幸せなバッドエンドを目指して   作:ぽんしゅー

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#83 過去は消えない

 

 

「……」

 

 先生のパレスで大の字で寝転がっている。ここは大ホールと呼ばれる場所で、ゲームでは初めて先生と相対した場所だ。誰も居ない空間、その中心でただ天井を眺めている。

 

 ──獅童への予告状はすでに出された。

 

 今、こうやっているのも怪盗団の監視の目がないから来ているだけだ。あわよくば先生にも会いたかった。今後の動きを打ち合わせるのでも、自身の無事を知らせるためでもない。

 

 ──もう俺に『曲解』をかけてほしかった。

 

 迷ってなんていない。今更、目的を果たさないなんてことはしない。それにもう敵対する覚悟もできている。あいつらに何を言われたところで絆されることは決してない。

 

 ……そんな人間が存在していいのか? 

 

 幸せのためにと軽々しく嘘を吐き、騙し、切り抜けたその道は、振り返ってみれば悪道だ。邪道でも正道でも王道でも覇道でもない。薄っぺらい嘘で固められた虚無だ。そしてそれを素晴らしいものとして見てくれる人間がいる。そんな道を歩いてきた自分を好きと言ってくれた人間もいる。

 

 最近、感じていた違和感はそれだった。

 

『こいつらは一体、俺の何を見ている?』

 

 バレないように隠してきたのは当たり前だ。折本みくるではなく乙守胡桃として存在するように心がけてきた。だけど一切俺の悪辣さに気づかず、さも聖人がごとき扱いになっている“俺”は“俺”なのか。

 

 それを一番わからなくさせたのは、すみれだった。

 

 俺を好きだと言った。よりにもよって、俺を。騙して、隠して、都合よく笑って、都合よく優しくして、都合よく正しい言葉を吐いてきただけの人間を。怪盗団の輪の中に紛れ込み、最初から味方ではなかった人間を。いつか敵になると決めていた人間を。

 

 胸を打たれた、とか。嬉しかった、とか。そういう綺麗な話ではない。あれは、俺が積み上げてきた嘘に、形を与えられたようなものだった。

 

 乙守胡桃として笑っていた時間。

 乙守胡桃として差し出した言葉。

 乙守胡桃として誰かの隣にいた瞬間。

 

 全部、俺にとっては偽装だったはずなのに。すみれは、その偽装の中に何かを見つけてしまった。あるいは本当にそこに何かがあったのかもしれない。

 

「……馬鹿みたいだな」

 

 天井に向けて呟いた声は、乾いていた。

 

 すみれに好きだと言われた瞬間、俺はたぶん、何かを間違えた。動揺したわけじゃない。揺らいだわけでもない。目的を見失ったわけでもない。

 

 ただ、理解してしまった。

 

 俺がどれだけ自分を敵だと決めていても、あいつらの中にはもう、俺という人間の形がある。

 俺が作った偽物の形が。

 俺自身よりも、よほど綺麗で、都合がよくて、誰かに好かれるに足る形が。

 

 それを今さら否定したところで、なかったことにはならない。だったら、先生に曲げてほしかった。

 

 俺の認知を。俺の迷いを。俺の中に残った、余計な手触りを。

 

 すみれに告白されたことすら、ただの誤認だと笑えるように。あの子が好きになった乙守胡桃は、折本みくるとは別物なのだと切り捨てられるように。俺は最初から最後まで敵で、そこに混じった感情など一つもなかったのだと、綺麗に決めつけられるように。心の向きとか、認知とか、そういう曖昧なものを都合よく折り曲げて、「これでよかった」と思わせてほしかった。

 

「……」

 

 静寂が重い。ホールの広さが、今は厄介だった。声が届かない。誰も来ない。

 

 先生は来ない。

 

 当たり前だ。予告状を叩きつけた側が、のこのことこのパレスに忍び込んで寝転がっているなど、知る由もない。

 

「ここにいらしてたのですね」

 

 それでも来たのは白衣さんだった。カツン、カツンと近づき、顔のない貌で寝転がっている俺の顔を見下ろす。

 

「……モラトリウムに浸ってました」

「健全ですね」

 

 上体を起こして、人と話せる思考に切り替えるように頭を振る。

 

「先生に会いに来たんですが、いなくて」

「主は最近訪れていません。ご友人と論文を詰めているようで」

「論文」

 

 思ったより普通の言葉が返ってきて、少し拍子抜けした。先生にも、先生の外の生活がある。当然だ。パレスの主だからといって、四六時中ここにいるわけではない。

 

「そうですか」

「気落ちしましたか」

「……別に」

 

 立ち上がって、服についた埃を払う。払っても何もついていない。ここは先生の認知の中だ。汚れるものなど、何もない。白衣さんはまだそこにいた。俺が帰るのを待っているのか、それとも何か用があるのか、顔がないからわからない。

 

「乙守胡桃さん」

 

 名前を呼ばれた。反射的に身構えたが、白衣さんは特に何かするわけでもなく、ただそこに立っていた。

 

「あなたは今、何かを決めようとしていますか」

「道はもう決めてあります」

「そうではなく」

 

 白衣さんは一歩、こちらへ近づいた。

 

「諦めようとしていますか」

 

 答えられなかった。

 否定するだけなら簡単だった。違う、と言えばいい。俺は諦めてなんかいない、目的に向かって動いている、それだけだと言えばいい。実際そうだ。間違ってはいない。

 なのに言葉が出なかった。

 

「……白衣さんは」

 

 代わりに、別のことを聞いた。

 

「先生の認知から生まれたんですよね」

「そうです」

「じゃあ先生が、誰かを諦めた経験があるから、あなたはその質問ができるんですか」

 

 少しの間があった。

 

「どうでしょう」

 

 はぐらかすような、でも嘘でもないような声だった。

 

「主の認知がどこから来るのか、私にも全てはわかりません。ただ」

 

 白衣さんは空を見上げた。顔のない顔が、ホールの天井に向く。

 

「あなたが今日ここに来たのは、何かを確認するためだったのではないですか」

「何を」

「まだ、迷えるかどうか」

「迷ってなんて」

「いない、とでも言うつもりでしたか」

 

 言葉が止まる。白衣さんはそれ以上追わなかった。ただ一歩引いて、来た方向へ向き直る。

 

「主に伝言があればお預かりします」

「……いえ」

 

 俺は首を振った。

 

「伝えることは、今はないので」

「そうですか。お大事に」

 

 それだけ言って、出口へ歩き出す。背後で白衣さんの気配が遠ざかる。カツン、という足音はしない。最初からいなかったみたいに、静かに消えた。

 ホールを出る直前、一度だけ振り返った。

 誰もいない。広くて、静かで、何もない空間だけが残っている。

 

 

 

 


 

 

 

 ──時を同じくして、シドウパレス。

 

 

 

「フン。使えん愚民どもが」

 

 獅童は、吐き捨てるように言った。

 

 その言葉が向けられたのは、怪盗団ではない。たった今、彼らに打ち倒された人柱たちだった。

 

 獅童の背後から現れた無数の人影は、まず黄金の獣となって怪盗団へ襲いかかった。磨き上げられた像のような金色の巨体は、獅童が踏みつけ、積み上げ、自らの権威を支える台座に変えてきた民衆の成れの果てだった。床を砕く前脚も、広間を震わせる咆哮も、怪盗団は真正面から受け止め、切り崩した。

 

 崩れた人柱は、次に翼を広げた。黄金の羽根を広げて宙へ浮かぶその姿は、地を這う者たちを見下ろす獅童の傲慢そのものだった。暴風と魔力が広間を荒らし、きらびやかな装飾が砕け散る。だが、それも怪盗団の連携の前に墜ちた。金色の翼は裂かれ、羽根の破片は火花のように床へ散った。

 

 最後に残った人柱は、巨大な墓へと姿を変えた。もはや生き物ですらない、犠牲者たちを積み固めた黄金の棺。獅童という男の権威を祀るためだけに築かれた、醜くも荘厳な記念碑だった。内部に溜め込まれた禍々しい光が広間を呑み込もうとしたが、怪盗団はそれすら耐え抜き、亀裂を穿ち、打ち砕いた。

 

 獣を倒し、翼を墜とし、墓を砕いた。

 

 獅童を守る盾は、もう残っていない。

 

 豪奢な広間に立っているのは、怪盗団と、獅童正義ただひとりだった。

 

「ケッ、負けた時だけ愚民のせいってか」

「ふん。こいつらを束ねているのが貴様か……」

 

 獅童の視線が、ジョーカーへ向けられる。

 

「感動の再会ね?」

 

 杏が皮肉を込めて笑う。だが、その声には軽さだけではない。目の前の男がジョーカーに何をしたのか、彼女たちは知っている。

 

「敵を潰すときは、今度からもっと確実を期すんだな」

「まぁ、お前に今度はねーけどな!」

 

 獅童の目が細まった。

 

「ん……? 貴様。怪盗団というだけではないな?」

 

 記憶の奥底を探るように、獅童はジョーカーを見据える。

 

「……久しぶりだな」

 

 ジョーカーが仮面を外す。

 

 仮面の奥から向けられた視線は、静かだった。

 怒りに任せて叫ぶでもなく、恨み言を並べるでもない。

 

 ただ、ここまで来た。

 

「女といたところに現れて、逆らいやがったクソガキ……!」

 

 獅童の口元が歪む。ようやく思い出した、という顔だった。しかしそこに浮かんだのは、罪悪感ではない。

 自分が踏み潰したはずの虫が、なぜまだ生きているのかという、不快げな驚きだった。

 

「くく……これは面白い巡り合わせだ。まさかあのときのガキがな……」

 

 獅童は喉の奥で笑い、それから一転して声を低くした。

 

「だが無駄な努力だったな。強く有能な人間が活躍するには小さな犠牲は仕方ない。道の蟻を何匹踏んだかいちいち数えていては目的地にたどり着けるか?」

「貴方が殺した人は、死んで当然だったと言いたいの!?」

「完全に狂ってる……!」

 

 怒りと嫌悪が、怪盗団の間に走った。

 

「愚民が理解できるとは思っていない。──ゆえに、力で証明してみせるとしよう……」

 

 獅童が衣服を勢いよく脱ぎ捨てる。

 

 現れたのは、年齢を感じさせぬほど鍛え上げられた肉体。裸の上半身には、黒い拘束具めいた装具が巻きつき、鋼の管のようなものが胸元から肩、腕へと絡んでいる。

 

「貴様ら怪盗団を叩き潰すことでなっ……!」

「来るぞ!」

 

 次の瞬間、獅童の巨体が床を蹴る。

 

 重いはずの身体が、信じられない速度で間合いを詰めた。振り下ろされた拳が、ジョーカーの立っていた床を叩き割る。直撃は避けた。だが衝撃だけで赤い絨毯が波打ち、砕けた床材が散弾のように跳ね上がる。

 

「うおっ、なんつう馬鹿力だよ!」

 

 竜司が舌打ちしながら踏みとどまる。

 

 獅童は止まらない。拳を振るい、腕を薙ぎ払い、床を踏み砕く。ただの殴打ではなかった。人を従わせるための暴力。逆らう者を黙らせるための力。綺麗な言葉で覆い隠してきた獅童正義という男の政治が、そのまま肉体を得て襲いかかってきている。

 

「その程度か」

 

 嘲りと共に、獅童の拳が再び迫る。

 

 今度は竜司が割り込んだ。雷が獅童の足元を走り、巨体の動きを一瞬だけ鈍らせる。そこへ杏の炎が重なり、赤い緞帳ごと広間を焼くように燃え上がった。

 

「燃え尽きなさいよ、この独裁者!」

 

 炎の奥から、祐介が滑り込む。

 

 低く構えた刃が、獅童の腕を斬りつける。鋼の管が火花を散らし、筋肉の表面に浅い傷が走った。だが獅童は痛みなど感じていないかのように、逆の腕を振り払う。

 

 祐介が後方へ跳ぶその隙を、春の銃撃が埋める。乾いた銃声が連なり、獅童の肩口で火花が弾ける。さらに真が踏み込み、拳を叩き込む。

 

「小賢しい!」

 

 獅童が吠えると、全身から、赤黒い圧が噴き上がる。

 

 次の一撃は、ただの拳ではなかった。

 

 獅童が腕を振り下ろした瞬間、衝撃が広間全体を薙いだ。見えない刃のような圧が怪盗団を襲い、全員の体勢が崩れる。

 

「くっ……!」

「立て直せ! まだ来る!」

 

 獅童は笑っていた。怪盗団が傷つき、息を乱し、それでも立ち上がる姿を見ても、その目に焦りはない。むしろ、抵抗そのものを愚かなものとして楽しんでいるようだった。

 

「貴様らは何も分かっていない。人の上に立つ者には、選ぶ権利がある。誰を残し、誰を捨てるか。その決断を下せぬ者に、この国を背負う資格などない」

「違う」

 

 ジョーカーが短く言った。

 

「人を捨てることを、決断とは言わない」

 

 怪盗団の視線が、ジョーカーの背中に集まる。

 

 あの日、獅童に踏み潰された少年は、もうひとりではない。

 奪われた日常も、押しつけられた罪も、東京で得た仲間も、すべてを背負ってここに立っている。

 

 獅童の目が細まる。

 

「ならば、その甘さごと砕いてやる」

 

 獅童が両腕を引いた。

 

 全身の筋肉が隆起する。鋼の管が不気味に軋み、赤黒い気配が拳へ集まっていく。

 

「ジョーカー!」

 

 仲間たちの声が重なる。

 

 ジョーカーは退かなかった。仮面に手をかける。

 

「ベルゼブブ!!」

 

 獅童の拳が放たれる。真正面から迫る暴力に対し、ジョーカーは一歩踏み込んだ。獅童の拳が届く、その寸前。黒いコートが翻り、ペルソナの力が爆ぜる。

 

 衝撃と衝撃がぶつかった。

 

 赤い緞帳が吹き荒れ、天井の照明が大きく揺れる。金色の破片が宙を舞い、その中で獅童の巨体が初めて大きく後退した。

 

「なにぃ……?!」

 

 獅童の顔から、余裕が消える。その隙を、怪盗団は逃さなかった。

 

「──総攻撃だ! みんな!!」

 

 獅童の膝が、わずかに沈んだが、完全に膝をつく前に立て直し、今にも襲い掛からんとする怪盗団に対し拳を構える。

 

「俺が……この俺が、貴様らごときに……!」

 

 だが、獅童の視線はもう怪盗団全員を見てはいなかった。その黄金の眼が、ただひとりを射抜く。

 

 黒いコート。白い仮面。あの夜、自分に逆らった少年。

 

 獅童の口元が、憎悪に歪んだ。

 

「小僧……貴様だけは……!」

 

 その声には、先ほどまでの余裕も嘲りもなかった。

 

 怪盗団に追い詰められた怒りではない。自分が踏み潰したはずの相手が、なお立ち上がり、自分の前に戻ってきたことへの、剥き出しの苛立ちだった。

 

「この俺の前から、完全に消しておくべきだった!」

 

 獅童が拳を振り上げる。怪盗団へと向けるはずのその拳が床へ叩きつけられた。

 

 轟音。

 

 広間の床が爆ぜた。赤い絨毯が裂け、金の装飾が吹き飛び、蜘蛛の巣状の亀裂が一気に走る。衝撃波が円を描いて広がり、怪盗団の足元を襲った。

 

「うおっ!?」

 

 見えない壁に殴りつけられたように、怪盗団の仲間たちが次々と吹き飛ばされる。

 

 ただひとり。

 

 ジョーカーだけが、その場に残っていた。

 

 衝撃の中心に立ちながら、黒いコートを激しくはためかせ、片膝をわずかに沈めて耐えている。仮面の奥の視線は、獅童から逸れない。

 

 仲間たちとの間に、目に見えない圧の壁が生まれている。床そのものを割り、広間の構造を歪ませ、怪盗団とジョーカーの間に深い亀裂と衝撃波を生み出している。

 

 残されたのは、暴君と、少年。ただそれだけだった。

 

 獅童が、ゆっくりと身を起こす。

 

 鍛え上げられた肉体には怪盗団の刻んだ傷が走り、鋼の管からは火花が漏れている。それでも、その背筋は折れていない。むしろ、追い詰められたことそのものが信じがたいとでもいうように、獅童は自らの拳を見下ろし、そして低く笑った。

 

「──想定外だったというわけか……!」

 

 喉の奥から絞り出された声には、苦々しさと驚きが入り混じっていた。

 

「こうなる前に、徹底的に叩き潰しておくべきだったな。この俺ともあろう者が……まだ甘いということか……!」

 

 獅童が両手を広げる。引き裂かれた広間を、傾いていく船そのものを、なお我が物だと示すかのような仕草だった。割れた天井から差し込む光が、汗に濡れた巨体を縁取る。

 

「だがな、小僧」

 

 声が、底冷えするほど低くなった。

 

「この国の舵は、もうすでにこの手の中にある。今更、お前のような路傍の小石ごときに躓くわけにはいかんのだ」

 

 拳が握り込まれる。赤黒い気配が、再び全身へ満ちていく。いや、満ちるなどというものではなかった。膨れ上がった力は、もはや獅童の肉体にすら収まりきらない。胸元から肩、腕へと這う鋼の管が悲鳴のように軋み、限界まで張り詰めていく。

 

 次の瞬間、それが弾けた。

 

 獅童を縛めていた鋼の管が、内側から噴き上がる力に耐えきれず砕け散る。引きちぎられた金属片が火花を散らしながら宙を舞い、割れた床へ降り注いだ。むき出しになった肉体から、抑えるもののなくなった赤黒い圧が陽炎のように立ちのぼる。

 

「叩き潰してくれる……!」

 

 獅童が床を蹴った。先ほどまでとは違う。

 

 速さも、重さも、圧も。すべてが一段跳ね上がっていた。拘束具めいた鋼の管を引きちぎったことで、抑え込まれていた力がそのまま解き放たれたのだろう。踏み込むたびに床が沈み、拳を引くだけで空気が軋む。

 

 ジョーカーは真正面から受けなかった。赤い絨毯を蹴り、砕けた床材を足場にして、獅童の懐へ潜り込む。

 

 短剣が閃いた。

 

 獅童の腹部を狙った一撃は、しかし分厚い筋肉に阻まれる。浅く裂けた傷口から赤黒い靄が漏れた。痛みはあるはずだった。だが獅童は怯まない。むしろ、その痛みすら怒りの燃料に変えたように、ジョーカーを見下ろす。

 

「軽いわ!」

 

 丸太のような腕が振るわれる。

 

 ジョーカーは短剣を引き戻し、後ろへ跳んだ。だが、避けきれない。拳そのものは空を切った。それでも、拳圧だけで身体が弾かれる。

 

 背中が床を擦った。肺から息が抜ける。すぐに起き上がる。獅童はもう目の前にいた。

 

「小僧!」

 

 踏みつけるような蹴りが来る。

 

「ジャアクフロスト!!」

 

 ジョーカーは転がるように避け、仮面に手をかけた。ペルソナが現れ、獅童へ向かって力を放つ。暴君の巨体を撃ち抜き、獅童の足を一瞬止める。

 

 その一瞬で十分だった。

 

 ジョーカーは立ち上がり、獅童の背後へ回り込む。黒いコートが翻り、刃が獅童の肩口へ走る。鋼を失った肉体に今度こそ深く食い込む。

 

「ぐ……っ!」

 

 獅童の顔が歪んだ。

 

 だが、膝はつかない。振り返りざまの裏拳が、ジョーカーの脇腹を捉えた。

 

「が……っ!」

 

 衝撃が身体の芯まで響く。

 

 ジョーカーの足が床から浮いた。壁際まで吹き飛ばされ、砕けた装飾の残骸に背中を打ちつける。視界が揺れる。赤い緞帳も、金の光も、獅童の影も、すべてが一瞬だけ滲んだ。

 

「ジョーカー!」

 

 遠くで仲間たちの声がした。それでも、この場に踏み込める者はいない。

 

 獅童がゆっくりと歩いてくる。

 

「どうした。仲間がいなければ、その程度か?」

 

 ジョーカーは膝をつきながらも、獅童を睨み返した。獅童の顔に、苛立ちが走る。

 

「その目だ」

 

 獅童が低く言う。

 

「力もない。後ろ盾もない。何も持たぬくせに、自分だけは屈しないとでも言いたげな目だ」

 

 巨大な手が、ジョーカーの襟元を掴んだ。

 

 身体が持ち上げられる。足が床から離れた。首元が締まり、呼吸が浅くなる。ジョーカーは獅童の腕を掴み、逃れようとする。だが、力が違いすぎる。

 

「不愉快だ。貴様のような小僧が立ち上がるだけで、俺の道が否定されたように見える。俺が築いたもの、俺が踏み越えてきたもの、そのすべてが間違いだったとでも言うようにな」

 

 獅童の握力が増す。

 

「だが違う。間違っているのは貴様だ。踏まれた蟻が、踏んだ人間を裁こうなどと考えること自体が間違っている」

 

 ジョーカーの身体が床へ叩きつけられる。

 

 衝撃で息が止まる。

 

「終わりだ」

 

 獅童はその上から拳を振り上げた。赤黒い圧が拳へ集まっていく。床に散った金の破片が震え、空気が重く沈む。

 

 次の一撃は、耐えられない。

 

「あばよクソガキ────ぐッ!?」

 

 振り下ろされるはずだった拳が、不自然に止まった。

 

 ジョーカーの眼前、獅童の拳と床の間に、黒い影が落ちてきていた。

 

 上からだった。

 

 赤い緞帳のさらに上、金色の柱と吹き抜けの装飾が入り組む天井近くから、何かが飛び降りてきたのだ。

 

 それは人の形をしていなかった。

 悪意をそのまま骨格にしたような、歪な巨影。巨大な剣で獅童の拳を受け止めている。

 

 ロキ。

 

 明智吾郎のペルソナだった。

 

 獅童の拳に集まっていた赤黒い圧が、ロキの剣にぶつかり、火花のように弾け散る。力と力が噛み合い、床に亀裂が走った。だが拳は、それ以上ジョーカーへ届かない。

 

「なに……!?」

 

 獅童が目を剥く。

 

 ロキの影が、獅童の拳を横へ弾いた。

 

 暴発した圧がジョーカーのすぐ脇の床を抉り、破片が頬を掠める。轟音が遅れて広間を揺らした。

 

 その直後、もうひとつの影が頭上から落ちてくる。

 

 黒いコートの裾が、赤い緞帳の前で翻った。黒い手袋に包まれた手が短く振られ、着地の瞬間、靴底が割れた床を叩いた。

 

 明智吾郎だった。背後ではロキがゆらりと身を起こし、主の怒りを映すように赤黒い気配を滲ませている。

 

「やれやれ。ずいぶん好き勝手にやっているじゃないか」

 

 軽い声だった。だが、その目は笑っていない。

 

 獅童の表情が、明確に変わった。怒りでも驚愕でもない。その奥に、認めたくないものを見たような、わずかな動揺が混じる。

 

「貴様……なぜここにいる」

「なぜ?」

 

 明智は小さく笑った。

 

「ずいぶんな言い草だ。僕を便利に使っていた時は、呼べば来る道具だと思っていたくせに。僕が自分の意思で来ると、それがそんなに不思議かい?」

 

 彼は、ジョーカーと獅童の間に立っていた。

 

 守るように。

 遮るように。

 

 だが本人は、そんなつもりなど欠片もないという顔で、獅童だけを見据えている。

 

「……明智」

「無様だな、ジョーカー」

 

 明智は振り返らずに言った。

 

「君がこんなところで潰されるなんて、冗談にもならない。見ていて不愉快だ」

 

 皮肉だった。いつものように棘のある言い方だった。

 

 ジョーカーは、ゆっくりと身体を起こした。

 

 獅童は明智を睨みつける。

 

「明智……貴様まで、俺に逆らうか」

「逆らう?」

 

 明智の口元が吊り上がる。それは探偵王子の笑みではなかった。世間に向けて貼りつけた爽やかな仮面でもない。もっと冷たく、もっと黒い、本性に近い笑みだった。

 

「違うな。俺は最初から、お前に従ったことなんて一度もない」

 

 ロキが、明智の背後で低く嗤う。その笑い声は、ペルソナのものなのか、明智自身の感情なのか分からない。ただ、その場に満ちていた獅童の圧を、確かに押し返していた。

 

「俺が欲しかったのは、お前の破滅だ」

 

 明智の声が低くなる。

 

「頂点へ上り詰め、自分こそが選ばれた人間だと信じ切ったその瞬間に、全部を奪い返す。そのためだけに、ここまで来た」

 

 獅童の顔が歪む。

 

「貴様……!」

「残念だったね。捨てたはずの過去にも、足はある。踏み潰したつもりのものは、案外しぶとく戻ってくる」

 

 ちらりと、明智の視線がジョーカーへ向いた。

 

「君もそうだろう?」

 

 ジョーカーは答えなかった。代わりに立ち上がった。片膝をつき、短剣を支えにして、乱れた呼吸を整える。仮面に指をかける力は、まだ残っている。

 

 明智はそれを見て、満足げに鼻で笑った。

 

「そうでなくちゃ困る。君がこの男に殺されるなんて、僕は認めない」

「助けに来たのか」

「勘違いするな。あの時、水を差されたんだ。その借りを返しにきただけだ」

 

 獅童が歯を剥いた。

 

「どいつもこいつも……俺の前に立ち塞がるか……!」

 

 踏み潰された少年。

 捨てられた少年。

 そして、そのすべてを踏み台にして頂点へ進もうとした男。

 

 沈みゆく豪華客船の最奥で、獅童正義の過去そのものが、二人の反逆者となって立ちはだかっていた。

 

「二人になった程度で、何が変わる!」

 

 床を蹴る。

 

 狙いは明智だった。獅童の拳が、明智の顔面へ迫る。

 

「遅い」

 

 明智は身を傾け、紙一重で躱した。

 

 頬を拳圧が掠め、髪が激しく揺れる。避けながら身体を沈め、そのまま獅童の懐へ潜り込む。黒い刃が閃き、脇腹を浅く切り裂いた。

 

「ぐっ……!」

 

 獅童が反射的に腕を振るう。

 

 明智は後ろへ退かない。

 

「ジョーカー!」

 

 呼びかけに応じるより早く、ジョーカーは動いていた。

 

 明智へ向けて振るわれた腕の下を滑り込み、獅童の正面へ出る。短剣を逆手に持ち替え、踏み込んだ勢いのまま胸元へ突き立てた。

 

 刃は深く入らない、それでも獅童の意識がジョーカーへ移る。

 

「貴様ァ!」

 

 拳が振り下ろされる。

 

 ジョーカーは刃を引き抜き、横へ跳んだ。獅童の拳が床を砕く。巻き上がった破片の向こうから、黒い影が獅童の背後へ迫った。

 

「ロキ!」

 

 異形の剣が、獅童の背中を薙いだ。

 

「があっ……!」

 

 赤黒い靄が傷口から噴き出す。

 

 獅童は膝をつきかけ、片手を床へ突いた。だが、そのまま腕力だけで身体を跳ね上げる。振り返りざまに繰り出された蹴りが、ロキの胴体を捉えた。

 

 巨影が大きく揺らぐ。

 

 同時に、明智の身体も後方へ弾かれた。

 

「ちっ……!」

 

 床を滑りながらも倒れず、片膝をついて勢いを殺す。

 

 獅童はそこへ追撃しようと踏み込んだ。

 

 その眼前へ、黒い巨影が舞い降りた。

 

「セト!」

 

 翼を広げた黒竜が、獅童へ灼熱の奔流を吐きつける。至近距離から炎を浴びた獅童の巨体が揺らぎ、踏み出しかけた足が一瞬止まった。

 

「こんなもの……!」

 

 獅童が炎を振り払うように腕を薙ぐ。赤黒い圧が爆ぜ、黒竜の吐息が吹き散らされた。

 

 だが、その一瞬にジョーカーは明智のそばまで下がっていた。

 

「俺は……負けん!」

 

 獅童が咆哮する。

 

「この国を背負う俺が! 貴様らのような、何も持たぬ小僧どもに負けるはずがない!」

「本当に、救いようがないな」

 

 明智が呟いた。隣に立つジョーカーが、銃を抜く。

 

「終わらせるぞ」

「僕に指図するな」

 

 そう言いながら、明智は刃を構えた。二人の視線が、ほんの一瞬だけ交わる。打ち合わせなど必要なかった。次に相手が何をするのか。どこへ動き、何を狙い、どの瞬間に仕掛けるのか。嫌というほど分かっている。

 

 

 ──そして、ジョーカーの懐の『ホシ』が強く輝く。

 

 

 二人の足元で、赤と黒の光が弾けた。音が遠のく。沈みゆく豪華客船の広間が、一瞬にして塗り潰された。

 

 代わりに現れたのは、夜の街を見下ろすビルの屋上だった。世界から色が失われていて、空も、立ち並ぶ高層ビルも、四角く区切られた屋上の床も、すべてが白と黒の濃淡だけで描かれていた。背後に連なる無数の窓は、暗い街並みに穿たれた穴のように白く明滅している。

 

「なんだ、これは……!」

 

 周囲を見回す獅童の頭上から鋭い金属音が響いた。

 

 獅童が顔を上げる。屋上の一角に突き立った鉤爪から、ワイヤーに身体を預け、雨の中を大きく旋回しているジョーカーがいた。黒いコートが翼のように広がり、眼下に並ぶ換気口や天窓を一息に飛び越えていく。

 

「小僧……!」

 

 獅童が身構えた時には、もう遅い。

 

 ジョーカーがワイヤーを切り離す。

 

 勢いを残したまま高く舞い上がり、空中で身体を反転させた。白黒の街明かりを背負い、雨粒を引き連れながら、獅童の真上から落下し、狙い澄ましたナイフを振り下ろした。

 

 刃が獅童の肩口から胸元へ、縦一文字に走る。

 

「ぐおっ……!」

 

 鮮烈な赤い軌跡が、無彩色の夜を切り裂いた。

 

 傷口から赤黒い靄が噴き上がり、獅童の巨体が前へよろめく。ジョーカーはその正面へ着地し、片膝を沈めて衝撃を殺した。

 

 だが、追撃はしない。黒いコートを翻し、獅童の脇をすり抜けるように横へ跳ぶ。まるで、これからそこを通る何かのために道を譲るかのように。

 

 獅童の前方が、がら空きになる。

 

 その向こうに、明智が立っていた。異形の仮面の奥で、赤い眼光が獣のように燃えている。片手に握られた鋸刃もまた、鮮血を塗り固めたような赤い輝きを帯びていた。

 

 明智の身体から、赤黒い靄が噴き上がる。仮面の下から、押し殺しきれない笑い声が漏れる。

 

「は、ははっ……!」

 

 明智が床を蹴って、水溜まりが爆ぜる。蓮が切り開いた一直線の進路を、明智が赤い残光となって駆け抜ける。

 

「遅いんだよ!」

 

 最初の斬撃が、獅童の脇腹を抉った。

 

「ぐっ……!」

 

 獅童が反撃しようと拳を振るう。

 

 だが、明智はもうそこにいない。

 

 二撃目が背中を裂く。

 

 三撃目は腕。

 

 続けて肩、胸、太腿。

 

 明智の姿が獅童の周囲を縦横に駆け巡るたび、赤い斬撃の軌跡が無彩色の屋上へ刻まれていく。弾かれた雨粒が細かな飛沫となり、刃の赤を映しながら宙へ散った。

 

「はははははっ!」

 

 笑い声が、雨音を切り裂く。

 

「どうした! 自分は何でもできるんじゃなかったのか!」

 

 一閃。

 

「俺に人を殺させ!」

 

 二閃。

 

「その死を利用し!」

 

 三閃。

 

「最後に消せば、すべて終わると思ったか!」

 

 明智の刃が獅童の胸元を深く斬り上げる。

 

「ぐおおおおっ!」

 

 明智が最後の一撃を叩き込む。

 

「──思い上がるなァ!」

 

 赤い刃が、獅童を正面から斬り抜けた。獅童の身体が後方へ弾かれる。

 

 その先に、蓮がいる。

 

「これで終わりだ」

 

 放たれた弾丸が、獅童の胸を撃ち抜く。

 

 獅童の目が大きく見開かれる。胸元に穿たれた一点から、赤い亀裂が全身へ走った。明智が刻んだ傷を伝い、無数のひびが筋肉を、腕を、顔を、巨体の隅々まで覆っていく。

 

「この……俺が……」

 

 亀裂から、赤黒い光が噴き上がる。

 

 次の瞬間、獅童の肉体が内側から弾け、それと同時に世界が砕けた。色と音が、豪華客船の広間へ戻る。

 

 蓮は銃を構えた姿勢のまま立っていた。その少し前では、明智が鋸刃を振り抜いている。

 

「……ぐ……うぅ……!」

 

 獅童が苦しげに背を丸める。

 

 異様なほど膨れ上がっていた筋肉は、すでに見る影もなく。いつもの背広を身につけた、獅童正義だった。国を率いる指導者として民衆の前に立つ、あの姿。

 

 だが、そこに以前の威厳はない。

 

 スーツは汚れ、襟元は乱れ、肩は大きく上下している。鍛え上げられた肉体という虚飾を失えば、残ったのは傷つき、息を切らし、床に膝をつく一人の男だけだった。

 

「なぜだ……」 

 

 怪盗団を隔てていた圧の壁が砕けた。真たちが、割れた床を越えて駆け寄ってくる。

 

「あなたが多くの人を廃人化させた罪は、決して消えないわ」

 

 真が獅童の前へ出る。

 

「死んで逃げることも許さない。生きて、自分がしたことのすべてを償ってもらう」

「償う……?」

 

 獅童が掠れた声を漏らす。

 

 その言葉の意味すら、すぐには理解できないようだった。自分が裁かれる側に立つ。誰かから責任を問われる。その発想自体が、この男の中には存在しなかったのだろう。

 

 竜司が不快そうに眉を寄せた。

 

「その前に、うちのリーダーに言うことがあんだろ」

 

 獅童の肩が、わずかに揺れた。ゆっくりと顔を上げれば視線の先には蓮がいた。

 

 黒いコートをまとい、仲間たちの先頭に立っている。かつて夜の路地で見下ろし、取るに足らない少年として罪を押しつけた相手が、今は自分を見下ろしていた。

 

「ああ……」

 

 獅童は掠れた声を漏らした。

 

「認めよう。あの事件で、お前に罪を着せた」

 

 蓮は何も言わない。

 

「保身のため、すべてをなすりつけたんだ。……済まなかったな。フフ……」

 

 獅童の喉から、弱々しい笑いが漏れた。

 

「誰かに済まないという気持ちを抱いたのは……ずいぶんと久しいかもしれんな」

 

 それが改心の兆しなのか。

 

 それとも、敗北によって生まれた一時の感傷なのか。

 

 獅童自身も、それで許されると思っているわけではないのだろう。謝るという行為を知らない男が、敗北した今、それらしい言葉を選んだだけだった。

 

「フッ……」

 

 隣から小さな笑い声が漏れた。明智だった。だが、笑っている顔には、楽しさなど欠片もない。

 

「便利な言葉だな」

 

 獅童の目が明智へ向く。

 

「何……?」

「済まなかった、と言えばいい」

 

 明智はゆっくりと鋸刃を持ち上げ、その切っ先を獅童へ向けた。

 

「勝っている間は、他人の人生なんて考える必要もない。追い詰められて、逃げ道がなくなってから頭を下げれば、反省した人間の顔ができる」

 

 声は静かだった。怒鳴りつけるよりも、よほど深い憎悪が滲んでいた。

 

「実にお前らしいよ。最後まで、自分がどう見えるかしか考えていない」

「明智……」

 

 獅童の表情に、わずかな険しさが戻る。

 

「貴様は、私のために働くことで今の地位を得た。その恩を忘れたか」

「恩?」

 

 明智の口元が歪んだ。

 

「人を殺させて、その成果だけを自分のものにして、用が済めば始末する。それを恩と呼ぶのか?」

「お前には力を使う場所を与えてやった」

「違うな」

 

 明智の声が、一段低くなる。

 

「お前は僕の力が欲しかっただけだ」

 

 一歩、獅童へ近づく。靴底が、割れた床材を踏み砕いた。

 

「僕が何を考えているかも、なぜお前に従っているのかも、知ろうとはしなかった。使えている間は便利な駒。壊れれば捨てる。それだけだ」

 

 獅童は明智を睨み上げる。

 

「……それでも、お前には私の血が流れている」

 

 空気が止まった。怪盗団の誰も、すぐには言葉を発せなかった。

 

「私の息子ならば、理解できるはずだ。人の上に立つ者が、時には何かを切り捨てねばならんことを」

 

 明智の表情が消えた。鋸刃を握る指に、わずかに力が入る。

 

「今さら」

 

 明智の唇から、掠れた声が漏れる。

 

「今さら、息子だと?」

 

 顔を伏せたまま、明智は笑った。

 

「は……ははっ……」

 

 乾いた笑いだった。

 

「本当に、救いようがないな」

 

 顔を上げる。

 

 仮面の奥の目には、激しい憎悪が宿っていた。

 

 しかし、それ以上に深い失望があった。

 

「一度だって見なかったくせに」

 

 獅童の眉が動く。

 

「母親を捨てた。どうやって生きてきたかも知らない。お前の目の前に立ってからも、俺が誰なのか知ろうとはしなかった」

 

 明智の切っ先が、獅童の喉元へ向けられる。

 

「それが、利用できなくなった途端に息子扱いか」

「……以前から、気づいてはいた」

「それなら、なおさらだ」

 

 即座に返された声は、氷のように冷たかった。鋸刃が、わずかに持ち上がる。明智がその気になれば、床に伏した獅童の命を奪うことなど難しくない。

 

「明智」

 

 蓮が名前を呼んだ。明智の手が止まる。数秒の沈黙。やがて、明智は鼻で笑った。

 

「心配しなくても、殺しはしないさ。今ここで死なれたら、こいつは最後まで悲劇の政治家でいられる」

 

 鋸刃を下ろす。

 

「死んで逃げるな、獅童。お前が欲しがった頂点から、すべてを失うところを見ろ」

 

 一歩、獅童から離れる。

 

「お前を称えていた連中が手のひらを返す。お前の名前が軽蔑と共に語られる。隠してきた罪が、一つ残らず世間へ晒される」

 

 明智が本当に望んでいた復讐。獅童を殺すことではない。この男が自分の力で築き上げたと信じているすべてを、最も高い場所から奪い去ること。

 

「謝罪なんて要らない。僕はお前を許さない。これから先も、永遠に」

 

 蓮が一歩前へ出る。

 

 獅童の視線が、再び蓮へ向けられた。明智の復讐と、蓮の決着は同じではない。

 

 明智が求めたのは、自分を捨てた男の破滅だった。

 蓮が求めているのは、獅童によって踏みにじられたすべての人間に対する責任だった。

 

「罪を償え」

 

 蓮は、それだけを告げた。恨み言をぶつけることもない。

 

「敗れるか……この私が……」

 

 口元から、乾いた笑いが漏れる。

 

「ハハ……ハハハハ……!」

 

 その身体が、赤黒い靄に包まれた。背広姿の輪郭が崩れ、細かな光の粒となって宙へ溶けていく。最後まで残っていた笑い声も次第に遠のき、やがて完全に途絶えた。

 

 シャドウ獅童は消えた。あとに残ったのは、怪盗団と明智。そして、亀裂だらけとなった豪華客船の広間だけだった。

 

「……明智」

 

 蓮が呼びかける。明智は答えなかった。ゆっくりと鋸刃を下ろすと、怪盗団へ背を向けた。

 

「どこへ行く」

「帰るんだよ」

 

 振り返らないまま、明智は答えた。

 

「もう僕がここにいる理由はない」

「まだオタカラが──」

「それは君たちの仕事だろう」

 

 声はいつも通りだった。冷たく、突き放すような口調。だが、歩き出そうとした足は一瞬だけ床に縫い止められたように動かなかった。

 

 明智自身、次にどこへ向かえばいいのか分かっていないのかもしれない。

 

 復讐のために生きてきた。

 

 獅童を破滅させるために、他人も、自分自身も、いくらでも傷つけてきた。その獅童が消えた今、自分を前へ進ませていたものも同時に失われていた。

 

「一緒に戻ればいい」

 

 蓮が言う。明智の肩が、ごくわずかに揺れた。

 

「冗談はやめてくれ。僕が君たちと並んで、勝利を喜ぶとでも思ったのか?」

 

 明智は吐き捨てた。

 

 それでも蓮は視線を逸らさない。怪盗団の仲間たちも、何も言わずに明智を見ていた。

 

「勘違いするな。僕はお前たちの仲間になったつもりはない。今回は目的が一致した。それだけだ」

 

 短く息を吐く。

 

「獅童は改心する。あとは現実で、自分が築いたものを失っていくだけだ。君たちは自分たちの正義とやらを貫けばいい。僕は僕のやり方で、残った始末をつける」

 

 振り返らないまま答える。

 

「明智」

「……何だ」

「また会おう」

 

 短い言葉だった。引き留めるでもない。これを最後の別れにするつもりもない、ただそれだけの言葉。

 

「……フン」

 

 明智は振り返らずその場から立ち去った。

 

「……行っちまった」

 

 竜司が呟く。蓮は、明智がいた場所をしばらく見つめていた。追いかけることはできない。

 

 そのとき、広間の中央に金色の光が集まり始めた。

 

 


 

 

 現実の獅童が、大きく息を詰まらせた。

 

「ぐ……っ!」

 

 胸を押さえ、その場で身体を折る。

 

 つい先ほどまで椅子へ深く腰掛け、部下たちの報告を聞いていた男の顔から、一瞬で血の気が引いていた。

 

 周囲に控えていた秘書や側近たちが、ざわめく。

 

「先生!」

「どうなさいました!?」

 

 急速に抜け落ちていく力。自分の内側から何かが失われたという、説明しがたい喪失感。

 

 獅童には、それが何を意味するのか分かっていた。

 

「まさか……」

 

 荒い息の合間から、掠れた声が漏れる。

 

「やられたのか……」

 

 怪盗団に改心された。認めたくはないが、身体に起きている異変が、その事実を否応なく突きつけていた。

 

 獅童は顔を上げる。その視線が、部屋の隅に立っていた白衣姿の研究者へ向けられた。研究者の手には、以前から用意させていた薬があった。

 

 獅童が怪盗団に改心させられた場合。認知の世界へ侵入された場合。

 

 その者たちを、自分のパレスごと始末するための最後の手段。

 

「おい……!」

 

 獅童は震える腕を伸ばした。

 

「それを飲めば、本当に怪盗団を殺せるんだな!?」

 

 研究者はすぐには答えなかった。獅童の体調を観察するように目を細め、それから慎重に口を開く。

 

「一色若葉の研究が正しければ、ですが」

 

 獅童が苛立たしげに睨みつける。研究者は構わず続けた。

 

「パレスは、その主の認知と生命活動によって維持されています。薬によって生命活動を停止させれば、認知の世界も一時的に消失する。その形を保てなくなり、急速に崩壊するでしょう」

 

 研究者は淡々と答える。

 

「通常の消滅とは違い、前触れなく急激に起こるはずです。よほど運がよくない限り、脱出は困難でしょう」

「なら、早く寄越せ」

「お待ちください」

 

 研究者が制止する。

 

「認知の世界を故意に消失させるには、中途半端な昏睡状態では足りません。パレスの主であるあなたの生命活動そのものを、一度完全に停止させる必要があります。つまり、この薬は『一時的に死ぬ薬』です。どうしてもリスクが……」

 

 だが、獅童はためらわなかった。

 

「なんでもいい!」

 

 研究者の手から薬を奪い取る。

 

「寄越せ!」

「先生!」

 

 側近の制止を振り切り、獅童は薬を口へ放り込んだ。

 

 喉が、大きく上下する。飲み込んだ。その瞬間から、薬は効果を現し始めた。

 

「ぐ……」

 

 獅童の手から、容器が落ちる。

 

 床へぶつかり、乾いた音を立てて転がった。胸を押さえた指へ力が入り、背中が大きく反る。

 

「先生!?」

 

 秘書が駆け寄る。獅童はその場へ崩れながら、それでも笑っていた。

 

「これで……奴らも、終わ……り……」

 

 


 

 

 豪華客船の広間。シャドウ獅童が消えた場所に、金色の光が集まっていた。

 

 光は渦を巻き、ひとつの巨大な形を作り上げる。現れたのは、船の舵輪だった。分厚い金色の輪に、放射状に伸びた取っ手。中央には、国家を自らの手で操ろうとした獅童の欲望を象徴するような、重々しい意匠が刻まれている。

 

「オタカラだ!」

 

 モルガナが声を上げ、怪盗団が近づこうとする。

 

 その瞬間、船全体が大きく沈んだ。

 

「うわっ!?」

「爆発!?」

 

 床が傾く。

 

 天井から黄金の装飾が落下し、広間の中央で砕け散った。柱に亀裂が走り、赤い絨毯の下から床材がめくれ上がる。

 

「なんだ、これ!?」

「崩壊が始まったの!?」

「違う……速すぎる! こんなの、オタカラが出た時の崩れ方じゃない!」

 

 再び、激しい揺れが襲った。

 

 広間の壁が割れ、その向こうから黒い海水が流れ込む。船体が軋む音が、巨大な獣の断末魔のように響き渡った。

 

 獅童が敗北を認めて、自分から大人しく改心を受け入れる。そんな殊勝な男ではない。

 

「最後まで、他人を道連れにしなければ気が済まないらしい」

 

 船がさらに大きく傾いた。

 

「話してる場合じゃねえ! オタカラ持って、さっさと逃げるぞ!」

 

 怪盗団が一斉に動き出す。

 

 その背後で、獅童正義の豪華客船は、主の停止した心臓と共に崩壊を始めていた。

 

 

 






 この後ちゃんと竜司が活躍して、脱出しました。



 本当は、獅童戦は長いのでカットする予定だったのですが、気が変わって差し込みました。


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