仲間として、先輩の右腕として傍にいます」
一拍おいて。
「でも、覚えていてほしいです。私がそういう気持ちで隣にいるって」
「……待っても、たぶん、何も変わらないぞ」
嘘をつきたくはなかった。でも整理できたら考えるかもしれない、という含みを持ったまま黙っているのは、さっき自分で言ったことと矛盾する。
「俺の気持ちが変わる可能性、正直に言うと、ほぼないと思う」
言葉にするとひどく冷たかった。でも、これが今の俺に言える一番誠実な言葉だった。
「……知ってます」
すみれは表情を変えなかった。
「知った上で、待ちます」
しばらく、何も言えなかった。言い返す言葉がない、というより、もう言い返す気力がなかった。
ただ、このまま「分かった」と引き下がるのは、たぶん一番ずるい。すみれに待つなとは言えない。言う権利もない。でも、それを盾にして、俺がのうのうと宙ぶらりんのままでいるのは違う。待たせる側が何も差し出さないなら、それはただの先送りだ。
それは違う気がした。だって俺は
「すみれ」
「はい」
「待つのは止めない。すみれの勝手だから。……でも、俺も勝手に一個決める」
「?」
「全部終わったら、ちゃんと答えを出す。待たせた分、はぐらかさずに、ちゃんとした言葉で返す。たぶん、すみれの望む答えにはならない。それでも、宙ぶらりんのままにはしない」
言ってから、これは自分への約束でもあるなと思った。
──都合のいい約束かもな、とも思う。今はっきり断らない自分に、誠実さの皮を被せているだけかもしれない。分かっててそれでも、口にしてしまった。
すみれは少しだけ目を見開いて、それからふっと、肩の力を抜くように笑った。
「……それ、待つ意味あるって言ってるのと、ほぼ一緒ですよ」
「言ってない。答えを出すって言っただけだ」
「今この場で言い切ればいいのに、それをしないってことは。先輩の中にも、まだ迷いがあるってことじゃないですか」
「……そうとも限らないだろ」
「ふふ。はい、そういうことにしておきます」
俺も、少しだけ力が抜けた。笑い、とまではいかないけれど、なんとなく息が楽になった。
すみれは使った手袋をゴミ箱に捨てて、棚の道具を元の位置に戻した。
「先生戻ってくる前に出ましょう」
「そうだな」
保健室を出ると、廊下はさっきより静かになっていた。冬の夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。オレンジがかった光が廊下の床に伸びて、俺たちの影を長く引いている。
「荷物、持ちます」
「いい」
「持ちます」
「……はい」
すみれが俺の鞄を肩にかけた。自分の鞄と合わせて二つ。特に気にした様子もなく、さっさと歩き始める。
俺は一歩遅れてその後に続いた。
「……なあ。今日のこと、他の奴らには言うなよ」
「言いませんよ」
「スポドリこぼしたことも含めて」
「……あー」
すみれは少し考えるような間を置いてから、言った。
「スポドリの件はちょっと面白かったので迷います」
「迷うな」
すみれはそう言って、少しだけ笑った。さっきまでの静かな芯のある表情とは違う、いつもの顔だった。
俺も、なんとなく口元が緩んだ。
「……獅童の改心。任せたぞ、『右腕』」
「はい。任されました」
一応言うと、乙守胡桃“が”揺らいでます。