幸せなバッドエンドを目指して   作:ぽんしゅー

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長くて読みずらい箇所がありますが、読み飛ばしても大丈夫です。




#84 オメェの席ねぇから!

 

 12月23日 金曜日 晴れ 夜

 

 

 獅童正義の改心は完了した。

 

 衆議院選挙の開票日。圧倒的な支持を集め、次代の総理になることを誰もが疑わなかった男は、勝利を宣言するはずの演壇で、自らの罪を告白した。

 

 政敵への妨害。事件の揉み消し。己の地位を脅かす者たちを排除するため、裏で数え切れないほどの人間を利用してきたこと。

 

 それは本来なら、国中をひっくり返してもおかしくない告白だった。

 

 これから日本を率いるはずだった男が、全国へ向けて、自分は犯罪者だと認めたのだ。

 

 大衆はショックを受け、怒り、裏切られたと声を上げる──はずだった。

 

「……まあ、知ってたけど」

 

 教室でも、街頭でも、ネットでも同じだ。誰もが獅童正義の告白を見ている。聞いている。知っている。けれど、怒りも失望も歓喜も、どこか上滑りしている。

 

 まるで、自分たちには関係のない出来事みたいに。

 

「獅童やばくね?」

「でも、政治家って大体そんなもんじゃね?」

「どうせ選挙は終わったんでしょ?」

「急にあんなこと言い出すなんて、何か裏があるんじゃない?」

「でも、獅童さん以外に任せられる人なんているのかねえ」

「さあ。てか今日の配信見た?」

 

 すれ違いざまに聞こえてくる言葉には、驚きこそあっても、怒りはなかった。

 

 獅童が犯罪を認めたことより、そのせいで政治が混乱することの方が困る。告白が真実かどうかより、次に誰が国を動かすのかの方が大事らしい。

 

 この国の行く末を左右するはずだった男が、自ら罪を認めた。その瞬間を目撃してなお、人々の意識はすぐに別の話題へ流れていく。怒ることも、考えることも、受け止めることも面倒だと言わんばかりに。

 

「…………」

 

 動揺はなかった。知っていたからだ。

 

 獅童が改心した後、大衆の反応がおかしくなることも。怪盗団があれだけ大きな悪を倒しても、世間が都合よく目を逸らすことも。熱狂していたはずの人間たちが、まるで最初からそんなものに興味などなかったかのように醒めていくことも。

 

「……胸糞悪い」

 

 あるのはただ吐き気だけだ。

 

 こいつらは本当に何も見ていない。見ているふりをして、聞いているふりをして、考えているふりをして、その実、何ひとつ自分のものとして受け取っていない。獅童正義が罪を告白した。国を騙し、人を踏みにじり、誰かの人生を玩具みたいに壊してきた男が、ようやく自分の口で真実を吐いた。普通なら怒る。震える。立ち止まって考える。なのにこいつらはやばいね、怖いね、どうせ裏があるんでしょ、と流していく。次は何。次に叩いていい相手は誰。くだらない。怒れと言われれば怒り、忘れろと言われれば本当に忘れる。薄い。軽い。浅い。何もかもが安っぽい。

 

 欲しいのは言い訳だ。自分は悪くないと言える言い訳。誰かに全部押しつけて、自分は何も知らなかったと眠るための言い訳。何も背負わないくせに口だけは開く。自分の手は汚さない。自分の頭では考えない。そのくせ世界が気に入らなければ誰かのせいにする。責任を持たず、記憶も持たず、恥も持たず、その場その場で都合のいい顔に変えて、ハン断の責任を空気に外注して、それでもなお自分だけは例外だと信じている。その厚顔無恥さが救いがたい。こいつらは自分の無知を自カクしない。自分の無カンシンを問題だと思ワない。怠惰を日常と呼び、迎合を協調性と呼び、セキニン放棄を現実テキだと呼び、卑劣さを大人のタイドと呼ぶ。コトバをスり替え、感情を使い捨テ、記憶を改ザンし、立場を反転させ、都合が悪くなれば沈黙し、優勢になれば正論の顔で殴りかかる。そこにシソウはない。信念もない。倫理もない。あるのは反射と保身とジコ正当化だけだ。アらゆるハン断を棚上ゲしながら、あらゆる結果に口を出ス。アらゆるセキニンから逃ゲながら、あらゆる被害者の顔をしたガる。アらゆる加害性を薄メながら、あらゆる正義にビン乗したがル。トクメイ性に溶ケ、同調圧力に酔イ、世論という名前のニゴった水槽の中で、自分のシコウが自分のモノではないことにすら気づかずシずんでイル。主体性の溶解。自律的判断の放棄。責任主体の雲サン霧消。認識論テキ怠惰。道徳テキ他律性。価値判断の外部委タク。情動のショウヒ財化。倫理の記号化。正義の娯ラク化。自己欺瞞のセイド化。コいつらは社会を構成しているのではナい。社会という抽象概念の背後に隠れて、自分のフ在を正当化しているだけだ。個人であることの負荷に耐えられず、群衆というトクメイテキ母胎に退行し、そこから発せられる曖昧な多数派のコえを、あたかも自分自身のイ志であるかのように錯認している。そこにあるのは市民テキ成熟ではない。公共性でもない。熟議でもない。倫理テキ判断でもない。あるのは、思考停止を合理性と誤認し、オク病を穏健と呼び、追従を協調とギソウし、無責任を中立とサ称する、卑小な自己保存の機構だけだ。コいつらは何かをシンじているのではナい。シン じているように振る舞うことで、信じなかった責任から逃げているだけだ。何かを選んでいるのではナい。選んだというケイ式だけを保持することで、選択に伴うリンリテキ負債から逃れているだけだ。これはタンなる無知ではない。無知のジ覚を欠いた傲慢だ。タンなる無関心ではない。無関心をセイジョウ性として制度化した精神のフ敗だ。シコウの欠如を大衆性と呼び、倫理のフ在を現実主義と呼び、責任のホウ棄を処世術と呼び、感情のハン射を世論と呼び、空虚なドウ調を社会性と呼ぶ、そのコトバのダ落が、その精神のヒン困が、その認知のクウドウ化が、どうしようもなくキモチ悪い。コイツラに世界をカタる資格なんてない。コイツラに正義をモトめる資格なんてない。コイツラに真実をホしがる資格なんてない。自分でミなイなら目なんていらナい。自分でキかナいなら耳なんていらナい。自分でカンガえナいなら頭なんてカザりだ。自分でエラばナいなら自由なんてモテあまスだけだ。

 

 ──なのになぜこいつらは平然と生きている? 

 

「………………???」

 

 ――ヴッ、と手の中でスマホが震えた。

 

 反射的に画面を見る。誰かからの、なんてことのない通知。誰からのスタンプだったか、誰かのSNSの更新だったか。よく覚えていない。ただその小さな光が、思考の底に沈んでいた俺を引き上げた。

 

 スマホの角で、こつん、と額を叩く。

 

 ──俺は、今何を考えていた?

 

 

 ***

 

 

「獅童の立件が危ういだと!?」

「精神鑑定ってそんなわけないのに!」

「取り巻きの連中が周りに圧力をかけたんだろ。真実が明るみに出ると困る奴らが思ったより多いってことだな」

 

 カウンターの向こうで腕を組んでいた惣治郎さんが、歯噛みしたまま言う

 

「どうにもならないの?」

「獅童の責任を追及しろっていう世論が高まれば、立件できるかもってお姉ちゃんが……」

「でもそれもメディアを使った印象操作で潰されちった。テレビ、ネットニュース、SNSどころか。アイツら板にまで手を伸ばしてやがる」

「事件の趣旨を『目に見えぬオカルト』と言い切って『無かったんだ、惑わされるな』って」

「結局、怪盗団はまだ悪者扱い。『さっさと捕まえろ』だ『残党を処刑しろ』だの言い放題……」

 

 だが怪盗団自体がデマになりそうになりつつある中で、蓮と俺、二人の獄中脱出のことまで無かったことになっているのは、不幸中の幸いだとも言える。だとしても怪盗団の立場としたは依然、危機のまま。

 

「とりあえずお姉ちゃんを待ちましょう。もうすぐ来るはずだから」

 

 

 ***

 

 

 新島冴がルブランにきて、情報を共有した後も、この状況が覆ることはなかった。むしろ現状を正しく把握したからこそ、絶望的状況が見えてくる。

 

 上層部は沈黙。獅童の罪が闇に葬られるだけでなく、このまま国家ぐるみで認知世界をつかった犯罪が続く可能性があるということ。そしてそれら全てを知る怪盗団が、今、この瞬間にもここに乗り込んできて拘束される可能性があるということ。

 

 ──私たちの力ではどうにもならない、と。

 

「……だからもう一度、あなたたちの力を貸して欲しいの。……言えた義理じゃないのはわかってるけど……」

「そんなのいいでしょ! で、どうする? 取り巻きを片っ端から改心させてく?」

「双葉が調査するとしても時間がかかるわね……」

「流石にわかってる情報が少なすぎる……」

 

 この状況をなんとかしようと知恵を絞るが、相手は国家だ。迂闊な作戦では小細工ごと捻りつぶされて終わりだろう。

 

「……メメントスだ」

 

 そんな中でモルガナが“正解”を発言した。メメントスは人間の『集合的無意識のパレス』すべての歪みの源。そのオタカラを盗み、メメントスが崩壊すれば、大衆の認知にも影響を受けて、世の中の情勢が変わるはずだと。

 

「……けどな、これをやるからには一つ覚悟してもらう必要がある。そもそもなぜ人間の認知なんてもんが実体あるイセカイとして存在しているかの理由が多分眠ってる……そいつを壊すことになるんだぜ?」

「ハナシが見えてこねーぞ?」

「実体がなくなったら忍び込んでオタカラぶっこ抜いたりできなくなるってことだよ! もう悪党がいても力づくで改心させたりはできない」

 

 ……怪盗団は店じまいだ。というモルガナの言葉に一同の作戦に踏み切ろうとして心にストップがかかる。

 

 もう、悪い大人の心に忍び込んで、オタカラを盗むことはできない。理不尽に押し潰された誰かを、あの非常識な力で救い出すこともできない。世の中に潜む悪意を、裏側からこじ開けることもできない。

 

 怪盗団は、ただの高校生に戻る。いや。元々、ただの高校生だったはずなのだ。

 

「……怪盗団を、捨てることになる…………」

 

 捨てる。その言葉に、沈黙が落ちた。

 ……当然だ。力を失っても、世界は続く。

 

 悪い奴は消えない。理不尽も消えない。泣き寝入りする人間も、見て見ぬふりをする人間も、きっといなくならない。その時、自分たちはもう怪盗団ではない。誰かを救える力を持っていたのに、それを自分たちの手で手放す。

 

「やるべきだ」

 

 蓮が静かに、ただ強い意志のまま言った。

 

「俺たちは『世直し怪盗団』だ。この悪を見逃して、素知らぬ顔で生きていくのが正しい事とは思えない。たとえ力を失ったとしても、胸を張る選択をして正義は貫くべきだ」

 

 蓮は全員を見渡す。全員も揺れていた心が定まるように、蓮を見つめ返す。

 

「……そうか、わかった。オマエラも異論はないみたいだな」

 

 全員が頷く。

 

「ええと……いい手が見つかったの?」

 

 モルガナの言葉を認識できない冴さんだけが話の流れについていけてなかった。

 

「成功するかは別ですけどね」

「検事さんよ。これが俺たち最後の仕事になるかもしれねぇ」

「私達が役目を果たした後は、襟を正した『大人』に世の中をお預けします。それがこの仕事を引き受ける条件です」

「『取引』ってわけ……なんて重い条件なのかしら。でもいいわ引き受けましょう。獅童正義を必ず裁きの場に立たせてみせる。それに助けて貰ってばかりでは私のプライドが許さない」

「頼りにしてるからね」

 

 ルブランの空気が決意に満ちていく。さっきまで全員の顔に浮かんでいた焦りや憤りが、今は別のものに変わっている。

 

 覚悟、と呼べば綺麗だ。実際、綺麗なのだろう。自分たちが持っている力を、自分たちの正義のためだけに握り続けない。二度と使えなくなるかもしれないとわかった上で、それでも世の中の歪みそのものを壊しにいく。

 

「……」

 

 俺はそれをカウンターの端から見ていた。

 

 竜司は拳を握っている。杏は不安そうに唇を結びながらも、もう迷っていない顔をしている。祐介は静かに目を伏せ、春はその手を胸の前で重ねている。真は現実的な危険を計算している顔のまま、それでも退く気はなさそうだった。双葉は珍しく口を挟まず、視線だけを宙に固定している。頭の中で、いくつもの最悪の可能性を並べているようだった。すみれは膝の上で両手を握りしめ、緊張を隠しきれないまま、それでも顔を上げて蓮を見ている。

 

 蓮は、何も言わないまま、そこに立っている。たったそれだけで、全員の足場になっていた。

 

 ……本当に、主人公みたいな奴だ。いや、主人公なのか。少なくとも、この世界においては。誰かの願いを背負い、誰かの絶望を超え、何度倒れても立ち上がる。そういう役割を与えられた人間。

 

 なら俺は何だ。

 

 その隣に紛れ込んだ異物か。最初から別の盤面を見ている裏切り者か。あるいは、物語の外から答えだけを盗み見て、利口ぶっているだけの卑怯者か。

 

「胡桃」

 

 名前を呼ばれて、顔を上げる。蓮だった。

 

「どうする?」

 

 ……? どうするってなんだ? 行かない理由があるのか? どこか行って欲しくなさそうな顔をしている。

 

「怪我の具合はどうだ」

「別に動けないこともないけど」

「……なぁモルガナ」

 

 蓮はふと何か考えるように口端を撫で、モルガナに問いかける。

 

「今までのパレスはオタカラを盗んだら崩壊した。その現象はメメントスでも起こりうるか?」

「絶対起きる。とまでは言い切れないが、今までがそうだったように、起こる可能性は高いだろうな」

「メメントスの地下深くで崩れると、俺たちが生き埋めになる可能性があるってことか」

「その前に認知世界からはじき出されて、現実に戻る可能性はあるが……」

「保証はできねぇ。そもそもメメントスは今までのパレスとは規模が違う。どう崩れるかなんて、ワガハイにもわからない」

「そうか」

 

 蓮は短く頷いた。蓮の視線がこちらに戻ってくる。いつもの静かな目だった。迷っているわけではない。もう、ある程度結論を出した後の目。

 

「胡桃。現実に残ってここで待ってもらっても、()()()()?」

 

 ……含みのある言い方だな。何か意図がある気もする。まぁ俺が行かなくても怪盗団のフルメンバー+すみれの戦力オーバーだし俺がいなくても全然倒せるし……。

 

 あぁそういうこと。

 

「超大丈夫。全然平気。問題ない心配ない」

「そこまで言うと、行きたくないように聞こえるな……」

「いやいや俺だって心苦しい。最後の作戦に参加できないなんて……」

 

 よよよ……、と心臓を抑え演技をするもそんなウケてないので真面目なトーンに切り替える。

 

「まあ、冗談は置いといて。現実側に一人残しておきたいってことだろ?」

 

 蓮は頷いた。

 

「そうだ」

「メメントスが崩れた時、全員が無事に戻れる保証はない。けど、外に事情をわかってる人間がいれば、最悪の場合でも二人に説明できる」

「ええ」

 

 真が引き継ぐように言う。

 

「私たちが戻らなかった時、二人だけでは何が起きたのかわからない。モルガナの声も聞こえないし、認知世界の仕組みも実感としては理解できない。だから、外側に一人、事情を共有できる人間が必要になる」

「つまり、連絡係兼、説明係兼、帰還確認係?」

「軽く言えばそうなるわね」

「役目は重いけどなぁ」

 

 言わば帰ってこなかった時の証人だ。万が一があった場合、冴さんと惣治郎さんに「彼らはもうここには戻ってきません」と伝える係だ。想像するだけで気が重い。

 

「あと怪我人だから」

「怪我をおまけみたいに……動けないことはないって言ったろ。ペルソナぐらい使える」

「いざって時、無理しない保証は?」

「そこは信用してないですよ。なぜなら何回も見てきましたから」

「うっ」

 

 それを言われると弱い。心当たりがありすぎる。

 

「……了解。お前らの帰りを待ってるよ」

 

 蓮の提案を飲み込んだ。それに動ける程度の怪我とは言ったけども、なんというか体も心も、やや不調気味だ。実感が遅れてやってくる感覚とでも言うべきなのか。

 

 たとえばさっきも獅童のニュースを聞きながら、俺は確かに腹を立てていた。なのに途中から、その怒りが自分の胸から湧いているものなのか、どこか別の場所から流し込まれているものなのか、わからなくなった。

 

 頭の中で言葉だけが勝手に増えていって、思考が思考を呼び、感情が感情を膨らませていく。

 

 手を握れば、ちゃんと指は動くし、スマホを持てば、角の硬さも冷たさもわかる。けれど、それを感じている手が、本当に自分の手なのか一瞬遅れて理解する。声を出せば自分の声が返ってくるのに、少しだけ遠い。誰かが俺の口を使って、俺に似た声を出しているみたいに聞こえる。

 

 怖い、とは少し違う。怖がっている自分を、怖がっていない自分が眺めている。そんな感じだ。

 

 ……ただまぁ、本調子ではないことには違いないから、戦闘中に足を引っ張ってしまうことは自覚していた。

 

「ふぅ……よし。正真正銘、これが最後の作戦ですね」

「リーダー。最後の号令頼む」

「よし。──この国を頂戴する!」

「それ前にも言ったけどな」

 

 その笑いの中で、全員の顔が少しだけ軽くなる。怖くないわけじゃない。不安が消えたわけでもない。それでも、誰も俯いてはいなかった。

 

 最後の仕事が始まる。

 

 

 ***

 

 

 メメントス攻略の決起集会が終わったのち、全員が帰路につく中、俺はルブランでコーヒーを飲んでいた。

 

 別に、せっかくだから一杯飲んでいくかと思ったわけではない。先ほど蓮から「残ってくれ」と耳打ちされたからだ。

 

 慣れない左手でカップを持ちつつ、なんとなくSPが回復しそうなコーヒーを飲み終えたタイミングで、蓮が二階から降りてくる。

 

「飲み終わったか?」

「ああ」

 

 それで、何の用? と言いそうになったが、俺はその言葉を飲み込んだ。

 

 蓮が、『会話は双葉に聞かれている』と書かれた紙を俺に見せてきたからだ。

 

「駅まで送ってく」

「彼女か何かか? モテ男さんめ」

 

 二人きりで話がしたいらしく、俺たちはルブランを出た。

 

 外に出ると、夜気が思ったより冷たかった。ルブランの中に残っていたコーヒーの匂いが、扉を閉めた途端にすっと遠ざかる。かわりに、細い路地を抜ける風と、少し湿ったアスファルトの匂いが鼻を掠めた。

 蓮は無言で歩き出した。俺もその横に並んで歩いた。

 

「……で」

 

 しばらく歩いてから、俺は言った。

 

「なんの話」

「そこまで大事という話ではないんだが……誤解というか、意図がうまく伝わっていなかったらそれを解消したい、と」

「意図?」

「さっき言った、待ってもらっても大丈夫って言ったことだ」

「あぁ。把握してるよ。『大丈夫か』って聞いたのは、『この先見た未来でも、乙守胡桃が居なくても大丈夫か』って意味で言ったんだろ?」

 

 この間ベルベットルームで話した、未来がどうこうという法螺話を信じているんだろう。

 

「それで大丈夫って返したんだ。俺が居なくても万事問題なし。バッチグー」

「本当にそこまで伝わっていると思わなかった……」

「あらやだ。女の子だったら惚れてた?」

「そうだな。もっとか弱かったら、全力で落としにいったかもな」

「コワ〜……」

 

 この魔性の男に、日常の行動回数を全部使われたら、落とされてない自信はない。そして目的のコープまで育ったら都合良く使われるだけの存在になって本命になれない未来が見える……。

 

「……なんか今、すごく嫌な妄想してないか?」

 

 蓮が横目でこちらを見る。

 

「してないしてない。最終的にクリスマスだけ別の女と過ごされる未来なんて想像してない」

「具体的だな」

「被害者の会が結成されるぞ」

「俺はそんな不誠実なことはしない」

「ほんとぉ?」

 

 思わず疑いの目を向けると、蓮は少しだけ視線を逸らした。

 

「……場合による」

「最悪」

 

 夜道に、俺らの乾いた笑い声が落ちる。

 

「用件それだけ?」

「そうだな、それだけ」

「そう。じゃあ俺から一つ。……なんでそこまで隠してくれるわけ? ベルベットルームとか諸々の事情を怪盗団に話してないんだろ?」

 

 蓮が黙っているため、そのまま続けて言う。

 

「別に誤魔化さなくとも、そもそも隠す必要性もそんなにない。あいつらが突拍子のない話を信じるか信じないか次第だろ」

 

 さっきまでの軽口の名残が、夜気に薄く溶けていく。駅まで続く道の先、街灯がぽつぽつと光っていた。人通りはある。けれど、誰も俺たちの会話なんて気にしない。通り過ぎていく他人の足音が、逆に二人きりであることを強調していた。

 

「胡桃も、そこまでは分からないか?」

 

 その言葉に少し考え込む様子を、無言の肯定と捉えられたようで、蓮の声が、少しだけ落ち着いたものになる。

 

「──辛かったろ。尋問」

「……まぁ」

「暗くて、痛くて、悔しくて。作戦通りでも『もし』とか『本当に?』って言葉が一切頭に浮かばなかったって言えば嘘になる。……一人じゃないってわかってても、あの暗所で味方がいないのは堪える」

 

 珍しい弱音だ。蓮はたぶん、言葉にする前に飲み込む癖がある。周りを見て、状況を見て、自分が今どう振る舞うべきかを決めてしまう。ジョーカーとそう呼ばれるだけの理由がちゃんとある。

 

「胡桃の場合なおさらだ。元々想定外のトラブルで、作戦実行のためなら犠牲にされる可能性も頭に浮かんだはずなのに。それでも貫き通した。仲間を売らなかった。なんて奴だって思ったんだよ」

「偶々いい感じに噛み合ったんだよ」

「謙遜するな。……だが、そこまでして口を割らない人間が、自分から秘密を明かしたのなら、その行動は大切にすべきだと思ったんだ。……他人が自分のことを話す重さと、自分の口から自身のことを話す重さは違う」

「……学園生活で思い知ったのか?」

「はは、そうだな。俺はどうやら象牙の密売をしているらしい」

 

 蓮は、「でも」と一言区切って言う。

 

「そんな噂が流れてる俺を……俺の言葉を聞いて信じてくれる奴らがいて、事情を聞いて怒ってくれる奴らがいたんだよ。……それが嬉しかったんだ」

「……」

「今はもう、噂なんて気にしてないが、他人の口から話された自分が、どう受け取られるのか不安になる気持ちはわかる。それが理由だ」

「俺の気持ちを尊重してくれたってこと?」

「ああ。もし望むのなら、本当のことを全部明かすけど」

「いやいい。余計面倒な話になりそうだし」

 

 そっちの方が都合がいいし。

 

「それに、もう明日には関係のない話になってるかもしれないだろ」

「……そうだな」

 

 蓮が困ったように言う。夜道に、また少しだけ笑いが落ちた。

 

 駅の明かりは、もうすぐそこだった。人の流れが増えて、改札の電子音が聞こえてくる。発車メロディが遠くで鳴って、すぐに消えた。

 

「じゃあ、ここでいいよ」

 

 駅前で足を止める。俺は左手を軽く上げた。

 

「送ってくれてどうも。明日頑張れよ」

「ああ」

「……大丈夫だからって絶対に油断するなよ?」

 

 蓮は、いつも通りの顔で頷いた。それは明日、自分たちがヤルダバオトに一度敗北するとも知らない顔で。……そこまでは教えてやらねぇからな。

 

「そっちもな」

「俺は留守番だっての」

 

 そう返して、今度こそ改札を抜ける。背後から蓮の足音が遠ざかっていく。振り返ることはしなかった。ホームに上がると、ちょうど電車が来ていた。俺は空いている車両に乗り込み、左手だけで吊り革を掴む。

 

 ふと、上を見上げると天井からぶら下がっていた広告が目に入った。

 

 ……そういえばもう、クリスマスだったか。

 

 電車内は暖房で生ぬるく、外の冷たさがまだ残る頬には少しだけ心地よかった。電車がゆっくりと動き出す。窓の外を流れていく夜の街並みを、ぼんやりと眺める。

 

 吊り革に体重を預けて、目を閉じる。明日のことを考えた。

 

 ──あいつらが一度膝をつくことも、そのあと立ち上がることも、俺はもう知っている。知っていて、なお黙っている。「大丈夫だ」なんて言葉で送り出した。本当に悪趣味な見送りだ。

 

 でも、それでいいと思った。

 

 蓮たちは、俺が結末を知っていることなんて関係なく、自分たちの足で歩いていく。未来をなぞるだけの俺とは違う、何も保証されていない場所で、それでも前に進める奴らだ。

 

 右腕は、今日も動かない。ポケットの中で死んだように重い。この腕が使えていた頃の感覚を、最近はうまく思い出せなくなってきた。

 

「まぁ……いいや」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いて、また天井の広告を見上げる。きらびやかなイルミネーションの写真に、「聖夜を大切な人と」なんて文句が躍っている。

 

 大切な人、ね。

 

 窓に映る自分の顔が、思いのほか穏やかに笑っていて、少しだけ気まずくなった。俺は左手で軽く頬をさすって、その顔を窓から逸らす。電車は夜の底を走っていく。明日になれば、また一つ、知っている未来に追いつく。

 それまでは、せめてこの静かな車内の時間くらい、何も考えずにいさせてほしかった。

 

 

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