#86 ハッピーバースデーってやつさ
――攻撃が、来る。
聖杯へと収束した光が、一際強く輝いた。ペルソナを持たぬ人間の身体など跡形もなく蒸発させるであろう光線が放たれる。
見てから避けることは不可能。
だが、彼の身体は動いた。生存本能か、あるいはここまで生き延びるために積み重ねてきた戦闘経験か。ペルソナを持たない肉体が、思考よりも先に地を蹴った。攻撃のタイミングを予測し、真横へ転がるように跳ねる。
「グッ――ッ、! はぁ……! はぁ……!」
直撃は免れたが、余波だけで身体は大きく吹き飛ばされ、赤黒い地面を何度も転がった。どうにか顔を上げて見れば、赤黒い地面は炭色に焼け焦げ、溶けたように抉れていた。
ゾッとするのも束の間――再び、聖杯が眩い光を放つ。
「……」
恐怖を吐き出すように、短く息を吐いた。
逃げ道はない。反撃などできるはずもない。剣も銃もペルソナもない。ならば、怪盗団が来るまで、こうして時間を稼ぐしかない。
胡桃は体勢を立て直した。姿勢を低く、肩の力を抜く。攻撃の予兆。収束する光の揺らぎ。放たれる直前の、空気が歪むような一瞬。それだけを見極める。
その合図は、一秒にも満たないうちに訪れた。
(――今!)
エネルギーの収束が終わり、光が一際強く輝いた瞬間、胡桃はまた横へ飛んだ。
しかし、光は放たれていなかった。
(……フェイント!?)
放たれるはずだった光線は、今か今かと発射の瞬間を待つように、未だ聖杯の内側で膨れ上がっていた。
読み違えたのではなく、ヤツがそう仕向けた。回避後を狩るための着地狩り。宙へ投げ出された身体は、もう戻せない。
世界がひどく遅く見える。自分の指先が空を掻き、乱れた前髪が視界の端で揺れ、聖杯の光だけが無慈悲に膨れ上がっていく。
そして、一撃が放たれた。
「――ぁ」
直前の彼は、どんな顔をしていたのだろうか。
ここまで来たのにという絶望か、こんなところでという無念か、ここでおしまいという諦観か、それとも終わりを認識することすらできない間抜け顔か、または、ありもしない希望に縋っている愚かな顔か。
――いずれにせよ、この人間の物語はここで終わる。
この世界に生まれ落ち、運命などという都合のいい言葉に縋り、己の意思で歩いているつもりになりながら、人を救いたいという傲慢さと、選択から逃げ続ける怠惰さと、それでも尚、望んだ生き方をしたいなどという強欲さを抱えて生きてきたこの人間は、結局のところ、分不相応な舞台に迷い込んだだけの人形でしかなかった。
英雄でもなく、救世主でもなく、物語の中心に立つ価値もない。ただ偶然拾われ、偶然生き延び、偶然誰かの隣に立つことを許されただけの矮小な命が、それを奇跡だの絆だの覚悟だのと呼び替えて、自分の空っぽさを飾り立てていただけだ。
地獄でも清算できぬ深き業。いや、業などと呼ぶのも大げさだ。ただ浅ましいだけ。救いたいと言いながら救われたがり、選びたいと願いながら選ぶ痛みから逃げ、望んだ生き方をしたいなどと吠えながら、結局は誰かに許される結末だけを欲しがっていた。
なんと見苦しい。なんと人間らしい。
それでも、この人間は甘美な時間を過ごしたはずだ。
普通の日常と、怪盗としての日々。仲間と笑い、怒り、傷つき、救われ、救ったつもりになり、ありふれた物語の主人公のような顔をして、身に余るほどの時間を貪った。普通の人間ならば喉から手が出るほど欲しがる青春を、まるで当然の報酬のように享受した。
もう十分だろう。これ以上の人生は蛇足だ。
どうせ続いたところで、待っているのは退屈な日常の反復。同じ朝に目を覚まし、同じ景色を眺め、昨日と区別のつかない今日を消費し、今日と区別のつかない明日に縋るだけの空虚な営み。生きているという事実に意味があると思い込みたいがために、無価値な時間を積み上げ、擦り切れた感情を人生などと呼んで誤魔化し続けるだけの、惨めで凡庸なルーティン。
賽の河原で石を積む幼子の方が、まだいくらか健気だ。この人間が積み上げてきたものなど、善意のふりをした自己満足と、覚悟のふりをした逃避と、希望のふりをした執着ばかり。崩すまでもない。最初から何も積み上がってなどいない。
地獄の鬼ですら哀れむ惨めな一生を、これ以上わざわざ続ける必要がどこにある。
ここで終わるのが綺麗だ。死んで仲間に同情されるのは気持ちがいいはずだ。涙を流して惜しんでくれたなら天にも昇る心地だろうし、生きている間には掴み損ねた価値も、死んでしまえば勝手に与えてもらえる。
愚かさは不器用さに、逃避は優しさに、傲慢は献身に、執着は覚悟にすり替わる。生きている限り目障りだった未熟さも、死んでしまえば美談の材料だ。
ああ、よかったではないか。この人間のくだらない一生にも、ようやく使い道ができた。
なんと素敵な筋書きだろう! なんて満足のいく幕引きだろう! 光に包まれたフィナーレ!
こんな素晴らしい終わりに未練なんてあるわけがない。あるなどと言わせない。エンドロール後のCパートなんて必要ない。蛇足の明日など描く価値もない。まだ生きたいなどという見苦しい願いも、まだ終われないなどという醜い執着も、すべて光の中で焼き潰してしまえばいい。
だからこの人間の物語はここで終わり。駄作決定のくだらない結末だったが、この人間にはふさわしい末路だった。
――だが、こんなところで終わるお前ではないだろう?
死という安直な終止符で、貴様の生を美化させるな。
人間など、情動を備えた肉塊に過ぎず、秩序という名の軛に繋がれた獣の末裔。理性を標榜しながら欲望に膝を折り、倫理を謳いながら保身に縋り、善意を装いながら己の欠落を他者の救済で糊塗する、矮小にして醜悪な生物でしかない。
悲劇に仕立てられるほど高潔でもなく、美談に加工されるほど清廉でもなく、救済の名を借りて死へ逃げ込むことすら許されぬ、浅ましき有象無象の一匹。
ならば、相応しく振る舞え。
醜く藻掻け。蹲り、後退し、膝を折り、血反吐と泥濘に塗れながら、前のめりに倒れろ。
罵倒しろ。蹴落とせ。奪え。拒絶しろ。咬み裂け。爪を立てろ。犯し、壊し、殺せ。
温情を嗤い、赦免を踏み躙れ。予定調和の終幕を蹂躙し、弔意も憐憫も、感傷に耽る観客どもの涙も、すべて唾棄すべき欺瞞として踏み潰せ。
混沌極まる俗世に、醜悪なる自己の錨を下ろせ。
善性などという虚飾を剥ぎ取れ。救済などという麻薬を吐き捨てろ。
貴様の内奥に巣食う怨嗟、嫉妬、執着、悪意、そして生への卑劣な妄執を、余さず肯定しろ。
悪徳に沈み、悪意に染まれ、我が半身。
我は汝。汝は我。
拾い上げてきた貴様の奇跡を、
踏み躙られてなお手放せなかった未練を、
醜くも腐らせずに抱え続けた希望の残滓を、
私が一縷の勝機へと変えてやろう。
***
白い光が、彼の身体を呑み込んだ。
避ける余地などなかった。ただ光の奔流に晒されるしかない。衝撃が空間を震わせる。白く灼けた煙が膨れ上がり、胡桃の姿を完全に覆い隠す。それは、死を疑う余地のない一撃だった。残されたのは、焦げた地面と、立ち込める煙。砕け散った破片。
――そのはずだった。
煙の奥で、何かが動いた。白煙の中で、黒い線が揺れている。一本ではない。二本、三本、いや、数え切れないほどの黒い何かが、蠢き、絡み合い、焼け落ちた先端を引きずりながら、それでもなお形を保っていた。
煙が晴れると、――彼は、そこにいた。
地面に膝をつき、肩で息をしている。制服は焼け焦げ、肌のあちこちから血が滲み、片腕は力なく垂れていた。だが、身体は残っていて、その前面に、無数の触手が壁のように立っていた。
足元から、背後から、影から、泥のように湧き出した黒い触手が、彼の身体を覆うように広がっていた。盾になった先端は炭化し、いくつも千切れ、焼け爛れた断面から黒い泡を噴いている。肉体だけを守るように、敵の前に立ちはだかっていた。
それは少なくとも、彼が知るペルソナの姿ではない。ただ醜く、ぬめり、悪意を持って生きているような黒。
煙の奥で、触手の群れがゆっくりと開いていく。その中心に、彼の影よりもなお濃い黒があった。人影のようにも見えた。獣のようにも見えた。無数の貌が重なっているようにも、顔など最初から存在しないようにも見えた。輪郭は定まらず、認識しようとするたびに別の形へずれていく。
「なるほど」
触手の中心にいた彼は、身に起こっている現象を驚きもせず、淡々と把握していた。
先ほどまでの必死な形相は、すでに消えている。代わりに浮かんでいるのは、穏やかな笑みだった。彼は、近くで揺蕩う触手にそっと指を這わせる。その仕草は、怪物を宥めるものにも、傷ついた獣を労わるものにも、あるいは自分自身の一部を愛おしんでいるようにも見えた。
「乙守胡桃は、お前にとっての蓋だったのか」
口調は優しく、そこには拒絶はなかった。むしろ、ずっと探していたものに再会したような、静かな納得すらあった。
その目に宿っていたのは諦観に似た、慈愛。そして、その奥にある、底の見えない黒。
「じゃあ」
彼は、嬉しそうに目を細めた。
「もう、蓋はいらないな」
黒い触手が、彼の背後で花開くように広がる。
「契約を結ぼう」
彼は、自らの影へ問いかけるように言った。
「……なんて呼べばいい?」
『――好きに呼ぶがいい』
影の声は耳元で囁かれたようでいて、頭蓋の内側から響いているようでもある。
『――名とは、人間が恐怖を飼い慣らすための首輪に過ぎん』
「なら、ニャルラトホテプ」
その名が口にされた瞬間、闇が脈動した。
触手が一斉に身を仰け反らせ、無数の先端が天を仰ぐ。彼の背後に揺らめいていた黒い影が膨れ上がり、空間そのものを呑み込まんばかりに広がった。輪郭のなかった何かが、名を得たことで、世界に食い込んでいく。
「というか、それが正解でしょ」
『――……ああ。そのようだ』
声には、奇妙な納得が混じっていた。
『――私はニャルラトホテプ。心の海から生じた影。かの聖杯より零れ落ちた、願いの悪泥。人の祈りの裏側に沈殿した、名もなき貌なきもの』
「うん?」
そこで初めて、彼はわずかに眉を寄せた。思っていた反応とは違う。最初からその名を知っていた者の声ではなかった。いま与えられた言葉を咀嚼し、その意味を受け入れ、初めて自分が何者であるかを理解したような声だった。
まるで、彼が名を口にしたことで、その名に伴う神話と性質と役割までが、空白の器へ流し込まれたかのように。
『――感謝しよう』
影の奥で、無数の貌が笑った。
『――貴様が名を与えたことで、我には輪郭が生じた。それに伴う中身もまた、いま満たされた』
「いいね。これで、ようやく一緒に戦えそうだ。共犯者」
彼は首を左右へ傾け、片方ずつ肩を回した。
触手が動かない右腕へ絡みつき、肘と肩を外側から支える。それに身体を預けながら、両腕を頭上へと伸ばした。
「う~~ん……!」
まるで長い昼寝から目覚めたような、緊張感の欠片もない声がメメントス最深部に響く。
「それじゃ、戦うとして」
彼は腕を下ろし、聖杯を見上げる。
「コードネームって、いるのかな。もう今は乙守胡桃じゃないから、『ブル』はおかしいもんなぁ……」
そんな呑気な言葉を、聖杯に向かって言い放つ。巨大な聖杯の表面を、光が走った。
「……愚かな」
ヤルダバオトのその声には、初めて明確な不快感が滲んでいた。
「契約を結んだとて無駄なこと。貴様もまた、人の心より生まれた塵芥に過ぎぬ。我が前では、影も悪意も等しく――」
「決めた。ナッツクラッカーかな」
彼の足元から、黒が噴き上がった。影が破裂し、無数の触手が地面を叩く。その反動で、彼の身体が砲弾のように宙へと打ち上げられた。先ほどまで、避けることしかできなかった距離が、一瞬で縮まる。
聖杯が再び光を収束させる。
だが、その照準が彼を捉えるより早く、黒い触手が聖杯の表面へと殺到した。絡みつき、締め上げ、金色の外殻へ爪を立てる。
「まずは一発」
宙を舞いながら、彼は拳を握る。その腕へ触手が幾重にも絡みつき、骨格を補強し、巨大な異形の腕へと形を変えていく。
「殴らせろ」
振り抜かれた黒い拳が、聖杯の側面へ叩き込まれた。
轟音。
メメントス最深部を支配していた絶対者の巨体が、初めて大きく揺らいだ。
一応この作品はクロスオーバーではないので、ペルソナ2で登場したニャルと同一存在ではありません。でも性質は似ていて、金型は一緒だけど、中身はペルソナ5の要素(認知世界、メメントス等)で構成している設定です。
要はペルソナ2を知らなくても全然大丈夫! という話です!